冬風のマーチ 第二章
俺は部室を出る。陰鬱な雰囲気を醸す寒空に、俺は先程とは全く違う印象を抱いていた。
上履きを靴箱に放り込む。入れ替わりに自分の靴を出し、白い息を吐きながら体を揺らす。本当に寒い。でも…それだけじゃない気がする。まぁいい。とにかく、寒い。
足早に俺は昇降口から外に出た。目の前には既に全員が揃っている。そこで何故か安堵してしまう自分に違和感を抱きながら、俺は足並みを揃えて歩き出した。
すぐそこでハルヒが何か喚いている。よく聞こえなかったが、まぁ気にすることもないだろう。そして全員揃って学校を出た。校門をくぐり、家路を辿っていく。それぞれが他愛の無い会話を楽しみながら、冬の風にそれぞれの表情を織り交ぜていく。どこから見ても平和な冬の夕刻だった。 だがなぜだろう。俺はどうにも笑う気になれなかった。これは…何だ?この感覚は一体なんだろう。これまで生きてきた中で感じたことの無いものだ。それは、異常なまでの、不安だった。「キョン…」なんだ、俺はどうしたと言うんだ。俺はいつしかテスト如きにこれほど不安を抱くようになってしまったというのか?「…ねえ、ちょっとキョン……」いや、そんなわけは無い。ならなんだ。全身が寒気立ち、鳥肌が止まらない。一瞬だけだが手が震えた気がした。「…ちょっと、聞いてんの?」日が沈み、街が宵闇に包まれる。郷愁に浸る余裕は今の俺に無い。そしてこの冷たい風が俺の不安を更に煽っていく。「何すっとぼけてんのよ、このボケッ!」そして鞄が俺の頭にクリティカルヒットした。実にいい音が周囲に響いていく…。…と、どうやら他人事じゃないようだ。「痛いじゃないか。何だ」俺はその時初めてハルヒを意識した。なぜか口を開けっ放しでいるハルヒに俺はふと違和感を抱く。
「…どうしたんだ」「え、いや…あんた、あたしの発言を無視するなんていい度胸してるじゃない!ものう一回同じことしたら罰ゲームだからね」「無茶言うな。いくらおれでもお前の発言一つ一つに気を配るのは無理だ」「なに言ってんのよ。無理を無理と思うから無理になるのよ。できると思えばできるのよ」やっと笑った。ハルヒの笑顔を見て俺は少しだけ気が楽になった気がした。
わかったよ。と俺は無意識の内に適当な生返事で返していた。
目の前にはハルヒと朝比奈さんがいる。隣には国木田と古泉がいる。…何も問題は無い筈だ。
そして改めて見直すと、ハルヒはやはりいつも通りだった。先程のハルヒの腑抜けた表情。あれはおそらく、気のせいだったのだろう。
だがしかし、後々それは気のせいではなかったのだという事を思い知る。そして今の俺には確かに支障をきたす程の何かに見舞われていたのだと思う。簡潔に表現するならば…おかしかったのは、俺だったのだ。腑抜けていたのは俺だった。妙に意識がどこかへ飛んでいく気がしていた。そう思えるほど俺は気が緩み、反応が薄く、生気が無かった。寂しげに響く木の葉の囀りの、そんな些細な揺らぎにすら掻き消されかねない希薄さ。 ハルヒは俺のリアクションの欠如に心底驚いていたんだ。何だ、風邪か?今更?この時期に?もうすぐテストなのに勘弁してくれよ。俺は軽い気持ちでいた。 気の持ち様でなんとでもなるのだろう。
まぁそれも不思議じゃないことで、こういう時は実感というものがいまひとつ沸かないものさ。友人に「お前風邪だろ」と聞かれても、「いやいや、そんなことは無い」と答えてしまう様な、そんな感覚。その程度だと俺は認識していた。馬鹿みたいに、楽観的だった。
何せ、後ろで長門が俺を分析するかの様に睨んでいたことにも、全く気がつかなかったくらいだもんな。
そんな俺だが、ふと思い返すと何故か違和感が拭えない。どこか、明確におかしいと思った事があった気がする。そう、そうだ。それは確か、さっきのハルヒが俺に向けた笑顔。それが、いつもより「薄く」感じたことだ。どういうことかは解らない。単なる気のせいならそれでいい。まるで色素そのものが低下しているように、水彩絵の具にひたすら水が溶け込んでしまったように、それが薄くなっているような気がしたのだ。 そしてその感覚はそれで終りにはならなかった。そのハルヒの笑顔を皮切りに、みんなの笑い声、明るさ、雰囲気、そういうものが俺の中から、消えていく気がしていた…。
ふと俺は恐怖する。そしてそれに呼応するかの様に冷たい風が俺に突き刺さる。嫌だ。吹くな。冷たい。止めろ。まったく、どうしちまったんだ俺は。こうして昨日と同じく、一人また一人と俺の帰り道から消えていく。そして遂に一人になった。気づけば回りは闇に染まっている。風が冷たい、心寒い。俺の視界には誰もいないことに今更気づき、俺に更なる不安感が宿る。
俺の中で何かが消えていく。体全体が「寒く」なっていく…。これほど仲間と別の帰り道を行くのが、嫌だったことはなかった。
俺は走る。ひらすらに。自分の中にある恐怖を押し殺すために。そのために俺は疲労を選んだ。そうしてなんとか家に辿り着いた。ひたすら、待ち遠しかったことだ。そしてドアを開ける。暖かい家の雰囲気が俺を迎えてくれることを期待した。
「あ、お帰りキョンくん」妹がドアを開けた。待っていてくれたのだろうか。ほのかな我が家の暖かさが身に染みる。嬉しく思わずにはいられなかった。「ああ、ただいま」そう言って妹の頭を撫で靴を脱ぐ。そのまま母親に帰宅の旨を伝え、部屋へと直行した。制服を脱ぎ捨てる、程ものぐさというわけでもないので、一応ハンガーに掛けるだけかけた。ズボンを折り目正しく畳む程に几帳面ではない。 そのまま居間へ向かい、親のテストに対する危惧を散々示され、俺は学校でも勉強しているからとなんとか宥めようと試みる。ごくごく普通の一家族の団欒風景だった。晩飯も非常に美味だった。家族の発言一つ一つに何故か元気が出た。何より、暖かい。
