長門有希の憂鬱III The ecstasy of Yuki Nagato
The ecstasy of Yuki Nagato
長門の夢を見た。ほっそりとしたお姫様の格好をした長門が白いドレスを着て、悪の帝王に捕まっていた。「悪の帝王、ユキ姫を返せ!」「キッヒヒヒ。欲しかったら力ずくで取り返してみなさい」「おう!望むところだ」俺は蛍光灯のように光るサーベルをブンブンと振り回して、ハルヒ扮する悪の帝王を倒した。「ユキ姫、俺とケッコンしてくれ」「……それは、できない」「なんでだよ。ほかに好きな男がいるのか」「……わたしは、あなたの妹」まさかそんな。今になってそれはないだろう。
長門の顔が妹の顔とダブった。「キョン君、早く起きて」昨日ハルヒがあんなことをやらせるから悪いんだ。俺はブツブツ言いながらベットから這いずり出た。おかげで学校に遅刻してしまった。
気が付くと、いつのまにか四限が終わっていた。授業中の記憶がない。俺はカバンから弁当を取り出したが、これまた食欲もない。箸がなかなか進まなかった。メシの味がしない。 「キョン、あんた熱でもあんの?」ハルヒが俺の額に触れた。「いや、なんでだ?」「今日はずっとぼーっとしてるし、あ。」ハルヒがニヤリと笑った。「なんだよ」「あんた、有希のこと考えてんでしょ」な、なんで分かったんだ。「図星でしょ。目を見てれば分かるわよ。トロンとして、どこを見るでもなく焦点が合ってないもの。ときどき思い出し笑いするし」そこまで見られてたのか。うかつだった。「実は今朝、夢を見たんだが」悪の帝王から長門を救い出したことを話すと、ハルヒは腹を抱えて笑った。「あんた、ヒーロー願望があんのね」「お前が映画のロケなんかさせるからだ」「キッヒヒヒ。夢も正夢ね。この映画、当たりそうだわっ」思えばあのドレス、似合ってたよなあ。俺はまた夢の世界に逃避していた。「あーもう、見てらんないわね。ほら、二人で映画にでも行ってきなさい」ハルヒはぷいと横を向いたまま映画のチケットを二枚押し付けた。こいつもたまには気が効くな。「さ、サンキュ。週末にでも行ってくるわ」「週末じゃなくて今から行くの!」「まだ授業があんだろ」「愛のためならそれくらいさぼりなさい。いい?デートの基本はお忍びよ」その割には、こっそり跡をつけられたりしてるがな。
教室のドアがガラリと開いて長門が顔を出した。カバンを肩にかけている。「……準備、できた」「って、お前ら二人で勝手に決めてたのかよ」「いいじゃないの。たまにはこういうのもいいものよ」ハルヒはクラス委員長と保健委員を呼んだ。「委員長、熱病により早退一名様ご案内~」人をマラリアみたいに言うな。しょうがないな、行ってくるか。どうせ授業も身に入らないし。俺が食いかけた弁当にフタをしようとすると、ハルヒが指差した。「キョン、その弁当食べないならよこしなさい」
そんなわけで、今日は長門と仲良く下校、じゃなくて人目を忍んでさぼりだ。
「手……つなぐ」今日はじめて長門がそう言った。「そ、そうか」俺は長門の左手を取った。こいつが積極的に俺の手を取るのは、これはいい兆候かもしれんな。 俺は、そろそろ本格的な恋愛の段階に進めてもいいんじゃないかと、そんな気になっていた。しかし俺は熱病のせいか相手がアンドロイドであることをすっかり忘れていた。それが思わぬアクシデントを招くことになったのだが。
坂道を下る途中、二人とも会話がなかった。今日は突然だったんで心の準備もなかった。「今日、ずっとぼーっとしててな。実は今朝、お前の夢を見たんだが」「……どんな夢?」俺はまた悪の帝王の話をした。帝王を倒して長門をかかえて逃げるシーンはちょっと脚色した。英雄になる気分はいいもんだ。「……あなたには、英雄の資質がある」「そ、そうかな」長門は微笑を浮かべた。俺は急激に、なんとなくだがヒーローになれそうな気になった。単純なやつだな。
