デートスポットに行こう!
動物園に行こう!の続き。
春休みを満喫しているのか、それともただ金の無駄遣いをしているのか分からないのだが、妙にお土産が部屋に増えている。遊園地で買ったペンスタンド(ハルヒに押し付けられた)や、動物園で買ったペナント(ハルヒが見つけた)なんかが机に乗せられている。そういう金の無駄遣いの続きではないが、俺はベッドに寝転がり、週刊情報誌を眺めて、ハルヒとの約束を果たすために、あれやこれや考えているところだ。
『そのような陳腐な情報を検索する時間は、いかに無意味なことであるか、身に染みて後悔する時がいずれ来るよ』などというくだらないメールに『ほっとけ』と返信することも忘れてはいない。
そもそも『春休みに二人だけで出掛けよう』などと約束したことを後悔している真っ最中だ。おまけに告白してしまったことと合わせて、大陸棚より深く反省している。人に言われなくても身に染みて分かっている。が、メールの相手はしつこい。『恋愛感情などという思い込みや勘違いから生まれる、いわば精神錯乱にも似た感情を君が覚えるとは意外だね。一体相手に何を期待しているのかね』というメールに『なにも』と返信していると、夜も深まってしまい、電話をかけるのもやや遠慮する時間になってしまった。
いくつかの候補はあがったものの、点を線で結ぶのが結構面倒だな。映画は最初から候補にいれていない。見たところで、どうせあいつの愚痴を延々聞くことになるだけで、それはとてもうっとしい。映画なんざ、雨宿りの場所としてしか検討の価値はないね。
『君の話を聞くかぎり、きっと相手は君をからかって遊んでいるだけに過ぎないと推察できる。そのような戯れで青春という貴重な時間を浪費したところで、君が得られるものは虚無でしかないと、僕は思うよ』 読むだけで疲れるメールに『おまえもな』と返信した。くだらねえメールを送って来るのも時間の浪費だということが、なぜわからん。春休みはまだある。明日のこととして、今日は寝ることにしよう。俺は週刊情報誌を閉じて、部屋の明かりを消した。
翌朝はどんよりとした雨雲が空を覆い、いまにも雨を降ってきそうな空模様だった。こんな日に出掛けるほど酔狂ではなく、家でごろごろしているに限るね。途中で放り出しているゲームもあることだしな。だらだらと朝飯を食い、パジャマから部屋着に着替えたところで、携帯がぶるぶると震えた。またくだらないメールかと思ったが、ハルヒからの電話だった。もっともくだらなさは双璧といってもいいのだが。『なにしてんのよ』ぶっきらぼうな声が聞こえた。「おまえと電話」『……約束、覚えてんの?』できれば反故にしたく、できればこのまま怠惰な春休みに突入して、新学期を迎えたいところだがな。さすがにそうは言えない。「覚えてるぞ」それで電話は切れた。俺はため息をついた。雨降りそうだってのにな。まったく面倒くさいことこのうえもない。俺はハルヒに電話を掛けなおした。「なによ」「あしたかあさって、暇か?」「そんな先のこと、分かる訳ないでしょう?」ハードボイルドな言葉が返って来るとは思わなかったね。「そうか。じゃあ、またな」俺はため息をついて、電話を切ろうとした。「よ、用件をいいなさいよ」電話のむこうから、焦ったような声が聞こえた。「……いつでもいいんだが、二人だけでどこか出掛けないか?」「いいわよ」即答だった。「これからなら、9時待ち合わせでいいわね」「今日か?」どう考えても雨になる雲行きなんだがな。「いつでもいいんでしょう?なら今日にしましょう」どうやら主導権は必ずハルヒが握ると、すでに決まっているらしい。
昼に小雨が降り、夕方からところによって激しい雨という天気予報を念頭に服を選び、「こんなこともあろうかと」なグッズをショルダーバックに突っ込んだ。無くしても惜しくない傘を傘立てから抜いて、家を出た。
コースはすでに決めたのだが、さりとてハルヒが納得するかどうかは分からない。納得しなければ、永遠のループが待ち構えているかもしれないと思うと、背筋に冷たいものが走るね。永遠の春休みはちと勘弁してほしい。こういう経験をもってそうな古泉にアドバイスをと思ったが、なぜか電話が繋がらない。どこに行ったんだ、あいつは。案外、異端者として地下牢に閉じ込められ、裁判を待つ身なのかもしれん。その裁判の判決は、最初から火あぶりと決まっているのだがな。または、どこか電波の届かないところでバイトに勤しんでいるのか。閉鎖空間とか閉鎖空間や閉鎖空間でな。たしかあそこは圏外だったはずだ。どっちにしろ新学期に会えるかどうかは微妙な情勢だな。
