時の切れ味
注:この作品は「ひぐらしのなく頃に」をオマージュしたものとなっています。
高校2年の一学期も終わりに近づき、全国の学生にとって一年周期における最もビックなイベントである夏休みがちらほら見え始めた7月の上旬。俺たちSOS団はせっせと問題集を解いていた。しかも俺の家で。 言わずともがな一学期最後の門番、期末テストのためであり、我が家で勉強しているのはうちの家族が商店街の福引で当てた温泉旅行に行っていて昨日から家にいないことをハルヒがどこからか嗅ぎつけたせいである。 「キョン、喉湧いたわ」「さっきカルピス作ってやったろ」「だからそれを飲み干したから新しいの頂戴ってことよ!」「なら最初からそう言ってくれ」俺は渋々立ち上がり、台所でカルピスを作ってやる。いつも通り礼を言わないハルヒにカルピスを渡して問題解きを再開する。全然解からないのもいつも通りだ。そんな俺の様子を目ざとく見つけたハルヒが、「あんた、そんな問題もわかんないわけ?重症よそれは」自覚はしてる。だがどうしようもないんだ。特にこの記号(Σ)がさっぱりだ。「開き直ってどうすんよ」「そこまで言うなら解法を教え」そこまで言って失言だと気付く。ハルヒがニヤリと笑う。「そう?じゃあ教えてあげるわ。どうせこの時期にあたふたしてんのはあんただけなんだし。みくるちゃん、有希、古泉くん、全員でキョンを勉強地獄に仕立てましょ!」 ハルヒが号令をかけると、古泉と長門はまるで家臣のように動き出す。その迫力に思わず逃げ出そうとしたが・・・体が動かん。
───抵抗は無駄。
長門の口がそう動いたのを俺は確かに見た。 「さて、これは数学Bの問題ですね」古泉、顔近すぎだ。「えっと、わたしは・・・」我が家の居間では朝比奈さんだけがおろおろしており、俺だけが青ざめていた。
勉強地獄に終わった日曜の午前、すっかり疲弊し切った俺をよそにSOS団午後の部が行われようとしていた。俺の家でクジを引いて、そのまま不思議探索するそうだ。 クジの結果、印付きは俺と朝比奈さんだった。「キョンくんとは久しぶりですね」エンジェルな微笑みがまぶしい。ハルヒがねちっこい視線をぶつけてきた気がしたが無視する。「じゃあ4時にキョンの家に集合!」ハルヒによる解散の合図と共に、俺たちは東西に散った。東側を探索する俺と朝比奈さん。最近の学校生活やSOS団のことについてなど話しつつ歩く。いつだったか、朝比奈さんからトンデモ話を聞かされた川のベンチに腰掛ける。 あの時は桜の花びらが舞っていて幻想的な雰囲気をかもし出していたが、今日は青々とした葉が辺りを覆っていてこれはこれで情緒がある。「もう一年経つんですね」「え?」「わたし達が出会ってからです」「ああ・・・そうですね。去年の今頃は何してましたっけ」「いろいろありすぎて覚えてないです」朝比奈さんは困ったように微笑む。 しばしの沈黙のあと、「今年の2月のこと、覚えてますか?」「ああ、8日未来からきた朝比奈さんにさんざん振り回されたあれですよね」「そんな言い方ひどいです・・・」「冗談ですよ」慌ててフォローする俺。「じゃあ、そのお詫びに今日も少しお手伝いしてくれますか?」「それってどんな・・・」「禁則事項ですっ」人差し指を唇にあてるいつものポーズで俺の質問は封印された。
禁則事項とまで言われたのでどんな大仕事をやらされるのかと内心ハラハラしていたのだが、終わってみればそれは『バス停のベンチに傘を置く』というものだった。雲ひとつ無い快晴の日に、傘を寄付する行動に一体何の意味が込められているのか思い朝比奈さん尋ねようとしたが、きっと彼女も知らないだろうと考えてやめた。「これで終わりですか?」「はい。今日のところはたぶん・・・」今日のところは、か。自信無さ気な朝比奈さんの様子からして明日か明後日にでもあるのだろう。結局時間が余ってしまったのでその後は朝比奈さんの好きなお茶の店を回ったり、洋服店をのぞいたりして集合時間になった。家の前では既にハルヒ班が到着しており、各自勉強道具を持って解散となった。帰り際に朝比奈さんに小声でお礼を言われただけで今日は幸福な日だ。
