笑顔は癖のような感じですよ
「お疲れ様、古泉」閉鎖空間で一仕事を終えると、森さんが黒塗りの車にて僕を待っていた。「これから会議…ですか?」「その通り。よくわかったわね、『機関』にも慣れてきた…ってところ?」バックミラーに映った森さんの整った笑みを一瞥すると、「いえ。今回で閉鎖空間の発生は26回目ですが、未だにちっとも慣れませんね」皮肉を言ってやる。こういったやりとりも何度繰り返したことだろう。さすがに回数は数えていないのだが。僕にこの能力が芽生え、『機関』が発足してからまだ1ヶ月半しか経たないというのに、涼宮ハルヒは何がそんなに不愉快なのか、こちらとしてみれば知ったことではないのだが、ただ世界の壊滅を防ぐため、超能力者である僕はそれに従うしかないのだ。皮肉の一つくらい言わせて欲しい。一方で森さんは僕の物言いにも慣れたかのように溜め息交じりの微笑を漏らしていた。貴女には毎日のように危険な灰色世界に狩り出される僕の苦悩などわからないだろう。涼しい顔で指示を出すだけの貴女は考えることすらしないだろう。僕は憎んでいた。涼宮ハルヒを、『機関』を。そしてそれに抗うこともせず、皮肉と愚痴しか零せない僕自身を。 ――笑顔は癖のような感じですよ――
会議を終えたばかりの僕の携帯があの機械音を発している。思わず舌打ちした僕を誰が責められよう、また閉鎖空間が発生したのだ。「閉鎖空間、ですね」僕の自宅へと向かっていた新川さんの運転は、閉鎖空間へと行き先を変える。「…立て続けですね。これは骨が折れるどころの話ではまるで済みませんよ」「本当に骨を折ってしまわぬようお気をつけください」あっという間に車は発生場所へとたどり着いてしまう。本日二度目の灰色世界に出向く僕の足は鉛のように重く、緊張の切れた思考も上の空にあり、とても神人退治どころではなかった。 「…ふう」疲れきっていた僕は戦闘には参加せず、少し離れた場所から赤い光球が飛ぶ様を眺めていた。何故こんなところに居るのだろう。何故こんなことをしなくてはならないのだろう。何故僕なのだろう。そんなことばかりが頭に浮かぶ。貴方は選ばれた?貴方にしか出来ない?―――ふざけるな。こんなことをはいそうですかと受け入れられるほど僕はお人好しではない。元々あったものではないのだから僕でなければいけない理由など無いはずだ。 僕はごく普通の中学一年生だったのだ。非現実的なことを望んでいたわけでも、ヒーローになりたかったわけでも何でもない。ごく普通に過ごして居たかった、だからそうしていたのだ。 それなのに。
「古泉!!」名前を呼ばれハッとする。が、時既に遅し。神人によって破壊された建物の破片が僕の真上で降下していたのだった。それを見上げながらのほんの数秒間に僕は思った。―――別にいいじゃないか。一生こうやって過ごすくらいなら死んでしまったほうがましだ。僕は自嘲気味に笑みを零すと、そのまま目を閉じる。「おい!!こいず」その声を最後に僕の意識は途絶えた。
「…本当に骨を折りましたね」新川さんが病室で僕に皮肉を言う。言われる側の気持ちを知った僕の心情は非常に腹立たしいもので、行き場の無い苛立ちを溜め息で誤魔化した。「しっかりしなさいよ古泉!今回は左足の骨折だけで済んだからいいものの!」森さんの怒鳴り声が嫌に頭に響いた。仮にも4時間前に意識を取り戻したばかりの怪我人なのだ、もう少し労わってくれてもいいだろうに。「貴方が今こうして生きているのも貴方の同志たちのおかげなのよ?感謝しなさい!」「…ありがとう、ございます」誠意の篭っていない平坦な感謝の言葉を呟くと、眉を吊り上げた森さんから顔ごと視線を逸らす。感謝などできなかった。浮かぶのはただ、何故またこうして僕に意識があるのか、その幸運を呪うことだけであった。「迷惑をおかけしましたことを申し訳なく思いますが、生憎今はこの事態に混乱していまして…席を外していただけ無いでしょうか」皮肉っぽくならぬように心がけたはずだったのだが、それが逆効果だったのか森さんは深く溜め息をつき、無言で部屋を後にする。続いて新川さんも出て行き僕は静かな病室に一人きりになった。 ―――が、静寂もすぐに終わりを迎えることになる。少し乱暴なノックが聞こえたかと思えば、返事も待たぬままドアが開かれたのだ。『機関』の人間だと予想した僕はベッドから身を起こし、その来客者に冷ややかな視線を送ろうとしたのだが、 「あ、の…どなた様でしょうか」そこに居たのは見覚えの無い少女で、僕は思わず言葉を詰まらせてしまった。ショートカットに、いかにも病気をしていそうな痩せた体、白い肌。分厚い本を抱えたその少女は100Wの笑顔を僕に向けていた。「はじめまして、突然ごめんなさい!同い年の人がここに来たっていうから、どうしてもお話したくって!」小柄な少女が元気よくそう言うと、小走りで僕のベッドに近づいてくる。そして椅子に腰掛けるなり異様に白い手で僕の手を取った。「古泉一樹君、っていうの?大人っぽいね、同い年にはとても見えない!」「いや、あの…」「ねぇねぇ、友達になってくれる?」「………」急に顔をずいっと近づけられては、三点リーダを羅列させてしまうのも致し方ないだろう。この無礼な少女は何がそんなに楽しいのか、終止笑顔を輝かせている。いきなり何なんだ、うるさい、出て行け、一人にしてくれ!頭の中ではそんなことばかり考えていた。はずなのに。その笑顔を見ているうちに、ぎこちなく頷いてしまっている自分が居たのだった。