いつもの待ち合わせ場所で、ハルヒを見つけた。薄手のナイロンジャケットに、裾を黒いレースで飾ったオレンジ色のプリーツスカート。ちょっと可愛いと思う自分に、呆れるほかない。足元はショートブーツ、水玉模様の傘までしっかり準備して、雨対策は完璧といいたげだ。ハルヒは落ち着いた表情を浮かべているが、周囲に冷たい雰囲気を漂わせ、まるで氷の女王のように見えなくもない。「よう」俺はハルヒに近寄って、声を掛けた。ハルヒは控え目な笑顔を浮かべた。なんとなく照れているようにも見えなくはないが、その照れる理由がよく分からない。「おはよう」その上目づかいの照れた笑顔はなんだ? とても恥ずかしいぞ。「さて、行くか」俺はハルヒから視線をそらしつつ言った。「そうね……って、どこ行くの?」俺の手首に手をそえるようにしながら、ハルヒが言った。「最新デートスポット巡り、だ」「デ、デートスポット?」ハルヒは目を見開いて言った。「デ、デート?」「そうだ。春だしな。それとも映画でも見に行くか? 雨降りそうだしな」「その、デートスポットって、一体どこよ?」衝撃から覚めやらぬ表情でハルヒが言う。「電車に乗ってから話そう。すぐ来るだろう」
雲行きの怪しさに、人の出もすくないと見えて、電車は空いていた。俺とハルヒは4人掛けシートに腰掛けている。妙にハルヒが体をくっつけてきて、いささか窮屈だ。甘い香りがどこからかただよって来るのだが、それはハルヒのシャンプーか、それともハルヒがいま口にしたキャンディーなのか、区別がつかない。「で、デートスポットってどこ行くの?」「まずは新装開店のビルでも冷やかしにいこう。最新デートスポットらしいぞ」「それで?」「そこで飯食って、それで水族館でも眺めに行こう」「ふんふん。それから?」「でもって、家に帰るわけだ」夕方には大雨が予想される訳で、とっとと家に帰ったほうが良さそうだ。もっとも、こんな日じゃなければ、夜桜見物でも見にいってもいいのだが。「夜桜を見に行きましょうよ。やってるはずよ」「雨降ったらどうするんだ?」「傘もってんじゃない、あんたも」こいつは念のためであって、別に夜桜を見に行くために用意したんじゃない。それでも、譲ってやるしか他に手立てはない。「雨次第だな」俺はそう言ったが、ハルヒはまるで聞いちゃいない。夜桜、夜桜と口の中でうれしそうにつぶやいている。豪雨の中、夜桜を見学しようとして係員に制止されるバカ二名が脳裏に浮かんだ。そして怒り狂うハルヒ。その横で頭を抱える俺が鮮明にイメージ出来る。その前になんとか理由つけてハルヒを誘導するしかねえだろう。映画か、食事か。そういうもので回避するしかねえな。俺は車窓の外に広がる、厚い雨雲を眺めながら思った。
電車が目的地のホームに滑り込み、俺とハルヒはホームに降り立った。目的地の空はいくぶんか回復傾向にあるようで、次第に明るくなっているように見えた。が、雲の層は厚く、今日一日雨が降らなければラッキーというところか。
デートスポットというものに出掛けるのは、今日が初めてなため、一体どんなものなのか、興味が沸くというものだ。デートを楽しくする工夫がなにかあるのだろうか。そもそもそういうもので、デートを盛り上げる必要があるのだろうか。俺にはよく分からない。もっとも、ハルヒを楽しませてやれば任務完了であり、あとは心安らかに新学期を迎えられることだろう。とにかく、今日という日をなんとか頑張るしかないね。
横文字のキャッチフレーズを惜し気もなく使ったビルに向かう。カップルや、グループなどが流れて行くので、あえて地図を確認する必要もない。場所がわからないと困ると、携帯のお気に入りに地図を登録していたのだが、そんな必要はなかったようだ。
ハルヒは比較的無口というか、ほとんど押し黙っている。機嫌でも悪いのかと思えば、さにあらず、どうも緊張しているような表情を浮かべている。「どうしたんだ?」疑問が思わず言葉になった。「え、別に。なに?」ハルヒが珍しく挙動不審ぎみに答えた。「いや、口数が少ないように思ってな。気分でも悪いのか?」「そんなことないよ。……ちょっと緊張してるってところ」「なんで緊張してるんだ。リラックスしろよ。いつもみたいに」「そ、そうね」ハルヒは視線を落としながら答えた。「緊張することないわね」ハルヒの手が俺の手首に添えられるようにおかれた。それはくすぐったいので、やめてほしい。俺はハルヒの手をとった。ハルヒの小さな手を包み込むようにつないだ。ハルヒはすこし息を飲んだが、指をからめるようなつなぎ方を選んだ。「こっちのほうが、それらしいでしょ?」すこし顔を赤く染め、ハルヒがつつましい笑顔を浮かべた。それは、なかなかの破壊力をもっていた。
ひょっとして、ハルヒは俺のこと好きなんじゃないのかと、勘違いしてしまいそうな程に。
いまのはスリップだぜ。いいパンチだったが、かすってバランス崩しただけだ。まだまだ俺は冷静だ。戦えるさ。相手はあのハルヒであり、恋愛なんて精神病の一種と公言してはばからないSOS団長であり、コスプレ好きで世界を破滅に追い込みかねない他称神様である。まあ、俺がハルヒのことを憎く思っていないのは事実だがね。それにつけこんで、遊んでやがるだけなのさ。そうだ、それだけのことさ。
