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Lost smile」(2007/01/14 (日) 02:25:04) の最新版変更点

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<div class="main"> 今、俺は、自転車に乗って、登校する時に必死になって上った坂道を下っている。下るのはペダルをこぐ必要もないので楽なのだが、このあと、再びこの坂道を登らなければいけないのか、と思うと今から憂鬱になる。こんな坂道を登るのは1日1回で充分だ。<br>  頬を打つ風が、先日までの冷たい風と比べ、心地よく暖かい。春ももうすぐそこまで来ているのだろう。<br>  <br>  しばらくそのまま自動的に動いてくれる自転車に身を任せていると、目的地であるコンビニの看板が見えてきた。<br>  まったく、何故俺がこんなことをしないといけないのだろうか。これも全部、あの迷惑団長様のせいだ。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br> <br> <br> <center>「Lost smile」</center> <br> <br> <br> <br> 「キョン、喉が渇いたわ。」<br>  部室に入った俺を迎えたのは、ハルヒのそんな一言だった。<br> 「は?」<br>  いきなりのハルヒの発言を受け、口をぽかんと開けた俺に、ハルヒは眉を3ミリほど上に吊り上げて、<br> 「喉が乾いたって言ってるでしょ。」<br>  それがどうした。朝比奈さんにでもお茶を煎れてもらえばいいじゃないか。<br> 「ジュースが飲みたいの。」<br>  じゃあ自販機で買って来いよ。<br>  ハルヒは俺の提案を無視し、ニヤケ顔でパイプ椅子に座っている古泉に、<br> 「古泉くんも喉乾いていない?」<br>  すると、古泉はわざとらしく指先を喉ぼとけにあて、<br> 「えぇ、カラカラで死にそうです。」<br>  と爽やかスマイルで答えた。どう見ても死にそうじゃない。っていうか、お前まで何を言い出すんだ。<br>  ハルヒは今度は顔を長門に向け、<br> 「有希は?」<br> 「乾いた。」<br>  長門は視線を本に落としたままぽつりと答えた。おいおい、万能宇宙人であるお前が、喉が渇くなんてことあるのか?<br>  なんか怪しいな……。と、いうよりおかしい。<br>  ハルヒは今度は朝比奈さんに向かって、<br> 「みくるちゃんは?乾いてるでしょう?」<br>  そう問われて、朝比奈さんは一瞬肩をびくりとさせた後、すこし焦ったような顔で、<br> 「えっ……、あっ、えっと、かっ、乾いてます!」と、しどろもどろに答えた。<br>  団員全員喉が渇いているとは、ここはサハラ砂漠か?<br>  いいや、違う。俺の記憶が正しければここは日本のはずだ。<br>  ……突然、全員口を揃えて、<br> 「喉が渇いた」ね。何か段々わかってきたぞ。<br>  ハルヒは俺の方を向いて、にやりと不気味な笑みを浮かべ、<br> 「そういうことよ、キョン。<br>  団員全員分のジュースを買ってきなさい!」<br>  勢いよく俺に指をつきさして、そう叫んだ。<br>  ……やっぱりな。そういう気はしていたよ。<br>  ハルヒはおもむろにポケットから自分の財布を取り出し、<br> 「まぁ5人分だから600円もあれば足りるでしょう。」<br>  と、俺の手首を掴み、掌に100円玉を6枚置いた。<br>  俺は掌に載せられたそれを見て、軽くため息を吐く。……やれやれ。……ハメられたな。全員がかりで。まぁ、他のメンバーはハルヒにこう演技しろとでも言われてたのだろう。こうい う時の黒幕はいつだってハルヒだ。<br>  よく考えてみれば、SOS団での俺の役目は、オゴリとパシリだけだな。そう思うと虚しくなるね。<br>  自販機は学校前にいくつかあったよな。くそ、そこまで歩いていかないといけないのか、面倒くさい。と俺が部屋を出ようとすると、ハルヒが一言、<br> 「あ、キョン。あたし、坂の下のコンビニ限定のやつね。」 ……。今ハルヒは何と言った?<br>  ……坂のコンビニ?<br>  坂の下…。坂?<br>  ここへんで坂といって思い当たるのは、あの学校の前の長い坂道しかない。坂の下ということは…。俺はたかがジュースを買うためだけに坂の下まで降りて、…… そして再びあのハイキングコースを登ってこないといけないのか!?<br>  冗談じゃない、と俺が反論しようとすると、間髪いれずに古泉が、<br> 「僕もそれでお願いします。一度飲んでみたかったんです、それ。」<br>  とか言い出しやがった。貴様、俺に何か恨みでもあるのか?<br> 「私もお願いします。」<br>  その声に振り向くと、そこにいたのは朝比奈さんだった。そんな、朝比奈さんまで!俺は朝比奈さんにまで嫌われてしまったのか?<br>  くそ、死ぬ、死ぬしかない!<br>  ……いや、落ち着け、俺。<br>  そうだ、まだ長門がいるではないか。<br>  俺は最後の望みを視線にのせて長門をじっと見つめた。お前だけは俺を裏切らないはずだ!<br>  きっとそうだ!<br>  しばらく見つめていると、長門は俺の視線に気付いたらしく、顔を上げて、<br> 「私も同じので。」<br>  絶望したね。<br>  前に立つと、ドアは音を立てて両側にスライドした。<br>  店内はコンビニ特有のにおいが漂っている。それの成分の80%ぐらいは、レジの前にあるおでんによるものだろう。もう暖かくなってきたんだから、そろそろおでんは売れない時期だ と思うけどね。<br>  俺は弁当コーナーや菓子コーナーを横切り、飲物コーナーに向かった。ペットボトルや缶ジュースなどが横ににずらりと並べられている。俺は1段ずつ視線を左から右に泳がせ、目的のものを探した。――あった。ハルヒが言ってた限定のジュースだ。見ると、値札には120円( 税別)と書かれている。<br>  俺はそれを5本分とろうと手を伸ばして、あることに気付き手を止めた。<br>  まてよ…。<br>  一本120円で税別。我が国には"消費税"というものが存在するから、商品には+5%の税金がついてくる。120円の5%だから……6円だ。つまり一本税込みで126円。それでハルヒに渡された金は600円だ。俺は今日財布を持って来ていないから渡された600円しか持っていない。で、1本126円を5人分。126×5=……ええと、630円か。……足りてないよな。俺は4人分として計算しなおしてみる。126×4=504円。足りる。足りるが…。残金は96円ということになる。<br>  俺は再び飲物売り場の商品に目を通した。一番安いもので100円缶。足りない。<br>  頼まれたジュースではなく、他の少し安いものを買えば5人分足りるのだが、そんなことをすれば、あの団長のことだ、何を言われるかわからん。ハルヒの分だけ120円のものを買って行っても同じことだろう。つまり、ハルヒ、古泉、朝比奈さん、長門の4人分120円のを買っていかなければならないので…。<br>  つまり俺の分は無いって事だ。なんてこった。<br>  くそったれ。心の中でそう呟きながら俺は棚から120円のペットボトルを4本手に取り、レジに運んだ。<br>  泣きっ面に蜂、とはこのことを言うんだろうね。<br>  ジュースおあずけで肩を落としてコンビニを出た俺の前に待っていたのは、登校するときいつも苦労させられる魔の坂道だった。突然、下る時は天国だが上る時は地獄だ。突然、行きはよいよい帰りは怖い、と子供のころよく聞いたフレーズが、ふと頭に浮かんだ。あの歌は俺のことを歌っていたのか、知らなかった。<br>  俺は深いため息をついて、自転車に跨り、坂道に向かってペダルをこぎ始めた。<br>  何の罰ゲームだ、これは。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 坂を上りきったころには、俺は精神肉体共にボロボロになっていた。<br>  くそ、ハルヒめ。恨んでやる。<br>  俺は自転車庫に自転車をとめ、ジュースが4本入ったレジ袋を片手に再び校舎に向かった。<br>  下駄箱で靴を履き替える。もう部活動生以外のほとんどの生徒は帰ったのだろう、校内は静まり返っている。空気の止まった廊下を抜け、俺はやっとSOS団部室に辿りついた。長かったなぁ、ここまで。<br>  俺が部室に入ろうと、ドアノブに触れようとすると、何やら中から声が聞こえてきた。俺は手を止める。誰かが何か叫んでるようだが、ドア越しなだけにごにょごにょ言って何と言ってるか聞き取れない。それを聞き取るためにドアに耳を当ててみる。<br> 「それで、場所は有希の家に決定ね!」<br>  ハルヒの声だ。何が長門の家なんだ?もう少し様子をうかがおう。<br> 「プレゼントは全員1つずつ持ってくるってことでよろしいので?」<br>  古泉の声。プレゼント?何の話か全然掴めない。<br> 「そうね!あ、皆、××日までにプレゼント間に合う?」<br>  ××日?俺はその日に何かあったか思い浮かべてみる。……何だ?××日は日曜日になるが、何か予定があっただろうか。確か不思議探索パトロールはその日には入っていなかったし、前のように野球に出るなんて話もなかった。それに、パトロールや野球に"プレゼント"は関係無い。プレゼント…?誰にだ?何かの記念日か?記念日?……あっ――<br>  <br>  そうか、その日は俺の誕生日だ。<br>  なるほど、全員で俺をハメてパシリに使ったのは、それについての話し合いをするためだったのか。<br> 「皆キョンの誕生日まで間に合うのね。<br>  それじゃあ、パーティ会場の飾りつけだけど――」<br>  それからしばらくして、<br> 「これで大体決めたけど、他に誕生日について何か質問ある?」<br>  しばし沈黙が流れる。つまり質問は無し。<br> 「じゃあ決定!キョンが帰ってくる前に決めれて良かったわ。」<br>  そろそろ頃合か。そう思って俺はドアから耳を離し、ドアノブを捻った。<br>  ドアを開けると、ハルヒは露骨に驚いた表情を見せた。分かりやすすぎだぜ、ハルヒ。ハルヒはその表情のまま、<br> 「キョ…キョン、今の話聞こえてた?」<br>  聞こえていたとも。だがここは、<br> 「何の話だ?」<br>  と、あえてなにも知らないような顔をしておいた。<br> 「あ、あぁ、何でもないわよ。」<br>  ハルヒは小さく安堵の息を吐く。分かりやすすぎて、見てて面白い。<br>  俺はハルヒの表情を眺めつつ、パイプ椅子に腰掛けて、長テーブルの上にレジ袋を置いた。ハルヒはそのレジ袋を見て、<br> 「あ、キョン。全員分買って来たんでしょうね?」<br>  全員分は買って来ていないな、俺の分が足りない。<br> 「えっなんでよ?」<br>  ハルヒは疑問を顔に浮かべる。どうやら、自分の渡した金が足りなかったということに気付いていないらしい。<br> 「お金足りなかったの?」<br>  そうだ。<br> 「ふーん。足りなかったんなら、もっと安いのでも良かったのに。」<br>  ……そういう事は出発する前に言って欲しかった。<br> 「まぁいいわ。」<br>  ハルヒはそう言いながら、レジ袋からペットボトルを取り出し、蓋を開けてぐびぐびと飲み始めた。 おいおい、普通こういう時は、<br> 「しょうがないからあたしのをあげるわよ」とか言べきなんじゃないのか?<br> 「それじゃ私の分が無くなるじゃない。」<br>  何て奴だ。俺は坂道を死に物狂いで上ってきたのに。<br>  俺がそう言いながら睨むと、ハルヒは唇をペットボトルから離してにやりと笑い、<br> 「そんなに欲しいんだったら、私の半分あげようか?」<br>  と言って、なんと飲みかけのペットボトルを俺に差し出してきた。………え?な…何を言っているハルヒ。それはアレじゃないか。俗に言う間接ほにゃららじゃないか。ハルヒはそういうのを気にしないタチなのか?それとも、もしかしてこれは遠まわしに告白されてんのか?いや、ありえない。告白にしたって他の団員が見てるし…。いやしかし…。ああ、やばい、少し顔が熱くなってきた。こういう時はどう言うべきなんだ?俺が困惑していると、ハルヒはいきなり吹き出して、<br> 「ぷっ。何変な顔してんのよ。冗談よ、冗談。あんたと間接キスなんてするわけないじゃない。」<br>  あ、冗談か。冗談ね。本気でビビった。まだ心臓が脈打っている。<br>  ハルヒは再び唇をペットボトルにつけると、ものの10秒もしないうちに残りのジュースを全て飲み干した。水道に水が流れていくような勢いで、あっというまにペットボトルの中身はは空になった。<br>  俺が苦労して買ってきたジュース。わざわざ坂道を上り下りして買ってきたジュース。ハルヒは中が空っぽになった俺の努力の結晶のを、軽々しくゴミ箱にぽいっと捨てると、団長席に座ってネットサーフィンを開始した。くそ、忌々しい。そんな目でハルヒをじっと見つめていると、朝比奈さんが、<br> 「あの、よければ私のを……。」<br>  さすが朝比奈さんだ。あの自己中団長様とは大違いだな。俺は朝比奈さんの方に身体を向け、<br> 「いえいえ、結構ですよ。気持ちだけで充分です。」<br>  そう断ると、朝比奈さんは申し訳ないような顔をして、<br> 「でも……。」<br>  朝比奈さんがあんまり申し訳なさそうな顔をするので、<br> 「それじゃあ、代わりと言っては何ですが、お茶を煎れてもらえないでしょうか。」<br>  とお願いした。そこらの安いジュースを飲むより、朝比奈さんのお茶の方が数千倍良い。<br>  俺がそうお願いすると、朝比奈さんはぱぁっと明るい表情になり、<br> 「あ、はい。ただいま!」<br>  と言って、嬉しそうにポットまでぱたぱたかけていった。可愛いなぁ。<br>  朝比奈さんの方を見ていた顔を、再び前に向けると、丁度長門がペットボトルの蓋を開けているところだった。長門はペットボトルを口につけると、そのまま首を90度傾け、一気にペットボトルの中のジュースを喉に流し込んだ。…速飲み記録更新、記録5秒。どこかの大サーカスもびっくりだぜ。ハルヒもお前も、 味わうって言葉を知らないのか。<br> 「味わっている。」<br>  5秒でですか。<br> 「物質の成分、性質を完全に解析するのには1秒もかからない。」<br>  それは随分と味わってるな。<br>  長門は、空になったペットボトルを長テーブルの上にそっと置くと、また元の位置に戻って本の中の世 界にダイブした。<br> 「それじゃあ、僕も頂くことにします。」