思い込みと勘違い
例によって例のごとく、今日も部活。あたしは団宛てのメールをチェックしている。ごみメール以外の新着はなかった。ごみメールはキョンが額に汗して設定した迷惑メールフィルタとやらで、ごみメールっていうフォルダに入ってる。金貸し、出会い系に始まり、怪しすぎるクスリの個人輸入斡旋とか、宅配エロビデオサービスとか、裏動画見放題サイトとか、エロやらアングラやらで社会の底辺層にアピールする広告ばっかり届いてる。 日本語だけならともかく英語のメールやら何語だかわからないメールまで届くってのはおかしくない?大抵は中身を見ずにまとめて消しちゃうんだけど、まれにごみメールになにかお宝があるかもしれない。ちょっと読んでみるのもいいかもしれない。あたしはそう思ってごみメールを読み進めている。いま部室にいるのはあたしとキョンだけ。有希はコンピ研に出稼ぎに行ってて、古泉くんはまだ姿を見せてない。みくるちゃんはお茶の葉を切らしたってことで、ちょっとお使いにいってきま~すって出掛けちゃった。当然メイド姿で出掛けたわ。キョンはあっけに取られてたけど。あいつは長テーブルに陣取って、雑誌をぱらぱらめくったり、携帯いじったりしている。でも、なんか眠そう。授業中寝てたってことはなかったはずだけど。「あんた眠いの?」「ちと寝不足でな」あいつはそう言いながら、大きなあくびをひとつした。「毎夜毎夜、いかがわしい行為に没頭してんじゃないでしょうね?」「何のことだか」キョンはしれっとした顔でそう言った。「エロDVDでハァハァしてたとか、エッチなゲームで泣いたりとか、そういうことよ」キョンはやれやれといった表情で肩をすくめた。「誤解も甚だしいぞ。これでも試験勉強ってものにも手をつけてんだぜ?」「ほんとに? 信じらんないけど」「今度の期末で赤点取った日には、確実に塾確定だぜ」キョンはいかにもねむたげな顔で言う。「ま、それを回避すべく、他に手も打ってるしな」「ふーん。ま、赤点なんか取った日には、とっても怖い罰ゲームが待ってるわよ。心して掛かりなさい」「ちなみにどんな内容だ?」キョンは雑誌に目を落としながら言った。「ピンクの全身タイツ着て、商店街走り回れとか言うんじゃねえだろうな?」「そんなんじゃ生ぬるいわ。一生消えないような心の傷が残るようなものよ」なんて言ってはみるものの、いまんとこ思いついてもいないんだけど。「そうかそうか。そうなった暁には即難民申請して国連あたりに保護してもらうとするさ。希望地はオーストラリアがいいな」キョンは呆れたといわんばかりの口調で言った。 「そんなの申請しても、即却下されるに決まってんでしょうが」「何事もやってみなきゃわからんってのは、お前の口癖じゃなかったか? しかし古泉来ねえな。またバイトでも忙しくなったか?」「知らない。聞いてないし」「そうか」それでキョンはまた雑誌を読み始めた。このメールを表示するためにはフォントが必要ですってパソコンが言うから、その通りにしたらアラビア文字が表示されてがっくり。どっちにしろ読めないじゃないの。無駄なことをしちゃったわ。「すいません、遅くなりました」そうさわやかな声が聞こえた。古泉くんが部室に入ってきた。いつもと同じ柔らかい物腰と、穏やかな微笑は変わらない。もちろん、謎の転校生特有のミステリアスなムードもあるし、ちゃんと団に貢献もしてくれてる。おまけにあたしのタイプじゃないから、私情が混ざらないってのも高得点。それに引き換え、あいつはまるで駄目。古泉くんとはまったくの正反対。ホントどうにかならないものかしら?「例の物、持ってきてくれたか?」のんきな調子でキョンが古泉くんに尋ねている。「ええ。もちろんです」古泉くんはそう言って、カバンの中から平べったいプラケースを取り出すと、キョンに渡した。「すまんな。