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橘京子の――(後編)」(2020/03/12 (木) 09:22:54) の最新版変更点

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<p> なお、橘の記憶についてだが、なんのかんのあって元の記憶を取り戻すことができた。<br />  といっても、彼女自身が全てを思い出したわけじゃない。それどころか彼女自身どうしてよいか分からない状態だった。もちろん俺の力ではどうする事も出来ず、お手上げ。<br />  こうなっては誰かの手を借りて修復するしかない。誰の手を借りるかといえば――お分かりの通り、超絶万能スキル文芸部長、長門有希の力によるものである。<br />  しかし、その長門も当初「許可が下りない」との理由で橘の脳内情報操作を施すことが出来なかった。曰く『涼宮ハルヒに関わる全ての人間に対しては原則観察のみ行う。それ以上の行動は禁止されている』とのことである。<br />  だが、何とかして情報を蘇らせたかった俺は長門に懇願し、三秒ほど俺の顔を眺めつづけた結果、首を縦に振ってくれたのだ。<br />  とは言え、ヒトの記憶を操作することが出来ない以上、別の方法で記憶を蘇らせるしかないのだが……何とかなるのだろうか。<br /> 「なる」<br />  彼女が出した解決策は、意外な……ある意外なモノを利用することだった。<br /><br />  ………<br />  ……<br />  …<br /><br /> 「ピンポーン」<br />  あの後。<br />  どうしてよいか分からず、途方にくれた俺と橘を待っていたのは、シンプルに響く我が家のチャイム音だった。<br />  ドア越しからも分かる三点リーダを肌身で感じつつ、ドアを開けると予想通りのセーラー服姿。<br /> 「よう」<br /> 「…………」<br />  家の中に入るよう促し、再びパタンと玄関のドアが閉まった。<br /> 「あ、お客さんですか? こんにちは」<br />  と、問題のツインテール。記憶を無くした割には失望感ゼロの能天気さがまざまざと伝わってくる。<br />  長門もその辺何かを感じ取ったのか、一瞥するだけで関わる気は全くない。<br />  彼女にとって、橘以上に気になる存在がいた。<br /> 「ねこ、どこ?」<br /> 「もうそろそろ帰ってくるだろう」<br /></p> <dl><dd> そう、ねこ――我が家ペットと化したシャミセンである。<br />  冬は俺の部屋のベッドが定位置となっているシャミセンは、しかし夏場はフラフラとどこかに遊びに出かける模様で、実のところ俺もアイツがどこまで遊びに行ってるか分かっていない。腹が減ると帰って来るんだけどな。<br />  長門に我が家までお越し頂いたのも、行方知らずの猫を探すより、戻ってくるのを待ったほうが手早いと感じたからだ。<br />  もうおわかりであろう。橘の記憶喪失を復活させるために必要なのは、シャミセンなのだ。<br />  いや、正確に言うならば――。<br /> 「ふにゃあ」<br />  果たして俺の予想通り、長門の足元を縫って現れた三毛猫。長門は何も言わず足元にいた猫をすっと抱きかかえた。シャミセンもまた暴れる事も無く素直に抱きかかえられている。<br /> 「わー、ねこさんですね。かわいいかわいい」<br />  記憶を失っても愛玩猫のかわいさはわかるようで、初めてシャミセンと戯れた時の朝比奈さん並に全身無邪気オーラを醸し出している。もしかしたらこのまま記憶喪失でいたほうがコイツのためにいいかもなんて思いつつ、すぐさま思いを改めた。<br />  そんな俺の気持ちなど知る由も無く、橘はわが家の三毛猫を撫で撫でしていたが、<br /> 「そのまま、じっとしてて」と突然号令がかかり、<br /> 「え……? は、はい」そのまま直立不動体制をとる。