ユキキス 第一章
夢。夢の中にいる。いつもと同じ風景の、終わりを感じさせない繰り返し。ゆっくりとまどろみに揺られながら、ひとつのことをただただ願ってしまう。目を閉じて、もう一度開けたとき、少しでもこの風景が変わっているように、と。 久しぶりに、すがすがしい朝を迎えた。空は白の中に微かに青をのぞかせていて、反対に地面には銀が広がっている。こんなに気持ちがいいのはなぜだろうか。その答えはすぐに出すことはできなかった。しかしなぜか、昨日見たなんでもないような夢が思い出される。そう、その夢も、この現実世界と同じ、爽快な風景が広がっていた。カーテンを開け、ゆっくりと背伸びをする。時間がゆっくり流れている、ということばを初めて身体で実感した日だった。 リビングへ降り、朝食もそこそこに家を出る。今日は休日だが、例のごとく俺は不思議探索へ狩り出されることになっている。このところできるだけ早くに来るようにしているが、それでもあの4人のほうが到着は早い。財布の中身を少し確認しながら、俺は待ち合わせ場所へと歩を進める。サクサクと音を立てる足元が、今日はなぜか違った音に聞こえた気がした。別に嬉しいことなんて特にないのに、今日はどうしたのだろう。いつもより少し浮かれた気分になっている自分自身に、少し違和感を覚えていた。 「まったく遅いわねえ。あんた何時に起きてんの?」「いつものことだろ。大体、お前らが早すぎるんじゃないのか?」「あたしが来たときはもうほかの三人は来てたわよ。 大体、いつもお金払わされて、あんたそれで文句ないの?」「じゃあお前が払えばいいじゃないか」「なにそれ!?」「す、涼宮さぁん、外は寒いですから、中に入りませんか?」「そうね。こんなところで無駄話して風邪でも引いちゃあ、たまったもんじゃないもの」ハルヒは、口調こそ喧嘩腰だが、そんなに怒ってはいないように見えた。あいつは、こんなやりとりはもう慣れっこだというふうにしか思っていないだろう。 近くの喫茶店でたわいもない話に花を咲かす。入学当時は、どうして貴重な休日をこんなことで潰さなければならないのだ、とも思っていた。しかし、特に他の部活にも入る気がなかった俺には、この不思議探索はいい休日の暇潰しになっている。それに、かなりの確率で美人女子高生と二人きりで街を歩けるのだ。朝比奈さんと一ヶ月連続で街を回ることができたら、それこそ至福の極みと言えよう。 外を眺めている間に、いつものくじ引きの時間がやってきた。無論、俺は最後に引かされた。ハルヒから引かされた爪楊枝の先端を確認すると、印はついていなかった。以下に、古泉…赤印、朝比奈さん…赤印、長門…無印、ハルヒ…赤印。どうやら今日は長門とのペアになりそうだ。 「じゃあーキョン、有希に何かしたら許さないからねっ!」ある意味では捨てゼリフとも受け取れるハルヒの言葉を後に、俺たちは分かれた。「じゃあ長門、行くか」俺の言葉にミクロ単位でうなずく長門。さすがにそれはわかりにくいぜ。 「さてと、どこ行くか?」「……どこでも、いい」「図書館がいいか?」「……悪くは、ない」「じゃあ、図書館で決まりだな」作戦成功。今夜、いや今日はゆっくり眠れそうだ。 お目当ての場所に着き、早速俺は空いている椅子を探した。とりあえず、カモフラージュと自分への言い訳のために何か本を持っていよう。昨今の都会の高層ビルのようにそびえ立つ本棚の中から、適当な重さの本を一冊手に取った。長門を見ると、相変わらずなのかハードSFの本を読みふけっている。長門と少し距離を置いて座り、俺は手に持っている本を開いた。内容は、スポ根漫画のようなものだった。といっても、読む気なんかさらさら無い。鮮やか過ぎる空調と木漏れ日の誘惑に、俺は夢見るように落ちていった………。 ふと、誰かに揺さぶられている感覚を覚え、俺は目を覚ました。いつのまにか、俺の隣には長門がいる事に気づいた。「な……長、門?」慌ててフロントにある時計を見たが、そんなに時間は経っていなかった。「お前が……起こしてくれたのか?」俺の質問に首を縦に振り答えを返した長門。「………そうか。少し早いけど、そろそろ帰るか」「……もう少し、ここにいさせていい?」「ああ、いいとも。じゃ、俺は先に帰るから、遅れんなよ……」そういって席を離れようとする俺のセーターを、長門が掴んだ。