恩に着るぜ」「あなたにはいろいろお世話になってますからね、これぐらいのことは当然ですよ」変な会話。逆じゃないの? キョンってば、なんにもしてないじゃない。リーダーシップを発揮してみんなを引っ張って行くとか、雑用係として諸般の問題を解決するとか、一切なにもしていない。 でもその割りには、みんなに信頼されてるように見えるのはなんでなのかしら?そもそもそのケースの中身はなんなのよ。まさかエロ動画の詰め合わせが入ったDVDなんかじゃないでしょうね?今は古泉くんの手前流しとくけど、あとでしっかり問い詰めておかなきゃね。団の風紀にかかわる問題だわ。「どうかしたのか? 怖い顔で睨んで」おとぼけ顔のキョンがあたしにそう言った。「なんでもない」あたしはあわててゴミメールを削除する作業に戻った。半年ぐらい前の日付で、MAILER-DEAMONって謎の差出人からメールが何通か届いていたわ。メールが配信できなかったって英語で書いてあるんだけど、これ一体なに? そもそもMAILER-DEAMONって誰?キョンを呼ぼうと思ったけど、ドアをノックする音が聞こえた。相談者かもしれないから、この件は後回しね。
「どーぞー」出来るだけかわいい声を意識しつつ、そういった。おずおずって感じでドアが開いて、みくるちゃんが中に入ってきた。なーんだ。つまんないの。「ただいま帰りました~」みくるちゃん、ちょっと汗かいてるわね。そろそろ涼しげな素材探して、メイド服夏バージョンを作ろうかしら。いまは透け透けがトレンドよね。裏地レースで飾ってあげればちょっとセクシー感も出せるし、きっとみくるちゃん喜んでくれるわ。 「すぐお茶いれますからね?」笑顔をふりまきながら、みくるちゃんは流しの前に立った。みくるちゃんは手際よくやかんに水を入れて、コンロに掛けてる。「ついでにお茶受けも買ってきちゃいました~」「お疲れさま。で、なに買ってきたの?」あたしはみくるちゃんに声を掛けた。「あま~いチョコレートでーす」「そうなんだ」「すぐ食べますか?」みくるちゃんがコンビニ袋からチョコレートの箱を取り出した。なんかそれ高そうに見えるけど? 部費にも限りがあるのよ?「おつとめ品で安かったんです」みくるちゃんは箱を開けながら言った。「ああ、そう」「そうなんです」みくるちゃんは笑顔で答えて、あたしにチョコの箱を差し出した。「お先にどうぞ」「ありがと」箱から個別包装されたチョコレートを摘んだ。なんかかわいいわね。あとであたしも買おうかしら。「キョンくんもお一つどう?」みくるちゃんはキョンに箱を差し出した。「ありがたく、いただきます」キョンはニヤニヤ下品な笑顔を浮かべながら言ってて、イラっとするわね。まったくニヤニヤと楽しげに、前から思ってるけどその笑顔が一番ムカつく。バーカ古泉くんが咳払いすると、キョンは不満顔を一瞬浮かべたけど、笑顔をやめてチョコレートをひとつつまみ上げた。そう、それでいいのよ。「古泉くんもどうぞ」「ありがとうございます」古泉くんは爽やかな微笑みを浮かべながら、チョコを手に取った。みくるちゃんは長テーブルにチョコの箱を置いてから、スカートをひるがえしてヤカンの前に立った。そして温度計をやかんに突っ込んでにらめっこを始めてる。「なかなか美味しいですね。これ。最近のお菓子はクォリティが高い」「そうだな」そういってキョンはまたチョコの箱に手を伸ばした。「スィーツブームだしな」まったくもう一個どうかとかあたしに勧めるとか、そういう気配りはないのかしら。まったく、気利かないんだから。キョンは包装をぴりぴりと破くところであたしの視線に気づいたみたい。あたしをじっと見つめて、やれやれといった表情を浮かべた。「な、なによ」「欲しいのか?、これ」キョンはややうんざりという表情を浮かべながらそう言った。