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「水晶の夜①」(2020/03/07 (土) 01:25:57) の最新版変更点
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<p> </p>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここは、男にとって最も居心地の悪い場所の一つだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">と言われたら、あなたはどこを想像するだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女子校の入学説明会？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">間違って乗ってしまった女性専用車両？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一人で入ってしまった、どう見てもカップル御用達の喫茶店？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そのどれでもない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店内には男の客など俺以外に誰もいない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そりゃそうだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">誰が好きこのんでこんな恐ろしい所に入りたがるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
店内の落ち着いた照明、計算しつくされたかのように巧みに配置された商品、そして何よりもキャッシャーの前に貼られた数々のクレジットカードのロゴマーク。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
これらの全てが俺に、「場違いだ」「おまえなんかの来るところじゃない」「さっさとここから出ていけ」と全力で訴えている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そう。ここはブティック。ブティックだぞ、ブティック。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">量販店でもない、デパートの婦人服売り場でもない。ブティックだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の人生の最強の敵の一つ、ブティックだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はブティックが恐ろしい。朝倉の次ぐらいに恐ろしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">脇腹にめり込む大型アーミーナイフの次ぐらいに恐ろしい！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん。自分でも何を言っているのかわからない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とにかく、こんな所にいてもちっとも楽しくない！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっき「落ち着いた照明」と言ったが、はっきり言って俺には「暗い」としか思えん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">わざと店内を暗くして女どもが鏡を見た時に勘違いさせようとしているのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
計算しつくされたかのように商品が配置されているとは言ったが、きっと世間ではそんな風に言うだろうと思っただけで、俺には品ぞろえが少ないだけのようにしか見えない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それに何よりもあのキャッシャーのロゴが俺の恐怖を駆り立てる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は金を払わんぞ。払わんぞ。払わんぞ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「バッカじゃないの？
ここはあんたの小遣いで買えるものなんか何一つ置いてないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どうやら声に出ていたらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さりげなくひどいことを言われたような気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし金を使わなくてもいいのは助かるな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あんたがビンボーなのはよく知ってるから、そんなみっともないこと言わないでちょうだい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">誰のせいで俺が貧乏になったと思ってる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もっともそれでなくてもうちはもともと裕福なわけではないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「後でいつもの喫茶店に寄るから、お金だったらそこで出してね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が金を使うのは規定事項なのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺の人生最大の敵のもう一つ、涼宮ハルヒはにっこりとわらいながら試着室に消えて行った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつはこんな所に来てもまるでビビッた様子を見せないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こういう所にしょっちゅう出入りするほど家が裕福なのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なら家まで俺はハルヒに負けているということになる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、こいつに何かで勝てるとは思わないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もっともこいつが初めての場所に来て気後れするとは思えないけど。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしなぜ俺はこんな所にいるのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはまあ、罰ゲームの続きだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が朝比奈さんの仕事を手伝いに一緒に出かけたことがハルヒにばれた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
待ち合わせて一緒に出かけただけだが、はたから見ればデートのように見えたかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">断じてそんな浮いた話ではなかったわけだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">罰ゲームの内容？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">思い出したくないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしハルヒもこういう所で女の子らしい洋服を買いたがるのかね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
女の子らしい洋服といえば朝比奈さんか…。ってあのときの朝比奈さんは、女の子っぽいというよりカエルっぽかったな…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ああっ、思い出してしまった！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうねえ、まずあんたは、『団のマスコット並びに学校のアイドルを占有した罪』、それから、みくるちゃんは、『団長専用雑用係を勝手に雑用に使った罪』ね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「おい、いつ俺がおまえ専用の雑用係になったんだ？ 俺はＳＯＳ団の雑用係だろうが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なら、『団の備品を団長の許可なく勝手に占有した罪』。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえの許可さえあれば誰でも俺を占有できるのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の人権はどうなる！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「……許可が出るとは思えません…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「みくるちゃん、何か言った？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いえ、何も言ってません！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふうん、反省が足りないようね…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いえっ、反省しました！ ごめんなさい！ もうしません！ 許してください！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「なに青くなってるのよ。なんだかアマガエルみたい。そうだ。ぬいぐるみの刑ってあったわね、昔のマンガに！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">聖マッスルかよ！ って昔すぎるぞ。おまえは本当に俺の同級生か？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おい、あんまり朝比奈さんをいじめるな！ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだったら俺が朝比奈さんの分もまとめて罰ゲームをやってやるから…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">朝比奈さんを不気味な笑みでみつめていたハルヒが、いきなりキッとにらんできた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今回に限っては、あなたは朝比奈さんをかばうべきではありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今回は明らかに朝比奈さんに非があります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">他人のモノを勝手に使えば咎めを受けるのは当然でしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うるさいぞ古泉。おれはハルヒの所有物なのか？ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、モノみたいに扱われていることは否定はせんが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうよ。あんたのモノは全てあたしのモノ。だからあんたの時間も全てあたしのモノ。あんたの全てがあたしのモノ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ひどい言われようだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だからみくるちゃん、一週間部室ではずっとカエルさんになってなさい。それからあんたは…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
その後朝比奈さんはカエルの着ぐるみを着せられ、カエルの手ではお茶をつぐこともできないので、ただ黙って座っていたらしい…。「らしい」というのは、俺の位置からでは長門の足しか見えなかったからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「やっほー、みくるいるかいー！数学のノートを…、ってなんだいその格好は…、ぷぷっ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
いきなり入ってきた鶴屋さんが、いきなり笑いだした。部室棟の外にまで響きそうな声で笑った。大爆笑した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふええっ、鶴屋さん、たすけて下さい…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さんざん笑った後気がすんだのか、こう言っているのが聞こえてきた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、なんでそんな格好してるんだい？ あらたな趣味に目覚めたにょろ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「罰ゲームですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ここからは見えないが、古泉がキザッたらしく前髪をかき上げている姿が浮かんだ。うう、気持ち悪い。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何の罰ゲームにょろっ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「朝比奈さんが涼宮さんに隠れて、彼とデートしていたのがバレたんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから、デートじゃねえって！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「たすけて下さいよう。涼宮さんがものすごいやきもち焼きなのは知ってましたけど…。まあ、去年の五月に比べればずいぶん良くなってはいます。余裕が出てきたっていうか…。全部キョン君のおかげです。だから、ちょっとぐらいのことでは動揺しないで、もっとどっしり構えていてほしいんですけど…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ハルにゃんやさしいねえ。その程度のことで許してくれるんだあっ！ だからあたしは今回のみくるには同情しないよっ。で、肝心のキョン君はどこに行ったんだい？ まさか、部室から追放されたにょろ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「涼宮さんが彼を追放するわけがないでしょう？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「鶴屋さん、助けて下さい…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
朝比奈さんを助けなかった鶴屋さんが俺を助けるわけはないが、思わずこう言ってしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">手の平が痛い。膝が痛い。腰が痛い。背中が痛い。首が疲れる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なぜ俺は団長机のすぐ後ろで四つんばいになっている？ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なぜ俺の背中には女の子一人分の重さがのしかかっている？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何なんだ、『一週間連続一日一時間団長専用椅子の刑』ってのは！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「イスがしゃべるなっ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ゴンっといういい音を立てて俺の頭が鳴った。くっそー屈辱だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「キョン君～、みくるも言ってたけど、ハルにゃんはものすごいやきもち焼きにょろ？ ハルにゃんはキョン君にはめがっさ甘いから、今回はこれで済んだとしても、次はないって肝に銘じるにょろ。浮気亭主には死を！ってね。今度似たようなことをしてハルにゃんに見捨てられても知らないよっ。わかったかな～、少年！ 返事はっ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はい…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それだけ言うと、鶴屋さんは風のように去っていった。数学のノートはいいのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしなんだ、やきもち焼きってのは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「知らないわよ。何よみんなしてあたしをそんな風に言って…。あたしは全然悪くないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ああそうか。ハルヒは朝比奈さんと二人で出掛けてみたかったんだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
こいつはクラスの女子とはたいしてうち解けていないが、ＳＯＳ団女子とはなんらかの絆を感じているらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">中学時代完全に孤立していたという、こいつにとってはいいことなのだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もし万一俺と朝比奈さんが付き合ったら、（そんなことは絶対にあり得ないが）俺に朝比奈さんを取られてしまうとでも思ったんじゃないだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">杞憂だが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もしそうだとしたら、朝比奈さんにまで罰ゲームを課すのは逆効果だぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">頭が冷えたころを見計らって言い聞かしてやらないといかんな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあいい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
今度古泉と相談して、ハルヒと朝比奈さんが『デート』できるようにセッティングしてやろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そうすれば、今回の罰ゲームもうやむやになるかもしれん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ちなみに、デートを『 』でかこったのは百合っぽいっていう意味ではないという表現だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さすがにこいつでも、女の子に恋する不思議までは求めないだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の脳内に感謝しろハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、こいつが男に恋するとも思えんが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あたしちょっと、トイレに行って来るからね。だけど古泉君、みくるちゃん、特に有希！ これは団長専用椅子なんだからあんたたちは絶対に座っちゃだめよ。わかった？！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
古泉に座るなと言ってくれたのは有り難いが、他の二人は言われなくても座らないと思うぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかりました、涼宮さん。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふええ…、わかりました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何よ有希、不服なの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">｢……不服。｣</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おいっ！ おまえも俺の上に座りたいのか？ おまえまで俺をモノ扱いする気か？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だめっ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どうしても？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どうしてもだめっ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「団長命令？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「団長命令っ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ならばリコールの手続きを…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「絶対にダメなの！ わかった？ 返事は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「…………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「へ・ん・じ・はっ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「…………………了解した。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「じゃあいいわね、あたしちょっと席を外すから。古泉くん、有希がキョンに変なことをしないように…、じゃなくてキョンが有希に変なことをしないように、しっかり見張ってて！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒが出ていくと、俺は首を上げて長門の顔を見た。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">本を膝の上に置いておれをじっと見ている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん、軽蔑のまなざしってやつだなこれは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ほとんど無表情だが俺にははっきりとわかる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これほど感情を表に出すことが出来るようになるとは、成長したな長門。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしなんでおまえに軽蔑されなきゃならんのだ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「変なことをしているのは、……あなた達。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何を言ってるんだ、おまえは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたは、口ではつらいと言っているが、この罰を受けることに少なからず喜びを感じている。………変態。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おいっ！ おまえに「変態」とか言われると、ものすごく傷つくぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなたはわたし達に隠れて朝比奈みくるとデートをした。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だからっ、デートじゃねえって。何回説明したらわかるんだ。おまえもハルヒも…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたが、今ここに居られるのは誰のおかげ？ わたしはあなたの命を助けたことがある。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そう言われると何も言えなくなっちゃうけどな。でもこの状況でそれを言うのは卑怯じゃないか、長門さん…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わたしが今、ここに居られるのもあなたのおかげ。別に恩を着せたいわけではない。ただ、あの時の約束を忘れたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あの時の約束と言われてもな。おまえに命を助けられたことは数限りなくあるからいつの時のことか思いだせん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わたしは涼宮ハルヒに負けないくらいのやきもち焼き。それをあなたは去年の十二月に思い知ったはず。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ってそれは、俺のせいじゃなくて、おまえの親玉がおまえに仕事をさせすぎたからだろうが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたが涼宮ハルヒに与えたものと同じものをほしいとは言わない。ただ、Ｓｌｅｅｐｉｎｇ ｂｅａｕｔｙ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「また図書館に。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">長門はそれだけ言うと本に視線を落とし、何を言っても返事をしてくれなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
結局俺の「ハルヒと朝比奈さんとのデート」案は古泉によって一瞬で却下され（なんでだ？）、あの屈辱の罰ゲームは一週間連続して行われることとなった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから、最終日ついあんなことを言ったとしても、許されるはずだろう？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なによ、間抜け面。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ん、ああハルヒか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『ああハルヒか』って、何を考えていたわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「屈辱の過去について回想していた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「バカなこと言ってないで、あんた何か言うことはないわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あの俺の、苦難の一週間を「バカなこと」ですませるのか、おまえは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、「バカなこと」でないとは言わないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室から出てきたハルヒは、フランス人形のような格好をしていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ん、まあ、いいんじゃないか…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「他には？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『ゴスロリ』ってのは、『ゴシック・ロリータ』の略だよな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんで『ゴシロリ』じゃなくて『ゴスロリ』なんだろうな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「知らないわよ。店員さんにでも聞いたら？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんか怖くて聞けないんだよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それだけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ああ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒは店員さんと何か内緒話をしていたようだったが、再び試着室に消えていった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">…本当にそれを買うつもりだったのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">回想にもどるぞ。最終日のことだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
一週間フルに罰ゲームを課せられたのは俺だけで、朝比奈さんは前日に許され、制服を着ていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、俺としては朝比奈さんが早めに許されたのはいいね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">朝比奈さんが楽しそうにしゃべっているのを聞いていると、元気になれそうな気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そのおしゃべりの相手がハルヒや長門だけならともかく（長門は話しかけられてもほとんど無言だが）、もう一人が古泉の野郎だというのは気に食わないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし団長専用椅子は団長以外と話すことは許されないのだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あと五分くらいで下校時間になる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もうすぐ「江戸川乱歩の世界」的な人間から普通の人間にもどれる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはうれしいけど、こいつにちょっとだけイヤミを言いたいな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なあ、ハルヒ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何よ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「一週間連続しておまえのイスになってわかったことがあるんだがな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なに。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんというか、一日目からだんだん変化していくものが観測できたんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから何よ。もったいぶらずにさっさと言いなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえ、ふとったな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">部室の喧噪が一瞬で停止した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんでだ、なんでみんなドン引きしてるんだ？ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
この姿勢からは見えないが、あわあわしている朝比奈さんと、目を見開いている長門と、笑顔を引きつらせている古泉のハンサム顔が幻視できた。最後のは余計だ。忌々しい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ていうかそれどころじゃない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">確かに、若い女性に男が言うべきセリフじゃなかったかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もし俺が万年係長で、新人ＯＬにそんなことを言ったらセクハラで人生を棒にふったかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし俺は、棒にふるほどの人生さえも持っていないただの高校生であり、同級生にこの程度の冗談を言っても許されるのではないか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
というより、これは「男」が「女」に言うからセクシャルハラスメントなわけだ。こいつが俺のことを「男」として意識しているなんてことはない。絶対にない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「みんな、気を回しすぎだ。俺とハルヒの仲なんだぞ。かえって意識されると調子がくるっちまう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その証拠に、こいつは今でもおれの背中に乗ってるじゃないか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから大丈夫だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">と思ったらハルヒがピョンと跳び上がって俺の上からどいた。何なんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
何となく立ち上がりづらい。俺は四つんばいのままで言った。何とかフォローしないとまずいよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「いや、そういう意味じゃなくて、多分おまえは着やせするタイプで、だいたい俺はほとんどおまえの制服姿しか見てないだろう？ だからどう見てもおまえが太っているようには俺にも見えないわけで。だから制服を着ていればそんなふうには誰にもわからないわけだ。まあ、俺にどう思われてもおまえは気にしないだろう？ だいたいおまえは自分の外見とか、女として見られるとかそういうことにもともと無頓着な方だろう、特に俺に対しては。だからさっきの発言は許してくれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだかグダグタな言い訳だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「いやあ、お二人はこの程度ではセクハラとは思えないような近しい仲だということですね。わかります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉が余計なことを言った。おまえはしゃべるな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「まあ冬なわけで、誰でもきぶくれするわけだ。だけどさっきも言ったように制服を着ているとやせてみえるわけだ。だからおまえは何も気にする必要はないんだ。だから俺がどう思おうが、おまえのことを太っていると思う奴は俺以外は誰もいないわけだ。だから気にするな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「キョン君、古泉君…、何のフォローにもなっていません。特にキョン君の言い訳は最低ですっ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
えーと、朝比奈さん？ あなたはつい昨日まで俺と一緒にこいつに虐待を受けていたんじゃ…。それでもハルヒの肩を持つんですか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………馬鹿。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おおっ、長門まで。あの発言はそんなにまずかったのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、確かにあたしはあんたのことを男として意識しているわけじゃないわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そーだろ、そーだろ。だからさっきの発言は許せ。別にセクハラじゃないんだ。俺は別に変な風におまえのことを意識しているとかじゃなくて…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱり俺はこいつには軽蔑されたくない。中学時代こいつがことごとくフッてきたという、こいつの外見だけに食いついてきた奴らと一緒にされたくはない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり、だ。制服というのは学生の正装で礼服の一種だ。性を感じさせないように出来ている。まあ、いつもお互い制服を着ているわけだから、やっぱり男女というよりは学生同士として感じているんじゃないか。要するにだ、俺はおまえに対して変な下心を持っているとかそういうわけじゃなくてだなあ…ってこれは当たり前か。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「キョン君、もうだまってて下さい！ 自分が何を言っているかわかってるんですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ええと、確か「ふとったな」と言ってしまった失敗のフォローとして、セクハラじゃないと。なぜなら異性として意識しているわけではないからだと。うん、論理的だ。破綻もない。飛躍もない。完璧だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だからさっきの発言は、どうせおれとおまえの仲なんだから、お互い男女として意識しているわけじゃないんだから、まあ、男どうしか女どうしで言い合ったものだとして受け取ってくれ。頼む。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よし、結論が出たぞ。あとは審判を待つのみ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「やっちゃって…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「自己韜晦は身を滅ぼす。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「これは僕にもどうにもできません…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うるさいぞ、おまえら。審判を下すのは神様だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さっきも言ったけど、あたしはあんたを男として意識しているわけじゃないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そりゃそうだろう。しかしはっきりそう言われると傷つくな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
こいつは俺に向かって「おまえは男じゃない」って言ってるわけか。胸がキリキリ痛むのはなんでだろうね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そして、あんたもあたしを女として見ていない。当然よね。そんな風に見られたら迷惑だわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしそうすると、俺はこいつに向かって「おまえは女じゃない」と言ってしまったわけか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしハルヒの声は平静だ。嘘をついているようには聞こえない。大丈夫だろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし今はこいつの顔は見たくない。見てしまったら絶対に後悔するような気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">卑怯なような気もするが、俺は四つんばいのままでいた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だけど、団長を辱めるような発言は許しがたいわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さっきのは嘘だよ。俺の背中が知っている。おまえはふとってなんかいない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あ……ありがと。じゃなくて、今更遅いわ。不敬罪には罰を与えるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">審判が下った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やはり神様は非情だった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">神様は俺のことが大嫌いなんだ。きっとそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「キョン君……。あんまり神様をもてあそぶとバチがあたりますよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どんなバチがあたるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「明日、団長はお洋服を買うために街に行きます。だからキョン、雑用係としてついて来なさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">は？ 今の話のどこに、洋服を買いに行くという要素があったか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺が「ふとった」と言ってしまったとか、お互い異性として意識していないとか、そんな話だったな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なぜ洋服が出てくるんだ？まあ、こいつの言動のあちこちに飛躍があるのはいつものことだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何を言っているんです？ 今のあなたの発言を受けての、論理的な帰結ですよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし涼宮さん、頑張りましたね…。去年の五月だったら大騒ぎになっていたところです。やはり成長されました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そうなのか？ まあこいつはハルヒが何をしても全肯定する奴だから聞き流しておこう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というより、頑張ったのは俺じゃないのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「まあ、いいけど。洋服を買いに行くんだったら、朝比奈さんについていってもらったらどうだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その方が有益だと思うぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はこの間古泉に却下された「ハルヒと朝比奈さんのデート」案を思い出していた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「キョン君……、死にたい？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">死にたくないです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">っていうか、朝比奈さん以外の人物から殺気のようなものを感じるぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「じゃあ長門、行ってやれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、長門がハルヒにファッション面でアドバイスできるとは思わないが、俺が行くよりはマシだろう。美少女二人なら店員もはりきって選びそうだし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「正気？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はいつでもほどほどに正気のつもりだ。……じゃなくて、おまえ今なんて言った？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わたしはあなたの正気を疑っている。もしあなたが発狂したのだとしたら、必要な処置をとらなければならない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
言い過ぎだ！ あと古泉、おまえには振らないから心配するな。なんだか殺気が強くなっているような気もするし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当たり前です……。あなたではなく僕の方が過労死してしまいます……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉は無視し、ハルヒの顔を見ずに言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒ、団長命令に従う。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室のカーテンが開く。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒが出てくる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今度は子供服を着ていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">青と白を基調とした子供服だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「フン、何を考えてたわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「虐待の記憶について回想していた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なにそれ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">｢地雷がどこに埋まっていたかを真剣に考えていた。｣</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「バッカじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「神に見放された男について……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どう思うわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">旧約聖書の「ヨブ記」について議論したいわけじゃないよな、こいつは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いいんじゃないか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それ以外に何かないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ロリータっていわれれば誰でも思い出すのはロリータ・コンプレックスだよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
『ロリータ』ってのはロシアの作家ナビコフの、同名の小説の登場人物からきているらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">読んだことなどないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">邦訳されているらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">読みたいとも思わないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
で、コンプレックスというのはユングが初めて唱えた概念で、心理的な複合体のことを言う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">エディプス・コンプレックスとか、エレクトラ・コンプレックスとかいうアレだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何がアレなのかは知らんが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">多分、ロリコンっていうのは心理学用語じゃなくて、俗語なんだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしロリータ服っていう言い方があるっていうことは、「ロリータ」って言葉もマイナスイメージだけじゃないってことか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、まあ、とにかく、いいと思うぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ジト目でにらむな。おれが語彙も少ないし、不器用な人間だってことも知っているだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『スイート・ロリータ』もやっぱり『スイロリ』って略すのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
乱暴にカーテンを閉めるな。それはオンボロ校舎の部室のドアじゃないんだぞ。壊したら自分で弁償しろよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこの居心地の悪さは何なんだろうね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだか店員からの怒りのオーラみたいなものを感じるんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">客にプレッシャーを与えるのはよくないと思うぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、俺がこの店に金を落とすわけじゃないんだから、客とは言えないな。ただの冷やかしだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">多分一刻も早くこの店から出ていってほしいに違いない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり俺がここにいるのは場違いだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それを承知であいつは俺をここに連れてきたわけだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから罰ゲームなのか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし招かれざる客っていうのはつらいもんだね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつが着替えている間にいなくなっても許されるかな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「許されませんね、絶対。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">また口から漏れていたみたいだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
振り返ると背が高い美人がいた。さっきから怖い空気を醸し出してる店員だ。マヌカンっていうのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">敬語なのになにやら威圧感を感じる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">森さんを思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、かくれんぼの鬼になったのがつまらなくて、そのまま帰っちゃったみたいなことになるだろうな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">多分そういうことをしたらその子は二度と遊んでもらえなくなるだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もっとも俺はこいつと楽しく遊んでいるわけじゃなくて、罰ゲームを課されているわけだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それで今帰ったら、罰ゲームをさらに加算されるんだろうな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
だけどこいつは俺にどんなひどい罰を与えたとしても、二度と遊ばないとだけは言わないだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつは相手の都合なんかどうでもいい、一度腕をつかんだら絶対に離さない奴だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だけどそれに甘えるべきではありませんね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん、なんでこう口から漏れるんだろうな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし、鶴屋さんもハルヒがおれに甘いって言ってたな。どこが甘いんだろうね。こんなに虐待を受けているのに。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱりこいつは、昨日みんなの前で、「おまえ、ふとったな」と言ったことを根に持ってるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱりアレが地雷だったのか？ まあ、どこに地雷が埋まってるかさっぱりわからない、変な奴ではあるが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか店員だけじゃなく、ここにいる女性客まで敵にしたような気がする。そんな雰囲気がするな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">早く帰りたいんだが。早く出てこいハルヒ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ぶつぶつうるさいわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんでおまえがキレる。居心地が悪い思いをしているのは俺であっておまえではないんだぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「もう一回『ふとった』と言ったら………………………………………、グーで殴るわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うん、それいいんじゃないか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おれは早く帰りたい一心で、瞬間的に反応してしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんた、マゾ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「違う。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">王道だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">白いワンピースに、若草色のカーディガン。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いいと思うぞ。うん、それがいい。絶対いい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これは軽そうだし、かさばらないだろうな。荷物持ちの立場としては大変助かる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたさあ、さっきからやる気があるわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、罰ゲームにやる気も何もないと思うんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さっきから、どうでもいいような顔して、『いいんじゃないか』とか、『うん、それがいい』とか…。あんたが古泉君みたいに女心をくすぐるような、気の利いた台詞を言えるとは思えないけど、それにしたってもっと言いようがあるんじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だったら古泉についてきてもらえ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、それじゃ罰ゲームにならないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">絶対にするな。絶対にあいつとここに来るなよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というか、ここだろうがどこだろうが、絶対に二人で来るなよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なにしろ罰ゲームにならないからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふん、あんただって同じじゃない。何よ、みんなしてあたしのことばっかり…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんの話だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかく！ あんたは今まで試着した洋服についてどう思うわけ？ これがこういう意味でいいとか、あれがこういう意味でいいだとか、もっと具体的に言いなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どれでもいいんじゃないか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はあ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえはとびきりの美人だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「な…何よ、いきなり。あんたなんかにそう言われてもうれしくなんか…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ないことはわかっている。おまえはそういうことは言われなれているだろうからな。好きな男にでもそう言ってもらえればうれしいだろうが、おれは好き嫌い以前におまえに男としてさえも見られていない。たしか昨日そう言ってたよな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何よ、あんた拗ねてんの？ あんたがそう言ったんじゃない…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「繰り返すぞ。おまえはとびきりの美人だ。さっきと同じ言い方になっちまったな。語彙が少なくてスマン。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはともかく、おまえを見たら、誰でもそう思うだろう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おれは振り返ってさっきからおれを脅しているとしか思えない店員さんに言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ここまではいいですね？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そのことについては誰も否定しないでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おお、初めて肯定的なことを言われたぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「で、とびきりの美人のおまえは何を着ても似合う。誰でもそう思うだろう。だったら何を着てもいいはずだ。どれでもいいはずだ。誰でもそう言うだろう。だからあとは財布と相談して決めればいい。というより、早く決めてくれ、頼むから。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ミエミエのお世辞でごまかそうとするんじゃないわよ。普段はちっとも褒めてくれないくせに…。褒めたって何も出ないわよ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「お世辞って…。ああ、おまえが美人だって話か。おれに褒められてもうれしくないって、当たり前の話だ。お日様に『あなたは明るいですね』と言ってお日様が喜ぶか？ おまえが美人だっていうのはお日様が明るいっていうのと同じ客観的な事実であって、一メートルの定規を誰が見ても一メートルに見えるのと同じだ。定規に『あなたはちょうど一メートルですね』と言ったって絶対に喜ばないだろう。つまり俺の評価基準とは何の関係もない。だいいちおまえを褒めておれが何か得することでもあるのか？ 褒めさえすればおまえが自分の荷物を自分で持つって言うんだったらいくらでも褒めるが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたさぁ、ケンカ売ってる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はあ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「この短い会話の中で四回も『誰でも』って言ったわね。あたしは誰でも思うようなことを聞いてるんじゃないの。『あんたが』どう思ってるかを聞きたいわけ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ええっと、まさかとは思うが、おまえは俺の好みを聞いているのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「……くっ。あんたの好みなんか聞いても何の参考にもならないけどね。まあせっかくそこにいるんだから聞いてあげなくはないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おかしいぞ。こいつがおれに意見を聞いているのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつがおれの言うことなんか聞くわけがないんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だいたい試着室の前で彼女の着替えた姿を見てアレコレ言うのは彼氏の役割だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