<br>  古泉はそう言ってレジ袋からジュースを取り出し、蓋を開けた。さぁ、古泉くんは記録更新できるかな? ただいまの最高記録は5秒です。<br> 「無理ですよ。頑張っても30秒ぐらいでしょう。」<br>  古泉は笑いながら、普通に飲み始めた。なんだ、つまらない男だ。<br> 「お待たせしました。」<br>  俺がつまらない古泉のジュースを飲む姿を眺めていると、朝比奈さんがお茶を持ってきてくれた。ゆらゆらと湯気を立てるお茶が輝いて見える。ジュースを買わなくて正解だったかもしれない。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 次の日。昨日の坂上りのせいだろう、朝起きると両足の筋肉の筋が激しく痛んだ。筋肉痛ってやつだ。日々の運動不足にも原因があるのかもしれない。情け無いぜ。<br>  それで、俺は足の痛みに耐えながら登校することになった。それはもう、死にそうに痛かったね。ペダルを一回こぐたびに涙が出そうになった。しかし、男は泣いてはならないと、小さいころから親父に教えられていたので、俺は涙を堪えて魔の坂道を登りきった。ついた頃は死にそうになってたね。<br>  俺は足の痛みと、教師の恐怖の指名攻撃を何とか耐え抜き、やっと放課後を迎えることができた。今 日はいつもの2倍ぐらい疲れたな。<br>  俺は、痛む足を引きずりながら、いつものようにSOS団部室に向かう。くそ、こんな思いをしなければならなくなったのも全てハルヒのせいだ。秘密で会議をしなければならないとはいえ、もう少し良い方法があるだろう。何故わざわざ坂の下までパシリに使うんだ。もう、あんなことは2度としたくないね。あんな悪 夢は、もう2度と。<br> 「キョン、喉が乾いたわ。」<br>  悪夢再来。<br>  おいおいおいおいおい、ちょっと待てよ、ハルヒ。<br>  という、俺の言葉に、やはりハルヒは耳を傾ける事無く、<br> 「皆も喉、乾いてるわよね。」<br>  と他メンバーに呼びかけた。<br>  それを受けて、メンバー達は全員同時にゆっくりと首を縦に振った。統一された動きがなんとも気持ち 悪い。<br> 「おい、待てよハルヒ。」<br> 「何よ、キョン。あ、お金のこと?<br>  今日は人数分ちゃんとお金渡すから大丈夫よ。」<br>  そういうことじゃなくて、と言う暇さえ与えず、ハルヒは俺の手首を掴んで俺の身体ををぐんと引き寄せ ると、1000円札を俺の手に握らせて、<br> 「じゃ、私下のコンビニ限定のコーラね!」<br>  と目を爛々と輝かせて言った。<br> 「ふざ」<br>  けんな、と叫ぼうとしたところに、<br> 「僕もそれで。」<br> 「私もそれ。」<br> 「あ、私もそれでお願いします。」<br>  ……やはりいじめだろう。いじめだ。うんいじめ。<br>  ここはいじめスレではない!<br>  甘物スレだ!<br> 「ふざ」<br>  けんな、と今度こそ叫ぼうとしたが、それよりも早くハルヒは俺のネクタイを掴むと、俺を廊下に投げ出 して、<br> 「じゃ!<br>  よろしく!」<br>  と左手をあげながら、飛び切りの笑顔で、ドアを閉めた。<br>  流石に泣きたくなったね。俺、泣いてもいいかな、親父。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  訴えたらどれぐらいの慰謝料が請求できるのだろうか、とか本気で考えながら、俺は自転車に乗って坂を下った。行きはよいよい帰りは……。死んでもいいですか。<br>  コンビニ到着。中に入ると、レジではまだおでんを売っていた。たくさん余っているところをみると、やはり売れていないのだろう。売れないならやめればいいのにね。そんなことを考えつつ、俺は昨日も足を 運んだ飲物コーナーに向かった。<br>  コーラ、コーラ。――あった、これだな。とりあえず値札を確認してみる。140円。+5%の消費税で、147 円。さらに5人分で147×5=735円。余裕で足りるな。俺は昨日のようなことが無かったことを確認し、安 心して5人分の缶を取り、レジに運んだ。<br> 「735円になります。」<br>  計算は間違ってなかったな。<br> 「1000円からのお預かりになります。」<br>  いつも思うのだが、"1000円からのお預かり"って日本語的におかしくないか?<br>  まぁ、そんなことを店員に訴えてもただの変人としかみなされないので、俺は黙って商品とお釣りを受 け取り店を出た。<br>  さて。恐怖の坂道を目の前にしている俺は、今2種類の選択ができる。頑張って坂を上るか、今ここで死ぬかだ。逃げるなんてことは許されない。そんなことをしたら確実にあの団長に捕まって殺される。生きるために死ぬような思いをするか、ここでサクッと楽に死ぬか。<br>  でも俺の親父は「や らないで諦めるより、やって後悔しろ」と言っていた。……仕方が無い。行くか。<br>  俺は昨日よりもっと深く、重いため息を口から吐き出し、自転車を漕ぎ出した。・<br> ・<br> なんとか校舎にたどり着いたが、足がやばい。悲鳴を通り越して奇声を上げている。思うように動かん、フラフラする。俺は今から保健室に行くべきなのか、部室に行くべきなのか。ああ、その前に天国に逝きそうだ。<br>  くそ、ハルヒめ。なんとしてでもあいつにだけは一矢報いたい。いや、一矢報わねばならぬだろう。どうすればいいだろうか。<br>  いうことを聞かない足を引きずりながら、俺はそんなことを考えていた。<br>  ……復讐するのは間接的、かつ偶然を装って行わねばならない。俺がやったものとバレれば次の瞬間俺の顔に鉄拳が飛んでくる。そんな返り討ちには、合わないようにしないといけない。<br>  殴る……っていうのは直接的すぎだし、気がひけるし、100%乱闘が始まるからダメだ。<br>  長門に協力してもらうか…?<br>  いや、監視役のあいつがハルヒを刺激するようなことするわけないよな。古泉も同じだろう。まぁ古泉には最初から期待していないが……。<br>  朝比奈さん……はどうだろう。わざと転んでもらって、お茶をハルヒにぶっかけるとか。いや……そんなことをすると怒りの矛先が朝比奈さんに向かいかねん。ダメだ。<br>  何か方法が……。<br>  ふと、左手のレジ袋が目に入った。炭酸水とはどういうものかご存知であろうか。炭酸水のあの泡は、二酸化炭素が水に溶け込んでいるものなのである。小学生でも知ってるよな、こんなこと。炭酸水を密閉された容器の中で振ったあと、その蓋を開けるとどうなるか、ということも常識であろう。<br>  この手があったか。<br>  俺はにやり、と笑みをこぼして、レジ袋の中から缶をひとつ取り出した。目印として、缶についている懸 賞の応募シールを剥がしておく。<br>  ハルヒめ。見てろよ。ふふふふふ。<br>  <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  会議は既に終わったらしい。<br> 「あ、キョンおかえり。」<br>  ハルヒは、必死になって坂を上ってきた俺に労いの言葉もかけることもなく、視線をパソコンのディスプレイに向けたまま軽く手を振った。こんのやろう。<br>  俺はパイプ椅子を確保すると、すぐに椅子にへたりこんだ。足がもう駄目だ。ハルヒめ。<br>  俺が椅子に座りながら、じっとハルヒを睨んでいると、ハルヒは俺の視線に気付いたらしく眉と眉の間 に皺をつくって、<br> 「何よ。またお金が足りなかったの?<br>  1000円も渡したんだからそんなことないでしょ?」と睨み返してきた。<br> 「ああ、足りたさ。5人分ちゃんと。<br>  ……お前の分もな。」<br>  俺はそう言ってハルヒににやりと笑ってみせる。すると、ハルヒは、いかにも「何言ってんだこいつ」と言いたげな表情で俺を見た。合コンで必死になってアニメの良さを語るアニメヲタを見るような冷ややかな目だ。これからその顔が茶色の液体でぐしゃぐしゃになると思うと、更に顔がにやけてくる。いかん、あま りにやにやしてると怪しまれるな。俺は顔を真顔に戻すと、すくりと椅子から立ち上がった。さて、これからが一番重要だ。俺が今持っている5人分のコーラは、俺が配らなければならない。足の痛みを我慢してでも。何故俺が配らないといけないかというと、他の奴が配るなんてことになったら、俺が仕掛けておいた"アレ"がハルヒ意外のやつに命中してしまう可能性がある。それが古泉ならともかく、朝比奈さんにヒットしてしまったら俺は3日以内に首を吊らなければならなくなるだろう。それを防ぐために、"アレ"は確実にハルヒに命中しなければならない。よって、俺が配らなければならないのだ。<br>  さて、ゲームスタートだよハルヒくん。<br>  まずは朝比奈さんに……、あれ?<br>  今気付いた、朝比奈さんの姿が無い。<br> 「ハルヒ。朝比奈さんは?」<br> 「ああ、みくるちゃんならさっき急に、トイレって言って出てったわよ。」<br>  ……トイレ?なんでまた急に。まぁいい、女性が急にトイレに行った理由を詳しく詮索するほど俺はデリカシーの無い男ではない。それに、それよりも、俺にはやらねばならないことがある。<br>  朝比奈さんの分は後回しということで俺はまず、古泉にコーラ缶を渡した。<br> 「ほらよ。」<br>  古泉は軽く頭を下げ、丁寧に両手で受け取る。にやにやしている顔が憎たらしい。こいつのも振ってお けばよかった。<br>  次に俺は、本の世界で大冒険している長門の元に歩み寄り、コーラ缶を差し出した。長門は視線を落としたまま、本に添えていた左手をあげてコーラ缶を掴むと、片手で蓋を開け、中身を3秒で飲み干した。 すげーな、おい。記録更新じゃねぇか。<br>  さて……。俺は団長席でふんぞり返っているやつの顔を見る。いよいよ残ったのはハルヒだけだ。<br>  俺は顔は上げたまま、視線だけを落としてレジ袋の中を確認する。シールがついている缶が2つ。ついていないのが1つ。そして、このシールがついていないのが地雷だ。<br>  俺は間違えないように地雷を取り出すと、ハルヒの団長席にそっと置いた。<br> 「ああ、ありがと。」<br>  ハルヒはそう言うと、地雷を手に取った。<br>  爆破スイッチに手をかける。――行け!<br>  行っちまえ!いよいよ爆発するか、と胸を躍らせながらハルヒを見ていると、ハルヒは爆破スイッチにかけていた手を急に止めた。そして眉がどんどん吊り上げていく。<br>  ハルヒは眉を吊り上げたまま俺に顔を向けた。まずい、まさか、バレたのか!?<br> 「キョン、これ。」<br>  ハルヒは片手のひとさし指で缶をさしながら言った。――バレた。ああ、終わったな。<br> 「懸賞の応募シールついてないわね。」<br>  ……終わっ……………え?<br>  ……シール?<br> 「私、これのキャンペーンのシール集めてるのよねー。」<br>  シール……?キャンペーン?<br>  ああ、なんだ、缶のことがバレたんじゃなかったのか……。俺は深く安堵の息を吐いた。心臓が止まりそうだったぜ。俺が安心していると、ハルヒは椅子から立ち上がり、俺の方に迫ってきた。何だ?<br> 「だから、シールついてるのでヨロシク。」<br>  ハルヒはそう言って俺の左手のレジ袋に手を突っ込んだ。<br> 「あ。」<br>  と、思わず声が出た。<br> 「何よ?」<br>  ハルヒはジュース缶を取り出すと、不思議そうな顔で俺を見る。<br> 「……いや、なんでもない。」<br>  なんでもなくない。やばい。やばいぞ、これは。くそ、油断した。<br>  こめかみの汗腺から気持ちの悪い汗が染み出てくる。なんてこった、地雷が再びこちらの手に渡ってしまった。ハルヒが持っているのは、ただのジュース。俺が持っているのは、地雷ジュース。レジ袋の中には、レジ袋の中には、普通のジュースが残っているが、これは朝比奈さんの分だ。朝比奈さんに地雷を渡すわけにはいかない。朝比奈さんがコーラを浴びて泣きそうになってる姿など――それなりに魅力 的だが――見たくは無いからな。<br>  ということは、これの所有権は自動的に――<br>  俺のものになる。くそ、こんなことなら古泉に渡すのを後にしておけば良かった。古泉にならいくらコーラがかかっても問題ない。ノープロブレムなのだが、古泉はもう自分の分の蓋を開けてしまっている。ここで、<br> 「俺のと、それ交換してくれ」など言ったら、俺はただのホモだ。俺は朝比奈さん一筋であり、古泉と愛を育むなど冗談じゃない。それならコーラを浴びた方が何万倍とマシだ。<br> 「あれ?<br>  キョン、飲まないの?」<br>  と、ハルヒ。もう覚悟を決めるしかないのか。<br>  親父の言葉。「男なら覚悟を決めないといけない時もある」<br> <br> <br> <br>  結果。<br>  ハルヒは大爆笑だったね。古泉は笑みの中に若干驚きの色を混じらせていた。長門は……まぁ、いつも通り眉一つ動かさないで読書に勤しんでいたけどね。ハルヒのようにげらげらと笑われるのも勘に触るが、リアクションが全く無いのもそれはそれで悲しい。<br> 「なーにやってんのキョン!」<br>  ハルヒは腹を抱えて、ついには床で転がり始めた。俺はちっとも愉快じゃない。<br>  ハルヒはようやくおさまると、ぜえぜえと息を切らしながら、<br> 「あー、ビデオカメラを用意しとけばよかったわー。」<br>  もしカメラに撮られていたら俺はその場で舌を噛んで死んでいたかもしれない。危なかった。<br>  シャツが茶色い液体で濡れている。ハルヒにかかるはずのこれが、何で俺の体にかかってるんだろうね。シャツを親指と人さし指で摘んでみる。これ、どうしようか。<br>  がちゃり。背後で音がしたので振り向いてみると、ドアの前に朝比奈さんが立っていた。なんてこった、朝比奈さんにまで俺の醜態を見られることになるとは。<br>  ……っていうか、この切り取られた場面だけを見た朝比奈さんには、今のこの状況が、どういう状況か 把握できないのではないだろうか?<br>  茶色く濡れたシャツを着ている俺。顔をにやにやさせているハルヒ。<br>  朝日奈さんがどう反応を示すか、窺ってみる。目を見開いて口を手で伏せるか、わけがわからず動揺するか、はたまた。<br>  俺は朝日奈さんがどういう反応をするか、頭の中で何パターンか思い浮かべてみた。しかし。<br>  朝日奈さんは驚くどころか、眉ひとつ動かさずに部室の中に入ってきた。<br>  ――朝日奈さん?<br>  顔は俯いており、目はいつものような輝きを放っていない。まるで、死んだ魚のような目だ。朝日奈さんに、死んだ魚のような、という比喩表現を使うのは気が引けるのだが、本当にそんな感じなのだ。