牧場に行こう!
「ね、みんなで牧場にいきましょう!」放課後、けだるい時間が流れる部室で突然ハルヒが大声を出した。副団長以下、誰もそれに異議を唱える事なく無言のうちに了承しているようだ。長門は読書をしつつもコクンと頷いたように見えたし、古泉は白く輝く歯を見せて大きく頷いた。「牧場はいいですねぇ~」朝比奈さんはうれしそうに呟いた。「大きな牛とかいるんですよね、あと羊とか豚とかも」「……馬も捨て難い」長門が呟いたが、俺には良く分からない。「馬は、ちょっと癖があって苦手なんですぅ」朝比奈さんは長門に言った。「そう?」長門は小首をかしげただけだ。二人の会話が良くわからないが、それ以上話は続かなかった。「いつどこの牧場にいくんだ?」俺はハルヒに尋ねた。「週末に、山の上にある牧場によ」当たり前のことを聞くなという表情でハルヒが答える。「そこに不思議が待ち構えているとでもいうのか?」「そうね、もしかすると」ハルヒは期待に顔を輝かせた。「キャトルミューテーションなんかに遭遇しちゃうかも」「日本に吸血コウモリ類はいねえよ」「まったく夢のない……そんなだから、女の子にモテないのよ」「ほっとけ」古泉がなにか言いたそうに俺を見ているが、こっち見んな。「で、どうやってあの牧場までいくんだ。あそこは山の上にある。まさか徒歩で昇るわけじゃあるまい」「バスよバス。本数増えてさらに便利になったっていうのよ」ハルヒが手招きした。俺は立ち上がり、ハルヒが指さすディスプレイを眺めた。ディスプレイには、バス増発で牧場へのアクセスが便利になりましたなどという宣伝文句が踊っていた。「なるほどな」「確かに行きにくかったけど、これなら余裕で行けるわ。不思議探索はあたしたちの使命ではあるけれど、たまにはリクリエーションも必要よね」常にリクリエーションじゃないのかと思ったが、それは黙っておくべきことだろう。楽しそうに微笑むハルヒの表情をみれば、な。あっけなくその日がやってきた。待ち合わせの場所に20分前に到着すれば、なんと俺が一番乗りだった。これはなにを暗示しているのか。天候不順とか、牛大暴走で大騒ぎとか、羊に襲われたりするのだろうか。まさかな。 「あれ、早いじゃないの」背中にハルヒの声が掛かった。明るいチェックのミニスカートに、白いアンサンブルという格好だった。珍しくよそ行きという格好だった。足元はショートソックスにスニーカー。 髪はいつものカチューシャでなく、紺色のリボンでまとめていた。素直に可愛いと思うぜ。「あら、そーゆーことも言えるようになったのね」すこしはにかむようにハルヒが言った。「これでもちょっとは努力してるんだ」「でも照れながら言うのはやめなさい。なんか恥ずかしいから」「努力は認めろって」「でも、結果出さないとね。しかし、いつもみたいにギリギリに来るのかと思ってたけど」「いつも10分前には到着してるぜ」「そうだっけ?」ハルヒは小首をかしげている。「おはようございまーす」朝比奈さんがのんびりとした声とともに登場した。優雅なシフォンワンピースがとても良く似合ってますよ、ええ。と、心で思うだけにしているのは、ハルヒの目がすこし吊り上がっているからで、それ以外に理由などない。「………」三点リーダーと共に長門が顔を見せた。制服ではなかったが、白いブラウスに紺のカーディガンを羽織り、チェックのミニスカートというスクールスタイル。足元は紺のロングソックスにローファーだった。ま、長門によく似合っていて可愛いのだが、やはりハルヒの目がやや吊り上がっているため、俺は沈黙を守るしかない。「おはようございます」キザったらしい声とともに古泉が登場した。さわやかな少年紳士といったところの装いとだけ言っておこう。男の格好に興味はねえだろう?「さ、みんなそろったし、バスに乗るわよ~」添乗員よろしくハルヒが先頭に立った。バス停まで目と鼻の先だ。
バスに揺られること20分。牧場に到着した。ここは言わば観光牧場で、うまい牛乳やソフトクリームを楽しんだり、動物と触れ合う場所だ何がいるかと言えば乳牛と羊、そして馬だ。あと小動物も居たはずで、ひょっとすると羊飼いの少年や、おじいさんと暮らす少女なんてのもいるかもしれない。「ここ、アルプスじゃないわよ」とハルヒがつまらなそうに鼻を鳴らした。「アルプスにもいねえよ」「あら、ギャグのつもりだったわけ?」ハルヒがいやらしい笑みを浮かべながらいう。「だったら、もうちょっとおもしろいこと言いなさいよ」その一言がとてもムカつく。あとで覚えとけ、ハルヒよ。大きな蹄鉄を重ね合わせたようなゲートをくぐると、のどかな牧場が目の前に現れ、さきほどのムカつきも忘れてしまった。わりとこじんまりとした厩舎が入って右手にある。その奥が牛舎で、さらにその奥に羊小屋がある。厩舎の左隣は牧場直営のお店となる。お土産、弁当、そのたさまざまなものが販売されている。 厩舎の右となりは小動物コーナーになっていて、なぜかウサギやら鹿、ヤギなどが飼われている。さらにその奥の敷地は羊追いショーが行われる場所だ。そんな牧場内地図を、朝比奈さんと長門の二人が仰ぐように眺めている。「なに探してるのかしら?」ハルヒが不思議そうに俺にたずねた。「わからんな」俺は首を振った。「ないですねえ~」と朝比奈さんが言う。「……ない」と長門が返した。「なにを探してらっしゃるんですか?」古泉が朝比奈さんにたずねる。「バーベキューコーナーなんですけど……」顎に人差し指をあてた朝比奈さんが答えた。「ステーキまたはジンギスカンでも可」長門は無表情で答える。