おれはこいつの彼氏ではない。断じてない。モノだ。道具だ。所有物だ。昨日まではイスだった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">わかったぞ。罰ゲームの続きだったな、これは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">要するに俺に恥をかかせたいわけだな、コンチクショウ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が見当違いなことを言うのを待って、すかさずバカにするとかそういうことか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし、これ以上ここにいるのはさすがにつらい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が恥をかかない限りここから出ることはできないわけか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しょうがねえ。地雷原に突入するか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あのな、ハルヒ。俺がおまえの服装なんかいちいち見ていると思うのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はあ？ あんたやっぱり、ケンカ売ってるわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺がおまえの服装を見ていたのは、孤島に行った時と市民プールに行った時ぐらいだ。まああの時も、「服装」を見ていたわけではないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺がいつも見ているのはな……、おまえの『表情』だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なっ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何か言いかけて黙り込むな。試着室に逃げ込むな。調子が狂うだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしこれを言い終わらない限り罰ゲームも終わらないわけだな。しょうがねえ、続けるぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「初めの、ゴシロリ、いやゴスロリか。あれを着て出てきた時のおまえの表情だが……、長門の真似をしているのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
確かに服装が人間の内面に影響を与えるっていうのはあるだろうが、いくらなんでもヒドすぎる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺が『ゴスロリってなんかフランス人形みたいだな』って言ったのを気にして……いるわけはないが、本当にフランス人形になろうとしてどうする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか無表情を装っているのか、それでも人形みたいに笑おうとしているのかワケがわからん。正直不気味だぞ。そんなのちっともおまえらしくない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
試着室でゴソゴソ着替えている音がするな。まあこっちもおまえの顔を見ない方がラクだ。むちゃくちゃ恥ずかしいんだから。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それで、次の子供服みたいな奴、スウィートロリータか。それを着ていた時のおまえだが、無理矢理あどけなさを作りだそうとしているのがバレバレだ。おまえは朝比奈さんになりたいのか？ それでいて照れ隠しなのかしゃべり方がまるっきりいつもと同じなのが聞いていて寒い。あざとい。不自然だ。早くカーテンを閉めてくれって本気で思ったぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">着替え終わったようだな。なんで出てこないんだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「聞いてるか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「続けなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり続けろっていうのか。うう恥ずかしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さっき着ていた白のワンピースだが、これは王道だ。これが嫌いだっていう男はいないだろう。しかしそれを着ているおまえを俺が好きかっていうと、そうではない。何だか男性の庇護欲をそそる服装っていうか……、俺の偏見かもしれんが。口調こそいつものおまえだが、それでもあれを着ている時の表情はそれを演出しているかのように見えた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「何言ってんのよ！ なんであんたみたいな弱っちい男に守ってもらわなきゃならないのよ！ あんた腕相撲でも三回に二回はあたしに負けるじゃない！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何を言い出すんだこいつは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんで女ってのはこう強い弱いにこだわるんだろうね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やれやれ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「弱い男が強い女を守って何が悪い。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだか店じゅうの女どもがギョッとしたようにこっちを見た。何なんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あのな、だいたい弱ければ守ってもらえるなんて考える人間がこの世にいるのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">少なくともおまえは絶対にそんなことは考えない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そういうのがおまえらしくない、って言ってるんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
弱ければ守られるんだったら、道ばたのアリさんを本気で守る奴がいっぱいいたっておかしくない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はあの長門のことを思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">文字通り男どもの庇護欲をそそる、内気で、儚げで、今にも折れてしまいそうなあいつ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だけど俺はそんな長門より万能宇宙人の、世界最強の長門を選んだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱりあいつは強くあってほしいと思った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だけどあいつを守らなくてもいいとは思わない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつは異常動作を起こさなければならないほど追いつめられていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だからあれ以来長門のことは気づかっている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
いつも守られている俺がこんなことを考えるのはカタハラ痛いだろうが、それでもあいつを守ってやりたいと思う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今、有希の名前が聞こえたような気がしたけど？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その長門じゃない。戦艦長門だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はぁ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここであいつの名前を出すのはマズイ気がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「長門の主砲が４０センチだっていうことは知っているな。建造当時世界最大の砲を積んだ高速戦艦だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり洋上では世界最強の存在、まさにバケモノだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか胸がチクリとした。長門、おまえのことをバケモノと言っているんじゃないぞ。あくまでも戦艦だ、戦艦。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それでも長門が出撃する時には単独じゃない。必ず巡洋艦と駆逐艦の護衛がつく。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">無論巡洋艦や駆逐艦は長門より強いわけじゃない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それでも自分たちよりはるかに強い長門を守るわけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">駆逐艦は潜水艦を爆雷で攻撃するため。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">巡洋艦は駆逐艦では航続距離が足りない場所まで随伴するため。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には身を挺して長門に発射された魚雷の射線に割り込むため。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何故か？ 自分たちより長門の方に価値があると考えるからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
おれがおまえと並んでいるとき車道側に立つのは、俺がおまえより暴走車両に強いからじゃないぜ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もっとも駆逐艦や巡洋艦が戦艦より弱いかと言えば必ずしもそうとは言えない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはある兵器の開発によって決定的になった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">日本海軍の秘密兵器。蒼白き殺人者、九三式酸素魚雷だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">酸素魚雷はもともと雷跡を消すために開発されたものだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それまで使われていた圧縮空気ではなく酸素なら水に溶け込みやすいからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そして圧縮空気より酸素の方がより激しく、強い力で燃焼する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その特徴によって思わぬ副産物が生まれた。駛走距離だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">最大射程４万メートル。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
長門の主砲は４０センチ。大砲の射程距離は口径１センチにつき約１０００メートル。つまり最大射程４万メートル。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もちろん実際の戦闘では互いに近づかなければならないわけだが、理論上は全くの互角だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、戦艦といえば日本人はほとんど大和を思い出すが、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ここで４６センチ砲を持つ大和ではなく長門を例に出したのはこのことを言いたかったからだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだか言い訳がましいが、この調子ならごまかせそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり日本海軍の戦前の作戦構想、漸減作戦では、水雷戦隊の夜襲攻撃が考えられていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その長射程を生かして敵戦艦を雷撃する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
雷撃が砲撃より効果的なのは喫水線下、つまり装甲がされていない部分を攻撃できるからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
波浪によって艦がよほど上下していない限り、砲弾は頑丈な装甲甲板にしか落ちることはない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
さらに決定的なことだが、砲弾は爆発してもその爆風は上空に向かって拡散するだけだが、魚雷は水中で爆発する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
爆風は艦のまわりにある海水、つまり水圧によって押し戻される。つまり全ての衝撃が艦内になだれこむ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">撃沈するためには砲撃よりも雷撃の方が効果があるのはそのためだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし水雷戦隊が突入すれば必ず戦艦を食えるというものでもない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">食えるのは、長門が丸裸でいるときだけだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ん？ いま何かマズイことを言ったような気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、そうじゃなくて、彼女が裸でいるときだけだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ん？ これでもマズイ。っていうより、ほとんど同じだな、こりゃ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか目の前にいる女性客の眼が怖いような気がする。そうだよな、普通の女性は軍艦を「彼女」と呼ぶことなんか知らんよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言い直すぞ。つまり戦艦に護衛がついていない時だけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">確かに魚雷は当たれば撃沈に結びつく可能性は大きいが、当たるまでの時間が長い。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">護衛艦に邪魔されるかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">砲弾の方がはるかに短い時間で届く。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そこで日本海軍は、水雷戦隊に囮として、あるいは護衛として戦艦をつけることを考えた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり時には、戦艦を駆逐艦、巡洋艦が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そして時には、戦艦が駆逐艦、巡洋艦が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">お互いに守ったり守られたりするわけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしこの水雷夜襲による漸減作戦は実現しなかった。実際に使われたのは、機動部隊、つまり高速空母を主力とした戦力だった。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「キョン……、あんたねえ、せっかく途中まで一生懸命聞いてたのに、女の子にわからないような話をいきなりするんじゃないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
おまえが長門の名前を耳ざとく聞きつけるからだろうが。これがブティックの試着室の前でするような話じゃないってぐらいわかってるぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、こんなことを言い出したのは照れ隠しという要素もあるわけだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「もう少し待て。話をもどすから。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり開戦時には航空機がいちばん進歩していたからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
機動部隊というのは空母を集中使用し、その大量の艦載機を集中豪雨のように敵艦隊に突入させるというものだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">飛行機ならば戦艦の主砲よりもはるかに遠くから敵を攻撃できる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一機一機の攻撃力は戦艦一隻にとても敵わなくても、数で押していけば圧倒できる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">実際に戦争が起きた時に使われた戦術だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺がさっき大和ではなく長門の名前を出したのは、大和が建造された時は決して洋上で最強の存在ではなかったからだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん。また言い訳だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「しかしこの空母の集中使用という構想には弱点がある。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">空母を集中して使用するということは、急襲されれば同時に多数の空母がやられる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
空母というのは、軍艦ではあるが航空機の洋上基地でしかない。ある意味輸送船みたいなもんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかも高速を出さなければならないため、基本的に装甲が薄い。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">艦同士の砲戦には弱い。重巡洋艦戦隊にさえやられる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そこで戦前の構想では、制空権下の艦隊決戦ということが言われた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり戦艦同士が殴り合いをして、その上空を空母の艦載機がカバーする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">空母が戦艦を守るわけだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それならば空母を一か所に集めなくてすむ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そういう考え方が支配的だった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし機動部隊構想は惜しい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そこで日本海軍は空母のアキレス腱を補う方法を考え出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">重巡洋艦よりはるかに強く、空母よりはるかに頑丈な軍艦を使う。そう、戦艦だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">戦艦が護衛についていれば、巡洋艦など一切寄ってこない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何回も言うが、俺が大和ではなく長門の名を出したのには理由がある。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">普通大和の方が頑丈だと考えられているが、俺は必ずしもそうではないと思う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">大和は航空機の魚雷十発で沈んだが、長門は真上で原爆が炸裂しても沈まなかった。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ものすごく苦しい言い訳だ。しかもなんだか胸が痛い。あいつの真上で原爆が炸裂するイメージが胸に浮かんでしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">大丈夫のような気もするが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さっきの話とは逆に空母を戦艦が守るわけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この意味がわかるか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、機動部隊は速さが命である以上、高速空母群を護衛したのは長門型ではなく、いわんや大和型でもなく、金剛型の高速戦艦だったわけだが、そんなことがわかる奴はここにはいまい。なにしろここはブティックだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「時には戦艦を駆逐艦、巡洋艦が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には戦艦が駆逐艦、巡洋艦が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には戦艦を空母が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には戦艦が空母を守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どっちが強いかなんか関係ねえ、価値があるから守るんだ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よし、もどってきたぞ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「では人間同士だったらどうなのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">軍艦の例でわかるだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には男が女を守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には女が男を守る。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
言い訳をしていた時にはあまり感じなかった羞恥心ももどってきた。しょうがない、これは罰ゲームだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「人間が何かを守るのはなんのためだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もちろん軍艦と同じだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">価値があるからだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">大切なものだからだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">必要なものだからだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それがなくなったら自分が困るからだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺があの時おまえの手を離さなかったのは、おまえが崖の下に落ちていくのがいやだったからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それだけの理由だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、あの時だって俺はおまえを守ったわけじゃないがな。一緒に落ちただけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「お互いに大切に思っているんだったら、強い弱いなんて関係ねえ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">男は女を守るだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女は男を守るだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「守るってことと守られるってことは、全く同じことなんだよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うわ、ものすごく恥ずかしい。こんなことを言うなんて全然俺に似合ってねえ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかもいまドサクサにまぎれて本音を言っちまったんじゃねえのか？ ハルヒのやつ、聞き流してくれればいいが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まああの時のことなんて、１００パーセント覚えているわきゃねえないからいいけど。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だけどさあ……、そういう守る守られるっていうのは互いを拘束するってことじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
良かった。聞き流してくれた。やっぱり覚えていなかったか……。まあ、そんなもんだよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当たり前だ。人間は国に守られ、家に守られ、俺たち学生は学校に守られている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これは鳥カゴみたいなもんだ。鳥カゴは鳥を拘束する。しかし鳥カゴは猫から鳥を守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">人間の自由なんて、カゴが大きいか小さいかにすぎん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もしそれが嫌なんだったら、たった一人で自分を守れ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつならできそうだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺なんかいなくてもどうでもいいだろうし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だからハルヒ、もし俺がおまえに『今までさんざん迷惑をかけたな。それも今日で終わりだ。おまえを自由にしてやろう。』と言ったらど…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたは絶対にそんなこと言わないわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そうだな。迷惑をかけられてるのは俺のほうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">コホン、と咳をする音が聞こえた。さっきの女性店員だ。怖い人だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「お説はごもっともですけど、さきほどの『女ってのは…』というのは釈然としませんね。あなた高校生でしょう？ 女を知りつくしたような発言をするのにはまだまだ若すぎるかと……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ああ、この人は「高校生のガキのくせに生意気言うんじゃない」と言っているわけか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、いいか。どうせ恥をかいてるんだ。恥をかくために恥をかこう。罰ゲームなんだからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それについては説明が必要ですね。俺が前提なしに『女』って言ったら必ずこの試着室の中でじっとしている奴のことを言います。そうでない場合はいちいち断ります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室の中でドスンという音が聞こえた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今度はバタバタしてるみたいですけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし今の発言は問題だな。昨日の「おまえを女として意識していない」っていう発言と矛盾しちまう。あとでフォローを入れないと、昨日の「ふとったな」発言がセクハラになる。心にとめておこう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もう一つ、「俺にとって女とはハルヒのこと」っていう発言と、さっきの「大切にしているなら男が女を守る」っていう発言との関連だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺は長門を守りたいと思っている。しかし異性として意識しているわけじゃない。当然向こうもそうだろう。というより、あいつは自分が女だなんて思ってないんじゃなかろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
朝比奈さんか。あの人こそ庇護欲をかきたてられる女性の典型だ。しかし決して弱いわけじゃない。あの人はどんなに押されても元の位置にもどろうとする強さを持っている。だからこそ守りたくなる。そして俺にとって朝比奈さんはマドンナだ。アイドルだ。天使だ。だからつき合いたいとか思っているわけじゃない。つき合えるわけもないが。だからこそハルヒに内緒で出掛けたりもできたんだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんとなくあの長門を思いだした。あいつだって弱いわけじゃない。どこか芯の強い、そして大胆ささえ持っていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あの長門はもちろん自分のことを女だと思っていたろう。だけど俺のことを男として意識していなかったことだけはたしかだ。何せ一人暮らしの部屋に俺を上げたんだからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おでんを食っただけだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そして俺はあの時、ただハルヒに会いたかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
今こうして会っていられるだけで幸せだと思うべきだ。たとえ全く男として見られていなくても。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ふと中学時代よくつるんでいた同級生のことを思いだした。ハルヒともあんな関係になれれば理想かな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いまはただ、所有者と所有物だが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「じゃあ、最初の質問に答えるぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の好みだったな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺がいちばん好きな表情は、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の腕をつかんで走り出す時の、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何か思いついて俺の顔を見てにまっと笑う時の、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それでいて団員の前では太陽みたいな笑顔でみんなを明るい気分にさせる時の……つまり」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いつものおまえだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室の中でまたバタンという音がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おいおい大丈夫か。トイレと風呂場と試着室の中だけは、自分一人で自分を守れよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、着替え終わってるのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うん。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室のカーテンを勢いよく引いた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">チャッという音がしてハルヒの姿があらわになる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">カーテンに手をかけたまま横目でちらりと見た。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここに来た時のピンクのトレーナーとジーンズだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「……なに。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「似合ってるぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「演説は終わりだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はハルヒに背を向けて言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">罰ゲームも終わりだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">羞恥プレイも終わりだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、どうするんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はぁ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「買い物だよ、早くしろ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか店内のフンイキが先ほどまでの殺気だったものではなく、生暖かいものになっているような気がするぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あたしにどうしろって言うのよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「なに言ってんだ。おまえの好きな物を選んで買え。買い物っていうのは欲しい物を買うことだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒが試着室から出てきて俺の前に立った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ほんとに人より前に行きたがる奴だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかも顔が近いし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、いつものおまえだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたの意見は全く参考にならなかったわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえ最初からそう言ってたじゃねえか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">大体この意見は営業妨害にしかならんぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「しかもなんだかごまかされたような気がするし。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ごまかすって何なんだよ。俺は自分の思っていることを羞恥心に耐えながら言っただけだぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかくあたしの表情をあんたがよく見ていることは………わかったけど、あたしが聞きたいのは服装についてのあんたの意見よ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あたしがどんな格好していたらあんたが見たいと思うかを教えなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだ。まだ終わってなかったのか？ 罰ゲームは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「み……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「水着っていうボケはいらないからね。今は真冬よ、ま・ふ・ゆ。あと半年待ちなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女性客と店員がクスクス笑っている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ま、どうせあんたのことだから女の子の洋服のことなんてほとんど知らないだろうから、この店にあるものならなにがいいのかを言いなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そう言われてもな……、俺はこういう店にどういうものが在庫としてあるのかなんて知らんぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
多分バニーガールはないだろうな。ナース服もメイド服もないだろう。体操着……、とか言ったら変態あつかいするだろうな、こいつは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「まったくあんたは……、だったら今あんたの目に入っている物の中で、何がいいのかを教えなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目に入る物ねえ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はぐるりと店内を見回した。なにがなんだかさっぱりわからない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ふとショーウィンドーの外を見てみた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえがアレ着てるところなら見たいと思うぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっと、あんた、ふい打ちはひきょ………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何を言っているんだこいつは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そう思って自分が指さしている方向を見た。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">結婚相談所だな、あれは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それは問題ない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">問題は俺がいま指さしているモノだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ウェディングドレスだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ウェディングドレスだな、あれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まずい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">昨日「おまえに変な下心はない」って言ったばかりだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それにさっき「俺にとって女とはハルヒのことを指す」とか言ってしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これじゃ下心があるっていう風に取られてもおかしくないよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり俺はこいつに軽蔑されたくない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それに昨日、「女として意識しているわけではない」とこいつに言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それがウソだということがばれれば、あの発言がセクハラになっちまう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこれがかえって、フォローするいい機会かもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はふり返って言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから……、おまえの結婚式にはぜひ呼んでくれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よし、ナイスフォローだ。がんばったぞ、俺。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">……なぜ無言で震え出すんだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">顔を真っ赤にしている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">未来の自分の花嫁姿を想像して恥じらって……いるわけではないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どこに地雷が埋まっていやがった？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺にははっきりとわかる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつはいま、ものすごく怒っている！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">滅多にいないような美少女が本気で怒っている表情ってのは………怖いな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、それどころじゃない！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なぜだ？ 理由がわからん！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とにかく、否定すればいいわけか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今の発言はなしにしてくれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">コホン、とひとつ咳をした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえの結婚式には俺なんか呼ばなくていいぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まずい。これは人を殴る時の目だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はおまえのこんな表情を見たいわけではないぞ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒが一歩踏み込んでくる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">右手を上げる……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それがいきおいよく俺の顔面に……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しまったあ……！、かわしてしまった！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ていうか、そんな大振りビンタが当たるわけがねえだろ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はあの朝倉のナイフを二度までもかわした男だぞ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それどころじゃない！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">次のが来るはずだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よし……、こいつは<span>もらうぞ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は目をつぶった。また反射的にかわしたらシャレにならん！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もらうぞ……、もらうぞ……、もらうぞ……、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ちっとも来ないな。時間差攻撃か？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とにかく早くこい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こっちはもらう気になってんだから。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「もらえないわよ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いきなり声がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目を開けた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「えーと、あいつは……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「とっくにいないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いつの間にか店員さんが敬語からタメ口になっていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そんなことはどうでもいい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はジャケットとズボンのポケットを探った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">財布…、ティッシュ…、ハンカチ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あった、携帯！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">短縮番号の一番を押す。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">トゥルルル…、トゥルルル…、トゥルルル…、トゥルルル…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つながった…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">すぅーっと息を吸う音が聞こえた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ヤバイ、これは来るな……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺は右手の中指で左耳の穴を押さえ、左目をつぶり、左手に持っていた携帯電話を思い切り自分から離した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯を印籠のように店員さんに突き出している。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店員さんがギョッとしたような顔をした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「バカァ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱり来たか。あいつが何を思っているかはさっぱりわからないが、行動の予測はついてしまうのが恨めしい。これが雑用根性だろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯を耳にもどす。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おいハルヒ、 なにを怒ってんだ、おまえは……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯からは何も聞こえてこない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの声はおろか、何の物音もしない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これは俺が携帯を耳にもどすのを見計らって、大声を出すつもりだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ちがう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これは…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おいっ、おまえ……、」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は待ち受けの１００Ｗの笑顔に向かって叫んだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんで泣いてる！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何の物音も聞こえないが、俺にははっきりとわかる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はおまえのことなら誰よりもわかる自信があるんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あれほど強いおまえが、なぜ泣いている？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺でよかったら聞かせてくれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何がそれほどおまえを不安にさせた？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">誰がそれほどおまえを追いつめたんだ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
女性客の一人が、俺の正面の試着室のカーテンを乱暴に開けた。中には誰もいない。なんなんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「とにかくだまってちゃわからん……。なんとか……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うぬぼれるんじゃないわよ！ あんたに、あたしの何がわかるっていうのよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうだな。うぬぼれていた。俺はわかってない。おまえは泣いてない。泣いてないんだ…。おいっ、切る前に泣いてないって言」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">プツッ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「えー！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">電源落とすなよ……、電源落とすなよ…、電源落とすなよ…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ただいまこの電話は、お客様のご都合により……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あーっ、やっぱり落としやがった！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店内の女性客と女性店員の視線をひしひしと感じる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の味方はいないようだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なにしろ、ここはブティックだからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「お騒がせして、申し訳ありません……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まったく、恥かかせやがって……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「恥をかかせたのはどっちかなー。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっきの女性店員が腕を組んで俺を睨みつけている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、なんであの子を追いかけないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「理由は二つあります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ひとつは、あいつは俺だけには絶対に泣いているところを見せたくないでしょう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もうひとつは、あいつが、ここで泣き出したら俺に迷惑がかかると思って俺を残して立ち去ったと考えられます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ならば俺は、ここに残るしかないでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「へえーっ。そこまでわかってるんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかってしまうんだからしょうがないでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">わからなかったらどんなに楽か……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だけど、ここに残ったということは覚悟ができてるわけね。………女の敵！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「女の敵っていうとアレですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は向かいの結婚相談所のショーウィンドーを指さした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> ：</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> ：</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> ：</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> ：</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ケーキ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
完璧に外したようだ。ウェディングケーキがあったからちょうど良いと思ったんだが。俺にはお笑いの才能はないらしい。トナカイの一発芸を思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、上手いこと言ったつもり？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どうやらこの人たちは根本的な勘違いをしているようだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「誤解があるようですが、俺はあいつとつき合っているわけではありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、俺の言動を省みてみると、彼氏のそれだったら責められるべきだろう。そうではないんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふーん、じゃあ、君とあの子とはどういう関係になるわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この店員はこの場の女性代表、というか尋問官になったつもりみたいだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「団長と団員その１。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あるいは、団長と雑用係。もちろんあいつが団長で俺が雑用係です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">沈黙が痛いな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、あいつと作った部活の部長とその部員と言ったらわかりやすいですかね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「悪いけど、さっぱりわからないわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女王様と下僕と言ったらわかりやすいんだろうか。そう言ってみるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「要するに……ですね。俺の片思いですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目の前の女性店員が腕組みをほどいて目を丸くした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、それを本気で言ってるの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そうきたか。他の店員や女性客までも目を見張っている。やはり羞恥プレイか。しょうがねえな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「本気ですよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もちろん、俺とあいつが釣り合うなんて思ったことは一度もありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それでも俺はあいつのことが好きです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">初めて声を聞いたときから、ずっとあいつのことが好きです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はあいつに利用されているだけかもしれません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それが言い過ぎでも、あいつが俺のことを男だと見ているわけではないことははっきりしています。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それでも、俺にはあいつが必要なんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">言っていて悲しくなってきた。なんだかまわりの女どもが頭を抱えているぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから、身の程知らずだとわかっていると言ったでしょう！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、あいつが誰でも認める美人だということもありますが、それだけではありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
初めて見た時からあいつに惹かれていることは事実ですが、あいつの外見だけが好きなわけではありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">多分、俺ほどあいつといっしょにいる人間もいないでしょう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">教室で、部室で、今日みたいに休日もね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">口こそ悪いですが、あいつほど人がいい奴はいません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">本気で他人を傷つけるようなことは絶対にしない奴です。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">少なくとも今のあいつはそうです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺みたいなどうでもいい奴に対してさえも、ギリギリのところで踏みとどまることができる奴です。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここに俺を残して去っていったことだけからさえも、それがはっきりわかります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっきも言ったはずです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は誰よりもあいつのことを理解している自信があります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