<br>  朝日奈さんはとぼとぼとパイプ椅子の前に歩いてきて、力が抜けたように、すとんとパイプ椅子に腰を 落とした。<br>  俺は、朝比奈さんのただ事ではない様子に、困惑で声を失う。他のメンバーもだ。<br>  沈黙が部室に流れる。<br>  何かあったのだろうか。いや、何かあったに違いない。この様子で、何も無いというのはありえないだ ろう。<br>  俺は思い切って、パイプ椅子に座った朝比奈さんに、<br> 「朝比奈さん、何かあったんですか?」<br>  俺がそう問いかけて、10秒ぐらい間を置いてから、朝比奈さんはゆっくりと顔を上げ、<br> 「………キョンくん……。」<br>  そう言うと、目を潤ませ始めた。<br>  ……なんだこれは、本格的にやばいぞ。俺が出かける前まではいつも通りだったはずだ。俺がいなか った間に何かあったに違いない。まさかハルヒがまた朝比奈さんに何かやったのか?俺はハルヒの方を見る。すると、ハルヒもまた、驚いた顔をみせていた。様子を見る限り、どうやらハルヒの仕業ではないらしい。<br>  ハルヒは、パイプ椅子で俯いている朝比奈さんの前に立ち、その肩を掴み、<br> 「どうしたの?<br>  みくるちゃん。」<br>  朝日奈さんの目を見据えて言った。稀に見せる、真剣に団員を心配する顔だ。<br>  それを受け、朝比奈さんもまた、ハルヒの目を見つめる。<br>  ハルヒに向けた朝日奈さんの瞳はどんどん潤んでいき、ついには、その液体は雫となって頬を伝った。<br>  ハルヒは眉を1センチぐらい上げて驚く素振りをみせ、すぐにまた元の表情に戻ると、<br> 「みくるちゃん。何かあったの?何かあったのなら話してくれない?」<br>  ハルヒの問いに、朝日奈さんは、YesともNoとも言わずに、ただパイプ椅子から立ち上がって、部室から飛び出していった。<br>  俺は、突然の出来事に、どうしていいのかわからず、すぐに動けなかった。<br>  十数秒ぐらいして、ハルヒが、<br> 「キョン!<br>  古泉くん!<br>  有希!<br>  みくるちゃんを追いかけるわよ!」<br>  その言葉で我に返る。俺は部室を飛び出して行ったハルヒに続いた。<br>  廊下にはもう朝日奈さんの姿は無い。何処に行ったんだ?<br> 「外に出たのかも!<br>  靴箱に行きましょう!」<br>  先頭を行くハルヒに続いて俺達も走り出す。<br>  まもなく2年生の靴箱に到着した。ハルヒは朝比奈さんのクラスの靴箱を眺めると、その1つを開いた。 朝比奈さんの場所だ。<br> 「……靴が無いわ。」<br>  もう外に出てしまったのか?グラウンドの方を見る。<br>  ……いない?<br>  もう学校を出たのか?いや、確かに後を追うのは遅れたが、それほど時間はたっていない。この短時間で学校を出るのは不可能だ。ということは、まだ学校の中にいるのか?<br> 「手分けして探すわよ!<br>  キョンはそっち、古泉くんはそっち、有希はそっち!<br>  私はこっちを探すわ!」<br>  ハルヒは指で指示すると、上履きのままグラウンドに駆け出した。<br>  あとのメンバーも指示された方向に散らばった。グラウンドをしばらく走っていたが、朝比奈さんの姿は無い。<br>  まさか校舎に戻ったのか?そう思い、俺は校舎を振り返った。<br>  いない、か。<br>  そう思って、またグラウンドを探そうと、振り返ろうとした時。校舎の屋上から小さな光が放たれた。俺 は再び校舎に顔を向ける。<br>  次の瞬間、屋上に栗色の髪の少女が現れた。ここから離れていて顔はよくわからないが、あれは朝比奈さんだ。俺にはわかる。<br>  俺は急いで校舎に戻り、階段を駆け上った。<br>  足が裂けるように痛い。知った事か。今はそれどころじゃない。<br>  俺は美術部の物置として使われてる四階の階段を上りきり、やっと屋上へのドアにたどり着いた。<br>  ドアノブを捻る。しかし、ドアは開かなかった。何故?<br>  そうだ、屋上へのドアは施錠されている。職員室まで鍵を取りにいくか?<br>  いや、そんな時間は無い。ならば。<br>  俺は右肩をドアの方に向けると、そのまま力いっぱい肩をドアにぶつけた。<br>  何回も体当たりをしてると、鍵の壊れる鈍い金属音と共にドアは弾けるように開いた。<br>  俺は勢いで倒れた体を起こし、辺りを見渡す。<br>  ――いた。<br>  <br>  フェンスに手をかけて、じっと空を見つめるその人は、間違いなく朝比奈さんだった。<br> 「朝比奈さん!」<br>  俺は朝比奈さんに駆け寄る。遠くからはよく見えなかったが、近づいてみると朝比奈さんの頬に涙の跡があるのがわかった。<br>  朝比奈さんは俺に気付くと、ゆっくり顔をこちらに向け、にこりと微笑んだ。<br> 「何かあったんですか?」<br>  俺がそう聞くと、朝比奈さんはゆっくりと、<br> 「もう、いいんです。」<br>  と言って口をつぐみ、顔を再び空に向けた。<br>  その声は、諦めの色を帯びているようだった。<br>  暖かい風に流され、栗色の髪がそよそよと揺れる。<br>  朝比奈さんの、どこか悲しげな表情に、俺は二の句を継げなかった。<br> <br>  沈黙の間に、優しく流れる風の音だけが響く。<br>  数分ぐらいして、突然、背後から<br> 「みくるちゃん!」<br>  という声が聞こえた。<br>  振り返ると、屋上への出入り口にハルヒが立っていた。ハルヒは走ってこっちまで駆けて来る。遅れて 古泉と長門も登場した。<br>  ハルヒは朝比奈さんの肩を掴み、<br> 「大丈夫?<br>  何かあったの?」<br>  朝比奈さんは、心配するハルヒの顔ににこりと微笑みかけ、<br> 「大丈夫です。もう、大丈夫ですから。<br>  ご心配をかけ、すみませんでした。」<br>  と言い、腰を深々と折った。<br>  ハルヒはそれを受けて、朝比奈さんの身体をじろじろと眺めた後、<br> 「本当にもう大丈夫なの?」<br> 「大丈夫です。」<br> 「……ふーん。」<br>  すると、ハルヒは顎に手を当てて朝比奈さんの周りをぐるぐる回り始めた。<br> 「な、何ですか?」ハルヒは朝比奈さんの背後で足を止めると、両腕をがばっと広げ、……なんと朝比奈さんの胸を鷲掴 みした。<br> 「ひゃあ!」<br>  朝比奈さんは突然のハルヒの攻撃にびくりと小さく飛び上がる。それを見てハルヒはにんまりと微笑み、<br> 「うん、いつものみくるちゃんだわ。大丈夫そうね。」<br>  と、胸から手を離して朝比奈さんの肩を叩いた。<br>  ・<br> <br>  ・<br> その後、部室に戻ったあと、朝比奈さんは何か変わった様子を見せるわけでもなく、いつものようにお 茶汲みメイドとして働いてくれた。<br>  朝比奈さんは自分で納得したみたいだが、俺はまだ朝比奈さんに何があったか気がかりだ。突然屋上から現れたあれは、時間遡行から帰ってきたものではないか?それ以外に考えられない。と、すれば朝比奈さんは何処に行っていたのだろうか。未来?<br>  過去?<br>  それに、何故時間遡 行をしたのだろうか。<br>   何か指令が与えられていたのか?<br>  俺は朝比奈さんが淹れてくれたお茶飲みながら色々と考えていた。<br>  ・<br> <br>  ・<br> その日は、ハルヒの気まぐれにより団員全員で帰る事になった。先頭をハルヒ、次に長門、古泉と続き、 最後尾には俺と朝比奈さん。<br>  帰り道、何故か朝比奈さんは俺に積極的に話しかけてきた。2年のクラスでの話だとか、お茶の話だと か、そんな当たり触りの無い話だ。<br>  朝比奈さんと話している最中、俺は先程朝比奈さんに何があったか気にしないように勤めていた。が、やはり気になって、朝比奈さんの話を遮り、ハルヒに聞こえないようにして、思い切って聞いてみた。<br> 「さっき、何があったんですか、朝比奈さん。……時間遡行していましたよね。何処に行ってたんです?」<br>  俺がそう聞くと、朝比奈さんは先程まで楽しそうにしていた顔から、真面目な顔にして、<br> 「……実は、未来に行っていました。」<br>  やはり時間遡行をしていたのか。<br> 「何をしに行ったんですか」<br> 「禁則です。」<br>  朝比奈さんはそう言って口をつぐんだ。<br> 「……教えられないんですか。」<br>  俺がそう聞くと、朝比奈さんは顔を俯かせて、小声でもう一度、<br> 「……禁則です。ごめんなさい。」<br>  俺はしばらく朝比奈さんの顔を見た後、再び前を向き、<br> 「そうですか。」<br>  俺と朝比奈さんの間に沈黙が続いた。前ではハルヒが一人でぎゃあぎゃあと騒いでいる。<br>  ハルヒは突然くるりと振り返ると、俺のところに駆け寄ってきて、<br> 「キョン!<br>  明日の不思議探索パトロールは休みにするから!」<br>  と言って、また列の先頭に戻った。休み……ね。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  その後、古泉、長門、ハルヒの順に列から抜けていき、残ったのは俺と朝比奈さんだけになった。<br>  朝比奈さんは帰り道、ずっと俺に話しかけてきた。何故今日はこんなに積極的なのだろうか。 先程の事と何か関係がありそうな気がする。<br>  そして、いよいよ朝比奈さんと俺が別れる場所だ。<br> 「それじゃあ、キョンくん…。」<br>  朝比奈さんはそう言って、どこか名残惜しそうに踵を返した。<br>  俺が朝比奈さんの姿が見えなくなるまで見送ろうと朝比奈さんをじっと見つめていると、朝比奈さんは振り返って再びこちらに駆けてきた。<br> 「どうしたんです?」俺のその問いに朝比奈さんは答えないで、俺の首に腕をまわしてきた。<br>  次の瞬間。俺の頬に熱く、柔らかい感触が走った。<br>  見ると、朝比奈さんの顔が俺の真横にある。<br>  朝比奈さんは顔を離すと、舌をちょっぴり出して、<br> 「それじゃあ。」<br>  といって、路地に駆けていった。<br>  俺は何が起こったかわからず頬を触ってみる。熱い。何も無いはずなのに煙草を押し付けられている ような熱さだ。<br>  何が起こった?<br>  朝比奈さんが俺の首に腕をまわして、次の瞬間に朝比奈さんの顔が真横にあって……。<br>  まさか……。<br>  <br>  キス……された?<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  俺は朝比奈さんの一撃により茹った頭をなんとか支えながら家に辿りついた。まだ頬が熱い。<br> 「キョンくんどうしたの~?<br>  顔赤いよ~?」と妹。<br>  それは赤くはなるだろう。朝比奈さんのキスを受けて、冷静を保てる男などいるはずがない。もし、いるとしたら、きっとそいつは長門の男バージョンのような奴だろう。<br>  足元がふらふらするのは、パシリのせいなのか、キスのせいなのか。どちらかといえば後者だと思う。俺はその足取りで自分の部屋にたどり着き、ベッドに倒れこんだ。<br>  俺は身体を捻って仰向けになると、朝比奈さんのキスの感触を思い出してみた。<br>  ああ、出来ればもう一度……などは無理かな。まぁいい、あれは一回だけで腹いっぱいだ。<br>  俺は体内の熱を口から吐き出した。 ……すこし冷静になろう。<br>  落ち着いて考えろ、俺。<br>  朝比奈さんがいきなり俺にキス?<br>  普通に考えればありえないことだ。いくら甘物スレとはいえ急すぎる。<br>  急に泣き出したり、積極的に話しかけてきたり、キスをしたり……。やはりおかしいな。長門や古泉や朝比奈さんの様子がおかしいときは、俺がとんでもない事に巻き込まれる前兆だ。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 次の日、俺は連日のハルヒによるパシリ攻撃により、極度の筋肉痛で目が覚めた。昨日以上に足が痛い。頑張って早く筋肉の筋を再生してくれよ、俺の体。<br>  昨日ハルヒが言っていた通り、今日は不思議探索パトロールは休みだ。理由は聞いていなかったが、俺は知っている。部室の前で聞き耳を立てていたときにハルヒが言っていたのだ、土曜日は長門の家でパーティの準備をする、と。一日がかりで準備か。ご苦労様ですな。まぁ、俺のためにしてくれるのだ から、少しは期待してもいいかな。<br>  足が痛くて歩くのも嫌なので、俺はシャミセンと一緒に一日ごろごろして過ごす事にした。ふかふかしたベッドの感触が気持ち良い。シャミセンは毎日こんな生活をしているのか、いいなぁ。かわれよシャミセン。 なぁ。<br>  そう言いながらシャミセンの喉を撫でてやると、シャミセンはごろごろと喉を鳴らした。こいつも喋らなけ ればただの可愛い猫なのに。<br>  やがて日は落ちて、時刻は10時。別に見たいテレビがあるわけでもなく、俺は暇を持て余していた。<br>  やることもないので、俺はいつか長門に借りた本のひもをといてみた。読書に免疫がない俺は、大抵プロローグを読み終わる頃には睡魔に襲われるが、今日はそのまま寝てしまっても問題ないのでいいだろう。<br>  ……<br> 『死んだはずの彼女が幽霊になって会いに来た』ね。ありきたりといえばありたりだな。そもそも幽霊なんて存在するのだろうか。 …まぁ宇宙人未来人超能力者がいるのだから、いない、とは言い切れないがな。できれば出会いたくないものだ。誰だってそうだろう?自ら望んで会いに行くのはハルヒぐらいだ。<br>  プロローグを読み終わったあたりで、俺の瞼が鉛のように重くなっていることに気付いた。やはり俺にはプロローグまでが限度らしい。俺は小説のような幽霊が夜中に現れないことを願いつつ、布団を被ってベッドに顔をうずめた。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 小鳥の囀りが聞こえる。<br>  薄く目を開けてみると、眩しい光が瞳に差し込んできた。<br>  どうやら幽霊は現れなかったらしい。良かった。<br>  周りはしんと静まり返っている。時計の針は6時を示していた。家族はまだ誰も起きていないのだろう。<br>  日曜日だし早く起きても何もすることが無いので、再び寝ることに決め、俺は再び顔を布団にうずめた。 その時だった。<br>  静寂を破るようにでかい音楽が部屋に鳴り響いた。<br>  何事かとベッドから飛び起きる。その音はテーブルの上に置かれた俺の携帯から発せられていた。<br>  携帯を手に取ってみると、液晶画面にでかでかと"涼宮ハルヒ"と表示されていた。