長門有希の憂鬱II 三章
三 章
Illustration:どこここ
その日の午後、ハルヒは俺の知らない間に谷川氏と連れ立って中学校へ行った。まさかジョンスミスを探しに行ったんじゃないだろうなといぶかしんだ俺だったが、まああいつはほっといても適当に楽しむやつだから大丈夫だろう。それ以外の四人は西宮北口駅まで歩いた。古泉と朝比奈さんが、ぜひこっちの世界を見てみたいというのだ。観光するまでもなく、たいして違わないんだがな、俺たち以外は。
俺たちは喫茶ドリームに向かい、長門は借りていた本を返すと言ってひとりで北口図書館に向かった。「まったくといっていいほど似てますね」古泉は街の景観を見回して言った。そりゃまあ、元はこっちだからな。「それは分かっていますが、なんとなく不思議というか、別の意味で違和感を感じてしまうというか」言いたいことは分かる。見た目はよく知ってる街のはずが、どこか違っていてどうしても自分が住んでる街だとは思いがたい何か。「こっちの世界では時間移動する人はいないんですか?」朝比奈さんが職業的な興味かららしい質問をした。「どうでしょうね。ひょっとしたらいるかもしれませんが、遭遇したことはないです」「時間移動はどの世界でも厳重に管理されてるんじゃないでしょうかね」古泉がもっともらしいことを言う。確かに、誰もがほいほいタイムトラベルができたら経済やら犯罪防止やらに支障が出そうだ。「なんでしたら未来に行かれてみては。時間移動管理局なる公的機関が存在するかもしれません」「そうですね……。いえ、やっぱりやめておきます。未来のことは知らないほうがいいです」こういうところは朝比奈さんらしい。時間のこじれには苦労していると見える。「あとで夙川公園に行ってみたいんですけど、いいでしょうか」あそこは朝比奈さんゆかりの場所だ。さすがに桜はまだだろうが、ハルヒに頼めば咲かせてくれるだろうか。「いいですよ。長門が帰ってきたら行きましょう」
路地を歩いていてドリームが見えてきた付近で、道のまんなかに見覚えのある人影が立っていた。小柄な、制服にカーディガンを来た女子生徒。だが、どうも様子が違う。第一、長門はもう眼鏡をかけていない。それにこの無表情、俺の知る今の長門ではない。俺以外のやつから見れば同じ表情に見えたかもしれないが、俺にだけは微細な表情の変化が分かる。俺を見るときは少しだけ緩むはずなのだ。 「長門か?」もしかしたら四年前の七夕の長門がやってきたのかと思い、問い掛けた。古泉と朝比奈さんも異状に気が付いたようだ。そいつは冷たく響く声で言った。「わたしはそのような名前ではない」遠くからでも聞こえそうなくらい声には抑揚がある。偉そうな態度で話す。こいつは長門じゃない。「じゃあお前はいったい誰だ!?」「わたしの名前は情報生命体α、情報統合思念体総帥だ」そいつは俺たちを指さして宣言した。「お前たちを上書きする」周囲の風景がガラリと変わった。空もまわりの建物の色もペンキで塗ったようにぺったりとした灰色になった。前にも同じようなことがあったぞ。朝倉に襲われたときだ。今回はいきなり、手足が貼り付いたように動かない。俺だけならまだしも朝比奈さんと古泉までいるのに。背中で朝比奈さんの悲鳴が聞こえた。俺の朝比奈さんになんてことしやがる。振り向けないが目だけ動かして見ると古泉はすでに赤い球体の中にいた。 「ほう。お前は他の二人とは違うようだな」情報生命体αと名乗る、長門によく似たそいつの手が白く光った。「古泉逃げろ、今すぐ長門を呼べ」俺は咄嗟に叫んだ。「いいえ、戦います。あなた方を守るのが僕の使命です」かっこうつけてる場合じゃないんだよ。こいつは神人よりヤバいぞ。「朝比奈さん、見ないほうがいいです。目を閉じていてください」古泉は震えている朝比奈さんに言った。「ここは僕に任せてください」 赤い球体となった古泉が宙を飛んだ。長門に似たそいつの右手が古泉を指差し、次の瞬間、球体に向かって落雷のような光が走り抜けた。そいつは詠唱していない。まばゆい光が古泉を貫いた。赤い球体が消え、人の形をした影が地面に落ちた。影は片手をついて立ち上がった。 「古泉、生きてるか」俺は叫んだ。「大丈夫ですよ」古泉の服はところどころ黒く焦げていた。どう見ても大丈夫そうじゃないぞ。「まあ見ていてください」古泉の赤い球体が輝きを増した。やられると燃えるタイプらしいな。 