それからというものの彼女はしつこく僕の部屋を訪ねるようになっていた。「おはよう、古泉君!」「…おはようございます」えへへ、とはにかんだかと思うと楽しそうに僕のベッドの横にある椅子に腰掛け、「今日はこの本の話をしてあげるね!」と、抱えていた分厚い本を僕の顔の前に突き出してくるのがお決まりのパターンだ。「本を紹介してくれと頼んだ覚えは無いのですが」つい癖で皮肉を口にしてしまうのだが、彼女はそんなこと気にも留めていないようで、「うん。だって私が話したいと思っただけだし!」と、周囲に花を咲かすような笑顔で言うのだった。散々聞かされた話によると、この少女は相当SF小説が好きらしい。ずっとここに入院しているそうで、することもないので分厚いSF本に手を出してみたらすっかりはまってしまい、それ以来読み潰した本の数は相当なものだという。 「…で、具体的にどこが面白いのですか?」暇なのは僕も同じであったし、彼女に席を外せと言った所で聞かないというのも一週間程の付き合いにしてよくわかることだったため、こうしてたまに僕から質問をしてやることもあるのだが、決まって答えは、 「うーん、全部!」こんな感じである。「今一面白みが僕にはわからないですね。」「じゃあ古泉君も読んでみる?貸してあげる!」「いえ、読書は嫌いではないのですが生憎SF物が苦手でして。哲学的な物や推理小説などの方が僕は好きですね。」「何それ?知らない。とにかく面白いから読んでみてよ、ね!」僕の話など聞きもしないんですね。
彼女のはちゃめちゃっぷりは度を越えていたのだが、太陽のような笑顔を見ていると、そのペースに流されてしまっている。彼女には人を惹きつける不思議な魅力があった。 まともに心身を休めることができず、『機関』の人間とお堅い会話ばかりの毎日を送っていた僕にとって、この入院生活はつかの間の休息で、勿論ハイテンションな彼女の相手をするのも楽では無かったのだが、何も無い入院生活の退屈しのぎにはなっていた。何より彼女が一日中僕の傍で本の話をしていてくれたおかげで、『機関』や涼宮ハルヒのことはほとんど考えずに済んだ。彼女と話している間だけは以前の僕、「普通の中学生」で居られたのだ。ただ。「ねぇ、古泉君も笑ってよ!」彼女は何度も無邪気にそう言ってくるのだが、到底そんな気分にはなれなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ 入院生活にも慣れてきた頃、松葉杖で歩ける程になった僕は退院を明日に控えていた。今日も変わらず僕の病室にやってきた彼女は、飽きもせずにまた本の話を始めたため一応確認を取っておく。「僕、明日で退院するんですよ」「うん、知ってたよ」何食わぬ顔でそう言った。はい、そうですか。結局その日も昨日や一昨日と変わらず本と他愛の無い話をするだけだった。彼女の楽しそうな声を聞き流しながら僕は思った。結局この子は本の話がしたいだけなのだろう。次にこの子の相手をするのは、僕の後にこの病室を使用する人だろうか。 その人も大層徒労することだろう。わずかながらだが、同情してしまう。僕は彼女に気付かれないように、顔を逸らし溜め息をついた。 「もうすぐ夕食が運ばれてきますよ。病室に戻らないと」時間が来て、僕はいつものように彼女を促す。「それでね、この主人公が言うの。」彼女は膝に置いた本のページをめくった。楽しそうな笑顔で話をやめようとはしない。「わかりましたから、話の続きはまた…」また明日。言いかけて気が付いた。僕はもう明日で退院するのだった。「………」僕がそう言うまで喋り続けていた彼女が押し黙っている。彼女と過ごす時間で初めての沈黙だ。 「私…小さい頃からずっとこの病院で過ごしてきたの」しばらく続いた沈黙を破ったのは彼女の覇気の無い言葉だった。「外の世界なんて知らない、友達も居ない。…だからずっと本を読んできた。どのくらい読んできたかなんて、考えると気が遠くなりそうなくらい」重苦しい空気だった。僕は何も言わず、やや俯きながら話す彼女の次の言葉を待っていた。「お父さんもお母さんも、看護婦さんもお医者様も、皆忙しいから私に構ってなんてくれなかった。だから初めてだったんだ…こんなに話を聞いてもらったの」彼女は本をパタンと閉じそれを僕に持たせると、「…すごく楽しかった。ありがとう!」立ち上がり、早歩きでドアの方へと向かう。「あの、」「それじゃ、元気でね!」彼女は笑顔でそう言い残し僕の病室を出て行った。最後まで僕の話なんて聞かないんですね、貴女は。残された辞書のように分厚い本を開く。ページをめくる音が静かな病室では嫌に耳についた。