こんな朝早くから何なんだ。通話ボタンを押して、携帯に耳を当てると、<br> 『おはようキョン!<br>  今から来れる?』<br>  着信音よりさらにでかい音が耳を貫いた。その衝撃で俺の頭は携帯から30cmぐらい吹っ飛ばされる。そのでかい音をモロに受けた耳を押さえつつ、俺は携帯を反対側に持ち替えて、<br> 「なんだ、ハルヒ。何処に来いって?」<br> 『有希の家の前!<br>  あんた知ってるわよね?』<br>  もう一度時計を確認する。短い針が6の字を差している。ということは、今は6時ってことだよな。とりあえず携帯の画面も確認してみたが、やっぱり6時だ。<br> 「ハルヒ、今何時だか分かってるのか?」<br> 『6時でしょ?』<br>  ハルヒは当たり前のような口調で答えた。おいおい。<br> 「どうしてこんな朝早くから長門の家に行かねばならんのだ。」<br>  誕生日パーティをやるということはわかっているが。<br> 『来ればわかるわ。いいからさっさと来る事!<br>  いいわね!』<br>  反論する暇もなく、ハルヒは一方的に電話を切った。<br>  ……やれやれ。<br>  どうしようかと、ベッドの上であぐらをかいて考えていると、今度は違う着信音が部屋に響いた。再び携帯を手にとる。発信者は…"古泉一樹"ね。俺は通話ボタンを押して電話に出る。<br> 『朝早くすいません、古泉です。』<br>  全くもって迷惑だな。<br> 「それで、今お前はハルヒと一緒にいるのか?」<br> 『えぇ、長門と朝比奈さんも一緒です。』<br>  朝っぱらから全員そろってご苦労なこって。<br> 『4時ぐらいに涼宮さんから電話がかかってきましてね。<br>  「いますぐ有希の家来て!」とね。涼宮さんが随分はりきってまして。<br>  おかげで昨夜は3時間ぐらいしか寝てませんよ。』<br>  それは大変だったな。それで、俺はそっちに行かなきゃならんのか?<br> 『その通りです。大変だとは思いますが、<br>  あなたがもし来なかったら涼宮さんはあなたの家まで迎えにいくとかおっしゃってますよ。』<br>  なんだって?冗談じゃない。<br> 『そう思われるのなら、自分から来るのをお勧めします。<br>  待ってますよ、では。』<br>  古泉はそう言うとぶつりと電話を切った。なんでどいつもこいつも一方的に。<br>  ……しょうがねぇな。<br>  俺はベッドから腰をあげ、部屋を出た。廊下は静まり返っている。なるべく足音を立てないようにして、 俺は洗面所に向かった。<br>  鏡に映った俺の頭から数箇所アンテナが立っている。俺はその寝癖を処理した後、洗顔、歯磨きを済ませ、部屋に戻った。服を適当に選び、再び洗面所の鏡の前に立つ。よし、完璧だ。家から出ると、町もまた静まり返っていた。まだ少し足が痛むが、昨日ほどではない。昨日のうちに俺の体の細胞が頑張って筋肉を再生させてくれたのだろう。<br>  俺は空気の止まった町を歩き出した。<br>  静寂の中に、俺がアスファルトを踏む音だけが響く。<br>  しばらく歩いていると、長門の住む高級分譲マンションが見えてきた。もうすぐだ。<br>  あとはこの信号を超えれば……っと、横断歩道の向こう側に誰かがいる。複数人いる。<br>  あれは……ハルヒ?<br>  横断歩道の向かい側で、ハルヒが両手を腰に当てて仁王立ちしている。横には古泉、長門、朝比奈さんも一緒だ。なんでこんなところに。<br> 「キョン!<br>  あんたが遅いから迎えに来てやったわよ!<br>  早く来なさい!」<br>  ハルヒが横断歩道の向かい側で叫んでいる。迎えにね、ご苦労だな。<br>  信号が青に変わった。<br>  誕生パーティか。少しだけだが、楽しみだ。<br>  俺はハルヒの元へ行こうと、横断歩道の上を歩き出した。<br>  その時だった。<br>  目の端に黒い影が映った。<br>  次の瞬間、俺の身体は暗い闇の中に飲み込まれた。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 誰かの叫ぶ声がする。<br>  目を開けてみると、そこには青い空が広がっていた。どうやら俺は仰向けの状態にあるようだ。<br>  体を起こして、立ち上がってみる。何故か足の痛みが消えていた。足の痛みは無いのだが、足元がや けにふらふらする。<br>  誰かの叫ぶ声がする。<br>  目の前がぼやけてまだ視点が定まらない。<br>  誰かの叫ぶ声がする。<br>  ようやく目のピントが合った。目に映ったのはアスファルトとそれに膝をついて何かをしている人達。<br>  叫び声の主はハルヒだった。<br>  膝をついたハルヒ達の元に近寄ってみる。ハルヒは何かを揺さぶっているようだった。<br> 「なぁ、ハルヒ。何が起こった。何をしているんだ?」<br>  ハルヒは俺の問いかけに対する返答をせず、ただその何かを揺さぶり続けていた。<br>  ふと、道の先のガードレールにトラックがぶつかっているのが目に入った。ここからじゃよく見えないが車のヘッドが潰れているのがわかる。<br>  ハルヒの叫ぶ声がする。<br> 「キョン! キョン! しっかりして!」<br>  キョン? 俺はここにいるじゃないか。<br>  しかしハルヒは、俺ではなく、自分の膝元の何かにそう話しかけているようだった。<br> 「なぁ、ハルヒ、どうしたんだ。」<br>  俺はそういってハルヒの肩を掴もうとした。しかし。<br>  俺の手はハルヒの肩をするりとすりぬけた。<br>  ……なんだこれは?<br>  どうなっている?俺はハルヒが揺さぶっているそれを覗き込んでみる。<br>  その塊は人の形をしていた。<br>  しかし、胸の部分は潰れ、足と腕の関節はおかしい方向に曲がっており、めちゃくちゃな状態だ。<br>  だが、何故か顔の部分だけは綺麗に残っていた。<br>  ……見覚えのある顔。<br> 「キョン! しっかりしてって! キョン!」<br>  キョン?<br>  誰のことだ?<br>  ああ、そうだ。キョンとは俺のことだ。<br>  <br>  俺はもう一度、"それ"の顔を見る。<br>  これは俺の顔だ。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  その塊をじっと見つめていると、近くで膝をついていた長門が立ち上がった。<br> 「情報体へのアクセス、情報体へのアクセス。」<br>  長門の声が頭に響いた。耳に聞こえたのではなく、感覚神経に直接吹き込まれたような、妙な感覚だ。<br> 「メッセージ。」<br>  淡々とした声。<br> 「長門、お前、俺が見えて――」<br>  俺が言い終わる前に、<br> 「なお、このメッセージは一方的に送信されており、情報体からの送信の受信は不可能とされる。」<br>  何を言ってるかよくわからないが、つまり、俺の声は届いていない、ということだろうことはわかった。<br> 「この送信は一度しか行えない。よく聞いて。」<br>  ……わかった。<br> 「最初に、あなたに何が起こったか単刀直入に言う。」<br>  ……なんだ?<br> 「あなたは死んだ。」<br>  …………。<br>  は?<br> 「今のあなたは肉体を失った情報体。」<br>  …………馬鹿なことを言うな。<br> 「そして、情報中枢を失ったあなたの体はもはや修復不可能。」<br>  …………何を言っているんだ長門。<br>  俺は今さっきまで生きていたじゃないか。なにかのドッキリか?<br>  いまなら許して やるぞ。<br> 「あなたがショックを受けるのもわかる。でも、事実。」<br>  …………やめろ!<br>  笑えない。ちっとも笑えない冗談だ、長門。俺はさっきまで生きていたんだぜ?<br>  これから誕生日パーティーをするんじゃなかったのかよ、お前の家で。<br> 「信じて。」<br>  …………信じられるはずがない。<br>  そんな馬鹿な話を。俺が死んだだと?<br>  俺はここにいる。死んでなんかいない。<br> 「あなたは情報体になった。有機生命体は肉体を失った後は情報体になる。」<br>  今の俺がそうだっていうのか?<br> 「有機生命体から発生した情報体は、この次元に存在することは不可能。<br>  よって圧力を受け、別の次元に転送される。今あなたはそこにいる。<br>  こちらの世界と同じ場所にいるようでずれている。<br>  よって、この世界の物体、情報体に触れる事、アクセスすることはできない。」<br>  俺はさっきハルヒの肩に触れようとした時のことを思い出す。<br>  ハルヒに触れようとした俺の手は、ハルヒの肩をすり抜けた。<br>  ……まさか本当に?<br> 「有機生命体は元々肉体がなければ存在することはできない。<br>  よって有機生命体から発生した情報体は長くその次元に留まることはできない。<br>  情報体の情報抵抗力によるが、一定時間がたつと<br>  有機生命体から発生した情報体は別の次元に転送され、強制凍結させられる。」<br>  いわゆる天国、ってやつか?<br> 「あなたを失った涼宮ハルヒは世界を崩壊させるだろうと予想される。<br>  それにかかるまでの時間はおそらく、およそ1週間から2週間。」<br>  ……なんだって?<br>  世界を崩壊させる?<br>  物騒な話だ。せっかく天国に行ったとしても崩壊してしまうのなら意味が無い。<br> 「最後に。あなたという固体が死んだということは私個人としても残念。」<br>  長門は淡々とした声で最後に一言。<br> 「また図書館に行きたかった。」<br>  その言葉を言い終わると、ブツンと送信が途切れる音が聞こえた。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> その後。俺の抜け殻は病院に搬送された。<br>  助かって欲しいなんて願わなかったね。なぜなら、あの長門が言っていたのだ。<br> 『あなたの体はもはや修復不可能』と。あの長門に治せないものが、どうして医者程度の奴に治せようか。<br>  俺は病院のソファに腰掛けた。横には泣き顔の両親と妹がいる。<br>  手術室の扉の前には、SOS団メンバー達が立っていて、ハルヒは両手を合わせて手術の成功を祈っているようだった。<br>  悪いなハルヒ。<br>  もう助からない。 "手術中"のランプが消え、手術室のドアが開かれた。<br>  その中から出てきた、緑の手術服に真っ赤な血をつけた医者は苦い顔をしている。<br>  医者は周りを見渡したあと、<br> 「全力を尽くしたんですが……申し訳ありません。」<br>  そう言って深々と腰を折った。<br>  絶望の沈黙が流れる。<br>  ハルヒは力が抜けたように、すとん、と膝を床についた。<br> 「そんな………。」<br>  ハルヒの目はみるみる滲んでいき、それは大粒の雫となって頬を伝った。<br> 「嘘でしょ……?」<br>  ハルヒはしばらく床の一点を見つめた後、ゆらりと立ち上がると、医者の肩を掴んだ。<br> 「あんた医者でしょ!?<br>  人の命を救うのが仕事じゃないの!?<br>  手を抜いたんでしょ!?<br>  手を!<br>  あんたのせいでキョンは!<br>  キョ ンは!」<br>  ハルヒはそう叫び医者の肩を前後に激しく揺さぶり始めた。その目は狂気に満ちている。そんなハルヒの肩を古泉はトンと叩き、首をふるふると横に振った。<br>  ハルヒはそれを受け、鋭い眼差しを今度は古泉に向けると、<br> 「あんたまで何よ?」<br> 「少し落ち着いてください、涼宮さん。」<br>  それを聞いて、ハルヒは震えた声で叫んだ。<br> 「落ち着けるわけがないでしょ!?<br>  だって、キョンが、キョンが……」<br>  <br>  ハルヒは再び膝をつき、嗚咽を上げ始めた。<br> 「うっ………うっ………あぁ………うあああああああああああああああああああ!!」<br>  その嗚咽は、次第に大きくなり、叫び声へと変わる。<br>  病院にハルヒの声が轟く。<br>  絶望に満ちた声。<br> 「……ごめんね、キョンくん。私……知ってたのに。」<br>  涙で顔をぐしょぐしょにした朝比奈さんがぽつりと呟いた。<br>  両手を顔に伏せていたハルヒは、それを聞くと耳をぴくりと動かし、立ち上がって朝比奈さんの元へ行き、その肩を掴んだ。<br> 「……知ってたって何よ。」<br>  恐ろしく冷たい声。おもわず鳥肌が立った。<br>  ハルヒの問いかけに朝比奈さんは無言のまま顔を俯かせていた。<br>  何も反応を示さない朝比奈さんを見て、ハルヒはその肩を乱暴に揺さぶり始めた。<br> 「答えなさいよ。」<br>  ハルヒは凍りついた声を朝比奈さんに突き刺す。朝比奈さんは黙り込んでいる。<br>  ハルヒは肩を掴んだまま、朝比奈さんを壁の方まで押していき、肩を前後に激しく揺さぶった。その動きに合わせて、朝比奈さんの後頭部が壁にガンガンとぶつかる。<br>  再びハルヒの肩を叩く古泉。しかしハルヒはそれを気にも留めず、朝比奈さんの頭を壁に打ちつけ、ついには握り拳を固めて朝比奈さんの顔を殴り始めた。<br> 「答えなさいよぉぉ!!」<br>  絶望と狂気に満ちた声。いつもの爛々と目を輝かせるハルヒは、もうどこにもない。<br> 「やめてください涼宮さん!!」<br>  古泉がハルヒを後ろから羽交い絞めにして、ハルヒはようやくおさまった。<br>  顔に痣をつけた朝比奈さんは、壁に背をもたれたまま、ずるりとへたりこんだ。<br>  なんだよ、これ。<br>  数日後、俺の葬儀は行われた。<br>  見慣れた奴が揃って涙を流している。俺のために泣いてくれているのだろうが、ちっとも嬉しくは無い。どいつもこいつもしょぼくれた顔をしやがって。そんな顔をしていて死んだ奴が喜ぶとでも思うのか?<br>   泣き顔を楽しむ趣味など俺には無い。まぁ、もしここで、笑えと言っても無理な話なのだろうが。<br>  やはりハルヒには泣き顔は似合わない。いつものような笑顔を取り戻して欲しい。しかし、毎日、面白いことを見つけては爛々と輝かせていた目からは、今は涙が零れ落ちている。この目に輝きが戻るのはいつになるのだろう。<br>  俺の抜け殻の前で、坊主がポクポクと木魚をつきながらなにやらぶつぶつと唱えているが、はっきり言おう、全くありがたくない。身体を失って憂鬱な時に、ぶつぶつと何言ってるのかわからないお経を聞かされてもうっとおしいだけだ。 俺は無宗教派だしな。こんなところにいても楽しくないな。<br>  俺はそう思ってするりと壁をすり抜けて外に出た。