「別にぃ」なんか考えてたことを見抜かれたみたいでとっても恥ずかしい。照れ隠しにそっぽ向いたりしなきゃいけないじゃない。部活中でしょ、みんないるし、すこしは自重しなさいっての。ったく、バカ。「ハルヒ」不意に名前を呼ばれて、キョンと視線が合う。これじゃまるでパブロフの犬みたいじゃないのよ。「ほれ、行くぞ?」キョンはそう言って、あたしに向かって裸のチョコレートをトスした。きれいな放物線を描いたチョコを、あたしはいつものように口で受け止めてしまった。「ナイスキャッチ」古泉くんが微笑み二割増しでいった。「さすがです」「すごいですねぇ」コンロの火を止めながら、みくるちゃんが言った。「練習とかしてるんですかぁ?」「してないわよ! いまのはたまたま。マグレよマグレ」「そうなんですか? 初めてで成功するなんてすごくないですか? 息ぴったりってことじゃないですかぁ」みくるちゃんの言葉に、なにも言い返せないあたしが情けない。タスマニアデビルに襲われてから毎晩体がうずいてしかたない女子大生が登場するエロメールは、結構面白かったわ。でも、旦那が二次元方面に失踪した主婦のエロメールもなかなか負けてなかったわ。 次は、コモドドラゴンの子供を孕んだ主婦なんてどうかしら? 面白いと思うけど。「はい、お茶です」みくるちゃんが熱々の湯のみをあたしの机に置いた。「はい、キョンくんと古泉くんもどーぞ」みくるちゃんは二人の湯のみを長テーブルにおいて、キョンの隣に腰をおろした。「長門、遅いな」キョンがなんか心配げな口調で言った。「あいつはコンピ研でなにをやってんだ?」「なんか天蓋方向に絞ってSETIじゃなくて、CETIを試してみるための作業をするとか良く分かんないこと言ってたわ」そうあたしが答えると、キョンは怪訝な表情を浮かべた。「なに? なんか思い当たる節でもあるの?」「いや、天蓋方向って意味すら分からん」キョンはなんか誤魔化すように言って湯のみに口をつけた。「まあ長門さんの趣味ということでしょう」古泉くんは意味ありげな表情を浮かべつつ言う。「多分彼女にとって非常に重要な意味を持っているということでよろしいのでは?」 「ま、そうだな」キョンはほっとしたように言った。「そういうことだ、ハルヒ」ぜんぜん会話の意味についていけてないみたいで、あたしはちょっと不愉快なんですけど。どっちにしろ、あの子の趣味でとっても重要な意味をもっているってことなら、暖かく見守ってあげればいいこと。いらぬおせっかいは不要だかんね、キョン?「ん? 分かってるさ」キョンは無意味に笑顔を浮かべながら言う。「大丈夫だ」すべてのごみメールに目は通したけど、収穫はゼロ。ま、話のネタぐらいにはなりそうだけど。ドアが静かに開いた。誰?と思ったけど、あの立て付けの悪いドアを静かに開けられるのは、有希だけ。キョンはお前が乱暴に開けるからそうなったんだっていうけど、最初っからおかしかったのよ。有希は足音を立てずに部屋に入ってきた。「なんか収穫はあった?」あたしは有希に声を掛けた。有希は首をかすかに振るだけ。喋る気にならないぐらい収穫なかったんだ。あたしと同じか。そのまま有希は帰り支度を始めた。なぜか有希が帰り支度を始めると、あたしもそうしなきゃって思うのよね。みんな同じみたいで思い思いに帰り支度を始めると、計ったように下校のチャイムが鳴った。あたしたちを監視してるとしか思えない。どうせあのいやらしい生徒会長が仕組んだ陰謀ってやつよ、きっと。キョンと古泉くんが先に部室から出るとみくるちゃんの着替えタイムになった。みくるちゃんたら、結構セクシーなのつけてるじゃない?「スカート短いし、黒だと見えにくいかなーって」みくるちゃんは恥ずかしそうにいった。「なんだ実用重視の結果?」「それだけじゃなくて、黒ってなんか大人って感じで」みくるちゃんは嬉しそうに言う。