ライバル
いや春全開であり、桜の花びらがハラハラと散って行く中に自転車を意味もなく突っ込ませ、頭に一つ二つことによってはそれ以上花びらをくっつけたくなる季節である。 今日は春休み最終日である。が、さすがのハルヒもイベントというイベントをこなし過ぎたのか、昨日を最後に連絡が途絶えた。このまま始業式まで音信不通でいて構わないぞという気持ちで一杯である。俺はといえば、シャミセンに健康診断を受けさせるべく、午前中いっぱい費やしてシャミセンの爪を切り、風呂場で暴れるシャミセンを洗った。すっかりきれいになったシャミセンをキャリーに押し込み、近所の獣医で診察をうけてきたところだ。シャミセンは野良猫上がりであるため、ネコエイズやらその他のウィルス感染症が心配だ。おまけに得体の知れないなんたら生命体を休眠させてもいる。定期的に健康診断を受けさせるのは飼い主の努めだしな。それに、医療費を多めに申告することによって得られる不労所得を得るチャンスでもある。小学生かという突っ込みは、今日に限って受け付けよう。
ハルヒからの連絡がないというのは、なんと開放的なものであろうか。いま俺は鎖を解かれた巌窟王の気分で、自転車をこいでいる。だれかに復讐しようなんて気はさらさらなく、ただただ自由を満喫している。駅前をゆっくり自転車を走らせると、どこか見覚えのあるような背中を追い越した。「おや、キョンじゃないか」聞き覚えのある声に振り返ると、佐々木だった。「おお、ひさしぶり」一年ぶりの再開であるものの、佐々木は何一つ変わっちゃいないね。「ネコを飼っているのかい?」俺の自転車カゴを見て、佐々木は小首をかしげながらそう言った。「ああ、こいつに健康診断を受けさせてたんだが、なんでわかった?」「そのキャリーにネコの絵が描いてあるからだ。犬の絵が描いているキャリアを猫用に購入するほど、僕の記憶の中の君はひねくれてはいないからね」「なるほど」俺はため息を一つついた。どうもこう回りくどいしゃべり方をするんだろうね、こいつは。「しかし、会うのはひさしぶりだね。もしよかったら、お茶でもどうかな。そこの喫茶店でさ」佐々木は、喫茶店を指差した。そこはSOS団御用達の場所であった。自転車を駐輪所にいれ、片手にキャリーを、片側に佐々木を連れ、喫茶店に入った。喫茶店は卒業式ソングがエンドレスリピート状態だった。ネガティブ方向に春を感じる歌ではあるな。「アイスコーヒーで、お願いします」佐々木は、注文を取りにきたお姉さんにそう微笑んだ。「ブレンドで」お姉さんはお辞儀もそこそこにカウンターに消える。足元のペットキャリーにはなにもいわず、その中身もなにもいわない。平和そのものだ。ひとしきり昔話に花を咲かせた後、佐々木が言う。「しかし、北高はどうだい?おもしろいかい?」「そうだな」俺は水で満たされたグラスを手にとっていった。「いろいろとな」「それはいいね。僕の通っている学校ではそんなに面白いことは起こらないよ。僕も北高に進学すればよかったかもしれないね」佐々木は、薄く笑いを浮かべた。去年一年を思い返せば、確かになかなか変化に飛んでいた。神様もどきに出会い、宇宙的未来的超能力的な人種と交流を深め、さまざまなな事件に巻き込まれた。しまいには2回も殺されかけたけどな。 いまじゃ、楽しい毎日を送っていると認めている。文句は受け付けない。「そっちはどうなんだ」「いまだに塾通いを続けているよ。それなりに充実した学生生活とはいえるが、それが楽しい学生生活かどうかは自信がないね」「ほう、なんだかんだいいつつ、いいの捕まえて楽しくやってると思ったがな」佐々木はくだらないと言わんばかりに鼻を鳴らした。「前にもいったと思うが、恋愛など精神的な病の一種に過ぎないよ。そんなものにかまけていても、時間を浪費するだけだ。もっとも、そういう君はどうなんだい。浮いた話の一つでもあれば、聞かせてほしいところなんだが」「自分の恋愛は否定しておいて、他人のそれは興味津々かよ」「自分が恋愛することなど考えられはしないが、恋愛自体を否定する訳じゃないよ。本能に突き動かされてしまう瞬間というのは誰しもあることだろう。