翌日。「古泉、退院おめでとう。」「…ありがとうございます。」「下で新川が車で待ってるわ。退院早々悪いんだけど、これから会議よ。それから明日は…」迎えにやってきた森さんは、僕のぐちゃぐちゃな荷物を整理しながら明日からの予定について話している。久しぶりに着る私服はなんだか窮屈で、身長でも伸びたのだろうか、そんなことを考えながら何となく森さんの言葉を聞いていた。「古泉ってしっかりしてるのにこういうのは駄目よね。部屋も汚いし。」森さんはそう言ってしばらくすると、動かしていた手を止め僕の方に視線を向けた。「何です?」「…言い返してこないのね」いかにも意表を突かれたような顔でそう言われると、複雑だ。「そういえば、貴方どこか砕けた感があるわね。入院中何かあったの?」「…別に。この生活が休暇になっただけですよ。」森さんが笑う。何がおかしいんでしょうね。 「古泉、その本取って」「え?」「だからその手元の本。鞄に入れていかないの?」彼女が指差すその本を、僕はゆっくりと手に取った。これからは本を見るたび、あの100Wの笑顔を嫌でも思い出すことになるのだろう。…そう思った矢先僕の体は勝手に動き出すようだった。「…ちょっと待っていていただけますか」松葉杖を使い、覚束ない足取りながらも急いで病室を後にする。「…あ、来てくれたの?」初めて来る病室。どこの図書館だ、とでも言いたくなるような本の山。その中心にちょこんと座る見慣れたショートカットの少女は予想通り本を読んでいた。きっと一瞬の気の迷いだろう。だが、一瞬くらいなら彼女の破天荒っぷりに付き合ってやってもいいだろう、そう思った。「昨日、この本を読み始めてみたら、思いの他面白くて。…お言葉に甘えて、貸して頂きますよ」ちゃんと返しに来ますから。天井を見上げながらそう言った僕の心臓は高鳴っていた。久しぶりに激しく動いたからだろう、僕はそう考えて疑わなかった。その時の彼女が、真っ白い頬を染めてはにかんでいたのを目の端に捕らえた。
◇ ◇ ◇ ◇ 無事に現場復帰した僕は今日も気だるい会議を終え、新川さんの運転する黒塗りの車に乗り込んだ。「あ、新川さん今日は…」「病院へ向かえばよろしいのですね?」意味深に微笑む新川さんとは目を合わさずに、僕は頷く。最近は神人狩りや会議が終わった後病院に寄るのが習慣となっていた。わざわざ電車賃を払ってまで向かう気はしないのだが、せっかく新川さんが車で送ってくれることだし…まあ、要はついでと言う事だ。「古泉、着きましたよ。今日も迎えはよろしいのですか?」「私用で迷惑をかけるわけにはいきませんよ。では、ありがとうございました」帰りはしっかり電車賃を払って帰る僕は、いささか矛盾しているようだ。通いなれた317号室ドアを二回ほどノックし、元気な返事が返ってくるのを確認してから戸を開くと、「古泉君!」嬉しそうな彼女がベッドの上でテカテカしていた。「ねぇねぇ、今日は何したの?」僕が退院してから彼女は本の話をあまりしなくなり、逆に僕の話を聞きたがるようになった。「…今日も学校の後友人と野球してきました」その質問に対しての言い訳は毎回これなのだが、これは言い訳というよりも僕の願望であった。以前は野球に明け暮れた毎日を送っていた僕は、本来なら放課後の過ごし方はこうであったことだろう。 「でも、野球ってそんなに大変なの?古泉君すっごく疲れた顔してるけど」少々ヒヤリとさせられる。彼女はたまに恐ろしく鋭いのだ。 「あ、そうだ聞いて!来週の日曜日に外出許可が出たの!古泉君、学校休みでしょ?どこか連れて行ってよ!」「すみません、日曜日はちょっと…」毎週日曜日は昼間から会議なのである。わかってはいたのだが一応スケジュール帳を確認してみると、何故かぽっかり来週の日曜だけ予定が空いていた。今までに会議でなかった日などないのに、何故だ? 「…いえ、多分空いてますよ。どこに行きたいですか?」違和感を感じながらもそう言ってやると彼女はぱあっと顔を輝かせた。そこまで喜びを露にされるとムズムズする。僕は咄嗟に彼女から視線を逸らした。「古泉君がいつも遊んでる場所とかがいいな!」「僕がいつも遊んでいる場所?」「うん、古泉君のお家の近くとか、そういうところ散歩したいな!」「そんな所でよろしいのですか?せっかくの外出許可ですし、遊園地や映画館などのレジャー施設の方が楽しめるとと思うのですが」「いいの、古泉君と一緒ならどこに居たって楽しいし!」そう言われてしまうと僕は黙って頷くしか術が無い。よくそんな恥ずかしいことを平気で口に出来るものですね。 「それでは、そろそろ帰りますね」「うん、今日も ありがとう!私も何だか…ふあ、今日はもう眠い」欠伸をしながら彼女がそう言う。そういえば今日はしきりに欠伸をしていたことを思い出す。「ちゃんと眠っていないのですか?どうせ消灯時間が過ぎても本ばかり読んでいたのでしょう」「ううん、寝てるんだけど…」彼女はふと憂いを帯びた表情を浮かべる。「夢を見るの。毎晩同じ夢。何だかその夢…変にリアルなんだ。だから全然寝た気がしなくって」「夢?それはどんな夢なのです?」僕がそう問うも彼女は顔をぼんやりとさせたまま答えない。思い出したくないような夢なのかもしれない、これ以上は触れないのが妥当だろう。「…それでは、また」「うん、またね!」立ち上がった上目遣いで見上げる彼女がどこか寂しげに映ったので、ショートヘアを優しく撫でてやるとくすぐったそうに顔をふにゃりとさせた。その様子がまるで猫のようで思わず笑ってしまう。「あ、笑った!」「………」「古泉君は笑った方が素敵だなぁ…」誰か、こんな恥ずかしいことばかり発する口を何とかしてくれ。
