白銀の残雪
俺の目の前には、二つの光球が迫っていた。 本来なら、迫っていた、などと悠長に考えているような場合じゃないんだがな。いつかの野球大会の、上ヶ原パイレーツのピッチャーの球よりはよほど速く、また不規則に迫り来る光球は、当たれば俺の身体を一発で殺傷せしめる威力があるはずだ。
にも関わらず、俺はいたって平静にその光球を見やっていた。なぜならそれに対処する手段が、俺の手の内にあるからだ。 両手に握った日本刀を――そう、日本刀だ――右肩の上に構えた俺は、手前の光球めがけて袈裟斬りに振り下ろす。続けて返しの刃でもうひとつを横薙ぎに。さしたる手応えもないまま両断された光球は、それぞれ俺のすぐ傍をかすめて蛇行し、廊下の壁にぶつかって爆散した。
細かなコンクリートの破片混じりの爆風が、俺の髪を後ろから前へとなびかせる。制服のブレザーの上着はもう既にボロボロだ。この惨状を見たら、おふくろは卒倒するかもな。 だが今の俺にとって、そんな事はどうでも良かった。服が、身体が傷つこうがどうでもいい。俺は行かなければならないんだ。俺のクラスへ。1年5組の教室へ。
夕暮れの校舎を日本刀片手に走ってるだなんて、我ながらどんな革命主義者だよ!?と思うけどな。やれやれ、だとか呟いている場合じゃない。今はただ―― 暗澹たる思いで、俺は手の中の抜き身の刀を見下ろした。透徹に輝く、反り返った細身の刃。その銘は『残雪』という。
息をはずませながら、俺は階段を上りきった。教室まではあともうすぐだ。 と、前方の廊下の壁がくにゃりと歪む。壁だけじゃない、天井から床から無数の棘が突き出て、俺めがけて一斉に押し寄せてきた。このままでは、俺は弓矢の雨の中の武蔵坊弁慶よろしく串刺しにされてしまうだろう。
けれども俺は、足を止めなかった。恐れる必要はない。俺は『残雪』に身を任せていればいい。 はたして。俺が教室の扉の前に立った時には、棘どもは全て切り伏せられ、光の粒となって霧散していた。情報連結を解除されたそれらが元の壁やら天井やらに戻っていくのを一瞥して、俺は憮然とした面持ちのまま教室に踏み込む。
「遅いよ、キョン君♪」
自分で妨害工作を仕掛けておいて、よく言う。それとも…。
「それは宇宙人流のジョークって奴なのか、朝倉」
そう、俺の机に腰掛けて、コケティッシュな笑みをこちらに向けているのは元クラス委員長、朝倉涼子だった。
ここまでは、5月のあの日とほとんど同じシチュエーションだ。だが今日の舞台にはもう一人の出演者がいた。朝倉のすぐ後ろ、教室の一番隅の席に座っている女生徒。そこに居るのは――
「ハルヒ!」
大声で、俺は呼びかける。が、返事は無い。 俺が教室に入った時から、何の反応も無かった。両目に生気もなく、ハルヒはぼうっと椅子に腰掛けているだけだ。
「朝倉! お前、ハルヒにいったい何を…」「そんなに怒鳴らないでほしいな。一時的に神経の伝達を緩慢にしてるだけよ。人間の使う薬物と違って副作用もないわ。 わたしたちの目的はあくまで涼宮さんに情報フレアを起こさせる事、殺しちゃったら元も子もないしね」
あっけらかんと、朝倉は言い放った。表情といい口調といい、まるで悪びれた様子は無い。まったく、その片手に大型のアーミーナイフさえなければ、外見上はどこからどう見ても普通の女子高生なのだが。 と、朝倉はそのナイフの腹でぴたぴたと、生き人形のようなハルヒの頬を叩いた。
「まあ、逆に言ったら殺しさえしなきゃいいんだけど」
「やめろ! ハルヒに触るなッ!」
言動に悪意が無いのがむしろおぞましい。窓が震えるほどの怒声を張り上げた俺に、朝倉はきょとんとした顔で向き直り、そしてクスクスと小さく笑った。
「ふうん、そんな眼もできるんだ? なかなか素敵よ、キョン君。その鬼気迫る表情♪」「意味が分からないし、笑えない。いいからハルヒを放せ」「あら、そうは行かないわ。わたしもお遊びでここにいる訳じゃないんだもの」
答えるなり、朝倉は朗らかな笑顔のまま、ひょいと俺に向かってナイフを投げつけた。あっという間に眼前に迫ったそれは、直前でフッと掻き消え――
――次の瞬間、俺のすぐ後方に出現する。だが振り返るまでもなく、俺の右腕は勝手に背中へ回り、後頭部に突き刺さる寸前で『残雪』の切っ先がナイフを弾き飛ばしていた。 俺に刺さる代わりに天井に突き立ったナイフが、衝撃の度合いを物語るかのようにビィィィンと震える。その下で、朝倉はパチパチとわざとらしく手を叩いた。
「ホーミングモードかぁ、なるほどね。道理でキョン君が無傷でここまで来れた訳だわ」
まったくだ。剣を扱う、どころか喧嘩さえロクにこなしてない俺がここまで来れたのは、『残雪』のおかげに他ならないだろうよ。 その『残雪』を右手に携え、俺は油断なく朝倉を見据える。対して机から降りた朝倉は、腕を後ろ手に組んで、俺の方にゆっくり歩み寄ってきた。可愛らしい小型犬でも眺めるみたいな眼差しで、朝倉は俺の周りを回りつつ言葉を続ける。