神の力が働いたことが奇跡というなら、あいつに出会えたことも小さな奇跡なんでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おまえの力じゃないよな、これは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「………、つっこみたいところはいっぱいあるけれども、まず、自分が利用されているだけかもしれないと、君が思う根拠を言ってみてくれるかな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だから、雑用係です。あいつは嫌なことやめんどくさいことは、全部俺にやらせるんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「具体的に。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そうですね…、部室のパソコンの管理を全部俺にやらせます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もっと上手い人がいるのに、しょっちゅう俺にお茶を淹れさせます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ちっとも凝っていないくせに、いやがらせのように肩を揉ませます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">二駅向こうの電気屋にストーブを取りに行かされたこともあります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">映画撮影をした時、カメラ、編集、その他の面倒なことは全部俺にやらせました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
いっしょに部室に泊まりこんだ時も、俺にだけ作業をやらせて、自分はぐうぐう寝ていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「泊まりこんだって……二人だけで？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺を男として見ていないって言ったでしょう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
部活五人で集まる時は、俺が最後に来ると、まあいつも俺が最後なんですが、『遅い！罰金！』と怒鳴ります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
待ち合わせの時間には間に合っているんですが、あいつのルールでは、いちばん遅い奴が遅刻なんだそうです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">かならず五人分のお茶を奢らせます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺と待ち合わせる時には、あいつは一時間前に来ているとしか思えません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君も一時間前に行ったらどう？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんなことをしたら、あいつがもう一時間前に来ちゃうじゃないですか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「……なんのためだと思う？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「俺に金を出させるためでしょうね。そう考えると、あいつにとって俺の存在というのは、財布、あるいは道具なんでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「君ねえ……、いくらなんでもそんな言い方をしたら、あの子がかわいそうだと思わない？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「思いませんね。かわいそうというのは、強者が弱者に与える感情です。俺は絶対にあいつに勝てるとは思えません。実際、昨日までモノ扱いされていましたし。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それも具体的に。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん。さすがにコレを言うつもりはなかったが、この流れでは言うしかないのか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ええと、まあ罰ゲームなんですよ。まあ、あることであいつを怒らせてしまってその罰として、一日一時間は、あいつ以外の人としゃべると殴るんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">イスのことはしゃべりたくない。しゃべってたまるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それではモノ扱いしたってことにはならないわね。あの子がやきもち焼きってことがわかるだけじゃない。っていうことは、その『あること』ってのは浮気？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やきもち焼きって何なんだ。それに浮気って…だから、つき合ってるわけじゃないと最初に言ったんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そうじゃありません。ある女性と待ち合わせて出掛けただけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふーん。隠れて他の女の子とデートしていたのがバレたわけだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「デートではありません。デートというのは彼氏彼女がやることです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんな理屈があの子に通用すると思う？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「……思いません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それでモノ扱いされたっていうのは？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どうしても言わせるつもりかこの人は。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、イスになれと。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さすがに引いてるな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺にイスになれと。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それも具体的に言ってほしいわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり俺が床に四つんばいになってですね、あいつがその上であぐらをかいていて、それが毎日一時間、その間は自分以外とは絶対しゃべるな、と、。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「かわいいわねえ、あの子。君の背中の上でスネてる様子が目にうかぶわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺には見えませんでしたけどね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君にだけは見せたくなかったのよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺にかわいいと思われてもしょうがないですからね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あのねえ、泊まり込みのこともそうだけど、普通女の子が自分の重みを男に預けるっていうのは、よっぽどのことよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「普通の女性のことはわかりません。俺はまだ高校生です。女性を一般論で語るにはガキすぎます。俺にとって女というのは常にあいつのことを指すって言ったでしょう。俺がわかっているのはあいつのことだけです。要するに俺を男だと思ってないだけです。あいつはもっと単純な奴です。つまりは座りたかったからイスにしただけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、俺に屈辱を与えるといった意味合いがあっただろうが、さすがにそれは言いたくないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「君は、あまりにもあの子のことばかり見ていたから、かえってあの子のことがわからないのかもね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よくわからないことを言う人だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで、自分が男として見られていないと思う根拠は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">思っているわけじゃなくて事実なんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それははっきりしています。自分で昨日そう言っていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「詳細を。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「くわしくその時のことを話しなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そこまで言わせるか。まあ、これは屈辱的なことではないからいいけど。失敗ではあるが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、そんな虐待を受けていたのでちょっとしたイヤミを言ってみたんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どんなふうに？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえ、ふとったな、と。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
周囲の女性たちが俺のことをハエを見るような目でみている。やっぱりこれはセクハラだったか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さすがに俺もこれはセクハラではないかとあわてました。そこで、男が女に言うからセクハラになるわけだから、おまえにとって俺は男じゃないし、俺にとっておまえは女じゃないんだから、この発言は許してくれと。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">周囲がドン引きしているな。昨日の部室と同じだ。やれやれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうしたらあいつが、『確かにあんたのことを男として意識しているわけじゃない』と言いまして、正直ショックでしたが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君のことはどうでもいいけど、あの子はショックだったでしょうね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いえ、『あんたに女として見られたら迷惑だ』とはっきり言ってました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
女性店員は大きくため息をついた。それは俺の専売特許だぞ。「やれやれ」って言うなよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それでなぜか今日洋服を買いに行くからつきあえ、と。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それであの子がフェミニンな服装にこだわってたわけね……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
フェミニンって何だろうか、フェミニズムの一種だろうか。あいつらしいが、もう女性尊重主義はＳＯＳ団には足りていると思うぞ。俺は雑用係だし、古泉は副団長といっても便利屋、というか団長専用自動手もみマシーンだ。まああいつがハルヒの機嫌を取ってくれるのはありがたいけど。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「浮気の罰がイスのことといい、今日の買い物のことといい、さっきのあの子の態度もそうだけど、ほんとうにあの子は君には甘いわね……、大甘。君にとって女というのはあの子のことかもしれないけれど、全ての女があの子みたいだとは思わないことね……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
鶴屋さんと同じことを言っているな。しかし全く面識のない人が同じことを言うってことは、俺の方がどこがズレているんだろうか。俺自身はあいつに虐待されているとしか思えないんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店員さんは、俺に人差し指を突き立てた。誰かに似ている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「教育してあげるわ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人は女性ドイツ士官だろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あの子が君にどんなことをさせているかはわかったわ。だったら今度は君があの子にやらせたことを教えなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そんなこと言われてもな。あいつが俺に命令している姿しか思いうかばん。あいつにやらせたことねえ……。強いて言えば、アレか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「髪型変えさせただけですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ひっ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うそ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「…………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだろうか、この周囲の女性陣引きまくりの様子は。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「げ、幻聴かしら。いま『だけ』って聞こえたけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そう言いましたよ。俺があいつにやらせたことっていうのはそれだけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの髪を短くさせたのは失敗だったな。今度伸ばさせるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、いまものすごく図々しいことを考えてなかった？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いえ、めんどくさいからやめます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこの調子だとあのことについてもくわしく聞かれそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いま気がついた。あれをここで話すのは、まずいな……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「このことについて不特定多数の人に話すことはできません。これは、あいつの名誉にかかわることです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ごまかし？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「違いますよ。しかしここまできて何も言わずにすませるわけにはいかないでしょうね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当然。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ではこうしましょう。俺は身分を明かします。県立北高校、一年五組の生徒です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は本名を名乗った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで、俺に対して身分を明かしてくれる人、一人にだけお話しします。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
客たちが明らかに落胆した顔をしている。このまま誰も名乗りでなければいいんだが。しかし…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっきから尋問をしている店員さんが言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わたしが聞くわ。この店のオーナー店長、神原明美といいます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんとなく予想していた通りになった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこの人店長だったのか、どうりで仕切ってるはずだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あとはよろしく、みんな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はい、わかりました…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの鬼店長に目をつけられるなんて…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、話を聞いた限りではいい気味だけど…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
勝手なことを言ってるな。ていうかおまえら仕事しろよ…。店員は仕事する気ねえし、客は買い物する気ねえし…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「じゃあ、店のすぐ上に事務所があるからそこに行きましょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「じゃあ、あの子の髪型をどうやって変えたのか教えてもらうわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
何の飾りもない壁紙。スチール机。明らかに業者からもらったと思われるカレンダー。電話が一台。さすがにコードレスフォンだ。しかし殺風景だな。長門の部屋を思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、長門の部屋は文字通り殺風景だが、ここは質素な部屋というべきだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの部屋は何もないだけだが、ここではいろんな物が整理整頓されている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ブティックの事務所っていうのはこういうもんなんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店の雰囲気とは裏腹に、実用一点張りだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は小さな応接セットに座らされ、客用の湯飲みを前にしていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もちろん正面には、あの店長さんが、どっかり座っている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしあのトンデモ世界のことをそのまま話すわけにはいかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">話しても信じはしないだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「去年の五月のことです……、あいつは、世界を捨てようとしました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「えっ？ 君いい加減なことを言うと……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつの名誉に関わることだから、あそこでは話せないと言ったはずですが…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここに来るまでの間、あの時のことをなるべく現実的な文脈で話す準備はしていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこういう表現をすると、どうしても誤解を与えてしまう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「世界を捨てるって、まさか自さ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱりそう聞こえるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「俺には、ただ『あいつが世界を捨てようとしていた』としか言えません。嘘をつくつもりはありません。だから、信じてもらえなくてもかまわないと思っています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「続けて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「その前に、俺はここまであいつの秘密を話しました。絶対に他言しないと約束していただけますでしょうか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかった、約束するわ。わたしを信じて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ありがとうございます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつは世界を捨てようとして、ある場所に閉じこもりました。これも『ある場所』としか言えません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いいわよ。そこがどこだろうと話の主旨には関係ないし。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつはそこに俺を呼び出しました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なるほど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なにが「なるほど」なんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そこで俺はあいつに、『ある行為』を行いました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『ある行為』とは何かを聞いても無駄なようね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ありがとうございます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんで二回も礼を言っているんだろうか、俺は。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人に感謝しなきゃならないいわれでもあるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ただ、その行為は、あいつに世界を捨てさせないために絶対に必要なことだったと言う者がいます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はそれを完全に信じたりはしてないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それをする前に俺はあいつに、こう言いました。『俺、実はポニーテール萌えなんだ。いつだったかのおまえのポニーテールはそりゃもう反則的なまでに似合ってたぞ。』」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつは世界を捨てるのをやめました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、次の日あの子がポニーテールで登校してきた、と。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんでわかるんだろう。この人はエスパーだろうか。俺にはエスパーの知り合いは一人しかいないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「目を丸くしなくてもいいわよ。だれでもわかるわよこんな結末。ベタすぎるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺もあの時ベタだと思ったんだけどな…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それだけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それだけですよ。大して面白い話じゃなくて申し訳ありませんが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうじゃなくて、君があの子の髪型を変えさせたのはその時だけなのか、って聞いてるの。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あと二回しかないですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「二つとも話しなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「二つ目は、そんなに秘密にしなくちゃならない話でもありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">文化祭の準備の時、あいつが暴走して、先輩の女性にものすごい迷惑をかけました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はつい、あいつを殴りそうになりました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">幸い、そばにいた別の男子がうまく止めてくれました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">で、なぜか次の日、あいつはポニーテールにしていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしこうして考えてみると、あいつが勝手にポニーテールにしてきただけで、俺がやらせたわけじゃないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店であんなことを言わなきゃ良かった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、三回目は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
三回目はたしかに俺が頼んだんだよな。そうするとやっぱり俺はあいつに髪型を変えさせたことになるのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ん？ ちょっと違うぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「すみません。間違えました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どういうこと？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「三回目はあいつじゃありませんでした。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あのハルヒもハルヒには違いないけど、あいつのことではないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ですから、この話はしても意味がないかと……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言いなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いきなり大声で怒鳴られた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">言うしかないのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺にはあいつがどうしても必要だという話はしましたね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「聞いたわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「三日間、あいつが俺のそばにいなかったことがあります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「禁断症状でも出たの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その通りです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょうどその時、あいつと顔と性格がそっくりの女と出会いました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">実際には探し出したんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これを言うとまた誤解を受けそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで君、その子に声をかけたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒ、と声をかけて蹴られました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当たり前……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり誤解しているな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「その後喫茶店でしゃべりました。言っておきますが、その時男がもう一人いましたよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そいつの喫茶店代はその男が払いました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんなことはどうでもいいの。続きを話しなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、その後そいつに、『ポニーテールにしてみないか』と言ってみました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その子はそうしたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ちゃんとやるのは面倒だとか言っていましたが、その方が運動部らしいということで…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">言っておきますが、そいつとは半日しか会ってませんよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「へぇー君、会って半日の女の髪型を変えさせたんだー。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">完全にこの人は誤解している。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、実はそいつとは三年前にも会ったことがあってですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君さあ、さっき『俺にとって女とはハルヒのことだ』とか言ってなかったっけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから、あいつもハルヒなんだけど。このことを説明するのは難しい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「誤解です。うまく説明できませんが…。まあ…、あいつにとっては自分とは違う人間なんですが、俺にとっては二人とも同一人物なわけで…。つまりあの間だけはあいつじゃなくて、そいつがハルヒなわけで…。いや、あいつを裏切ろうとか、そういうわけじゃなくてですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんが、応接セットのテーブルをドン！ とたたいた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">納得するわきゃないよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の説明が下手なんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
いや、このことを現実的文脈から乖離させずに、しかも誤解を生まないように表現することは不可能だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「寂しかったんですよ……、あいつがいなくて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんな言い訳でごまかされるのはあの子だけよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつに話すつもりはありませんよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「賢明ね。君のためじゃなく、あの子のために。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そいつとはそれきり会っていません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつはどうなったんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今でも光葉園学院に通っているのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それとも消えてしまったんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それとも今のハルヒの中にいるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺にはわからない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そいつと会っていたら、あのハルヒに会えなくなってしまうから…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当然でしょ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人にあの三日間の恐怖を伝えることはできない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">伝えなくてもいい人なんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どうしてくれようかしら、この変態スケコマシを…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は変態でもスケコマシでもないんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その時携帯が鳴った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっと失礼。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「携帯なんか無視しなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「１００パーセント、ハルヒのことです！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は携帯を開いた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「古泉、閉鎖空間か？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなた、何をやらかしたんです！？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんで俺が犯人だと決まってるんだ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから、何をやらかしたんです！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえがウェディングドレスを着ているところを見たい、と言った。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それだけじゃないですね。それで閉鎖空間が発生するはずがありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから、おまえの結婚式にはぜひ呼んでくれ、と言ったんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなた！ 涼宮さんを殺す気ですか！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">キーンと耳鳴りがした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「耳元で怒鳴るな！ おまえはハルヒか？！ なんで俺を結婚式に呼ぶとあいつが死ぬんだ！ それに言い直したぞ。やっぱり俺なんか呼ばなくてもい…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おんなじことです！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それより閉鎖空間はどうなってるんだ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「非常に危険な状態です。ものすごい勢いで広がっています。世界改変もありえます！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">世界改変って……、あいつそんなに怒ってたのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ずいぶん急だな。それでハルヒは…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「時間がありません。アレをやって下さい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「アレってなんのことだ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「アレと言ったら決まってるでしょう？！ 白雪姫です！ スリーピングビューティーです！ かつて世界を失いかけた少女に全てを与えた問答無用の反則技です！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ずいぶん皮肉っぽい言い方をするな。焦ってるんだろうが。Ｓｌｅｅｐｉｎｇ ｂｅａｕｔｙがカタカナ発音になってるし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それに問答無用って…、俺はあのときけっこうしゃべったぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ここにハルヒはいない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はぁ？ なんですぐに追いかけなかったんですか！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はいま、監禁されている。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ひとのせいにするんじゃないわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんが会話に割り込んできた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、いまあいつはどこにいる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ロストしました！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なにやってんだ、おまえら！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたに言われたくありません！ へたに尾行とかつけてあなたとのデートを邪魔したりしたら、かえって危険だと判断したんですよ！。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから、デートじゃねえって！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今はそんなことどうでもいいです！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあいい。電話で話す。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「電話で大丈夫ですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あの時は文字通りゼロ距離射撃だったが、今回は遠距離雷撃になるな。それでも有効射程距離だ。いける！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">４０キロも離れてるわけじゃないしな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
さっき戦艦長門の話をしたせいか、なんとなく戦史オタクっぽい言い方になってしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それとも昨日たまたま戦史本を読んだせいで、頭脳がそれから離れていないのかもしれん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあいい。照れ隠しにもなるし、今日は軍事用語で押し通そう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それはともかく、ハルヒの方は話せさえすれば大丈夫だろう。この程度のケンカならしょっちゅうしている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「タイムリミットは？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あと８分で次の段階に入ります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「８分あればなんとかなる。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「８分間で涼宮さんを落とすんですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつを落とすなんて俺にできると思うか？ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">救うんだよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">８分以内であいつを救う！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こんなくっだらねえことで、絶望されてたまるか！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯をたたむと店長さんに言った。 </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「電話借りますよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯は古泉との連絡のために生かしておかなければならない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「携帯の電源は切ってるんでしょう？ あの子の居場所がわかるの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかってしまうんだからしかたありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯を開いて番号を確認し、店の電話の受話器を取る。ボタンを押す間がもどかしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「長門、俺だ。ハルヒにかわれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">小さいがよく通る声がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ここにはいない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんがフンと鼻を鳴らした。聞こえてるんだろうか。どうでもいいが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「長門、その電話のスピーカーボタンを押せ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんがぎょっとしたような顔をした。表情が忙しい人だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「…………………………………………………………無駄。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「無駄でもいい。押せ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「……わたしは古泉一樹とは逆の考えを持っている。あなたが今涼宮ハルヒと話すのは、危険。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どういうことだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなたはかつて涼宮ハルヒに世界を与えた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それまで彼女が持っていたのは単なる『背景』にすぎない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あなたから与えられるまで、涼宮ハルヒは世界など持っていなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">涼宮ハルヒにとってあなたは世界そのもの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">彼女は今、世界に拒絶されたと思っている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">世界に拒絶された彼女は、再び世界を捨て去ろうとしている。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あの俺の言葉のどこに拒絶があったのかがわからない。あいつそんなに俺を結婚式に呼びたかったのか？ しかし「呼べ」と言った時もキレてたぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今の涼宮ハルヒにとって世界を消すということは、あなたを消すということ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あなたは涼宮ハルヒに世界を与えたが、わたしには心を与えた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ただの観測機械、自動人形、からっぽの容れものだったわたしに、あなたは心を与えた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">喜怒哀楽と人間は簡単に言う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしわたしはそんなものを持っていなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あなたはそんなわたしに、『元気か？』と言われただけで、いや、あなたを見ているだけでうれしいということを教えてくれた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あなたは人を憎らしいと思うこと、やきもちを焼くことさえ教えてくれた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そしてあなたは『かなしい』という感情さえ教えてしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あなたを失えば、わたしは泣くだろう。大声を上げてわんわん泣くだろう！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒが俺を消そうとするならそれでもいい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こう言ってみた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こんなことで俺みたいなどうでもいい奴を消したりしない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こんなことはよくあることだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつが泣いていると思ったのはきっと間違いだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はそこまであいつを傷つけたわけじゃない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺みたいな奴にあいつを本気で傷つけるなんて、できるわけがないんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それは、あなたの理屈。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">わたしはあなたを失いたくない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今の涼宮ハルヒの精神状態はまさしく『かなしい』というもの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いま、あなたの声を聞いても、悪い影響が出るとしか思えない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつは俺を殺さない。世界六十億人の全てを殺しても、俺だけは殺さない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こんなことを信じてはいなかったが、俺はハルヒと話したかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というより、話せさえすればなんとかなると信じていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの時とは状況が違う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">彼女はあなたの声を聞けばまた拒絶されるのではないかと考える。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その前に世界を作り替えようとするかもしれない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「長門、俺はハルヒに嘘をついたことは数限りなくあるが、おまえに嘘をついたことはない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はおまえだけには、絶対に嘘をつかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">約束する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺とおまえとでは寿命が違いすぎるからずっといっしょにということはできないが、今日おまえが俺を失うことはない。俺を信じてくれ。おまえはボタンを押すだけでいいんだ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「また図書館に…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ああ、図書館に連れて行ってやるから。ついでにカレーをおごってやるから。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「Ｓｌｅｅｐｉｎｇ ｂｅａｕｔｙ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そいつはダメだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたは一つだけ、わたしとの約束を破った。『また図書館に』という約束を忘れた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">忘れていたわけではない。ハルヒへの裏切りになるような気がしていただけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「長門、俺を信じられないか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時間がない。このままでは埒があかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">切り札だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「一回しか言わないからよく聞けよ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">声をはげまして言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「スピーカーのボタンを押せ、有希！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ひきょうもの……」という声が聞こえたような気がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">電話の向こうからなのか、この部屋からなのかはわからなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒ、聞いてるか？ 俺だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長がゆっくりとこちらに近づき、この部屋の電話のスピーカーボタンを押した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だって不公平でしょ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">受話器からもスピーカーからも何も聞こえない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">名前を言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「忘れたのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつのことだから俺の本名を忘れていても不思議はない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「忘れたわよ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたのことなんか忘れたわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、それにしては様子がおかしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なるほどそうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺を「消す」っていうのは、俺の肉体そのものを消すということではない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">自分や周りの人間の記憶から俺の存在を消すということなんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「初めて名前を呼んでくれたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">髪型をほめてくれたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あんたに殴られそうになったけど次の日仲直りができたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">嵐の中ではじめて手を握り返してくれたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あたしが崖から落ちても手を離そうとしなかったことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いっしょに落ちてくれたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">全部忘れたわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒの声を聞いてはっきりとわかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はそこまでおまえを傷つけたのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺にそんなことができたのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いつものおまえの声とは全く違う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっきまでの自信がみるみるうちにしぼんでいく。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつは、「やる」つもりだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">自分の中から俺に関する記憶をすべてデリートしようとしている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「忘れないでいてくれ。ここに俺がいたことを」という言葉が悲しく思い出された。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたが昏睡していとき、このまま目をさまさないんじゃないかと怖くて怖くて…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">呼吸を止めてしまうんじゃないかと思うと怖くて怖くて……、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">寝息が聞こえるところから一歩も離れられなくて…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">たった三日間なのに、あんたに守られていないことがものすごく怖くて！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だけどあんたが目を覚ました時、たまらなくうれしくて！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あたしが付き添っていても何の役にも立たなかったと思ってたけど、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あんたの今日の話を聞いて、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もしかしたらあたしもあんたを守れたのかもしれないと思えて、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それがほんとうにうれしかったことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ぜんぶ忘れたわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉、すまんな。大口叩いたけれども、俺には無理みたいだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで、あのことも…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あんたにキスされて、こんなくっだらない世界も捨てたもんじゃないと思ったことさえも…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">忘れたわよ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつを止めることなんか、俺にできるわけがなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつは俺を忘れるだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはどうしようもない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だけどこれだけは言わせてほしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わかった。おまえはおれを忘れればいいさ。おれがここにいたことも、おれという人間がいたことも。おまえとおれの思い出を全て忘れろ。それでいいんだ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おれが、覚えているから。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">息を飲む音が聞こえた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">腕を水平を伸ばし、受話器の「切」ボタンをプツッと押した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">同時に肘をくの字に曲げていた。自然に力が入っていたのか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時計を見た。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、その時計……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ただの腕時計ですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">朝比奈さんが持っていたような電波時計ですらない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ただの時計って…。靴と合ってないと思ったけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「文字通りタダの時計です。ハルヒの親父がくれたんですよ。娘をよろしくとか言って。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なにがよろしくなんだろうか。要するにワガママ娘の面倒を見ろということだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その文字盤に書いてある文字がわかる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかります。ギリシャのアルファベットの最後の文字だそうですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">タイムリミットまで……、一分半。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「片思いだっていうくせにあの子の写真を待ち受けにしてるのはなぜ？ 隠し撮り？ それにしてはいい笑顔だったけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつが俺の携帯で勝手に自分の写真を撮って、勝手に待ち受けにしたんですよ。常に団長のご尊顔を拝せ、とか言って。待ち受け変えると殴るんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君みたいな子とつき合ってたら、どんな女だって殴りたくなるわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はあいつとつき合ってるわけじゃありません。あいつにつき合ってるだけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一分……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君が言ってた『ある行為』って、キスだったのね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">せっかく隠していたのに、おまえが言ってどうする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というより「夢」じゃなかったのか、あれは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、「夢」でも思い出なのか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ゼロ距離射撃って言ったでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というより、特攻だな、あれは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もう二度とあんな無謀な戦術はとらんぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">３０秒…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