帰り際、駅までの道で僕は森さんに電話をかけた。「古泉です。」『もしもし、どうしたの?』「僕の手帳に間違いが無ければ来週の日曜日に会議の予定がないのですが…何故ですか?」『ああ、その日ね。…私も詳しくは知らないけど、上の人たちの都合みたいよ』「…そうですか」上の人たちの都合?それだけでは会議自体を無しにする理由にはなり得ないだろう。日曜の会議だけは今まで欠かさなかったというのに。「…ありがとうございます。では、また明日よろしくお願いします。」違和感を感じながらも僕が電話を切ろうとすると、「はい、また明日ね」『はい、また明日ね』携帯電話から森さんの声が聞こえてくる少し前に、どこかから同じ声が聞こえた。「…?」とりあえず電話を切り、居るはず無いとは思いつつ辺りを見渡してみると、「…あ」反対車線の歩道に、タクシーを捕まえている森さんを発見した。―――何故こんな場所に?思わずもう一度森さんに電話をかけなおそうとするも、何となく不吉な予感が頭を過ぎりその手を止める。「ま…別にいいですか、ね」僕は猛烈に違和感を無理矢理拭い、帰路についた。 ◇ ◇ ◇ ◇ どうやら涼宮ハルヒは、神人に僕を襲わせるだけでは足りないらしい。それだけでも何度も死にそうな目にあっているのに、このままだと過労死してしまう、そう思ってしまうのはせっかくの休日である土曜日に閉鎖空間が発生したからである。 くたくたになりながらも黒塗りの車に乗り込み、盛大な溜め息をついた後にお決まりの行き先を告げる。明日は彼女との外出。あの破天荒な彼女との外出だ、休息とは言えないだろうが会議よりは幾分かましである。病院に到着し通いなれた317号室の扉をノックする。今日も元気な返事が返ってきたのだが、ドアの向こうで彼女はその声と相応しないぐったりとした姿で力ない笑顔を浮かべていた。「ど…どうしたんです?具合でも悪いんですか?」「ううん…平気、大丈夫!」無理をしているのが見え見えである。顔色は悪く、最後に会った二日前の彼女よりもだいぶ痩せて見えた。「この様子じゃ、明日外出の許可は出ないのでは…?」「お医者様は、さっきも出かけてきていいって言ってたよ。大丈夫!」それが本当ならその医者は明らかにおかしい。「しかし…せめて外出は控えておきませんか?」「嫌!どこかつれてってよ、お願い!」こんな彼女は初めてだった。辛そうに顔を歪めて悲願されては断りようが無い。 「…わかりました。後でもう一度担当医を尋ねておきます。」「それで外出していいって言われたら、つれてってくれる…?」僕は頷く。「良かった…明日が楽しみだなぁ!」痛々しい笑顔に胸が痛んだ。二日前まではあんなに元気だったというのに、一体何が。「古泉君、せっかく来てくれたのに悪いけど…少し寝てもいい…?」「え、ええ。僕なんて気にせずゆっくりなさってください」そう言うと、彼女はまた切ない表情を僕に見せた。「…また昨日もいつもの夢を見たの。夢の中の女の子が、いつも泣いてるの…」そう欠伸をしながら語る彼女は今にも目を閉じてしまいそうだった。「私が眠くなるのは、きっとあの子が呼んでるからなんだろうな…あの子すごく寂しがり屋だから…ふふ、おやすみ」「…おやすみなさい」真っ白い頬を撫でてやる。しばらくくすぐったそうに笑っていたが、よほど眠いのかすぐ眠りについてしまった。それを確認した僕は、外出許可の確認をするために病室を出た。
その時。ふと、聞き覚えのある声が聞こえた。「…この声は…」また違和感が胸の中に渦巻き始める。僕の足は自然とその声の聞こえる方へとゆっくり近づいていった。歩みを進めるにつれどんどん大きくなっていく声。そして曲がり角越しに、僕はその声の主を発見する。「…っ!!」―――森さんだ。森さんが誰かと電話をしていたのだ。何故だ、何故森さんがここに居るのだ?僕は驚きのあまり思わず声を出してしまいそうになるも、それを何とかこらえ電話を盗み聞きする。胸に渦巻いていた違和感が不安へと変わっていく。嫌に高鳴る鼓動が息苦しい。「…そうなの。ここ数日でどんどん容態が悪くなってるみたいよ。…うん、もうあまり長くないと思うわ…」森さんの言葉を理解するに思考が追いつかない。「そうなった時には遅い、わかってるわ。…でもとても言えないわよ。こんなこと古泉が知ったら…」「森さん!!」居ても立っても居られなくなった僕は大声を上げて角を飛び出した。「こっ…古泉!?」「どういうことですか!説明してください…っ、一体何を…!!」「わ、わかったわ!わかったから、ちょっと待って、落ち着いて…」慌てふためく森さんは、電話越しの相手と話を済ませると、天を仰いで深呼吸をしていた。僕もそれにならい深呼吸をしてみるのだが、到底落ち着けそうもなかった。「…古泉、座って話しましょう」「………」僕は森さんに促されるがまま自販機前の椅子に腰掛けた。