久々に妹による華麗なフライングエルボーを食らわずに目覚めた翌日、天気予報で気温は35度を越えると予想され、げんなりした気分で坂を登っていた。太陽の核融合が俺の体力を吸っていく。 「よっ、キョン」軽快に声を掛けてきたのはアホの谷口。「朝から元気なもんだな」投げやり気味に返事をする俺と対照に、「だってよう、噂によれば今日うちのクラスに転校生がくるらしいぜ。しかも美人の女子生徒なんだってよ!たまんねーだろ!」鬱陶しいまでに快活に喋る谷口。しかし、この時期に転校なんて不自然じゃないか?そんなんじゃハルヒがもろに食いつくだろう。古泉の差し金か、一般人か。いまだに横で演説を続ける谷口をシャットアウトし、そんなことを考えているうちに坂を登りきった。
教室では既にハルヒが俺の後ろに陣取っており、ルーズリーフになにか書いていた。「よう。予習でもしてんのか?」「やっと来たわね。あと5秒で来なかったらとっておきの罰ゲームを課すところだったわ」それは危なかった。「今年の文化祭でSOS団はゴールデングローブ級の映画を上映するじゃない?」「知らん。と言うかやりたくない」昨年ハルヒがメガホンを握った『朝比奈ミクルの冒険 Episode00』なる電波映像が脳裏をよぎる。「バッカ。この決定は覆せないわよ。予告映像も流しちゃったし。それに主演はみくるちゃん達で、あんたじゃないんだから文句言える立場じゃないでしょ」「わかったよ。それで、映画がどうしたって?」「考えたんだけど・・・」ハルヒがそこまで言いかけたところで、岡部教諭が入ってきたので会話は中断となった。ホームルーム中、ハルヒが何を言おうとしたのか考えつつぼんやりと窓の外を眺めていた。現在の座席は先月一回目の席替えが行われ、俺は窓側の後ろから2番目というなかなかの好位置をキープした。当然、ハルヒは窓側の一番後ろで、俺の真後ろだ。突然教室が歓声に湧いた。特に女子勢の甲高い声だ。
───それはほとんど脊髄反射だった。
気が付くと俺は立ち上がって周囲の視線を集めていた。ぼけっと雲の動きなんか観察していないで、岡部教諭の話を聞いていればもっとマシな反応ができただろうに。だが、それも仕方ないと自分を慰める。
教卓の右に立つ人物が、朝倉涼子だったのだから。聞くところによると、朝倉は母親と共に日本へ戻ってきていて父親はカナダで単身赴任となっているらしい・・・表向きは。この設定に裏向きがあることを知っているのは俺だけだろう。 しかし、谷口が言っていた美少女転校生がまさか朝倉だったとはな。後で長門に事情を説明してもらおう・・・などと考えていたのが悪かった。俺の横をハルヒがずんずんと抜けて行き、あろうことか女子数名に囲まれている朝倉の眼前へ立ち、 「あなた、去年カナダへ転校していったあの朝倉さんよね?」とのたまった。朝倉は相手にしないかと思ったが、意外にもハルヒに微笑みかけた。「なら、あなたは転校前にもいた涼宮さんね?」「あたりまえじゃない」 「なら、あなた変わったわ。私が転校する前はそんな顔しなかった。いつも彼の後ろで不貞寝している涼宮さんだった」・・・彼って俺か?何故俺を出す。「そうよ!あたしは今じゃ全校生徒から敬われるSOS団の団長なんだから!」誇らしげなハルヒを見て朝倉はふふっと笑った。「そうできるのも、彼のお陰かしら?」 「なっ・・・別にキョンはただの雑用よ!」お前もどうして俺を出すんだ。「あら、わたしは『彼』って言っただけよ?」「うぐっ・・・よっくも人をぉ!」「ちょ、待て!」顔を真っ赤にして朝倉に飛びかかろうとするハルヒを、俺は慌てて首根っこを掴んで止める。「もう一限が始まる。決闘なら放課後の河原でやれ」「うがーっ!放しなさいよバカキョンー!」暴れるハルヒを全力でもって席に着かせ、目を丸くしている数学教師に授業を始める旨を伝える。・・・やれやれ。一時限目は7月の気温とクラス中の視線がまとわりついて気持ち悪かった。