長門は私服に着替えるというのでマンションに寄った。デートだから衣装は別なのだそうだ。俺は制服のままでいい。
長門は和室でごそごそと着替えていた。気のせいか、長門の衣装のバリエーションがだいぶ増えた気がする。もうひとつの部屋は衣裳部屋になっていた。 お姫様ドレスとはいかないが、白いブラウスに、ギャザーの入った膝下くらいのスカートに身を包んでいた。俺は夢に出てきたシーンを妄想した。「それ、すごく似合うと思う」「……そう」髪にブラシをかけ、軽く化粧をしていた。ピンクの口紅を薄く塗った。口紅を塗る長門を見るのははじめてだった。俺はツヤのある長門の唇を見て、はあぁと切ないため息をついた。女ってのはこうやって変わっていくよなぁ。
デートスタイルになった長門は、もう完璧に美人だった。これで町を歩けば、道行く野郎共が振り返って見るだろう。「俺だけ制服って、なんだかバランス悪いよな」「……」長門は衣裳部屋に引っ込み、紺のジャケットを持ってきた。「……これ、着て」「俺のために?」「……わたしのを、今修正した」なるほど、早いな。最近は裁縫もやるのか。 俺は金ボタンのジャケットを羽織った。型もサイズもちょうどいい。ネクタイを外して、洗面所の鏡の前で長門と並んでみた。「こうして二人で立っていると、まるで……デートみたいだな」何言ってんだろうね俺は。
二人でマンションを出た。長門は俺の腕を取って歩いた。俺が言うのもなんだが、ときどき建物のガラスに映る二人は実によく似合っていた。
今日は気分を変えて、いつもとは逆の西行きの電車に乗り換えることにした。もしかしたらハルヒと古泉に付けられてるかもしれん。映画のチケットを見ると、某ターミネーターだった。とうとうパート四が出たらしい。ハルヒのやつ、俺たちにSF映画を見せて役作りでもしろっていうんだろうか。
一時間半ばかし映画を見てから、二人で繁華街を歩いた。「映画どうだった?」長門は少し考え込んでいた。曰く、「……あれは流体力学的に無理がある」液体金属でも熱交換や質量を無視できない、らしい。液体の場合、固体より遠心力や制動力の影響を受けやすい。形を変えずにふつーに走り回るのはありえない、らしい。液体の分子同士が結束力を維持しようとすると摩擦熱が生じる、んだとかなんだとか。物理の点数が悪い俺にはちょっと難しい話だ。
「ちょっと早いけど、晩飯食うか」「……そう」ファミレスに入ると、家族連れで溢れ返っていた。俺は順番待ちリストに名前を書いて、長門をベンチに座らせた。 長門は無邪気にはしゃぐ子供を見ていた。長門の家族の付き合いってどんなもんだろうか。姉がいるのは知っているが、情報統合思念体はあんまり家族の団欒とは縁がなさそうだ。長門には子供の時代というのがないんだろうな。
名前を呼ばれて席に案内された。バイキングメニューで好きなだけ選んでいいぞと言うと、長門は喜びいさんで皿を山盛りにしてきた。わしわしと食べる長門を見てると、なんだかこちらまで幸せになる。 「バイキングだからどんどんおかわりしていいんだぞ」しかし、よく食べる。食ったものが核融合反応炉にでも放り込まれてる感じだ。
俺はふと考えた。長門がもしターミネーターみたいなやつだったら、それでも好きになってただろうかと。ナノマシン集合、液体金属ロボットみたいな長門有希。時に応じて床を這いまわったり、壁と同化して消えてしまったり。 もしかしたら長門も変身できるのかもしれないなと、その顔を眺めていた。「……なに」「長門は体の構造を変えるなんてできるのかな」「……構成情報を書き換えることはできる。だが実体化後、固形として安定するのに時間を要する」なるほど。つまり化粧のノリが悪いってことか。「わたしも分子構造の再編の時期が来ている」「というと?」「今のわたしは十五歳仕様。近いうちに十八歳に変更しなければならない」「そ……そうなのか。十八歳仕様ってどうなるんだ?」「……身長、体重を追加。体系を若干変更」ちょっとだけ大人になる長門か。想像して萌えた。