<br />  長門は抱えたシャミセンを橘の目の高さまで持ってきて、抱えていない方の腕をシャミセンの額へと寄せ、続いて橘の頭の上へと移動する仕草を繰り返す。<br /> 「…………?」<br />  おっかなびっくりの表情で、長門の手の動きに合わせて橘の目線も移動する。が、長門は気にせず自分の仕事に邁進し。<br />  そして、<br /> 「終わった」<br />  一言ポツリと呟いた。<br /> 「……へ? 何がですか?」<br />  何やら戸惑っているツインテールに、救いの手を差し伸べる。<br /> 「橘、記憶、戻ったか? お前の名前はわかるか?」<br /> 「……えーと、えーと…………確か……きょう……ああっ!! そうですっ!! 京子です! 橘京子です!!」<br />  喉の奥に詰った魚の骨が取れたかのように、スッキリした表情で笑顔を咲かせた。<br /> 「俺は誰だか分かるな?」<br /> 「ええ、キョンくんです!」<br />  できれば本名で呼んで欲しかったが、まあいい。<br /> 「そして、そちらは……えーと……」<br /> 「長門有希」<br /> 「そ、そうです! 長門さんです!」<br />  若干怪しい……が、長門とのコンタクトはあまりないし、こんなもんか。<br /> 「他にもじゃんじゃん思い出してきました。佐々木さんに、涼宮さんに、ゲ泉さん……」<br />  最後、惜しい!<br /> 「そうですか? まあどうでもいい人なんでそんな扱いでも構わないと思いますが」<br />  そうだな、一理ある……って言うと古泉に叱られそうだから、沈黙して言葉を濁すことにする。<br /><br /><br />  お分かりいただけただろうか。<br />  長門は、以前シャミセンの中に閉じ込めた情報生命体――確か、珪素構造生命体うんたらかんたら――の一部を解凍し、橘の脳内で活動を再開させたのだ。<br />  犬の神経を極度に疲弊させたこの生命体は、限定的な情報ネットワークを形成する能力があるとのこと。脳内における情報ネットワークの構成とは、即ち途切れ途切れになった記憶を結合させ、復活させることでもある。<br />  犬を始め、一部の生物上でしか活動することのない情報生命体だが、橘の脳内ネットワークは生命体にとって居心地がよかったらしく、直ぐに活動をし始めたようだ。<br />  成功確率は全く未知数であったこの方法だが、どうやら上手くいったようである。<br /> 「未知数だったわけではない」<br />  と、長門。<br /> 「彼女の有機性情報伝達物質、いわゆるデオキシリボ核酸における塩基配列を解析した結果、珪素系情報伝達物質に相似したアドレス空間があることが判明した。それは、彼らの情報ネットワークを形成するスペースとして十分たるものだった」<br />  本人からしては俺にわかりやすい言葉を選び噛み砕いて説明しているつもりなんだろうが、長門の毛髪一本にも満たない俺の知識ではやはり理解するのは不可能である。だから「そうかい」とだけ呟き、それ以上は何も言わなかった。<br />  長門もそれで十分だったのか、嬉しさのあまりシャミセンをほうり投げて遊ぶ橘をただただじっと見つめていた。<br /><br />  暫くは嬉しそうに遊ぶ橘の他愛の無い言動を見守っていた俺と長門だったが、<br /> 「弊害もある」<br />  突如、思い出したかのように呟いた。<br /> 「なんだ、問題って」<br /> 「有機生命体としての制約上、情報ネットワークの形成には限りがある。溢れた情報ネットワーク網は、有機生命体の記憶だけではなく、様々な言動や行動にも影響を与える」<br />  つまり、副作用ってやつか。阪中や樋口さんところの犬が神経を消耗したのと同じだな。<br /> 「そう」<br /> 「因みに、どんな作用があるんだ?」<br /> 「例えば、」ここで言葉を区切り、「相手の気持ちや立場を理解しようとせず、自身の意思や気分によって言動が決定付けられることが頻繁になる」<br /> 「ええと、つまり……」<br />  難しくはないが、理解するのに時間を要する言葉の羅列に戸惑っていると、長門はさらに簡潔に申し上げた。