夏風のコンチェルト 1
おれ達ってのはいつから子どもの心を失くしちまったんだろうな。気がつけばもう高校生。いつまでも右手にどこぞの星雲からやってきたお人よし宇宙人を握っていていい年でもなくなったというのは重々理解しているけどな。正義と悪。宇宙人未来人超能力者。そういう幻想の中に引きこもってるのもだめだってわかってるつもりさ。時間とは無慈悲、そして生きるものの運命だ。そしてそれに伴うだけの成長を、人は遂げなければならないのさ。 だがそんなつまらないリアリズムに傾倒しつつあったおれも、ここ最近は非常識が包み込まれた現実に引きずり込まれつつあった。おれの前に現れた宇宙人、未来人、超能力者。そしておれをその渦中に無理やり連れ込んだ張本人、涼宮ハルヒの存在のせいである。こいつの勢いはバンバン打ち上げられる打ち上げ花火のようだ。無尽蔵のエネルギーをもってすべてをこんがらがらせてしまう意味不明の力と存在感を持っているようだ。 いや、この場合はおかげ、というべきなのかもしれないな。なぜならなんだかんだでおれはこの非常識というものを心のどこかで望んでいたのかもしれないからである。そしてごく普通の一般人には決して味わうことのできないことを当たり前のように経験しているのだ。慣れつつある自分の感性が恐ろしい。ではおれはこの現実にどう対応すればいいのだろうか。一度網に絡みとられた以上恐らく脱出するのは不可能だろう。こんなわけのわからん状態に陥る程にまで複数の網が複雑に絡み合ってるのだ。なら答えは簡単だ。楽しめばいい。心行くまで。自分の身を案じた上でな。 わざわざおれの周り、正確には涼宮ハルヒの周りで馬鹿騒ぎを起こしてくれるというのだ。これに便乗して、どうせなら存分に笑い飛ばしていようじゃないか。 そう開き直りかけていた高一の夏だった。 だが結局、おれは自分の愚かな認識を改めねばならないのかもしれないと思わざるをえなくなったのだが。 それは涼宮ハルヒの思考回路。そしてあいつに群がるそれぞれ非常識を体現している連中の頭の構成。言ってしまえば認識が甘かった。ここまで意味不明だとは思わなかったさ。 ちなみにこの時、季節は夏。夏真っ盛り。夏といえば?お祭り、海、花火と数え切れない風物詩。ハルヒに引っ張りまわされておれ達は遊びつくした。そう、そうして始まったんだ。とあるイベントがな。幽霊、妖怪、あやかし、魔物。この国のご先祖さんはどいつもこいつも頭がハルヒ並と言ってもいいかもしれない。風習から様式から風体からこんな怖いもんばっか作りやがって。こういうもんじゃ世界でも指折りの出来なんだからよ。 最初はほんの冗談だったんだ。だが場所が悪かったのだろうか。 何が起こったのか、これを理解するだけでちょっと頭がおいつかないくらいだった。だけどおれは純粋に、子どもであることの大切さを感じていた。会って、遊んで、別れて、また会って、非常に充実していた夏。 いや、充実しすぎていた。沢山の経験。すさまじい夏休み。正直おれは経験しすぎた。これはこれで、と割り切ることも出来ないくらいにな。 夏の風が湿気とともに清々しさを呼んでいた。それだけで終わればことは簡単だったんだ。 暑いな。それは当たり前でもうすっかり夏だった。期末テストも終わり時間旅行を経て七夕も終わり、終業式を済ませ合宿を終わらせた。もうすぐ終わらない夏休みを経験することになるのだが、それは今回は別の話である。おれは里帰りを終え自宅に戻り、リビングで本を読んでいた。ページをめくり、物語の世界へ。一つの文章から想像の世界へ。たまにはこういうのも悪くない。これはわかる人にはわかるだろうが、おれにしては非常に珍しい光景だった。うちの母親はようやく勉強をする気になったかと勘違いしていたし、妹は熱でもあるのかと言いたげな不思議な目でおれを見ている。誤解しないように言っておくが、おれにはそんな気などさらさら無い。勉強はおれには向いていない、というか勉強に向いている人間などこの世に存在するのかと尋ねたいという人間性を持つのが、おれだ。そんなどうでもいいことを思いながらおれはひたすらページをめくっていた。若干頼りない主人公が周りに振り回されながら戦い、謎を解いていく過程。長門から借りたハードカバーだ。あいつが好きなSFものに心霊現象という存在が立ち塞がる濃い一品だ。