「ちょっと気分いいですよ」「あーそうかもしんない」「長門さんはどうですか?」「下着は白または薄目の色が適している」有希はそっけなく言う。「黒は下着の色としては不適切」みくるちゃんはにこにこしたまま着替えてる。なんか大人の余裕さえ感じさせるわね。でも、素足にミニスカートってなんかエッチくさい。今度、試してみようかしら。「有希はシマシマが多いけど、あれはそういう理由?」とあたしは有希に尋ねた。前から疑問に思ってたのよね。「違う」「じゃなんですか?」セーラー服に着替え終わったみくるちゃんが言った。「安いとか?」「………単なる嗜好」有希のことだから、なんか違う理由でもあると思ったけど。「おーい、まだか?」のんきなキョンの声が廊下から聞こえてきた。「いま、行くわよ!」あたしは大声で答えた。5人で集団下校って構図は二年になっても変わらない。しかし、新入部員はいつ入ってくるのかしら。これはこれでまとまりがあると思うんだけど、いつまでもあたしが団長を続けていくことは出来ないんだし、真剣に後継者探しってのもしないといけないと思うのよね。 「ほう。後継者か」キョンはすこしだけ興味ありそうな表情で言う。「しかし、お前に育てられるのか?」「失礼ね。ちゃーんと育てたじゃない」「誰をだ?」「みくるちゃんよ、いいドジキャラに育ったでしょ?」「……まあ朝比奈さんには素養があったってことだよな」「なによ、その言い方。まるであたしがなにもしてないように聞こえるじゃない」「そうか?」「そうよ」そのまま会話らしい会話もなく、解散場所に到着した。「じゃ、また明日~」元気に手を振りながらみんなと別れた。いつの日にかみんなと離れ離れになる日も来るんだけど、そのときもきっと笑顔で別れられたらいいと思う。その日までにはなにがなんでも不思議を発見しなきゃいけない。最近なんだかんだでちょっとたるんでるけど、そろそろまた兜の緒を締めなおさなきゃいけないと思うのよね。 「テレビなら毎週不思議を発見してるんだがな」とキョンが言う。眠そうにあくびなんかしてる。「あれはクイズでしょ。あたしたちが探してる不思議に比べれば単なる日常じゃない」「テレビの力でさえ見つからないようなもん見つけようとしたら、そりゃ時間もかかるだろう」「卒業までに絶対見つけなきゃ。そうでなきゃお天道様に顔向け出来ないわ」「そうか。ま、肩の力を抜いて楽にしろ。時には休息も必要だと、お天道様も言っておられる」キョンと二人で肩を並べて歩き出した。帰る方向はぜんぜん違うんだけど、別に遠回りして帰ってもいいじゃない。毎日二人で遠回りしているのは、みんなに隠してるつもりはないけど、別に言う必要もないから言ってない。聞かれれば当然答えるけど、聞く人がいるわけでもないしね。あたしとキョンが付き合ってるなんて思ってる人はそうそういないってことね。ガードレールがある歩道を二人で歩く。車の往来が結構あるのよね、ここ。キョンがいつも車道側を歩くのはどういう理由なのかしら。車道側が好きなのかしら? それともなんかの宗教上の理由かしら。まあどうでもいいんだけど。「あ、そうだ。古泉くんになに借りたのよ。まさかエッチな画像詰め合わせとかじゃないでしょうね?」「古泉とは趣味が違う……そうじゃねえ。真面目な代物さ」「中身はなんなのよ?」「お前に言うと面倒になりそうでな。極秘ってことにさせてもらおう」「なによそれ。ますます怪しい」「怪しまず、捨て置け」キョンはしれっとした顔で言った。「本気で怪しいわね。ちょっと、それ出して見せなさい?」キョンはぶつくさ言いながらカバンを開けて、平べったいケースを取り出して、あたしに渡した。蓋を開けてみると、なにも書いてないDVDだかCDだかが入っていた。