「あそこじゃないの? 目的地」ハルヒの声に我に返った。なかなか洒落た雰囲気のビルが目の前にあった。中に入ってみれば、さすが新装開店だけあって、きらきらとさまざまなものが輝いているな。「新装開店って、なんかパチンコ屋みたいじゃない?」エスカレーターに乗ったハルヒが言った。「そうか? 間違っちゃいないと思うんだがな」ハルヒはうきうきとした笑顔を浮かべている。さきほどまでの緊張はどこへ行ったのか、普段のハルヒが戻ってきているようだ。エスカレーターを降りて、2Fフロアを歩くことにした。情報誌によれば、広々とした開放的なスペースがうんぬんであったが、人が結構いるため、開放感はあまりない。というか、妙に暗くないかここ。 「なんか高そうなお店ばっかりねぇ」ハルヒが不満そうな声を出した。「そうだな。高校生にはちと不向きな場所かもしれんな」「まあ、たまにはこういうところに来るのもいいけどさ」「……ひょっとすると、ここはセレブフロアか?」ふと情報誌に書いてあったことを思い出した。「そーゆーフロアなんだ。でも、セレブと呼ばれる人がこんなとこ来るかしら?」「それは知らん。が、16万の靴を平気でまとめ買い出来る人のための場所だ」「靴の値段を気にせず、買えるぐらいのお金持ちになりたいものね」ハルヒはため息をついた。「そうだな。まだ可能性は残ってるさ」パンドラの箱に残った希望程度ぐらいにはな。「上にいきましょうか」ハルヒがため息と共に俺を誘った。
ひとつ上は宝飾品フロアであった。ハルヒは目を輝かせた。いやぁ、きれいだとは思うのだが、桁がひとつ二つ三つは違うな。婚約指輪の相場は給料の三カ月分なんて、根拠の分からないキャッチフレーズの下には、150万円の値札がついたダイアの指輪が置かれていた。結婚を意識するような年齢で、月50万円の給料を貰えるものなのか。まったくリアリティが感じられない。せいぜい50万円がいいところではないのか。それとも実は日本国民全員実はセレブで、俺達だけが貧乏人なのだろうか。「なら、そのときまでにしっかり貯金して、ちょっと見栄張ればいいじゃない」ハルヒが平然といった。「それはそうなんだろうがな」「変な心配しないの。あんたと結婚するような物好きがいるとしたら、ちゃーんと配慮してくれるって」「そうか?」「そうよ」ハルヒは優しい笑顔で俺を見上げた。「そういうもの」「ま、いま心配しても仕方ねえか」俺はため息を一つ付いた。「そうそう」「そんな相手、見つかるのは当分先だろうしな」「………」ハルヒは口を尖らせて、俺の手を強く握り締めた。「痛いぞ、ハルヒ」「ばーーーーーーか」地を這うような低い声で、ハルヒが言った。
売り場によって価格帯が別れていることに気が付いた。高校生からのジュエリーなコーナーを見つけて、ハルヒの目が変わった。「そういえば、ハルヒってアクセサリしてないよな」「校則あるしね。なきゃいけないって訳でも無いし」「なるほどな」「925シルバーは安いんだけど、手入れが大変だし」「そうなのか」「黒ずんじゃうのよ。酸化するんだと思ったけど」「ところで、18Kってのは、超合金かなにかか?」「バカ?」ハルヒは俺を見上げて言った。その哀れむような目はやめてくれ。「18金よ、18金。合金であることは間違いないけど、超合金じゃないの」「そうか」「あ、これなんかどうかしら?」ハルヒは細い銀のチェーンネックレスを取り上げて、首元に当てた。きらきらとおしとやかに光っていて、好印象って感じだね。「いいんじゃねえか?それは925シルバーなのか?」「925シルバーにプラチナコーティングだから、ちょっとマシかもね」「値段もお手頃だな」「そうね………」ハルヒはニコニコ微笑みながら、俺の目を見つめている。その物欲しそうな目はなんだ。………いや、分かっている。シャミセンが空の餌入れを見つめてから、俺を見上げる目とか、妹がケースの中のショートケーキをガン見してから、俺を見上げる目。そんな目と同類だな。ああ、分かっているさ。分かっているとも。「ダメ?」ハルヒが小首をかしげて、微かに微笑んだ。いいパンチもってんじゃねえかよ。いまのはダウンを取っていい。俺はため息と共にうなずいた。勝利者は高々とガッツポーズを決めてから、苦笑する店員さんにネックレスを渡した。敗北者たる俺はしぶしぶ財布を出し、なけなしの札を数えるしかなかった。
戦利品を手に勝利者は上機嫌となり、敗北者は軽くなった財布に涙した。次のフロアは、レディースファッションなるフロアであった。ハルヒはお手頃価格のお店に入って、ぐるりと店内を観察して、出て来るということを繰り返している。睨みつけるように品物を物色するハルヒに、店員も声をかけずらいようだ。ワンポイントのワニが有名なお店で、ハルヒはニットの白いミニスカートを手に取った。「こんなの、どう?」「いいんじゃねえか。でも透けそうだな」「裏地ついてるから平気じゃない?。なんなら重ね着にも使えそうだし」「そういうもんか」俺にはわからん話だな。「そういうもんよ」ハルヒは、にこりと俺に笑い掛けた。「ちょっと着てみるね」そういってハルヒは、店員さんに付き添われて、試着室に消えた。カーテンが閉まり、布ずれの音が聞こえ、またカーテンが開いた。「どう?」ハルヒは、奇妙なポーズを取りながらたずねた。ああ、セクシーポーズってやつかと気付くのに、たっぷり2秒掛かった。「春っぽいな。なかなかいいんじゃねえか?」「透けてないよね?」ハルヒは、そっと小声で俺に尋ねた。「残念なことに、覗かないかぎり見えそうにないな」ハルヒが目を三角にして、カーテンを閉めた。後ろで店員さんがくすくす笑っている。そんな面白いことを言った覚えはないんだがな。