もくもくとサラダを食う長門の唇を見ていた。いい形をしている。長門のデザインはいったい誰の趣味なのだろう?「長門は甘いもの好きなのかな?」「糖分の過剰摂取はわたしの体に変調を来たす。でも、好き」ミニケーキをほお張る長門を眺めた。その辺はやっぱりふつーの女の子だよな。バイキングはたいてい味付けが濃くしてあって、そうそう食えるもんでもないんだが、長門の食欲は止まらなかった。 気が付くと、トレーがあらかた空になっていた。「な……長門、店長が青い顔してるから、もうそのへんで」すいません、店長。正直これ、止まりません。食欲を……持て余す。
そのまま帰るのももったいない気がしたので、海岸の公園を散歩することにした。
長門の色白の肌に水面から反射する夕日が当たって、それはもう、いい絵になっていた。また手を繋いで、そろそろと歩いた。
いい雰囲気だったんで、俺も魔が刺したのだろう。というか前からチャンスをうかがってはいたんだけど。「長門、キスしてもいいかな?」手すりにもたれたまま、長門を横目で見ながら聞いた。「……」無言だった。「もし、嫌ならそう言っていいから」俺はできるだけ平静を装って言った。しかし、俺の血中アドレナリン値が急上昇していたことを、長門には悟られていたに違いない。「……したことがない」そうか、そうだよな。「じゃあ、目を閉じて」俺が長門を階段の一段上に立たせて抱き寄せると、細い手がおずおずと俺の肩をつかんだ。それから長門の頬を両手でそっと包んで、唇を近づけた。形のいい、淡いピンク色の唇に触れた。 その瞬間、これがアンドロイドの唇だろうかと思うくらい暖かく、柔らかい感触を味わった。すべての音が消え、風も、波も、飛ぶ鳥も、超低速再生のビデオのようにゆっくりに感じた。永遠に近いこの数秒間が、すべての宇宙時間より勝っていると俺は思った。
唇をゆっくりと離して、もう目を開けてもいいぞと言おうとした。きっと長門の頬はピンクに染まってるに違いない。
ところがである。長門の様子がおかしい。「……この情報は、……負荷が……」長門は途切れ途切れに呟いた。ガクガクと体を痙攣させ、目を見開いたまま俺の腕に倒れこんだ。「長門!おい長門!どうした!」いったい何が起こったんだ!? 痙攣は治まったが長門は気を失って倒れた。俺は力の抜けた長門の体を必死で支えて、とりあえずベンチに寝かせ、近くの水道でハンカチを塗らしてきた。
額がものすごく熱い。前にも同じようなことがあったぞ、ええと、あれは雪山の山荘でだ。あのとき長門はなんて言った?この空間はわたしに負荷をかける、そう言った。医者を呼ぶか、いやアンドロイドを医者に見せるのはまずいだろ。あのときはクイズを解いたんだった。長門、これもクイズなのか。ええいくそ、落ち着け俺。誰か、アンドロイドの病気に詳しい人は。 そのとき、俺は以前にも助けてもらったもうひとりのアンドロイドの顔を思い出した。携帯を取り出して、ああ、あった。喜緑江美里さん。手が震えて通話ボタンがなかなか押せない。 「もしもし、キョンです」「何があったんですか。すぐ行きます、場所を教えてください」喜緑さんはいつでも前置きがなくて助かる。俺は正確な場所を伝えた。ベンチに腰掛け、長門の頭を膝の上に置いた。「長門がんばれ、もうすぐ喜緑さんが助けに来るからな」話し掛けてはみるが、瞳孔が開いたまま、いっこうに反応がない。「長門、俺を置いて死んだりしねーよな」なんだか泣けてきた。それでも喜緑さんなら、喜緑さんならきっとなんとかしてくれる。
公園の端にタクシーが止まった。ドアが開いて喜緑さんが出てきた。「喜緑さん!こっちです」俺は手を振って叫んだ。「何があったんです?」「ええと、実は長門とは以前から付き合ってて、今日はデートだったんです」俺は映画を見て、ふつーにご飯を食べ、海沿いを散歩していたことを話した。「それだけですか?」「ええと……実はキスをしたらいきなり痙攣して倒れてしまって」「なんてことしたんですか!」俺は反射的にスイマセンと謝った。