そいつの両腕が古泉に向いた。腕が伸びて白い蛍光管のように光り、壁を突き破って止まった。古泉は腕の部分に絡み付いて高速で回転し、切断していった。腕が、折られた千歳飴のようにポロポロと落ち、そいつは後ずさった。 フンモッフと叫ぶ古泉の右手から、赤く燃える火球がほどばしった。燃える火柱が空中を走る。ところが、そいつ、情報生命体とやらの目の前で泡となって消えた。「そんなものか。所詮は人間だな」ニヤリと笑うそいつの表情は、とても長門とは思えない冷酷さそのものだった。人差し指を古泉に向け、小さく円を描いた。「古泉避けろ!」俺が言うが早いか、槍の形をした数十本の金属の塊が古泉に向かって飛んだ。古泉はジャンプして後転したが間に合わず、手で払おうとした槍の一本が右手を貫いた。古泉の叫び声が響いた。古泉は槍ごと地面に落ち、右手を地面に釘付けにされてもがいた。 「おい、いったい何が目的なんだ。俺たちをなぶり殺しにするつもりか」俺は叫んだ。「殺すつもりはない。情報を上書きするだけだ」情報生命体αが青ざめた古泉の頭に手をかざした、その時である。轟音とともに地面が割れ、持ち上がった。アスファルトが大きくめくれ、かけらが飛んであたりに散らばった。その煙の中から現れたのは、俺たちの長門だった。 「長門さん助けて」朝比奈さんが泣き叫んだ。「……」長門が俺たちを見て、そいつを見た。怒っている。煙が立ち込めそうなくらい猛烈に激怒している。「……あなたは、わたしの同位体か」「やっとお出ましか。その通り、かつてはそうだった」「……」「思念体はお前ひとりか」「……」「そっちのわたしはえらく無口なのだな。もっと意思表示したほうがいいぞ」「……」二人の間に暗雲が立ち込めそうなくらい緊張した空気が漂ってきた。お前は知らんだろうが、この長門はけっこう意思表示するんだよ。
長門はそいつから目を離さずに、古泉のそばまで寄った。「……右腕を、麻痺させる。見ないで」長門はいきなり刺さった槍を抜いた。「ありがとうございます。僕は大丈夫です」「……骨折を修復する」長門は古泉の右手を握り、傷口を塞いでいるようだった。それから俺と朝比奈さんに向かって詠唱した。貼り付いた足が自由になり、やっと体が動かせるようになった。
長門は俺を見て、朝比奈さんを頼むと目で合図した。俺はケガをした古泉に肩を貸し、朝比奈さんを後ろに下がらせた。長門はもう一度俺を見て、それから朝比奈さんを頼む、と合図した。二度目のはなんだ?
長門は眼鏡をかけた自分に向き直った。「……あなたの目的は、なに」「命令する。わたしと融合しろ」「……断る。あなたとは意思を相反する」「では、お前を上書きする」そのセリフと同時に長門が呪文を唱えた。白く光る弾幕が二人の間に生まれた。さっきと同じ鉄の槍が飛んだが、長門の目の前で砂となって崩れて消えた。長門には物理攻撃は効かないだろう。 情報生命体αは両手に燃え上がる炎を起こした。瓦礫となったアスファルトが大きく持ち上がった。そして俺たち三人に向けてドロドロに溶けたアスファルトを投げた。か弱い人間を攻撃し、長門に隙を作ろうというのだろう。だが長門は俺たちの前に立ちはだかり、薄紫色のシールドを展開した。飛んできた液状のアスファルトがシールドに触れると、紫色に凍り付いて粉々に割れた。同時に、二人とも後ろへ飛び退った。
すさまじいエネルギーが炸裂する二人の戦いをじっと見ていたが、長門はいっこうに攻撃に転じようとしない。俺はそれに気が付き、さっきの長門の合図の意味が分かった。長門は一旦逃げて体勢を立て直したいのだ。今ここで戦うには何も準備が出来ておらず、リスクが高い。 「朝比奈さん、逃げる用意をしてください」俺は朝比奈さんの耳元で囁いた。「逃げるってどこへですか?」「過去へ」朝比奈さんはコクリとうなずいた。 情報生命体αは宙に浮かんで、両手を高く上げて円を描いた。描いた先に白い球体が生まれた。その中に人影が見える。顔は似てはいないが、同じ年恰好で無表情な三人が現れた。情報生命体αはそいつらに向かって命令した。 「やれ」 あいつ、仲間を呼んだのか。思わぬ敵の増援に長門は身構えた。もうぼやぼやしてはいられない、早いところ撤退しなければ。 ちょうど俺たちと情報生命体αの間に長門が入った瞬間、衝撃波が長門を襲った。白い煙幕があたりに立ち込め、敵の姿が見えなくなった。長門の体が吹き飛ばされ、煙と一緒にこっちに向かってくる。ここだ、このタイミングだ。次の瞬間、俺は飛んできた長門を捕まえるために足を踏ん張った。背中から飛んできた長門を抱えるようにキャッチすると、勢いそのまま五メートルほど飛ばされた。続いて長門の空間移動で朝比奈さんの隣に飛躍した。 「今です!」朝比奈さんに向かって叫んだ。映像のコマが逆に回ったかのように、猛スピードで視界が流れた。もう眩暈も吐き気もなかった。俺はただ、古泉と朝比奈さんを連れて安全なところまで逃げ延びることだけを考えていた。