「え、あの、ここはそういうところではありませんが……」古泉が苦笑を交えながら言った。「え? 牧場って新鮮なお肉が食べられるところじゃないんですか?」朝比奈さんが驚いたように言った。長門は興味を失ったように横を向いている。「そういう牧場もなくはないですが、一般的ではありません。あの、誰にそのような事を聞いたんですか?」古泉はさすがに戸惑いを隠せないようだ。「長門さんです」朝比奈さんはそっぽを向いている長門に視線を送りながらいった。「こういう牧場は、おいしいお肉が食べられるところだって」「ごく少数のサンプルからの推論は時として間違うことがある」そっぽを向いたまま長門が答えた。そして長門はトコトコと一人歩きだした。「なんか有希、バツ悪そうね」小声でハルヒが呟くほどに、長門の表情は恥ずかしがってるように見えた。
長門を追って、厩舎に入った。外からはこじんまりとしているように見えたが、中に入ると予想以上に広い。8頭ほどの馬が柵につながれている。何組かの家族連れがそれを見学していて、なにかを馬に食べさせているのが目に入った。長門は何かを見つけたのか、奥にすたすたと歩いていく。それを古泉が追いかけていった。やつもなにかを見つけたらしい。「おっきいですね~」と朝比奈さんが目を輝かせている。「なんか優しい目をしてるし、結構可愛いんですねぇ」「みくるちゃんって、馬見たことないの?」ハルヒが朝比奈さんに尋ねた。「こんな近くで見るのは初めてなんです」「ああ、そういうことね」朝比奈さんは目を輝かせながら、馬を熱心に観察している。長門と古泉が野菜スティックを手に戻って来た。なんだ、それは?食うのか?「いえいえ、馬に与えるためのものですよ」古泉は苦笑いを浮かべつつ言った。「奥で売ってました。あなたもいかがですか?」「キョン、行ってみましょうよ」ハルヒに引きずられ、俺も奥に向かう。野菜スティックが一握り200円で売っているコーナーはすぐ見つかった。200円は高いが、まあ半分は本来のエサ代に充当しているということで納得するしかあるまい。俺が金を払い、ハルヒが野菜スティックを受け取った。
とって返して、ハルヒが恐る恐る野菜スティックを白い馬に差し出した。隣の馬がずうずうしくもそれを食べようと首を突き出している。「あんたはあと!ほら、食べなさい」とハルヒは野菜スティックを白い馬に食べさせ、その後でずうずうしい馬にも一切れ野菜スティックを差し出した。「あんたもいる?」ハルヒは俺を見上げて言う。「俺は馬じゃねえよ」「誰も食えなんて言ってないわよ。あんたも馬にあげてみなさいよ。結構面白いわよ」野菜スティックはあっという間になくなった。なかなか楽しいね。しかし、こうしてみると馬は結構可愛い動物だな。「結構可愛いわねえ~」ハルヒはうれしそうに馬の首筋をなでてやっている。下手に触れば危ないはずだが、まあハルヒに限ってそれはないだろう。白い馬は気持ち良さそうに目を細めている。「そろそろいきましょうか」古泉がハンカチで手を拭きながらいった。「長門と朝比奈さんは?」「あれ?」古泉は後ろを振り返った。「いませんね?」「また買いにいったみたいよ?」ハルヒがくすりと笑った。ハルヒの指さす方をみれば、朝比奈さんと長門が奥の方に歩いて行くのが見えた。「あたし達も負けてらんないわね」ハルヒが俺の腕をつかんで歩きだした。古泉は苦笑して、ただ俺達を見送るだけだった。結局野菜スティックに600円も使ってしまった。いわゆる大人買いよとハルヒは言うが、600円ごときで何を言う、そもそも大人げない行為に思うのだが。厩舎を出ると、次は牛舎だ。乳牛の乳搾り体験できるらしい。「庭があれば馬も飼えるんじゃないかしら」とハルヒが言う。「それは無理だろ」と俺。「すんごい小さな馬なら出来るかも」朝比奈さんは幾分か夢見がちな表情で言った。「可愛いですよね~馬」「そうよね~でもいくらぐらいするのかしら、馬」とハルヒが大きく頷きながらいった。「数十億する場合もありますが……」遠慮がちに古泉が言った。「それは競走馬の話でしょ。普通の馬でいいのよ」ハルヒが言う。「馬なんぞ飼ってどうするつもりだ」たまりかねて俺が言う。「たまに乗って散歩すんのよ」ハルヒは平然と返してくる。なにを当たり前のことを尋ねているのかという顔だ。
牛舎の外にはあずま屋があり、そこに大きな乳牛がいた。お腹の下にはバケツがおかれていて、子供が乳搾りなんぞを体験している。家族連れが列に並んでいたが、カップルもいた。我々もそれを体験すべく、列に並んだ。次の次ってところか。いいポジションじゃないか。「ハルヒはやったことあるか?」「子供のころにね」「俺も小さいころにやったな」「僕は小学生の時に初めてやりましたよ」古泉が言った。「いやはや、力んでしまって大変なことになった記憶があります」「あたしはやったことないんで、楽しみです」朝比奈さんはいかにもワクワクした表情を浮かべている。長門を見ると、なにもいわず首をかすかに横に振った。まあ、やったことがあると言われた方が、すこし驚きではあるな。