取り立ててやることがあるわけでもなく、お金も無く、何かして過ごしたいということもあり、以前の部活の際に長門にお願いしたらこの本がおれに転がり込んできた。 中盤にもなると、巻き込まれたことに嫌気が差していた主人公も程ほどにやる気が出ていたようで、おれはこの巻き込まれたという境遇になんとなく同情と共感を感じていた。 なぜかみんなはわかると思う。もうそろそろ半分だな。そうぼんやり思っていたとき、本がうっすらと青から橙色へと変化していたことに気づき、時間の移り変わりの早さに改めて驚いていた。それとともに夕焼けが空を赤から薄紫、そして深い青に染めていく。夕焼けが生み出す焼け付く日差しを網戸を通して浴びながら、夏色に煽られる風鈴をBGMにしておれは読書に耽っていた。夏の暑さは相変わらず。だがどこまでも夏らしく、ささやかに吹く風が心地いい。エアコンなんていらないね。…少なくとも今だけは。 テレビでは地方の花火大会の様子を中継で垂れ流されている。まるでお天道様が日にちを合わせたように花火日和と言える晴天で、今日はかき氷が売れそうだと屋台のおっさんが向けられたマイクに話している。祭りと名がつけばどこへでも行くと、いかにも職人魂を見せる粋なおっさんだった。いかにもハルヒが食いつきそうな話題だが、場所があまりに遠いので勘弁してもらいたい。蝉がうるさい。ツクツクボーシはまだ現れていないようだ。どの種類かも判別がつかないほど蝉の泣き声が大音量で響いていた。…それにしてもハルヒか。休日のハルヒって、一体何やってんだろうな。 気がつけば夜になっていた。おれは晩飯の準備を手伝えというメッセージを含んだ妹の捨て身タックルで我に返り、妹にデコピンをかましてやってから冷やし中華を食った。ちなみに妹は両手で額を押さえていた。「いたいよぉキョンくん」「やかましい」ところで冷やし中華って一体どこが中華なんだろうな。いつもながらの家庭の味。この場合はおふくろの味。ま、十分にうまいからいいんだけど。おれはさらりと食い終わり、続きを読もうかと我ながららしからぬことを考えていた。 テレビでは延長戦に持ち込まれた甲子園にいつの間にか変更されており、それに気づかなかったことでおれにしては結構読書に集中していたなとなんとなく自分で自分を褒めてやりたい気分になっていた。気分は上々。家族の機嫌も今のところおれにとってはグリーンゾーン内。また予備校がどうたらとか言われても正直困るとしか言えないからな。さて、続きでも読むかと思ってソファに腰掛け本を手に取ったとき、おれの携帯がなにやら光っていたのに気づいた。どうやら着信履歴あり、と。そんな奇特な人間なんかハルヒしかいないだろう。また面倒ごとに巻き込まれなきゃならんのかね。ふと見やった外の深く青い空が沈んだ色に見えた気がした。そう思いながら確認してみる。発信者名は…長門有希。これは普通に嫌な予感。ハルヒよりもタチの悪い相手かもしれないと思った自分の頭をぶん殴りたくなった。我ながら気持ちはよくわかるがな。なぜならこいつから呼び出されて嬉しい目にあった覚えはおれには無い。でもやっぱり気づいた以上こっちから掛けなきゃならないよな。掛けなきゃならないよな?よな?掛けたくなくてもな?たとえ嫌でも…腹を括れ馬鹿者。なぜだかおれは焦っている。落ち着けおれ。そういう時は身を隠すんだ…馬鹿、混乱するな。こんなときにガン○ムネタは…いやなんでもない。とりあえず、家族が変な目で見てるぞ。ふと見やった空は、更に深く沈んだように見えた。おれの気分は空に影響を与えるんだな…おれの頭の中でだけだけど。 おれはそそくさとリビングを後にし、自分の部屋で長門に電話をかけた。コール一回きっちりで出る。こいつも相変わらずだよな。「……」そして相変わらずの無言の応対方法。慣れてないとこっちが焦るぜ。「長門か。お前おれに電話したよな」「した」迷いのない答え。それだけに事務的。ならこっちも事務的にいこう。「ご用件は」「本」「本?お前から借りたやつか?」「そう」「あのSFかぶれのホラー?」「そう」「あの重さだけは一番のハードカバー?」「そう」「あのいじけた主人公?」「そう」「あの」「そう」「まだ何も言ってないぞ」「…そう」なんて起伏のない会話。おれたち一応高校生だぜ。「で、なんでまた?」「期限」「何の?」 「今日まで」 というわけで、おれは今自転車を走らせている。とりあえずあの図書館で待ち合わせ。