風呂も最高だ。まさに楽園を体現したかの様だ。日本人であることのありがたさを思い知ったよ。妹が風呂場の扉の傍に立ち、少し開けた状態でうだうだと何か言っている。こちらを伺うかの様な目で俺を見ている。一方俺はそんなことそっちのけですっかり良い気分になっており、半分溶けた様にだらしなく、ゆったりと風呂のありがたみを噛みしめている。
「おとなしく部屋で遊んでなさい」
半分寝ぼけたかの様な俺の物言いを受け、妹は洗面所で擦る様な音を立てて動き、そして足早に出て行った。
自分の家という絶対的な空間の中で、家族に囲まれて過ごすことが、とても心地よかった。妹よ……まぁ気分も良いし、たまになら良かったのかもな。この空間の中では、タイムマシンも、あのへんちくりんな空間も、宇宙人も、不可思議な現象の類は一切存在しないんだ。俺は自分の家、というありがたみを骨の髄まで思い知った。そして思った。
ここなら大丈夫、だと。
そして風呂から上がり、一杯の水を一気に飲み下し、勉強会の余韻あってか俺は机に向かってしまう。結局長持ちはしなかったがな。
そして妹からの鋭い蹴りを受け止め、軽くあしらって部屋に押し込んだ。明日の準備を淡々とこなし、布団を徹底的に暖かくして、深い眠りについた。深い深い眠りに…
ここなら、大丈夫だ、きっと…。
しかし、その認識は、次の日にもろくも崩れ去ることになったのだが。
次の日、俺はいつも通りの時間に目を覚ました。目覚めの朝は異常に寒い。ヒーターも消していたしそれも当たり前で、もう三十分くらい布団に潜っていたかったがそういうわけにもいかないのだろうな。俺は自分でなんとか起き上がった。いや、まだ眠いぞ。まったく妹はなにを…ん?妹が起こしに来ない。
いや、別に望んでるわけじゃない。だがいつもなら俺の部屋に喜んで侵攻し、絨毯爆撃が如き蹴りで俺を目覚めさせるのに一役買ってたのだが、今日は来る気配すらなかった。なんだ、まだ寝てるのか?夜更かしでもしたのか。小学生がそんなことしてはいけません。
俺は気だるさが抜けないまま部屋を出る。全く、妹に後で何か言ってやろう。一体何を言えばいいのか皆目見当がつかないが。だがそれだけじゃなかった。部屋から出た時に思ったのだが、家全体がものすごく静かに感じられる。なんだなんだ、ドッキリか?それとも全員寝てるのか?まったく、俺にものぐさと言われるようじゃこの家はおしまいだぞ。そうぶつくさと呟きながら階段を下りて居間のドアを開ける。いつもなら台所で朝飯の準備にいそしんでる母の姿も、そこにはなかった。…この時俺の頭に一つの直感が過る。気のせいと思いたくとも、どうしても拭えない嫌な直感。そしてその直感は家中を一通り廻って確信に変わった。この家には、誰もいない。 この事実に俺の頭がついていかなかった。なぜだ、なぜ誰もいない。俺に黙って早朝ランニングか?これがドッキリだったらどれだけいいか。とりあえずヒーターの電源を入れる。一人だし、エアコンを入れるつもりにはならなかった。台所に向かい食パンをオーブンに放り込み、適当にハムと卵焼きあたりをお腹におさめる。誰か来るかと期待してたのか、ゆっくりと準備をしていたものの、もう家を出ないと遅刻してしまうだろう。俺は仕方なく学校に向かうことにした。 ここには誰もいないし、誰か来ることも無い。俺の中にそういう直感も芽生えていたが、敢えて気づかないふりをしていた。
今日も外は寒い。恐らく風の強さは昨日以上だろう。学校に向かう途中も俺は誰にも会わなかった。いつもなら学校に到着している時間だからか、坂道を登るもそこには見知った北校生と見えることは出来なかった。そこでの俺はただただ冷たい風に吹かれているだけだった。いい加減鬱陶しい。少しでも弱まってくれることはないのだろうか。このままじゃ風邪じゃ済まないくらい参ってしまいそうだぞ。 後ろから谷口に声を掛けられにることもなく、校門をくぐり、上履きに履き替え、教室に向かう。家に誰もいなかった。これは一体どういうことなのだろう。 俺は教室の扉を開き、自分の席へと向かった。教室にはまばらに人がいた。もうチャイムぎりぎりだと思うのだが。そしてまた俺は奇妙な違和感に包まれる。俺は教室の外に出て、このクラスが一年五組で間違いないということを確認し、やはり気のせいだと考えを改める。谷口も国木田も席は空いたままだ。
二人とも教室にいないからか?それともハルヒがいないからか?俺の後ろの席にはまだ誰もいない。そして俺の不安をよそにチャイムが鳴り響いた。おいおい、ていうかこれでもクラスの三分の二くらいだぞ。インフルエンザでも流行ってるのか?その時俺の深層心理で、何かがさらりと触れ合った。この感触。この感覚…。
俺は以前似たようなことを経験したことがある。…いや、そんなことがもう一度あるはずが無い。
俺は少し不安になりながら教室を見回す。そして見回せば見回すほど俺の不安は増大していった。まだハルヒはおろか、国木田も谷口も来ていない。それどころかこのクラスの連中は…いや、それもあるはずがないだろう……。きっと俺はまだ目が覚めきってていないんだ。岡部がまだ来ていない。俺はこの教室が一年五組であることをもう一度確認した。確認した上でどうにも腑に落ちない事を抱えながら担任が来るまでの僅かな時間を過ごした。そして教室に教師が入って来る。その時俺ははっきりと目が覚めた。はっきりと自覚した。結論から言おう。この教室にいる人間。俺の知るクラスメイトは誰一人として存在しなかった。教室に入ってきた教師は担任岡部ではなかった。それどころかこんな教師は見たことも無い。俺がおかしいのか?それともここは北校じゃないのか。いや、こんな制服は他に見ない。第一俺はあの坂道を登ってきた。俺だってそれなりにクラスメイトとの交流はしている。その上で言える。こいつらは誰だ。あらためて見ればはっきりわかる。こんな奴など俺は知らない。