ふと前に並んでいるカップルに見覚えがあるような……おいおい、珍しい組み合わせだな。パンジー野郎と橘だった。こいつら付き合ってたのか? いつの間に?「あれ? パンジー君じゃない?」朝比奈さんが声をかけた。「二人で、デート?」パンジーは一瞬、ぎくりとした表情を浮かべたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべた。「ふん、無理やり連れてこられただけだ」パンジーは奇妙な笑みを口元に浮かべながら答えた。「恋愛などくだらん。そんなことは時間の浪費でしかない」おいおい、となりの橘がうんざりした表情を浮かべてるが、そんな事言って、大丈夫なのか? あとでケンカしたりしないのか?他人ながら心配しちまうぜ。「誰? 知り合い?」ハルヒはわくわくした表情を浮かべつつ言った。「ひょっとしてみくるちゃんの元カレとか?」橘が一瞬パンジーを見つめたが、パンジーはその視線を無視した。「違います」朝比奈さんは珍しい事に、はっきり否定した。「単なる知り合いです」「こんなところでお会いするとは…ね」古泉がややうんざりした表情で橘に言った。「忙しいのではなかったのですか?」「こんにちわ、古泉君。今日はオフでここに来てるの。…お手柔らかにね」橘は取り繕ったような笑顔を浮かべつつ言った。「あの子、実は古泉くんの元カノ?」今度はパンジーがぎろりと橘を睨んだが、橘は平然とその視線を受け流した。「違います」古泉は珍しくまじめな表情でいった。「そうですね、競合店のバイト仲間といったところです」「そうなんだ。で、二人は付き合ってるの?」ハルヒは実に尋ねにくい質問をさらりと目の前の二人にぶつけた。「俺はただこいつに強制的にここに連れてこられただけだ。下手な勘ぐりはやめてもらおう」「ええ、実は付き合ってるの」橘はにっこりと微笑みながら言った。「なんてね、これもバイトの一環なの」パンジーと橘が一瞬睨み合うのは、一体どういう理由なのだろうか。「オフなのに、バイトの一環とは実に熱心なことですね」古泉はせせら笑うように言った。「上層部の覚えもよろしいことでしょう」こいつにしてはとても珍しく、感情がそのまま表情に出ているかのようだ。「……あなたもね。土曜日はお休みなはずなのに、わざわざこんなところまで来て。あなたこそ職務に忠実ね」「古泉くんは、我がSOS団の副団長なの」ハルヒが胸を張るように言う。「当然の事だわ」「ふっ、茶番中の茶番か」パンジーが言わなくても良いことを平然といった。……そう言いたくなる気持ちは分からなくもないが、な。「あんた、一体何?」ハルヒが身構えながら尋ねる。「さっきから、くだらないなどなんだのと」「当然の事を言ったまでだ」パンジーはせせら笑った。「なんなら、勝負してやろうか。女を殴る趣味はないが、特別だ」「なんですって? こう見えても、あたし強いのよ。なんだったら、ここで証明してあげようか?」「出来るものならな」そう言ってパンジーも身構える。腰が引けてるように見えるのは、気のせいだと思いたい。「ちょ、ちょっとやめなさいよ、こんなところで」橘がパンジーの肩に手を置いた。あーもーおまえら、平和な牧場の空気を乱すな。ギャラリーの視線が痛いそ。ヒーローショーやりたきゃ、他所でやってくれ、他所で。俺がパンジーとハルヒの間に入ろうとした時だった。長門がトコトコと歩み出て、パンジーをすこし見上げながら言った。「……君の番」長門が指差す方向には、困った顔で成り行きを見守るお姉さんの顔があった。ぎこちない空気が流れる中、鍔迫り合いはそれで終わりを告げた。「やってみる?」橘がパンジーに声をかけた。「君、やったことないでしょ?」「ふ、この程度の事、経験のあるなしなど問わないだろう。まさに児戯」「本当に大丈夫?」橘は呆れたようにパンジーに言った。「君って、結構ドジっ子じゃない。この前だって-」「それは数多ある規定事項を確認した結果に過ぎない。それより下がっていろ」パンジーに言わせると単なる牛の乳絞り体験が、危険な爆弾解体作業のように聞こえてしまうのは何故だ。心配そうに一歩下がった橘の表情からすれば、こいつになにかをさせるのはある意味、危険なのかもしれん。……まさかな。未来人が常にドジっ子属性もってるなんてこと、あるわけがないものな。やや呆れた表情のお姉さんが、パンジーに牛の乳絞りのやり方を伝授している。神妙な表情でそれを聞くパンジー。意を決したのか、パンジは牛の乳房に手を添えた。真剣な表情はまるで爆弾の起爆コードを探しているかのようだ。
「ねぇねぇ、あいつってひょっとしてヘタレ?」ハルヒが俺の耳元でささやいた。「なんかすんごく手つきがぎこちないわよ」「未体験ゆえのぎこちなさだろう?」俺はハルヒにささやき返した。「やったことねえからな」「やらしいわね、言い方が」「そうか?」パンジーは慣れない手つきで牛の乳をしごいているが、牛の乳はまるで出ない。どうもなにかを間違えているようだ。「おかしい、何かつまってるのか?」パンジーは首をかしげている。「んなわけないよ。なんかやり方が悪いんじゃないの?」橘はパンジーに近寄ろうとした。「ちょっと貸してみなさい」「下がってろ」パンジーが手で橘を制した。「ここは俺に」「んっもう。知らないわよ」すこしむくれた橘がまた後ずさった。「ちょっとは素直になりなさいよぉ」「これぐらい造作もない」パンジーはそう言いつつ、牛の乳をしごいている。どうも、しごいてるだけで絞ってはいないように見える。「なにかつまってるとしか思えん」パンジーはそう言いつつ、牛の腹をのぞき込むようにしながらしごき始めた。「ふ、やはり穴が-」次の瞬間、パンジーの顔面に牛の新鮮な乳がふりそそいだ。全員があっけにとられた。「ちょ、ちょっと大丈夫?」橘があわててパンジーの側に駆け寄った。いそいそとハンカチを取り出して、パンジーに渡してやった。「くそ、これも既定事項だというのか」牛の乳まみれの顔では、何言っても締まらんよな。「バカ言ってないで、あっちに水道あるから、ね。行こう」