気が付くと、俺たちは森の中にいた。どこかで鳥がさえずっている。「大丈夫ですか長門さん」朝比奈さんの声で我に返った。「……問題ない」俺は長門の体を離した。長門は起き上がってなんでもないという表情で砂ぼこりを払った。俺が見る限り、朝倉のときより余裕だった気がする。「あいつ、追いかけてこないだろうか」「……異時間同位体はいないはず。念のため、時間移動の痕跡を消す」長門は詠唱して、俺たちのまわりに透明な膜のフィールドを張った。俺はしがみついている朝比奈さんをなだめてから腕をほどいた。「古泉、右手は大丈夫か」「長門さんの治療のおかげでほとんど塞がりました。ちょっと痛みますが」「……骨の結合部が完治するまで、動かさないほうがいい」朝比奈さんがスカートの裾を破ろうとしたので、俺がシャツを渡した。背中の部分を三角巾に折り、古泉の首から腕に巻いた。「朝比奈さん、ここはいつなんです?」「さっきの時間から二百年くらい遡りました」ということは、ええと幕末ですか。「長門、あれともう一度戦ったら、勝てそうか?」「……分からない」「あの感じだと、お前のほうが一枚上手だったように見えたが」「……さっきのは異空間内部での、非侵食性融合維持空間だった」「非侵食性、なんだって?」「……つまり、彼女の作った異空間内にわたしが作った異空間」「ややこしいことしたんだな」毎度ながら、長門の高度な戦術には感心する。だが長門の表情は曇っていた。「……でも通常空間で戦った場合、戦力は未知数。勝てないかもしれない」「あいつ、自分を情報生命体αとか言ってたな。なんでお前に似てるんだ?」「……彼女は、わたしの異次元同位体。かつて同じ情報統合思念体のメンバーだった。だが今は情報リンクしていない」「今はちがうのか」「……数億年前、わたしと次元断層の探査に行き、彼女だけが消息を絶った」以前長門が消えたとき、喜緑さんに聞いていた話だ。あれはあいつのことだったのか。 それから長門は、俺の目をじっと見据えてこう言った。「……わたしは、彼女のバックアップコピー」
朝比奈さんが震えていた。さっきの状況が相当怖かったのだろうと、抱きしめて守ってやりたいような衝動に駆られたが、震えているのは気温のせいだった。森の湿った冷たい空気に、俺も急激に寒気を覚えて腕をさすった。 焚き火でもしようと薪を集めた。「誰かマッチかライターを持ってないか?」古泉が左手で火を灯し、薪に移した。「こんなことしかできませんが」「ケガしてるのにすまんな」自分の能力は暖房器具じゃないと言ったわりには、こういう役に立つことが嬉しそうだった。
燃え盛る焚き火を囲んで本来なら楽しいビバークのはずなのだが、状況が状況だけに歌など歌いだすやつはいなかった。鳥のさえずりだけが聞こえる静かな森の中で、長門の低い話し声だけが響いた。 「彼女とは記憶の大部分を共有している。わたしが情報統合思念体にいた頃、彼女はわたしであり、わたしは彼女だった」「思念体には個人を識別するものはないのか?」「固有識別子はある。でも記憶は共有、意思は集合の総意」いまいちよく分からんのだが。つまり、常時テレパシーで繋がっているようなものか。「……二人は同じ情報構造を持つ。わたしは彼女の写し」「理屈ではそうかもしれんが、お前はお前だ。俺の知る、ユニークな長門有希だ」「……ありがとう」自分の説明がやや足りないと思ったのか、長門は付け足した。「……人間的に表現するなら、彼女は双子の姉のようなもの」情報統合思念体が互いにどういう関係にあるのかは知らないが、長門に姉がいたとは初耳だ。それも人間的に表現するなら、との条件付でだが。
── 情報統合思念体には子孫の系統というものがない。思念体の成長は、互いの情報の構造化にある。でも、わたしと彼女はそれをしなかった。ほかの思念体が情報を交換し、混ざり合い、融合し、進化を果たしても、わたしたちはオリジナルを保った。 『いつまでも、このままでいよう』そう誓い合った。わたしたちは同じ記憶を持ち、同じ経験をし、同じ感情を共有した。