なのに周囲は何も問題が無いとでも言うように淡々とホームルームを進めている。俺がここにいることに疑問を持ってる人間すらいない。ふとクラスの扉を見つめる。誰か知ってるやつが来ないか。それだけを考える様になっていた。来い…。一縷の希望をまだ俺は持っていたからだ。そういえば一昨日、俺と国木田はハルヒに引っ張られて扉にしがみついたんだっけ。ほんの少し前の出来事がはるか昔の事に思えた。
どうやら担任と思われる教師が話を進めていく。そのとき、クラスの後ろの扉が開いた。どうやら一人の北校生が遅刻してきたようだ。少し息を切らし気味で教室の中を歩いていく。担任らしき教師はやれやれと言わんばかりに肩をすくめ、言葉を切った。どうやら女の子のようだ。その子はこっちに向かって歩いてきた。そして俺の予感が的中し、そいつは俺の後ろの席に着いた。さも当たり前のように。こう思ったのは二、三度目くらいだろうか。そしてこれからも何度も味わうことになるのか。そいつはあの時の様に朝倉でも、もちろんハルヒでもない。誰だお前。明らかに見たことも無い黒髪の女子。穏やかな目と慎みある風貌はあいつと対極だ。ぉ俺の知り合いのデータベースにこんな女子は存在しない。思考が一瞬だけ止まる。おそらく呆気にとられたのだろう。俺は少しだけその子を見つめてしまった。その視線に気づいた女の子は普通に「おはよう。寝坊したわ」とだけ言った。俺の存在には一抹の疑問も抱いていない。
少しだけ、俺は自分自身が狂ったのかと思った。だが、思っただけでそれを受け入れるつもりはなかった。確かめたいことが山ほどある。まだ教室の人間を見ただけだ。希望を捨てるには早すぎる。だが一体これは何なんだ?知らない人間で溢れている。そして何故誰も俺の存在を疑問視していないんだ。いや、むしろ気にかけてすらいない。これは何なのか。何が起こっているのか。どうすればいいのか。引き金はなんだったのか。脳内であらゆる考えが戸惑いながらも衛星のように巡り続ける。だが俺は何とか冷静でいられた。あの時の長門の時空改変で似たような経験を経ていたからだろう。あの時の混乱がもし無ければ、おれはまた半狂乱と化していたに違いない。
そして俺には、この空間が長門の仕業じゃないという確信がある。長門の空間はこんなに不安を煽るタチの悪い仕様じゃなかった。ここにはそういう、うっすらとした悪意のようなものに満ちている気がする。鳴り止む事の無い冷たい風。俺の心にまさしく突き刺さるものだ。長門がそんな真似をするはずがない。俺はまず何をすべきかを考えながら授業中を過ごしていた。とりあえず自由に動ける様に昼休みを待つ。今、教壇の上でこれまた見たことの無い教師がテストについて云々言ってるが、こんな状況で気がそっちに向くはずが無い。第一おれはテストだの勉強だのが当然ながら好きじゃない。改めて思った。そんな奴がよく勉強会なんてやってたものだ。
…その思考回路の果て。SOS団を連中の映像が俺の心に過る。今日も放課後にあそこで勉強会が開かれるのだろうか。いや、そもそもここにあいつらはいるのか。この教室にはハルヒも国木田もいない。国木田の席は空いたまま。ハルヒに至っては知らないやつが座っている。それでも他の人間がいないことにはならない。希望を捨てるにはまだ早い。何か手がかりが残ってるのかもしれない。無いのなら探せばいい。そもそもここが昨日と同じ学校、教室、空間なのかも定かじゃないんだ。長門や古泉、朝比奈さん。彼らも巻き込まれているのか。それとも俺だけこうなったのか。 だが、少なくともこの教室にハルヒはいないようだ。もしかしたらまた他校に行っているのかもしれないな。ほんの昨日まで、仲のいいクラスメイトと同じクラスで授業を受け、ハルヒに後ろから突っつかれて、SOS団でハルヒの気まぐれにみんなで付き合い、なんだかんだで楽しかったんだ。 それが今日になっていきなりこれだ。今の俺の心には不安しかない。それでも俺は探さなければならない。もう今の俺は即答できる。――元の居場所に俺は戻りたい――…この心の叫びを信じて、出来ることをやるしかないんだろうな。教室には教師の声だけが響いている。いつも以上に静まりかえった気味の悪い教室。こんな所にいつまでもいたら精神が崩壊してしまいそうだ。その時、また冷たい風が吹いた。俺が何とか押さえ込んでいた不安と恐怖を活性化させる。どこまでも煽っていく…。くそったれが。吹くな。やめろ。やめてくれ。誰となく俺は呟いた。誰の仕業か知らないが、このくらいで身動きが取れなくなると思うんじゃないぞ。
周囲を見渡す。この時、俺は確かに確認した。この空間は密閉されているという事を。
ドアどころか窓の一つも、どこも開いてなんかいなかったんだ。
…では、風はどこから吹いている?この疑問に、何かの意味がある気がする。
「いや、流石に考えすぎだ…」
時間は刻々と過ぎていく。もうすぐテストがあろうと今は知ったことじゃない。そうして俺は授業に全く参加せずに過ごしていた。まさしく一人で。ここにハルヒはいない。だから後ろからシャーペンでつっつかれることも無かった。