お会計を済ませると、ハルヒは白い紙袋を手にしたまま、俺の腕に腕をからませてきた。すこしばかり甘い香りを感じて、頭がクラクラしてしまう。いかん、これはハルヒの罠だ。どうせ俺をたぶらかし、悪事を計画しているに違いない。もっとも、ハルヒが女の子だということを、思い出すきっかけにはなるな。ハルヒの腕を振りほどく理由もなく、そのまま歩きだす。「上のフロアはなに?」「えーと、雑貨フロアらしいな」「行ってみましょう」ハルヒの弾んだ声が耳に心地よく感じられた。
雑貨コーナを巡っていると、昼食の時間になった。レストランフロアをうろうろ巡って、もはや定番のパスタ屋に入った。本日のランチを頼めば、ふたりで2000円だ。これでも安いほうなのだから、正直うんざりしてしまう。外に出て食えばよかったかと反省しきりだ。パスタを食べ終わったころに、携帯が震えた。確認すると、またくだらないメールが届いていた。『いまどこにいるのかな。ひょっとすると君は非生産的な行動をしているのかもしれない。悪いことは言わないから、早い事家に帰ることを推奨するよ』テーブルの下で、『大きなお世話だ』と返事を送ってやる。「どうしたの?」ハルヒが興味深そうにたずねた。「くだらないメールが届いたから、メールを返してたんだ」「ふうん、メル友ってやつ?」「ま、そうだな」「あんたにもそういうのいるのねえ~」「ほっとけ」「くだらないって、どんなメールなの?」ハルヒは身を乗り出し尋ねてきた。俺はハルヒに携帯を渡してやり、食後のコーヒーを口にした。ちょっとシロップ入れすぎたか。ちと甘すぎるぜ。ハルヒは携帯を一瞥すると、俺に返してきた。「ふ~ん、変な友達がいるのね」「回りくどい言い方が好きらしくてな」俺は携帯をしまい込んだ。窓からみる空はまた暗くなっていた。
食事を終わらせて、会計を済ませた。珍しくハルヒが金を出してくれた。俺の財政はもはや満身創痍。ハルヒの罠かもしれんが、いまはどんな裏があろうともありがたい話だった。ビルを後にして、外に出た。いまにも大粒の雨が降ってきそうなほど、雨雲は厚く、そして暗い。「これから、どうするの?」俺の腕にぶらさがるように掴まったハルヒが言う。なんか、表情がいつもと違うね。なんというか、非常に可愛いというか。愛らしいというか。ボディに重いパンチを浴びている、そんな錯覚さえ覚えるね。だか、こんなことじゃ、俺はダウンしたりしない。「水上バスに乗って、水族館に行くつもりではあるんだが」「んじゃ、行きましょ」
水上バス乗り場は、電車を乗り継ぐことになる。どの電車もかなり空いているのが、奇妙と言えば奇妙だ。だが、隣にハルヒがいることを思えば、偶然でもないし、奇妙でもないだろう。 「逆にこういう天気に出掛けるのって、チャンスかもしんないわね」などと上機嫌でハルヒが言う。「そうだな。雨さえ降らきゃな」「天気がいい日なら、もっといいけどね」「それはそうだな」平日の真っ昼間、堂々と出歩けるのは、春休みの特権ではある。が、なにも今日でなくとも良かったのにな。「ね、春休みって、どこか出掛ける予定あるの?」ハルヒがおずおずと尋ねた。「春休みも残りわずかだぜ。そんな予定はねえよ」「それもそうね。ね、天気がいい日にさ、二人でまた出掛けない?」非常に返答に困る質問だね。といっても、返事はひとつしか許されていないしな。「ああ。そうだな」こう答えないと、目の前にいる破壊神は納得しそうにない。うれしそうなハルヒの横顔をみていると、なんだか申し訳ない気持ちになってくるのは、どうしたもんかね。
水上バス乗り場は最寄り駅から結構歩かなければならない。強い風が、ハルヒの髪を踊らせた。雲は相変わらず低く、そして黒い。「ちょっと、なに期待してるのよ。その目はなに?」ハルヒがスカートを押さえながら言う。「幸運な偶然」「金取るわよ?」睨みつける目にいつもの迫力はなかった。「すでに結構貢いだぜ。それぐらいサービスしろよ」「ばーか。ま、見えたって平気なんだけどね。実は」ハルヒがスカートの裾を持ち上げるのを見て、俺はあわてて視線を外した。妖怪みたいな声でハルヒが笑った。ちっ、おちょくられてるだけじゃねえか。