橘がパンジーを抱えるように立ち上がった。わき目も振らずパンジーを連れていく。「とんだ茶番でしたね」古泉がククっと忍び笑いを漏らした。朝比奈さんは呆れた表情を浮かべたままだ。「なんかよくわかんないけど、あいつがヘタレだって事はわかったわ」ハルヒはため息交じりにそう言った。「なんか拍子抜けよねぇ、ケンカ売っといて」「ま、気にすんな。俺達の番だ、えーと誰が最初にやるかだが……」「なんであんたが決めるのよ。団長はこのあたしよ」「お二人がケンカする必要はありませんよ」微笑みを取り戻した古泉が言う。「ごらんなさい」長門が既に牛の乳搾り体験をはじめていた。実に器用に乳を絞っている。「うまいな、長門」「……この程度のこと。児戯に等しい」……物まねもうまくなったな、長門。
長門の後に古泉、朝比奈さんと続き、ハルヒ、俺の順で乳搾り体験は終わった。ハルヒは意気揚々と羊小屋に我々を引き連れて向かったが、出産ラッシュ中とのことで、小屋への立ち入りはできないことが分かった。「えーせっかく来たのにぃ~」などとハルヒはぶつぶつ文句を言っていたが、入り口に置かれたビデオで、出産中の様子をたっぷり2回鑑賞して気が済んだようだ。「羊もかわいいわねえ~」目をうるませてハルヒが言った。「飼うのも楽しいかもしれない」馬の次は羊か。そもそも羊飼ってどうするつもりだ。「もちろん、毛皮取って売るのよ」ハルヒは事もなげに言った。「一匹だけていねいに育ててやって、希少価値つければ高く売れるでしょ」「カシミアじゃねえぞ」「カシミアだって希少価値があるとかいいながら、大量に販売してるじゃない。それよりずっと貴重ってことになるわよ」「でも、羊飼うとなると、結構広い場所が必要になるんじゃないですか?」朝比奈さんが考えながら言った。「お庭とかでは飼えないかも」「むぅぅぅ」ハルヒは真剣に考え込んだ。「やっぱり大規模にやるしかないのかしら。中国とかモンゴルの土地買い占めて大々的に」将来の夢は世界に羽ばたく羊毛業者かよ。もうちょっと夢のある商売がいいぜ。「あら、巨万の富を築けるかもしれないじゃない。現実的な商売をやるに越したことはないし」ハルヒの将来構想はどこまでも続きそうな勢いだったが、聞き流すに限るぜ。
小動物コーナーに戻って来た。子供たちがヤギを追いかけているが、ヤギはすばしっこく捕まるようには見えない。茶色やら白やら白黒やらのウサギが餌を食んでいる。モルモットと遊ぶ子供もいれば、ウサギを抱っこしている子供もいた。ま、ここは子供たちが主役だ。もっとも、この牧場そのものが子供たちが主役になるべき場所なんだろうが。朝比奈さんが突然しゃがみこんで、茶色い子ウサギを抱き上げた。朝比奈さんがの腕の中で鼻をヒクヒク動かしている。おお天使に抱かれるウサギに祝福あれ。長門がそっと指先でうさぎの耳に触れて遊んでいるようだ。「キョン~こいつすんごいでかいの~見て見て」ハルヒの声に振り返れば、巨大な白ウサギを抱きかえるハルヒの姿が目に入った。おい、それ本当にウサギか。お前の胸ぐらいないか?「それ、セクハラ!」なぜか顔を赤くしてハルヒが叫んだ。「団長にむかってセクハラとはなに考えてんのよ!」「なにを言ってるんだ?」「まるで見たことあるような言い方じゃない!」ハルヒはなおも叫んでいる。「みんながいる前だってのに、ちょっとは恥ずかしいと思わないの!?」お前の方がよっぽど恥ずかしいわ。これじゃ逆セクハラもいいところじゃねえか。みろ、子供たちがそっぽ向いて、親たちが困った顔してるじゃねえか。そんな破廉恥な行為は一切致しておりませんよ。健全に高校生らしいお付き合いをしておりますのでと心のなかで謝辞を述べながら、ハルヒに近づいた。「セクハラ男対白ウサギの戦いよ」ハルヒは片手で巨大白ウサギを抱きかかえ、空いた方の手でウサギの前足を掴んで、軽くジャブを放つ真似を見せた。その表情は嬉しさで輝いているようにみえた。
おバカな茶番を演じた後は、腹も減るというものだ。時計を見ると、昼すぎてるじゃねえか。売店で弁当でも買って食おうぜ。「だからなんであんたが指図すんの。団長はこのあたしでしょーが」「小さい食堂もあるようですね」俺とハルヒの会話に参加する気のない古泉が、朝比奈さんと長門に言った。「ちょっと混んでるようですが……」いついかなる時でも先陣を切りたがるハルヒが食堂の店員に確認すれば、3人なら大丈夫とのことだった。「ふむ……困りましたね」まるで困った様子を見せず、古泉が言った。「みんなで待ちます?」朝比奈さんは困った顔で言う。長門は会話に参加せず、店先のメニューを眺めている。こっちはもう食う気満々なのだろうな。きっと。「それじゃしょうがないわね。あたしたちは外で食べるから、古泉くん達はここで食べていいわ」これまでのハルヒならば店内に駆け込み、何が何でも5人分の席を用意しかねなかったが、成長の証しだろうか。「行くわよ、キョン」俺の手首をつかんで売店に連行するところは、まるっきり変わってないがな。
売店でおにぎりセットとお茶を買って、日陰の場所を探した。小動物コーナーと羊追いショーエリアのちょうど間が、そのような場所になっている。何人かの家族連れがお弁当を囲んで一休みしているのが見え、俺達はその場所に移動した。 歩けるようになったばかりの子供が危うげなバランスを取りながら、よちよち歩く姿が可愛い。つい頬が緩むね。その様子を若夫婦がにこやかに見守りつつ、ビデオに収めている。そのとなりには、やはり家族連れで幼稚園年長さんといった男の子がおむすびを口一杯にほうばっていて、こちらも微笑ましい。その隣で奇妙な踊りを見せるのは、その子の妹だろうか。