── わたしと彼女が探査に向かったとき、彼女は次元断層へ飛び込もうとした。わたしは反対し、先に探査エージェントを送り込むべきだと言った。『エージェントごときに新世界への第一歩を奪われたくない』自ら飛び込み、そして断層が消え、彼女は二度と戻らなかった。
「……それから数億年が経った。わたしも同行するべきだったのか、今でも分からない」長門はそう言った。「そうか……。お前は一度、身内を失ったんだな」長門はうつむいた。「でもなぜ俺たちを襲う必要があるんだ」「……おそらく、侵略が目的」「俺たちの世界をか」「……そう」宇宙規模の乗っ取りか。またスケールのでかい話になってきたな。「最初から明らかに敵意を持って接触してきたようですが、あの文庫本はやっぱり罠だったのでしょうか」「……今や確実にそうなった。出方によっては、思念体同士の争いになりかねない」「情報統合思念体の全面戦争か」「……そうなると地球上にも被害が及ぶ」俺は銀河に広がる、飛び交う火の玉、星の爆発を思い浮かべた。こいつらがまともに戦ったら地球クラスの惑星なんぞ、ひとたまりもあるまい。「俺たちの世界も守りを固めるべきなんじゃないか」「……思念体が安易に戦いを仕掛けるとも思えない。わたしたちの歴史にはいくつもの戦争があり、互いに何のメリットもないことを理解しているはず」戦争にはあんまりメリットデメリットみたいな論理的な考え方はないと思うぞ。人間は未だに戦争してるしな。それが終わるたびに、今度こそは平和な世界を、と宣言するんだ。 「……それも、一理」「それで、どうするんだ」「……わたしひとりでは手に負えない」長門は立ち上がり、スカートのポケットからじゃらじゃらと小さな球を取り出した。そのうちのひとつを手のひらの上に載せるとビー玉のように見えた。「それ、なんだ?」「……素粒子球」来る前に捕まえていたあれか。ずいぶんコンパクトになったんだな。あれからテクノロジーも進んだと見える。古泉が物珍しそうに眺めている。 唐突に長門がビー玉を握りつぶした。ベキッとガラスが割れるような鈍い音がした。次の瞬間、長門の手から、カメラのストロボを何台も焚いたような光が漏れた。「……喜緑江美里に救援を要請した」「ここから呼べるのか」「……時空の座標と位相情報があれば、転移可能」長門は詠唱しながら腕を大きく回して垂直に円を描いた。目の前の空間に直径二メートルほどのフラフープのような円が生まれた。切り抜かれた円の部分が、どんでん返しの戸板のようにくるりと回って、そこには喜緑さんが現れた。これ、新しい次元転移技術か。 「皆さん、こんにちわ」「お忙しいところ呼び立ててすいません」呼び出すのがこういう非常時ばかりで申し訳ない気がする。「皆さんお疲れでしょう。お茶を用意しましたわ」見ると、籐のバスケットを下げている。ステンボトルもある。こういう気が利くところは喜緑さんらしい。「わぁ、ありがとうございます。おなかすいてたんです」朝比奈さんの表情にやっと和らいだものが浮かんだ。喜緑さんはふと朝比奈さんの顔を見て、塗れティッシュで涙の跡を拭いてやった。気が付かなかったが、朝比奈さんの目元が腫れていた。みんなを見守るお姉さんのような喜緑さんは、朝比奈さん(大)よりずっと優しいと思った。 それまでその辺の切り株やら石に座っていた全員は、喜緑さんが持ってきてくれたピクニックシートを広げて足を伸ばした。「静かないいところですわね」この状況だ、そうですねとは誰も言わなかったが。日本画に出てきそうなヤマトナデシコ的喜緑さんが、微笑でそう表現してくれると気持ちが和む。喜緑さんは紅茶をカップに注いで全員に渡した。それからフルーツケーキを丁寧に切り分け、ピクニックセットの皿に盛ってくれた。 「お口に合うかどうか……」これ、お手製だったんですか。一口で食っちゃいました、味わって食べればよかったのにもったいない。喜緑さんは笑ってケーキのお代わりをくれた。リンゴやらみかんやらの果物まで用意してくれた。長門は黙々と食っている。緑豊かな奥深い森の片隅で、お茶をすする音だけが聞こえた。耳を澄ますとどこからかせせらぎの音が聞こえる。 「お茶、まだありますから」「わざわざ用意して持ってきてくださったんですね。ありがとうございます」古泉が礼を言った。「戦いの前には、まず腹ごしらえですからね」喜緑さんは正気に戻るようなことをサラリと言った。古泉がゴクリとケーキを飲み込んだ。