なんか書いてあればともかく、いかがわしい匂いがぷんぷんするわ。まるで栗の花の匂いとか立ち込めてきそうで、気持ち悪いぐらいよ。 「なによこれ」「見て分からんか、DVDだ」キョンがうんざりした表情で言う。「やっぱりそうなんじゃないの。これ検閲させてもらうから」「そういうんじゃねえっていってんだろ。もう、返せ」キョンの手が伸びてきてケースを掴んだ。思ったより強い力ひっぱられて、あたしびっくりしてケースを放しちゃった。勢いの付いたケースはキョンの手も離れて、くるくると回転しながら車道に飛んでいった。あ、やば。そう思った瞬間には、トラックが通り過ぎてケースをこなごなにしてしまった。車がいなくなったときを見計らって、キョンがケースを回収してきたけど、ぼろぼろのぐちゃぐちゃ状態。当然中のDVDはひび割れてて、これじゃ再生できないわね。まあいい気味っていえばいい気味なんだけど……「……まいったな。これじゃ見られんな」眉をひそめつつキョンが言った。なんかちょっと後ろめたいわね。あたしは100%悪くないはずなのに、なんで気分が重いのかしら。「ま、しょうがねえか」キョンはさばさばとした表情で、ゴミになってしまったケースをしまいこんだ。「また古泉に頼むとするか」そのまま無言で歩き始めた。キョンは気にも留めてない風で、その態度がなぜかあたしの胸をチクチク刺してる。なんかいたたまれない気分になるわね。そういういかがわしいビデオを彼氏が見るってことを喜ぶ彼女なんていないと思うし、キョンもそれぐらい分かってて当然でしょ。そもそもそういう方面での進展ってぜんぜんないじゃない。キスどまりだし、そもそも最後にキスしたのってこの前の土曜日じゃない。 今日は火曜日だから、つまり二日もなにもなし。男ってチャンスがあれば、キスしたがるもんなんじゃないの? キョンってひょっとして奥手なのかしら。となれば、あたしがリードしてやらないとダメってこと? 「じゃ、またな」いつもの調子でキョンが言った。あたしはとっさにキョンの手首を掴んだ。言葉がなにも出ない。どうしよう? こんなところでオタオタするなんて自分でも意外よ。「どうした?」「……さっきのDVD悪かった。だから、家に来て」われながら支離滅裂じゃない。なに言ってんだか自分でも分かりゃしないわ。「え?」戸惑ってるキョンの声。「一体なんの話だ?」「いいから、来なさい」あたしはキョンの手首を掴んだまま、家へと歩き出した。幸い家には誰もいなかった。母さんは買い物かな。冷蔵庫のメモがそれを裏付けた。帰宅はだいたい6時頃か。今からだと二時間はあるわね。冷蔵庫からアイスコーヒーを出して、やけに落ち着いた表情のキョンにリビングから一歩も出るなと言ってから、あたしは自分の部屋に上がった。まずはシャワー浴びなきゃ。タンスの引き出しから、一番新しくてかわいい下着を出した。ブラはいいわ、キャミとパンツだけでいい。えと、なに着ようかしら。汚れるかもしれないから、洗濯機ですぐ洗えないものはダメよね。あーもう面倒よ。部屋着にしてるぶかぶかTシャツとショートパンツでいいわ。階段を駆け降りて、おふろ場に向かう。脱衣所ですばやく制服を脱ぎ捨てる。髪濡らすと面倒だから、タオル巻いちゃえ。浴室にはいって、ちょっと熱めのシャワーを浴びてから、ボディソープを手にとって全身に塗り付けた。手のひらで全身ていねいに洗ってからシャワーで流したらもうokよ。ここから出なくちゃ。自分でも驚く程の速度で体を拭いて、新しい下着を身につけた。それからショートパンツ履いて、Tシャツを被った。深呼吸を二回してから脱衣所を後にした。頭に巻いたタオルを思い出してあわてて脱衣所に戻った。ホントあたしどうにかなっちゃいそうよ。緊張が止まらない。リビングに入ると頬杖ついたキョンがTVを見ていた。なんで時代劇なんて見てんのよ?