俺にもハルヒにもああいう時代が確かにあり、そしていずれは親としてあのような時を過ごすのだろう。それがいつの日になるのか、相手はいま隣を歩く奴だったりしてな。ま、それも悪くはないが、あまりにも既定事項過ぎないか。そんな極個人的な未来に思いをはせながら、空いた場所を探す。それはすぐ見つかった。大きな樫の木の下だった。木を挟んで反対側には別のカップルが座っているが、なに構うことはないだろう。木漏れ日が揺れる地面に、こんなこともあろうかといつも持参しているレジャーシートを敷いた。靴を脱いで、レジャーシートにあぐらをかいた。ハルヒも同じように靴を脱ぎ、レジャーシートに横座りした。 真ん中におにぎりセットとお茶をおけば、昼飯の始まりだ。
ハルヒは黙々とおにぎりセットのラップをほどいている。俺はお茶のキャップを開けることにした。「こんなんだったら、お弁当つくってくれば良かったかな」そういってハルヒは三角おにぎりにかぶりついた。もぐもぐと咀嚼を始めた。「ああ、ピクニックも同時に味わえたな」俺もハルヒに負けじと三角おにぎりにかぶりついた。しばらくふたりでもぐもぐと咀嚼をはじめる。「まあね。でも……まいっか」おにぎりを飲み込んだハルヒが言う。「ピクニックはまた行こ。それはそれで別の方がいいわ」「そうするか」
「ね、君の好きなものを作ってみたんだけど、どうかな?」「ほぉ……うまそうだな」ふと、後ろのカップルの会話が風に乗って聞こえてきた。どこかで聞き覚えが…などともったいぶらなくてもいいな、橘とパンジーの声だった。「朝、6時に起きて作ったんだからね。感謝しなさい」「この唐揚げは絶品だな」しばらく無言になる。「……料理の腕はかなりのものだな」「ありがとう」すこしばかり照れて、それでいて嬉しそうな橘の声が聞こえる。「どうかしたの?」ハルヒが小声で尋ねてきた。「後ろにさっきの二人がいる」ハルヒの耳元に顔を近づけてささやいてやった。「あのツンデレカップル?」ハルヒは聞き耳を立てつつ、そっとおにぎりセットとお茶を脇にどけた。俺も自分のおにぎりセットを脇にどけ、スペースを作ってやった。ハルヒが俺に寄り添うように移動した。仲睦まじいカップルにしか見えないことだろう。「で、どこまで聞いたの?」ハルヒが耳元でささやいた。「唐揚げが絶品らしいぞ」「……そうじゃなくて、蟻が餌だと勘違いして寄ってくるぐらい甘い会話はないの?」「昼間だしな。弁当食ってるわけだし期待薄……お前は何を期待してるんだ?」「あの二人の恥ずかしい会話を押さえとけば、なにかに使えるかもしれないでしょ?」ハルヒらしいといえば正にその通り。しかも相手はいわばSOS団の敵とも言える存在だ。たしかになにかに使えるかもしれん。
「しばらくは、身動きとれないままか」パンジーの声が聞こえてきた。「そうね。意思統一って本当に難しいのね。痛感したわ」橘がため息をつきながら言った。「上の指示とあらば止むをえんだろう。橘がどうのという話ではない筈だ」「ま、こうしてのんびりできるのもそのお陰だし。来て良かったでしょう?」「………」「さっきは恋愛など時間の無駄とか言っちゃって。本当に君は格好つけなんだから」「あれは……あいつらの手前……」などとパンジーが絶句している。「分かってるけど、ちょっと寂しいな」かわいらしく橘が言う。パンジーはきっとおろおろしているに違いないが、その可愛い声は、108個あるという女の罠のひとつだ。気をつけろ、パンジー。「橘だって、バイトの一環などと」すこし声がうわずってるあたり、罠に嵌まっている証拠だぞ、パンジー。「古泉くんのニヤケ笑いをみたらね、つい強気になっちゃったの。……ごめんね」「あいつにライバル心を燃やすのはほどほどにしておけ。それは自滅の元だろう」「ご忠告ありがとね。あたしからも忠告…っていうかお願いだね」「なんだ?」「いい加減、名前で呼んでよ。ね」すねたような橘の声が聞こえた。ニヤリとハルヒがいやらしい笑みを浮かべた。使えそうなネタひとつゲットといったところだろうか。かなりの罪悪感を覚え、俺達は死んだ後天国にいけるのか心配になってきた。「それは……」「恥ずかしいのは分かるけど、二人でいる時ぐらいはいいじゃない」「仮に全員で集まっている時に、うっかり京子と呼んだ日にどのような事になるか。想像できない橘ではあるまい」「それはそうだけど……じゃあ、いまだけ。いまだけなら、いいでしょう?」踏ん張れパンジー。そこで許してしまえば、あとはすべて許すしかなくなるぞ。気がついたら相手のペースだ。流れを引き戻せるかは、お前にかかっているんだ。「分かった」やけにはっきりとしたパンジーの声が聞こえた。……軍門に下ってしまったか。こりゃ、尻に敷かれるパターン確定だな。「じゃ、言って言って」はしゃぐように橘が言う。「お願い」「き…京子」パンジーの声は緊張のあまりか、やや震えていた。「なぁに?」橘がやけにかわいい声で返した。パンジーの返事は聞こえてこなかった。確認するのもはばかれるが、撃沈したのだろう。実に惜しい奴を亡くしてしまったもんだ。