昼休み、クラスメートの視線やらひそひそ話やらが気になって仕方ないので、部室へ逃げ込んで買い込んだ弁当を食べることを脳内会議で採決した。ついでに朝倉について長門から情報を得ようという二段構えだ。 部室の扉を開けると、長門だけでなく、なんと当人の朝倉までがいた。「なにしてやがる」「そんなに憤らないでよ。長門さんと再会を祝ってただけ」「ならさっさと出て行ってくれ。俺は腹が減ったんだ」「そう・・・残念。じゃあね長門さん」朝倉の挨拶に特に反応することなく、本から視線を動かさない長門。扉が閉まり、朝倉が去っていったことを確認して長門に問いかける。「なんでまた朝倉が復活してるんだ?」「情報統合思念体から彼女に関するデータは送られていない」「俺があいつに刺されることは?」「ない・・・とは言い切れない。でも、」ここで初めて顔を上げる。「わたしがさせない」「・・・そうか。わかった」長門がそう言うんだ。頼もしいだろ?その返答でようやく俺はコンビニ弁当にありつけた。
5、6限は睡魔に完封負けを喫してインザドリーム。どんな夢だったのかも覚えていないが。部室へ行く途中ずっと不機嫌そうなハルヒだったが、まさか朝倉とのやりとり原因じゃないだろうなと思っていたのだが、なんとその通りで、団活の開始時に団長椅子の上に仁王立ちしてこう宣言したのだ。 「たった今この瞬間から我がSOS団は朝倉涼子との接触を一切禁じます!」普段からあまり接点のない古泉と朝比奈さんには関係ないだろうに、何故あんなにムキになっているのだろうか。「なにかあったんですか?」勉強中の俺の向かいで一人オセロをしていたエセ超能力者が尋ねてきた。「ああ、今朝のことなんだが・・・」閉鎖空間撲滅のためにできるだけ細かく説明してやった。もちろんハルヒには聞こえないボリュームで。説明を聞き終えた古泉は何かをこらえるようにふふっと笑い、「そうでしたか。実に彼女らしい理由ではないですか」「毎度のことながら、一人で納得するな」「お教えしたいのは山々なのですが、こればかりはあなた自身で気付いてもらいたいので控えましょう」ハルヒの考えてるが解かる日なんてくるのかね?「ちょっとキョン!あんた喋ってる暇があったらさっさと勉強しなさいよ!このSOS団員が赤点なんか獲ったら恥じよ」「へいへい」「あ、そうだ。今日はあんたのために皆で勉強教えてあげるわ」ハルヒの顔が(俺にとって)不吉な笑顔になる。「みんな!キョンの勉強地獄パートII開始よ!」「ちょっと待てっ!」必死の抵抗もむなしく宇宙のパワーでねじ伏せられ、あえなく勉強地獄となった。やっぱり古泉の顔は近すぎて、朝比奈さんだけがおろおろしており、俺だけが青ざめていた。
最後の一問をほぼ精神力のみで解く。「ま、今日はこんなところね」満足そうなハルヒをよそに、俺は盛大に溜息をついた。「あなたの理解力はなかなかのものでしたよ。これなら今度のテストも安泰でしょう」「そうかね」「じゃあさっさと帰りましょ。下校時間まで5分もないし」ハルヒに促されてぞろぞろと部室を出る。「キョンくんちょっとお話が・・・」俺も出ようとしたところで朝比奈さんに呼び止められる。「というわけだから、先に帰っててくれ」「わかってると思うけど、みくるちゃんにヘンなことしたら・・・」「なんもしねぇって」ついと踵を返すハルヒを先頭に、長門と古泉も去っていく。扉を閉めて朝比奈さんに向き直る。「えっと、あの・・・」何から話せばいいのかわからないといった様子だが、俺は彼女の言わんとすることは察している。と言うか呼び止められてようやく思い出したってだけだが。「わかってますよ。また未来からの指令ですよね?」「あ、そうです・・・あれ?何で知ってるんですかぁ」まあ、昨日の彼女の様子からすれば、ね。「じゃあまた街に行きましょう」
今回の任務も大したものではなかった。『公園前にいる野良猫の近くに空き缶を投げて驚かす』というもの。ただ、今回はその結果がすぐに現れてくれた。驚いた猫は植木をつき抜け歩道に飛び出す。それに驚いた若い男性が後ろに飛びのいた拍子に後ろの女性に衝突。これが発端で将来男女は付き合いだすそうなのだ。いわゆる「フラグ」ってやつか? 「なんだかちょっぴり妬いちゃいますね」「え?」朝比奈さんの突然の発言に、俺は上手くリアクションをとれずにいた。「ふふっ。今日はもう帰りましょうか」「はあ・・・」駅前で別れる際、ぺこりとお辞儀をしてくれたのが今回の報酬だろうか。