店長さんの軽口に合わせて別のことを考えようとしたが、神経が時計に集中して、少しも離れようとしない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目が針に釘付けになっている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君が目を覚ました時、うれしかったって言ってたわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「どうでしょうかね、俺が起きた時、あいつはぐうぐう寝てましたよ。俺の方が起こしてやりました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">２０秒…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「付き添ってたって言ってたけど、どこで寝てたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「病室の床です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「床って…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、ちゃんと寝袋に入ってました。俺が倒れてからそのまま」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">１０秒…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「三日間病室にいたんで、」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">９…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さすがに疲れたんでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">８…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつでも疲れるんだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">７…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">床に栄養ドリンクが</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">６…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">転がっていたのを</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">５…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">４…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの子が起きた時、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">３！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">最初になんて言ってあげたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">２！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ヨダレを拭け。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">１！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君ねえ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ゼロ！！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">針がⅡをまわり、何事もなかったかのように同じペースで秒を刻んでいく。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんの方に向き直った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はこの店に一人で来たでしょうか、それとも連れがあったでしょうか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、何を言っているの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「お願いです。答えて下さい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が真剣だとわかったのか、店長はいぶかしげではあったが、真顔になった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「女の子と二人で来たわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はその子のことをなんと呼んでいましたか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「下の名前で呼び捨てね。『ハルヒ』って呼んでたわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今、おれが電話していたのは誰ですか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だからその、ハルヒちゃんでしょ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そうですね、……おれもそう思います。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目頭が熱くなってきた。人差し指と中指で涙をこすった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どうしたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うれしいんですよ、あいつを忘れないでいられて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その時携帯が鳴った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなた、どんな魔法を使ったんです？ 閉鎖空間が完全に消失しました！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒの精神状態は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「破裂しそうなまでに膨れ上がっていた不安とストレスが完全に消えています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつの気持ちが今は安定してるんだな？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その通りです。 何て言ったんですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おれはおまえを忘れないって言ったんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いつもらしくもなく直球ですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「九三式酸素魚雷はな、直進しかしないんだよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いつもそれぐらい素直だと助かるんですが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言ったじゃねえか、８分以内であいつを救うと！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">と、言いたいところだが、今回はたまたま喫水線下に当たっただけだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「説明してもらえますか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いつもはおまえがしつこく説明してくるんだがな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえがよく言っている識閾下だよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おれはあいつの無意識にプロテクトを掛けたにすぎん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつは俺のことを完全に自分の記憶から削除しようとしていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし、俺が『忘れない』って言ったせいで、俺の記憶から自分のことをデリートできないと思いこんでしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あいつには俺の記憶がないのに、俺にはあいつの記憶がある、この矛盾に混乱し、記憶を削除するということ自体が面倒になったわけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それであいつは改変をやめた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「やっぱり素直じゃないですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「もっともこれよりはるかに単純な解釈もある。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うかがいましょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつが俺の言うことなんか聞くわけがないだろう？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「涼宮さんがあなた以外の人の言うことを聞くとは思えませんが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まぜっかえすな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「『おまえはおれを忘れろ』って俺に言われたから、俺の言うことなんか聞きたくないから、覚えておくことにしたんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「僕としては、あなたが忘れないと言ってくれるなら自分も忘れなくてもいいのだと、涼宮さんが安心したという説を採りたいですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それはないだろうな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それじゃああいつが心の底では、おれのことを忘れたくないってことになるじゃねえか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ……、いいです。とりあえず感謝しますよ。原因があなたにあるとは言え、ね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何で俺が犯人だと決まってるんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたは今まで涼宮さんの危機をことごとく回避させてきました。まあ…いつもギリギリでかわすのは悪趣味だとしか思えませんが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「<span>かわすのは得意だ。<span>もらう</span>のは苦手だが。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それに急降下爆撃をかわす時には、上空の敵機が降下を始めたギリギリで舵を思いっきり切るのがコツなんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">操艦の基本だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">降下を始めた航空機はかわされたとしても爆弾を海に落とすしかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そんなものを抱えて引き起こしをすれば失速するしかないからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかく、これからもよろしくお願いします。忘れないで下さいよ。あなたは将棋の駒でいえば金将。王将を守る最後の砦なんですから。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">プツッと切れた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おまえの金将はいつも砦の役目を果たしてないぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし最後の砦ねえ……。なんで俺があんなに頑丈な女を守らねばならんのだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、さっき自分が言ったことを覚えてる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">また口から出ていたらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それにあの子、君が思うほど強くはないわ。君はあの子の強さしか見ていないし、見ようとしない。それは美点と言えるかもしれないけれど、少なくとも君だけは、あの子に『たったひとりで自分を守れ』なんて絶対に言っちゃいけないわ。わかった？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだかわからないが、返事をしておいた方がよさそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの弱さか……、実はずっと前から気になっていることがあった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いつかあいつの弱さと対決しなくちゃならない日が来るかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もしかしたらそれが今日なのかもしれない…、そんな気がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで、いくつか聞きたいことがあるんだけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ゼロ距離射撃のことなら言いませんよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「つまり、あの子は君にキスされて世界を捨てるのをやめたわけね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「反則技は技じゃありません。ただの反則です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「反則技でもぴたりと決まれば、誰も文句を言わないわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
この人はクリスティーのアクロイド殺しか、スタン・ハンセンの場外ラリアットのことでも言ってるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">スタン・ハンセンか。古いね俺も。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「もうあんな事は二度としません。リスクが大きすぎる。あんな凶暴な奴の懐に飛び込まなきゃいけません。あれは不意打ちだったから成功しただけです。あいつは二度も奇襲を許すような奴じゃありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さっき不意打ち食らわせてたじゃないの。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『おまえがアレ着てるところなら見たいと思うぞ。』」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あれのどこが不意打ちなんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつもそんなことを言っていたような気がするな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あれは天然です。思わず本音が出てしまっただけです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしすぐに言い直しました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱり俺はあいつに軽蔑されたくありません。変な下心を持っていると思われたくありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし『おまえの結婚式に呼んでくれ』って言った後で、あいつが他人のものになってしまうのを見るのは嫌だという本音が出てきて、『やっぱり呼ぶな』って言ったんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「君さあ、自分にキスされて世界に意味があるって思うような女に、なんでそんなにビビッてるの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それは一つの解釈にすぎません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どういうこと？。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あの時のことは言いませんよ、と言いながら結局言わされてるな、俺。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さすが大人だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの場面で事実と言えるのは、</div>
<div style="text-indent:-18pt;margin:0mm 0mm 0pt 18pt;">
<span>１． </span>あいつは世界を捨てようとしていた。</div>
<div style="text-indent:-18pt;margin:0mm 0mm 0pt 18pt;">
<span>２． </span>あいつは俺だけを呼びだした。</div>
<div style="text-indent:-18pt;margin:0mm 0mm 0pt 18pt;">
<span>３． </span>俺にキスされた。</div>
<div style="text-indent:-18pt;margin:0mm 0mm 0pt 18pt;">
<span>４． </span>あいつは世界を捨てるのをやめた</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これだけです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">３と４は、時間的に直後だっただけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">本当に一瞬間後だったけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし一秒後だろうが一時間後だろうが、後ということならおんなじだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつに俺が世界をとりもどさせただとか、あいつにとって俺が世界そのものだとか言う奴もいますが、３と４の間に因果関係があったと証明できるわけではありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんなねえ、１＋１＝２を証明しろって言われてもね…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり『あいつがキスされた後世界を捨てるのをやめた』ということのみが事実であって、『キスされたから世界を捨てるのをやめた』というのは一つの解釈にすぎないわけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「２の、君だけを呼びだしたっていう時点で、それは解釈じゃなくて事実だって証明できると思うけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「俺はこのことについてはずっと考えてきました。そこで一つの有力な仮説を思いつきました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「思いつきね…。どうせ言い訳だろうと思うけど聞いてあげるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉とは比較にならないくらい徹底的にまぜっかえす人だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの時おれは、『飯食う場所もなさそうだぜ』と言いました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はあいつの意識、無意識に『このままでは腹が減る』という情報を刷り込みました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつはスレンダーな体つきのくせに、ものすごく飯を食うんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから君に、『太ったな』って言われて気にしたわけね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「つまり、あいつが世界を捨てるのをやめたのは、夜中に腹が減ったからです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">食欲がそれを忘れさせたのです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここでは飯を食えないということを思い出したからです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺にキスされた直後だったのは、偶然に過ぎません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君さあ、責任逃れをしたいだけなんじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一言一言に茶々を入れる人だ。無視だ無視。とにかく言いたいことを言うぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつらの言っていることも、俺の言ったことも、解釈に過ぎないのは同じです。どちらが事実とは誰にも言えません。もちろんどちらも事実ではないという可能性もあります。人間の無意識を証明することなどできません。我々に出来るのは解釈することだけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、自明の理っていう言葉を知っている？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言葉は知っていますよ。それ自体が明らかにする道理ってことですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うう。無視しようと思ってたけど、返事をしてしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だいいち、君にキスされて……って、あの子が自分で言ってたわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつは『忘れた』って言っていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はさっきからそのことが気にかかっている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">確かに俺はあいつの無意識にプロテクトを掛けた…らしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">現に俺の記憶からハルヒの存在は削除されていない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしあいつの無意識にかかったプロテクトは、「俺の記憶から自分のことを削除できない」ということだけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの記憶から俺の記憶をデリートすることに関しては、何の効力も持っていない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この世界が今から十三分前に出来たという可能性は否定できない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">閉鎖空間が消えたのは、その必要が無くなったからかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あいつの不安やストレスが消え、精神が安定したのは、世界改変が終わったからなのかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺があいつのことを覚えていても、あいつは俺を忘れたかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「今まで覚えていたことの方が驚きです。八ヶ月も前のことですよ。思ったより……執念深い奴だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君みたいな男のそばにいたら、どんな女だって執念深くなるわよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">キスした以上は君はあの子を彼女として扱う責任があるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつはですね、あの時のことを夢のようだと感じています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そうかもしれないわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">誤解しているな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「夢のような出来事だと思ってるわけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それはわかるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これでもダメか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「夢の中の出来事だと思っています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっとズレたわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつがそれを夢だと信じている以上、俺にとってはそれが事実なんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こことは違う空間とはいえ、あの行為を俺が行ったことは現実だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あいつがそれをリアルだと受け取っているなら、俺はなんらかの決断をするべきなんだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしあいつが夢だと信じている以上、あれは夢でしかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それではぐらかしたつもり？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とにかく君が、あの子に対して強い影響力を持っていることは確かだわ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり責任があるんじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">…。髪型変える程度の影響力なんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしそれをここで蒸し返すとややこしいことになりそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それについては、俺があいつの何なのかということと関係があります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">団長様にとっての団員その１</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">団長様の雑用係</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女王様の下僕</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そのほかに俺の肩書き、というか役割があるんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉と長門が言っていた内容を話してみることにした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつが扉でおれが鍵。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これも誤解を受けそうな表現だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「無論、マンションの部屋の鍵を預かってるとか、そういう色っぽい話ではありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当たり前よ…。高校生のくせに。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おれは、あいつという人間そのものの鍵なんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの子の鍵か…。ちょっとくわしく教えて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「これはもちろん比喩ではあるんですが、ただの例えとは言えない部分もあります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつは俺などとはくらべものにならない能力を持っています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こう言っておけば無難だろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒのトンデモパワーについて話すことはできない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おれのことをそう呼んだ連中は、俺を扉を開ける者だとしか思っていないようです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまりあいつの能力を開くためのきっかけでしかないと。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし鍵には開けるのと同じくらい、ある意味それ以上に重要な役割があります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「閉めることね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「鍵は開けるための物でもありますが、閉めるための物でもあります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あいつの能力が暴走して他人を傷つけそうになった時、あるいは今日のように自分自身を傷つけそうになった時、扉を閉じてそれを抑えるという役割があるんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんとなく、ケーキにデコレーションする時に使うアレを思い出した。結局そういうことだよな。名前を何て言うんだろう？ クリーム搾り器っていうのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「本来こういうことは自分自身でやるべきなんですが、あいつは無意識に俺にそれを丸投げしました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もしあいつに対して俺がなんらかの影響力を持っているとしたら、そのせいでしかありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり俺はあいつの、外付けのブレーキにすぎないんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ブレーキがオプションって、どんな欠陥車だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、いま自分で言ったじゃないの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">鍵は開けるより閉める方が大事かもしれないって。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
車に乗る人間にとって、どんな高性能のエンジンよりも、信頼できるブレーキの方がはるかに大切なのよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
エンジンには快適にさせてくれることしか求めないけど、ブレーキには自分と他人の命を預けているの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">自分が世界を捨てることさえも止めてくれることを期待しているということね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そういうことではないんだけどな。あいつはあの時本気で世界を作り替えようとしていた。それを止めてほしいなどとは考えていなかったはずだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「単に比喩として使われた言葉について、細かく考えても仕方ありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ただの例えじゃないって自分で言ったわね。自分で言ったことを何度も忘れるなんて。君、若いのに認知症？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ひどいことを言われたな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「比喩的でない言い方をすれば、ただの役割です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「役割なら役割でもいいわ。なんであの子は君に鍵という役割をさせようとしたのかしら。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それについてははっきりしています。『誰でも良かった。』」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">鍵もニキビ治療薬も同じだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君さあ…、女の子にとって『鍵』ってどういうものだかわかる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さっきのブレーキの例えで言えば信頼性の象徴とでも言えるかもしれませんが、道具であることには変わりありません。一番最初に言ったはずです。あいつにとっておれはモノでしかないと。結局のところ、俺はあいつの意識レベルではイスでしかなく、無意識レベルではフタにすぎません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そして鍵にはもう一つ大事な役割があるわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、中にある大事な物を外の敵から守るという意味もありますが…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「というより、鍵はそのために作られたものだわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">作られた、か…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の、あいつを好きだという気持ちさえも、あいつに作られたものだとしたら…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつが自分を守らせるために勝手に作ったんだとしたら…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">気が滅入ってきた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、これは作られたものなんかじゃなくて、生まれたものだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の中で自然に生まれたものだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そう信じたい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やれやれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「その意味で言うと、フタというよりハコですね。誰だって空き箱に用はありません。ハコより中身が重要なわけです。あいつがいなければ、俺は空っぽの宝石箱にすぎません。だいいち一つの扉に対して、鍵が何本もあるのはよくあることです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">戦艦一隻の護衛には、少なくとも駆逐艦四隻、巡洋艦二隻は欲しいな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから俺はあいつへの影響力を決して自分のために使おうとは思いません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「髪型を変えさせたのは、君にとってはただのイタズラかもしれないけど、あの子にとってはそうじゃないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">意識的に変えさせたわけじゃないんだけどな。アイツ以外には。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「まあ、とりあえずあの子の話はいいわ。さっきのもう一人の子、長門さんについて聞かせてちょうだい。あの子とはどういう関係になるわけ？ まあ、こういう聞き方をしても、君が正直に答えるとは思わないけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
確かにハルヒについて言えないことはぼかしたけれど、嘘をついたわけではないんだけどな。やっぱりそう聞こえるのか。やれやれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「聞き方を変えるわ。正直なところ、君は自分にとって長門さんを自分の何だと考えているわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「最強の護衛です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「護衛？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さっき守り守られるという関係について話しましたが、その時俺は長門とのことを思い浮かべていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はハルヒに守られてはいない。一方的に守っているだけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつが俺のためになにかするとは思わん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺を守るのは長門の仕事だ。長門だけで十分だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この時急に、ハルヒの拗ねた時の顔が浮かんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんでだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだかさっきあいつからこのことについて聞いたような気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">はっきり覚えてないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、多分気のせいだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今はハルヒのことより長門のことだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はかつて命を脅かされたことがあります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どんな風に？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">結合情報を変換された教室、つまり情報制御下に置かれた空間に監禁されて…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">言えるわきゃないよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「刃物で襲われたんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「女に？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人にはなんでわかるんだろう？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まさかインターフェースなのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だとしたらハルヒや長門のことをあまりぺらぺらしゃべったらまずいんじゃ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まさか…図星？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「教えて下さい！ なんでわかったんですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わかっちゃうんだからしょうがないでしょ。と、言いたいところだけどそうじゃないわ。君みたいなことをしていたら、女に刃物で刺されたっておかしくないと思っただけ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よくわからないが、この人はインターフェースではないようだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やれやれ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「その時あいつが間に入って、俺の命を救ってくれました。それ以来何度も俺の命を守ってくれています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
レーザー光線をシールドしてくれたり、超振動性分子カッター（だったかな？）が出ないように中和してくれたり…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、そんなに何度も女に刺されそうになったの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何を言っているんだこの人は。やはり誤解しているな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「二回だけですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一度は本当に刺されたんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「二回あればじゅうぶんよ。その若さでね。やれやれ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やれやれって…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかくあいつがおれを守ってくれていることは確かです。しかしそんなことをずっと繰り返していたせいか、あいつはとうとうストレスがたまりすぎて、異常行動を起こしました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君のせいね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺のせいではなくて、情報統合思念体のせいなんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、俺のせいじゃなくてですね。あいつに仕事をさせすぎた奴がいてですね……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「異常行動って何をしたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">スルーされた……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「俺たちはあいつの部室を不法占拠しているんですが、あいつはまず朝比奈さんを部室から叩き出し…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっと待って。その『朝比奈さん』って誰？ 今までの話に出てきた？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、一応出てきました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これまでの話の中では重要なキャラクターではないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ハルヒを部室から追い出すだけではなく、学校からも放り出して、古泉っていう、これは男ですが、さっき携帯で話していた奴です。ハルヒをそいつとくっつけようとしてたみたいで…、もちろん古泉も追放しました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ええと、君たちはあの子の部室を不法占拠していたわけよね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">過去形ではなく現在進行形なんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの子のしたことのどこが異常行動なの？
話を聞いている限り、当たり前のことをしただけじゃない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この説明だとそうなってしまうな。まあ、本質的なことではないからいいけど。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、そんなことをしそうな奴には見えなかったんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで長門さんは、君も部室から追い出そうとした？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いいえ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり長門さんは、部室から他の人を全て追い出して、一人で君が来るのを待っていたわけね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「結果的にはそうなりますが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そう。結果的にそうなったにすぎない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あの時あいつが求めていたことは、未来人、超能力者、自律進化の可能性といっしょにいることに疲れ果て、インターフェースではなく普通の人間になることだった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺があそこから追い出されなかったのは、俺があの時の長門と同じ、普通の人間だったからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「もしかして最初に部室から追い出された『朝比奈さん』っていうのは、今回ハルヒちゃんにばれてイスにされる原因になった、デートの相手？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんでわかるんだろう、この人は実は未来人で、朝比奈さんの上司か何かなんだろうか…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とは思わなかった。三回目ともなれば俺も学習する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その通りです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「やっぱりね。話の流れからしてそうじゃないかと思ったのよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかくそんなことがあってから、俺はあいつのことをよく見ているようになりました。相変わらず俺はあいつに守られてばかりいますが、支えてやらなくていいとは思っていません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「長門さんは、君にそれ以上の気持ちを持っているかもしれないわね。会ったことがないからなんとも言えないけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人はハルヒともさっき会っただけだと思うが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それともあいつはこういうところにしょっちゅう出入りしているんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあいい。今は長門のことだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「考えすぎたと思いますよ。あいつはさっき俺に心をもらった、……こういうことを言うと誤解されそうなので言い直しますが、喜怒哀楽の感情を持つことができるようになった、と言っていますが、そうではありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっとわかりにくいけど、続けて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつには感情が無いわけではありません。むろん感情の量がひとより少ないわけでもありません。表情が無いだけです。自分の感情を表情に乗せるのが下手なだけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんとなくハルヒのいろんな表情を思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">笑っているハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">怒っているハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">アヒルのような口をして、拗ねているハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">救急車のそばに立っていた、鬼のような顔をしたハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">泣いている…ハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">最後のは、見ないですんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だが、さっきはあいつの泣き顔がありありと浮かんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつは泣くのがヘタそうだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">美人を台無しにして、ぐちゃぐちゃになって泣くだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それだけ表情が豊かだということだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">長門もその十分の一くらいでも表情に出せれば、きっと楽だろうに。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、ハルヒはハルヒ。長門は長門だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">比較してどうなるものでもない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「少なくとも長門は俺と初めて会った時には、感情を持っていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何かあったの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「初めてあいつに助けられた後『また襲われたりするのかな』と俺が言った時、あいつが何と返事をしたか今でも覚えています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あたしがさせない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ちょっと変な気がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつはいつも自分のことを「わたし」と言う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこのセリフは一字一句覚えている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">絶対に間違うことはない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">たしかにあの時あいつは、「あたし」と言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何か意味があるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わたし」は男女ともに使う言葉だが、「あたし」は女だけが使う言葉だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">考えてみればあいつが女言葉を使っているのを聞いたことがない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あの時だけは自分が女だと宣言しようとしていた…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">考えすぎだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒたちといっしょにいて俺が得た教訓は、「深読み禁止」ということだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いくら考えたとしても、それを飛び越えるような事態ばかりが起きる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">見た物聞いた物を素直にとらえるのがいちばんいい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつはあの時、自分の意志で行動することを宣言しました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">自分の気持ちで進む道を選びとったんです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だからあいつは俺にとって最強の護衛なんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その言葉を素直にとれば、また別の意味が浮かんでくると思うけど…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">素直にとればって…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「深読みはしません。とにかくそんなことがあって、俺はどういう形でもいいからあいつの役に立ちたいと思っています。それに、あいつの命を一度だけ救ったことがあります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「具体的に。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつを消そうとしていた奴らがいました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「消すって？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「消す、としか言えません。俺はたまたま弱みを知っていたので、そいつらを脅しました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「弱みって？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言えませんよ。言ったら弱みじゃなくなるじゃないですか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なるほどね。さっきから君が言っている言葉の中で、唯一納得できる回答だわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">またひどいことを…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「たまにはいいことするじゃないの。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ありがとうございます。人の命を助けたことなんか、今までに二回しかないですけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「一回でもじゅうぶんだわ。君は長門さんに何回も命を助けられたそうだけど、一回も百回も同じよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
長門さんがいなければ今の君はなかったのと同じように、君がいなければ今の長門さんはなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">命は一度失えば、それでおしまいだもの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それにさっき、マッチポンプとはいえ、ハルヒちゃんを救ったのはまぎれもない事実だしね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">マッチポンプって……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それに君がいなければ、あの子は世界を捨てていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だからお説教はここまでで勘弁してあげる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ただし、条件があるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何ですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒちゃんを、もう一度ここに呼び出しなさい！」</div>