撃沈しただろうパンジーに一人黙祷を捧げていると、ハルヒが首をそっと回して背後を伺っているのが見えた。「バカ、何見てんだ」俺はハルヒの耳元にささやきかけた。「シッ! いまいいところなんだから」おいおい、こんな真っ昼間からラブシーンか?それは見逃す訳にはいかんだろう。俺もそっと背後を伺った。二人はこちらに背中を見せたまま、見つめ合っている。もはや回りは見えていないに違いない。多分、音も聞こえていないに違いない。パンジーの顔からはあのニヒルな笑みが消え、真剣な表情だけがあった。「チューよ、チュー」ハルヒがまた耳元でささやいた。「見られてるとも知らず、いい根性よね」ハルヒの小学生並なボキャブラリはともかく、人のラブシーンを固唾を呑んで見守ってる俺達のほうがいい根性してると言われそうだがな。橘が瞳を閉じたらしく、パンジーがゆっくりと顔を近づけて行く。見てる方が何倍も恥ずかしいのが実感できたね。これからは外でするのは慎まな……なんでもない。ゆっくりとパンジーの顔が橘に近づいていく。1センチ、1センチとナメクジが這う速度より遅く、二人の距離が縮まって行く。「うっわぁ………」ハルヒがなんだか分からない声を漏らした。さすがに他人の生キスシーンを目撃したことはないだろうからな。いや、大胆だね。ひょっとしてこれが初キスか? それならもうちょっとロマンチックな場所でやったほうがいいぜ。これは俺からの忠告だ。もっとも、いまさら遅いがな。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん~ あの人達、キスしてんの?」思いがけない大声が正面から降って来た。声に驚くと同時に、その声の主にも驚いた。さっきの家族連れの年長さんじゃないか。隣には妹まで付いて来ている。それだけ言うと、妹と手をつなぎトコトコ歩いていってしまう。最近の子供はほんとマセてるなと思ったときだった。ゴンと大きな、しかも痛そうな音が背後から聞こえてきた。「いった~い」そして橘の声が背後から聞こえた。橘は額を押さえている。パンジーも同じだった。一体、何があったんだ?隣のハルヒは口をあんぐりと開けて絶句していた。「どうしたんだ?」ハルヒに尋ねてみた。「あいつったら、さっきの子の声に驚いたらしくて、あの子に思いっきり頭突きかましちゃったのよ」
驚いたあまり相手に頭突き……また特殊な例だな。「なんか自爆体質なんじゃないのかしら、あの子」「かもしれんな」俺はおにぎりをひとつ手に取った。「さ、あたしたちもお昼ごはん食べて、みんなと合流しましょう」「そうするか」背後からは弱々しい橘の声と、おろおろするだけのパンジーの声が聞こえてくる。どうも未来人は肝心なところでドジを踏む傾向にあるようだ……大丈夫か?未来。
20分ほどかけてゆっくり残りのおにぎりを食べて、古泉達と合流した。「晴天の下で食べるおにぎりは、おいしかったのではないですか?」古泉が笑顔を浮かべつつハルヒにいった。「まーね。で、どうだった?食堂は?」「結構おいしかったですよ。プリンが絶品でした」幸せそうな表情の朝比奈さんが答えた。「もう甘くて、プリンプリンしてるんですぅ」…意味は良くわからんが、とてもおいしかったということは良く分かった。ところで、長門は何食ったんだ?「焼き鳥丼ときつねうどん、そしてプリン」長門は平然と答えた。「そんだけ食べれば、午後もフルスロットルよね」ハルヒはそう言い放った。
お昼からの楽しみといえば、牧羊犬による羊追いショーと羊の毛刈り体験がある。乗馬体験なんてのもあるのか。結構イベントは目白押しってことか。お子様向けの小動物飼育教室なんてのはさておき、とりあえず羊追いショーでも見に行くか?「そうね…じゃなくて今は団体行動中よ、キョン。団長はこのあたしだって何回言えば分かるの!?」とハルヒが俺を軽くにらみつけた。「あんたが決めてあたしが従うわけないでしょう?」 「提案してるだけだろうが」「ひょっとして団長の座を虎視眈々とねらってるんじゃないでしょうねぇ?」その称号だけは全力で拒否したい。団員その一で十分すぎるほどの不名誉に預かってるしな。「どういう意味よ、それ!」「まぁまぁ」古泉が苦笑いを浮かべつつ間に入った。「まずは羊追いショーを見学し、その後で乗馬体験または毛刈り体験というプランはいかがでしょうか?」「さすが古泉くんね、提案もそつがないわ」ハルヒはにっこりと頷いた。「いい、キョン。団体行動中なんだから、ちゃんと上下関係をわきまえて発言しなさい、分かったわね?」 一瞬は同意しといてなんて奴だ。ま、いまに始まったわけでもねえが。俺は肩をすくめて遺憾の意を表現した。ハルヒはすこし不満そうな表情を浮かべたが、何も言わず、鼻を鳴らしただけだった。
長門を先頭に、羊追いショーが行われる場所に向け、我々は進軍を開始した。なんてな。のどかな牧場の風景を楽しみつつ、ただのんびり歩いているだけだ。横をスズメバチがすーっと飛んでいった。夏に向けて巣の拡張工事に忙しいのだろうな。朝比奈さんと古泉が並んで歩き、その後を少し遅れて俺とハルヒが歩く。「あんた、馬に乗ったことある?」ハルヒが穏やかな声で話かけてきた。「子供の頃、ポニーに乗ったな。お前は?」「同じね」「ここにはポニーはいないが、乗馬体験ってのも引き馬に乗るって感じだろうな」「そうね。でも、ちゃんと手綱を操って乗ってみたいもんね」「かなり練習しないと、うまく乗れないんじゃないか?」「よく練習しないと無理とかっていうけど、たいていそんなことないのよねぇ」「それはお前が特別だからだろう」「あたしにしてみれば、それが普通なのよ。なんで出来ないの?って感じ」「出来る奴からすれば、そうかも知れんがな」「あとでさ、あの白い馬に乗ってみましょ。二人で乗れるみたいだし」「それはかまわんが、スカートなのに大丈夫か?」「下にスパッツ履いてるから平気よ」「そうか。しかし、ちとつまらんな」「べ、別にあんたのためにこういう格好してきた訳じゃないもん」ハルヒはわざとらしい声で言い、ケラケラと笑った。「どう? ツンデレっぽい?」ひとしきり笑ったハルヒが言う。「ああ。感じは出てたな」「でも反応がいまいちね。量産型ツンデレって感じかしら」「なんだそりゃ」「ありがちってことよ」