「さて、今後のことですが」全員が喜緑さんを正視した。俺はうさぎの形に切ったリンゴを頬張ったまま固まった。「まず、先方の意図を正確に見極める必要があります。交渉の余地があるのか、救援を欲しているのか、あるいは単に侵略が目的なのか」長門はじっと喜緑さんを見た。この人が喋っているときは長門はいつも控えている気がするが、もしかして喜緑さんのほうが先輩なのか。「それから、できるだけ目立つ行動は控えてください。古泉君も朝比奈さんも、緊急時以外は能力を使わないでくださいね」二人は黙ってうなずいた。「それからキョン君。あなたは涼宮さんの閉鎖空間発生をできるだけ阻止するようにしてください。おそらくですが、涼宮さんの発するエネルギーが彼女をおびき寄せたのだと推測されます」 それができれば苦労はないんですが、と言いかけたが、喜緑さんの深い瞳があまりに真剣だったので口には出さなかった。「では、いったん元の時間に戻りましょう」「……分かった。三人とも、手を出して」俺たちはインフルエンザの予防接種を受ける小学生のように並んで左腕を差し出した。長門はひとりずつ手首を噛んだ。「うわ、なんですかこれ」俺と朝比奈さんは経験済みだが、古泉ははじめてだったな。「……対情報操作用遮蔽スクリーンのひとつ。位相の誤差を相殺する」「彼女からは見えないってことですか」「可視光下では見える。遠距離センサーでは検知できない。わたしたちからも」ということは長門と喜緑さんの監視下にないってことか。この二人から離れないようにしないとな。「では、朝比奈さん、お願いできますか」「あ、はいはい」「元の時間から十五分後にお願いします。それからすぐ、その十分前に戻ります」「はい?二回移動するんですか?」「ええ。お願いします」全員が朝比奈さんを囲む輪になった。まわりの映像が三色の絵の具を混ぜ合わせたように渦を巻いた。
映像が止まり、俺たちはドリーム前に現れた。それからすぐコマ送りのように映像が動いて、再び止まった。十分前くらいだからほとんど何も変わりはない。「皆さん、下がっていてください」なにが起るのかと俺たちはあとずさった。長門と喜緑さんは、俺たちが現れた場所の地面に奇妙な絵文字を描き始めた。なんだろう、魔方陣だろうか。 それから二十分くらい過ぎたとき、突然白い光が瞬いた。何が現れたのか見ようと、俺は手をかざした。球状の白い光の中に人の影が見える。もしかしてあいつか。影が実体化するのを見届けると、長門と喜緑さんはその影に向かって呪文を唱えた。まわりの空気が絶対0度に凍りついたような、ミシミシと北極海の氷山がこすれるような音がした。次の瞬間、影が粉々に割れ、カケラとなって飛んだ。 「死んだのか」ふと口をついて出た。「いいえ。逃げられましたわ」「……ダメージは、与えたはず」つまり、元の時間から十五分後に到着した俺たちはフェイントだったのだ。あいつがそれを検知してここに来たときには俺たちは十分前の過去に飛んでいる。そして十分の間に用意していた長門と喜緑さんの呪文を浴びた。そこにいると思って来てみたら後ろから襲われたようなものだ。この十分間は敵に罠を仕掛けるための時間だったのか。 「次からは、いきなり現れて襲ってくることはないでしょう」やれやれ、この二人がいなかったらどうなっていたことか。俺は安堵のため息を漏らした。情報生命体の怖さは、一度ならず二度も襲われた俺が身に染みてよく知っている。人間ごときが立ち向かえる相手じゃない。 「あれ。ってことは、あいつはこの時間軸にはいないんですか」十分前に飛んだとき現れなかったということは、それより過去にいなかったということで、そうなるよな。「ええ。こことは別の次元から来ているようですわ」もうひとつ、別の世界ですか。そこに時間もからめて、またややこしい。
「……周辺分子の構成情報を修正する」 長門と喜緑さんは、情報生命体αが壊した道路の後始末をしていた。こんな、途中で頓挫した道路工事みたいなありさまが人の目に触れると新聞ネタになりかねん。呪文を唱えると元の風景に戻った。