霊の身体とは便利なもので、すり抜けたいと思えばなんでもすり抜けられるし、浮こうと思えば浮ける、また、走ろうと思えば自動車並の速さが出る。いや、走る、という表現とは違うな。何故なら足を動かさずとも移動できるからだ。だが、足を動かさないで移動すると何だか気持ち悪いので、俺は動くときは足を動かすようにしている。<br>  霊の身体は便利な分、不便なことも多い。たとえば、何も感覚が無い。自分の顔を殴っても全く痛みを感じないし、それどころか肌に触れたという感覚すら生じない。麻酔を全身にかけられたような感覚だ。全くもって気持ちが悪い。また、俺の声は誰にも聞こえないし、俺がなにかに触れたとしても、相手は全く何も感じない。つまり、霊は現実の世界に干渉することはできないのだ。身体を失った俺の居場所は、そこには無いのだろう。<br>  強い風が吹き、木の葉が揺れる。しかし、その風を頬に感じることは無かった。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> しばらく外で感じない風を体に受けていると、葬儀場の中から棺が運び出されてきた。<br>  続いて数人の葬儀関係者らしき人達が出てきて、それを担ぎ、金色に装飾された派手な車の中に入れた。何であんなに派手にする必要があるんだろうね。俺はそんな派手な趣味は無い。むしろ嫌いな方である。大阪のおばちゃんの派手なファッションを見て吐き気を催すほど俺は派手、というのが嫌いだ。よって、この車にも吐き気を催す。まぁ、いくら派手が好きな奴でも、あんな金ピカな車に積まれて喜ぶのはハルヒぐらいだろう。<br>  派手車に棺を積み終わると、後ろの扉を閉め、棺を担いでいた者の一人が運転席にまわった。<br>  そして、鈍いエンジン音と共に車は走り出した。<br>  俺は霊能力をフルに活用して、その自動車を追跡した。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> しばらくして。霊柩車先頭にした車達は火葬場に到着した。<br>  霊柩車から出てくるのは当然、棺。他の車からは、俺の親族が出てきた。と、よく見るとSOS団の面々もいる。全員、しょぼくれた表情を葬儀場からずっと持ってきたらしい。その顔はもういいっつーの。見飽きた。<br>  なにやら色々と準備のようなものが終わった後、ついに棺は焼かれる事になった。<br>  あの中には俺の抜け殻、つまり死体が入っている。しかし、俺を失ったあれはもはや俺じゃない。だからもうあれがどうなろうとどうでもいい。どうでもいいのだが、やはり今まで自分がいたその身体を焼かれるってのはあまりいい気分ではないな。まぁ、いい。湿気が多い日本では、死体をそのまま放置しておくと肉が腐り、見るも無残な姿になる。そんな姿になるよりも、骨だけになったほうがすっきりして良いだろう。たぶん。<br>  俺の抜け殻の入った棺が、焼却炉らしきものの中に入れられると、周りの奴等の泣き声が大きくなった。<br>  もう死んでいるんだ。焼かれるのはただの死体。何を悲しむ必要がある。<br>  それからまたしばらくして。焼却炉から戻ってきた俺の抜け殻は白い骨だけになっていた。それはもう見事なまでの白さだったね。純白のしゃれこうべがなんともグロテスクに感じる。俺の中身はこうなっていたのか。まぁ、もうどうでもいいことだ。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 骨だけになった俺の抜け殻は、やがて墓の中に入れられた。<br>  墓に入るのはずっとずっと先、俺が老人になって人生を楽しみつくしてからになるのだと思っていたのだが、まさかこんなに早く墓の中に入ることになるとはね。俺はまだ全然人生を楽しみ尽くしていない。プレイ中だったテレビゲームも全クリしてないし、見たかったドラマもまだ終わっていないし、彼女もまだできていないし、とにかく、やりたいことはまだまだ、まだまだまだまだ沢山あったのだ。<br>  SOS団のメンバーともな。<br>  運命は残酷だよ。残酷すぎるね。神様とやら、お前は何をしたいんだ?<br>  希望を 持って生きてる奴の命を摘んで、本人もまわりも絶望させて。<br>  古泉、神様はやはり、ハルヒじゃなかったよ。<br>  もしハルヒが神様だったら、こんなことを望まないだろう?<br>  ・<br> それからしばらくここにいる奴等は涙を流しながら、墓に祈っていたが、涙もそう長くは続かないもので、次第に皆の涙は止んでいった。しかし、親族も朝比奈さんも古泉も長門も――まぁ長門は最初から流していないが―― 涙が止まったというのに、まだ涙を流し続けている奴がただ一人。涼宮ハルヒだ。<br>  涙とは無縁なはずのお前が。なぁ、ハルヒ。もう泣くのはやめようぜ。他の奴等はとっくに泣き止んでいるぞ。 泣き顔なんて見てて気持ちの良いものじゃない。なぁ。そろそろ、いつもの笑顔に戻らないか?<br>  そして、<br> 「キョンが死んだのは仕方が無いわ、前を向きましょう皆!」とか言いながら、笑顔で皆と肩を組みながらずんずんと帰っていく、みたいな、いつものノリに戻ってくれよ。正直言ってお前にそんな姿は似合わない。<br>  しかし。<br>  笑顔を取り戻すどころか。<br> <br>  ハルヒはその日を境に笑顔を失った。<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  紅く輝く夕日はもうとっくに山に沈み、辺りは暗くなり始めていた。墓の前で祈っていた親族がぽつり、ぽつりと姿を消していく。それはそうだ、いつまでもこんなところにいるわけがない。朝比奈さん、長門も立ち去っていく。<br>  俺の墓の前で蹲るハルヒの肩を古泉が叩き、優しい声で、<br> 「涼宮さん。今日はもう帰りましょう。」<br>  ハルヒは、膝に顔を埋めたまま、小鳥のような小さな声で<br> 「もう少し残る。先に帰って。」<br>  と言って口をつぐんだ。<br> 「涼宮さん。もう暗くなります。夜は危険ですよ。」<br>  古泉がハルヒを説得し始めたが、ハルヒは聞く耳を立てず、その体制のままじっとしていた。<br>  ハルヒの執念に負け、古泉はやれやれ、と肩をすくめ、ハルヒを残してその場を立ち去った。<br>  残ったのはハルヒだけだ。<br>  <br>  墓場に沈黙が続く。わずかな日の光により灰色だった辺りは、もう完全に日の光を失って闇に包まれた。<br>  夜の墓場。不気味だ、何かでそうだぜ。っと、そういや俺が霊だったのか。<br>  辺りはすっかり暗くなっているというのに、ハルヒは先程の様子のまま蹲っていた。俺はというと、自分の墓石の上に腰掛けながら、そんなハルヒの姿をずっと眺めていた。ハルヒ、もう夜遅い。治安の悪くなりつつある現代の日本では、夜は何に巻き込まれるかわからん。今日は帰れ、な?<br>  しかし、ハルヒは動かなかった。<br>  それからまたしばらくたって。<br>  ハルヒは膝に埋めていた顔をゆっくりと上げると、<br> 「キョン、あんたとは色々あったわね。」<br>  流石にもう涙は枯れたようで、頬には涙の跡だけが残っていた。<br>  ハルヒはゆっくりとした弱々しい口調で語り始めた。<br> 「あんたと出会ったのはいつだったっけ……?<br>  一年生の初めの頃よね。あんたが最初話しかけてきたときは、正直うざいと思ったわ。<br>  あんたも、周りにいる普通の奴と変わらないって、思ってたから。<br>  だから、あんたが私の髪の法則に気付いたときには驚いたわ。同時に、嬉しかったの。<br>  あの時はそっけない返事しかしなかったけどね。心の底から、本当に。<br>  私の事を、理解してくれた、唯一の人だったから。<br>  SOS団が出来たのもあんたのおかげなの。<br>  思えば、あたしあんたを随分と振り回してきたわよね。<br>  それでも、あんたはあたしについてきてくれた。<br>  あんたと何か一緒にしてる内に、あたしの中で何か変わったわ。<br>  宇宙人とか未来人とか超能力者とか異世界人とか、そんなのもう、どうでも良くなったのよ。<br>  あんたと何か一緒にできれば。一緒にはしゃげれば。<br>  いつの間にか、あたしがSOS団にいる理由は、<br>  不思議をさがすためから、あんたと一緒にいるためになってた。<br>  あたし、自分の中の自分の気持ち、正直もう気付いてたの。<br>  いつか言おうとは思ってたんだけどさ。<br>  言う前にあんたはいなくなっちゃった。<br>  早く言えばよかったのに。馬鹿だよね、あたし。<br>  ねぇ、キョン。聞いてくれる?<br>  もう今更遅いけど。」ハルヒはすくりと立ち上がると、ハルヒから発せられたと思えないほどの優しい声で言った。<br> 「キョン。私、あんたのこと好きだった。」<br>  好きだった?<br>  ハルヒが?<br>  俺の事を?<br>  そんな事あるわけが………。<br>  ……いや。本当は俺もハルヒの気持ちに気付いていたのかもしれないな。ただ、認めようとしなかっただけで――。<br> 「あんたとやりたかったこと、まだ沢山あったのよ。」<br>  ハルヒは俺の墓の前に歩み寄る。<br> 「あたしね、あんたの誕生パーティーの準備頑張ったのよ。<br>  また、あんたと一緒にはしゃげるのが楽しみでね。<br>  誕生パーティーの他にも色々やりたいことあった。<br>  また野球大会に出る予定も立ててたし、<br>  SOS団で温泉旅行に行こうって話も古泉くんとしてたのよ。<br>  これから沢山、沢山沢山、またあんたと一緒にはしゃげると思ってたのに。」<br>  ハルヒは左手を握り締め。<br> 「なのに。」<br>  眉間に皺を刻んで。<br> 「なのに……。」<br>  大きく息を吐き出して。<br> 「なのに何で死んじゃったのよ!!」<br>  静かな墓場に悲痛な叫び声が轟く。<br>  ハルヒは、固めた拳を俺の墓に打ちつけ始めた。<br>  しかし、重い沈黙は再びハルヒの身体を覆っていき、重圧をかける。<br>  ハルヒはその重圧に負け、俺の墓を叩く手を止めて、その場に膝をついた。手の甲からは血の雫が滴り落ちている。<br>  ハルヒは再び膝の中に顔を埋めると、嗚咽を上げ始めた。<br>  ……ごめんな、ハルヒ。<br>  ハルヒはゆらりと腰を上げると、<br> 「……今日はもう帰るわ。ごめんね、キョン。」<br>  ぐしゃぐしゃになった顔を拭いもせずに闇の中に消えた。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 俺はそのままずっと自分の墓の上に腰掛けていた。<br>  この身体は、疲れることがなく、眠ることもない。<br>  生きている皆が寝静まっても、俺だけは起きている。沈黙につつまれた夜は、俺に孤独と感じさせるのに充分すぎるほど静かな世界だ。<br>  泣きたくなってくるね。しかし、この体は涙を流すことすら許してくれないのだ。<br>  俺はじっと闇を見つめる。<br> 「よぉ。」<br>  低い声が墓場に響いた。見知らぬ男の声だ。こんな夜遅くに墓場に用があるなんて、変わった奴だ。<br>  知らない奴の顔をわざわざ見るのも面倒臭いので、俺はじっと顔を前に向けていた。<br> 「おい、聞いてるのか?」<br>  うるさいな。こんな夜遅くに、そんなでかい声で。近所迷惑、というのを考えないのか。<br> 「お前だよ、お前。」<br>  俺はそいつのでかい声がなんとも耳障りで、流石に耐え切れなくなり、声のする方を振り返った。誰と話をしてるんだ?<br>  しかし、振り返った先にいた男の視線は、誰に向けられてるわけじゃない、俺の方に向かって向けられていた。。<br>  もしかして、俺に話しかけているのか?<br> 「そうだよ。」<br>  男は頷く。 ……そんな馬鹿な。霊は現実の者と干渉できないのではなかったのか?<br>  何故こいつ は俺の声が聞こえる?<br>  話しかけてきた、ということは俺の姿も見えているのだろう。<br>  俺はハッと思い当たる。"霊は現実の者と干渉できない"。これは真理だ。現実の者とは、干渉ができないが、現実じゃないなら……。<br>  まさか、こいつも?<br> 「ああ、死んでるな。」<br>  男はにんまりと笑いながら、<br> 「谷川 流仁だ。よろしく。」<br>  と、握手の手を差し伸べてきた。<br>  <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br> 「ふーん、それでさっきの娘が、そのナントカ団の団長なんだ。」<br>  俺はSOS団であった、今までの事をその男に話してやった。谷川と名乗る男は、ハルヒが墓場にいた時からずっと遠くで見ていたらしい。覗きの趣味はいただけないけないとは思うがね。<br> 「すまんすまん。出てきたかったんだが、そんな雰囲気じゃなかっただろう。<br>  俺の墓、お前のの隣なんだ。」<br>  谷川はそう言って俺の隣の墓によじ登って腰を下ろした。<br> 「そんで、お前は何で死んだんだっけ?」<br>  ストレートな質問だな。どうやら、こいつにデリカシーという言葉は無いらしい。<br> 「トラック運転手の居眠り運転。」<br>  俺は肩をすくめて言った。<br> 「へぇー。事故だったんだな。それで、どう?<br>  痛かったのか?」<br>  そんな事感じる間も無く死んでたよ。<br> 「ふーん。そうなのか。俺が死ぬ時はかなり苦しかったけど。」<br>  苦しかったって、どんな最後だったんだ。<br>  俺がそう聞くと、谷川は眉をぴくりと動かし、目を細めて言った。<br> 「自殺、さ。首吊りのな。」<br>  思わずぎょっとしてしまったね。自殺…?<br>  それはまたどうして。<br> 「俺、大学生でさ。親に勉強しろってしつこく言われてて。<br>  将来の職業も勝手に決められてさ。医者だって。」<br>  医者ね。結構な仕事じゃないか。<br> 「それがな、俺の夢は別にあってな。」<br>  それは?<br> 「小説家さ。<br>  勉強の合間をぬって、独学で小説の勉強をしててさ。<br>  将来は医者なんかじゃなくて小説家になろうと。<br>  そんで、親の目を盗んで、コンテストの作品書いてたんだよ。<br>  なんとか、それは完成したんだけどね。」<br>  したんだけど、どうした。<br> 「最後の最後で見つかった。」<br>  それで、その原稿はどうなったんだ。<br> 「破り捨てられたね。その場で。俺の目の前で。<br>  流石に怒ったね。<br>  親を呪ったよ。」 それで、自殺か。