水上バスのチケットを買って、順番を待つ列に並んだ。風が出てきているものの、水上バスは遅延なく出港するようで、なによりだ。「でも天気よければさあ、いい気分だったかもしれないね」ハルヒはやや残念そうな表情を浮かべたが、自業自得という言葉を知らないのだろうか。「まぁな。だが、天気がよければ、こうすんなり乗れるとは限らないさ」「それもそうね」ハルヒは優しく微笑んだ。おいおい、雰囲気がいつもと違うぜ。なんか甘ったるく、やたらと女の子女の子してんじゃねえか。まったく、俺を勘違いさせて、何を企んでるのかね。
時間通りに水上バスはやってきた。行列が動き出し、船に乗り込む。後ろの方だが、窓際の席を確保することに成功した。15分ぽっちの船旅だ。ハルヒはかなり喜んでいるようで、これまたなによりだ。出港のアナウンスが流れ、船はゆっくりと動き出した。川というか、運河というか、そういう場所にはさまざまな船が停泊している。大きなマストを備えたヨットが係留されているのが見えた。屋形船がゆっくりと走っているのが遠くに見える。カモメが旋回しながら、飛んでいる。遠くに大きな船がみえる。岸壁に母はいないのか探して見たが、見つからないな。ハルヒは俺の腕にしがみつくのをやめて、外を眺めている。とても安らかな顔で、リラックスしているように見える。「いいわねえ、こーゆーの」ハルヒは背伸びしながら言った。「なんか癒されるわねえ~」そんなTVの情報番組みたいなことを言わないでほしいものだがな。「なんかすごく、雲が厚いわねえ」「ああ、確実に雨降りそうな感じだな」「そうね。もし、雨が降ったらどうする?」「ま、様子を見ながら帰る方向に移動するってところかな」「ね、これから行く水族館ってさ、水上バスでないといけないの?」「いや、電車でもいけるさ。駅からはちょっと離れてるがな」「そうなんだ」「ま、帰れなくなることはまずないから安心しろ」「心配してないけどね」「そうですか」「あんたと二人だし……ね」ハルヒの意味ありげな表情に、胸の奥がどうもざわついてしかたがない。まったく、どこまで俺で遊べば気がすむんだろうね。
水族館に降り立つと、雨がポツリポツリと降ってきていた。一斉に傘の花が開いたが、ハルヒは傘を開かずにニコニコ笑顔を浮かべて俺を見ている。あーはいはい。と、俺が傘を開くと、ハルヒは俺の腕をつかみ、歩き始めた。「相合い傘って、久し振りねえ」「そーですね」「なに変な顔してんのよ」「変は余計だ」「あ、分かった。恥ずかしいんでしょ。あたしと相合い傘するのが」「………」「図星?まったく、恥ずかしがり屋なんだから」俺は何も言わず、水族館の窓口に足を早めた。
チケットを二枚購入して、水族館に入った。お子様連れの家族が目立つね。みな小学生といったところか。中学生の男女混成グループもいた。なんというか、非常に微笑ましい光景に見えるね。「あ、ちょっと待ってて」そういいのこして、ハルヒはトイレの方向に消えた。俺も小用を済ませたものの、ハルヒの姿はまだなかった。携帯を確認すると、またくだらないメールが入っていた。「いまはどこかな。もうじきひどい雷雨になるというよ。足止め食らわないうちに家に戻った方が賢明だと思うがね」わざわざ気象情報を教えてくれたのには、感謝してやっていいかもしれない。が、大きなお世話であり、返事をする気にもならない。「お待たせ」ハルヒの声が聞こえ、俺は携帯をポケットにしまい込んだ。「またメール来てたの?」「ああ、雷雨になるとさ」「親切なんだか、邪魔したいんだか、わかんないわね」「ま、この中にいるときに、雷雨がくる分には構わないさ」「そうね」
突然、肌にぴりぴりするものを感じた。こんな感覚は生まれて初めてだ。理由はわからないまま、ハルヒを抱き寄せた。ハルヒはキョトンとしながらも、抵抗しなかった。俺の胸に手を置いて、ハルヒが俺の顔をのぞき込んだ瞬間だった。空気を震わすような大音響とともに、館内の照明がすべて消えた。非常灯だけが点灯している。騒然とする館内。どうやら雷が落ちたようだ。ほどなくして、照明が回復した。「うそ……」ハルヒの表情は固まったままだ。「雷?」「どうやらそうらしいな」館内放送が始まり、落雷があったことを知らせた。落雷とともに雨が降り出したようで、しばらく外に出ないようにしたほうがいいとの忠告付きだ。
外は大雨、展示をのんびりみて回ることにした。ラッコを何度みても、毎回大きいと思うのはなぜなのだろうか。丸々とふとったゴマフアザラシはTVでみた方がかわいいね。近くでみるといかにも獣といった感じで、あまりかわいいとは思えない。しかし、オットセイとアシカとアザラシって、何が違うんだったかと悩むな。「オットセイとアシカは同じアシカ科で、アザラシはアザラシ科よ」呆れたようにハルヒが言う。「物知りだな」「そこのプレートに書いてあるわよ」ハルヒは展示水槽の隣に掲げたプレートを指さしながら言った。