<p> </p>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここは、男にとって最も居心地の悪い場所の一つだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">と言われたら、あなたはどこを想像するだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女子校の入学説明会？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">間違って乗ってしまった女性専用車両？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一人で入ってしまった、どう見てもカップル御用達の喫茶店？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そのどれでもない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店内には男の客など俺以外に誰もいない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そりゃそうだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">誰が好きこのんでこんな恐ろしい所に入りたがるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
店内の落ち着いた照明、計算しつくされたかのように巧みに配置された商品、そして何よりもキャッシャーの前に貼られた数々のクレジットカードのロゴマーク。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
これらの全てが俺に、「場違いだ」「おまえなんかの来るところじゃない」「さっさとここから出ていけ」と全力で訴えている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そう。ここはブティック。ブティックだぞ、ブティック。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">量販店でもない、デパートの婦人服売り場でもない。ブティックだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の人生の最強の敵の一つ、ブティックだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はブティックが恐ろしい。朝倉の次ぐらいに恐ろしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">脇腹にめり込む大型アーミーナイフの次ぐらいに恐ろしい！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん。自分でも何を言っているのかわからない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とにかく、こんな所にいてもちっとも楽しくない！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっき「落ち着いた照明」と言ったが、はっきり言って俺には「暗い」としか思えん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">わざと店内を暗くして女どもが鏡を見た時に勘違いさせようとしているのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
計算しつくされたかのように商品が配置されているとは言ったが、きっと世間ではそんな風に言うだろうと思っただけで、俺には品ぞろえが少ないだけのようにしか見えない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それに何よりもあのキャッシャーのロゴが俺の恐怖を駆り立てる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は金を払わんぞ。払わんぞ。払わんぞ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「バッカじゃないの？
ここはあんたの小遣いで買えるものなんか何一つ置いてないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どうやら声に出ていたらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さりげなくひどいことを言われたような気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし金を使わなくてもいいのは助かるな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あんたがビンボーなのはよく知ってるから、そんなみっともないこと言わないでちょうだい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">誰のせいで俺が貧乏になったと思ってる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もっともそれでなくてもうちはもともと裕福なわけではないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「後でいつもの喫茶店に寄るから、お金だったらそこで出してね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が金を使うのは規定事項なのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺の人生最大の敵のもう一つ、涼宮ハルヒはにっこりとわらいながら試着室に消えて行った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつはこんな所に来てもまるでビビッた様子を見せないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こういう所にしょっちゅう出入りするほど家が裕福なのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なら家まで俺はハルヒに負けているということになる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、こいつに何かで勝てるとは思わないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もっともこいつが初めての場所に来て気後れするとは思えないけど。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしなぜ俺はこんな所にいるのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはまあ、罰ゲームの続きだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が朝比奈さんの仕事を手伝いに一緒に出かけたことがハルヒにばれた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
待ち合わせて一緒に出かけただけだが、はたから見ればデートのように見えたかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">断じてそんな浮いた話ではなかったわけだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">罰ゲームの内容？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">思い出したくないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしハルヒもこういう所で女の子らしい洋服を買いたがるのかね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
女の子らしい洋服といえば朝比奈さんか…。ってあのときの朝比奈さんは、女の子っぽいというよりカエルっぽかったな…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ああっ、思い出してしまった！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうねえ、まずあんたは、『団のマスコット並びに学校のアイドルを占有した罪』、それから、みくるちゃんは、『団長専用雑用係を勝手に雑用に使った罪』ね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「おい、いつ俺がおまえ専用の雑用係になったんだ？ 俺はＳＯＳ団の雑用係だろうが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なら、『団の備品を団長の許可なく勝手に占有した罪』。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえの許可さえあれば誰でも俺を占有できるのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の人権はどうなる！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「……許可が出るとは思えません…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「みくるちゃん、何か言った？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いえ、何も言ってません！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふうん、反省が足りないようね…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いえっ、反省しました！ ごめんなさい！ もうしません！ 許してください！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「なに青くなってるのよ。なんだかアマガエルみたい。そうだ。ぬいぐるみの刑ってあったわね、昔のマンガに！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">聖マッスルかよ！ って昔すぎるぞ。おまえは本当に俺の同級生か？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おい、あんまり朝比奈さんをいじめるな！ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだったら俺が朝比奈さんの分もまとめて罰ゲームをやってやるから…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">朝比奈さんを不気味な笑みでみつめていたハルヒが、いきなりキッとにらんできた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今回に限っては、あなたは朝比奈さんをかばうべきではありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今回は明らかに朝比奈さんに非があります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">他人のモノを勝手に使えば咎めを受けるのは当然でしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うるさいぞ古泉。おれはハルヒの所有物なのか？ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、モノみたいに扱われていることは否定はせんが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうよ。あんたのモノは全てあたしのモノ。だからあんたの時間も全てあたしのモノ。あんたの全てがあたしのモノ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ひどい言われようだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だからみくるちゃん、一週間部室ではずっとカエルさんになってなさい。それからあんたは…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
その後朝比奈さんはカエルの着ぐるみを着せられ、カエルの手ではお茶をつぐこともできないので、ただ黙って座っていたらしい…。「らしい」というのは、俺の位置からでは長門の足しか見えなかったからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「やっほー、みくるいるかいー！数学のノートを…、ってなんだいその格好は…、ぷぷっ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
いきなり入ってきた鶴屋さんが、いきなり笑いだした。部室棟の外にまで響きそうな声で笑った。大爆笑した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふええっ、鶴屋さん、たすけて下さい…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さんざん笑った後気がすんだのか、こう言っているのが聞こえてきた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、なんでそんな格好してるんだい？ あらたな趣味に目覚めたにょろ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「罰ゲームですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ここからは見えないが、古泉がキザッたらしく前髪をかき上げている姿が浮かんだ。うう、気持ち悪い。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何の罰ゲームにょろっ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「朝比奈さんが涼宮さんに隠れて、彼とデートしていたのがバレたんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから、デートじゃねえって！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「たすけて下さいよう。涼宮さんがものすごいやきもち焼きなのは知ってましたけど…。まあ、去年の五月に比べればずいぶん良くなってはいます。余裕が出てきたっていうか…。全部キョン君のおかげです。だから、ちょっとぐらいのことでは動揺しないで、もっとどっしり構えていてほしいんですけど…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ハルにゃんやさしいねえ。その程度のことで許してくれるんだあっ！ だからあたしは今回のみくるには同情しないよっ。で、肝心のキョン君はどこに行ったんだい？ まさか、部室から追放されたにょろ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「涼宮さんが彼を追放するわけがないでしょう？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「鶴屋さん、助けて下さい…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
朝比奈さんを助けなかった鶴屋さんが俺を助けるわけはないが、思わずこう言ってしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">手の平が痛い。膝が痛い。腰が痛い。背中が痛い。首が疲れる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なぜ俺は団長机のすぐ後ろで四つんばいになっている？ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なぜ俺の背中には女の子一人分の重さがのしかかっている？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何なんだ、『一週間連続一日一時間団長専用椅子の刑』ってのは！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「イスがしゃべるなっ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ゴンっといういい音を立てて俺の頭が鳴った。くっそー屈辱だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「キョン君～、みくるも言ってたけど、ハルにゃんはものすごいやきもち焼きにょろ？ ハルにゃんはキョン君にはめがっさ甘いから、今回はこれで済んだとしても、次はないって肝に銘じるにょろ。浮気亭主には死を！ってね。今度似たようなことをしてハルにゃんに見捨てられても知らないよっ。わかったかな～、少年！ 返事はっ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はい…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それだけ言うと、鶴屋さんは風のように去っていった。数学のノートはいいのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしなんだ、やきもち焼きってのは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「知らないわよ。何よみんなしてあたしをそんな風に言って…。あたしは全然悪くないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ああそうか。ハルヒは朝比奈さんと二人で出掛けてみたかったんだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
こいつはクラスの女子とはたいしてうち解けていないが、ＳＯＳ団女子とはなんらかの絆を感じているらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">中学時代完全に孤立していたという、こいつにとってはいいことなのだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もし万一俺と朝比奈さんが付き合ったら、（そんなことは絶対にあり得ないが）俺に朝比奈さんを取られてしまうとでも思ったんじゃないだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">杞憂だが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もしそうだとしたら、朝比奈さんにまで罰ゲームを課すのは逆効果だぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">頭が冷えたころを見計らって言い聞かしてやらないといかんな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあいい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
今度古泉と相談して、ハルヒと朝比奈さんが『デート』できるようにセッティングしてやろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そうすれば、今回の罰ゲームもうやむやになるかもしれん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ちなみに、デートを『 』でかこったのは百合っぽいっていう意味ではないという表現だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さすがにこいつでも、女の子に恋する不思議までは求めないだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の脳内に感謝しろハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、こいつが男に恋するとも思えんが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あたしちょっと、トイレに行って来るからね。だけど古泉君、みくるちゃん、特に有希！ これは団長専用椅子なんだからあんたたちは絶対に座っちゃだめよ。わかった？！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
古泉に座るなと言ってくれたのは有り難いが、他の二人は言われなくても座らないと思うぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかりました、涼宮さん。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふええ…、わかりました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何よ有希、不服なの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">｢……不服。｣</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おいっ！ おまえも俺の上に座りたいのか？ おまえまで俺をモノ扱いする気か？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だめっ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どうしても？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どうしてもだめっ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「団長命令？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「団長命令っ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ならばリコールの手続きを…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「絶対にダメなの！ わかった？ 返事は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「…………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「へ・ん・じ・はっ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「…………………了解した。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「じゃあいいわね、あたしちょっと席を外すから。古泉くん、有希がキョンに変なことをしないように…、じゃなくてキョンが有希に変なことをしないように、しっかり見張ってて！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒが出ていくと、俺は首を上げて長門の顔を見た。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">本を膝の上に置いておれをじっと見ている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん、軽蔑のまなざしってやつだなこれは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ほとんど無表情だが俺にははっきりとわかる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これほど感情を表に出すことが出来るようになるとは、成長したな長門。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしなんでおまえに軽蔑されなきゃならんのだ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「変なことをしているのは、……あなた達。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何を言ってるんだ、おまえは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたは、口ではつらいと言っているが、この罰を受けることに少なからず喜びを感じている。………変態。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おいっ！ おまえに「変態」とか言われると、ものすごく傷つくぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなたはわたし達に隠れて朝比奈みくるとデートをした。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だからっ、デートじゃねえって。何回説明したらわかるんだ。おまえもハルヒも…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたが、今ここに居られるのは誰のおかげ？ わたしはあなたの命を助けたことがある。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そう言われると何も言えなくなっちゃうけどな。でもこの状況でそれを言うのは卑怯じゃないか、長門さん…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わたしが今、ここに居られるのもあなたのおかげ。別に恩を着せたいわけではない。ただ、あの時の約束を忘れたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あの時の約束と言われてもな。おまえに命を助けられたことは数限りなくあるからいつの時のことか思いだせん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わたしは涼宮ハルヒに負けないくらいのやきもち焼き。それをあなたは去年の十二月に思い知ったはず。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ってそれは、俺のせいじゃなくて、おまえの親玉がおまえに仕事をさせすぎたからだろうが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたが涼宮ハルヒに与えたものと同じものをほしいとは言わない。ただ、Ｓｌｅｅｐｉｎｇ ｂｅａｕｔｙ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「また図書館に。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">長門はそれだけ言うと本に視線を落とし、何を言っても返事をしてくれなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
結局俺の「ハルヒと朝比奈さんとのデート」案は古泉によって一瞬で却下され（なんでだ？）、あの屈辱の罰ゲームは一週間連続して行われることとなった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから、最終日ついあんなことを言ったとしても、許されるはずだろう？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なによ、間抜け面。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ん、ああハルヒか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『ああハルヒか』って、何を考えていたわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「屈辱の過去について回想していた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「バカなこと言ってないで、あんた何か言うことはないわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あの俺の、苦難の一週間を「バカなこと」ですませるのか、おまえは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、「バカなこと」でないとは言わないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室から出てきたハルヒは、フランス人形のような格好をしていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ん、まあ、いいんじゃないか…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「他には？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『ゴスロリ』ってのは、『ゴシック・ロリータ』の略だよな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんで『ゴシロリ』じゃなくて『ゴスロリ』なんだろうな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「知らないわよ。店員さんにでも聞いたら？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんか怖くて聞けないんだよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それだけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ああ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒは店員さんと何か内緒話をしていたようだったが、再び試着室に消えていった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">…本当にそれを買うつもりだったのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">回想にもどるぞ。最終日のことだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
一週間フルに罰ゲームを課せられたのは俺だけで、朝比奈さんは前日に許され、制服を着ていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、俺としては朝比奈さんが早めに許されたのはいいね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">朝比奈さんが楽しそうにしゃべっているのを聞いていると、元気になれそうな気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そのおしゃべりの相手がハルヒや長門だけならともかく（長門は話しかけられてもほとんど無言だが）、もう一人が古泉の野郎だというのは気に食わないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし団長専用椅子は団長以外と話すことは許されないのだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あと五分くらいで下校時間になる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もうすぐ「江戸川乱歩の世界」的な人間から普通の人間にもどれる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはうれしいけど、こいつにちょっとだけイヤミを言いたいな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なあ、ハルヒ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何よ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「一週間連続しておまえのイスになってわかったことがあるんだがな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なに。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんというか、一日目からだんだん変化していくものが観測できたんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから何よ。もったいぶらずにさっさと言いなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえ、ふとったな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">部室の喧噪が一瞬で停止した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんでだ、なんでみんなドン引きしてるんだ？ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
この姿勢からは見えないが、あわあわしている朝比奈さんと、目を見開いている長門と、笑顔を引きつらせている古泉のハンサム顔が幻視できた。最後のは余計だ。忌々しい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ていうかそれどころじゃない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">確かに、若い女性に男が言うべきセリフじゃなかったかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もし俺が万年係長で、新人ＯＬにそんなことを言ったらセクハラで人生を棒にふったかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし俺は、棒にふるほどの人生さえも持っていないただの高校生であり、同級生にこの程度の冗談を言っても許されるのではないか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
というより、これは「男」が「女」に言うからセクシャルハラスメントなわけだ。こいつが俺のことを「男」として意識しているなんてことはない。絶対にない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「みんな、気を回しすぎだ。俺とハルヒの仲なんだぞ。かえって意識されると調子がくるっちまう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その証拠に、こいつは今でもおれの背中に乗ってるじゃないか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから大丈夫だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">と思ったらハルヒがピョンと跳び上がって俺の上からどいた。何なんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
何となく立ち上がりづらい。俺は四つんばいのままで言った。何とかフォローしないとまずいよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「いや、そういう意味じゃなくて、多分おまえは着やせするタイプで、だいたい俺はほとんどおまえの制服姿しか見てないだろう？ だからどう見てもおまえが太っているようには俺にも見えないわけで。だから制服を着ていればそんなふうには誰にもわからないわけだ。まあ、俺にどう思われてもおまえは気にしないだろう？ だいたいおまえは自分の外見とか、女として見られるとかそういうことにもともと無頓着な方だろう、特に俺に対しては。だからさっきの発言は許してくれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだかグダグタな言い訳だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「いやあ、お二人はこの程度ではセクハラとは思えないような近しい仲だということですね。わかります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉が余計なことを言った。おまえはしゃべるな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「まあ冬なわけで、誰でもきぶくれするわけだ。だけどさっきも言ったように制服を着ているとやせてみえるわけだ。だからおまえは何も気にする必要はないんだ。だから俺がどう思おうが、おまえのことを太っていると思う奴は俺以外は誰もいないわけだ。だから気にするな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「キョン君、古泉君…、何のフォローにもなっていません。特にキョン君の言い訳は最低ですっ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
えーと、朝比奈さん？ あなたはつい昨日まで俺と一緒にこいつに虐待を受けていたんじゃ…。それでもハルヒの肩を持つんですか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………馬鹿。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おおっ、長門まで。あの発言はそんなにまずかったのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、確かにあたしはあんたのことを男として意識しているわけじゃないわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そーだろ、そーだろ。だからさっきの発言は許せ。別にセクハラじゃないんだ。俺は別に変な風におまえのことを意識しているとかじゃなくて…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱり俺はこいつには軽蔑されたくない。中学時代こいつがことごとくフッてきたという、こいつの外見だけに食いついてきた奴らと一緒にされたくはない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり、だ。制服というのは学生の正装で礼服の一種だ。性を感じさせないように出来ている。まあ、いつもお互い制服を着ているわけだから、やっぱり男女というよりは学生同士として感じているんじゃないか。要するにだ、俺はおまえに対して変な下心を持っているとかそういうわけじゃなくてだなあ…ってこれは当たり前か。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「キョン君、もうだまってて下さい！ 自分が何を言っているかわかってるんですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ええと、確か「ふとったな」と言ってしまった失敗のフォローとして、セクハラじゃないと。なぜなら異性として意識しているわけではないからだと。うん、論理的だ。破綻もない。飛躍もない。完璧だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だからさっきの発言は、どうせおれとおまえの仲なんだから、お互い男女として意識しているわけじゃないんだから、まあ、男どうしか女どうしで言い合ったものだとして受け取ってくれ。頼む。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よし、結論が出たぞ。あとは審判を待つのみ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「やっちゃって…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「自己韜晦は身を滅ぼす。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「これは僕にもどうにもできません…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うるさいぞ、おまえら。審判を下すのは神様だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さっきも言ったけど、あたしはあんたを男として意識しているわけじゃないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そりゃそうだろう。しかしはっきりそう言われると傷つくな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
こいつは俺に向かって「おまえは男じゃない」って言ってるわけか。胸がキリキリ痛むのはなんでだろうね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そして、あんたもあたしを女として見ていない。当然よね。そんな風に見られたら迷惑だわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしそうすると、俺はこいつに向かって「おまえは女じゃない」と言ってしまったわけか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしハルヒの声は平静だ。嘘をついているようには聞こえない。大丈夫だろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし今はこいつの顔は見たくない。見てしまったら絶対に後悔するような気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">卑怯なような気もするが、俺は四つんばいのままでいた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だけど、団長を辱めるような発言は許しがたいわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さっきのは嘘だよ。俺の背中が知っている。おまえはふとってなんかいない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あ……ありがと。じゃなくて、今更遅いわ。不敬罪には罰を与えるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">審判が下った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やはり神様は非情だった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">神様は俺のことが大嫌いなんだ。きっとそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「キョン君……。あんまり神様をもてあそぶとバチがあたりますよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どんなバチがあたるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「明日、団長はお洋服を買うために街に行きます。だからキョン、雑用係としてついて来なさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">は？ 今の話のどこに、洋服を買いに行くという要素があったか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺が「ふとった」と言ってしまったとか、お互い異性として意識していないとか、そんな話だったな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なぜ洋服が出てくるんだ？まあ、こいつの言動のあちこちに飛躍があるのはいつものことだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何を言っているんです？ 今のあなたの発言を受けての、論理的な帰結ですよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし涼宮さん、頑張りましたね…。去年の五月だったら大騒ぎになっていたところです。やはり成長されました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そうなのか？ まあこいつはハルヒが何をしても全肯定する奴だから聞き流しておこう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というより、頑張ったのは俺じゃないのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「まあ、いいけど。洋服を買いに行くんだったら、朝比奈さんについていってもらったらどうだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その方が有益だと思うぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はこの間古泉に却下された「ハルヒと朝比奈さんのデート」案を思い出していた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「キョン君……、死にたい？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">死にたくないです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">っていうか、朝比奈さん以外の人物から殺気のようなものを感じるぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「じゃあ長門、行ってやれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、長門がハルヒにファッション面でアドバイスできるとは思わないが、俺が行くよりはマシだろう。美少女二人なら店員もはりきって選びそうだし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「正気？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はいつでもほどほどに正気のつもりだ。……じゃなくて、おまえ今なんて言った？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わたしはあなたの正気を疑っている。もしあなたが発狂したのだとしたら、必要な処置をとらなければならない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
言い過ぎだ！ あと古泉、おまえには振らないから心配するな。なんだか殺気が強くなっているような気もするし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当たり前です……。あなたではなく僕の方が過労死してしまいます……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉は無視し、ハルヒの顔を見ずに言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒ、団長命令に従う。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室のカーテンが開く。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒが出てくる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今度は子供服を着ていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">青と白を基調とした子供服だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「フン、何を考えてたわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「虐待の記憶について回想していた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なにそれ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">｢地雷がどこに埋まっていたかを真剣に考えていた。｣</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「バッカじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「神に見放された男について……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どう思うわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">旧約聖書の「ヨブ記」について議論したいわけじゃないよな、こいつは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いいんじゃないか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それ以外に何かないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ロリータっていわれれば誰でも思い出すのはロリータ・コンプレックスだよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
『ロリータ』ってのはロシアの作家ナビコフの、同名の小説の登場人物からきているらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">読んだことなどないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">邦訳されているらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">読みたいとも思わないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
で、コンプレックスというのはユングが初めて唱えた概念で、心理的な複合体のことを言う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">エディプス・コンプレックスとか、エレクトラ・コンプレックスとかいうアレだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何がアレなのかは知らんが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">多分、ロリコンっていうのは心理学用語じゃなくて、俗語なんだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしロリータ服っていう言い方があるっていうことは、「ロリータ」って言葉もマイナスイメージだけじゃないってことか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、まあ、とにかく、いいと思うぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ジト目でにらむな。おれが語彙も少ないし、不器用な人間だってことも知っているだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『スイート・ロリータ』もやっぱり『スイロリ』って略すのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
乱暴にカーテンを閉めるな。それはオンボロ校舎の部室のドアじゃないんだぞ。壊したら自分で弁償しろよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこの居心地の悪さは何なんだろうね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだか店員からの怒りのオーラみたいなものを感じるんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">客にプレッシャーを与えるのはよくないと思うぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、俺がこの店に金を落とすわけじゃないんだから、客とは言えないな。ただの冷やかしだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">多分一刻も早くこの店から出ていってほしいに違いない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり俺がここにいるのは場違いだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それを承知であいつは俺をここに連れてきたわけだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから罰ゲームなのか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし招かれざる客っていうのはつらいもんだね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつが着替えている間にいなくなっても許されるかな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「許されませんね、絶対。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">また口から漏れていたみたいだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
振り返ると背が高い美人がいた。さっきから怖い空気を醸し出してる店員だ。マヌカンっていうのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">敬語なのになにやら威圧感を感じる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">森さんを思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、かくれんぼの鬼になったのがつまらなくて、そのまま帰っちゃったみたいなことになるだろうな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">多分そういうことをしたらその子は二度と遊んでもらえなくなるだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もっとも俺はこいつと楽しく遊んでいるわけじゃなくて、罰ゲームを課されているわけだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それで今帰ったら、罰ゲームをさらに加算されるんだろうな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
だけどこいつは俺にどんなひどい罰を与えたとしても、二度と遊ばないとだけは言わないだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつは相手の都合なんかどうでもいい、一度腕をつかんだら絶対に離さない奴だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だけどそれに甘えるべきではありませんね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん、なんでこう口から漏れるんだろうな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし、鶴屋さんもハルヒがおれに甘いって言ってたな。どこが甘いんだろうね。こんなに虐待を受けているのに。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱりこいつは、昨日みんなの前で、「おまえ、ふとったな」と言ったことを根に持ってるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱりアレが地雷だったのか？ まあ、どこに地雷が埋まってるかさっぱりわからない、変な奴ではあるが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか店員だけじゃなく、ここにいる女性客まで敵にしたような気がする。そんな雰囲気がするな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">早く帰りたいんだが。早く出てこいハルヒ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ぶつぶつうるさいわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんでおまえがキレる。居心地が悪い思いをしているのは俺であっておまえではないんだぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「もう一回『ふとった』と言ったら………………………………………、グーで殴るわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うん、それいいんじゃないか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おれは早く帰りたい一心で、瞬間的に反応してしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんた、マゾ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「違う。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">王道だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">白いワンピースに、若草色のカーディガン。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いいと思うぞ。うん、それがいい。絶対いい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これは軽そうだし、かさばらないだろうな。荷物持ちの立場としては大変助かる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたさあ、さっきからやる気があるわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、罰ゲームにやる気も何もないと思うんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さっきから、どうでもいいような顔して、『いいんじゃないか』とか、『うん、それがいい』とか…。あんたが古泉君みたいに女心をくすぐるような、気の利いた台詞を言えるとは思えないけど、それにしたってもっと言いようがあるんじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だったら古泉についてきてもらえ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、それじゃ罰ゲームにならないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">絶対にするな。絶対にあいつとここに来るなよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というか、ここだろうがどこだろうが、絶対に二人で来るなよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なにしろ罰ゲームにならないからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふん、あんただって同じじゃない。何よ、みんなしてあたしのことばっかり…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんの話だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかく！ あんたは今まで試着した洋服についてどう思うわけ？ これがこういう意味でいいとか、あれがこういう意味でいいだとか、もっと具体的に言いなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どれでもいいんじゃないか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はあ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえはとびきりの美人だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「な…何よ、いきなり。あんたなんかにそう言われてもうれしくなんか…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ないことはわかっている。おまえはそういうことは言われなれているだろうからな。好きな男にでもそう言ってもらえればうれしいだろうが、おれは好き嫌い以前におまえに男としてさえも見られていない。たしか昨日そう言ってたよな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何よ、あんた拗ねてんの？ あんたがそう言ったんじゃない…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「繰り返すぞ。おまえはとびきりの美人だ。さっきと同じ言い方になっちまったな。語彙が少なくてスマン。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはともかく、おまえを見たら、誰でもそう思うだろう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おれは振り返ってさっきからおれを脅しているとしか思えない店員さんに言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ここまではいいですね？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そのことについては誰も否定しないでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おお、初めて肯定的なことを言われたぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「で、とびきりの美人のおまえは何を着ても似合う。誰でもそう思うだろう。だったら何を着てもいいはずだ。どれでもいいはずだ。誰でもそう言うだろう。だからあとは財布と相談して決めればいい。というより、早く決めてくれ、頼むから。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ミエミエのお世辞でごまかそうとするんじゃないわよ。普段はちっとも褒めてくれないくせに…。褒めたって何も出ないわよ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「お世辞って…。ああ、おまえが美人だって話か。おれに褒められてもうれしくないって、当たり前の話だ。お日様に『あなたは明るいですね』と言ってお日様が喜ぶか？ おまえが美人だっていうのはお日様が明るいっていうのと同じ客観的な事実であって、一メートルの定規を誰が見ても一メートルに見えるのと同じだ。定規に『あなたはちょうど一メートルですね』と言ったって絶対に喜ばないだろう。つまり俺の評価基準とは何の関係もない。だいいちおまえを褒めておれが何か得することでもあるのか？ 褒めさえすればおまえが自分の荷物を自分で持つって言うんだったらいくらでも褒めるが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたさぁ、ケンカ売ってる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はあ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「この短い会話の中で四回も『誰でも』って言ったわね。あたしは誰でも思うようなことを聞いてるんじゃないの。『あんたが』どう思ってるかを聞きたいわけ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ええっと、まさかとは思うが、おまえは俺の好みを聞いているのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「……くっ。あんたの好みなんか聞いても何の参考にもならないけどね。まあせっかくそこにいるんだから聞いてあげなくはないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おかしいぞ。こいつがおれに意見を聞いているのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつがおれの言うことなんか聞くわけがないんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だいたい試着室の前で彼女の着替えた姿を見てアレコレ言うのは彼氏の役割だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