肩に鞄を提げて自転車をこぐ。まったく、デートならもっと明るいときにもっと目的地から離れたところで待ち合わせるべきだろうに、よりによって現地集合かよ。SOS団御用達の駅を自転車で通り越し、そのまま長門と歩いた探検コースに倣って図書館へ向かった。空はご機嫌、チャリもご機嫌。満天の星と光る満月が大地を青く染めていた。明るいな。ネオンの灯かりが邪魔だっつの。なんとなく見覚えのあるところだ。もうそろそろだろう。自転車をこぐ足に力を入れて住宅街を、商店街を、川を橋を駆け抜けていた。夏の夜って、なんか魅力的なもんがあるね。「ん?」おれはこの辺自体はそんなに来るわけではない。だからこんなところにあるわけことを不思議に思ったわけではないのだが、中々の広さがあり何より暗い雰囲気が存分に醸し出されていたのでふと自転車をこぎながら目をそっちにやってしまった。 墓地だ。 自転車をこぎつつ目を凝らして看板を見た。ええっと、浄土真宗?門の看板にはそう書いてあった。浄土真宗か。日本でも相当有名な仏教だっけ?親鸞?法然?よくわからんがあの石山本願寺の流れを汲むってわけか。信長だかと戦ってたとこだよな。どうでもいいか。 それにしても夜の墓地ってのはなんか不気味だな。暗く、冷たく、背筋を舌で舐められたようにゾッとする感覚があるぜ。さも当然のようにそこに佇む姿がより一層恐怖をかきたてる。そう言えば宇宙人、未来人、超能力者と非常識な連中が揃っていて思うこともあるが、他に非常識な連中はいるのかね。これで言うなら幽霊か。そもそも幽霊ってなんだろう。死んだ人が怨念を纏うって本当にあるのか。いい霊と悪い霊の違いは?人間の想像が生み出したアホらしい概念ではないのか。つーか幽霊って仏教の考えでもないような、どちらでもいいような…あいまいなんだよなその辺。 そう思っていたとき、墓地の方向から何やら物音がした。足音?物音?何かがいる気がする。おれは胸が爆発しそうになり、思わず自転車を止めた。なんだなんだ。ただの墓を管理している人とか、墓参りしにきた人とか、そんなだよな。暗くうすら寒そうな墓の奥で、影がうろついていた。やばいやばい怖い。でも目を逸らせない。おれは自分の好奇心を呪った。 その物影らしきものが動いた。青い光に照らされその姿がうっすらとだけ見えた。 甚兵衛を着ている男の人だった。手ぶらだったが、なんか普通に歩いている。 なんじゃそら。思わず肩の力が抜けた。どきどきして損したわ。しかもその男、どうやらそれなりに若いようで、なぜかおれはどこかで見たことのある気がした。夜空が照らす青白い光が、彼をそれなりにかっこよく表していた。おれはなんとか思い出そうと首をひねっていたが、そのとき時計が目に入り、「やばい、時間が。」おれは諦めて自転車をこぎだした。そう、今のおれに大切なものは、墓をうろつく兄ちゃんじゃなくて長門との待ち合わせなのだ。急がないと、なんとなくおれとして遅刻するのは気が引ける。時間にルーズだと、おれは思われたくないのさ。 「やっと着いたな。」やっとなかなかの大きさを誇る総合図書館が見えてきた。おれが図書館に着いたとき、既に長門は入り口で立っていた。自転車をこいでいたのがおれだとわかっていたのか、入り口あたりからずっとこっちを見ていた。駐輪場に止めて鍵をかけ、チェーンを閉じて入り口に向かう。最近の自転車の盗難にはかなり悪趣味なものがあるからな。こないだ強制撤去されときだって…あれは完璧におれが悪いか。長門はじっとこっちを見ていた。いつも通りの制服姿。こいつは私服というものをもっていないのだろうか。「長門。待ったか?」長門は首を横に振る。「大丈夫」こいつの大丈夫ってのはいまいちな、理解の範疇から脱してしまうんだよな。「本は?」おれは持ってた鞄から例の本を取り出した。「ちゃんと持ってきてる。」長門はこっちをじっと見て軽く頷いた。「そう」おれは図書館の中を外から覗いてみた。中央の待合の右辺りに受付があり、まばらに人がいた。片手に本を持ち勉強をしていた人もいれば、友達とひっそり会話している人もいる。本の貸し借りは二階だ。「本日は十時閉館、と。けっこう余裕あるもんだな。期限が今日までなら前もって言ってくれればよかったのにな、長門よ」長門も隣でちらりと中を覗きながら何事もないように答えた。「期日通りに返せれば問題はない」ま、そう言われればそうなんだけどな。 