ペンギンと海鳥コーナーには、ちょっとした腰掛けが用意されていて、のんびりペンギンを眺める事ができた。トコトコ歩いたかと思うと、水に飛び込んで、まるで飛ぶように泳いでいる。それに飽きると、また上陸してぼーっとしているようだ。うらやましい生活だな。ああうらやましいさ。おれも来世はペンギンに生まれたいね。「いいわね~ペンギンって」ハルヒがため息をつきながら言った。「そうだな。うらやましいな」「お腹が空いたら魚採って、寒くなったら日向ぼっこして。あたしも、来世はペンギンがいいかもしれないわねえ」なぜか脳裏にハルヒペンキンに尻をたたかれる俺ペンギンの映像が浮かび、本当にうんざりしてしまう。この世はあきらめてやるから、せめて来世ではハルヒに出会わないことを神に祈りたいね。真剣にな。
ペンギンコーナーを後にして、サンゴ礁コーナーへと移動する。色とりどりの魚がサンゴを中心に泳いでいる。「グレートバリアリーフの海。だって」ハルヒがプレートを読み上げた。なるほど、特に名前を言うのがはばかれるキャラのオリジナルであるカクレクマノミがイソギンチャクを寝床としている姿が見受けられる。「キレイよねえ」ハルヒはうっとりとつぶやいた。「ほう、ハルヒはこういうのが好きなのか?」「ロマンチックじゃない。決めたわ、新婚旅行は絶対ここね。誰がなんと言おうとここよ」「………」奇妙な映像が脳裏に浮かび、言葉が出なくなってしまった。「どうしたの?頭押さえたりして」ハルヒは不思議そうな顔で言った。「いや、特に。何も」「そ。じゃ、次に行きましょうか」ハルヒはスカートをひるがえし、歩きだした。
お次はクラゲコーナーであった。夏の海水浴場の名物でもあるミズクラゲや、いわゆるドククラゲ、カツオノエボシなんかが展示されている。どこかで真水に生息するマミズクラゲなどというものがいるらしいのだが、ここには展示されてはいない。照明効果とあいまって、なかなか幻想的な雰囲気を出している。ハルヒはそのコーナーを一瞥しただけだった。別段、これといって興味はないらしい。「クラゲってあんまり好きじゃないのよねえ」「海で刺されたのか」夏の裏風物詩として有名だな。「美味しくないから」ああ、そっちの話か。
一通り見て回ると、本来はイルカショー見物となる訳だが、外はものすごい豪雨につき、中止となった。確かにガラス窓にはこれでもかと雨がたたきつけられている。雨があまりにも凄くて、景色が滲んでぼやけている。そろそろ夕方になろうとしているのもあり、外は急速に暗くなっている。もっともこの水族館は春休み期間中に限り、夜8時まで営業しているから、いまのところ豪雨に身をさらす必要性はない。俺達は出口付近の休憩所でのんびりココアを楽しんでいるところだ。「こんなに雨が降るとは思わなかったわ」「そうだな。あの雨じゃ、傘ではずぶ濡れだぜ」「せっかく夜桜楽しみにしてたのになぁ」ハルヒはつまらなそうな顔でいい、俺の靴をかるくけり飛ばした。「おいおい、俺のせいじゃないだろう?」「あたるところないもん」ポケットの携帯が震えて、またまたくだらないメールが届いた。『予想どおり、豪雨が振り出したようだね。落雷で電車も立ち往生らしい。どこに誰といるのかは分からないが、今日中に帰れるといいね』まったく、うっとおしいことこの上ないね。「どうしたの?」ハルヒが携帯をのぞき込んできた。「またメール届いたんだ」「ああ」「なんか嫉妬してるみたいな文面ね。ひょっとして相手は女?」「元クラスメートさ。事あるたびにメール送ってきやがる」「ふ、ふ~ん」ハルヒは口をすこし尖らせたが、すぐ戻した。「友達、よね?」「ああ」「その……仲良かったの?」視線をそらせたまま、ハルヒが尋ねた。「どうだかな。自分では良くわからんが」「遊びに行ったりしたんだ?」「それはないな」俺は返信の文面をどうするか考えながら言った。「返事はなんて書くつもり?」「それをいま考えてるところなんだが……」ハルヒがひょいと俺の携帯を取り上げた。ぺろりとかるく舌なめずりをして、返信メールを打ち始めた。「こんなもんで、どお?」ハルヒが得意そうに携帯を見せた。『嫉妬はみっともないぜ』とだけ書いてあった。「そういう関係じゃねえぜ」「そうじゃなくて、好きな相手が誰かとイチャイチャしてれば、ムカつくものなのよ」「それはそうだが……」ハルヒは俺の言葉を待っていたかのように、送信ボタンを押した。「まあどんな返事が返ってくるか、楽しみではあるな」「でしょう?」ハルヒは我が意を得たりとうなずいた。「きっと、あたしたちの邪魔をするために、こいつが大雨降らせたり、雷落としたりしてんのよ」「そんなこと出来る奴じゃねえよ」出来そうな奴は目の前にいるがな。「出来ないって思うから出来なくなっちゃうのよ。きっと、気象をコントロールできるのよ、こいつは」ハルヒは鋭い目で断定した口調で言った。