おれはこいつの彼氏ではない。断じてない。モノだ。道具だ。所有物だ。昨日まではイスだった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">わかったぞ。罰ゲームの続きだったな、これは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">要するに俺に恥をかかせたいわけだな、コンチクショウ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が見当違いなことを言うのを待って、すかさずバカにするとかそういうことか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし、これ以上ここにいるのはさすがにつらい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が恥をかかない限りここから出ることはできないわけか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しょうがねえ。地雷原に突入するか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あのな、ハルヒ。俺がおまえの服装なんかいちいち見ていると思うのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はあ？ あんたやっぱり、ケンカ売ってるわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺がおまえの服装を見ていたのは、孤島に行った時と市民プールに行った時ぐらいだ。まああの時も、「服装」を見ていたわけではないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺がいつも見ているのはな……、おまえの『表情』だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なっ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何か言いかけて黙り込むな。試着室に逃げ込むな。調子が狂うだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしこれを言い終わらない限り罰ゲームも終わらないわけだな。しょうがねえ、続けるぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「初めの、ゴシロリ、いやゴスロリか。あれを着て出てきた時のおまえの表情だが……、長門の真似をしているのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
確かに服装が人間の内面に影響を与えるっていうのはあるだろうが、いくらなんでもヒドすぎる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺が『ゴスロリってなんかフランス人形みたいだな』って言ったのを気にして……いるわけはないが、本当にフランス人形になろうとしてどうする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか無表情を装っているのか、それでも人形みたいに笑おうとしているのかワケがわからん。正直不気味だぞ。そんなのちっともおまえらしくない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
試着室でゴソゴソ着替えている音がするな。まあこっちもおまえの顔を見ない方がラクだ。むちゃくちゃ恥ずかしいんだから。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それで、次の子供服みたいな奴、スウィートロリータか。それを着ていた時のおまえだが、無理矢理あどけなさを作りだそうとしているのがバレバレだ。おまえは朝比奈さんになりたいのか？ それでいて照れ隠しなのかしゃべり方がまるっきりいつもと同じなのが聞いていて寒い。あざとい。不自然だ。早くカーテンを閉めてくれって本気で思ったぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">着替え終わったようだな。なんで出てこないんだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「聞いてるか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「続けなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり続けろっていうのか。うう恥ずかしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さっき着ていた白のワンピースだが、これは王道だ。これが嫌いだっていう男はいないだろう。しかしそれを着ているおまえを俺が好きかっていうと、そうではない。何だか男性の庇護欲をそそる服装っていうか……、俺の偏見かもしれんが。口調こそいつものおまえだが、それでもあれを着ている時の表情はそれを演出しているかのように見えた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「何言ってんのよ！ なんであんたみたいな弱っちい男に守ってもらわなきゃならないのよ！ あんた腕相撲でも三回に二回はあたしに負けるじゃない！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何を言い出すんだこいつは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんで女ってのはこう強い弱いにこだわるんだろうね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やれやれ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「弱い男が強い女を守って何が悪い。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだか店じゅうの女どもがギョッとしたようにこっちを見た。何なんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あのな、だいたい弱ければ守ってもらえるなんて考える人間がこの世にいるのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">少なくともおまえは絶対にそんなことは考えない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そういうのがおまえらしくない、って言ってるんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
弱ければ守られるんだったら、道ばたのアリさんを本気で守る奴がいっぱいいたっておかしくない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はあの長門のことを思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">文字通り男どもの庇護欲をそそる、内気で、儚げで、今にも折れてしまいそうなあいつ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だけど俺はそんな長門より万能宇宙人の、世界最強の長門を選んだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱりあいつは強くあってほしいと思った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だけどあいつを守らなくてもいいとは思わない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつは異常動作を起こさなければならないほど追いつめられていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だからあれ以来長門のことは気づかっている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
いつも守られている俺がこんなことを考えるのはカタハラ痛いだろうが、それでもあいつを守ってやりたいと思う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今、有希の名前が聞こえたような気がしたけど？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その長門じゃない。戦艦長門だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はぁ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここであいつの名前を出すのはマズイ気がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「長門の主砲が４０センチだっていうことは知っているな。建造当時世界最大の砲を積んだ高速戦艦だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり洋上では世界最強の存在、まさにバケモノだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか胸がチクリとした。長門、おまえのことをバケモノと言っているんじゃないぞ。あくまでも戦艦だ、戦艦。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それでも長門が出撃する時には単独じゃない。必ず巡洋艦と駆逐艦の護衛がつく。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">無論巡洋艦や駆逐艦は長門より強いわけじゃない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それでも自分たちよりはるかに強い長門を守るわけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">駆逐艦は潜水艦を爆雷で攻撃するため。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">巡洋艦は駆逐艦では航続距離が足りない場所まで随伴するため。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には身を挺して長門に発射された魚雷の射線に割り込むため。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何故か？ 自分たちより長門の方に価値があると考えるからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
おれがおまえと並んでいるとき車道側に立つのは、俺がおまえより暴走車両に強いからじゃないぜ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もっとも駆逐艦や巡洋艦が戦艦より弱いかと言えば必ずしもそうとは言えない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはある兵器の開発によって決定的になった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">日本海軍の秘密兵器。蒼白き殺人者、九三式酸素魚雷だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">酸素魚雷はもともと雷跡を消すために開発されたものだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それまで使われていた圧縮空気ではなく酸素なら水に溶け込みやすいからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そして圧縮空気より酸素の方がより激しく、強い力で燃焼する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その特徴によって思わぬ副産物が生まれた。駛走距離だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">最大射程４万メートル。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
長門の主砲は４０センチ。大砲の射程距離は口径１センチにつき約１０００メートル。つまり最大射程４万メートル。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もちろん実際の戦闘では互いに近づかなければならないわけだが、理論上は全くの互角だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、戦艦といえば日本人はほとんど大和を思い出すが、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ここで４６センチ砲を持つ大和ではなく長門を例に出したのはこのことを言いたかったからだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだか言い訳がましいが、この調子ならごまかせそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり日本海軍の戦前の作戦構想、漸減作戦では、水雷戦隊の夜襲攻撃が考えられていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その長射程を生かして敵戦艦を雷撃する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
雷撃が砲撃より効果的なのは喫水線下、つまり装甲がされていない部分を攻撃できるからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
波浪によって艦がよほど上下していない限り、砲弾は頑丈な装甲甲板にしか落ちることはない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
さらに決定的なことだが、砲弾は爆発してもその爆風は上空に向かって拡散するだけだが、魚雷は水中で爆発する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
爆風は艦のまわりにある海水、つまり水圧によって押し戻される。つまり全ての衝撃が艦内になだれこむ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">撃沈するためには砲撃よりも雷撃の方が効果があるのはそのためだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし水雷戦隊が突入すれば必ず戦艦を食えるというものでもない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">食えるのは、長門が丸裸でいるときだけだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ん？ いま何かマズイことを言ったような気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、そうじゃなくて、彼女が裸でいるときだけだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ん？ これでもマズイ。っていうより、ほとんど同じだな、こりゃ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか目の前にいる女性客の眼が怖いような気がする。そうだよな、普通の女性は軍艦を「彼女」と呼ぶことなんか知らんよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言い直すぞ。つまり戦艦に護衛がついていない時だけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">確かに魚雷は当たれば撃沈に結びつく可能性は大きいが、当たるまでの時間が長い。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">護衛艦に邪魔されるかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">砲弾の方がはるかに短い時間で届く。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そこで日本海軍は、水雷戦隊に囮として、あるいは護衛として戦艦をつけることを考えた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり時には、戦艦を駆逐艦、巡洋艦が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そして時には、戦艦が駆逐艦、巡洋艦が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">お互いに守ったり守られたりするわけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしこの水雷夜襲による漸減作戦は実現しなかった。実際に使われたのは、機動部隊、つまり高速空母を主力とした戦力だった。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「キョン……、あんたねえ、せっかく途中まで一生懸命聞いてたのに、女の子にわからないような話をいきなりするんじゃないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
おまえが長門の名前を耳ざとく聞きつけるからだろうが。これがブティックの試着室の前でするような話じゃないってぐらいわかってるぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、こんなことを言い出したのは照れ隠しという要素もあるわけだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「もう少し待て。話をもどすから。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり開戦時には航空機がいちばん進歩していたからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
機動部隊というのは空母を集中使用し、その大量の艦載機を集中豪雨のように敵艦隊に突入させるというものだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">飛行機ならば戦艦の主砲よりもはるかに遠くから敵を攻撃できる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一機一機の攻撃力は戦艦一隻にとても敵わなくても、数で押していけば圧倒できる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">実際に戦争が起きた時に使われた戦術だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺がさっき大和ではなく長門の名前を出したのは、大和が建造された時は決して洋上で最強の存在ではなかったからだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん。また言い訳だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「しかしこの空母の集中使用という構想には弱点がある。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">空母を集中して使用するということは、急襲されれば同時に多数の空母がやられる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
空母というのは、軍艦ではあるが航空機の洋上基地でしかない。ある意味輸送船みたいなもんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかも高速を出さなければならないため、基本的に装甲が薄い。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">艦同士の砲戦には弱い。重巡洋艦戦隊にさえやられる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そこで戦前の構想では、制空権下の艦隊決戦ということが言われた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり戦艦同士が殴り合いをして、その上空を空母の艦載機がカバーする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">空母が戦艦を守るわけだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それならば空母を一か所に集めなくてすむ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そういう考え方が支配的だった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし機動部隊構想は惜しい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そこで日本海軍は空母のアキレス腱を補う方法を考え出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">重巡洋艦よりはるかに強く、空母よりはるかに頑丈な軍艦を使う。そう、戦艦だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">戦艦が護衛についていれば、巡洋艦など一切寄ってこない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何回も言うが、俺が大和ではなく長門の名を出したのには理由がある。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">普通大和の方が頑丈だと考えられているが、俺は必ずしもそうではないと思う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">大和は航空機の魚雷十発で沈んだが、長門は真上で原爆が炸裂しても沈まなかった。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ものすごく苦しい言い訳だ。しかもなんだか胸が痛い。あいつの真上で原爆が炸裂するイメージが胸に浮かんでしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">大丈夫のような気もするが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さっきの話とは逆に空母を戦艦が守るわけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この意味がわかるか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、機動部隊は速さが命である以上、高速空母群を護衛したのは長門型ではなく、いわんや大和型でもなく、金剛型の高速戦艦だったわけだが、そんなことがわかる奴はここにはいまい。なにしろここはブティックだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「時には戦艦を駆逐艦、巡洋艦が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には戦艦が駆逐艦、巡洋艦が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には戦艦を空母が守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には戦艦が空母を守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どっちが強いかなんか関係ねえ、価値があるから守るんだ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よし、もどってきたぞ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「では人間同士だったらどうなのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">軍艦の例でわかるだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には男が女を守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時には女が男を守る。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
言い訳をしていた時にはあまり感じなかった羞恥心ももどってきた。しょうがない、これは罰ゲームだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「人間が何かを守るのはなんのためだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もちろん軍艦と同じだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">価値があるからだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">大切なものだからだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">必要なものだからだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それがなくなったら自分が困るからだ！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺があの時おまえの手を離さなかったのは、おまえが崖の下に落ちていくのがいやだったからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それだけの理由だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、あの時だって俺はおまえを守ったわけじゃないがな。一緒に落ちただけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「お互いに大切に思っているんだったら、強い弱いなんて関係ねえ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">男は女を守るだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女は男を守るだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「守るってことと守られるってことは、全く同じことなんだよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うわ、ものすごく恥ずかしい。こんなことを言うなんて全然俺に似合ってねえ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかもいまドサクサにまぎれて本音を言っちまったんじゃねえのか？ ハルヒのやつ、聞き流してくれればいいが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まああの時のことなんて、１００パーセント覚えているわきゃねえないからいいけど。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だけどさあ……、そういう守る守られるっていうのは互いを拘束するってことじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
良かった。聞き流してくれた。やっぱり覚えていなかったか……。まあ、そんなもんだよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当たり前だ。人間は国に守られ、家に守られ、俺たち学生は学校に守られている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これは鳥カゴみたいなもんだ。鳥カゴは鳥を拘束する。しかし鳥カゴは猫から鳥を守る。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">人間の自由なんて、カゴが大きいか小さいかにすぎん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もしそれが嫌なんだったら、たった一人で自分を守れ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつならできそうだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺なんかいなくてもどうでもいいだろうし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だからハルヒ、もし俺がおまえに『今までさんざん迷惑をかけたな。それも今日で終わりだ。おまえを自由にしてやろう。』と言ったらど…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたは絶対にそんなこと言わないわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そうだな。迷惑をかけられてるのは俺のほうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">コホン、と咳をする音が聞こえた。さっきの女性店員だ。怖い人だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「お説はごもっともですけど、さきほどの『女ってのは…』というのは釈然としませんね。あなた高校生でしょう？ 女を知りつくしたような発言をするのにはまだまだ若すぎるかと……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ああ、この人は「高校生のガキのくせに生意気言うんじゃない」と言っているわけか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、いいか。どうせ恥をかいてるんだ。恥をかくために恥をかこう。罰ゲームなんだからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それについては説明が必要ですね。俺が前提なしに『女』って言ったら必ずこの試着室の中でじっとしている奴のことを言います。そうでない場合はいちいち断ります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室の中でドスンという音が聞こえた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今度はバタバタしてるみたいですけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし今の発言は問題だな。昨日の「おまえを女として意識していない」っていう発言と矛盾しちまう。あとでフォローを入れないと、昨日の「ふとったな」発言がセクハラになる。心にとめておこう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もう一つ、「俺にとって女とはハルヒのこと」っていう発言と、さっきの「大切にしているなら男が女を守る」っていう発言との関連だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺は長門を守りたいと思っている。しかし異性として意識しているわけじゃない。当然向こうもそうだろう。というより、あいつは自分が女だなんて思ってないんじゃなかろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
朝比奈さんか。あの人こそ庇護欲をかきたてられる女性の典型だ。しかし決して弱いわけじゃない。あの人はどんなに押されても元の位置にもどろうとする強さを持っている。だからこそ守りたくなる。そして俺にとって朝比奈さんはマドンナだ。アイドルだ。天使だ。だからつき合いたいとか思っているわけじゃない。つき合えるわけもないが。だからこそハルヒに内緒で出掛けたりもできたんだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんとなくあの長門を思いだした。あいつだって弱いわけじゃない。どこか芯の強い、そして大胆ささえ持っていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あの長門はもちろん自分のことを女だと思っていたろう。だけど俺のことを男として意識していなかったことだけはたしかだ。何せ一人暮らしの部屋に俺を上げたんだからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おでんを食っただけだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そして俺はあの時、ただハルヒに会いたかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
今こうして会っていられるだけで幸せだと思うべきだ。たとえ全く男として見られていなくても。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ふと中学時代よくつるんでいた同級生のことを思いだした。ハルヒともあんな関係になれれば理想かな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いまはただ、所有者と所有物だが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「じゃあ、最初の質問に答えるぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の好みだったな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺がいちばん好きな表情は、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の腕をつかんで走り出す時の、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何か思いついて俺の顔を見てにまっと笑う時の、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それでいて団員の前では太陽みたいな笑顔でみんなを明るい気分にさせる時の……つまり」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いつものおまえだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室の中でまたバタンという音がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おいおい大丈夫か。トイレと風呂場と試着室の中だけは、自分一人で自分を守れよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、着替え終わってるのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うん。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">試着室のカーテンを勢いよく引いた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">チャッという音がしてハルヒの姿があらわになる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">カーテンに手をかけたまま横目でちらりと見た。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここに来た時のピンクのトレーナーとジーンズだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「……なに。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「似合ってるぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「演説は終わりだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はハルヒに背を向けて言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">罰ゲームも終わりだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">羞恥プレイも終わりだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、どうするんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はぁ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「買い物だよ、早くしろ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんだか店内のフンイキが先ほどまでの殺気だったものではなく、生暖かいものになっているような気がするぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あたしにどうしろって言うのよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「なに言ってんだ。おまえの好きな物を選んで買え。買い物っていうのは欲しい物を買うことだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒが試着室から出てきて俺の前に立った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ほんとに人より前に行きたがる奴だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかも顔が近いし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、いつものおまえだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたの意見は全く参考にならなかったわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえ最初からそう言ってたじゃねえか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">大体この意見は営業妨害にしかならんぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「しかもなんだかごまかされたような気がするし。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ごまかすって何なんだよ。俺は自分の思っていることを羞恥心に耐えながら言っただけだぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかくあたしの表情をあんたがよく見ていることは………わかったけど、あたしが聞きたいのは服装についてのあんたの意見よ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あたしがどんな格好していたらあんたが見たいと思うかを教えなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだ。まだ終わってなかったのか？ 罰ゲームは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「み……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「水着っていうボケはいらないからね。今は真冬よ、ま・ふ・ゆ。あと半年待ちなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女性客と店員がクスクス笑っている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ま、どうせあんたのことだから女の子の洋服のことなんてほとんど知らないだろうから、この店にあるものならなにがいいのかを言いなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そう言われてもな……、俺はこういう店にどういうものが在庫としてあるのかなんて知らんぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
多分バニーガールはないだろうな。ナース服もメイド服もないだろう。体操着……、とか言ったら変態あつかいするだろうな、こいつは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「まったくあんたは……、だったら今あんたの目に入っている物の中で、何がいいのかを教えなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目に入る物ねえ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はぐるりと店内を見回した。なにがなんだかさっぱりわからない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ふとショーウィンドーの外を見てみた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえがアレ着てるところなら見たいと思うぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっと、あんた、ふい打ちはひきょ………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何を言っているんだこいつは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そう思って自分が指さしている方向を見た。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">結婚相談所だな、あれは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それは問題ない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">問題は俺がいま指さしているモノだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ウェディングドレスだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ウェディングドレスだな、あれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まずい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">昨日「おまえに変な下心はない」って言ったばかりだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それにさっき「俺にとって女とはハルヒのことを指す」とか言ってしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これじゃ下心があるっていう風に取られてもおかしくないよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり俺はこいつに軽蔑されたくない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それに昨日、「女として意識しているわけではない」とこいつに言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それがウソだということがばれれば、あの発言がセクハラになっちまう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこれがかえって、フォローするいい機会かもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はふり返って言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから……、おまえの結婚式にはぜひ呼んでくれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よし、ナイスフォローだ。がんばったぞ、俺。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">……なぜ無言で震え出すんだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">顔を真っ赤にしている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">未来の自分の花嫁姿を想像して恥じらって……いるわけではないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どこに地雷が埋まっていやがった？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺にははっきりとわかる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつはいま、ものすごく怒っている！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">滅多にいないような美少女が本気で怒っている表情ってのは………怖いな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、それどころじゃない！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なぜだ？ 理由がわからん！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とにかく、否定すればいいわけか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今の発言はなしにしてくれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">コホン、とひとつ咳をした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえの結婚式には俺なんか呼ばなくていいぞ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まずい。これは人を殴る時の目だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はおまえのこんな表情を見たいわけではないぞ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒが一歩踏み込んでくる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">右手を上げる……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それがいきおいよく俺の顔面に……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しまったあ……！、かわしてしまった！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ていうか、そんな大振りビンタが当たるわけがねえだろ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はあの朝倉のナイフを二度までもかわした男だぞ……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それどころじゃない！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">次のが来るはずだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よし……、こいつは<span>もらうぞ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は目をつぶった。また反射的にかわしたらシャレにならん！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もらうぞ……、もらうぞ……、もらうぞ……、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ちっとも来ないな。時間差攻撃か？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とにかく早くこい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こっちはもらう気になってんだから。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「もらえないわよ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いきなり声がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目を開けた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「えーと、あいつは……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「とっくにいないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いつの間にか店員さんが敬語からタメ口になっていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そんなことはどうでもいい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はジャケットとズボンのポケットを探った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">財布…、ティッシュ…、ハンカチ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あった、携帯！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">短縮番号の一番を押す。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">トゥルルル…、トゥルルル…、トゥルルル…、トゥルルル…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つながった…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">すぅーっと息を吸う音が聞こえた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ヤバイ、これは来るな……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺は右手の中指で左耳の穴を押さえ、左目をつぶり、左手に持っていた携帯電話を思い切り自分から離した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯を印籠のように店員さんに突き出している。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店員さんがギョッとしたような顔をした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「バカァ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱり来たか。あいつが何を思っているかはさっぱりわからないが、行動の予測はついてしまうのが恨めしい。これが雑用根性だろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯を耳にもどす。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おいハルヒ、 なにを怒ってんだ、おまえは……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯からは何も聞こえてこない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの声はおろか、何の物音もしない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これは俺が携帯を耳にもどすのを見計らって、大声を出すつもりだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ちがう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これは…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おいっ、おまえ……、」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は待ち受けの１００Ｗの笑顔に向かって叫んだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんで泣いてる！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何の物音も聞こえないが、俺にははっきりとわかる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はおまえのことなら誰よりもわかる自信があるんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あれほど強いおまえが、なぜ泣いている？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺でよかったら聞かせてくれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何がそれほどおまえを不安にさせた？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">誰がそれほどおまえを追いつめたんだ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
女性客の一人が、俺の正面の試着室のカーテンを乱暴に開けた。中には誰もいない。なんなんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「とにかくだまってちゃわからん……。なんとか……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うぬぼれるんじゃないわよ！ あんたに、あたしの何がわかるっていうのよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうだな。うぬぼれていた。俺はわかってない。おまえは泣いてない。泣いてないんだ…。おいっ、切る前に泣いてないって言」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">プツッ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「えー！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">電源落とすなよ……、電源落とすなよ…、電源落とすなよ…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ただいまこの電話は、お客様のご都合により……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あーっ、やっぱり落としやがった！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店内の女性客と女性店員の視線をひしひしと感じる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の味方はいないようだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なにしろ、ここはブティックだからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「お騒がせして、申し訳ありません……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まったく、恥かかせやがって……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「恥をかかせたのはどっちかなー。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっきの女性店員が腕を組んで俺を睨みつけている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、なんであの子を追いかけないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「理由は二つあります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ひとつは、あいつは俺だけには絶対に泣いているところを見せたくないでしょう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もうひとつは、あいつが、ここで泣き出したら俺に迷惑がかかると思って俺を残して立ち去ったと考えられます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ならば俺は、ここに残るしかないでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「へえーっ。そこまでわかってるんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかってしまうんだからしょうがないでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">わからなかったらどんなに楽か……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だけど、ここに残ったということは覚悟ができてるわけね。………女の敵！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「女の敵っていうとアレですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は向かいの結婚相談所のショーウィンドーを指さした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………………………………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> ：</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> ：</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> ：</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> ：</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ケーキ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
完璧に外したようだ。ウェディングケーキがあったからちょうど良いと思ったんだが。俺にはお笑いの才能はないらしい。トナカイの一発芸を思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、上手いこと言ったつもり？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どうやらこの人たちは根本的な勘違いをしているようだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「誤解があるようですが、俺はあいつとつき合っているわけではありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、俺の言動を省みてみると、彼氏のそれだったら責められるべきだろう。そうではないんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふーん、じゃあ、君とあの子とはどういう関係になるわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この店員はこの場の女性代表、というか尋問官になったつもりみたいだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「団長と団員その１。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あるいは、団長と雑用係。もちろんあいつが団長で俺が雑用係です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">沈黙が痛いな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、あいつと作った部活の部長とその部員と言ったらわかりやすいですかね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「悪いけど、さっぱりわからないわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女王様と下僕と言ったらわかりやすいんだろうか。そう言ってみるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「要するに……ですね。俺の片思いですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目の前の女性店員が腕組みをほどいて目を丸くした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、それを本気で言ってるの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そうきたか。他の店員や女性客までも目を見張っている。やはり羞恥プレイか。しょうがねえな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「本気ですよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もちろん、俺とあいつが釣り合うなんて思ったことは一度もありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それでも俺はあいつのことが好きです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">初めて声を聞いたときから、ずっとあいつのことが好きです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はあいつに利用されているだけかもしれません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それが言い過ぎでも、あいつが俺のことを男だと見ているわけではないことははっきりしています。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それでも、俺にはあいつが必要なんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">言っていて悲しくなってきた。なんだかまわりの女どもが頭を抱えているぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから、身の程知らずだとわかっていると言ったでしょう！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、あいつが誰でも認める美人だということもありますが、それだけではありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
初めて見た時からあいつに惹かれていることは事実ですが、あいつの外見だけが好きなわけではありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">多分、俺ほどあいつといっしょにいる人間もいないでしょう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">教室で、部室で、今日みたいに休日もね。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">口こそ悪いですが、あいつほど人がいい奴はいません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">本気で他人を傷つけるようなことは絶対にしない奴です。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">少なくとも今のあいつはそうです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺みたいなどうでもいい奴に対してさえも、ギリギリのところで踏みとどまることができる奴です。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここに俺を残して去っていったことだけからさえも、それがはっきりわかります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっきも言ったはずです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は誰よりもあいつのことを理解している自信があります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