<br>  谷川は深く頷きながら<br> 「そう。でもさ、死んでみてわかったよ。<br>  自殺なんていいもんじゃないね。<br>  葬儀の時にさ、家族がボッロボロに泣いて。<br>  その時、ようやく家族が俺の事を大切にしてたってことがわかったんだが…。」<br>  谷川は両の掌を上に上げて、<br> 「死んでしまっては、後の祭さ。」 ……谷川の話に俺は押し黙ってしまった。<br>  そんな俺の顔を見ると、谷川は笑いながら、<br> 「そう、しんみりするなよ。お前の事じゃないんだからさ。」<br>  と、俺の肩をバンバンと叩いた。<br>  しばらく谷川は俺の肩を叩いていたが、突然その手がするりと俺の肩を抜けた。<br> 「ん?」<br>  見ると、谷川の左の手首から先が無くなくなっている。<br> 「うぉぉぉぉぉ!?<br>  なんじゃこりゃあ!?」<br>  よく見てみると、手首の先は砂状になって、さらさらと崩れ落ちている。<br>  何が起こったんだ、谷川。<br> 「いや、俺にもわけがわからな……」<br>  谷川はそこで口を止め、急に納得したような顔を見せた。なんだ?<br> 「なるほど、お迎えだな。」<br>  お迎え?<br> 「お前に話を聞いてもらって俺のこの世に対する未練が無くなったんだろう。」<br>  谷川の腕はみるみる消えていき、もう肘まで無くなった。視線を落としてみると、足先も砂になってきている。<br>  未練って、何の話だ谷川。<br> 「よく言うだろ、霊はこの世になんらかの未練があって、この世に残るって。<br>  だから、未練が無くなった霊はあっちの世界に逝くのさ。」<br>  あっちの世界……。天国?<br> 「そう。<br>  ところで、お前も霊ってことは、もしかして何かやり残してる事があるんじゃないのか?」<br>  やり残してる事…。俺の。何だ?<br> 「まぁ、ゆっくりと考えるといいさ。」<br>  谷川の腕と足は既に消え去り、もう残っているのは胸から上だけだ。<br> 「それじゃあ、キョン、だっけ。話聞いてくれてありがとうな。」<br>  砂が体を蝕む速さが速くなり、谷川の胸の部分は一気に消え去った。<br> 「それと、お前の話も面白かったぜ。<br>  もし、生まれ変わる事があるなら、お前の話を小説にでもしてみるよ。」<br>  谷川は笑いながら、<br> 「じゃあな。」<br>  最後にそう一言言い、完全に消え去った。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> いつの間にか、夜は明けて朝比が上っていた。眩しい。<br>  さて、と俺は墓の上にあぐらをかいてみる。<br>  何かやり残していること、ね。そういえば、忘れかけていたが、長門の話によるとハルヒのチカラによって一、二週間後にはこの世界は崩壊するらしい。もし何かやり忘れていることがあるなら、崩壊する前にしなければならないだろう。<br>  やり残している事……。何だろうな。この前買ってクリアしてないゲームだろうか。なら、もうコントローラーを握ることができないから無理だな。<br>  普通ならあの世に行くところを、この世に残るぐらいだから、そのやり残しているってのはよっぽど強い願いらしいな。強い願い、という割には俺自信が自覚していないというのはどうなのだろうか。まぁ、いい。それを達成しなければならないなら、墓場にずっといても仕方が無い。墓場にやり残していることがあるとは思えないしな。それなら何処に行けば良いだろうか。<br>  俺がゆかりの深いところ。<br>  ……学校、かな。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> やはり、北高の前にはいつもの通り魔の坂道が存在していたのだが、霊体になった俺にとっては、全く問題無かった。体が疲れることはないし、自動車並のスピードで移動できる。俺は、いつも苦しめられてきた坂道を一気に上りきった。こんな爽快感は初めてである。しかし、あの坂道を上る感触をもう味わえないと思うと、少し名残惜しいような気がしないわけでもない。<br>  靴を履き替える必要は無いので、下駄箱を素通りし、俺は教室に入った。<br>  ハルヒはまだ来ていないか。っと、何だあれは?<br>  見ると、俺の机の上に色とり どりの花が飾ってある花瓶が置いてあるではないか。本当にこういうことするんだな。<br>  俺は自分の机に行き、椅子に手をかけて引いた。しかし、俺の手は椅子をするりとすり抜ける。ああ、そうだ。俺はユーレイだったんだな。現実の物に触る事はできない。と、いうことはもうこの席には座れないのか。何か寂しいな。普段どうでもいいことだって、いざ失ってみれば寂しいものだ。椅子に座ることができないので、俺は机の上に座ることにした。行儀が悪い、とか言うなよ。仕方ない事だ。<br>  しばらく机の上に腰掛けたまま、グラウンドをみていると、わらわらと沸く生徒の中に、見慣れたカチューシャの女が交じって登校してきた。俯き気味でとぼとぼと歩いている姿はらしくないが、間違いない、あいつはハルヒだ。ハルヒの姿が見えなくなってからしばらくして、ハルヒは教室に登場した。<br>  前髪が顔にかかってわかりにくいが、よく見るとその目は赤く腫れている。<br>  ハルヒはとぼとぼと自分の席の前に歩を進めると、弱々しく椅子を引いて、ゆっくりと座 った。その顔には笑顔は無い。<br>  そんなハルヒをじっと見つめていると、いきなり放送が入った。緊急で全校集会をするらしい。おそらく、俺が死んだことに関する話でもするのだろう。ご苦労さんだね。皆、朝からそんな暗い話聞かされたくないだろうに。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 全校集会が終わり、その後はいつも通り普通に授業が行われた。<br>  死んでまで勉強したくないね。そう思って俺は授業中ずっと外を眺めていた。出席簿から名前を消した俺が、もう指名されることはない。なので、授業を聞かなくてもかまわないのだ。<br> 「それじゃあ、ここを涼宮。」<br>  と、教卓の教師。<br>  教師の質問にハルヒは答えない。聞こえていないようだ。<br> 「涼宮?」<br>  教師の2度目の問いかけで、ハルヒはようやく気付いたようで、ハッとしたような表情になる。そして、周りをきょろきょろと見渡したあと、顔を前に向けて、小さな声で、<br> 「……わかりません。」<br>  クラス全員が驚愕の表情を見せる。成績優秀で学年トップクラスのハルヒの口から、<br> 「わからない」などという言葉が出るとは、誰も予想していなかったのだろう。<br>  しっかりしようぜ、ハルヒ。<br>  教師もまた、驚いた顔をしていたが、ハルヒの様子がおかしいのは、例の件のせいだと気付いたらしく、ハルヒを咎めるようなことはせず、教師は優しい声で、<br> 「涼宮。次当てられた時は答えてくださいね。」<br> 「……はい。」<br>  そう小さく答えたハルヒの目線は、教師ではなく前の席の花瓶に向いていた。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  いつものハルヒなら、休み時間に入ると教室を出て学校をうろつき始めるのだが、今日のハルヒは、休み時間だというのに、机に顔を突っ伏したまま、じっとしていた。クラスの奴等もまた、普段と違っていて、いつもなら休み時間の教室は工事現場の騒音並にうるさいのだが、今の教室は沈黙に包まれている。それはそうだ、クラスメートが死んだのだ。ここで、いつもと同じ様にギャーギャー騒ぐ奴がいたならば、顔面に拳を叩き込んでやる。触れないけど。<br>  ガタン、という音が、突然、教室の中に響いた。クラス全員の視線がその音のした方に集中する。その先には、席を立った谷口がいた。クラスの奴等は、<br> 「なんだ谷口かよ」といった表情をして、おのおの視線を元に戻す。谷口は、教室の沈黙を崩さないように、そろりそろりと足を動かして、国木田の席まで寄っていった。国木田は寄ってきた谷口を見て、<br> 「何だい?」<br>  谷口は目でハルヒの方を示しながら、周りに聞こえないように手を口の横に立て、小声で囁くように、<br> 「なんかさ……涼宮、静かだよな。」<br>  谷口は聞こえていないつもりなのだろうが、この静けさだ。いくら小声で言ってもこちらまでまる聞こえである。ここにいる俺に聞こえているという事は、後ろの席のハルヒにも聞こえているのだろうが、ハルヒは、それに反応せずに机に顔を伏せたままにしていた。<br>  国木田は、小学生を見るような目で谷口を見、瞼を伏せて小さくため息を吐いた。<br> 「当たり前じゃん。キョンがいなくなっちゃったんだからさ。<br>  あんなに仲良くしてたのに普通じゃない方がおかしいよ。」<br>  机で元気を無くしているハルヒを見ながら国木田は言う。<br> 「……涼宮、キョンの事好きだったのかな?」<br> 「それは、人として、と、男として、とのどっちの事を言ってるんだい?」<br> 「男として。」<br> 「さぁね。でもきっと好きだったと思うよ。」<br> 「……だよなぁ。」谷口はハルヒの席に向けていた視線を、俺の席の花瓶に移し、<br> 「何で死んじまったんだろうな。キョン。」<br>  谷口、俺の事を想ってくれるのは嬉しいが、それよりも、俺は今、お前のズボンの股間の部分のチャックが全開になっていることが気になってしょうがない。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 東よりだった太陽は、もうすっかり俺達の真上に上って、昼休み。昼休みに入ったというのに、ハルヒはやはり机に顔を突っ伏したままだった。おーい、ハルヒさん?飯は食わないのかい?<br>  昼休み開始10分ほどして、ようやくハルヒは腰を上げた。いつも通り学食にいくのかと思ってついていく。すると、ハルヒは学食に行くためには左に曲がらなければならない廊下を、右に曲がった。ハルヒ、学食は左だぞ。お前ってそんなに方向音痴だったか?<br>  ……ハルヒはどこに行こうとしているんだ?<br>  俺はハルヒが向かう先に何がある か思い出してみる。えーっと、あっちは確か……。<br>  そうだ、二年の教室だ。<br>  二年に何の用があるってんだ?<br>  しばらくハルヒを追っていると、ハルヒは二年生の、あるクラスの前で足を止めた。朝比奈さんのクラスだ。一年の教室と打って変わり、二年の教室は笑い声で賑わっている。名前も知らない一年生が死んだところでどうでも良いのだろう。だが、皆が騒ぐ中ただ一人、窓際で沈んだ表情で弁当を食べている少女がいた。朝比奈さんだ。<br>  ハルヒは教室のドアの近くで席をつけて仲良く弁当を食べている女子達に、<br> 「……あの。」<br>  女子達はハルヒに反応せず、ぺちゃくちゃ喋りながら笑っている。ハルヒの声が小さくて聞こえていないらしい。<br> 「あの。」<br>  ハルヒがもう一度、さっきよりも大きい声で言うと、女子のグループの一人がハルヒに気付いたらしく、席を立ってハルヒの元に寄った。<br> 「どうしたの?」<br> 「朝比奈さんはいらっしゃいますか?」<br> 「いるけど……。」<br>  その女子は俯き気味のハルヒを舐めまわすように見る。<br> 「あなた、涼宮ハルヒよね?」<br> 「……はい。」<br> 「……ふーん。」<br>  女子は、野菜を食べるライオンを見るような目でハルヒをじろじろ見たあと、朝比奈さん の方に顔を向けて叫んだ。<br> 「朝比奈さーん。涼宮ハルヒが呼んでるよー。」<br>  朝比奈さんは、箸の先を口に咥えたまま、きょとんとした表情を見せる。箸を咥えるのは"咥え箸"といい、礼儀作法の上でやってはいけない行為なのだが、可愛いのでいいだろう。うん。<br>  朝比奈さんはハルヒに気付くと、教師に呼び出しを喰らった時のような顔をつくり、そして、ゆっくりと席を立つと、おどおどとハルヒの元に歩み寄った。<br>  ハルヒは顔を上げると、<br> 「みくるちゃん……。……ちょっと今からいいかしら?」<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 中庭。周りに人影は全く無い。<br> 「あの……。涼宮さん……。」<br>  朝比奈さんは恐る恐る言う。<br> 「えっと……。」<br>  ハルヒに殴られた日の事を話したいのだろうが、何と切り出したらいいかわからない様 子だった。そこにハルヒが、<br> 「この前の事だけどね。」<br> 「……はい。」<br>  ハルヒは上の睫毛と下の睫毛を合わせて、<br> 「あれからちょっと冷静になって考えてみたの。」<br>  ハルヒとは思えない落ち着いた声。<br> 「よく考えてみれば、みくるちゃんがキョンが死ぬなんて事知ってるわけないわよね。<br>  未来人じゃあるまいし。」<br>  実は未来人なんだけどな。<br>  ハルヒは言葉を区切ったあと、朝比奈さんに体を向けると、深く頭を下げた。<br> 「ごめん。」<br>  少し間を置いて、ハルヒはもう一度、<br> 「ごめん。ごめんなさい。」<br>  ハルヒは顔を上げると、<br> 「時間とってごめんね。<br>  謝っておきたかったの。それじゃあ……。」<br>  そう言って、その場を立ち去った。<br>  ハルヒを見送っていた朝比奈さんは、ハルヒが見えなくなると、芝の上ににすとん、と腰を落とした。<br>  そして、遠くを見つめるような目で、<br> 「どうしてこうなっちゃったんだろうな……。」<br>  朝比奈さんの髪がそよそよと揺れる。俺が死ぬ前に突然元気が無くなったときに見せ た顔に似ている。<br> 「どうして知ってしまったのかな……。」<br>  朝比奈さんは膝を立てると、その膝の中に顔を埋めて、<br> 「……どうして未来人なんかに生まれてきちゃったんだろう。」<br>  風に揺られて芝がさらさらと揺れる。<br> 「未来人なんかに生まれてこなければ、<br>  この時代に生まれてくれば、<br>  普通の女の子として生まれてくれば………。」<br>  蹲った朝比奈さんは、小さく嗚咽を上げ始めた。<br> 「こんなに辛い思いをすることもなかったのに……。」<br>  静かな中庭に溶けていくように、朝比奈さんの泣き声が響く。<br>  俺は朝比奈さんのもとに行き、その肩を叩いてあげようとした。<br>  が、俺の手はもう……。俺はもう、朝比奈さんを慰める事も出来ないのだ。<br> 「元気を出して。」<br>  突然発せられた声。俺の声じゃない。朝比奈さんの声に似ている。