その本能によってもたらされる恋愛という感情を、他者がどのように感じているのか、僕にとってはとても興味深い話なのさ」つまり一言で言えば、自分のはともかく、他人の『恋バナ』は聞きたいと、そういうことか?「そういうことになるね」真ん丸な瞳が俺をまっすぐに見つめている。「残念ながら、そっちのほうは昔とかわらないね」「そう思いたいだけ、じゃないのかな?」佐々木は優雅にグラスを手にとった。喫茶店の自動ドアが開き、来店を知らせる鈴が鳴った。「はぁ、みくるちゃん、疲れたわねえ~」「ええ。でもいっぱいお買い物できましたし、よかったですぅ」聞き慣れた声に振り返れば、ハルヒと朝比奈さんが大量の紙袋をかかえて、テーブル席に歩いてくるところだった。朝比奈さんは、地球上にこれ以上柔らかい素材はないのではないかと思うほど柔らかそうなグレーのワンピースに、白いカーディガンを羽織っている。足元は繊細な薄い白いミュール。きれいに整えられた爪が好印象だ。大人のデートコースにエスコートしたくなること請け合いだ。その後ろにいる我らが団長は、地球上のどこで買ったのか問いただしくなるような虹色のTシャツに、デニムのミニスカであった。春だからか、素足でサンダルを履いている。プールサイドじゃねえぞ、ここは。近所のコンビニに出掛けるなら、ついでにポテチを買ってきてくれないかこれお金、と言いたくなるほど普段着だった。
「あれ?キョンくんと……」朝比奈さんはキョトンとした顔で立ち止まった。「はじめまして、佐々木です」俺の頭の上を佐々木の声が飛び越して行く。立ち止まった朝比奈さんの肩からハルヒがニュっと顔を覗かせた。ハルヒはじろりと俺の顔を見つめ、そのあとゆっくりと視線を動かした。「キョン、誰なの?その女の子は?」ハルヒは俺の返事を待たずに、朝比奈さんを押しのけるように、俺のとなりに腰を落ち着けた。朝比奈さんはキツネにつままれたような表情を浮かべながら、佐々木のとなりに回った。「はじめまして。佐々木です」佐々木は特に動揺を見せることもなく、ハルヒに自己紹介を繰り返した。「初めまして。あたしはSOS団団長の涼宮ハルヒよ」そう言うと、俺の前にあったグラスを、自分の前に引き寄せ、自らのものとしてから口をつけた。随分喉が渇いていたらしく、グラスを一気に空にした。「そっちの可愛いのが、みくるちゃんね」「はじめまして、朝比奈みくるです」キツネにつままれ続けている朝比奈さんが佐々木に軽く会釈した。「えと、二人はどういう関係?」ハルヒはにこりともせずに言った。「ああそれは」俺が説明しようとしたが、佐々木の言葉に遮られてしまう。「親友です」佐々木はかすかな笑みを浮かべながら言った。「中学時代の」お姉さんが水、コーヒーとアイスコーヒーを運んできたため、そこで会話はいったん停止した。俺の前に新しいグラスが置かれた。が、ハルヒという名のトンビに掻っ攫われてしまう。俺のグラス返せ。「あたしは……オレンジジュース」ハルヒはメニューをにらみつけながら言った。「わたしはミルクティーでお願いします」朝比奈さんは穏やかな声で言った。お姉さんが去っていくと、会話がまた始まる。「親友?」ハルヒがまるで初めて聞いた単語のように聞き返した。「ええ。一年以上音信不通だった相手と会い、あいさつもそこそこに普通に会話ができる。これは親友と呼んでも支障はないでしょ?」「ふーん」ハルヒは腕を組んで、佐々木を見つめている。敵意を感じている訳ではなさそうだが、好意的とも言えない表情を浮かべていた。一言でいえば、きなくささを感じているような表情だった。「そういえば、噂を小耳にしたことがありますね。いろいろ面白いことをなさっているって」佐々木は柔らかい笑顔を浮かべつつ言う。そして佐々木は俺を見つめて、こうも言った。「キョンもそのSOS団とかの一員?」俺はうなずくしかない。となりでハルヒが睨みつけているが、何が言いたいのか俺にはわからん。「あんた、こんなところでなにしてたの?」それが言いたかったのか。「シャミセンの健康診断さ。ハルヒは?」ハルヒはそこで足元に置かれたペットキャリーに気が付いたようだった。暴走する割りには回りが見えてる奴だと思っていたが、意外だな。「みくるちゃんと二人でセールに出掛けてたの。