「あなたにも、もう少しここにいてほしい」「ん?なんでだ?」「…分からない。でも、あなたがいないとわたしは………」一瞬、長門は言葉を詰まらせた。「…いい。この感情はわたし個人のエラー。前言を撤回する」「いや、わかった。もう少し、ここにいさせてもらうよ」「……ありがとう」そして俺は、もう少し図書館にたむろすることになった。 もう集合時間も近いので、俺は眠らないように真剣に本を読むことにした。しかし、それにしても長門はなぜあんなことを言ったのだろうか。いつもなら、まるで人がいることも気にせず本を黙々と読み続けているのに。今日の長門は、いつもとは少し違うように見えた。いやいや、そんなのは俺の考え違いだろう。きっと長門は、本に熱中しすぎて集合時間に遅れるのを恐れたからであろう。ここの図書館は本がいっぱいあるからな。長門にしちゃ、欲望の宝庫なのだろう。誰だって、自分の好きなものがたくさんある空間に放り込まれたら、理性のリミッターが外れるに決まっている。 本のページをめくる手を止めた俺に、長門が声をかけた。「………どうしたの?」「うおっ!?…なんだ、長門か。少し、考え事をしてたんだ」「……そう」「そろそろ時間だし、帰るか」「そうする」 待ち合わせの場所へと、俺たちは歩を合わせる。空を仰げば、白が朱に染まり、朝には地面を覆いつくすほどの銀も、今は草木と同化するだけだった。街を歩く人々は、みなそれぞれの世界へと入っている。幸せそうな顔をしている。一方で、俺と長門との世界は、沈黙に満ちていた。だんだんと静かに暮れていくのであろうこの道に、俺たちもまた静かに歩いていた。 「あなたに、質問したいことがある」黒いキャンバスにひと筋の白を落とすように、長門がぽつりと話し出す。「ん、なんだ?」「あなたは、わたしと不思議探索をしていて、楽しい?」「そりゃあ、つまんなくはない。だが、どうして?」「あなたは、わたしと一緒になるときは、いつも図書館を選ぶ」「そういえば、そうだな」「そしてあなたは、いつも本を読んでいる途中で眠る」「ほ、本を読んでいると眠くなるんでな」「あなたがいつも図書館に行きたがるのは、なぜ?」「うーん、そりゃあ、お前は図書館にいるときが一番満足するかなと思って」「……そう」 その後、長門は立ち止まってしまった。「どうした?」俺の問いかけに長門は応えず、俺の目の前に歩いてきた。「では、あなたは、わたしと図書館にいて、満足?」「ど、どういう意味だ?」「黙って本を読み続けるわたしと一緒にいて、あなたは満足?」俺の瞳だけをじっと見つめ、言葉を放つ長門。彼女の瞳は、長年人々に見捨てられた宝石のように、淡く切なげに輝いていた。そして俺の心拍数は、わけも分からず異常な上昇を続けている。胸の苦しみで自分が満ちていく中で、俺はひとつの言葉を吐き出した。 「お前が満足できるような場所なら、俺はどこでも満足だ」 長門は驚いたように口を半開きにした。「ほんとう?」「ああ。だから、もうそんなに自分を卑下するな」「わかった」「じゃあ、そろそろ行こうか」 「待って」振り向く俺の背中に、長門が声をかけた。「まだ、何かあるのか?」「あなたに、渡したいものがある」そういって、長門はブレザーのポケットから小さな包みを出した。「あなたに、受け取ってほしい」「ああ、ありがとう。ここで開けてもいいか?」「どうぞ」包みを開けると、手袋が入っていた。本か何かだろうと思っていた俺には、予想外のギフトだった。「これ、自分で、作ったのか?」「そう」「長門、ありがとう。とても嬉しいよ」「……そう」そしてまた、俺たちは静かに歩きだす。長門があんなふうに自分の感情をぶつけてくれたのが、俺はほんとうに嬉しかった。あいつが、とっても人間らしくなっていることが、ただ嬉しかった。今しがた長門にもらった手袋をはめ、俺は帰っていった。 長門に見つめられたときの心臓の異常な動きが、今では快楽にすら思えてくる。こういうのを、ときめきとでもいうのだろうか。どうやら、いつもと少し違ったのは長門ではなく、俺のほうだったようだ。 「行くぞ、長門」 第一章 終
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