が、朝比奈さんの声とは少し雰囲気が違う。<br>  声がした方を振り返ってみると、そこには、いつか見た女性が立っていた。<br>  大人の朝比奈さんだ。<br>  顔を上げた朝比奈さんは、その姿を見ると、これ以上開かないんじゃないかと思わせるぐらいまでに目を見開き、驚きの感情を表した。<br> 「どうして私がここにいるか、って言いたいんでしょ?」<br>  大人の朝比奈さんは、座っている朝比奈さんの横に腰を降ろした。<br> 「旭日さん、どうしてここに?」<br>  と、朝比奈さん(小)。旭日さん?<br>  誰だ?<br>  この人は朝比奈さんだろう。<br>  ここで、俺はふと思い当たる。この時代の朝比奈さんに指示を出しているのは、未来の朝比奈さんだ。ということは、"旭日"っていうのは、上司としての仮の名ではないのだろうか。たぶんそうだろう。<br> 「ちょっとね。」<br>  旭日さん(朝比奈さん)は、優しく微笑む。<br> 「未来人なんかに生まれて来なければよかった、ね。」<br>  大人の朝比奈さんがそう言うと、朝比奈さんは、教師の悪口を言っているところを、ちょうどその教師に見つかった中学生のような顔をする。<br> 「安心して、咎めたりなんかはしないわ。」<br>  大人の朝比奈さんは、両手を後ろの地面につき、少し体を反らせてから、<br> 「私もあなたぐらいの時はそんなことを思ったりしたわ。」<br>  それは本人だから当たり前だが。<br> 「それで、今でも時々思ったりすることあるの。本当よ?」<br>  子供の朝比奈さんに向かって、大人の朝比奈さんは微笑み、首をちょっとだけ横に傾けながら言った。<br>  朝比奈さん(小)は黙って聞いている。<br> 「それでも、この仕事をやめるわけにはいかないの。私がやめたら、未来を守る人がいなくなっちゃうから。」<br>  朝比奈さん(大)は目を伏せる。<br> 「キョンくんが死んで悲しいのはわかる。<br>  自分の無力さを嘆きたいのはわかるよ。<br>  でも、前を見よう?<br>  あなたには、守るべき未来がある。<br>  その未来は、あなたの未来でもあるの。」<br>  朝比奈さん(大)は言葉を区切って、<br> 「私たちは過去を知っている。<br>  でも、未来は知らないでしょう?<br>  過去はもう、規定事項だけど、未来はこれから作っていくものなのよ。」<br>  朝比奈さん(大)は目を開け、朝比奈さん(小)の両手を握る。<br> 「私たちの手で。」<br>  その言葉を聞いた朝比奈さん(小)の顔は、神様を見たときのような顔になった。<br>  朝比奈さん(大)は、ふっ、と小さく息を吐いて微笑み、立ち上がると、<br> 「それじゃあ、私はもう帰るね。」<br>  と言い、校舎の方にすたすたと歩いていったが、何かに気付いたように振り替えると、<br> 「言い忘れてた。<br>  私の名前、本当は"旭日"じゃなくて、"朝比奈みくる"なの。」<br>  と、悪戯っぽく微笑んだ。<br>  朝比奈さん(小)は、唖然とした表情で、大きく口を開く。そんな顔を見て、朝比奈さん(大)は、ぷっ、と吹き出すと、<br> 「じゃあね。」<br>  と小さく手を振って校舎に消えた。<br>  朝比奈さんはそのまましばらく、開いた口が塞がらない状態だったが、ようやく落ち着くと、口をぱくんと閉じた。<br>  そして、立ち上がり、自分の手を見つめながら、<br> 「未来は、自分の手で……かぁ。」<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  しばらく朝比奈さんを見ていたため、ハルヒが何処に行ったか見失ってしまった。食堂にもいってみたが、ハルヒの姿は無かった。何処に行ったっていうんだ?<br>  ハルヒが行きそうなところ、ハルヒが行きそうなところ、ハルヒがいきそうなところ…… 。<br>  あ。俺の脳内に一休さんがとんちを閃いた時のような音が流れる。<br>  SOS団の部室、文芸部室。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> まもなく文芸部室前に到着。いつも通りドアをノックし……。<br>  ああ、触れないんだったな。<br>  俺は、ドアノブに触らずに、頭をドアの中に押し込んだ。すると、ぬるりと体が抜ける。気持ちがいいもんではないな。<br>  さて、と俺は部室を見渡してみる。部屋にいる奴。窓辺で本を読んでいる長門だけだ。食堂にいない、部室にいないとは、一体ハルヒは何処にいるんだろうか。<br>  ハルヒがいなかったので、ここにいるのも無駄だと思い、部屋から出ようとした時。<br>  なにやらぼそぼそという音が聞こえることに気がついた。何の音だ?<br>  と周りを 見渡し てみる。何処から聞こえる?<br>  ……窓の方。よく耳を澄ましてみると、長門の方から聞こえてくる。俺は長門の元に寄り、口に耳を近づけてみた。どうせ見えていないのだから、いくら近寄ろうがかまわないだろう。<br> 「S-11289ポートでバグ検出<br>  削除<br>  A-13290ポートでバグ検出<br>  削除<br>  K-91213ポートでバク検出<br>  削除<br>  K-28594ポートでバグ検出<br>  削除」<br>  なにやら全く意味のわからん事を言っている。よく見ると、本を読んでいたかと思っていたが、その目は本の真ん中にじっと落ちていて動いていないし、手はページをめくってもいない。<br>  バグ?<br>  長門の頭の中にバグが発生してるってことか?<br>  何故バグが?<br>  と俺が考えていると、<br>  がちゃり。<br>  突然ドアの方から音が発せられた。長門は気に留めず、バグの処理を続けている。<br>  開かれたドアから出てきたのは……。なんと、喜緑さんだ。<br>  喜緑さんはすたすたと、長門の前に歩み寄ってきた。<br> 「こんにちは。元気ですか?<br>  …じゃないみたいですね。」<br>  長門は喜緑さんの質問に答えず、ただぼそぼそと呟いている。<br> 「そのバグが何だかわかります?」<br>  喜緑さんは長門の前にしゃがみ、その顔を覗き込みながら言った。<br>  やはり長門は反応しない。<br> 「そのバグね、"悲しい"って感情なんですよ。」<br>  長門は本に目を落としたままぼそぼそ声を続ける。<br> 「"悲しい"ってバグを、消すための方法、知ってる?」<br>  喜緑さんは、首を傾けて長門に聞く。長門は喜緑さんと視線を合わせようともしない。<br>  喜緑さんは、小さく息を吐いて、<br> 「…泣けばいいのよ。」<br>  喜緑さんのその言葉に、長門は、ぴたりと、ぶつぶつと続けていた呟きをとめる。そして、ゆっくりと顔を上げると、<br> 「……理解不能。」<br>  と一言。喜緑さんが眉と眉の間に小さく皺を刻んだのを、伝えたい事が伝わっていないのかと思ったのか、<br> 「理解不能。有機生命体が涙を流す行動が、バグ処理においてどのような効果を―― 」<br> 「もういいの。」<br>  長門が喋っている途中、遮るように喜緑さんは言った。そして、その片手で長門の頬に軽く触れて、<br> 「もう、我慢しなくていいのよ。」<br>  時間が止まったかのような、静かな空気が流れる。<br>  そして。<br>  長門の頬を一筋の涙が伝った。長門は驚いたように、自分の頬を指の平で触る。<br> 「涙――。」<br>  喜緑さんは、優しい微笑みで、長門の体を抱いた。<br>  すると、ひとつ、もうひとつと長門の瞳から涙が零れ落ちていった。<br> 「……オールデリート。」<br>  長門はぽつりと言うと、喜緑さんの体を抱き返した。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  文芸部室を後にして、俺は再びハルヒを探すことにした。<br>  長門の泣き顔は初めて見たな。おそらく、長門も泣いたのが初めてだろう。<br>  それにしても、ハルヒは昼飯も食わずにどこをうろついているんだか。まさか、グラウンド、にはいないよな。まぁ、一応、念のため、俺はグラウンドに出てみる。<br>  周りを見渡してみたが、やはりハルヒの姿は無い。まぁ当たり前だろう。俺はハルヒがいないことを確認すると、再び校舎に戻るために振り返った。<br>  すると、下駄箱の前で誰かが立っている。<br>  すらりと高い背、整った髪型、同じく整った顔。間違いない、古泉だ。<br>  近づいてみると、古泉はいつも通りにやけていた。<br>  しかし、いつも通りのにやけ顔ではない。笑顔の中にどこか悲しさというか、寂しさというか、絶望感というか、そういうものを感じるのだ。毎日古泉のにやけ顔を見せつけられ続けてきた俺が言うのだから間違いない。<br>  古泉は、靴に履き替えて下駄箱から出ると、花壇のレンガの部分に腰掛け、深くため息をついた。<br>  何をしているんだろうか、こいつは。黄昏時にはまだ早いぞ。<br> 「ありゃ?<br>  古泉くんじゃないかっ。」<br>  スピーカーを最大にしたような大きくて元気のある声が背後から響いた。俺と古泉が同時に振り返ると、そこにいたのは、鶴屋さんだった。<br> 「鶴屋さんではないですか。」<br>  古泉は鶴屋さんに微笑みかける。鶴屋さんは、古泉スマイルの100倍ぐらい元気のある鶴屋スマイルで、小泉の背中をばんばんと叩きながら、<br> 「どうしたぃ、古泉くんっ。元気がないじゃないかっ。」<br>  鶴屋さんの手が古泉の背中に当たるのに合わせて、古泉の体も揺れる。<br> 「ちょっと、鶴屋さん、痛いですよ。」<br> 「ありゃ、ごめんっ。」<br>  鶴屋さんはようやく古泉の背中を叩く手を止めた。鶴屋さんはいつでも元気だな。俺が 死んだ事気にしていないのか?<br>  鶴屋さんがしょんぼりしてる姿は似合わないが、全く気にされていないのもそれはそれで寂しい気がする。<br> 「そんで、何で昨日は来なかったのさっ?」<br>  来なかった、というのは何の話だろうか。<br>  古泉は鶴屋さんがそう言うと、古泉スマイルを70%減させて、<br> 「彼の葬式だというのに行けるわけがないじゃないですか。」<br>  彼、とは俺のことだろう。<br> 「ふーん。でも古泉くんが来なかったから昨日は大変だったにょろよ?<br>  一人欠けるだけでも戦力はかなり落ちるにょろ。」<br>  戦力?<br>  何の話だ?<br>  RPG?<br>  昨日、魔王退治にでも行こうという話でもしていたのか?次の瞬間、鶴屋さんの口からは到底出るとは思えなかった言葉が出た。<br> 「昨日の閉鎖空間はこれまでに無い規模で大変だったにょろ。」<br>  ……閉鎖空間?<br>  閉鎖空間とは、ハルヒが発生させるトンデモ空間の事だが、これは一部の知る奴しか知らない言葉だ。何故、鶴屋さんが。<br>  俺が驚いていると、鶴屋さんは更に驚く言葉を。<br> 「古泉くんがいなかった分の神人は、あたしがなんとか倒したにょろ。<br>  めがっさ疲れたけどねっ。」<br>  …………。<br>  何と言った、今。パードゥンミー?<br>  誰が何をどうしたって?<br>  俺の耳が異 常をきたしていなければ、今、確かに、鶴屋さんが、神人を、……倒した、と聞こえたのだが。<br>  まさか。まさかとはおもうが。もしかして、鶴屋さんは、隠していただけで、もしかして古泉の"機関"の一員だったのか?しかも古泉のようなトンデモ超能力を持った。<br>  話の流れからしてそうとしか考えられない。何てこった、死んでから知った衝撃の真実だぜ。<br> 「鶴屋さん。」<br>  見ると、古泉の顔のスマイル率はもう0%になっていた。<br>  古泉は、自分の掌を見つめながら、<br> 「僕は、もうこんな力要りません。」それを聞いて、鶴屋さんは眉間を寄せて、吊り上げた。<br> 「ほう、そりゃあ一体どうしてだい?」<br>  古泉は開いていた右手を、握り拳に固めて、<br> 「こんな力があっても、僕は彼一人すら救うことができなかった。<br>  無駄なんです。人一人救えないこんな力は。」<br>  古泉は拳をぎりぎりと握る。<br>  鶴屋さんは、目を上に向けながら、軽く首を2,3回縦に振り、古泉の近くに寄ると、古泉の顔にぐいっと自分の顔を近づけた。<br> 「な…なんですか。」<br>  古泉が戸惑ったような顔をしていると、鶴屋さんは、古泉の口の端にひとさし指の先をやり、古泉の口の端を上にぐいっと吊り上げた。<br> 「古泉くんは笑顔がいいにょろ。スマイルスマイルっ!」<br>  鶴屋さんが口の端からひとさし指を離すと、古泉の口の端は下に落ち、古泉はまた元の真顔に戻った。<br> 「ありゃりゃ。」<br>  鶴屋さんは顔を離し、頭をぼりぼりとかく。<br> 「笑顔が似合うってのに、何でそんな顔するかなっ?」<br>  古泉は鶴屋さんをキッと睨むと、<br> 「ふざけないでください。」<br>  すると、鶴屋さんはスマイルをとき、今まで一度も見せたことがない真面目な顔になった。<br> 「ふざけてるのはどっち?」<br>  いつもの明るい声とは違う、少しトーンの低い声。<br> 「人一人救えない?<br>  無駄な力?何言ってんの?」<br>  鶴屋さんは古泉を睨み返す。その威圧に負けて古泉は少したじろいだ。<br> 「確かにキョンくんは、キミの力じゃ助けられなかった。でも、それは、それができない力だったからでしょ?<br>  この力は万能じゃない。でも、この力によって確かに救える命はあるんだよ。」<br>  喋り方まで変わっている。鶴屋さんの鋭い威圧がこちらまで伝わってくる。鶴屋さんは、再び古泉の顔に自分の顔を近づけると、<br> 「キョンくんを失って悲しいでしょ?<br>  あたしも悲しいさ。<br>  でもね、それで自分のやるべきことを放って逃げちゃうと、<br>  それによってまた他の命が失われる。<br>  古泉くんは、他の人にも自分のような気持ちを味あわせたいの?」<br>  鶴屋さんは古泉の瞳をじっと見つめる。<br>  古泉は、鶴屋さん目から視線を外すと、弱々しく、<br> 「でも、それでも僕は――」<br>  古泉がそこまで言った時。空気を裂くような鋭い音が辺りに轟いた。<br>  古泉は驚いて目を見開いている。その頬には赤い跡。鶴屋さんが、古泉に平手打ちをかましたのだ。<br> 「逃げるな古泉!!」<br>  鶴屋さんは、100Wアンプぐらいのでかい声で叫んだ。そして、顔を離して、ふぅー、と息を吐くと、またいつものような笑顔に戻って、<br> 「キョンくん、見てるっ?