ついでに衣装のクリーニングや直し頼んでたんで、それも引き取って帰ろうとね」ハルヒはほぼ体を俺に向けてしゃべっている。大きな瞳がまっすぐに俺を見つめている。その瞳には感情が揺らめいているようだったが、それがなにか俺にはわからない。 「衣装のクリーニング?」「そっ。もうすぐ新入生も来るし、なにがなんでも新入部員の確保をしなきゃね。あさってには新入生のオリエンテーションでしょ。念には念を入れて準備してるわけよ」 なるほど、客引き用のコスプレ衣装を用意してるのか。朝比奈さんは華麗なチャイナドレスなんかを提案したいところだね。「人を風営法違反常習者みたいに言わないでほしいわね。いいこと、部員を増加させ、SOS団の規模を拡大する。今度のオリエンテーションで確実に達成しなければならないことよ」 ツバを飛ばさずにハルヒはしゃべれないのかね、まったく。ふと佐々木の視線に気づいた。視線を向ければ、とても楽しそうに微笑んでいる。「楽しそうだな?」「ああ。なんというかな、青春という名の元に行われる健全な男女のじゃれあいというものを見せてもらって非常に楽しいよ。そういう行為が本能を刺激し、恋愛に至るんだろうね」刺激されるのは闘争本能と防衛本能ぐらいなもんだ。そもそも恋愛本能なんて聞いたことはねえぞ。せいぜい耳にしたことがあるのは、恋愛体質ぐらいだが、そんな属性の持ち合わせはねえぞ?「生殖本能だよ。直接的に言わせてもらえばね。あらゆる本能を総動員して、自分のかけらを残そうとするのは、あらゆる生物に共通の性質だ。ウィルスですら自分自身の複製を作ろうとする。ひょっとすると、恋愛感情はすべての感情の源となるかもしれないね」すまんが、まったく意味がわからん。「分かってもらおうとは思ってないよ。素直に聞いてくれる君だから話した。それだけのことさ」ハルヒは俺と佐々木の会話を珍しいことにおとなしく聞いていた。が、会話が途切れると、ハルヒは非常に不思議そうな表情で、こういった。「なんで、キョンとしゃべってる時は男みたいなの?」「癖、といってもいいかな」佐々木はゆっくりとしゃべった。「あなたみたいに、普通にしゃべったほうがいいんでしょうけど」ハルヒは鳩が豆鉄砲くらったような顔で、一瞬佐々木の顔をしげしげと眺めた。その後、肩をすくめて、俺のコーヒーカップに手を伸ばしかけた。佐々木の手が、そっとハルヒの手を止めた。いつ手を出したのか、まったく分からなかった。最初から出していたような気もするが、まったく覚えていない。「彼は一口も飲んでいないから、せめて一口飲ませてあげたら?」ハルヒは目を瞬きながら、手をおすおずと引っ込めた。佐々木が俺を見て頷き、俺はコーヒーカップに手を伸ばすしかなかった。
もっともハルヒが注文したオレンジジュースはすぐテーブルに運ばれてきたため、俺のコーヒーにハルヒが口をつける心配はなくなった。「しかし、面白いね。君は彼女の振る舞いのすべてを容認しているように見える。それは一体何故だい?」「いちいち止めたところで、止まらないからさ」誰も否定はしないだろう。ハルヒが船長ならば、タイタニック号で氷山を乗り越えることもできれば、船でエベレスト初登頂に成功することさえ、まんざら不可能には思えない。 「それだけかい?」佐々木は興味深そうな色を瞳に浮かべて訪ねて来る。「それだけだ」一年ハルヒと付き合えば、そうするしかないってことが体で理解できるようになる。これは俺だけじゃなく、ハルヒを知る人間すべてが肯定する話だろう。「なるほど。そういうことか」満足げな佐々木の表情は、俺の言葉以外のものを読み取り、それに納得しているようだ。俺はそれに納得がいかん。「あたしは団長なんだし、キョンに行動を容認してもらう必要なんてないけど」ハルヒは佐々木の方を見ずに言った。「そうね。そのとおりね」佐々木は苦笑をうかべ、アイスコーヒーのストローを口にくわえた。するすると琥珀色の液体が上がっていく。「ごめんなさい。あたし、ちょっと言い過ぎたみたいね。謝るわ」ハルヒは一瞬あっけにとられたような表情を浮かべたが、すぐ澄まし顔に戻った。「お二人は仲良かったんですか?」朝比奈さんの声が、奇妙な緊張感をときほぐしてくれるようだ。