俺たちはとぼとぼと、徒歩で谷川氏の屋敷を目指した。朝比奈さんに夙川公園を案内するのはしばらく先になりそうだ。朝比奈さんもこんな気分じゃ、観光どころじゃないだろう。 「あれっ、あれなんでしょう?」お屋敷が見えてきたところで朝比奈さんが指差した。門の前に妙な車が止まっているのが見えた。近づいてよくよく見ると、車ではなくソリだった。六頭立てのトナカイが引いている豪華なやつだ。本物のトナカイまでいる。鹿の分際でうさん臭い目で俺を睨んだ。というか日本にトナカイっていたっけ、と常識的な疑問が浮かぶと同時に嫌な予感がした。またハルヒのとんでもイベントがはじまったんじゃないのか。しかも今のハルヒは放っておくとなにをしでかすか分からん状態にある。 門を入ると、この時期よく見かける腹の出た赤服爺さんが立っていた。どっかのデパートからやってきたバイトのあんちゃんにしては年季が入りすぎている。このモフモフ動いている白いヒゲは本物じゃないのか。 「とうとうやりましたね」古泉がくっくっくと、こらえきれない笑いを漏らしていた。朝比奈さんも喜緑さんもクスクス笑っている。俺はハルヒに向かって叫んだ。「おいハルヒ、なんでサンタクロースがいるんだ」「あんたまさか、サンタクロースの存在を疑ってるの」ハルヒは俺を信じられないといった目で見た。「いや俺が言ってるのはそういう問題じゃなくてだな」ハルヒは満面の笑顔を浮かべてサンタクロースの腕を取った。「見て見て本物のサンタよ、国際サンタクロース協会のシニアサンタクロースよ」「わざわざグリーンランドから呼び寄せたのか!」「何固いこと言ってるの、クリスマスでしょ」「だからって遠路はるばる北極海から呼び寄せるこたぁないじゃないか」「なによ、ちょっと願い事をしてみただけでしょ」ヒゲ面の赤服じいさんはイライラと足を踏み鳴らしている。このクソ忙しい時に呼び立てやがってと、額に油性マジックで書いてありそうだ。「は、ハロー。ウェルカムツー、なんだっけ、ニシノミヤ」俺は壊れまくっている英語に、壊れまくって引きつっている愛想笑いでなんとかごまかそうとした。爺さんがなにごとか喋ったが、どうも聞き取れない。英語じゃなさそうだ。ええと、グリーンランドって確かデンマークだっけ。誰かデンマーク語が分かるやつがいたら今すぐ連絡をもらいたい。時給千円税込みで通訳のバイトさせてやる。英検四級並みでもいいぞ。 「God dag. Mit navn er Yuki Nagato」長門が爺さんに話し掛けた。ぐっじょぶ長門。こいつならデンマーク語くらい楽勝だろう。今すぐ友好通商会談を開いてもいいくらいだ。さっきから白い眉毛とヒゲをピクピクと動かしていた爺さんの表情が少しやわらいだ。やれやれ。 「なんて言ってるんだ?」「……いきなり呼びつけられて迷惑している、と」「すまんが、かわりに謝っておいてくれ」「……年に一度のイベントで忙しいのに、八時間を無駄にした、と」どうやらタダで帰すわけにはいかないようだ。このイライラのまま帰して日本のイメージが悪くなりでもしたら、子供たちにプレゼントをくれないかもしれない。「部屋に案内してくれ。お茶でも出してもらうから」俺は先に屋敷に入っておばあちゃんを呼んだ。谷川氏はいないようだった。「おばあちゃん、申し訳ないんですが緊急にお客様が見えました」「へえ、誰だい?」「おばあちゃんもよく知ってる人です」帽子を脱ぐと意外にも背の高い赤服爺さんが、ブーツを脱いで入ってきた。「おんやまあ!」おばあちゃんが仰天した。「コンニーチワ」おばあちゃんの手をとってうやうやしく口付けをした。このサンタ、日本語の挨拶くらいは分かるのか。「この人って本物なのかい?」「ええ。グリーンランドから来た本物のサンタクロースです」「そいつぁまた唐突だね、見えると分かっていたらお化粧して待っていたのに」おばあちゃんは手ぬぐいで顔を隠した。憧れの海軍将校青年を目の前にしたお下げの女子学生みたいに、おばあちゃんの頬はサンタの服よりも赤くなっていた。「ハルヒ、おばあちゃんを手伝ってお茶をお出ししろ。長門は通訳を頼む」「分かったわよ」「……ニコラウス氏がトナカイにエサをやってほしいと言っている」俺は鹿の世話か。まああとのことはこいつらに頼んどこう。トナカイの気持ちなら多少は分かるかもしれない。ええっと牧草ってどこで手に入れればいいんだ。庭の芝生でも食わせとけばいいか。