情け無いと思わないかいっ?」<br>  と言いながら、俺に顔をずいっと近づけてきた。俺の顔に鶴屋さんの顔が近づいたのは単なる偶然で、鶴屋さんには俺が見えていないはずなのだが、何故か、見られているような感覚だ。やはり、この人は鋭いのかもしれない。<br>  鶴屋さんは振り返って古泉を見ると、<br> 「それで!<br>  逃げるのかい?<br>  逃げないのかい?<br>  どっち?」<br>  古泉は、目を瞑り、しばらく考えるような仕草を見せる。<br>  そして、決心したように、目を開けて、立ち上がった。<br> 「逃げない。僕は、逃げません。」<br>  鶴屋さんはそれを見てにんまりと微笑むと、<br> 「よしよし。ついでに、いつものスマイルでいこうじゃないか、古泉くん。」<br>  古泉は、一瞬きょとんとした顔をして、すぐに顔をいつもの古泉スマイルにした。<br> 「やっぱりあんたは笑顔が似合うさっ。」<br>  鶴屋さんは古泉の頭を掴むと、わしわしと掻いた。<br> 「それで、今も閉鎖空間が拡大してるにょろ。<br>  人手不足らしいから、すぐに行くにょろよ、古泉くん。」<br>  古泉は深く頷く。<br> 「それじゃあ、行くにょろよ!」<br>  そう言うと、鶴屋さんは超スピードで門まで駆けて行った。遅れて、古泉も門まで到着すると、校門に見覚えのある黒い車が止まり、鶴屋さんと古泉を乗せて走り去った。がんばれ、古泉、鶴屋さん。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> 朝比奈さん、長門、古泉と、周りの面々は徐々に俺が死んだ事を受け止め、立ち直っきているようだが、ハルヒはまだ立ち直っていないだろう。というか、どこにいるんだハルヒ。<br>  突然、校舎からチャイムの音が響いた。昼休み終了のチャイムだ。昼休みが終わった、ということは、ハルヒは教室に帰ってくるだろう。そう思い、俺は教室に戻った。<br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  授業が始まろうとしている。俺は自分の机に座り、じっとしていた。ちらり、と後ろの席を見る。ハルヒはまだ来ていない。何をしている、早く来いハルヒ。<br> 「じゃあ授業始めるぞー」<br>  眼鏡をかけた数学教師が教室に入ってくると同時に、チャイムが鳴る。とうとうハルヒは戻って来なかった。<br> 「あれ?<br>  涼宮は欠席か?<br>  欠席連絡は入っていないが。」<br>  教師はハルヒの席を見ながら言う。すると、生徒の一人が、<br> 「涼宮さんはまだ戻ってきていません。」<br> 「えっ。そうなのか?<br>  何処にいったんだ。…………ったく。<br>  まぁいい、涼宮は後で呼び出すから、授業を先に進めるぞ。」<br>  呼び出し喰らうの決定だなハルヒ。頑張れよ。教師が背を向けて、黒板に数学の公式を書き出すと、なにやらこそこそ話をする声が聞こえてきた。どうやら、後ろの方の席の女子二人組らしい。俺は顔を近づけて聞き耳を立ててみる。<br> 「涼宮、どうしたんだろうね。」<br> 「やっぱり、キョンが死んだから…。」<br> 「何処に行ったんだろう。」<br>  そこにもう一人女子が参加する。<br> 「あ。私、昼休みの終わり頃に、涼宮が屋上の方に向かっているの見たよ。」<br> 「え?<br>  そうなんだ。何してんだろう。」<br> 「でも屋上って施錠されてるでしょ?」<br> 「それがね、何かいつの間にか鍵が壊されてたんだって。」<br>  すみません、俺です。<br> 「じゃあ、涼宮は屋上に行ったってこと?」<br> 「何のために?」<br>  ひとりの女子が、怪談話を喋るような口調で、<br> 「キョンのあとを追って自殺…だったりして。」<br> 「えー。えんぎでもないこと言わないでよー。」<br> 「冗談よ、冗談。」<br>  ――自殺?<br>  自殺だって?<br>  ハルヒがそんな事をするわけがないだろう。<br>  あのハルヒが。そんな事を。頭の中ではそうは思いつつも、俺の体は勝手に屋上まで向かっていた。<br>  あとはこの階段を上るだけ――いや、上るなんて時間が無駄だ!<br>  俺は足に力を込めると出来る限りの力で跳躍した。俺の体は幾つもの天井をすり抜け、 一気に屋上にたどり着いた。<br>  俺は辺りを見渡す。そして、ハルヒの姿を見つけて、俺は驚愕した。<br>  ――そんな馬鹿な。<br>  ハルヒは、落下防止用の柵の向こう側に立っていた。<br>  ――投身自殺――<br>  俺は、出来る限りの速さでハルヒの元に駆け寄った。<br>  ハルヒが何か呟いている。<br> 「キョン、私、今、そっちに………。」<br>  こっちに、何だ。こっちに来るとでも言うのか。駄目だ、ハルヒ。そんなことは許されない。<br>  俺は何とかハルヒの元に辿りついた。辿りついたが、どうすればいい。俺はハルヒに触る事が出来ない。声もハルヒには届かない。<br>  ハルヒは、体を、空中に向かって傾けた。何もできない?<br>  冗談じゃない!<br>  ハルヒ、お前はこっちに来てはいけないんだ!!<br>  俺はハルヒの手首を掴もうと手を伸ばした。<br>  俺の手はハルヒに触れることはできないが。<br>  だが。<br>  ここでハルヒを掴まなければ、ハルヒを止めなければ。<br>  俺がハルヒを止めなければ――! ぱしっ。<br>  空中に傾き始めていたハルヒの体は止まった。<br>  ゆっくりと手首に視線を当ててみる。<br>  俺の手は、ハルヒに触れることができなかったはずの俺の手は。<br>  しっかりとハルヒの手首を掴んでいた。<br> 「…………!」<br>  ハルヒは振り返ると、目を見開いた。死んだはずの者を見るように。<br> 「…………キョン?」<br>  今、ハルヒは何と言った?<br>  呼んだのか?<br>  俺の名前を。<br> 「キョン!<br>  あんたキョンなの!?」<br>  ハルヒは俺の肩を掴む。触れることができないはずの肩を。<br> 「ハルヒ……。お前、俺が見えているのか?」<br> 「見えてるわよ!<br>  キョン、あんた生きてたの!?」<br>  なんということだろう。<br>  またハルヒと会うことが出来た。<br> 「キョン、あたし、あたしね。あんたが死んだと思って、それで、それで……。」<br>  ハルヒはぽろぽろと涙を零し始めた。いつものハルヒからは想像できない、弱い顔。それは、神様でも進化の可能性でも時間の歪みの原因でもなく、ただ一人の少女の顔。<br>  俺はハルヒの顔をじっと見つめる。<br>  ハルヒに言わなければならない事がある。<br> 「ハルヒ。よく聞け。」<br>  俺はハルヒの肩を掴む。<br> 「俺は、もう死んでいる。」<br>  俺が言うと、ハルヒの表情が凍った。そして、絶望の色に染まっていく。<br> 「……そんな……。……あんたはここにいるじゃない。生きて呼吸をしているじゃない… …。」<br> 「今の俺は霊だ。」<br>  俺が一言言うたびに、ハルヒの顔の絶望の色は濃くなっていく。しかし、話をやめるわけにはいかない。<br> 「なぁ、ハルヒ。<br>  自殺なんてお前らしくないぜ?」<br>  ハルヒは、眉間に皺を刻むと、顔を下に向けた。<br> 「死んでからわかったけどな、こっちの世界はつまらないぞ。俺が死んでから、面白い事なんて何にも無かった。<br>  そっちの世界の方が、ずっとずっと楽しい。だから、自殺なんてことは――」<br> 「あんた、聞いてたでしょ……?」<br>  俺の言葉を遮るようにハルヒが言う。<br> 「墓場であんたに言ったこと、覚えているでしょ……?」<br>  その声は震えている。<br> 「あたしはあんたの事が好きなの…。あんたと一緒にいたいのよ……!」<br>  ハルヒは俯いていた顔を上げて、<br> 「だからあたしは――」<br> 「ふざけるな。」<br>  今度は俺がハルヒの言葉を遮ってやった。<br> 「俺は、お前がこっちに来ても何も嬉しくない。確かにお前と一緒にいると楽しいが、お前が死ぬまでして、一緒にいたいなんて思わないさ。」<br>  ハルヒは眉間に皺を刻んで、俺のシャツの胸の部分を掴んで俺の体にもたれかかり、<br> 「……一緒にいたいのよ……。お願い……。お願いだから……。」<br>  震えた、小さな叫び声。<br>  ハルヒの想いが空気を通して伝わってくる。<br>  だが、受け入れるわけにはいかない。<br> 「ハルヒ、人はいずれ死ぬんだ。死ぬ事は簡単に出来るが、死んでしまえばもうそっちに帰ることはできない。」<br>  ハルヒは俺のシャツを強く握り締め、<br> 「それでも……あんたがいてくれれば……。」<br> 「わからない奴だな。<br>  お前はそれでもいいかも知れない。でもな、お前が死んだら悲しむ奴がいるんだ。泣く奴がいるんだ。」<br>  俺はハルヒの目を見据えて言う。<br> 「お前の親も、鶴屋さんも、谷口も、国木田も、クラスの連中も、朝比奈さんも、古泉も、長門も。……そして俺も。」<br>  ハルヒは黙って聞いている。<br> 「俺は、自分の葬式を見ていてたまらなく辛かった。俺の知る人が泣く姿を見てな。いいか、ハルヒ。もう一度言う。こっちに来ても何も面白いことなんか何も無い。」ハルヒの顔が歪んでいく。そして、ハルヒは俺の胸に顔を埋めると、声を上げて泣き始めた。<br>  ――本当に、弱い。<br>  俺はハルヒの顎の下に手をやり、ハルヒの顔を上げた。<br> 「なぁ、ハルヒ。」<br>  顔をぐしゃぐしゃにしたハルヒは、口の中の空気を飲み込んで、<br> 「……………。……何?」<br>  俺はハルヒの頭の後ろに腕をまわして、<br> 「やっぱり、お前は笑顔の方がいい。」<br>  ハルヒの顔を引き付け、ハルヒの唇に自分の唇を重ねた。時が止まった気がする。<br>  同時に、止まっていた時が動き出した気もする。<br>  あの日から、ずっと止まっていた時間が動き出したような。<br>  俺は唇を離す。<br>  ハルヒはまだ状況を飲み込めていないような顔をしていた。<br> 「ハルヒ。」<br>  俺はハルヒの頭の上に手を置く。<br> 「もう一度、笑ってくれ。そして、もうその笑顔を無くさないでくれ。」<br>  俺は小さく息を吐き、<br> 「それが、最後の俺の望みだ。」<br>  ハルヒはしばらく俺の目を眺めていた。<br>  そして、ゆっくりと、口の端を上に持っていく。<br>  久しく見た、ハルヒの笑顔。<br> 「これでどう?」<br> 「ああ、バッチリだ。やっぱりお前は、泣き顔より笑顔の方がいい。」<br>  俺はハルヒの頭をわしわしと掻いてやった。<br>  と、その時。<br>  俺の手がハルヒの頭をすり抜けた。<br> 「……な?」<br>  見ると、俺の手首の先が砂になって崩れ落ちている。<br>  ついに来たか。<br> 「……キョン!?<br>  どうしたの!?あんたの手、これどうなってんの?」<br>  ハルヒは焦った表情を見せる。俺はふっ、と息を吐いて、ハルヒに微笑みかけた。<br> 「迎えが来たらしい。どうやら、もうお別れのようだな。」ハルヒは、再び顔に絶望の色を滲ませ、<br> 「………そんな!そんな、やっと会えたのに……。」<br>  ハルヒは俺の体に腕をまわし、抱きついてきた。<br> 「駄目、駄目よ!<br>  まだ逝かないで!<br>  お願い……。」<br>  ………。<br> 「……ハルヒ、別れの時はいずれ訪れるんだ。必ず、な。」<br>  その瞬間、何も感じないはずの俺の頬に、熱い感覚が走った。<br>  俺は残ってる方の手で頬に触れてみる。するとそこには、流す事ができなかったはずの、涙があった。<br>  最後ぐらいは、涙を流す事を許してくれるらしい。ありがとうな、神様。<br> 「ハルヒ。」<br>  俺は、ハルヒを抱きしめ返してやる。<br> 「これは永遠の別れじゃない。俺は天国にいるから。お前はこっちに残って、精一杯人生を楽しんできてくれ。<br>  それで、お前の人生が終わったら、天国にいる俺に沢山土産話を持ってきれくれよ。俺は待ってるからさ。」<br>  足の先から体がどんどん消えていくのがわかる。<br>  だが、もうかまいやしなかった。<br> 「キョン……。」<br>  ハルヒは、体を離し、俺の目を見て、<br> 「最後に、私からもお願いしていい?」<br> 「いいさ。団長様の命令は、絶対なんだろ。」<br> 「………。キョン、最後に、最後にもう一度だけ。」<br>  ハルヒは息を飲み込み、<br> <br> <br> <br> <br> 「キスして。」<br> <br> <br> <br> <br>  時は流れる<br>  その流れには抗えない<br> <br>  流れるが故に<br>  その中にあるものはいずれ朽ちていく<br> <br>  俺もその流れの中にあった<br> <br> <br>  ハルヒ<br>  俺はもう逝くよ<br>  先走る俺を許してくれ<br> <br>  お前はゆっくりその世界を楽しんでから来い<br>  俺はずっと天国で待っているよ<br> <br>  最後の接吻を終えた俺の身体は<br>  ゆっくりと大気の中に溶けていった<br> <br> <br>  ハルヒ<br> <br>  ハルヒ<br> <br> <br> <br>  ありがとう<br> <br> <br> <br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  ・<br> <br>  あたしは、キョンが消えていった空をじっと眺めていた。<br> <br>  もっと強くならないといけない。<br>  どんな世界の闇にも負けないように。<br> <br>  いつまでもキョンの背中を追いかけてるわけにはいかないから。<br> <br>  強く、強く。<br> <br>  私は、涙を拭って、笑うことにした。<br>  それがキョンの願いだから。<br> <br>  SOS団は予定通り野球やるし、温泉も行くわ。<br>  それで、もっともっと楽しい事をして、<br>  キョンに沢山土産話を持っていってやるの。<br> <br> <br>  ねぇ、キョン。<br> <br> <br>  また会えるよね。<br> <br> <br> <br> <br> <center>――― fin ―――</center> </div> <!-- ad -->

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