四時間目までは授業と全く関係ないことを考え続けることでかわし、待ち望んでいた昼休みがやってきた。チャイムが鳴り響き、教師が教室から出て行ったと同時に俺は立ち上がった。窓の外は相変わらずの冬景色。強い風が木々をねじ伏せるように煽りながら吹いている。その様子はまるで俺の不安の強弱に呼応しているようだ。それ程凄まじい勢いで吹き荒れていた。昨日より明らかに暗く感じるのは気のせいだろうか。…まぁ、少々過敏になりすぎだなんだろうさ。 俺は立ち上がりわざとらしく歩き出す。だが誰も俺の行動を気にしていない。これほど完璧に溶け込んでいるのというに、全てがバラバラであるかの様な感覚は何だ。最初に確認したかったこと。クラス掲示に張ってあるクラスメイトの名前だ。全員の名前が書いてある掲示物を探す。…あった。学年最後の模擬試験があるそうだ。勉強勉強いやなこって。そこにあるクラスの名前と出席番号を確認する。……やはりそうか。涼宮ハルヒの名前が無い。谷口や国木田の名前も。それどころか俺以外は全て聞いたことの無い名前で構成されていた。本当に何だこれは。俺の名前はある。ということはここは俺が在籍している一年五組ということになる。昨日までとはまるで違う現実。気がついたら何もかもが俺の中の現実とは食い違っている。夢だの、狂ってしまっただの。そうであったらどれだけいいか。少なくともこの訳の判らん事実に悩む必要は無いからな。しかし、これが紛れも無い事実なら、俺か現実に一体何が起こったのか。それを考える必要がある。俺もこれまで伊達に超常現象とお付き合いしてきたわけじゃない。まずすべきは現状把握だ。だがまぁ、これまでの経験の産物か。この状況がどういう事なのか、大体ならもう見当はついている。 つまり、俺はまた誰かの罠かアクシデントに巻き込まれちまったわけだ。だが、それが誰なのか、何なのかはまだ見当がつかない。古泉の所属する機関と対立する組織なのか。それとも朝倉のような過激派の仕業なのか。朝比奈さんを一時的に誘拐した連中の派閥なのか。はたまたあのカマドウマの様にハルヒが引き金になったアクシデントなのか。ま、それは俺の理解の範疇外だからそこらへんは長門や古泉に任せるよ。ここにいてくれたら、それとも知っていればの話だけどな。だが、今回の黒幕は相当根性のひん曲がった奴である事は間違いない。こんな悪趣味な空間作るような奴だからな。まずこの風を止ませてくれ。こっちだって見かけだけでも威勢を整えるのにも限界があるのさ。…だが、まだ絶望するには早過ぎる。見てろよこの空間を作った悪趣味な変態野郎共。俺だって、伊達にこれまでアホらしい目に遭ってきたわけじゃないということを教えてやる。
決意を新たに、俺は教室を出た。心なしか風が弱くなった気もした。やはり人間気の持ち様だよ。いつもなら国木田や谷口と一緒に自分の席で昼飯を食べている頃だが、今日は共にする様な奴は誰もいない。さて、まずはどこに行こうか。とりあえず長門、古泉、朝比奈さんのうち誰か一人でもいるのかどうかだろう。あの時のようにクラスが丸ごと消えたりしていないことを祈る。だが、ハルヒも国木田や谷口すらいない。そして廊下ですれ違う奴らすら見覚えが無い。あいつらがいる可能性は恐らくゼロに近いだろう。それでも確かめなければならないな。いるならいる、いないならいない。その確証が俺は欲しい。そう思いながら五組、九組、そして二年生のクラスを順々に回っていったが、知っている人間の姿を見る事は敵わなかった。九組は消えてこそいなかったが、知らない人間で溢れていた。どいつもこいつもテスト勉強してたな。動きの統率が取れすぎて不気味だったぞ。そうだ。なら文芸部室はどうだ。あそこなら、もしいなくとも長門なりなんなりが残した手がかりが見つかるかもしれない。いつもそうだった。ハルヒと二人で閉鎖空間に引きずりこまれた時も、長門のエラーが拡大した時も、俺はあそこできっかけを得ていたんだ。一番何かある可能性が高いのはあそこだ。
そうと決まったら行くしかない。俺は廊下をひたすら歩き、部室棟に向かった。窓の外は曇り、風に煽られて窓が唸っている。学校の窓は古いからというのは理解できる。しかしいつもならそれも生徒の喧騒でかき消されてしまうものだ。今日の雰囲気は何かいつもとは違った。廊下にいる生徒もまばらに何人かはいる。だが、いるだけで異常に静かだった。すれ違う生徒は常に顰める様に小さな声で話し合っている。こっそりと会話する見知らぬ生徒達。そしてガタガタと嫌に響く窓。唸る風。…気味が悪い。雰囲気が暗く、湿り気に満ち、粘着するような心地。心寒い。俺の心が疲弊していく。…くそ。こういう時こそ弱気になってはいけないんだ。だが、鳴り止まぬ声とこの暗い雰囲気のせいだろうか。冷たい風も室内なのに唸り、響き続ける。怖い。俺は不安を通り越し、恐怖をほんの少しだけ感じるようになっていた。
そしてこれが俺の決定的な一撃を浴びせる。正体不明の視線を感じる。どこから、というレベルではない。どこから『も』見られている気がする。すれ違いざまに、遠くから、ひそひそ声とともに、心の底まで。俺の深層心理、不安、恐怖。全てを見透かされている気がした。気のせいと思いたかった。俺のことなんて気にかけるなと、誰となく叫びたかった。だがそれを自覚した瞬間、心が締め付けられたような不安に襲われることになった。今も心寒い風が俺に突き刺さる。俺はできる限りの早足で部室に向かっていた。「一体何なんだよこれは…」
無意識のうちに呟いていた。四方八方から突き刺さる視線。体を貫き過ぎ去っていく風。この上ない不快感を感じつつ、俺は文芸部室に到着した。ドアノブに手をかけようとした。が、なぜかそこから手を動かすのをやめてしまった。この部室の中はどうなっているんだろうか。いつものように長門が隅で本を読んでいるのか、それとも空なのか。ありとあらゆる空想がおれの頭に巡り、回っては掻き消えていく。また朝倉が現れたりしたらどうだろうな。様々な予想、想像をこの教室に来るまで、こうして扉の前に立ってまで、俺はただひたすらに頭を働かせていた。そうだ。それがいい。今の内に頭を整理しておいて方がいいだろう。予想なら複数パターンを、それもできるだけ酷なものがいい。唐突な現実についていけるように。
「ふぅ…」ふとため息をつく。もうここまででいい。ここまできて躊躇する必要は無い、か。開けてみればわかることだ。俺はドアノブに手をかける。そして部室の扉を開こうとした。