すくなくとも俺の心に関してはな。「ええ。でも、中三の時だけで、卒業してそれっきり。今日、一年以上ぶりにあっても、全然変わってなくて逆におどろいちゃいましたよ」「キョンくんは優しかったの?」「ええ。いつも私を自転車に乗せて、塾まで乗っけてってくれましたし」「そうなんだぁ」朝比奈さんは柔らかな笑顔で頷いた。「仲良かったのね」目を伏せたまま詰まりかけの掃除機みたいな音を立てながら、ハルヒがオレンジジュースを飲んでいる。どこからかカウントダウンの声が聞こえるような気がしてくる。ゼロを数えたあと、何が起こるのかさっぱりわからんのが怖いな。まるで土の上を歩いていて、足元でなにかのスイッチを踏んでしまったあとで、『地雷原注意』の看板をみてしまったようでもある。「ひょっとして、付き合ってたってこと?」ハルヒは頬杖をつきながら、テーブルに落ちた水滴を指でクルクル回した。「回りにはそう見えたかも」佐々木は意地悪そうな笑いを浮かべた。「でも、そんなことはないですよ。本当、親友って言葉がぴったり」そうだな、国木田を筆頭にいまだに勘違いしている奴が大勢いる。そんなんじゃねえと言っているのにもかかわらず、俺の言うことなどこれっぽっちも聞きやしねえ。なにかにつけて、あの女、あの変な女はどうしたと聞きやがる。「そう」ハルヒは短く言った。「親友、ね」「そう」佐々木はまぶしそうにハルヒを見た。「ね、一緒のクラスなの?」「4月からは分からないけど」「でも、団長さんなんでしょ。じゃあ、お願いがひとつあるんだけど」「なによ」「彼のことよろしくね。キョンって切羽詰まらないと勉強しないから、成績だってあんまりよくないんでしょ。夏までになんとかしないと、放課後は予備校通い決定かもしれない」 「あなたが見てあげれば?」ハルヒは水滴を指で回すのに忙しいと言わんばかりだ。「あたしは……関係ないし」「それができればね。でもできないから」佐々木は恥じるように笑った。「自分の事だけでせいいっぱいなの。恥ずかしいけど、勉強についてくのがやっと」そして、佐々木は俺を見ながら、テーブルに置いた俺の手を指でつついた。「君もそろそろ本腰をいれないと、彼らと遊ぶこともかなわなくなるよ?」細く華奢な指だが、ハルヒのそれとは違うなと当たり前の感想を浮かべた俺は、一つだけ瞬きをした。その瞬間に世界が変わってしまうとは思わなかった。今度から瞬きをするときは、気をつけなきゃいかんと心に決めた次第だ。
目の前から佐々木が消えた。朝比奈さんの笑顔もない。誰もすわっていない二脚の椅子の背もたれが見えるだけだ。「一体、これってどういう……」隣でつぶやく声はハルヒのものだった。「わからん」ハルヒの手が伸びてきて、俺の肩をつかんだ。俺は足元を覗いて見たが、ペットキャリーはどこにもなかった。目の前にあったはずのコーヒーカップも消えうせ、さっきまで店内を満たしていた卒業ソングも聞こえない。「うそ、夢?」そういってハルヒは絶句している。俺は何も言わず、いや何も言うことを思いつかないでいる。この世界に人は俺達しかいないのではないかと根拠もないのに断定できそうに思う。俺は立ち上がった。ハルヒも俺の肩をつかんだまま立ち上がった。「どこかね。ここは」俺はやっと言葉を見つけた。陳腐すぎるが、勘弁してくれよ。答えは解っている。閉鎖空間。これで3度目になるのか。しかし、なにがきっかけだ?ハルヒが言うように、俺が夢を見ているだけなのか。それにしては現実感に富過ぎているがな。外の様子が気になり、喫茶店の出口まで歩いた。緑色のマットを踏むと、自動ドアが音もなく開いた。外は明るかった。空を見上げれば、白く全体が光っているようだ。この世界には海がないのか、それともあくまでも作られた世界だからなのか。生命の息吹なるものはなにも感じられない。どことなく空虚だが、秩序だってはいる。全体は同じようだが、部分を取り出してみれば、違う。あのときは本当に夜だったのか、それとも閉鎖空間にもいろいろあるのか。ハルヒは俺の肩をつかんだまま、キョロキョロと辺りを見回している。「なに、探してるんだ」「いないのよね」「なにがだ」「緑の巨人」ハルヒは俺の目を見ずに言った。神人か。