「ん、好きなシリーズでな」キョンはあたしのほうを見ずに言った。「やっぱ銃撃戦より殺陣だろ」「あ、そ」あたしはそう言って、キョンの隣に座った。緊張のあまり目が回りそう。なんて言えばいいのかしら。「DVDの変わりにあたしと、どう?」「なに?」キョンが驚いたようにあたしを見た。「だから、DVDの変わり、あたしがやったげるっていうの」初めてだからビデオみたいにうまくいくなんて思わないでよ。「初めて? そんなことはねえだろう? ま、最初から頼めば済んだ話かも知れないが、あとでぶつくさ言うなよ」やだ、中学時代の事?。説明はしてないけど、なんにもなかったってのに。初めてなのに。「なにぶつくさ言ってるんだ?」キョンはきな臭い顔であたしを見て、驚いたように眉をひそめた。「なんて格好してんだ、お前は」「え、シャワー浴びたから。これ部屋着だし」「だからってTシャツ一枚はねえだろ。不用心にも程があるぞ」「ちゃんと下も履いてるって」あたしはTシャツを捲って証拠を見せた。「ほら」キョンは唖然とした表情を浮かべて、やれやれといわんばかりに頭を振った。「なんというか、恥じらいとか奥ゆかしさとかそういう大和撫子的な部分はねえのか?」「エロDVDでハァハァしてる奴に言われたくないわよ」「その思い込みの激しさもなんとかならんのか?」うるさいわねえ、まったく。母さん帰ってくる前にちゃっちゃと済ませましょ。それでいいでしょ?「俺はかまわんが、本当にいいのか?」「いつかはこうなるんだったら、別に今日でも同じことよ」「意味がわからんのだが・・・」「ほら、ボケボケしてないで、あたしの部屋に来なさい。ここでするつもり?」「ここでも構わんだろ?」「変態! 黙って言うこと聞きなさいっての」あたしは訝しむキョンを追い立てた。結局はあたしの勘違い。古泉くんに借りたのは予備校の授業を収めたDVDだったってオチ。古典的なラブコメを演じちゃった。まあ結果オーライってことで良しにしとくしかないわね。「でも、それならそうと言えばいいのに」どこか疲れた顔のキョンが言う。あたしもなんか体がだるいっていうか、なんか変な感じ。ふわふわ空中を歩いてるような感じよ。いまは二人でガラステーブルを囲んでお勉強中。キョンって頭悪いんじゃなくて、単に勉強しないから成績がパッとしないタイプなのよね。いまさらながら実感したわ。 「言うとまず確認してからなどと言い出しかねんからな」シャーペンをくるりと一回転させながらキョンが言う。「そりゃ当然じゃない」「そうすると、勉強どころの騒ぎじゃなくなるからな」「大体、勉強だったら、あたしが教えてあげるってのに」「メガホンでパカパカ頭殴られながら、勉強する気にはならんぜ」「いつ、あたしがそんなことしたってのよ?」「してないが、しかねんだろ」キョンはしたり顔で言った。あたしはムッっとして、キョンの額を指で弾いてみた。ペチって情けない音がなんか可愛い。「痛えよ」ちっとも痛がってない顔でキョンが言う。何度もキョンの額をペチペチ指で弾いてみる。キョンの目は優しく、どこか寂しげに見える。なんで? こんなに近くにいるのに、なんで寂しげなのよ。「・・・そろそろ帰らなきゃいかんしな」それもそうねえ、もうちょっとで母さん帰ってくる時間だし。親父帰ってきたら、タダじゃすまないかも。「脅かすなっての」真顔でキョンが言った。やだ本気でビビってんの? ちょっとヘタレてない?「ま、二人でしっかり勉強してたって事でいいじゃない」「なんたって真面目な高校生だからな」キョンは苦笑まじりに言う。「真 面 目?」あたしはキョンをにらみつけた。「真面目な子は勉強しかしないものよ」「勉強は勉強」キョンは言葉を切った。「分かった。厳に慎むから、その拳を下ろせ。な?」「それ以上言ったら、恐怖の罰ゲームが待ってるからね?」