しかし、その扉が開くことはなく、ガチャガチャと鍵がかかっている音が響くだけだった。扉の上にかけてあるクラスカードを見る。クラスカードにはしっかりとした字で「文芸部」と書いてある。施錠の管理が厳しいのか。それとも廃部になっちまったのか?ま、こっちじゃ長門一人だったからな。案外後者の方なのかもしれない。「ははは、なんだよ。そうきたか」無意識の内にこぼしてしまう。この奇妙な空間に迷い込んでから独り言が多くなったな。…でも仕方がないだろう?話す人間がいないんだもの。もちろん部室棟の中からは人の気配は感じられない。ハルヒに長門、朝比奈さんや古泉。そしてSOS団。主がいないと静かなもんだ。
さて、どうするか。これで学内における心当たりはすべて消えうせた。結論。この学校には俺の知ってる人間は誰もいない。ここまで歩き回ったんだ。それにもう異議を申し立てるつもりは無い。いや、この学校だけじゃないだろうな。うちの家族すらもいなかったんだ。おそらく他校に移動している、なんてこともないだろう。では何故そうなったのか。そもそもここは何なのか。そんなもの解るわけが無い。無事元に戻れた際に古泉にでも解説を頼むさ。ではどうすれば元に戻れるのか。…堂々巡りだ。これがいったいなんのタチの悪い冗談なのかわからないのに、そんなことがわかるはずが無いじゃないか。つまり、お先真っ暗だ。だが、このままでいるつもりは無いさ。俺の中ではっきりとしてること。それは「おれはこの空間が嫌いだ。」ということだ。なんとしても元に戻る方法を探し出してやる。そして戻った暁には、こんなふざけたことをしでかしたアホを思うままにボコボコにしてやるさ。 もうここにいても意味ないか。とりあえず行くところもないし、教室に戻ろう。今のおれにとっては、あそこを居場所と呼ぶには少々居心地が悪すぎるのが苦しいところだが。 それにしても…文芸部室は本当に開いていないのか。放課後になってまたきてみるか。廃部になって開かなかったとしても、合鍵かなんかで開けてもらう。手がかりが残っている可能性が一番高いのはやはりここなんだ。俺は誰も居なくなった廊下を歩く。窓の外に移る薄暗い曇り空が、厭らしくおれを嗤っている気がした。
教室棟を歩きながら俺は思考を止めないよう心がけていた。なんか、こういうときは自分を失ったらもう戻ってこれない気がしていたからな。それにしても……本当にここには俺の知っている人間は存在しないのか。そう思ったとき、不意に色んな連中の顔、馬鹿な遊びや活動がありありと蘇ってきた。ハルヒと朝比奈さんが笑いながらちびっこどもと戯れている。離れたところで長門がそれを動かずに見ていて、おれと古泉はプールサイドでオブザーバーにまわっていた。 永遠の夏休み。陽だまりのプールサイド。いよいよハルヒの影響力がやばくなっていた映画撮影。目からビーム。喋る猫。振り回される俺達。特に俺。長門の親玉を垣間見た中河、会誌作りに巻き込まれた国木田と谷口。突如消息を絶ったコンピ研部長。そして自分から渦中に突っ込んだり離れたりの鶴屋さん。……馬鹿か。色々思いだし過ぎだ。過去を振り返る暇など無いだろうが。それにしてもこんなときに走馬灯か、まったく縁起の悪い。俺はまだ絶望しちゃいないというのに。多少楽観的だけど、他校に移動した可能性も無くはないかもしれないな。しらみつぶしに近くの女子高にも行ってみよう。多分だけどなんとかなるさ。そう虚勢を張ってみても、心の中では理解している。誰か知っている人に会うことはないのだろうってな。では元の世界に戻る方法がわかる時が来るまで、俺はこの心寒い空間にいなければならないのか。では一体どうすればいい。ここには手を貸してくれる長門も、当てにならない推論をしゃべくる古泉もいない。完璧に俺一人。俺はこの世界に何かを見出すことができるのだろうか。
向けられる視線をできるだけ気にしないように心がけて、俺は教室に帰ってきた。相変わらず教室には知らないやつが蠢いている。少しだけ期待した自分が情けない。誰も話しかけてこないし、話しかけるつもりもないので俺はとりあえず自分の席に着いた。すぐ後ろには知らない女の子が座っていて、これまた知らない女の子たちと談笑を繰り広げている。そこはハルヒの席なんだ。今すぐにどいてもらいたい。そう言いたかったが流石に言えるわけもなく、俺は視点を定めることもなく、ぼんやりと過ごしていた。今この瞬間も気持ち悪い視線を感じている。だが、どうやらこのクラスの連中じゃなさそうだ。俺の方を見ている奴は誰もいなかったからな。とりあえず寝よ寝よ。きっと疲れてるんだろう。そしてこのまま目が覚めたらいつも通りの日常に戻って…なーんてことはありはしないだろうが、とりあえずやることもないし、自分の席で寝ることにした。やはり精神的にも結構きてたのだろうか、早々と頭が睡眠へと活動の主体を切り替えていく。ものの五秒で自身の思考が夢に奪い去られていく感触を感じていた。机に顔と腕を伏せて目を瞑る。だがその時だ。
このクラスにいる全員がおれを見ている光景が視界に飛び込んできた。
!!!一発で眠気が吹き飛んだ。焦って起き上がった。そしてクラスを見渡す。そんなことは一切無かった。なんだ……俺の方を見ていた奴なんて誰もいないじゃないか。だが気づかない内に、おれは体中にに汗を湛えていた。全身から噴出した様に汗がまんべんなく体を湿らせている。…今のは、流石に堪えた。とにかく…今までで一番インパクトがあった。俺が寝ようとした瞬間だ。もう眠る気になんてならないぜ。だがこんなちっぽけな心情など関係が無いのだろう。クラスは常にいつも通りだった。何気ない談笑やテスト勉強。もうそこには微塵も違和感なんて無い。誰かに答えて欲しい。頼むから、答えて欲しい。…俺がおかしいのか。とうとう精神がやられちゃったのか。先程俺の視界に飛び込んできたクラスの連中。全員が俺を見据え、どこか嘲け笑っている気がした。全く表情の読めない顔。目。口の動き。長門なんて目じゃないあくどさを感じた。何かが、俺の首筋を舐めた。、まるで赤子を撫でるかの様に。そして、引っかかる。