───なんだかちょっぴり妬いちゃいますね
朝比奈さんは未来人であるがゆえに、この時代での恋愛を禁じている。彼女のあの発言の真意を考えながら、俺は帰路に就いた。
次の日。朝から引きずる睡眠の続きでもしようかと考えていた一時限目の休み時間中、ある意外な人物が話しかけてきた。「あなたにちょっと話があるんだけど」笑顔を交えて俺の席に来たのは朝倉だった。なんの用だ?と聞き返そうとした刹那、後ろからただならぬ気配を察知する我が生存本能。───そうだ。こいつとは接触禁止になってるんだったな。「あー、悪いんだが。今俺はお前さんと会話することができないんだ」「・・・どういうことかしら?」朝倉は怪訝そうな顔をする。そんな顔すんなって。俺も命が懸かってるんだ。「いつか誤解が解けて説明できる日が来るさ」「そう・・・わかったわ」何故あんな滅茶苦茶な理由で納得してくれたのかは不明だが、とりあえず一命を取り留めたのだった。
放課後の部室で、ハルヒは朝の俺のナイス切り抜けを改竄しまくってあたかも失態を犯したかのように3人に話しやがった。人が真面目に勉強している最中にだ。そのテスト勉強なんだが、実はかなり手応えがある。平均点数65点も満更不可能とは言えないレベルになってきた。これに関しては素直にお礼をしておこうと思ったので、ちょうど全員揃っている部活中に感謝の意を述べたら、 「あんたがそんなこと言うなんて勉強しすぎたんじゃない?」「おだてても何も出てきませんが、受け取っておきます」「・・・・・・鳥肌」などと散々な言われようだった。誰がどのコメントなのかは各自判断してもらいたい。結局なにも報われずに団活は終わり、その後も特に未来からの指令もなく、自室でシャミセンの肉球を押しつつカレンダーを眺めているうちに眠りに就いた。
そしてテスト当日。昨日自宅で勉強していないにも関わらず、ハルヒ達のお陰でやる気が湧いていた俺はいつもより早く登校してしまった。下駄箱を開けると、封筒が1つ入っていた。裏返すと、かわいらしい字体で「朝比奈みくる」と書かれていた。中になにか物が入っている。 トイレの個室に駆け込んで封筒を開ける。すると中にはおよそ彼女に似つかわしくないのもが入っていた。
───刃渡り10数センチほどあるナイフ。
同封されていた紙には「先日のお礼です。危なくなったら使ってください」とだけ書いてあった。一応鞄に鞘に収めたナイフを突っ込んでおいたが、一体なにが起こるってんだ?
懸案事項を抱えたまま受けたテストはいささか集中に欠けるものではあったが、それでもいつもよりは遥かによく解けたと思う。テスト後にこんな爽快な気分になれたのは恐らく人生初だ。 俺がハルヒにそんな感想を漏らすと、今日はその調子で勉強したほうがいいと言われて団活は無しの意向となった。
そんなこんなで自宅学習をしている最中、鞄の中に谷口の古典の教科書が入っていることに気付いた。いくら成績を気にしない谷口とはいえ、古典の点数が軒並み低かったら俺のせいにされかねん。渡してやるか。携帯で谷口に掛ける。「おう、キョンか。どうした。ナンパテクでも聞きt」「お前の古典の教科書が俺の鞄ん中あったんだが、いらないようだな」「ちょっと待てって!解かってる!俺のWAWAWA忘れ物がお前んとこ転がりこんで俺に渡そうとして連絡くれたんだろ?解かってるって!」「じゃあ9時に駅前公園まで来てくれ」「へいへーい」相変わらず能天気と言うか、楽天なやつだ。と、今度は俺に電話が掛かってきた。ディスプレイには俺の癒し成分100%の朝比奈さんの番号が。「はい」「あ、キョンくん。遅くにごめんね」「いえいえ。また未来のメッセージですか?」「そうなの。ご迷惑なのはわっかてるんだけど・・・」「いや全く、全然、蟻の眉間ほども迷惑かかってませんよ」「そう言ってくれるだけでありがたいです」朝比奈さんの声が安堵の色に変わる。「じゃあ、9時に駅前公園のベンチにお願いします」おっと、それはいかんな。谷口の野郎に教科書渡す約束の時間だ。「えっと、悪いんですが一時間ほど早めてもらえますか?」「え?あ、はい。たぶん平気ですけど」「じゃあお願いします」「わかりました」そこで通話が切れた。やれやれ。ダブルブッキングするところだ。8時ならもう仕度しなくちゃ間に合わん。適当にTシャツとジーンズを引っ張り出し、自転車に跨っていざ朝比奈さん、もとい公園のベンチへ。谷口教科書は、面倒なので学校の鞄をそのまま持っていくことにした。