ハルヒのトンデモ理論はさておき、相手はごく普通の人間で、おまえみたいな特殊な力なんか持ってねえよ。そう言おうとした時に、メールが返ってきた。『突然何をいいだすのかな。僕は君にそのような感情を持っているとどんな証拠を元に言っているのかな? 勘弁してほしいものだな』「ほら。焦ってる焦ってる」ハルヒがうれしそうに言った。「こいつをギャフンと言わせれば、大雨は止むんじゃないかしら」「なにをまた訳のわからん事を」ハルヒは口をとがらせて、指で俺の携帯をトントンとたたき始めた。ニカっと笑顔を浮かべると、メールを打ち始めた。そして俺に携帯電話を見せつけた。『だったら、なぜくだらないメールを送ってくるんだ?』俺は黙ったまま頷いた。似たようなメールはこれまでも何度か送っている。ハルヒは笑顔のまま、メールを送信した。メールの返事を待ったが、一向に返ってくる気配はない。あんなメールを送られれば、よほどのアホでないかぎり、メールを返す気はなくなるだろうね。「これで雨は止むわ。かならずよ」ハルヒは世界征服の野望をかなえつつある悪役のような顔で言った。その割に無垢な笑顔を浮かべているのだが。確かに正義の味方というよりは、どちらかといえば悪の首領で光るタイプだとは思うね。最終的には正義の味方にやっつけられるのかもしれんな。そこまで付き合ってやるかどうかはさておき、隣には居てやりたいものだ。一人じゃ、寂しいからな。
ココアのお代わりを頼んだところで、愕然とするような声が聞こえて来た。『雨上がったみたいよ。そろそろ帰れるみたいね。急ぎましょう』頼んでしまったココアをゆっくりいただいたところで、水族館を後にした。道は濡れていて、側道は川のように水が流れていた。すべてが青くみえる時間の中で、街灯がやけにはっきりとあたりを照らしだしている。空を仰げば、星がきらめき、すっきりと晴れあがった空が見て取れた。あんなに厚い雨雲は、どこへ消えたのやら。「これで、夜桜見に行けるね」ハルヒは傘をぐるぐる回しながら言う。「バカ、危ねえだろ、それ」「あたらないように気をつけてるって」「しっかし、きれいに晴れ上がったもんだよなぁ」俺は天を仰ぎ見るように言った。「あたしの言ったとおりでしょう?」ハルヒが微笑みながら、俺の腕にぶら下がった。
最寄り駅まで移動したところで、ハルヒはトイレの方向に消えた。結構混んでいるようであり、疑念を晴らす時間はありそうだった。早速古泉に電話をかけて見ることにする。もし、出なければ長門に聞けばいい。「ああ、これはこれは。なにかありましたか?」かなり疲れた声の古泉に、俺はいま起きたことを古泉に説明した。「そうですか……そんなことがありましたか」「ああ、ハルヒの奴がメールを送って、しばらくしたら雨が上がった」「情報不足ゆえ、推測でしかありませんが」古泉はいつになく慎重な物言いだった。「考えられるのは、涼宮さんがあなたのメル友を踏み台に力を行使し、その結果、気象情報が改変され、雨が上がったというところでしょうか」「そう考えるのが無難か」「ええ。あくまでも推測でしかありませんが……」「分かった。悪いな」「ついでといってはなんですが、僕の愚痴も聞いていただけませんか、いや大変な目にあいまして。これでもかと閉鎖空間に」「悪い。ハルヒが来た」俺は電話を切り、携帯電話をポケットにしまい込んだ。まあそんなことだろうと思っていたがな。俺はぼんやりと人の流れを見ながら思った。大雨も雷もそう珍しいことではない、筈だ。しかし、ハルヒの力だけですべてを説明するのはいささか無理があるような気がしなくもない。舞台に出てない登場人物でもいるのかね。だとすれば、敵かね、味方かね。味方ならばよろしくやってほしいし、敵ならばお手柔らかにお願いしたいものだな。どっちにしろ、俺はとしちゃあハルヒのお守りで精一杯だからな。そこのところを忘れないでほしいもんだ。
ハルヒがトイレの方から姿を現した。俺の視線に気が付いたようで、笑顔を浮かべ、こちらに歩みよってきた。「夜桜、見に行くでしょう?」背筋をピンと伸ばしてハルヒが言った。「ああ」ハルヒが俺の手をしっかりと繋いだ。指をからめるような握り方に、心まで搦め捕られたように感じてしまう。「あたしね、いいとこ知ってんの。そこに行きましょう」太陽を思わせる笑顔が、そこにあった。
電車に揺られること10分。電車を降りて、5分ほど歩いた。雨上がりの路上はまだ濡れていて、きらきらと街灯を反射している。ハルヒは踊るように歩いている。うれしくてたまらないといった感情であふれているように見える。「道濡れてるんだ。んな、歩き方してたら転ぶぞ」「分かってるって。大丈夫」遠くに明かりが見え、スポットライトに照らされた桜が見える。薄いピンクの炎のようにも見えなくもないね。公園の入り口で入園料を払った。玉砂利が敷かれた道を歩いて行く。見事な桜がすぐそこにあった。あんな土砂降りの雨にも負けていなかったのか、それともあれは局地的な雨だったのか、桜はまだ花を枝一杯につけていた。大勢の人が桜を取り囲み、携帯電話をむけて、シャッターを切っていた。ハルヒはそれを一瞥しただけで通り過ぎていく。目的地はここじゃなのか。さまざまな木々が植えられた庭園を二人で歩く。すでに夜のとばりが降りていて、スポットライトに照らされた場所には影しか見えない。公園の奥は、港に面していた。かもめの鳴き声が遠くに聞こえる。風は止んでいて、聞こえる音と言えばかすかな水音だけだった。ハルヒはなにも言わずに、そこの道をただ歩いて行く。遠くは夜霧がでているのか、かすんでよく見えない。