喜緑さんは地面に膝をついて、長門の額に手を当てた。「機能不全を起こしています」じっと目を閉じ、長門の頭の中を探っているようだった。「十七時十二分四十秒付近で膨大な量のエラーが記録されています」「ちょうどその時間だと思います」「一秒間に一万二千件ものエラーを出すなんて、あなたいったいどんなキスをしたんですか!」「あの、ふつーにテレビのメロドラマにあるような軽いやつで。けして舌をからませたり吸い込んだりしたわけじゃなくて」なんて露骨な説明してんだ俺は。「長門さんはこういう処理系に適してないんです。つまり人間の言葉でいうと、ウブなんです」「そうだったんですか」処理系って何だろう?「神経系統に数アンペアの電流が走ったためナノマシンが死んでいます。あなたも感電するところでしたよ」
喜緑さんは長門の腕を軽く噛んだ。俺もこれ、何度か経験したことがある。ナノマシンの注入だ。長門がゆっくりと目を開けた。まず喜緑さんを見て、それから俺を見た。 「気が付いたか」「……」「長門さん、過負荷ですよ。あなたのログは修復しておきました。エラーはとりあえず圧縮して別領域に保管してあります」「大丈夫か長門。俺が分かるか?」長門は終始無言だった。とはいっても、喜緑さんとは特殊な言語で通信していたのかもしれないが。「長門さんも、自分に適していない処理があることくらい分かっているでしょう」長門はひとことだけ呟いた。「……夢を、見ていた」
「キョン君、長門さんにあまり強烈な刺激を与えないでくださいね」「ほんとにほんとに、すいませんでした」ペコペコと謝る俺はまるで医者に怒られる不摂生な患者のようだった。「それから、これ。あなたに渡しておきますから」喜緑さんはハードコンタクトレンズの容器のような、直径二センチくらいの小さな瓶をくれた。振ってみると、水色の液体が入っている。「これ、何ですか」「液状のナノマシンが入っています。もしものときはこれを人肌くらいに暖めて飲ませてください」「分かりました。ありがとうございます」喜緑さんには何度も何度も、十回くらい頭を下げてから帰ってもらった。往復のタクシー代だけは受け取ってもらった。
「長門、ごめんな。まさか気絶するとは思わなくてな」ベンチから起こそうとしたが、長門が俺の腕を抑えた。「……しばらく、このままがいい」俺は座って長門に膝枕をしてやった。火照った頬をゆっくりとなでた。
記録によれば、長門が気を失った後に数秒間だけ記憶が残っていたらしい。こいつにしては永遠に近い時間とのことだが。「……あの数秒は、夢のようなもの」「どんな夢を見たんだ?」「よく分からない。綿が連なるように白いものが降っていた」「雪か」「……たぶん、そう。わたしが地球上に降りてきたとき、見たものがそれだった」「お前が書いた詩にもあったな」「……そう。それが、わたしの名前になった」
膝の上が暖かい。長門の頬が薄くピンクに染まっていた。二人で無言のまま、しばらく星を眺めた。
「そろそろ帰ろうか。俺は家に帰って心臓発作でも起こすことにするよ」
あとで長門がこっそり耳打ちしてくれたことだが、あの電流が走るような感覚は心地よかったと言った。視界がホワイトアウトする瞬間に、温かいなにかに包まれている感じがしたのだという。 それはいいが、あんまり何度も気絶されると俺の身が持たん。次は喜緑さんが三体くらい現れて、俺は首を締め上げられるだろう。
それでも、長門のぽわんとした夢うつつのような表情を見ていると、結果よかったのかもしれないなと俺は思った。
END
目次へ脚注:キスシーンの断片を同じタイトルで長門朝倉スレに貼ったことがあります
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