…なんだと?……ちょっと待て。今のは少しおかしくないか?なんだ、今俺はなんつった。今ここで俺は何をしていた。心のどこかにひっかかる何か。形は不明でも、明らかに何かが存在する確信。なんだ、何なんだ。ちょっと振り返ってみろ。どこかがおかしい。ほんの少しだけ前だ。すぐに思い出せるだろうが。俺は寝ようとした。そして眠る瞬間にクラスの奴等の視線が飛び込んできたんだ。そうそれで、それだけじゃ別に違和感は無いはず…いや待て。確か「机に伏せて目を閉じていた」はずだ。なのに「視界」だと。そんなことがあるわけ無いだろうが。目を閉じていたんだ。じゃあ何か?あれは俺の妄想と夢が作り出した幻か?それはあまりにも信じがたい。それだけのインパクトがあったんだ。あれはもう暫くは頭から離れそうにない。だがもう…俺には考える余裕が無い。頭の混乱もそろそろ限界を迎えそうだ。声にこそ出さないものの、頭の中は既に辟易しきっていた。
俺はゆっくりと起き上がり後ろに振り向いた。後ろにいるのは例の見知らぬ女だ。三人ほどで会話を楽しんでいる。別に仲良くなろうというわけじゃない。あんまり気が進まなかったが、あたりさわりないことを直接話して少しでもわかることがあればいい。それに、一人の頭だけで抱え込めるほど俺にはもう余裕がない。「なあ。ちょっとすまないが」俺の声は若干引き目になっていた。いや無理も無いが。朝から今までで言葉を聞いたのはこいつしか居ない。この黒髪の女子。余りにも他愛の無い言葉だが、敵意は感じられなかった。重ね重ね言うがこんな奴は知らない。面識なんて無い。だが、とりあえず席が後ろのこともあって話しかけるのはこいつからだ。 「どうしたの?」友達との会話を止めてこちらを見る。友達らしき二人も俺の方を見ている。「いや、勉強してるやつ多いな。お前も勉強進んでるか?」後ろの女は軽く笑った。「え、何言ってんのよ。うちのクラスっていつもこんな風でしょ?」そのいつもが俺にはわからないんだよ。
幾つかの言葉を交わした結果。こいつとは普通に話すことが出来ると判断した。このクラスのこと。北校のこと。この状態、クラス構成がこいつらにとってはスタンダードであることも理解した。何気ない話を繰り返し、そんなに悪くない奴もいるのかと思い始めていた。会話も弾み、友達らしい二人も俺と話しながら笑っていた。そろそろ頃合と思い、聞いてみようと思った。俺は意を決し、頭に携えていた次の文章を述べた。「涼宮ハルヒって名前に、聞き覚えは無いか?」その時だ。三人の動きが、完全に止まった。完全に、停止した。動きが止まり、三人は俺を見続けている。感情のこもらない目で。ひたすら無機質な目で。そして三人が口を揃えて言う。「知らない」そう言い放つと、三人は俺を放置し、談笑を始めた。それからそいつらは俺が何を話しても無視を決め込んでいた。それに、俺自身もあの視線が正直きつかったのでもう干渉しないことにした。…何がどうなってんだ?なんで涼宮ハルヒの名前を出しただけでああなる。知ってるのか?知らないのか?拒否とも取れる返事。こんなの初めてだ。
だが、存在していないのなら、あんな反応をするはずが無い。昼休みも終わり、今度は放課後を待つことにする。授業なんて知ったことじゃない。そんなもの今の俺にはどうでもいい。涼宮ハルヒを知っているのか。それとも単に知らないのか。それすらもわからないじゃないか。まだだ。俺はまだ粘ってやる。何かが残っているはずだ。だが根拠なんて何もない。だけど、そうでも思わなけりゃおれはもうやっていけない状態だった。チャイムが鳴っていたことにすら、今の俺は気づくことが出来ない。
掃除をこなし、誰かもわからん教師のホームルームも終わり、俺は後ろのやつもこともあって、これ以上この教室にいるつもりは無かった。このままその足で文芸部室へ向かう。先ほどは教室が開いてすらいなかった。だが、それは昼休みだったからかもしれないし、偶然だったかもしれない。俺はそういう思いをこめて、旧館に向かった。旧館の廊下を憮然と歩いている。妙に響く足音が俺の心情を不安定にさせる。まもなく部室につくところだ。ちなみに隣では相変わらずコンピ研が活動中だ。あんたらも物好きだねえ。…あれ。どこかで言わなかったっけかこの台詞。気のせいか。まぁ、あの意気揚々の部長氏は存在しないだろうがな。こうして部室についた。いつもならこの扉を開けばメイド姿の朝比奈さんがお茶を入れていたり、隅で長門が本を読んでいたりしているのだが、今更おれはそんなもの期待していない。 まず、開いているかどうかだ。そう思っていた矢先、部室の中から話し声が聞こえた。なんだかとりとめのない感じの会話だ。ひょっとしてこれは……期待できるか?俺は扉を開く。
そこには、全く見覚えのない女の子が五人いた。何度目だろう。どちら様ですか?俺は完全に失った語り口を何とかこじ開け、言葉を発した。「ええと、ここって文芸部室ですよね」俺の発した言葉、向こう側としてはさぞかし意味不明に聞こえたことだろう。
そんなの当たり前だろう。そう言いたげな表情だ。少し戸惑っているようで、当然彼女達は「はい」と答えた。五人わきあいあいと部活動を楽しむ女の子たち。そこには微塵の悪意も感じられない。でもさっきだって嫌な思いもした。俺は単刀直入に聞くことにした。「じゃあ、長門有希って部員、いませんか」途端に動きがぎこちなくなる。全員がその名前に反応した。だが俺の思っていたような反応ではなかった。表情が豹変し、全員が俺をにらみつけるように見据える。凄みのある声を俺に投げかける。「いません」