<br /> 「空気が読めない」<br />  …………え?<br /> 「略して、KY」<br />  そ、そうなのか? 俺がそう問おうとしたところ、<br /> 「ああーっ! 思い出しましたぁ!!」<br />  橘が悲鳴に近い大声を上げた。<br /> 「今日あたしがここに来た理由ですけど、隣町のショッピングモールで夏のクリアランスセールやってるんですよ! 大量にお買い物しなきゃいけないんで、キョンくんも手伝ってください!」<br />  何で俺が手伝わんといけないんだ?<br /> 「だって、荷物の持ち運び大変ですもの」<br />  い・や・だ。<br /> 「報酬として、さっきの『新・三種の神器』まるごとあげちゃいますよ」<br />  いらん。<br /> 「うーん、いけずぅ」<br />  何年前のギャグだ。今時ち○ま○子ちゃんでもやらないぞ、そんなの。<br /> 「それより、記憶が戻ったんなら一緒に隠した俺のDVDを早く見つけ出しやがれ。もし無事に見つかったなら考えてやってもいい」<br /> 「本当ですか!? んー。ちょっと待って下さい…………今思い出しながら……多分、あそこだと…………」<br />  ブツブツ言いながら橘は廊下の奥――あっちは風呂場以外ないんだが……まさか風呂場に隠したのか? ――へと向かっていった。見守る俺、そしてぬいぐるみと見紛うべきピクリともしないシャミセンを抱えたままの長門。<br />  橘の姿が見えなくなった後、長門は何かを言いたげな表情で小首を傾け、しかし再び廊下へと視線を移した。<br /> 「どうした? なにか聞きたいのか?」<br />  俺の言葉を待ってたかのように、長門は視線を俺にぶつけ、そして口を開いた。<br /> 「三種の神器とは、なに?」<br />  …………。<br /> 「彼女が有する三種の神器の詳細を知りたい」<br />  言えねー。言える訳がねー。<br /> 「あれはだな……橘の私物だから、俺は全く知らないんだ。いや本当だ」<br /> 「そう」<br />  少し残念そうな表情で、<br /> 「ならば、デジタル多目的ディスクの中身を知りたい」<br />  それももちろん言えるはずがない。言ったら今以上の白い目線が俺の五臓六腑を貫通してそのままお陀仏するに違いない。<br /> 「そのデジタル多目的ディスクはあなたのもののはず。あなたなら、どのような内容か知っているはず」<br /> 「いや、そうなんだが、でもまだ俺は中身を見てなくて……その……」<br /> 「ありましたぁ!!」<br />  ここで橘が戻ってくる。両手に抱えているのは三種の神器とやらと、そして俺のDVD。<br /> 「おおっ! よくやった!!」<br />  KYどころかナイスタイミング。これを気に質問はうやむやにさせてもらう。長門には悪いが。<br />  俺たち二人の視線がそちらに切り替わったのを気に、いつもより少し声を大きめにして橘の方へと詰め寄り、トートバッグの中身を確認。橘所有の新旧三種の神器、その上に俺のDVDがちょこんとのっかっている。<br /> 「へへへー。じゃ、約束ですよ。お買い物付き合ってくださいね」<br />  むう……しょうがない。長門、お前も行くか?<br /> 「いい」軽く首を横に振って、「それより、多目的ディスクの中身を教えて欲しい」<br />  な、長門にしてはしつこい……。だが無理なものは無理だ。<br />  そう口にしようとした瞬間、橘京子がついに異常行動の片鱗を見せることになった。<br /><br /> 「DVDの中身ですか? あれはキョンくんの趣向の集大成ですよ。キョンくん好みのおっぱいが大きい女の子が現れて、○○を刺激したり、××を舐めたり、挙句に△△で□□□を挟み最後はポニーテールにフィニシュ!」<br /><br />  …………い、<br /> 「言うなバカヤロー!!!!!!」