「あなたを救出するために、長門さんはまんまと罠に嵌ってくれた。 あの擬似閉鎖空間に仕込まれた崩壊因子の中で、長門さんが存在し続ける事は絶対に出来ないはずだった」「…………」「そうして長門さんが消滅すれば、結局キョン君もあの空間に閉じ込められたまま、そのはずだったのにな。 まさか長門さんが、自分自身を“長門有希ではないモノ”に再構成するなんてね、さすがに予想外だったわ」
朝倉のセリフに、俺は再び手の中の日本刀に視線を落とす。そう、この刀の銘は『残雪』。『ユキ』が、最後に『残してくれた』物。
「ほんと、忌々しいったら。そんなカタチになってまで、長門さんはあくまでわたしの邪魔をするのね」
わずかに、こちらを睨むように目付きを鋭くした朝倉は、しかしすぐにまた、パッと華やいだ笑みを浮かべた。
「でも、まあいいわ。展開は少し変わっちゃったけど、どうせキョン君は殺してあげるつもりだったんだもの。 そうしてあなたの亡骸の目の前で、涼宮ハルヒを元に戻してあげるの。うふふ、どんな情報爆発が観測できるかしら」「あいにくだが。俺はおとなしく殺されてやるつもりも、ハルヒをそんな目に遭わせるつもりもない」
胸の前で指を合わせて無邪気に笑う朝倉に、俺はにべなく告げた。
「朝倉。お前は確か、元々は長門のバックアップだったな」「それが?」「長門の最期の言葉は、奇しくも、お前と同じ一言だったよ」
『涼宮ハルヒと、幸せに…』
ああ、そうだ。穏やかな眼差しでそう言い残して、長門は光の粒になっちまった。俺に引き止める間さえ与えてくれなかった。他に手段は無いからと、あいつは自分を分解、再構成したんだ。 表情を捨て、感情を捨て、長門はただの道具に成り果てちまったんだ。俺の、俺たちのために――。
「要するに、弔い合戦ってわけ? もはや消え果てた存在のために行動するなんてね、やっぱり有機生命体の感情の概念っていうのは理解しがたいわ」「そんな高尚なモノじゃない。ただ、俺は」
くそ。苦々しい。まったく苦々しい。 自分の無力さに腹が立って仕方がない。俺の無能のせいで、長門は消えちまったんじゃないか。結局、俺はどこまでも長門に頼りっ放しだったんだ。 もう少し、もう少しだけでも俺がしっかりしていれば。
いや、今も『残雪』に頼ってるってのは変わらないがな。その事も含めて、俺は無性に腹が立っている。 ああ。自分の不甲斐なさが、そして世の中の理不尽さがやたらと悔しい。心が引き絞られるように悔しくて仕方がない。なんで長門が消えなきゃならなかったんだ。最期まで自分よりも俺の事を案じてくれた、あんな気のいい奴が、どうして!?
行き場のない衝動が、俺の中を駆け巡っている。あの幽閉空間から脱出できた喜びなんて、微塵も無かった。ただただ長門を失ったその喪失感に心が乾いて、とてもじっとしてなど居られなくて、俺は――
「そうさ、俺はただ、ムカっ腹が立ってるんだ。何も出来なかった俺自身に。無情なこの世界に。身勝手な情報統合思念体とやらに。そして命令のまま長門を消し去った朝倉、お前にな。 だから、長門のためになんておこがましい事は言わない。俺はただ俺の怒りを晴らすために…朝倉、お前を討つ!」「さあ、あなたに出来るかしら?」
俺の気概をすかすように気のない素振りで朝倉は、学生がよくシャーペンを回すみたいに、またいつの間にか手にしていたナイフをくるくると手の中で回していた。
「確かにその剣があれば、あなたはヒューマノイドインターフェースの力を手にしているも同じ。私を斬る事も出来るかもしれないわ。 でもね? いくらホーミングモードでも、あなたにそのつもりがなければ発動してはくれないのよ? つまり…」
まるで弟を諭すかのような口ぶりで、朝倉は俺に言い放った。
「あなたは、自分の意思でわたしを斬らなきゃならないの。女の子に向かって刃を振り下ろさなければいけないの。それって無理なんじゃないのかなあ、優しい優しいキョン君には」
嘲笑う朝倉の、その整った顔立ちに、俺は『残雪』の切っ先を向けた。白銀の刃を上にした、突きの構え。 両手で握る、あのカーディガンと同じ色の柄に、ぐっと力を溜める。
「やるさ。やってみせる。 ついでに、ハルヒも返して貰う。もうこれ以上、お前に何も奪わせやしねえよ!」
ああ、そうだ。いくら愚鈍な俺でも、それくらいの事は分かる。奪われたくないモノがあるのなら、自分の手を汚すのを覚悟してでも守り抜くべきだと。そして長門が俺にそうしてくれていたように、今は俺がその力を振るう時なんだと。
「ふふ、威勢のいい返事ね。じゃあ見せてちょうだい。口先だけじゃないって所を」
表情こそ笑顔のままだが、そうささやいた朝倉の眼はもはや笑ってはいなかった。瞬間、俺たちの間の空気が凍る。視線と視線が真っ向からぶつかり合う数秒。 そうして『残雪』を手にした俺とナイフを構えた朝倉は、互いに向かってまっしぐらに前方へ飛び出したのだった。
白銀の残雪 おわり
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