神の力が働いたことが奇跡というなら、あいつに出会えたことも小さな奇跡なんでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おまえの力じゃないよな、これは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「………、つっこみたいところはいっぱいあるけれども、まず、自分が利用されているだけかもしれないと、君が思う根拠を言ってみてくれるかな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「だから、雑用係です。あいつは嫌なことやめんどくさいことは、全部俺にやらせるんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「具体的に。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そうですね…、部室のパソコンの管理を全部俺にやらせます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もっと上手い人がいるのに、しょっちゅう俺にお茶を淹れさせます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ちっとも凝っていないくせに、いやがらせのように肩を揉ませます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">二駅向こうの電気屋にストーブを取りに行かされたこともあります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">映画撮影をした時、カメラ、編集、その他の面倒なことは全部俺にやらせました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
いっしょに部室に泊まりこんだ時も、俺にだけ作業をやらせて、自分はぐうぐう寝ていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「泊まりこんだって……二人だけで？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺を男として見ていないって言ったでしょう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
部活五人で集まる時は、俺が最後に来ると、まあいつも俺が最後なんですが、『遅い！罰金！』と怒鳴ります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
待ち合わせの時間には間に合っているんですが、あいつのルールでは、いちばん遅い奴が遅刻なんだそうです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">かならず五人分のお茶を奢らせます。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺と待ち合わせる時には、あいつは一時間前に来ているとしか思えません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君も一時間前に行ったらどう？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんなことをしたら、あいつがもう一時間前に来ちゃうじゃないですか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「……なんのためだと思う？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「俺に金を出させるためでしょうね。そう考えると、あいつにとって俺の存在というのは、財布、あるいは道具なんでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「君ねえ……、いくらなんでもそんな言い方をしたら、あの子がかわいそうだと思わない？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「思いませんね。かわいそうというのは、強者が弱者に与える感情です。俺は絶対にあいつに勝てるとは思えません。実際、昨日までモノ扱いされていましたし。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それも具体的に。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うん。さすがにコレを言うつもりはなかったが、この流れでは言うしかないのか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ええと、まあ罰ゲームなんですよ。まあ、あることであいつを怒らせてしまってその罰として、一日一時間は、あいつ以外の人としゃべると殴るんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">イスのことはしゃべりたくない。しゃべってたまるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それではモノ扱いしたってことにはならないわね。あの子がやきもち焼きってことがわかるだけじゃない。っていうことは、その『あること』ってのは浮気？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やきもち焼きって何なんだ。それに浮気って…だから、つき合ってるわけじゃないと最初に言ったんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そうじゃありません。ある女性と待ち合わせて出掛けただけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ふーん。隠れて他の女の子とデートしていたのがバレたわけだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「デートではありません。デートというのは彼氏彼女がやることです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんな理屈があの子に通用すると思う？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「……思いません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それでモノ扱いされたっていうのは？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">どうしても言わせるつもりかこの人は。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、イスになれと。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さすがに引いてるな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺にイスになれと。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それも具体的に言ってほしいわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり俺が床に四つんばいになってですね、あいつがその上であぐらをかいていて、それが毎日一時間、その間は自分以外とは絶対しゃべるな、と、。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「かわいいわねえ、あの子。君の背中の上でスネてる様子が目にうかぶわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺には見えませんでしたけどね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君にだけは見せたくなかったのよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺にかわいいと思われてもしょうがないですからね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あのねえ、泊まり込みのこともそうだけど、普通女の子が自分の重みを男に預けるっていうのは、よっぽどのことよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「普通の女性のことはわかりません。俺はまだ高校生です。女性を一般論で語るにはガキすぎます。俺にとって女というのは常にあいつのことを指すって言ったでしょう。俺がわかっているのはあいつのことだけです。要するに俺を男だと思ってないだけです。あいつはもっと単純な奴です。つまりは座りたかったからイスにしただけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
まあ、俺に屈辱を与えるといった意味合いがあっただろうが、さすがにそれは言いたくないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「君は、あまりにもあの子のことばかり見ていたから、かえってあの子のことがわからないのかもね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よくわからないことを言う人だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで、自分が男として見られていないと思う根拠は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">思っているわけじゃなくて事実なんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それははっきりしています。自分で昨日そう言っていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「詳細を。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「くわしくその時のことを話しなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そこまで言わせるか。まあ、これは屈辱的なことではないからいいけど。失敗ではあるが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、そんな虐待を受けていたのでちょっとしたイヤミを言ってみたんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どんなふうに？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえ、ふとったな、と。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
周囲の女性たちが俺のことをハエを見るような目でみている。やっぱりこれはセクハラだったか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さすがに俺もこれはセクハラではないかとあわてました。そこで、男が女に言うからセクハラになるわけだから、おまえにとって俺は男じゃないし、俺にとっておまえは女じゃないんだから、この発言は許してくれと。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">周囲がドン引きしているな。昨日の部室と同じだ。やれやれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうしたらあいつが、『確かにあんたのことを男として意識しているわけじゃない』と言いまして、正直ショックでしたが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君のことはどうでもいいけど、あの子はショックだったでしょうね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いえ、『あんたに女として見られたら迷惑だ』とはっきり言ってました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
女性店員は大きくため息をついた。それは俺の専売特許だぞ。「やれやれ」って言うなよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それでなぜか今日洋服を買いに行くからつきあえ、と。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それであの子がフェミニンな服装にこだわってたわけね……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
フェミニンって何だろうか、フェミニズムの一種だろうか。あいつらしいが、もう女性尊重主義はＳＯＳ団には足りていると思うぞ。俺は雑用係だし、古泉は副団長といっても便利屋、というか団長専用自動手もみマシーンだ。まああいつがハルヒの機嫌を取ってくれるのはありがたいけど。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「浮気の罰がイスのことといい、今日の買い物のことといい、さっきのあの子の態度もそうだけど、ほんとうにあの子は君には甘いわね……、大甘。君にとって女というのはあの子のことかもしれないけれど、全ての女があの子みたいだとは思わないことね……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
鶴屋さんと同じことを言っているな。しかし全く面識のない人が同じことを言うってことは、俺の方がどこがズレているんだろうか。俺自身はあいつに虐待されているとしか思えないんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店員さんは、俺に人差し指を突き立てた。誰かに似ている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「教育してあげるわ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人は女性ドイツ士官だろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あの子が君にどんなことをさせているかはわかったわ。だったら今度は君があの子にやらせたことを教えなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そんなこと言われてもな。あいつが俺に命令している姿しか思いうかばん。あいつにやらせたことねえ……。強いて言えば、アレか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「髪型変えさせただけですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ひっ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うそ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「…………。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだろうか、この周囲の女性陣引きまくりの様子は。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「げ、幻聴かしら。いま『だけ』って聞こえたけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そう言いましたよ。俺があいつにやらせたことっていうのはそれだけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの髪を短くさせたのは失敗だったな。今度伸ばさせるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、いまものすごく図々しいことを考えてなかった？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いえ、めんどくさいからやめます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこの調子だとあのことについてもくわしく聞かれそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いま気がついた。あれをここで話すのは、まずいな……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「このことについて不特定多数の人に話すことはできません。これは、あいつの名誉にかかわることです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ごまかし？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「違いますよ。しかしここまできて何も言わずにすませるわけにはいかないでしょうね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当然。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ではこうしましょう。俺は身分を明かします。県立北高校、一年五組の生徒です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は本名を名乗った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで、俺に対して身分を明かしてくれる人、一人にだけお話しします。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
客たちが明らかに落胆した顔をしている。このまま誰も名乗りでなければいいんだが。しかし…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっきから尋問をしている店員さんが言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わたしが聞くわ。この店のオーナー店長、神原明美といいます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんとなく予想していた通りになった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこの人店長だったのか、どうりで仕切ってるはずだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あとはよろしく、みんな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はい、わかりました…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの鬼店長に目をつけられるなんて…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、話を聞いた限りではいい気味だけど…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
勝手なことを言ってるな。ていうかおまえら仕事しろよ…。店員は仕事する気ねえし、客は買い物する気ねえし…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「じゃあ、店のすぐ上に事務所があるからそこに行きましょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「じゃあ、あの子の髪型をどうやって変えたのか教えてもらうわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
何の飾りもない壁紙。スチール机。明らかに業者からもらったと思われるカレンダー。電話が一台。さすがにコードレスフォンだ。しかし殺風景だな。長門の部屋を思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、長門の部屋は文字通り殺風景だが、ここは質素な部屋というべきだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの部屋は何もないだけだが、ここではいろんな物が整理整頓されている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ブティックの事務所っていうのはこういうもんなんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店の雰囲気とは裏腹に、実用一点張りだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は小さな応接セットに座らされ、客用の湯飲みを前にしていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もちろん正面には、あの店長さんが、どっかり座っている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしあのトンデモ世界のことをそのまま話すわけにはいかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">話しても信じはしないだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「去年の五月のことです……、あいつは、世界を捨てようとしました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「えっ？ 君いい加減なことを言うと……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつの名誉に関わることだから、あそこでは話せないと言ったはずですが…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここに来るまでの間、あの時のことをなるべく現実的な文脈で話す準備はしていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこういう表現をすると、どうしても誤解を与えてしまう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「世界を捨てるって、まさか自さ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱりそう聞こえるか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「俺には、ただ『あいつが世界を捨てようとしていた』としか言えません。嘘をつくつもりはありません。だから、信じてもらえなくてもかまわないと思っています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「続けて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「その前に、俺はここまであいつの秘密を話しました。絶対に他言しないと約束していただけますでしょうか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかった、約束するわ。わたしを信じて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ありがとうございます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつは世界を捨てようとして、ある場所に閉じこもりました。これも『ある場所』としか言えません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いいわよ。そこがどこだろうと話の主旨には関係ないし。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつはそこに俺を呼び出しました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なるほど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なにが「なるほど」なんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そこで俺はあいつに、『ある行為』を行いました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『ある行為』とは何かを聞いても無駄なようね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ありがとうございます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんで二回も礼を言っているんだろうか、俺は。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人に感謝しなきゃならないいわれでもあるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ただ、その行為は、あいつに世界を捨てさせないために絶対に必要なことだったと言う者がいます。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はそれを完全に信じたりはしてないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それをする前に俺はあいつに、こう言いました。『俺、実はポニーテール萌えなんだ。いつだったかのおまえのポニーテールはそりゃもう反則的なまでに似合ってたぞ。』」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつは世界を捨てるのをやめました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、次の日あの子がポニーテールで登校してきた、と。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんでわかるんだろう。この人はエスパーだろうか。俺にはエスパーの知り合いは一人しかいないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「目を丸くしなくてもいいわよ。だれでもわかるわよこんな結末。ベタすぎるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺もあの時ベタだと思ったんだけどな…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それだけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それだけですよ。大して面白い話じゃなくて申し訳ありませんが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「そうじゃなくて、君があの子の髪型を変えさせたのはその時だけなのか、って聞いてるの。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あと二回しかないですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「二つとも話しなさい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「二つ目は、そんなに秘密にしなくちゃならない話でもありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">文化祭の準備の時、あいつが暴走して、先輩の女性にものすごい迷惑をかけました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はつい、あいつを殴りそうになりました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">幸い、そばにいた別の男子がうまく止めてくれました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">で、なぜか次の日、あいつはポニーテールにしていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしこうして考えてみると、あいつが勝手にポニーテールにしてきただけで、俺がやらせたわけじゃないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店であんなことを言わなきゃ良かった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、三回目は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
三回目はたしかに俺が頼んだんだよな。そうするとやっぱり俺はあいつに髪型を変えさせたことになるのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ん？ ちょっと違うぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「すみません。間違えました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どういうこと？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「三回目はあいつじゃありませんでした。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あのハルヒもハルヒには違いないけど、あいつのことではないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ですから、この話はしても意味がないかと……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言いなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いきなり大声で怒鳴られた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">言うしかないのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺にはあいつがどうしても必要だという話はしましたね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「聞いたわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「三日間、あいつが俺のそばにいなかったことがあります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「禁断症状でも出たの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その通りです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょうどその時、あいつと顔と性格がそっくりの女と出会いました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">実際には探し出したんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これを言うとまた誤解を受けそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで君、その子に声をかけたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒ、と声をかけて蹴られました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当たり前……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり誤解しているな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「その後喫茶店でしゃべりました。言っておきますが、その時男がもう一人いましたよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そいつの喫茶店代はその男が払いました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんなことはどうでもいいの。続きを話しなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、その後そいつに、『ポニーテールにしてみないか』と言ってみました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その子はそうしたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ちゃんとやるのは面倒だとか言っていましたが、その方が運動部らしいということで…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">言っておきますが、そいつとは半日しか会ってませんよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「へぇー君、会って半日の女の髪型を変えさせたんだー。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">完全にこの人は誤解している。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、実はそいつとは三年前にも会ったことがあってですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君さあ、さっき『俺にとって女とはハルヒのことだ』とか言ってなかったっけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だから、あいつもハルヒなんだけど。このことを説明するのは難しい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「誤解です。うまく説明できませんが…。まあ…、あいつにとっては自分とは違う人間なんですが、俺にとっては二人とも同一人物なわけで…。つまりあの間だけはあいつじゃなくて、そいつがハルヒなわけで…。いや、あいつを裏切ろうとか、そういうわけじゃなくてですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんが、応接セットのテーブルをドン！ とたたいた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">納得するわきゃないよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の説明が下手なんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
いや、このことを現実的文脈から乖離させずに、しかも誤解を生まないように表現することは不可能だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「寂しかったんですよ……、あいつがいなくて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんな言い訳でごまかされるのはあの子だけよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつに話すつもりはありませんよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「賢明ね。君のためじゃなく、あの子のために。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そいつとはそれきり会っていません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつはどうなったんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今でも光葉園学院に通っているのだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それとも消えてしまったんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それとも今のハルヒの中にいるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺にはわからない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そいつと会っていたら、あのハルヒに会えなくなってしまうから…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当然でしょ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人にあの三日間の恐怖を伝えることはできない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">伝えなくてもいい人なんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どうしてくれようかしら、この変態スケコマシを…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は変態でもスケコマシでもないんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その時携帯が鳴った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっと失礼。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「携帯なんか無視しなさい！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「１００パーセント、ハルヒのことです！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺は携帯を開いた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「古泉、閉鎖空間か？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなた、何をやらかしたんです！？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なんで俺が犯人だと決まってるんだ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから、何をやらかしたんです！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえがウェディングドレスを着ているところを見たい、と言った。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それだけじゃないですね。それで閉鎖空間が発生するはずがありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから、おまえの結婚式にはぜひ呼んでくれ、と言ったんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなた！ 涼宮さんを殺す気ですか！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">キーンと耳鳴りがした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「耳元で怒鳴るな！ おまえはハルヒか？！ なんで俺を結婚式に呼ぶとあいつが死ぬんだ！ それに言い直したぞ。やっぱり俺なんか呼ばなくてもい…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おんなじことです！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それより閉鎖空間はどうなってるんだ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「非常に危険な状態です。ものすごい勢いで広がっています。世界改変もありえます！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">世界改変って……、あいつそんなに怒ってたのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ずいぶん急だな。それでハルヒは…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「時間がありません。アレをやって下さい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「アレってなんのことだ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「アレと言ったら決まってるでしょう？！ 白雪姫です！ スリーピングビューティーです！ かつて世界を失いかけた少女に全てを与えた問答無用の反則技です！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
ずいぶん皮肉っぽい言い方をするな。焦ってるんだろうが。Ｓｌｅｅｐｉｎｇ ｂｅａｕｔｙがカタカナ発音になってるし。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それに問答無用って…、俺はあのときけっこうしゃべったぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ここにハルヒはいない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はぁ？ なんですぐに追いかけなかったんですか！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はいま、監禁されている。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ひとのせいにするんじゃないわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんが会話に割り込んできた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「で、いまあいつはどこにいる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ロストしました！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なにやってんだ、おまえら！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたに言われたくありません！ へたに尾行とかつけてあなたとのデートを邪魔したりしたら、かえって危険だと判断したんですよ！。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから、デートじゃねえって！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今はそんなことどうでもいいです！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあいい。電話で話す。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「電話で大丈夫ですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あの時は文字通りゼロ距離射撃だったが、今回は遠距離雷撃になるな。それでも有効射程距離だ。いける！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">４０キロも離れてるわけじゃないしな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
さっき戦艦長門の話をしたせいか、なんとなく戦史オタクっぽい言い方になってしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それとも昨日たまたま戦史本を読んだせいで、頭脳がそれから離れていないのかもしれん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあいい。照れ隠しにもなるし、今日は軍事用語で押し通そう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それはともかく、ハルヒの方は話せさえすれば大丈夫だろう。この程度のケンカならしょっちゅうしている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「タイムリミットは？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あと８分で次の段階に入ります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「８分あればなんとかなる。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「８分間で涼宮さんを落とすんですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつを落とすなんて俺にできると思うか？ </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">救うんだよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">８分以内であいつを救う！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こんなくっだらねえことで、絶望されてたまるか！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯をたたむと店長さんに言った。 </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「電話借りますよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯は古泉との連絡のために生かしておかなければならない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「携帯の電源は切ってるんでしょう？ あの子の居場所がわかるの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかってしまうんだからしかたありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">携帯を開いて番号を確認し、店の電話の受話器を取る。ボタンを押す間がもどかしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「長門、俺だ。ハルヒにかわれ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">小さいがよく通る声がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ここにはいない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんがフンと鼻を鳴らした。聞こえてるんだろうか。どうでもいいが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「長門、その電話のスピーカーボタンを押せ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんがぎょっとしたような顔をした。表情が忙しい人だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「…………………………………………………………無駄。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「無駄でもいい。押せ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「……わたしは古泉一樹とは逆の考えを持っている。あなたが今涼宮ハルヒと話すのは、危険。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どういうことだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなたはかつて涼宮ハルヒに世界を与えた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それまで彼女が持っていたのは単なる『背景』にすぎない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あなたから与えられるまで、涼宮ハルヒは世界など持っていなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">涼宮ハルヒにとってあなたは世界そのもの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">彼女は今、世界に拒絶されたと思っている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">世界に拒絶された彼女は、再び世界を捨て去ろうとしている。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あの俺の言葉のどこに拒絶があったのかがわからない。あいつそんなに俺を結婚式に呼びたかったのか？ しかし「呼べ」と言った時もキレてたぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今の涼宮ハルヒにとって世界を消すということは、あなたを消すということ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あなたは涼宮ハルヒに世界を与えたが、わたしには心を与えた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ただの観測機械、自動人形、からっぽの容れものだったわたしに、あなたは心を与えた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">喜怒哀楽と人間は簡単に言う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしわたしはそんなものを持っていなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あなたはそんなわたしに、『元気か？』と言われただけで、いや、あなたを見ているだけでうれしいということを教えてくれた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あなたは人を憎らしいと思うこと、やきもちを焼くことさえ教えてくれた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そしてあなたは『かなしい』という感情さえ教えてしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あなたを失えば、わたしは泣くだろう。大声を上げてわんわん泣くだろう！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒが俺を消そうとするならそれでもいい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こう言ってみた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こんなことで俺みたいなどうでもいい奴を消したりしない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こんなことはよくあることだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつが泣いていると思ったのはきっと間違いだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はそこまであいつを傷つけたわけじゃない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺みたいな奴にあいつを本気で傷つけるなんて、できるわけがないんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それは、あなたの理屈。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">わたしはあなたを失いたくない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今の涼宮ハルヒの精神状態はまさしく『かなしい』というもの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いま、あなたの声を聞いても、悪い影響が出るとしか思えない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつは俺を殺さない。世界六十億人の全てを殺しても、俺だけは殺さない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こんなことを信じてはいなかったが、俺はハルヒと話したかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というより、話せさえすればなんとかなると信じていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの時とは状況が違う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">彼女はあなたの声を聞けばまた拒絶されるのではないかと考える。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その前に世界を作り替えようとするかもしれない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「長門、俺はハルヒに嘘をついたことは数限りなくあるが、おまえに嘘をついたことはない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はおまえだけには、絶対に嘘をつかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">約束する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺とおまえとでは寿命が違いすぎるからずっといっしょにということはできないが、今日おまえが俺を失うことはない。俺を信じてくれ。おまえはボタンを押すだけでいいんだ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「また図書館に…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ああ、図書館に連れて行ってやるから。ついでにカレーをおごってやるから。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「Ｓｌｅｅｐｉｎｇ ｂｅａｕｔｙ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そいつはダメだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたは一つだけ、わたしとの約束を破った。『また図書館に』という約束を忘れた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">忘れていたわけではない。ハルヒへの裏切りになるような気がしていただけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「長門、俺を信じられないか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時間がない。このままでは埒があかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">切り札だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「一回しか言わないからよく聞けよ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">声をはげまして言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「スピーカーのボタンを押せ、有希！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ひきょうもの……」という声が聞こえたような気がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">電話の向こうからなのか、この部屋からなのかはわからなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒ、聞いてるか？ 俺だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長がゆっくりとこちらに近づき、この部屋の電話のスピーカーボタンを押した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だって不公平でしょ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">受話器からもスピーカーからも何も聞こえない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">名前を言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「忘れたのか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつのことだから俺の本名を忘れていても不思議はない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「忘れたわよ……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたのことなんか忘れたわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、それにしては様子がおかしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なるほどそうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺を「消す」っていうのは、俺の肉体そのものを消すということではない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">自分や周りの人間の記憶から俺の存在を消すということなんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「初めて名前を呼んでくれたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">髪型をほめてくれたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あんたに殴られそうになったけど次の日仲直りができたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">嵐の中ではじめて手を握り返してくれたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あたしが崖から落ちても手を離そうとしなかったことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いっしょに落ちてくれたことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">全部忘れたわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒの声を聞いてはっきりとわかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はそこまでおまえを傷つけたのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺にそんなことができたのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いつものおまえの声とは全く違う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さっきまでの自信がみるみるうちにしぼんでいく。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつは、「やる」つもりだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">自分の中から俺に関する記憶をすべてデリートしようとしている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「忘れないでいてくれ。ここに俺がいたことを」という言葉が悲しく思い出された。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あんたが昏睡していとき、このまま目をさまさないんじゃないかと怖くて怖くて…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">呼吸を止めてしまうんじゃないかと思うと怖くて怖くて……、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">寝息が聞こえるところから一歩も離れられなくて…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">たった三日間なのに、あんたに守られていないことがものすごく怖くて！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だけどあんたが目を覚ました時、たまらなくうれしくて！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あたしが付き添っていても何の役にも立たなかったと思ってたけど、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あんたの今日の話を聞いて、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もしかしたらあたしもあんたを守れたのかもしれないと思えて、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それがほんとうにうれしかったことも！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ぜんぶ忘れたわよ！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉、すまんな。大口叩いたけれども、俺には無理みたいだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで、あのことも…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あんたにキスされて、こんなくっだらない世界も捨てたもんじゃないと思ったことさえも…、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">忘れたわよ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつを止めることなんか、俺にできるわけがなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こいつは俺を忘れるだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それはどうしようもない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だけどこれだけは言わせてほしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わかった。おまえはおれを忘れればいいさ。おれがここにいたことも、おれという人間がいたことも。おまえとおれの思い出を全て忘れろ。それでいいんだ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おれが、覚えているから。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">息を飲む音が聞こえた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">腕を水平を伸ばし、受話器の「切」ボタンをプツッと押した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">同時に肘をくの字に曲げていた。自然に力が入っていたのか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">時計を見た。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、その時計……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ただの腕時計ですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">朝比奈さんが持っていたような電波時計ですらない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ただの時計って…。靴と合ってないと思ったけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「文字通りタダの時計です。ハルヒの親父がくれたんですよ。娘をよろしくとか言って。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なにがよろしくなんだろうか。要するにワガママ娘の面倒を見ろということだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その文字盤に書いてある文字がわかる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わかります。ギリシャのアルファベットの最後の文字だそうですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">タイムリミットまで……、一分半。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「片思いだっていうくせにあの子の写真を待ち受けにしてるのはなぜ？ 隠し撮り？ それにしてはいい笑顔だったけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつが俺の携帯で勝手に自分の写真を撮って、勝手に待ち受けにしたんですよ。常に団長のご尊顔を拝せ、とか言って。待ち受け変えると殴るんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君みたいな子とつき合ってたら、どんな女だって殴りたくなるわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はあいつとつき合ってるわけじゃありません。あいつにつき合ってるだけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一分……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君が言ってた『ある行為』って、キスだったのね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">せっかく隠していたのに、おまえが言ってどうする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というより「夢」じゃなかったのか、あれは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、「夢」でも思い出なのか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ゼロ距離射撃って言ったでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">というより、特攻だな、あれは。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もう二度とあんな無謀な戦術はとらんぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">３０秒…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