<br /> 「ひぃん!」<br />  手にしていた卵さんを再び投げつけ、見事沈黙させる。……が、時既に遅し。<br /> 「…………・・・…………」<br />  あああああああああ。長門の視線が白い。ひたすら白い。<br />  元々無言なだけにさらに堪える視線だ。おまけに明らかな侮蔑の表情まで混じってやがる。<br />  ポジティブ論で行けば単に意味が理解できず困り果てているだけかもしれないが、逆に理解した後のことを考えると、今からでも背筋が凍りつく。<br />  どおしてくれるんだバカ橘ぁぁ!!<br /> 「そ、そんなこと言ったって……長門さんが聞きたいんだろうと思って……」<br />  卑猥な趣味を聞きたがる女子高生がお前以外のどこにいるってんだ空気読めぇぇぇぇぇ!!!!<br /> 「ひええええ~」<br />  ……ったく、相手がまだ長門で良かったぜ。もし万が一にでもハルヒや佐々木に聞かれたら……。<br /><br /> 『キョン、呼んだ?』<br /><br /> 『…………え゛?』<br />  女の――女達の声が聞こえた。<br />  夏と言う時期にはピッタリな、しかし真っ昼間と言うのは時期尚早な。<br />  うらめがましく、血の気が引くようなおぞましさを含んだ、二人の女性の声。<br />  ま、まさか……そんな……あいつら…………。<br />  必死に脳内に浮かんが可能性を否定する俺。<br /> 「ひ……ひえ…………」<br />  恐怖のあまり、ガチガチと震えだす橘京子。<br />  次の瞬間、ポルターガイストの如く、バァンと大きな音を立てて玄関が開き――。<br /><br /> 「ふふふふ…………なるほど、キョン。あんた部屋のカーテンを締め切って何をしてるかと思ったら、そんなことしてたのね」<br /> 「くくくく…………例えバーチャルな存在であっても、キョンを誑かすものは許せないね……」<br />  ハルヒに佐々木…………お前らどうして……!?<br /> 「あの時はつい動揺して逃げ出したけど、キョン一人に押し付けるのも悪いから戻ってきたのよ」<br /> 「それに、二人っきりにしておくと何をしでかすかわからないからね……」<br />  長門の白い視線より何百倍も殺傷効果の高い二人の視線が、俺と橘を切り刻む。<br /> 「記憶戻ったみたいじゃない。良かったわね、橘さん」<br /> 「え……ええええと………………あ、あひがと……ごじゃましゅ…………」<br />  寒さのためか、恐怖のためか。橘のろれつはまわってない。<br /> 「戻った途端、キョンをデートに誘うなんて、なかなか冗談きついね」<br /> 「い、いえ……デートだなんて……そんなつもりは毛頭……ないわけもなかったんですが……ええと…………」<br /> 「ふふふふ…………」<br /> 「くくくく…………」<br /><br /><br />  DVD観賞がばれてしまった俺と、二人を出し抜いて俺を使役した橘。<br />  共に怒りを買うのに十分な行為をしでかし……。<br /><br /><br /><br />  裁きを言い渡す。<br />  俺:DVDは二人によって粉々に壊され閲覧不能に。<br />  橘:今から『夏休みの補習』と称した勉強会に、三日三晩受講すること。<br /><br />  因みに、勉強会の内容がどんなものかは……怖すぎて聞く気にもなれなかった。<br /><br /><br /><br />  なお、ハルヒたちによって粉々に粉砕された我がDVDだが、俺はそんなに失望していなかった。<br />  何しろあのDVDはコピー。もう一度頼んで送付してもらえばいいだけのこと。<br />  手数料がかかるのが痛いが、とは言ってもそれほど高いものではないし、背に腹は替えられない。<br />  何より、俺の中にある溢れんばかりパトスが限界水域を突破しそうだ。<br />  というわけで、上記の旨を簡潔に纏め、メールで送信。<br />  そして数分後、返信メールにはこのように書かれていた。