「へえへえ。ここにはよく来るようにはなったのか」長門は直立不動のまま中を見ている。「そこそこに」そうか。「そう」「よく借りたりするのか」「それなり」会話が続かないな。「それより長門。お前私服持ってないのか?今も制服ってなあ」今度はこちらを向いた。「平素に振り舞えれば問題はない」…確かにそうなんだけどな。「不自然?」絶対にそう、ではないが普段の服装に気を配るのは普通の高校生の姿であると思うぞ。「普通?」そうだな。より高校生らしいって言えばいいのか。長門はほんの少しだけ首をかしげている。「…そう」そう言って長門は歩き出した。仕方がない。おれはそれについていった。 自動ドアをくぐり階段を上り、カウンターの前に立ち、おれが本を手渡して、長門がカードを出す。この間約一分。ずいぶんと手馴れているようで、図書館のカウンターの人も長門に見覚えがあるようだ。そう言えばそのカードはおれが作ってやったんだっけ。あの頃と比べれば長門もずいぶんとこっちに溶け込んでいる気がするものである。そう思いながらおれは周囲を見回していた。長門がカードを出し、手続きをしている後ろで、おれは実質何もすることがなかった。図書館にもそれなりに人がいた。やっぱりしんと静まり返っており、この空気を決して壊してはいけないという雰囲気が漂っていた。するといつの間にかおれの目の前に長門が立っていた。「おわっ!」長門はおれの驚きのリアクションにはまるで反応せず、一言だけ「終わった。」と言った。「そうか。で、どうするんだ。」少し首をかしげて、おれに伺うように口を開いた。「少しだけ、本読んでいっていい?」いやと言えるわけがないだろう。 おれが一応快諾した後、長門は少し早足で本棚の方へと歩き出し、気がついたら読み始めていた。長門は分厚い本ばかりの本棚でいつぞやと同じように動かなくなり、おれもいつぞやと同じようにゆったりとした椅子に腰掛け目を閉じた。 おれは走っていた。理由はわからない。周りはひたすら暗く、おれはぬめっとした雰囲気の中、ひたすら走っていた。そして思わず口走った言葉はこうだ。「なんでおれがこんな目に。」そのとき、自分の耳が何かに反応した。「……」なんだ。今、どこかで声が聞こえた気がする。なぜかおれの心は高揚している。木漏れ日のように微かなもの。だが、それだけにおれの心がそちらへ向く。よく耳を澄ませ、おれの直感が告げている。今のは聞き逃してはいけない。「…」「…」今のはうっすら聞こえた気がする。でもまだ何を言ってるのか理解できない。おれは走っていた。目を開けても目を閉じていても何も見えない。だが何かにぶつかるのではという不安はなかった。「…キョン」! 聞こえた。おれの名前?誰かがおれを呼んでいるのか。だがおかしい。何かがおかしい。今の違和感は一体なんだ。声が、重複している。 いくつかの声が重なっている気がする。「き…ぇ……ぁ…ぃ…の…ぁ」「キョン…キョン」何を言っている、一体何のことだ。どうせ呼ぶならなら本名で呼んでくれ、ってそんなことはどうでもいい。だがなんとなくどれかの一つは女の声な気がする。高く、そして響く。その声が段々とおれへと近づいてきた。よく聞いてみると、その声はおれの後ろから聞こえる気がした。誰かがおれを呼ぶ声が、段々、だんだんと後ろから近づいてくる。気がつけばもう、そばにいる。すぐ後ろに迫っていた…足がすくんで確認はできない。そして、 冷たい手がおれの首をつかんだ。 「キョン…」恐怖で後ろに振り向けない。冷たい、怖い、苦しい。だが、その声は脳みその芯に響いた。あまりにも聞きなれたその声。涼宮ハルヒの声だった。 そして、もう一つの手が、おれの肩に触れた。 「うわぁっ!」おれは勢いよく身を起こした。目を覚ませばここは図書館。当たり前だが自分が睡眠をとろうと着いた席だ。…恥ずかしい。おれはまたここで叫び声を上げてしまったのか。なんたる恥晒し。だが一つだけ違うものがあった。目の前に長門有希がいた。長門の手がおれの肩に置いてあった。「…起きた?」 ってことはまさか、起こしてくれたのか。「…ああ、スマン。どれくらい寝ていた?」長門は時計も見ず、ただこっちを見て言った。「もう閉館。」周囲に人はいなかった。閑散とした図書館。いつも通り静かではあったが、人がいるときの独特の空気がなくなっていた。ただ広く、そして空っぽな空間。でも、空しさは無い。