さすがにこの時間になると人気がない。極秘のやりとりにはもってこいの場所だ。ベンチにはすでに朝比奈さんが座って待っていた。「お待たせしました」古泉みたいな口調で話しかける。「大丈夫です。わたしも今来たばかりですから」この会話だけならただの学生カップルといった風体でしかない。隣に座る麗しき方が未来人というヘンテコ設定がなければ。「それで、指令のほうは?」「うん・・・あのね」うつむく朝比奈さん。そして、「ごめんね」そう彼女が言ったのを最後に、俺の意識は遠のいていった。
・・・・・・・・・。・・・・・・。・・・。「・・・・・・」一体何分、何時間経ったのだろうか。空の色から察するに、気を失ってからそう時間は変わっていないようだが。「うぐっ・・・?」突然、鉄のような強烈な臭いが鼻を襲う。そして膝に妙な重さを感じて下を向く。「・・・な・・・ん・・・?」一瞬、目の前の光景が何なのか理解できずに口をパクパクさせていた。だが、視覚はその映像を脳に送り続け、やがて理解する。
───さっきまで隣にいた朝比奈さんの死体があった。
「馬鹿な・・・・・・」鼻を襲った強烈な鉄の臭いも、膝に感じた重さも、すべて彼女によるものだった。正確には彼女だったもの、が。「おい・・・キョン」「え?」不意に自分のあだ名が呼ばれ顔を上げると、驚愕と困惑の表情をした谷口がいた。「お前・・・なにやってんだよ・・・」「ち、違う!これは俺がやったんじゃない!気付いたらすでにだな・・・」俺は慌てて立ち上がって弁解するが、上手く言葉が繋がらない。「嘘つけ!!ならよ・・・」谷口の息が荒い。
「てめえの右手にあるものはなんなんだよおおおおぉぉぉぉ!!!」
・・・右・・・手?ゆっくりと自分の右手を見る。そこには。
───べっとりと血がついたナイフが握られていた。
それだけではない。俺の服、ズボン、果ては顔にまで血が飛んでいた。今朝、下駄箱に入っていた朝比奈さんからのお礼の品。確かにこのナイフは俺のだ。だが違う!「お前になにがあったか知らねえがなぁ、最っ低だこの人殺しがぁ!!!」「違う!俺じゃないんだ!!」「今警察に突き出してやっから来い!」そい言って俺の左腕を掴む谷口。まずい!このままじゃ本当に・・・!右手に持つナイフの先端からは、朝比奈さんのものと思われる血液が流れ落ちては血痕を作っている。不意に、ナイフと同封されていた手紙の文がリフレインする。
『危なくなったら使ってください』
今、なのか・・・?いや、今使わずにどこで使うんだ俺!ナイフを硬く握り、腕を引いて、
谷口のわき腹に突き刺した。
「いっ・・・!?」俺がナイフを引き抜くと、刺された箇所を抑えて倒れこんだ。谷口の腹から鮮血が溢れ出し、血溜まりを作っている。辺りには誰もいなかったが、自転車に乗るのも忘れて俺はひたすら走って自宅を目指した。
闇の中、俺はどこをどう走ってきたのか記憶が無い。それだけ必死に走った。自室のベットに寄りかかるように膝を折る。未だにナイフを握っていることに気付き、慌てて投げ捨てる。「はぁはぁはぁ・・・」俺の両手は、2人の人物の血で汚れている。人を刺してしまったという事実に体が震えを起こしてきた。しかし、何故朝比奈さんが・・・?「くそう・・・」
窓の外を車が通過するたびに鼓動が早くなる。あの公園には誰もいなかったので見られている可能性は低いというのに、それでも心臓の音は早まる。また通る。また1台通る。もうまた1台───
「・・・・・・!?」停まった?家の前で?