そのうち現われるんじゃねえか? もっともその相手は古泉含むエスパー戦隊に任せて、とっとと帰りたいところだがな。だが、それをハルヒに言う訳にはいかない。「なんだそりゃ」「んー、あんときはやっぱり夜だったのかしら」俺の言葉にかまわず、ハルヒがぼそりとつぶやいた。その時に初めて、人ではない何かが近くにいることを感じた。ぎょっとして振り向くと、ありえないほどのボリュームの髪をたたえた何者かがそこにいた。体積の1/3は髪なんじゃないかと思われるほど、小形の体。どこか見たことのある制服を着込んでいる。顔を伏せたまま立ちつくしている。そいつが突然顔を上げた。小さな顔は透明感がまるで感じられない白い肌。そしてヨーロッパのアンティーク人形を連想する瞳。これまで感じたことのない悪寒が背中を駆け抜けた。人ではないという明確な存在感を感じる。いわば、完全無欠のイミテーション。そいつがそこにいた。
「どうしたの?キョン」ハルヒの声とともに、そいつの姿がかき消えた。おいおい、俺にも妖精が見えるようになっちまったのか、まあ春で春休みなわけで、ちょっとぐらい頭のネジが緩んでたとしてもおかしかねえがな。「大丈夫?」ハルヒの声に心配の色が混じった。俺はハルヒに向き直って、無理やり笑顔を浮かべるしかない。やせ我慢して強がるってのは、いつまでもやめられそうにないね。「ああ、なんでもない」ハルヒは俺の顔を一瞥すると、ポケットからハンカチを出してきた。「すんごい汗かいてるわよ。これで拭きなさい」ハンカチぐらいポケットに入っているのだが、ハルヒの瞳はそれを許しそうにない。俺はハンカチを受け取り、額を拭った。ハンカチは信じられないほどの汗を吸い取った。「洗濯してから返すわ」俺はハンカチをポケットにしまい込んだ。「別にどうだっていいけど」ハルヒは口をとがらせて言った。「それよりも、ここ変な世界ね」「そうだな」「探検しなきゃ」ハルヒはそう言い残して走り去っていく。「あんたはあの喫茶店で待ってなさい」おいハルヒ待て。そう言おうとした瞬間、ハルヒはもう走りだしていた。取り残された俺は、喫茶店へと踵を返すしかなかった。喫茶店の自動ドアの前に立つと、音もせずにドアが開いた。「どうだった?」ハルヒの声に飛び上がりそうになったが、かろうじて抑えた。なんだって、ハルヒが中にいるんだ。「外」椅子に腰掛けたままのハルヒが、そこにいた。「どこ行ってたって、二人で外に出ただろう?」あらゆる角度から見たが、腰掛けたハルヒはハルヒに相違なかった。「何言ってんのよ。あんたが言ったじゃない。『危ないかもしれんから、おまえはここにいろ』って」ハルヒは椅子から立ち上がった。大股でこっちに歩いて来ると、ポケットから純白のハンカチを取り出した。「これで汗、拭きなさい」ハルヒは微妙に視線をそらしつつ言った。「で、どうだったの?外は」俺は、またハンカチで汗を拭った。またもやハンカチは驚くほどの汗を吸い込んだ。汗でべったりのハンカチをハルヒはなにも言わずに回収した。「ああ、あたりは明るかったが、空が白い。なんなんだ、一体」「夢でこういう場所に来たことがあったけど……こういうんじゃなかったわね」「そうか……」「あたしも外に出てみたいわね。キョン、いきましょ」ハルヒは俺の手首をつかむと、出口向かって大股で歩きだす。ハルヒは自動ドアの前に置かれた緑のカーペットを、まるで親の敵のように勢いよく踏んだ。センサーはそこじゃないぜ。自動ドアの上にピカピカ光るLEDのあたりにあるんだ。それでも自動ドアはハルヒと俺を検知して、開いた。
外はなぜか暗い。すべてのものが生気のない灰色に見える。さっきまでの明るさはどこいった。料金未納で電力会社から送電とめられたか?。薄暗い闇の中に見慣れた建物のシルエットが浮かぶ。どちらかといえば、こっちのほうがお馴染みの光景ではある。しかし、一緒に出たはずのハルヒがいない。ほぼ同時に外に出たはずなのだが。もう一度喫茶店に入ろうとした。そこでまた声が掛かった。「なんで、外に出てるのよ。喫茶店で待ってろっていったじゃないの」すこしだけ息を弾ませたハルヒの声が背中から聞こえた。俺はきつく目を閉じて、歯を食いしばった。