「…彼女は、簡単に言ってしまえば、貴方の同志よ」あまりにも長すぎた沈黙のあと、森さんが言葉を区切りながらそう言った。「それは…どういうことです?」「約束して」「何を?」「…落ち着いて聞いてくれるわね?」彼女の回りくどさに苛立ちを感じながらも僕は頷いた。先程から震えの止まらぬ拳をぎゅっと握りしめる。「彼女も貴方と同じように、涼宮ハルヒの情報爆発によって能力を手に入れたのよ」「………」森さんの言葉一つ一つの意味を理解することに精一杯で、とても返事をする余裕など無かった。その様子を見てか森さんは僕に構わず続ける。「…でもね、生まれつき体の弱い彼女にとって…その力は強大すぎたの。彼女の体はそれを受け止めることが出来なかった。貴方の能力も健康体であって初めて発揮できるものなのよ」 森さんは一度、髪を掻き揚げながら溜め息をついた。「今は身体の中に留まりきれないその能力が、彼女の身体を内側から破壊している状態なの。彼女の要諦が、悪くなっているのも、そのせいで…」「………」「じきにその能力は………彼女の命をも奪うでしょう」その言葉の意味を理解した途端、視界が真っ赤に染まったような気がした。 「…ふざけるな…」「古泉…!」強く握られた拳を、森さんが両手で優しく包み込む。「お願い、落ち着いて!お願い…」いつも気丈な森さんが慌てた声で僕にそう言う。わかってる。わかっているとも。ですが森さん、こんなことを聞かされて…落ち着けといった方が無理でしょう?「ふざけるな!」森さんの手を払い立ち上がった僕は、握った拳を自販機に何度も打ち付ける。理性などどこかへ飛んでしまったかのように、ただひたすら感情をぶつける。「何故…何故彼女がそんな目に!何故だ!!どうしてだ!?何であいつは!!あいつはっ…!!」「古泉!!」森さんが叫びにも似た声をあげながら、僕の腕をしっかりと掴む。うっすらと涙を浮かべ、肩を微かに震えさせている森さんの姿を視界に捉えた僕は、一瞬だけ冷静に返る。 「…すみませ…」「…座って、さあ…」森さんの温かい手が僕の背中を優しくさすってくれている。しかしその感覚はまるで現実味が無かった。僕の頭は全てを嘘だと思い込もうとしているようだった。今にも泣き出しそうな森さんも、今聞いた話も、何もかもが嘘だと。「…森さん…僕は…」「…何…?」まるで涙が溢れるのを抑えられないかのように、口から言葉がこぼれていく。「…涼宮ハルヒが、憎い…」そう言った途端、森さんが力強く僕を抱きしめてくれた。僕の頭を撫でる森さんは震えていた。泣いているのかもしれない。僕も森さんの腰に手を回そうとするのだが、身体がちっとも動かない。動かす気力など無かったのだ。僕は「悲しい」、「辛い」などといった感情は抱いていなかった。当然涙だって流れてこない。どうすればいいのか、どうしたらいいのか、そんなことも考えていなかったし、もはや思考回路が機能しているのかでさえ不明だったのだ。浮かぶのはただただ、憎しみだけだった。
相当長いことそうしていたような気がする。だが、斜め上の時計を見やると、彼女の部屋を出た時刻から1時間しか経っていなかった。沈黙の一時間。僕にはその一時間は在って無いような時間だった。「…もう、平気ですから…」「………」ゆっくりと身体から離れていく。僕は森さんの顔を見ることができなかった。「…きっと万全の体調ではないと思うけど…明日は彼女と出かけてあげてね。そのために貴方には明日の会議を欠席させることにしたのよ。もう外出できるのはきっと、明日で最後だから。…明日しかないから。楽しい時間にしてあげてね」森さんはそう言うと、ゆっくりとその場を後にした。一人取り残された僕は自販機で炭酸飲料を購入し、それを一気に飲み干した。元々飲めない炭酸飲料を無理に、それも一気に飲み込んだため、喉がしびれたように痛かった。だが、その痛みが今の僕には丁度良かったのだった。
「あ、遅かったね!私もう結構前に起きちゃってて退屈だったんだよー」少し寝て体調が良くなったのか、いつもの元気を取り戻した彼女が笑っていた。「…具合は良くなりましたか?」「平気だよ!あ、お医者様、外出してもいいって言ってたでしょ?」「…ええ。じゃあ明日…10時くらいにここへ迎えに来ますよ。それまでに準備して置いてくださいね?」「はーい!明日楽しみだなあ…」そう言ってはにかむ彼女はとても可愛らしくて、僕は無意識にその姿を記憶に焼き付けようとただただ彼女を見つめていた。「古泉君、どうしたの?」「…え?」彼女の言葉で我に返る。「何か悲しいことでもあったの…?」「あ、いや、それじゃ…もうそろそろ帰りますね」逃げるようにそう言い立ち上がると、彼女は顔を不安そうにしかめるのだが、「明日のために、今日は本を読まずに早く寝るようにしてください」そう言って頭を撫でてやれば、すぐにいつもの笑顔を取り戻す。「うん!また明日ね、古泉君!」彼女の笑顔を一瞥してから僕は病室を後にした。
帰り道、僕はふと退院した日のことを思い出していた。「一瞬の気の迷いなら付き合ってやってもいい」、あの日の僕はそう思っていた。だが、今は違う。あの寂しがり屋とずっと一緒に居てやりたい。彼女が悲しまないよう、ずっと笑顔にさせてやりたいのだ。それなのに。これでは本当に一瞬の出来事になってしまうじゃないか。◇ ◇ ◇ ◇ 翌日の午前10時、317号室のドアの向こうには別人のような彼女が立っていた。「あ…」「えへへ…どう?」少し丈の短いデニムジャケットに純白のワンピースを纏った彼女が、そのスカートの裾を摘んで気取ってみせる。今までパジャマ姿の彼女しか見たことの無かった僕は戸惑い、彼女から不自然に顔ごと逸らしてしまう。 「………似合ってる、と思いますよ」「…もう、もっと気の利いたこと言ってくれたっていいじゃない」ええ、猛烈に可愛いです。貴女の白い肌にそのワンピースは反則的なまでによく似合ってますよ。…なんてことは口が裂けても言えないが。「じゃあ、行きましょ!古泉君!」ブーツの底を鳴らしながら近づいた彼女が僕の手を握る。…仕方が無いので、僕もそれに応え手を握り返してやる。それから僕たちは他愛の無い会話を交えながら、電車を乗り継ぎ僕の地元へと向かった。