「分かった分かった」手を広げてキョンが言う。「なにも言わねえって」携帯がぷるぷる鳴って、6時5分前を知らせた。そろそろ帰りなさいって合図。けだるい表情のキョンはカバンに教科書やらノートやらをしまった。とことこ階段を下りて、玄関までお見送り。今日はここで勘弁ね。「ああ、分かってる」キョンは名残惜しそうな表情を浮かべながら言った。「じゃね。また明日」あたしはなんか寂しくてキョンの顔をまともに見ることが出来ない。「そんな顔すんなよ」キョンの優しい声。いつも聞けるわけじゃないけど、いつも聞いているような錯覚を覚える声。その声にあたし、この一年とすこし支えられてきたかな。ずっとずっと支えてほしいなんて子供みたいなこと思っちゃう。出来れば、ずっとこのまま二人隣にいられればと思っちゃう。 「じゃ、な」キョンは背中を向けて玄関のドアノブに手を掛けた。「また明日、な」「待ちなさい」だめ、声がまともに出ない。悲しいことなんかひとつもないのに、嬉しいことしかないのに、涙がこぼれそうになる。キョンが無言で振り返った。優しい表情を浮かべている。玄関先なのに、そっとあたしを抱き寄せた。「すぐ会えるだろうに、なんで泣きそうな顔してんだよ」「バカ。泣いてないもん」あたしはキョンの胸に顔をうずめて、それしか言えない。ついでに涙拭いちゃえって思うぐらいには冷静だしね。おねだりはいつもあたしからのような気がするけど、冷静に考えればそうでもないわね。あたしはおねだりした事をすぐに記憶から消してしまうけど、唇が忘れてくれない。暖かくて優しい感触が唇に残って離れない。消そうと思ってもすぐ思い出しちゃう。パタンと玄関の扉が閉まると、家にはあたし一人きりになった。玄関に鍵を掛けるのが寂しい。あいつはすぐ会えるとか言ってたけど、それ明日の話でしょ。すぐ会えるってのはね、5分以内のことを言うのよ。まだ母さん帰ってこないし、もうちょっと居ても良かったんじゃないかしら。ま、下手に勘ぐられても困るしね。あー喉からから。なんか飲んでから、部屋でも片付けようかしら。あたしはキッチンに歩いていって、冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出した。なんかちょっと歩きづらいんだけど、これっていつ直るのかしら。ああ、別に気にしないで。たいしたことじゃないから。コーヒーをコップに注いで一気飲み。無糖のコーヒーはいつもは苦いけれど、いまのあたしにはちょうどいい。さて上に上がって部屋を片付けなきゃね。シーツも交換しないといけないし、どうやってごまかせばいいか悩むゴミもあるし。生ゴミに混ぜて捨てればいいかしら?そんなことを考えていたら、ドアベルの音がした。母さんかしら。玄関に出ると鍵を開ける音が聞こえた。やっぱり母さんね。親父はこんな時間に帰ってきたことないし。「ただいま」母さんがにっこりと微笑みながら、玄関に入ってきた。白いスーパーの袋を抱えている。「お帰り。ちょっと遅かったわね」「ええ。ちょうどあなたのお友達に会ったの」「友達?」そりゃこのあたりには何人かの幼馴染もいるけど、一体誰だろう?「ええ。あら? なにしてんのかしら。入ってらっしゃいな?」母さんは振り返りながら言った。「荷物まで持ってもらっちゃったんだけど……」「………失礼しまーす」白いスーパーの袋を持って硬い笑顔を浮かべたキョンが入ってきた。「や、やぁ」あんた、なにやってんのよ………あたし空いた口がふさがらないわよ。「どういう訳か、偶然出会っちまってな」キョンはやや声のトーンを落としながら言った。なによ、そのあたしのせいだって目は。あたしは関係ないでしょぉ?終わり
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