羊追いショーは、山の斜面をうまく使った場所だった。ほとんど平地な部分に手作り感いっぱいの観客席がある。その正面にはお立ち台があり、言わばステージなのだろう。観客席に人はまばらだった。まだ始まるまでに30分はあるからな。中央からやや左、二段目の席というかベンチに、我々SOS団は腰を降ろした。左から長門、古泉、朝比奈さんと並び、ハルヒ、俺という順番だ。「なんか買ってきとけば良かったわね」ハルヒがペットボトルの残り少ないお茶を見ながら言った。「まだあるぜ」と俺は半分以上残ってるペットボトルを見せた。「バカ」ハルヒはすこし戸惑ったように言ったが、意味は良くわからん。「なんだったら、僕がまとめて買って来ましょうか?」古泉が立ち上がった。「今日、最後に到着したのは僕ですし」「そう?悪いわね。じゃあコーラ買って来てくれる?」ハルヒは平然と言った。「半分凍ったようなのでいいいから」「悪いんですけど、冷たいお茶、買って来てもらえますか?」朝比奈さんがにこやかに言った。「サイダー」無表情な長門は一言だけつぶやいた。「炭酸強いのを」「コーラとお茶と炭酸強めのサイダーですね。…あなたはどうしますか?」古泉が俺をみつめて言う。「そうだな……コーラもう一本追加だ」「コーラ二本とお茶に炭酸強めのサイダーですね」古泉は念押しするように言った。皆が同時に頷いた。古泉は軽く頷くと、そのまま売店に向かっていった。
「これ終わったら、乗馬体験してみたいですね」朝比奈さんが言った。「そーね。そうしましょ。で、みくるちゃんは馬に乗ったことある?」とハルヒ。「乗ったことないです」「やっぱりね。そうだと思ったわ」「涼宮さんは乗ったことあるんですよね?」「ポニーにだけどね」「ポニーってなんですか?」朝比奈さんは目を瞬かせながら言った。「へ?」呆気にとられるハルヒの表情がちょっとツボに入った。「みくるちゃん、ポニー知らないの? 小さい馬のことよ」「ふぇ?…なんですか長門さん……あ、あの、今のままでボニーだと思ってました」なぜか朝比奈さんは視線を足元に落としながら言う。「ボニー?」ハルヒが怪訝そうな顔で聞き返した。「見まちがえてたってこと?」「そ、そうなんです。わたしってよく見間違えるんです」「みくるちゃんらしいわね。そそっかしいっていうか」「そうなんです。……出来れば、大人になる前に直したいんですけどね」「直すことないわよ。そのそそっかしさってのは、いい属性よ」「属性……ですか?」良く分からないという表情で朝比奈さんが聞き返した。「そそっかしい女の子に萌える層も少なくないわ、きっと」「ああそっちの話なんですか……」朝比奈さんは苦笑いを浮かべた。
しばらくして、古泉が飲み物を抱えて戻って来た。やや楽しそうな顔をしているが、なにか面白いことでもあったのか。「わかりますか」冷えたコーラの缶を二本、俺に渡しながら古泉が言った。「ああ」俺は渡されたコーラの内一本をハルヒに渡した。「彼らにまた遭遇しました」古泉は朝比奈さんにペットボトルのお茶、長門に激炭酸なる缶を渡し終えると、長門の左隣りに腰を降ろした。「乗馬体験の列に並んでいましたよ。仲睦まじい様子でした」「それだけじゃないんだろう?」「ええ、そのうち二人で乗るか一人で別々に乗るかで言い争いだしまして」「なんでそれが言い争いになるのかしら?」朝比奈さんは不思議そうに言った。「なんでも彼が言うには、馬に乗るのは一人というのが既定事項だそうです」「ほう」未来人の考えることはわからんね。いや、朝比奈さんは例外中の例外だが。「奴は馬に乗ったことがあるのか?」「なさそうです。まあ引き馬ですし、乗ってるだけでいいですから、簡単なのには間違いありません。最初は彼女も一緒に乗ろうと口説いていたようですが、途中であきらめたようで、別々に乗ることにしたようです」 「素直に一緒に乗ってあげればいいのにねぇ?」ハルヒも不思議そうに小首をひねった。「しかし強情な奴ねえ、なんでそんな奴と付きあってるのかしら」「そうですね。まあ、人それぞれ思うところがあるのでしょう」割りと橘は結構尽くすタイプのようだが、それが報われる時が来るのだろうか。人ごとながら心配になるね。
ショー開始まであと5分ともなれば、観客席はほぼ埋まっている。それどころか、立ち見もちらほら見受けられる。すこしぬるくなったコーラを一口飲んだ。二匹の犬を連れたお姉さんが右手から登場した。ヘッドセットを付けているところをみると、このお姉さんが主役なのだろう。いや、主役は二匹の牧羊犬になるんだろうな。お姉さんが元気一杯の挨拶で羊追いショーが始まった。二匹の犬はそれぞれトムとジェリーといい、海外で訓練を積んだエリートという紹介だった。「へえ帰国子女って奴ね」ハルヒが言った。「犬としちゃ確かにエリートね」それでは羊の登場でーすというお姉さんの声とともに、斜面の高いところから羊の大群が姿を見せた。牧場のお兄さんに追い立てられているようで、入り口から我先にと羊が降りて来ている。 そのままここまで降りて来るかと思えば、羊は無秩序に広がり、草を食み始める。では、トムとジェリーに羊たちをまとめてもらいましょう。