あの後僕は、今日だけは涼宮ハルヒや『機関』のことも、昨日の話も全て忘れてしまおうと決めていた。今日一日は彼女を楽しませること、彼女と楽しい時間を過ごすことだけを考えていようと思っていたのだった。もし閉鎖空間が発生したとしても今日ぐらい見逃してもらおう。そう考え携帯をマナーモードにしておいた。閉鎖空間の発生を伝えるあの機械音を今日だけは聞きたくなかったのだ。僕の地元に着いてからは商店街を散歩したり、僕の通った小学校や中学校などを見て廻った。僕の地元はどこにでもあるようなただの住宅街で、特に面白い場所などもないのだが、隣で彼女は終始楽しそうにしていたのでそれだけで僕も楽しかった。ただ話しているだけで、ただ彼女の笑顔を見ているだけで、楽しくて、幸せだった。こんなに楽しいと感じたのは何時ぶりだかわからない程だ。…そんな楽しい時間はやはり一瞬のように過ぎていく。気付いたら空は赤く染まり始めていたのだった。僕は、最後に彼女を夕日が綺麗に見える川原へ連れて行った。「わあー!綺麗!ねえ、私こういうのドラマで見たことあるよ!こういう川原をカップルで歩いたり、友達と走ったり!」はしゃぐ彼女に目をやりながら僕は茂み腰を下ろした。すると彼女も僕のすぐ隣に座り込む。「もうすぐ5時か…あーあ、帰りたくないな。ずっと古泉君とこうしてたいなあ…」彼女が何気なく呟いた言葉に、僕の胸が軋むように痛んだ。僕だって帰りたくなどない、そう思うたびに浮かんでくる忘れていた「あれら」を必死に頭から振り払う。 「ん、…あれ…」不意に不思議そうな顔をした彼女が辺りをキョロキョロと見渡していた。「…どうかしましたか?」「何か…この景色見たことがあるの…もしかしたら、昨日の夢かな………?」「…デジャブでしょうか」「あのね、いつもの女の子とこの川原でお話したんだよ」彼女はまた切なげな表情で語る。「その子すっごく不器用なの。どうしようもないモヤモヤとかを上手くコントロールできなくて…それで、大きい巨人を作り出して町を壊すの」「………巨人が、町を壊す?」「そう。それで泣きながら私に言うの。寂しい、誰もわかってくれないって。」その時、ポケットに入れていた携帯が不意に震えだした。嫌な予感がする。―――まさか。「だから私、約束してあげるんだ。私が一緒に居てあげるからって。そしたらようやく泣き止むの」彼女の言葉を聴きながら、恐る恐る携帯を開く。「それで、すっごくキラキラした笑顔で言うんだよ。待ってる!…って」僕の予感は当たった。今ここで、閉鎖空間が発生したのだ。
「…そんな約束、しなくていいんですよ」「え?…きゃっ!」僕は彼女の腕を掴むと、閉鎖空間の中へと引きずり込んだ。赤く染まっていた空も一瞬にして灰色に包まれ、町は静寂に包まれる。突然そんな灰色世界に連れ込まれた彼女は驚き、そして恐怖に満ちた表情をして僕の腕にすがりついた。「なっ、何?ここは…どこ?どこなの?」「閉鎖空間です」自分でも驚いてしまうような冷たく、低い声でそう言い放つ。「古泉君?何?どういうこと?ちょっと…」「貴女の夢に出てくる少女…僕はその少女を知っています。涼宮ハルヒですよ」「すずみや…はるひ?」「そしてこの空間は、その涼宮ハルヒが創り出した空間です」「…何?言ってることが難しくてよくわからな…」遠くから地響きが聞こえ、彼女は一瞬身体をびくつかせる。神人のお出ましである。
「あっ…あの巨人、夢に…!!」神人はいつものように町の破壊行動を始めた。「きゃあっ!!古泉君、ここに居たら危ないよっ!!」そう叫びながら僕の身体を揺らす彼女を抱き上げると、「えっ、えっえっ…きゃああああ!!」僕は灰色の空めがけて飛び上がった。「あの巨人は神人といいます。貴女の夢の通り涼宮ハルヒは精神状態が不安定になるとこの空間を作り出し、そしてあの神人に破壊行動をさせて発散するのです。しかし、あの神人を放っておくと最終的にこの世界が現実世界と入れ替わってしまうのです。それがどういうことだかわかりますか?」身体を震わせ息まで切らした彼女に皮肉な笑みを向けてやる。「世界が滅んでしまうのですよ」
僕は一旦背の高いビルの屋上に足を着けると、話を続けた。「世界の崩壊を防ぐためにはあの神人を何とかしなければならないのです。それを行うのが、僕たち超能力者と呼ばれる存在なのですよ」「超能力…?古泉君が…!?」「ええ」腰の抜けてしまった彼女を冷たいコンクリートの上に降ろしてやると、僕は手のひらに赤い光球を創り出し神人に思い切り投げつけてやる。苦しむ神人、そして叫ぶ彼女。「涼宮ハルヒは、ある日を境に願望を実現する能力を手に入れました。その時から僕も涼宮ハルヒによって能力を受け、このような望んでも居ない役職に就いたというわけなのです。…そして、能力を受けたのは貴女も同じです」「…えっ…?」僕は拳を硬く握り怒鳴るように言った。「しかし身体の弱い貴女は…その力は強大すぎた!それを受け止めきれない貴女の身体はその力によって破壊され、やがては命を落とすんです!貴女は涼宮ハルヒに殺されるんですよ!」僕は彼女のことなどお構いなしに続けた。「僕の所属する『機関』では涼宮ハルヒのことを神と定義づけています。でも僕は決してそうは思いません!僕はあいつが憎いんだ!!