そうでもしなければ、大声を出してしまいそうだったからな。「大丈夫?さっきから、なんか変よ?」ハルヒの口調はいつになく優しい。「早い事、喫茶店に戻りましょう」「あ、ああ」ハルヒが、自動ドアを先にくぐった。開いたままの自動ドアを通るのをためらってしまう。閉じかけたドアをハルヒは体を動かして止めた。「なにしてんのよ、早く入りなさいよ」俺は目を閉じないよう気をつけながら、自動ドアをくぐった。ハルヒが、奇妙な表情で俺を見つめている。「大丈夫?なんかつらそう。水もって来てあげるから、そこ座ってなさいよ」ハルヒはカウンターに回ると適当なグラスを見つけ、水道水をそこに注いだ。「なにしてんのよ」ハルヒが、グラスを見つめながら言う。「もってってあげるから、早くいきなさいよ」「あ、ああ」俺は後ずさるように移動した。これ以上混乱するようなことがあれば、俺はどうなるか分かったもんじゃない。ハルヒはどこか呆れたような表情を浮かべたまま、グラスを持ってきた。俺は椅子に腰掛けた。ハルヒは俺の向かいに腰掛けて、グラスを俺の鼻の前に突き付けた。「飲みなさい」飲まなかったら、罰ゲームよと続けかねない口調でハルヒが言う。俺はグラスをハルヒから受け取り、一息に飲み干した。「随分喉、乾いてたのね。しょうがないわね、もう一杯注いで…」腰を浮かしかけたハルヒの手首を俺はつかんだ。「いや、大丈夫だ。それより、ここにいてくれ」「どうしたのよ、随分怯えてるみたい」ハルヒは俺の額に触れた。「熱はないわね。……ホントに大丈夫?」「ああ」「ならいいけどさ。団長に水運ばせたんだから、高くつくわよ」「そうか」「そうよ」ハルヒはくすりと笑った。「それより、ここから出る方法考えないと……」「ああ、そうだな」「……夢で、こういうのあったのよね……」なんとなく視線を踊らせながらハルヒが言った。「こういう場所で、あんたと二人でいて」ああ、それは夢じゃないかもしれないんだがな、なぜなら同じ体験をおれもしたわけで……まさか、そんなことは言えないね。黙秘権を行使するのがベストな選択だ。「緑色の巨人が現われてさ、学校壊していくの。キョンに手を引かれて、校庭まで逃げてくんだけど、すんごく楽しかった」何も言うことはないね。俺は黙ってうなずくことしかできない。「でもね、あんたがつまんないことするから、夢終わっちゃったのよね。あたし、ホントにがっかりしたわよ。それから悔しくて眠れなかったぐらい。夢の中だから大目にみるけど、現実にあんな事したら絶対許さないからね」夢の中の事でなんで俺が怒られなきゃならん。そもそもおまえの夢で俺がなにをしたのか、俺に心当たりなどねえよ。「キス」ハルヒはかすかに頬を赤らめて、俺をにらむように見つめている。「あたしが巨人に気取られてたら、ポニーテール萌えがどうのこうといって、あたしの肩をつかんで。まったく、強引にもほどがあるわよ」だから、それは夢の中の話で、現実の話じゃねえだろうが。「そりゃまぁそうだけどさ」口をとがらせたハルヒはそう言った。「それが…違う、それでも悔しいっての」そりゃ、あんときのハルヒは可愛かったさ、離したくないぐらいにな。これもいわば禁則事項だな。「じゃあ、どういうんだったら納得したんだ?」そう言うしかなかった。「こうよ」ハルヒはすっと席を立つと、俺の横に立った。「椅子、引きなさい」複雑な顔を作ったハルヒが言った。「こうか?」俺はすこし椅子を引いた。ハルヒは突然俺の膝に横に座った。見かけよりもずっしりとした重さを感じるね。考えて見れば、あれだけの運動神経を誇るわけで、以外と筋肉質なのかもしれん。ちょうど鼻の下にハルヒの髪があって、いい香りがする。いや、それはともかくとして、なにやってんだ、おまえは。「なにって、見本見せてやろうと思っただけよ」膝の上でハルヒが微笑んだ。俺は瞬きを繰り返す。おいおい、どういう性格の変化だ。こんなあからさまな事はこれまでしたことがないし、今後いかなる未来においてもこんなことをする奴とは思えない。外から戻ってきたときにいたハルヒが本物で、こいつが偽物なのか。そもそも偽物ってなんだ。誰が作った。それを言えば、この世界についても言えることだ。。それとも俺は単純に夢をみているだけなのか?