水門を越え、更に歩いた。突き当たりを右に曲がり、また歩いた。人影がない道を行けば、玉砂利を踏み締める音しか聞こえない瞬間を繰り返す。「もうちょっとなんだけどね」ハルヒがそっと呟いた声がはっきりと聞こえる。道が広がり、そこには大きな桜の木がライトに照らされていた。大きく枝を広げ、枝一杯に花をつけている。それはそれは見事な桜だった。薄暗い場所にベンチを見つけた。ベンチは雨に濡れていた。こんなこともあろうかと、カップル用レジャーシートを持って来ている。俺はそれをベンチに引いて、ハルヒと二人で腰掛けた。
微かな風にあおられたのか、花びらがすこしずつ舞い落ちていく。その一枚一枚をスポットライトが照らしている。「なかなかいいでしょ」ハルヒが微笑むのがわかる。「ああ、キレイだなぁ……」俺はあまりの美しさに言葉が続かない。ハルヒは俺の腕にしがみつき、頭を俺の肩に押し付けている。ハルヒの方から、微かに甘い匂いがただよって来る。「ねえ、あたしが言いたかったこと、なんだか分かる?」「いや」「鈍感」ハルヒが頭でぐりぐりと俺の肩を押した。「こんだけアピールしてんのに、まだ気が付かないの?」「そんなこといわれてもなぁ……」困った。本当に困った。「やれやれ、ね」ハルヒの手が伸びて来て、俺の頬に触れた。柔らかく、すこしだけくすぐったい。「こっち見て……」ハルヒの瞳に、きらきらと光るものがあった。水の底から上がって来る気泡のように光を反射している。「お願い……」ハルヒはそれだけを言うと、瞳を閉じた。すこしだけとがった唇の柔らかさを味わいたくなるね。禁断のリンゴのように、俺を誘惑しやがる。これを食してしまえば、楽園を追放されることが判っているのに、味わいたくてしかたがない。ああ、これがハルヒの罠だったわけか。甘ったるい罠に、俺はひっかかってしまったのか。そっとハルヒと唇を重ねたその瞬間、ハルヒは身を堅くしたが、すぐに元の柔らかさを取り戻した。唇をどれだけ重ねていたのかは覚えていない。わずか数秒のことだったようにも、数分間はそうしていたようにも思える。ハルヒは唇を離すとうつむいて、深いため息をついた。「判った?これがあたしの気持ち」うつむいたままハルヒがつぶやいた。俺は大きく深く息を吸い、それを吐き出した。「ああ。すまんな、……いままで気づいてやれなくて」なんてこったい、俺は最初から全部勘違いしていたというわけか。自分の間抜けさ加減に、涙がでてきそうだぜ。ハルヒが照れたような笑い声をすこしだけ漏らした。そのまま閉園時間まで過ごしてしまったのは、しょうがない話だろう?
「バカキョン、急ぎなさい!!!」ハルヒが大声でどなった。「おまえも急げって!!!」俺も負けずにどなった「急いでるわよ。やばい、発車のチャイムなってるわよ!!!」最終電車に乗り遅れては、史上最大級の言い訳大作戦の実行が不可避になってしまう。それを回避するためには、この階段を駆け登る必要がある。俺とハルヒはあのあと、夜の町で食事をし、まだまだ余裕だとカラオケ屋にくりだしてしまった。はい。高校生としてあるまじき時間帯まで遊んでしまいました。二度としないので許してください。……許してくれるかは神のみぞ知るというところか。ぎりぎりセーフで電車に飛び乗ることが出来たのは、ふだんの行いゆえだろうな。ハルヒと二人、おもったより混んでいる電車の戸口に立っている。これであと数十分でわが家まで帰れる。二人で安堵のため息をついた。
ハルヒを家まで送ってやった。すこしの小言を頂戴しただけで済んだのは幸いだったな。顔をみせてやると親が安心するからと、ハルヒにもらったアドバイスは的確だったようだ。ハルヒにとっても同じ効果があるのだろう。わが家に帰り着いたころには、もうとっくの昔に日付変更線を越えていた。母親からの小言をたっぷり頂戴し、深夜に遠慮しながら風呂を使った。重い体をベッドに横たえた。意識してなかった疲れをしっかり感じるぜ。そのまま夢の国へ旅立とうとしたが、携帯電話が震え出した。てっきりハルヒだろうと思って電話を取ったが、意外な人物からだった。「やっと、お帰りですか?」古泉の声が電話機から聞こえて来る。まるで死者からの電話を受けているような気になるね。いや、なんとなくだが。「ああ。で、こんな時間にどうしたんだ?」「いえ。すこしだけ時間を頂戴したいと思いまして」「なに?」「僕の苦労話をぜひ聞いていただきたいのです」「明日にしてくれよ……」「いえ、ぜひいま聞いていただきたいのです」古泉は憤懣やる方ないといった口調で、ここ二日で受けた想像を絶する苦労なるものを話し出した。俺は携帯電話の受話音量を最小に絞り、床においた。頑張れ、古泉。だれも聞いちゃいねえがな。応援だけはしてやるから。俺は即、眠りに落ちた。
おわり
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