僕を苦しめて、貴女を苦しめる存在を、神などと呼べるわけがない!」 「古泉君!!」彼女の叫びでハッと我に返る。―――僕は…今何を口走っていたんだ?自分自身の創り出した情報が理解できないままでいると、彼女はよろよろと立ち上がり僕に近づいてきた。どうすることもできない僕は思わず数歩後ずさりしたのだが、 彼女は逃がさないようにと僕の腕をつかんだ。「………難しいことは…よくわからない」「…あ、の…」「でも、私だって自分の死期が近いことくらい知ってたよ。きっと私はこのまま、あの女の子…はるひちゃんに連れて行かれるってこともわかってた」弱弱しい笑顔を浮かべた彼女が、僕の手を優しく握ってくれる。「でもね…はるひちゃんと私、よく似てるんだ。…だから私にはあの子の気持ちが痛いくらいわかる。私には古泉君が居るけど、あの子には誰も居ないんだよ。そんなはるひちゃんを一人にしておくなんて、私にはできない!」彼女は語尾を強めてそう言うと、小さな身体で僕に抱きついた。「古泉君も…ずっと一人で戦ってきたのね…私と、はるひちゃんと同じだね」そして顔をあげ僕に100Wの笑顔を見せるのだった。「でも古泉君だって、もう一人じゃないから…ね?」
いずれ死に陥るとわかっていても、それでも涼宮ハルヒを受け入れた彼女。ただ自分の運命を呪い、現実から逃げ続けていた僕。―――僕はなんて情けないのだろう。頬に冷たい何かが一筋伝った。それが涙だと気付いた途端次々に溢れて止まらなくなってしまった。僕はただの強がりだ。彼女の傍に居てやりたいんじゃない、傍に居てほしいだけなのだ。僕は皮肉屋で、無愛想で、強がりで、情けなくて。そんな僕でさえも受け入れてくれる彼女が愛しくて、温かくて、優しくて。その優しさが痛いほど悲しくて、どうしようもなく辛かった。今の僕には涼宮ハルヒを憎む気持ちなど無い。自分の苦悩ばかり嘆いて、涼宮ハルヒ本人の心情を考えることすらしなかった僕に、彼女を憎む資格などない。しかし、こんな僕にもどうしても譲れない物ができたのだ。いくらでも『機関』に時間を捧げよう。神人退治でも何だってやってやろう。何ならこの命だって差し出してもいい。それでもたった一つこれだけは涼宮ハルヒに譲りたくない。僕がどんなに足掻こうが、神である涼宮ハルヒには敵わない。そんなことくらいわかっている。わかっているが。それでも願わずにはいられなかったのだ。―――神よ、どうか彼女を連れて行かないでください。ずっと彼女の傍に居させてください。赤い光球の飛び交う灰色の空を見上げながら、そう思った。 ◇ ◇ ◇ ◇ 僕と彼女の間に何の隔たりや隠し事もなくなったあの日から、僕たちはもっと親密な関係になった。僕は、閉鎖空間の発生や会議が無くとも病院へ向かうようになっていた。いや、それ以外の時間は全てこの病院で過ごしていたと言っても過言ではないだろう。昼間は手を繋いで病院の中庭を散歩し、夜は必ずおやすみのキスをした。それ以上の進展は無かったし、お互い望むことも無かった。一緒に居られるだけで幸せだから、なんて僕も随分恥ずかしい台詞が素直に出てくるようになったものだ。彼女はそれこそ僕の前では元気に振舞っていたが、容態がどんどん悪化していることは誰の眼にも見て取れることであった。日に日に出来ることは限られていき、ついには立って歩くことさえも出来なくなってしまったが、彼女は笑顔だけは絶対に忘れなかったし弱音だって一度も吐くことはなかった。「死ぬことはちっとも怖くない。ハルヒちゃんが待っていてくれるから」彼女は僕に何度もそう言ったが、それでも僕は目前に迫るその日が怖くて仕方ない。彼女の居ない毎日が来ることにいつまでたっても覚悟することが出来ずにいた。「古泉さん、8時過ぎましたよ」ドアの向こうで看護師が面会時間の終了を告げる。「…では、そろそろ帰りますね」「うん…私も、今日はもう、すごく眠い…」彼女は掠れた小さな声でそう言いながら微笑んだ。僕は立ち上がり彼女の髪をくしゃっと撫でてやると、やはり擽ったそうにする。「…くすぐったい」 そう言いながらはにかむ彼女を見ていると、自然に口角が上がっていくのが自分でもわかった。そんな様子を見てか彼女は小さく驚きの声を漏らした。「やっぱり、古泉君は笑ってた方が素敵だな…」はずかしいことを平気で言う口を塞ごうと顔を近づけるのだが、彼女は「聞いて」と弱弱しい力で僕の頬に手を添える。「私…古泉君には笑ってて欲しいの…」「…何言って、」「約束してくれる?…ずっと笑顔で居るって」彼女はいつになく真剣な目で僕にそう告げる。どこか急いでいるようなその口ぶりに戸惑い苦笑で誤魔化してみるのだが、彼女は真っ直ぐと僕を見つめたまま何も言わずに返事を待っていた。「…無理、ですよ。笑顔だなんて僕には無縁ですし…」「…できるよ。大丈夫。私の笑顔、全部あげるから…ね?」そう言って、彼女は僕に優しくキスをした。「約束だよ?」赤く染まった頬に上目遣いでそう言われてしまっては、僕には頷く以外に術が無い。「…わかりました」ぎこちない笑顔でそう答えてみる。すると彼女は100Wの輝きを放つ笑顔を見せて喜んだ。「…それじゃ、私もう寝るね…何だか今日はすごく眠いの…ハルヒちゃんが、呼んでるのかな…」彼女はそう呟きながら長い睫毛を伏せた。僕はそれから何も喋らなくなった彼女にもう一度口づけ、317号室を後にした。