そしてカウンターの人がこっちを見ていただけだった。すいません迷惑かけて。おれは起き上がり、長門は歩き出した。意外なことに、図書館の係員のおじいさんの「またおいで。」という言葉に長門が反応した。なんと長門はそのおじいさんに軽くだろうが一礼し、そして歩き出したのだった。ちなみにおれは深く頭を下げた。ホントすみません。…それにしても、まさか長門に起こされるとはね。 こうしておれは図書館を後にした。おれは先ほどまで眠っていたこともあり、やけに元気になっていた。夜空の満月がやけに眩しい。今日は本当にいい天気だな。夜には夜の美しさがある。どこかでそんなのを聞いたことがある気がした。ガードレールを挟んで右、車が次々とおれ達を追い越していく。アスファルトで覆われた県道沿いの狭い歩道。でもおれ達がゆったりと通るにはお似合いの道だった。これから家に帰って寝るだけだというのに、まったく今日は眠れるだろうかね。おれは自転車を押して歩く。とりあえずこいつを家まで送る手筈だ。どれくらいかかることやら。隣で歩いていた長門は、片手にしっかり図書館の本を抱えていた。「それ、借りたのか?」長門はうなずいた。「面白いのか?」多分、と答えた。「あのおじいさん、いい人だな。」また長門はうなずいた。「よくあの人はいるのか。」またまたうなずいた。「…慣れたか?色々なものに。」長門は言葉をゆっくりと発しているようだった。「多分。」多分、か。前のこいつは口を開くことすらしなかったかもしれないからな。 それにこいつを初めて見たときの時点では、こいつとこうして歩くこと自体考えられなかったと思う。こうして話せるだけでも、こいつも変わってきたのかもしれない。そして多分おれも。ハルヒ達の騒動と付き合うにつれておれも少し色んなものに寛容になったのかもしれないな。あくまでも、「かもしれない」って、話だがな。「どうして笑ってるの?」長門がおれの表情を読み取ったのか、通り過ぎる車のライトに照らされる小さな顔が、おれの横で無表情のまま言葉を発していた。なんでだろうな。その答えはきっとおれの中では出ているのだろう。だけどな、「…なんでもない。」口に出して言おうとは、流石に思わないさ。 そして先ほど通った墓地をまた通る羽目になった。相変わらずの暗い雰囲気。あんまりみつめていると取り込まれそうでいやだな。おれはまだそちらの住人になるつもりはないのでな。おれの心に、この世の謎。つまりは少し気になることがある。長門は、情報統合思念体はこの不確かでおれ達にはよくわかっていない存在をどのように捉えているのだろうか。おれは足を止め、長門に話しかけた。「なあ、長門。」長門は前を向いたまま返事だけをする。こちらもそれに倣う、。「なに。」「幽霊って、いるのか?」長門はマイペースを崩さない。「それは禁則。」「禁則?お前も朝比奈さんに影響されたのか。」長門はこっちをちらりと向いて、そのまま口を開いたような開かなかったような曖昧な表情のままおれから目線を逸らした。「……ぃ」口だけ妙に動いているだけだった、気がする。「なんだって?」「…別に。」こいつにも意思表示する概念が生まれたのかね。 「じゃあ、幽霊ってそもそもなんなんだ?」「それも禁則。」「なぜだ。」「幽霊などという人の意識が関与する曖昧な存在について語ることは禁止。」そうかい。ホント、よくわからんこだわりを持っているやつらだよ。とりあえずおれは墓地の方に適当に指を差してみた。「じゃあ、こういう墓地を見てどう思う?」長門が発した言葉は、あまりにも予想通りのものだった。「別に何も。」そのときだった。 ガサガサッ… また墓地の方から物音がした。再びおれの胸から太鼓の音が鳴り響いた。思わず差していた方の手を胸に持っていく。おれの心臓がドカドカと派手に脈打っていたが、長門は本当に何も思うところは無いようだ。長門はあまりにも平然としている。今度の音は明らかに何かが潜んでいる音だ。今度はなんだ?さっきの男の人が懐中電灯を落としただけ、とかだったらいいのだが。そう思っていたそのとき、草むらからいきなり何かが飛び出してきた。おれは目玉が飛び出しそうな勢いだったが、長門はものすごく普通。 本当に心臓に悪い…。今日だけでおれは寿命を3日は減らしたね。
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