ハルヒは俺の膝の上でにこにこと笑みを浮かべている。奇妙なことにそれ以上のことはなにもせず、別にいましてほしい訳でもないが、座っているだけだ。「降りろよ」「嫌よ。あんたの膝、暖かいし」ハルヒの笑顔がどんどん近づいてくる。「誰がいるわけでもないし、いいじゃない。秘密ってことで」
ハルヒがそっと体を預けてきた。胸に手をおいて、笑顔を浮かべたまま、顔を近づけてくる。何をする気だ?って、そこまで俺は鈍くねえよ。「見本、見せたげようってのよ」視界いっぱいにハルヒの笑顔が広がっている「目を閉じなさい。やりにくいわね」笑顔のままハルヒが言い、その言葉であわてて目を閉じた。吐息が顔をなでてくる。目を閉じてても、気配ですべてわかる。どんどん近づいてきて、柔らかいものが唇にあたった。「にゃぁ」ネコの鳴き声?なんだそりゃ、ハルヒが見本見せてくれるんじゃないのか。驚いて目を開けば、もとの喫茶店であり、俺の顔をのぞき込んでいるのはシャミセンだった。器用にも前足を揃えて、俺の胸に置いている。シャミセンは、いつもと同じなにも考えていない平和な顔のまま、俺の膝の上で丸くなった。「あんた、どうしたの? 大丈夫?」真横からハルヒの声が掛かり、そっちに首を回すと呆然とした顔のハルヒと目があった。「俺はどうしてたんだ?」「突然ぼうっとして、5秒ぐらいかな。動かなくなって。そしたら、シャミセンが暴れだしたんで、キャリーを開けてやったら、あんたの膝の上に飛び乗って」「キスしたという次第だよ」佐々木の声がハルヒの説明を補った。なんだかさっぱりわからん。俺はシャミセンを抱き上げ、足元のキャリーに押し込んだ。シャミセンは暴れもせずに、すんなりキャリーに収まった。「マイクロスリープという現象があってね、瞬間的に眠ってしまうんだ。疲れがたまっていたりすると発生するらしいよ。さぞかし春休みは充実していたんだろう。でも、時にはしっかり休んだ方がいいんじゃないかな」佐々木の声は事実を説明するというよりも、俺にそう思ってほしいかのように聞こえた。「鍛え方が足りないってことね」ハルヒが表情を元に戻しつつ言った。「まあ、ほどほどにね」佐々木は悪戯盛りの子供のような目をハルヒに向けて言った。「あんまりしつこいと、嫌われちゃうよ?」佐々木のその言葉に、ハルヒはムッとした表情を浮かべたが、口をカモノハシのように変化させただけだった。「さて。僕はそろそろ行こう」佐々木は伝票をつまみあげながらいった。「久方ぶりに会ったってことで、僕が払っとく。じゃあ、また」「あ、ああ」佐々木はすっと席を立つと、そのままレジに向かう。会計を済ませた佐々木は俺に向かい、かるく手を上げるとそのまま出て行った。大いなる秘術を手にした、古の錬金術師を連想するような満足げな表情を浮かべて。「変な友達いるのね」ハルヒは俺を軽く睨みながらいった。「調子狂っちゃう」ハルヒの調子を狂わせるとはなかなかたいした奴だな。尊敬に値するね。「それより、キョンくん大丈夫なんですか?」朝比奈さんが心配そうな笑顔を向けてきた。いや、その笑顔だけで十分ですよ。もうすっかり元気になりましたから。「それならいいんですけど……」「さ、あたしたちも帰りましょ」ハルヒが伝票をつまんで、俺に突き付けた。「おいおい、なんで俺が払うんだよ」「心配料」ハルヒは事もなげにいって立ち上がった。「あたしとみくるちゃんに心配掛けさせたんだから、それぐらい払いなさい」腰に手を当てて、俺を見下ろすハルヒは目を三角にしながらそう言い放った。朝比奈さんに心配してもらったのだから、やむを得ないだろう。俺はハルヒの手から伝票を受け取ると、席を立った。