ところが騒ぎはそれだけではなかった。庭のほうからなにやら動物園のような叫び声というかわめき声というか、遺伝子がうずきだしそうな原始的な鳴き声がする。いや、していたというべきか、サンタの襲来のせいでそれどころではなかったのだ。庭に行ってみるとそこには魑魅魍魎、珍獣奇獣図鑑に載ってそうな連中がウヨウヨしていた。ドードー鳥なんて絶滅したはずだろう。いくらなんでもサーベルタイガーはまずいって。T-REXだけはいないようだ。こいつら、どこかに返却する必要があるんだろうなあ。博物館でもいいから引き取ってくれないかなあ。 屋敷の前に車が止まった。谷川氏が帰ってきたようだ。入ってくるなり口をあんぐり開けて、そのままそこで化石のように固まっている。「谷川さん、申し上げにくいんですが。ハルヒのやつ、やっちまいました」二、三度瞬きをしたかと思うと笑い出した。「こんな珍妙な動物園ははじめて見たね」そりゃそうだ。絶滅種ばかりの動物園なんて、世界中どこを探してもあるまい。そもそも生きていたら絶滅種とは言わん。「キョン君、こいつらの名前言えるかい?」自慢じゃありませんが、小学生の頃に古代生物の図鑑を暗記するくらい読みましたから。「あれれ、始祖鳥がいるじゃないか。羽を一枚もらっとこう」松の木の枝にとまっている、鳥みたいなトカゲもどきみたいなやつがいた。噛みつかれないよう気をつけてくださいよ。そいつは小さいけど鋭い歯と鉤爪を持っていますから。俺は動物にたわむれる谷川氏を写真に撮ってやった。って和んでる場合じゃないんだ。ご近所から保健所に通報されでもしたら一大事だ。「喜緑さん、朝比奈さん、ちょっと」俺は台所にいた二人を呼んだ。朝比奈さんは庭の様子を見て目を丸くし、ケラケラと笑った。「涼宮さんも楽しいことを考えつくんですね」「お手数なんですが、こいつらを元の時空に戻してもらえませんか」「おやすい御用ですわ」喜緑さんも微笑んでいる。この程度のハルヒの珍事ならなんでもないというふうだった。喜緑さんが時間と場所を教えて、朝比奈さんが一匹ずつ送る、というのをやってもらってようやく庭が片付いた。ついでにハルヒもジュラ紀あたりに送ってしまえばいい。さて、糞やら鳥の羽やらにまみれた庭を掃除するか。
ニコラウス氏は熱燗の日本酒を煽ってほろ酔い気分になったところで、北海へご帰還の途についた。長門とおばあちゃんのおかげで、デンマークとの外交問題は平和裏に幕を閉じたようだ。日本酒が気に入ったようで、来年もまた来ると言っていた。トナカイだけは最後まで機嫌が悪かったが。日本の芝はそんなにまずかったか。 「いろいろ試してたんだけど、ひとつだけかなわない願いがあるのよね……なぜかしら」ハルヒがブツブツ言っていた。そんなことは俺の知ったことじゃない。お前、魔法はやたら使うもんじゃないとか説教垂れてなかったか。「ハルヒ、願い事をするときは前もって相談しろ」「なんであんたにそんなことを言われなくちゃならないのよ」「お前の尻拭いで三人が苦労するのが目に見えてるからだ」つい、言ってしまった。率直に言いすぎたかと思ってハルヒを見た。「分かったわよ……」今回だけはおとなしく納得したようだった。まあハルヒが本当に望むなら、俺なんかに相談したりしないで独走するだろうが。
サンタと珍獣奇獣召喚の騒ぎが一件落着して、食堂のテーブルでお茶を飲んでいた。喜緑さんを泊めてくれるようおばあちゃんに紹介したが、ひとり増えたくらいどうってことないさね、と笑顔で承諾してくれた。 俺は誰にも聞こえないところまで谷川氏を連れて行って言った。「今ちょっとややこしい事態なんです」「だろうね。考古学者が見たら卒倒しそうだ」「ハルヒはなんとかなるんですが、もうひとりの長門みたいなやつが現れて、俺たち襲われたんです」「もしかして異時間同位体の有希ちゃん?」「異次元、らしいです。別世界の長門みたいなやつで」「なんてことだ」「長門が言うには例の文庫はそいつらの仕込みだろうということなんですが」「どう考えても友好的な接触じゃなさそうだね」「ええ。それで喜緑さんに助けを求めたわけなんです」「なにか僕にできることがあるかい?警備会社を呼ぶとか腕っ節の強い用心棒を雇うとか」「相手が相手なんで、ふつうの防護策は効かないでしょう。長門と喜緑さんに任せたほうがいいかと」「それもそうだね」「長門のなんとかスクリーンのおかげでごまかせてはいるみたいなんですが」「対情報操作用遮蔽スクリーンだね」「それです。ともかく、今は様子見で」「分かった。もしものときは僕に任せたまえ」谷川氏は胸をドンと叩いた。頼もしい父親の顔を見て俺は安堵した。