<br /><br /><br /> 『ゴメンゴメン、もう要らないと思って消しちゃったよ。何しろうちのハードディスクも容量一杯で、人気の無いヤツから消さないと……』<br /><br /><br />  ――もう、何もかも真っ白に燃え尽きた瞬間だった。<br /><br /><br />  …<br />  ……<br />  ………<br /><br /><br />  ああ、今思えば、あれが空気を読まない発言の根本だったのかもしれない。<br />  記憶回復の代償に、橘はとてつもない能力を身に付けてしまった。<br />  お陰でその後に起こった様々な事件に巻き込まれ、無駄に体力を消耗しては他人にも迷惑をかけ。<br />  残るは、何の実りもない実績のみ。<br />  だがしかし、それら全てはあの時のDVDにあるなんて……。もしかしたら軽い気持ちでとんでもないことをしてしまったのかもしれない。<br />  ……ん、だが待て。DVDを買ったのは確かに俺だが、しかしそれも谷口からのメールが無ければそんなこと露にも思わなかったわけで、そうすると全ての元凶は谷口にあるってことに……。<br /><br />  ……。<br />  ……。<br />  ……。<br /><br />  ……うん。そうだ、そうだったんだ。<br /><br />  コホン。冒頭の俺の言葉を訂正しよう。<br />  橘京子のKY化。<br />  それは俺のせいではなく、すべて谷口のせい。<br />  よーし決めたそう決めた今決めた。<br />  はっはっはっはっは………………<br /><br /><br /><br />  ……ふう。やれやれ。<br /><br /><br /><br />  終わってる。<br /><br /><br /></dd> </dl>
<p> なお、橘の記憶についてだが、なんのかんのあって元の記憶を取り戻すことができた。<br />  といっても、彼女自身が全てを思い出したわけじゃない。それどころか彼女自身どうしてよいか分からない状態だった。もちろん俺の力ではどうする事も出来ず、お手上げ。<br />  こうなっては誰かの手を借りて修復するしかない。誰の手を借りるかといえば――お分かりの通り、超絶万能スキル文芸部長、長門有希の力によるものである。<br />  しかし、その長門も当初「許可が下りない」との理由で橘の脳内情報操作を施すことが出来なかった。曰く『涼宮ハルヒに関わる全ての人間に対しては原則観察のみ行う。それ以上の行動は禁止されている』とのことである。<br />  だが、何とかして情報を蘇らせたかった俺は長門に懇願し、三秒ほど俺の顔を眺めつづけた結果、首を縦に振ってくれたのだ。<br />  とは言え、ヒトの記憶を操作することが出来ない以上、別の方法で記憶を蘇らせるしかないのだが……何とかなるのだろうか。<br /> 「なる」<br />  彼女が出した解決策は、意外な……ある意外なモノを利用することだった。<br /> <br />  ………<br />  ……<br />  …<br /> <br /> 「ピンポーン」<br />  あの後。<br />  どうしてよいか分からず、途方にくれた俺と橘を待っていたのは、シンプルに響く我が家のチャイム音だった。<br />  ドア越しからも分かる三点リーダを肌身で感じつつ、ドアを開けると予想通りのセーラー服姿。<br /> 「よう」<br /> 「…………」<br />  家の中に入るよう促し、再びパタンと玄関のドアが閉まった。<br /> 「あ、お客さんですか? こんにちは」<br />  と、問題のツインテール。記憶を無くした割には失望感ゼロの能天気さがまざまざと伝わってくる。<br />  長門もその辺何かを感じ取ったのか、一瞥するだけで関わる気は全くない。<br />  彼女にとって、橘以上に気になる存在がいた。<br /> 「ねこ、どこ?」<br /> 「もうそろそろ帰ってくるだろう」</p> <dl> <dd> そう、ねこ――我が家ペットと化したシャミセンである。