「え、あの、眼鏡をかけた大人しい読書好きがいませんでしたか?」「いません」
「いや…だが……!」
「いません!」五人揃って怒鳴りつけるように答えた。
この時、俺の直感が頭の中でしきりに飛び交った。それが俺をしきりに喚起する。
こいつらは、長門有希を知っている…!
「本当に…」
奥にいた何かが睨む。
「…いないって、言ってるでしょ?」俺の背中に何かがいる直感がした。力を振り絞って後ずさる。気のせいだった…そう思いたい。
だが今度はやばかったね。正直背中に悪寒が走った。
俺の体中を何かが通り過ぎた。俺の何かが切れる感覚がしている…。
怖い。嫌だ。一体何だ!力が抜ける。思考力が消えていく。表情が、筋肉が、力が、心すらも…。
知っているのか知らないのかどっちなんだ。解らない。何も解らない。いないのか。いないのならいないって言ってくれよ。こいつらといい例のクラスメイトといい、意味がわからない。なんでそんな態度が取れる?なんで人並みな会話すらできない?知らないなら知らないで、それで終わりのはなしだろう。俺の混乱は頂点に達した。俺の頭は、ここで止まってしまった……。
もうわけがわからない。何でだ?知らないのになんでそんなリアクションになるんだ。いや、この際そんなものはどうでもいい。どうだっていい。そんな目で、俺を見るなっ!連中からじりじりと遠ざかり、無心に走り出した。もう嫌だ。そんな視線を俺に向けるのはやめてくれ。今はもう考えるのもやめた。ひたすら走る。どんな視線だろうがもう気にして…気にしてたまるか。目的地はない。ただ走っていた。
俺の足取りが軽い。軽すぎる。何かが俺を包み、一瞬だけ全てが暗くなった気がする。
気がつけば、俺は屋上にいた。なぜだろう。普通なら考えられない。いつもなら屋上は鍵がかかっているはずだ。でも、もう気にもならない。そのくらいどうってことない。俺はこのわけわからん空間に来てからのことを思い出していた。何もかもがいきなりで、理解できなくて、不安で、怖くて。そして俺は鞄を壁に放り投げた。そして壁を殴った。何度も何度も、何度も何度も何度も。痛み?知るか。今この状況が一番きついんだよ。痛いんだ。「くそっ、くそっ!…」壁を殴り続ける。「…くそ……」皮が破れ血でまみれる。腕が限界を越えそうだった。俺は壁を殴るのをやめた。知ってる奴なんか誰もいない。俺が居場所をつくれる空きスペースも無い。何もかもが、俺を除いて機能している。世界が回っている。なのに、常に、俺に何かが付きまとう。心寒い風が吹きつける。こんなもん、もう慣れちまった。「いくらでも吹けばいい……どれだけ俺が不安がったところで、何も変わりはしないんだ…」そう言った…自分の言葉に、絶望していた。その言葉に自身の絶望をひしひしと感じることが出来た。俺自身が吐いた言葉におれは気づかされてしまった。俺はもう、とっくに限界だということに。立っているのも億劫になり、無意識の内に俺は座り込んでいた。「は…はは。もういいのか。そうか、もう…いいんだよな……」涙を流す感慨すらこもらない。視界にはいつまでも暗澹としている曇り空が映っていた。いつまでも。どこまでも。広がる絶望。それを示しているようにこの学校や、町並みすらもそれに染まっている気がする。もうこの暗い灰色しか見えなかった。知らず知らずの内に俺は歩き出していたようで、一歩、また一歩と歩いて、屋上の手すりにぶつかった。「……」手すりを見つめる。意味も無く、意思もなく、手に力を込めた。そう力を込めただけだ。一体何をどうすればいいのか。そんなことはもうどうでもよくなった。なぜなら、もうどうにもならないのだから。どうにかしたところで俺には何も残らない。誰も居ない世界で。拠り所の無い世界で。満ちている世界で。なのに何も無い世界で。ここに俺の居場所は無い。「どうせ狂うことも……いや、俺はもう狂っていたのだろう」そうか。判った。あの楽しかった非日常的な日常も、きっと俺のおめでたい脳みその中だけの話だったんだろう。わかったよ。そう考えれば未練なんて何もないさ。何もない場所に、持つ未練は無い。でも、俺は…楽しかったんだぜ。本当に、生きる意味を見出していた。ハルヒに追いかけられて、振り回されて。長門に頼って、時々行動に首をひねったり。朝比奈さんにのぼせながらも、健気に頑張る姿に尊敬を覚えたり。古泉の推論や雑談に付き合ったり、付き合わされたり、それでもあいつもSOS団が好きで、夢のあるやつで。楽しかった。もう戻れないのだろうか。なんだかんだで満ち足りていた俺に、この空虚な空間にはもう耐えることなど出来そうもない。戻るも何も、こっちがもともとのホームだったりしてな。はは、もう笑う気にもなれねぇよ。「悪いなハルヒ。もうきついんだ」そう無意識に呟いて俺は手すりにかけた手に、足に力を入れる。
気づくと周りが明るくなってきていた。いや、正確には俺の視界が、だった。
天のお出迎えってやつか?……まぁいいさ。今そっちに行ってやるよ。
暗澹とした面持ちで、俺は呟き続ける。
…いや、自分は呟いたつもりでも、今の俺には呟く力すらなかったらしい。声すら、出なかった。
今、俺は踏み越えようとする…。あちら側へ……。
もういい。もういいんだ。そう思う。心から思う。
だがその時。
『さっきのやりとりを忘れないで』
「…え?」
心の中の何かが俺を揺さぶった。
……ちょっと待ってくれ。…今のは?手すりを越えようと力を入れた瞬間、俺の頭で何かが引っかかった気がした。ほんの少しだけ手ごたえを感じた釣り竿の様な、そんなかすかなもの。俺は何かを忘れてないか。無意識に何かを呟いたんだ。そう「悪いなハルヒ。」と。どういうことだ。なにが悪いんだ。俺はこいつと何かしてたっけ?なんだった。そして……今のは誰の声だ?