お姉さんはそう前置きしてから、犬たちに指示を出したようだ。てんでばらばらに散らばっている羊に向かって、2匹の犬が駆け出した。羊たちは、犬に追われ、いつのまにかひとつの集団になっていく。「なんか羊が迷惑そうな顔してるわね」とハルヒがつぶやいた。「食事の邪魔すんなってところだろうな」それではここまで移動してもらいましょう! お姉さんは前置きを述べてから、また犬に指示を出した。のんびりと羊たちが動き始めた。当然集団から遅れる羊もいるのだが、トムだかジェリーが、それを追い立てる。迷惑そうな表情をした羊たちは、犬に追い立てられて、どんどん降りてくる。「ほう、見事なものですね」古泉が感嘆したといわんばかりに言った。「さすがエリートなんでしょうね」朝比奈さんが古泉に言う。「………」長門はマナーモード中のようだ。ショーが始まったばかりだというのに、牧場の関係者らしき人が駆け込んできた。お姉さんはきょとんとしながら、関係者らしき人からの話を聞いている。あわただしく関係者が何人もやってきているのが見えた。なにか事故でもあったのだろうか?「あれ?馬がこっち向かって走って来るわよ?」ハルヒの指先を追うと、確かに茶色い馬が全速力でこちらに向かって来るのが見えた。誰か背中に乗っているようだが、ここからではよく分からん。しかし、よくしがみついていられるもんだ。振り落とされてもおかしくないぞ。お姉さんが牧羊犬に指示を出して、羊たちを移動させはじめる。が、遅かった。馬が羊の群れに突っ込んで、それを散らした。逃げる羊に興奮が収まらない馬がめちゃくちゃに斜面を駆けている「うそ、何が起こってるのよ、一体?」ハルヒは目を白黒させながら言った。お姉さんの説明によれば、乗馬体験中の馬が突然暴れだしてコースを外れ、ここに乱入したらしい。「落ち着いて、係のものの指示にしたがってください」お姉さんは上ずった声で叫ぶように言った。何人かの関係者が観客席にやってきて、観客を誘導しはじめた。馬はめちゃくちゃに暴走しつつ、斜面を駆け上がろうとしていて、こっちにくる気配はない。背中に乗ってるのはどうやら男らしい。着てるものに見覚えがあるが、パンジーの野郎が乗ってるのか?いまだに振り落とされていないのは、奇跡といってもいいかもしれん。
「ゆっくりと移動してください」関係者の人の声が聞こえた。俺達の番が来たようだ。全員で立ち上がり、誘導にしたがって、観客席からそろそろと斜面に降りた。ゆっくりとそのまま、会場から出る道を歩いた。「ショーは台なしだけど、面白いものが見れたわね」ハルヒは興奮ぎみに言う。「馬暴走なんて新聞でしか見たことなかったもの」「でもなんで暴走なんてしたんでしょうね?」朝比奈さんが言う。「馬は臆病な動物なので、ちょっとした刺激で暴走することはあるようですね」古泉が朝比奈さんにそう返した。「そうなんだ」後ろを振り返ると、数人の関係者がそろそろと斜面を登っているのが見えた。
銃らしきものを携えているが、きっと麻酔銃だろう。「キョン、よそ見してると転ぶわよ」ハルヒの声が鋭い。「前みて歩きなさい」「ああ」
馬が突然斜面を駆け降り始めた。関係者を散らしながら、ものすごい速度で斜面を駆け降りると、こちらに一目散に走ってくる。なんてこったい。馬がどんどん近づいてくるというのに、金縛りにあったようだ。目の前に広がる非現実的光景に体がすくみあがってしまったのか。「キョン!なにやってんの、逃げなさい!」ハルヒの叫びで、体に自由が戻ったようだ。駆け出そうとしたが、馬の気配を間近に感じた。「させない」声の主は長門。「あなたは私が守る」長門がスティックを馬に向けて振るのが見えた。馬が急に停止した。まるで目に見えない力に搦め捕られたように。「助かったぜ。長門」「いい」どこまでも透明な瞳のまま長門がつぶやくように言った。
どさりとなにかが落ちる音がした。そちらをみれば、草原に横たわる男性の姿があった。やはりパンジーだった。すぐ関係者が飛んできて、パンジーに声をかけはじめた。弱々しいながらも返事をしているところを見て、一応敵ながら安心した。こんなところでリタイアするような奴じゃねえってことか。ま、少しは見直したぜ、パンジーよ。
興奮も覚めやらぬまま、牧場の入り口まで戻ってきた。営業はこれにて終了ということで、皆帰り支度をはじめている。関係者は青い顔をしながら、忙しく動いているようだ。どうやら馬が暴走した原因は耳の中に飛び込んだスズメバチだったらしい。そりゃ馬でなくても驚くな。
古泉の説明によって動物催眠術使いとなった長門は、牧場の人に感謝されていた。特になにも貰えるわけではなかったが。
ああ、そうそうパンジーは無事だ。最初はへたばっていたが、死にそうな表情の橘がやってきた瞬間、立ち上がって無意味にも元気をアピールしていたな。ま、気持ちはわからなんでもない。
「もうじきバスが来ます。急ぎましょう」古泉はいつもどおりの冷静な口調でそう言った。「やっぱり、帰るしかないかぁ」ハルヒはつまらなそうな顔で言った。
「これじゃいてもしょうがねえよ。……また来ようぜ」俺はハルヒに言った。「え?それって、二人でっていう意味かしら?」ハルヒはうれしそうに言った。古泉はプッと吹き出し、朝比奈さんは驚いて口に手を当てた。長門は空気を凍らせるような視線を俺に送ると、すたすた歩き始めた。おい、長門。俺は別に悪いことはしてないぞ?
おわり
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