───ピンポーン。
来訪者を告げるインターホンが俺以外無人の室内に響く。慌ててカーテンの隙間から覗く。「あ、あの人は・・・!」見覚えのある黒塗りの車の前に立つ男性、そして玄関で呼び鈴を鳴らす女性。「森さんに・・・新川さんじゃないか・・・」機関?古泉が見ていたのか?
───俺を捕まえに来たのか?
やばい。機関の開錠能力があれば俺の家の玄関なんか一瞬だ。急いで階段を駆け下りて、玄関にある靴をひったくる。ガチャガチャと、鍵穴をいじる音がしている。全力で裏口に回り、外に飛び出す。「まずい!裏口だ!」新川さんが叫ぶ。今捕まるわけにはいかないんだ!今捕まったら朝比奈さんを殺した犯人が解からなくなる!
「うっ!?」
突然、前方から強い光を浴びる。「見つけたぞ!衣服が血で汚れている!間違いない!」───警察だった。一般市民である俺が訓練された警官に敵うはずもなく、あっさりと周りを囲まれた。「・・・これも機関の仕業か」俺は力なく呟いて、腕を後ろに押し倒された。「被疑者を確保!マル被は被害者と同年の男子高校生!」無線で連絡をする警官とはまた別の警官に手錠を掛けられる。黒白のパトカーの後部座席に、警官を両脇に座る。もう、逃げる気力も無かった。夜の住宅街に、連行を示すサイレンだけが鳴り響いていた。
事情聴取や事件の検証を散々した。何度も朝比奈さんの殺害は否定したが、ナイフからは俺の指紋だけが検出されたそうだ。結局留置場へ送られることとなった。独房は俺が思っていたものより綺麗に片付いている場所だった。
「朝食だ」見張りの警官の無機質な声で目が覚めた。どうやら俺はひどく疲れていたらしい。深い眠りに就いていたようだ。
あれからどれくらい月日が経っただろうか。トレーに乗せられたバターロールとコーンスープ。こういった場所の食器は、凶器になるのを防ぐ為にほとんどがプレスチック製になっている。そんな話を昔どこかで聞いた気がする。パンもスープも俺は食べる気はない。パンが乗せられていた食器を床に叩きつけて割る。プラ製ではあるが、ものを切るには十分な鋭さの破片を拾う。「どうした?」叩きつけた際の音を聞いて見張りが来る。
何故、朝比奈さんが死んでいたのか。何故、谷口を刺してしまったのか。何故、機関は俺を捕えようとしたのか。
───何故、俺はあんなことをしてしまったのか。
繰り返し、自問する。時間に切れ味があるのなら、それは剃刀よりもするどく俺の心を切り刻んでいく。今の俺にはもう罪を償うだけの力がない。ただただ、悔しさだけが蔓延っている。「お、おい!」俺は尖った破片の先を自らの首筋に当てて、
───引き裂いた。
高校生女子生徒殺害事件調書
・被害者は近くの高校に通う女子学生。・死因は、心臓を刃渡り10数センチほどのナイフによって刺されたことによる出血死。・容疑者は同校に通う男子学生。被害者より1つ年下。・容疑者は同日、同じクラスの男子生徒を同じナイフで刺した疑い。・通報は上記の男子生徒で、刺された後自身の携帯電話から警察に通報。・容疑者の男子は自宅から飛び出したところを、通報を受けた警官3名に捕えられた。・容疑者の男子は事情聴取の際『キカン』という単語を多用した他、女子学生の殺害を 強く否認していたが、男子の自室から発見されたナイフからは女子生徒とクラスメート男子の血液、容疑者の指紋のみが検出されたことなどから容疑が確定した。
ここから追記
・しかし翌年、被害者の心臓を解剖した医師によると、心臓は一度拳銃などの銃器によって撃たれ即死状態にあったところを、その上から巧妙にナイフを刺した可能性が浮上した。
・これにより容疑者の殺人容疑が取り消される案もあったが、牢の中で容疑者が首の動脈を切断して自殺したため、この事件自体が迷宮入りとなった。
・容疑者の独房からは多数の遺書らしきものが発見された。そのほとんどが罪を悔いる内容のもので、その罪に耐えかねての自殺とされた。
続く...
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