『私もあなたを待つことにする』
「……長門!?」
俺の中で何かが沸いてきた。
まだだ。…まだだ!
せっかく引っかかった何かだ。釣り損ねるな。何か、ものすごく重大なことの様な気がするんだ。いつのまにか俺は思案を巡らせていた。戸惑いながらも、少しずつ。そして、ふと昨日の出来事が頭に浮かんでくる。もう何年も前の事の様に思える懐かしき思い出だ。その時ハルヒは少し照れていて、俺に掌を、いや小指を出したんだっけ。「約束よ。誓う?」そうか…思い出した。そうだ俺はハルヒと約束をしていたんだ。そして俺は何と言ったたんだ。「…誓わせていただきます」
そうだろうが。
最早、今の俺は屋上にいることすら忘れていた。あの照れ隠しのハルヒの顔が頭に浮かんできたせいで、俺の思考が再び復活してしまったんだ。絶望の淵にいた俺の中、ほんの刹那の間に飛び込んできたのは……小恥ずかしいが、やっぱりハルヒ、お前だった。
この時、この一言が無かったら、おれは空を飛ぶことで全てに押しつぶされてしまっていただろう。そう思う。心から、思う。
…そしておれを沸かしたあの声に感謝を。…長門、毎度毎度だが、本当にありがとう。
俺は手すりに寄りかかり、さっきまでの沈んだ空気とは心機一転、これからどうするかを考えていた。今となっては、沈んだ空もさっきよりはまともに見える。そして壁に叩きつけた鞄に目をやった。「勉強…しないといけないのかな…やっぱり」
俺は軽く笑っていた。笑えるだけの感性が戻っていたことに驚いた。自虐ともとれる気持ちだった。だが、それでもこれまでより遥かにマシだ。
状況は何も変わってない。手がかりなんて欠片も見えない。
だが、挫けない。勉強という言葉が出てきたことは我ながら意外だったが、今の俺はそれしか考えていなかった。そうだ。何をすればいいかわからないが、とりあえず勉強をして、なんとかして、成績を上のほうにもっていって、ハルヒの約束を守ろう。全てはそれからだ。きっとその先には、何かがある。 内容なんてどうでもいい。とにかく、ハルヒとの約束を守るんだ。そのためには…勉強っきゃねえか。「わかったよハルヒ。勉強してやる。今になって初めて、ようやく勉強がしたくなったんだ」俺はそう自分に言い聞かせるように上を向いて言葉を発した。全く、いもしないやつとの約束を守るなんて初めてだ。今度礼を言ってやるよ。どうにかしてな。そう思った、その時だった。パキンもう古くなっていた代物なのか。それとも単なる突発的なものかは解らない。
手すりがぶっ壊れた。体が大地に引っ張られる。 そして、それに寄りかかっていた俺はそいつの落下に付き合わなければならなくなったようだ。体が重力に逆らえない。力も入らないこの感覚。
マジかよ。くそ、せっかくここでやるべきことも、やりたいことも見つけられたのによ。目の前に手すりはもう無い。前に寄りかかった重力は俺に落下を促していた。死ぬしか…ないのか……?
その時、かすかだが、足音の様な音が聞こえた。いや、気のせいだ。
その時、誰かがこっちに走っている姿が見えた。トドメを刺しにでもきてくれたのか。
そして、横目にそいつが手を伸ばしているのが見えた。
そして俺の動きが止まる。ブレザーごと後ろに引っ張られた。
…どうやら落下の危機からも脱出してしまったらしい。しっかりと捉えられ、なんとか安全圏まで引っ張られた。俺はひとまず安堵のため息をつく。「って、え…?」後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。「注意力が散漫してますね。この情報化社会、石橋はハンマーで叩くくらいが調度いいのですよ」この少しキザの入った声。だが、俺には何もかもが懐かしかった。後ろを振り返り、そいつを凝視せずにはいられない。この空間にいて初めて知っている奴に出会えたんだ。「お前…」なぜか半分涙声だ。俺もまさかコイツを見ただけで泣きそうになるとは思わなかったが、それだけうれしかったんだろう。「どうも。元気にしてましたか?」SOS団副団長兼企画係。古泉一樹がそこにいた。
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