その帰り道。僕は夜空を見上げていた。流れ星でも流れるんじゃないか、そんなことを考えながら。彼女にはわかったのだろう。だから僕にもわかってしまった。何故かと聞かれても、「わかってしまうのだからしょうがない」と、そう答えるしかない。ずっと恐れいたこの日。いざ迎えてみると意外と冷静でいられた。これもどうしてかはわからないが僕は確信していたのだ。彼女とはまた必ず会えると。「…本当に一瞬だったなあ」心底楽しくて、この上なく幸せな日々だった。悔やむことなど何も無い。あの時一瞬気を迷わせて本当に良かった、今ではそう思うのだ。僕はただ、彼女が寂しい思いをしていないよう神に祈った。 ◇ ◇ ◇ ◇ 出張していた森さんが久しぶりに戻ってきて間もなく呼び出しをくらい、僕はせっかく寝潰そうと思っていた休日を返上して本部へと向かった。「久しぶりね古泉。高校入学おめでとう」「ありがとうございます。僕も無事高校生になることができました」「まあ合格できて何よりよ。全く、無理しないで『機関』に入学手配してもらえばよかったのに」僕は黙って首を横に振った。確かに神人狩りの合間の受験勉強は過酷なものだったが、コネを使ってずるをするのはどうも僕のポリシーには反する。そんな過酷な日々の甲斐あって無事高校生になることができた今、緊張の糸が切れたかのようにだらけた生活を送っていることなどとても森さんには言えないのだが。 その一方で森さんは2ヶ月ほど兵庫県へ出張し、涼宮ハルヒと最も近い位置に存在する部で職務を行っていた。「そちらはどうでしたか?」「まあまあね。ここ最近は閉鎖空間の発生頻度が減りつつあるし。その代わりあの調査で大変だったわよ」「涼宮ハルヒの鍵、ですか」「そう。でもいくら調査したところでやはり彼はごく普通の一高校生男児だったわ。」森さんは盛大な溜め息のあと、ブラックコーヒーを口に流し込んだ。涼宮ハルヒの鍵…つまり世界を手中に収める存在がまさか僕と同い年で、しかも何の属性も持たない一般人だとは。一体どんな人物なのか是非お近づきになりたいものだ。 「…その件で話したいことがあって、貴方を呼んだのよ」空になったコーヒーの缶を静かに置いた森さんは真剣な声色でそう言った。「私、正式に兵庫支部の配属となったわ。そして古泉…貴方にも一緒に来て欲しいの」「…僕が?」意表を突かれた僕は相当間抜けな顔をしていたことだろう。そんな僕を見据えたまま頷いた森さんは茶封筒を取り出し僕に手渡す。「貴方には涼宮ハルヒの通う高校に転入して直接接触を試みてもらいたいの。それが涼宮ハルヒ近辺の人物データよ。もし貴方に来てもらえるなら…ううん、きっとその書類に目を通してもらえればきっとついてきてもらえるだろうけど」 森さんの自信に満ち溢れたような表情に思わず顔をしかめる。何を根拠にそんなこと言うのだ?疑問に思いながらも書類を取り出した。
しかし。「…っ!!」一通り目を通したところ事で、僕は驚愕し持っていた書類を床へとぶちまけてしまう。「なっ…これは…」うろたえる僕の行動を予想していたかのように、森さんは床に散らばった書類のうち一枚を拾い上げ僕に差し出した。「…彼女はTFEIのうちの一人。TFEIについては聞いてるわね?」僕は頷く。「対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。情報爆発の後情報統合思念体によって創られた存在。涼宮ハルヒが『鍵』と共に立ち上げた団体に、彼女も所属しているわ」 涼宮ハルヒと同じセーラー服を着た、ショートカットの少女。「TFEI・長門有希」と題された書類に載る写真には、あの彼女に酷似した少女が写っていた。まさか。何故。どうして。思考には疑問ばかりが浮上していく。僕は床に膝をつき彼女に関する書類を全て拾い上げた。かき集めた写真の彼女はいずれも無表情で、半数は本を読み耽る姿を写していた。
僕がそれを凝視していると、森さんは視線を合わすようにかがみんだ。「このTFEIがあの子であるのか…それを実証するデータはこの中にはないわ。けれど私はこう思うの。涼宮ハルヒが望んだから、彼女はそこに居る」森さんが両手で僕の肩を強く揺さぶった。「古泉、貴方の目で確かめなさい。いいえ、貴方は確かめなければいけないわ」その言葉の前に僕は決めていた。森さんと共に行こう。北高校に転入しこの目で確かめるのだ。彼女が本当にあの彼女なのかを。力強い言葉に対し、「行きます。…行かせてください」僕が情けなく震えた声でそう応えると、森さんは笑った。「けど、今の貴方は連れて行けないわね」「!…何故…」「彼女から笑顔…もらったんでしょ?だったら笑いなさい、彼女の分まで笑っていなさい!」――だから私、約束してあげたんだ。一緒に居てあげるって。――私の笑顔、全部あげるから…ね?彼女の言葉が次々と頭を過ぎる。彼女は涼宮ハルヒとの約束を守ったのだ。だから僕も守ってみせよう。笑顔で居るという最後に交わした約束を。僕は森さんに笑ってみせた。普段皮肉ばかり口にしているのだ、それはうさんくさい笑みだったかもしれない。それでも彼女ならこう言ってくれるだろう。「笑っていた方が素敵だよ」、と。
そうして僕は、笑顔という癖を手に入れたのだった。
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