駅前で朝比奈さんと別れた。朝比奈さんはなぜかキョトンとしている顔も可愛くて、困らせてみたくなる女の子ベスト3には当然ランクイン、殿堂入りも確実だろうな。 俺の隣でハルヒが手を振っている。あれ、おまえは一駅先が最寄り駅じゃねえのか? 朝比奈さんの表情の意味が理解できた。「あんま変わらないの」澄まし顔でハルヒが答える。駐輪所まで移動して、自転車のカゴにキャリーを乗せる。ハルヒは、なぜか俺の隣にいる。手にした紙袋が風に揺れず、重そうに見える。……乗って行くか?「当然よね」ハルヒは、当たり前のことを聞くなとばかりにうなずいた。
ハルヒは軽く俺の上着を掴んで、自転車の荷台に座っている。自転車を大体西の方角に走らせれば、ハルヒの家があるらしい。ところで、西ってどっちだ?いつものハルヒならば荷台に立つところなんだろうが、紙袋のせいなんだろうね。今日は座っている。「こーやって、塾まで乗せていったんだ」「ああ。週に3日だがな。帰りはバス停までつきあってやったりな」「そんだけ?」「そんだけとはなんだ?」「遊びに行ったりはしなかったの?」「成績不振を親に嘆かれてる中学三年だぜ。そんな余裕はなかったね」「まじめに勉強したんだ」「回りがもくもくとやってたし、それにつられてな」「ふ~ん」「ま、過ぎた話さ。想像してるようなことは、なにもねえよ」「なにも想像してないわよ」ぺちっと背中を叩かれた。「バーカ」「痛てえよ」痛くもかゆくもないが、こう言っておかなければ、エスカレートしそうだからな。「……なんで、付き合おうと思わなかったの?」「へ?なんでっていわれてもな」「あんな可愛い子、そういないわよ」不意に背中に堅いものが押し付けられた。拳より大きく感じるから、頭だろう。「そうかもな」恥ずかしさが背中から広がるようだ。「じゃあ、付き合えばよかったじゃない」ハルヒの声はくぐもっていて、少々聞きとりずらい。「意味がわからん。別にそういうんじゃないって言っただろう?」「あくまでも友達ってこと……?」「そういうことだ」「あたし…とキョ…いい。なんでもない。忘れて」「どうした? なんか忘れ物でもしたのか?」「違うわよ、バカキョン」ハルヒは俺の背中に軽く頭突きを当てた。痛くはないが、なんか恥ずい。そもそも二人で自転車乗ってるんだから、もうちょっとおとなしくしてろよ。頼むからさ。「忘れなさい。いますぐに」ハルヒのナイフみたいに尖った声が飛んだ。「分かった分かった」悪ガキにはかなわないね。15分ほど自転車を漕ぐと、ハルヒの家に到着する。初めてくるが、なんの変哲もない普通の家だった。えてしてそんなもんかもしれん。あまりにも奇妙な形の家とか、宇宙船みたいなのとか、ああこの親にしてこの子ありってところを期待していた部分もあったがな。「じゃあ」ハルヒは背中を向けて歩きだした。片手をあげ、ひらひらと振っている。「ああ。……明日はどーすんだ?」「休んでれば?」ハルヒの声はそっけなかった。「疲れてんでしょ?」ハルヒは一度も振り向かずに、家の中に消えた。俺はため息をひとつついて、自転車を家に向けて走らせた。
おわり
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