店長さんの軽口に合わせて別のことを考えようとしたが、神経が時計に集中して、少しも離れようとしない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目が針に釘付けになっている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君が目を覚ました時、うれしかったって言ってたわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「どうでしょうかね、俺が起きた時、あいつはぐうぐう寝てましたよ。俺の方が起こしてやりました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">２０秒…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「付き添ってたって言ってたけど、どこで寝てたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「病室の床です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「床って…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、ちゃんと寝袋に入ってました。俺が倒れてからそのまま」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">１０秒…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「三日間病室にいたんで、」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">９…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さすがに疲れたんでしょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">８…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつでも疲れるんだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">７…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">床に栄養ドリンクが</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">６…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">転がっていたのを</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">５…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">４…</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの子が起きた時、</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">３！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">最初になんて言ってあげたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">２！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ヨダレを拭け。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">１！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君ねえ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ゼロ！！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">針がⅡをまわり、何事もなかったかのように同じペースで秒を刻んでいく。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">店長さんの方に向き直った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はこの店に一人で来たでしょうか、それとも連れがあったでしょうか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、何を言っているの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「お願いです。答えて下さい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺が真剣だとわかったのか、店長はいぶかしげではあったが、真顔になった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「女の子と二人で来たわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はその子のことをなんと呼んでいましたか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「下の名前で呼び捨てね。『ハルヒ』って呼んでたわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「今、おれが電話していたのは誰ですか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だからその、ハルヒちゃんでしょ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そうですね、……おれもそう思います。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">目頭が熱くなってきた。人差し指と中指で涙をこすった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どうしたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うれしいんですよ、あいつを忘れないでいられて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">その時携帯が鳴った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あなた、どんな魔法を使ったんです？ 閉鎖空間が完全に消失しました！」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒの精神状態は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「破裂しそうなまでに膨れ上がっていた不安とストレスが完全に消えています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつの気持ちが今は安定してるんだな？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その通りです。 何て言ったんですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おれはおまえを忘れないって言ったんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いつもらしくもなく直球ですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「九三式酸素魚雷はな、直進しかしないんだよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いつもそれぐらい素直だと助かるんですが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言ったじゃねえか、８分以内であいつを救うと！</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">と、言いたいところだが、今回はたまたま喫水線下に当たっただけだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「説明してもらえますか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いつもはおまえがしつこく説明してくるんだがな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おまえがよく言っている識閾下だよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おれはあいつの無意識にプロテクトを掛けたにすぎん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつは俺のことを完全に自分の記憶から削除しようとしていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし、俺が『忘れない』って言ったせいで、俺の記憶から自分のことをデリートできないと思いこんでしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あいつには俺の記憶がないのに、俺にはあいつの記憶がある、この矛盾に混乱し、記憶を削除するということ自体が面倒になったわけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それであいつは改変をやめた。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「やっぱり素直じゃないですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「もっともこれよりはるかに単純な解釈もある。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「うかがいましょう。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつが俺の言うことなんか聞くわけがないだろう？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「涼宮さんがあなた以外の人の言うことを聞くとは思えませんが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まぜっかえすな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「『おまえはおれを忘れろ』って俺に言われたから、俺の言うことなんか聞きたくないから、覚えておくことにしたんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「僕としては、あなたが忘れないと言ってくれるなら自分も忘れなくてもいいのだと、涼宮さんが安心したという説を採りたいですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それはないだろうな。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それじゃああいつが心の底では、おれのことを忘れたくないってことになるじゃねえか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ……、いいです。とりあえず感謝しますよ。原因があなたにあるとは言え、ね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何で俺が犯人だと決まってるんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あなたは今まで涼宮さんの危機をことごとく回避させてきました。まあ…いつもギリギリでかわすのは悪趣味だとしか思えませんが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「<span>かわすのは得意だ。<span>もらう</span>のは苦手だが。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それに急降下爆撃をかわす時には、上空の敵機が降下を始めたギリギリで舵を思いっきり切るのがコツなんだ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">操艦の基本だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">降下を始めた航空機はかわされたとしても爆弾を海に落とすしかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そんなものを抱えて引き起こしをすれば失速するしかないからな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかく、これからもよろしくお願いします。忘れないで下さいよ。あなたは将棋の駒でいえば金将。王将を守る最後の砦なんですから。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">プツッと切れた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">おまえの金将はいつも砦の役目を果たしてないぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし最後の砦ねえ……。なんで俺があんなに頑丈な女を守らねばならんのだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、さっき自分が言ったことを覚えてる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">また口から出ていたらしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「それにあの子、君が思うほど強くはないわ。君はあの子の強さしか見ていないし、見ようとしない。それは美点と言えるかもしれないけれど、少なくとも君だけは、あの子に『たったひとりで自分を守れ』なんて絶対に言っちゃいけないわ。わかった？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだかわからないが、返事をしておいた方がよさそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「はい。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの弱さか……、実はずっと前から気になっていることがあった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いつかあいつの弱さと対決しなくちゃならない日が来るかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">もしかしたらそれが今日なのかもしれない…、そんな気がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで、いくつか聞きたいことがあるんだけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ゼロ距離射撃のことなら言いませんよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「つまり、あの子は君にキスされて世界を捨てるのをやめたわけね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「反則技は技じゃありません。ただの反則です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「反則技でもぴたりと決まれば、誰も文句を言わないわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
この人はクリスティーのアクロイド殺しか、スタン・ハンセンの場外ラリアットのことでも言ってるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">スタン・ハンセンか。古いね俺も。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「もうあんな事は二度としません。リスクが大きすぎる。あんな凶暴な奴の懐に飛び込まなきゃいけません。あれは不意打ちだったから成功しただけです。あいつは二度も奇襲を許すような奴じゃありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「さっき不意打ち食らわせてたじゃないの。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「は？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「『おまえがアレ着てるところなら見たいと思うぞ。』」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あれのどこが不意打ちなんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつもそんなことを言っていたような気がするな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あれは天然です。思わず本音が出てしまっただけです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしすぐに言い直しました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
やっぱり俺はあいつに軽蔑されたくありません。変な下心を持っていると思われたくありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかし『おまえの結婚式に呼んでくれ』って言った後で、あいつが他人のものになってしまうのを見るのは嫌だという本音が出てきて、『やっぱり呼ぶな』って言ったんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「君さあ、自分にキスされて世界に意味があるって思うような女に、なんでそんなにビビッてるの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それは一つの解釈にすぎません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どういうこと？。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あの時のことは言いませんよ、と言いながら結局言わされてるな、俺。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">さすが大人だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの場面で事実と言えるのは、</div>
<div style="text-indent:-18pt;margin:0mm 0mm 0pt 18pt;">
<span>１． </span>あいつは世界を捨てようとしていた。</div>
<div style="text-indent:-18pt;margin:0mm 0mm 0pt 18pt;">
<span>２． </span>あいつは俺だけを呼びだした。</div>
<div style="text-indent:-18pt;margin:0mm 0mm 0pt 18pt;">
<span>３． </span>俺にキスされた。</div>
<div style="text-indent:-18pt;margin:0mm 0mm 0pt 18pt;">
<span>４． </span>あいつは世界を捨てるのをやめた</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これだけです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">３と４は、時間的に直後だっただけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">本当に一瞬間後だったけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし一秒後だろうが一時間後だろうが、後ということならおんなじだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつに俺が世界をとりもどさせただとか、あいつにとって俺が世界そのものだとか言う奴もいますが、３と４の間に因果関係があったと証明できるわけではありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そんなねえ、１＋１＝２を証明しろって言われてもね…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり『あいつがキスされた後世界を捨てるのをやめた』ということのみが事実であって、『キスされたから世界を捨てるのをやめた』というのは一つの解釈にすぎないわけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「２の、君だけを呼びだしたっていう時点で、それは解釈じゃなくて事実だって証明できると思うけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「俺はこのことについてはずっと考えてきました。そこで一つの有力な仮説を思いつきました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「思いつきね…。どうせ言い訳だろうと思うけど聞いてあげるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉とは比較にならないくらい徹底的にまぜっかえす人だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの時おれは、『飯食う場所もなさそうだぜ』と言いました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はあいつの意識、無意識に『このままでは腹が減る』という情報を刷り込みました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつはスレンダーな体つきのくせに、ものすごく飯を食うんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから君に、『太ったな』って言われて気にしたわけね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「つまり、あいつが世界を捨てるのをやめたのは、夜中に腹が減ったからです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">食欲がそれを忘れさせたのです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ここでは飯を食えないということを思い出したからです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺にキスされた直後だったのは、偶然に過ぎません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君さあ、責任逃れをしたいだけなんじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一言一言に茶々を入れる人だ。無視だ無視。とにかく言いたいことを言うぞ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつらの言っていることも、俺の言ったことも、解釈に過ぎないのは同じです。どちらが事実とは誰にも言えません。もちろんどちらも事実ではないという可能性もあります。人間の無意識を証明することなどできません。我々に出来るのは解釈することだけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、自明の理っていう言葉を知っている？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言葉は知っていますよ。それ自体が明らかにする道理ってことですね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">うう。無視しようと思ってたけど、返事をしてしまった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だいいち、君にキスされて……って、あの子が自分で言ってたわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつは『忘れた』って言っていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はさっきからそのことが気にかかっている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">確かに俺はあいつの無意識にプロテクトを掛けた…らしい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">現に俺の記憶からハルヒの存在は削除されていない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
しかしあいつの無意識にかかったプロテクトは、「俺の記憶から自分のことを削除できない」ということだけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつの記憶から俺の記憶をデリートすることに関しては、何の効力も持っていない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この世界が今から十三分前に出来たという可能性は否定できない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">閉鎖空間が消えたのは、その必要が無くなったからかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あいつの不安やストレスが消え、精神が安定したのは、世界改変が終わったからなのかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺があいつのことを覚えていても、あいつは俺を忘れたかもしれない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「今まで覚えていたことの方が驚きです。八ヶ月も前のことですよ。思ったより……執念深い奴だ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君みたいな男のそばにいたら、どんな女だって執念深くなるわよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">キスした以上は君はあの子を彼女として扱う責任があるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつはですね、あの時のことを夢のようだと感じています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そうかもしれないわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">誤解しているな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「夢のような出来事だと思ってるわけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それはわかるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これでもダメか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「夢の中の出来事だと思っています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっとズレたわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつがそれを夢だと信じている以上、俺にとってはそれが事実なんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こことは違う空間とはいえ、あの行為を俺が行ったことは現実だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あいつがそれをリアルだと受け取っているなら、俺はなんらかの決断をするべきなんだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしあいつが夢だと信じている以上、あれは夢でしかない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それではぐらかしたつもり？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とにかく君が、あの子に対して強い影響力を持っていることは確かだわ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やっぱり責任があるんじゃないの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">…。髪型変える程度の影響力なんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしそれをここで蒸し返すとややこしいことになりそうだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それについては、俺があいつの何なのかということと関係があります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">団長様にとっての団員その１</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">団長様の雑用係</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">女王様の下僕</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そのほかに俺の肩書き、というか役割があるんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">古泉と長門が言っていた内容を話してみることにした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつが扉でおれが鍵。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これも誤解を受けそうな表現だな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「無論、マンションの部屋の鍵を預かってるとか、そういう色っぽい話ではありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「当たり前よ…。高校生のくせに。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おれは、あいつという人間そのものの鍵なんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの子の鍵か…。ちょっとくわしく教えて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「これはもちろん比喩ではあるんですが、ただの例えとは言えない部分もあります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつは俺などとはくらべものにならない能力を持っています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">こう言っておけば無難だろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒのトンデモパワーについて話すことはできない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「おれのことをそう呼んだ連中は、俺を扉を開ける者だとしか思っていないようです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまりあいつの能力を開くためのきっかけでしかないと。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかし鍵には開けるのと同じくらい、ある意味それ以上に重要な役割があります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「閉めることね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「鍵は開けるための物でもありますが、閉めるための物でもあります。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あいつの能力が暴走して他人を傷つけそうになった時、あるいは今日のように自分自身を傷つけそうになった時、扉を閉じてそれを抑えるという役割があるんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんとなく、ケーキにデコレーションする時に使うアレを思い出した。結局そういうことだよな。名前を何て言うんだろう？ クリーム搾り器っていうのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「本来こういうことは自分自身でやるべきなんですが、あいつは無意識に俺にそれを丸投げしました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
もしあいつに対して俺がなんらかの影響力を持っているとしたら、そのせいでしかありません。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">つまり俺はあいつの、外付けのブレーキにすぎないんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ブレーキがオプションって、どんな欠陥車だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、いま自分で言ったじゃないの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">鍵は開けるより閉める方が大事かもしれないって。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
車に乗る人間にとって、どんな高性能のエンジンよりも、信頼できるブレーキの方がはるかに大切なのよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
エンジンには快適にさせてくれることしか求めないけど、ブレーキには自分と他人の命を預けているの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">自分が世界を捨てることさえも止めてくれることを期待しているということね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
そういうことではないんだけどな。あいつはあの時本気で世界を作り替えようとしていた。それを止めてほしいなどとは考えていなかったはずだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「単に比喩として使われた言葉について、細かく考えても仕方ありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ただの例えじゃないって自分で言ったわね。自分で言ったことを何度も忘れるなんて。君、若いのに認知症？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ひどいことを言われたな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「比喩的でない言い方をすれば、ただの役割です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「役割なら役割でもいいわ。なんであの子は君に鍵という役割をさせようとしたのかしら。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それについてははっきりしています。『誰でも良かった。』」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">鍵もニキビ治療薬も同じだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君さあ…、女の子にとって『鍵』ってどういうものだかわかる？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さっきのブレーキの例えで言えば信頼性の象徴とでも言えるかもしれませんが、道具であることには変わりありません。一番最初に言ったはずです。あいつにとっておれはモノでしかないと。結局のところ、俺はあいつの意識レベルではイスでしかなく、無意識レベルではフタにすぎません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「そして鍵にはもう一つ大事な役割があるわね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、中にある大事な物を外の敵から守るという意味もありますが…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「というより、鍵はそのために作られたものだわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">作られた、か…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の、あいつを好きだという気持ちさえも、あいつに作られたものだとしたら…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつが自分を守らせるために勝手に作ったんだとしたら…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">気が滅入ってきた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、これは作られたものなんかじゃなくて、生まれたものだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺の中で自然に生まれたものだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そう信じたい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やれやれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「その意味で言うと、フタというよりハコですね。誰だって空き箱に用はありません。ハコより中身が重要なわけです。あいつがいなければ、俺は空っぽの宝石箱にすぎません。だいいち一つの扉に対して、鍵が何本もあるのはよくあることです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">戦艦一隻の護衛には、少なくとも駆逐艦四隻、巡洋艦二隻は欲しいな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「だから俺はあいつへの影響力を決して自分のために使おうとは思いません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「髪型を変えさせたのは、君にとってはただのイタズラかもしれないけど、あの子にとってはそうじゃないわよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">意識的に変えさせたわけじゃないんだけどな。アイツ以外には。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「まあ、とりあえずあの子の話はいいわ。さっきのもう一人の子、長門さんについて聞かせてちょうだい。あの子とはどういう関係になるわけ？ まあ、こういう聞き方をしても、君が正直に答えるとは思わないけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
確かにハルヒについて言えないことはぼかしたけれど、嘘をついたわけではないんだけどな。やっぱりそう聞こえるのか。やれやれ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「聞き方を変えるわ。正直なところ、君は自分にとって長門さんを自分の何だと考えているわけ？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「最強の護衛です。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「護衛？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「さっき守り守られるという関係について話しましたが、その時俺は長門とのことを思い浮かべていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺はハルヒに守られてはいない。一方的に守っているだけだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつが俺のためになにかするとは思わん。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺を守るのは長門の仕事だ。長門だけで十分だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この時急に、ハルヒの拗ねた時の顔が浮かんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんでだ？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんだかさっきあいつからこのことについて聞いたような気がする。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">はっきり覚えてないが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあ、多分気のせいだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">今はハルヒのことより長門のことだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「俺はかつて命を脅かされたことがあります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「どんな風に？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">結合情報を変換された教室、つまり情報制御下に置かれた空間に監禁されて…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">言えるわきゃないよな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「刃物で襲われたんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「女に？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人にはなんでわかるんだろう？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まさかインターフェースなのか？</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だとしたらハルヒや長門のことをあまりぺらぺらしゃべったらまずいんじゃ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まさか…図星？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「教えて下さい！ なんでわかったんですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「わかっちゃうんだからしょうがないでしょ。と、言いたいところだけどそうじゃないわ。君みたいなことをしていたら、女に刃物で刺されたっておかしくないと思っただけ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">よくわからないが、この人はインターフェースではないようだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やれやれ…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「その時あいつが間に入って、俺の命を救ってくれました。それ以来何度も俺の命を守ってくれています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
レーザー光線をシールドしてくれたり、超振動性分子カッター（だったかな？）が出ないように中和してくれたり…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君、そんなに何度も女に刺されそうになったの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何を言っているんだこの人は。やはり誤解しているな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「二回だけですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">一度は本当に刺されたんだけどな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「二回あればじゅうぶんよ。その若さでね。やれやれ…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">やれやれって…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかくあいつがおれを守ってくれていることは確かです。しかしそんなことをずっと繰り返していたせいか、あいつはとうとうストレスがたまりすぎて、異常行動を起こしました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「君のせいね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">俺のせいではなくて、情報統合思念体のせいなんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、俺のせいじゃなくてですね。あいつに仕事をさせすぎた奴がいてですね……。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「異常行動って何をしたの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">スルーされた……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「俺たちはあいつの部室を不法占拠しているんですが、あいつはまず朝比奈さんを部室から叩き出し…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっと待って。その『朝比奈さん』って誰？ 今までの話に出てきた？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「まあ、一応出てきました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">これまでの話の中では重要なキャラクターではないな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ハルヒを部室から追い出すだけではなく、学校からも放り出して、古泉っていう、これは男ですが、さっき携帯で話していた奴です。ハルヒをそいつとくっつけようとしてたみたいで…、もちろん古泉も追放しました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ええと、君たちはあの子の部室を不法占拠していたわけよね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">過去形ではなく現在進行形なんだが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あの子のしたことのどこが異常行動なの？
話を聞いている限り、当たり前のことをしただけじゃない。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この説明だとそうなってしまうな。まあ、本質的なことではないからいいけど。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いや、そんなことをしそうな奴には見えなかったんですよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それで長門さんは、君も部室から追い出そうとした？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「いいえ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「つまり長門さんは、部室から他の人を全て追い出して、一人で君が来るのを待っていたわけね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「結果的にはそうなりますが。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">そう。結果的にそうなったにすぎない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
あの時あいつが求めていたことは、未来人、超能力者、自律進化の可能性といっしょにいることに疲れ果て、インターフェースではなく普通の人間になることだった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
俺があそこから追い出されなかったのは、俺があの時の長門と同じ、普通の人間だったからだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「もしかして最初に部室から追い出された『朝比奈さん』っていうのは、今回ハルヒちゃんにばれてイスにされる原因になった、デートの相手？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
なんでわかるんだろう、この人は実は未来人で、朝比奈さんの上司か何かなんだろうか…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">とは思わなかった。三回目ともなれば俺も学習する。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その通りです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「やっぱりね。話の流れからしてそうじゃないかと思ったのよ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「とにかくそんなことがあってから、俺はあいつのことをよく見ているようになりました。相変わらず俺はあいつに守られてばかりいますが、支えてやらなくていいとは思っていません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「長門さんは、君にそれ以上の気持ちを持っているかもしれないわね。会ったことがないからなんとも言えないけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">この人はハルヒともさっき会っただけだと思うが。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それともあいつはこういうところにしょっちゅう出入りしているんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">まあいい。今は長門のことだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「考えすぎたと思いますよ。あいつはさっき俺に心をもらった、……こういうことを言うと誤解されそうなので言い直しますが、喜怒哀楽の感情を持つことができるようになった、と言っていますが、そうではありません。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ちょっとわかりにくいけど、続けて。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「あいつには感情が無いわけではありません。むろん感情の量がひとより少ないわけでもありません。表情が無いだけです。自分の感情を表情に乗せるのが下手なだけです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">なんとなくハルヒのいろんな表情を思い出した。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">笑っているハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">怒っているハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">アヒルのような口をして、拗ねているハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">救急車のそばに立っていた、鬼のような顔をしたハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">泣いている…ハルヒ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">最後のは、見ないですんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だが、さっきはあいつの泣き顔がありありと浮かんだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつは泣くのがヘタそうだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">美人を台無しにして、ぐちゃぐちゃになって泣くだろう。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">それだけ表情が豊かだということだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">長門もその十分の一くらいでも表情に出せれば、きっと楽だろうに。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いや、ハルヒはハルヒ。長門は長門だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">比較してどうなるものでもない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「少なくとも長門は俺と初めて会った時には、感情を持っていました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何かあったの？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「初めてあいつに助けられた後『また襲われたりするのかな』と俺が言った時、あいつが何と返事をしたか今でも覚えています。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あたしがさせない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ちょっと変な気がした。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あいつはいつも自分のことを「わたし」と言う。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">しかしこのセリフは一字一句覚えている。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">絶対に間違うことはない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">たしかにあの時あいつは、「あたし」と言った。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">何か意味があるんだろうか。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「わたし」は男女ともに使う言葉だが、「あたし」は女だけが使う言葉だ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">考えてみればあいつが女言葉を使っているのを聞いたことがない。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">あの時だけは自分が女だと宣言しようとしていた…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">考えすぎだな。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ハルヒたちといっしょにいて俺が得た教訓は、「深読み禁止」ということだ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">いくら考えたとしても、それを飛び越えるような事態ばかりが起きる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">見た物聞いた物を素直にとらえるのがいちばんいい。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつはあの時、自分の意志で行動することを宣言しました。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">自分の気持ちで進む道を選びとったんです。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だからあいつは俺にとって最強の護衛なんです。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「その言葉を素直にとれば、また別の意味が浮かんでくると思うけど…。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">素直にとればって…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「深読みはしません。とにかくそんなことがあって、俺はどういう形でもいいからあいつの役に立ちたいと思っています。それに、あいつの命を一度だけ救ったことがあります。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「具体的に。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「あいつを消そうとしていた奴らがいました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「消すって？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「消す、としか言えません。俺はたまたま弱みを知っていたので、そいつらを脅しました。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「弱みって？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「言えませんよ。言ったら弱みじゃなくなるじゃないですか。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「なるほどね。さっきから君が言っている言葉の中で、唯一納得できる回答だわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">またひどいことを…。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「たまにはいいことするじゃないの。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「ありがとうございます。人の命を助けたことなんか、今までに二回しかないですけど。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
「一回でもじゅうぶんだわ。君は長門さんに何回も命を助けられたそうだけど、一回も百回も同じよ。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
長門さんがいなければ今の君はなかったのと同じように、君がいなければ今の長門さんはなかった。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">命は一度失えば、それでおしまいだもの。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">
それにさっき、マッチポンプとはいえ、ハルヒちゃんを救ったのはまぎれもない事実だしね。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">マッチポンプって……。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「それに君がいなければ、あの子は世界を捨てていた。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">だからお説教はここまでで勘弁してあげる。</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">ただし、条件があるわ。」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「何ですか？」</div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;">「ハルヒちゃんを、もう一度ここに呼び出しなさい！」</div>