古泉が飲んでいたお茶を突然吹いた。慌てて廊下を滑って走っていった。かと思うと、また戻ってきて俺に耳打ちした。「神人です」「また出やがったのか。ハルヒもタイミングの悪いときに出すやつだな」「涼宮さんに頼みましょう」「あいつは今どこにいるんだ」「離れで寝ているはずです」昼寝かよ。昼間っからいい気なもんだな。「おい、ハルヒ起きろ」俺は襖を開けて怒鳴った。ハルヒはコタツに潜り込んで眠っていた。肩を揺すったが起きやしない。顔にマジックでいたずら描きしてやろうか。耳を引っ張ってもう一度怒鳴った。「ハルヒ、火事だぞ」「うーん……消えたら教えて……」「頼むから起きてくれ」俺はハルヒの鼻をつまんだりほっぺたをつまんだりしていた。結構楽しいぞ、などと思っていた俺は油断していた。ハルヒが腕を伸ばして俺の首に絡めてきたのだ。ハルヒの呟いた言葉に驚愕した。 「ん……ジョン……」これ、聞き間違いだよな。絡めてきた腕にギュッと締め付けられた。うわ、ハルヒの口から流れていたよだれが俺の顔にべっとりついた。まさかこの唾液で顔が溶けたりしねよーな。 後ろから誰かに首根っこをつかまれた。長門か、朝比奈さんか。ではなかった。「げっ、お、おばあちゃん」「キョンさん、眠ってる女の子においたはだめだよ。けへへっ」俺はなにもしてませんって。むしろ襲われたのは俺のほうなんで。「人が気持ちよく昼寝してんのに、なに騒いでんのよ」ハルヒが目をこすりこすり起き上がった。おい、よだれ拭け。「涼宮さん、可及的早急なお願いがあります」「なあに古泉君」「あれです」古泉は窓の向こうに見える山を指差した。青空を背景にしているので目立たないが、神人がぼんやりと突っ立っている。「あらっ、また出ちゃったのね。きっとあたしに会いたいのよ。かわいいやつだわ」ハルヒは、まるでペットにじゃれられている飼い主みたいな面持ちで神人を見ていた。それどころじゃないんだが。「ハルヒ、今すぐあいつを消してくれ」「どうしてよ。あれはあたしのよ」「ほかのときなら止めはせん。今はどうしてもまずいんだ」「しょうがないわね。えっと、あれ、どうやって消せばいいのかしら」ほかの三人が考え込んだ。あれを消せるのは確かにハルヒ本人だが、どうやって消すのかまでは知らない。古泉が立ち上がって外に出ようとした。自力で消しに行くつもりなのだろう。 「消えるよう念じてみろ」「分かったわ」ハルヒはこめかみに指を当てて、眉間にシワを寄せて唸った。「うーん。どうかしら」「消えませんね」「もう、世話が焼けるわね」ハルヒは部屋を出て、外にあった下駄を履いて庭に出た。空を指差して叫んだ。「ちょっとあんた!今は都合が悪いから消えなさい」神人がじっとこっちを見た。おまえが呼んどいて消えろはねえだろ、とでもいいたげだった。「ねえ、あとで遊んであげるから戻りなさい」戻るつったって、壷から出てきたわけじゃあるまいし。神人は背中を曲げてうなだれ、手を振って消えていった。青い光が四方に散った。やれやれ、今日が快晴でよかった。 「キョン、あとで謝っときなさいよね。かなり残念がっていたわよ」そういうのは飼い主のお前がやることだろう。
俺は長門と喜緑さんに小声で話し掛けた。「あれ、あいつに見られたよな」あいつってのは情報生命体αのことだ。「……そう」「しばらく警戒が必要ですわね」長門と喜緑さんは門のほうへと歩いていった。俺もついていった。重たい木戸を閉めてかんぬきをかけ、通用口から外に出た。「……区画一帯をフィールドで包む」長門は屋敷に向かって詠唱を始めた。手のひらから風船のような薄い膜が広がり、二十メートルくらい膨らんで見えなくなった。それ以外は特に変化はなかったが。「これでしばらくはごまかせるはずですわ。谷川さんにも、おばあちゃんにも迷惑はかけられませんものね」谷川氏にもしものことがあったら、作者がいなくなって俺たちの存在が危うくなってしまう。おばあちゃんにもしものことがあったら、飯が食えなくて俺たちの存在が危うくなってしまう。 とりあえず安心した俺は通用門に入ろうとした。そのとき、よく知っているはずの誰かの存在感を感じて後ろを振り返った。
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