<br />  冬は俺の部屋のベッドが定位置となっているシャミセンは、しかし夏場はフラフラとどこかに遊びに出かける模様で、実のところ俺もアイツがどこまで遊びに行ってるか分かっていない。腹が減ると帰って来るんだけどな。<br />  長門に我が家までお越し頂いたのも、行方知らずの猫を探すより、戻ってくるのを待ったほうが手早いと感じたからだ。<br />  もうおわかりであろう。橘の記憶喪失を復活させるために必要なのは、シャミセンなのだ。<br />  いや、正確に言うならば――。<br /> 「ふにゃあ」<br />  果たして俺の予想通り、長門の足元を縫って現れた三毛猫。長門は何も言わず足元にいた猫をすっと抱きかかえた。シャミセンもまた暴れる事も無く素直に抱きかかえられている。<br /> 「わー、ねこさんですね。かわいいかわいい」<br />  記憶を失っても愛玩猫のかわいさはわかるようで、初めてシャミセンと戯れた時の朝比奈さん並に全身無邪気オーラを醸し出している。もしかしたらこのまま記憶喪失でいたほうがコイツのためにいいかもなんて思いつつ、すぐさま思いを改めた。<br />  そんな俺の気持ちなど知る由も無く、橘はわが家の三毛猫を撫で撫でしていたが、<br /> 「そのまま、じっとしてて」と突然号令がかかり、<br /> 「え……? は、はい」そのまま直立不動体制をとる。<br />  長門は抱えたシャミセンを橘の目の高さまで持ってきて、抱えていない方の腕をシャミセンの額へと寄せ、続いて橘の頭の上へと移動する仕草を繰り返す。<br /> 「…………?」<br />  おっかなびっくりの表情で、長門の手の動きに合わせて橘の目線も移動する。が、長門は気にせず自分の仕事に邁進し。<br />  そして、<br /> 「終わった」<br />  一言ポツリと呟いた。<br /> 「……へ? 何がですか?」<br />  何やら戸惑っているツインテールに、救いの手を差し伸べる。<br /> 「橘、記憶、戻ったか? お前の名前はわかるか?」<br /> 「……えーと、えーと…………確か……きょう……ああっ!! そうですっ!! 京子です! 橘京子です!!」<br />  喉の奥に詰った魚の骨が取れたかのように、スッキリした表情で笑顔を咲かせた。<br /> 「俺は誰だか分かるな?」<br /> 「ええ、キョンくんです!」<br />  できれば本名で呼んで欲しかったが、まあいい。<br /> 「そして、そちらは……えーと……」<br /> 「長門有希」<br /> 「そ、そうです! 長門さんです!」<br />  若干怪しい……が、長門とのコンタクトはあまりないし、こんなもんか。<br /> 「他にもじゃんじゃん思い出してきました。佐々木さんに、涼宮さんに、ゲ泉さん……」<br />  最後、惜しい!<br /> 「そうですか? まあどうでもいい人なんでそんな扱いでも構わないと思いますが」<br />  そうだな、一理ある……って言うと古泉に叱られそうだから、沈黙して言葉を濁すことにする。<br /> <br /> <br />  お分かりいただけただろうか。<br />  長門は、以前シャミセンの中に閉じ込めた情報生命体――確か、珪素構造生命体うんたらかんたら――の一部を解凍し、橘の脳内で活動を再開させたのだ。<br />  犬の神経を極度に疲弊させたこの生命体は、限定的な情報ネットワークを形成する能力があるとのこと。脳内における情報ネットワークの構成とは、即ち途切れ途切れになった記憶を結合させ、復活させることでもある。<br />  犬を始め、一部の生物上でしか活動することのない情報生命体だが、橘の脳内ネットワークは生命体にとって居心地がよかったらしく、直ぐに活動をし始めたようだ。<br />  成功確率は全く未知数であったこの方法だが、どうやら上手くいったようである。<br /> 「未知数だったわけではない」<br />  と、長門。<br /> 「彼女の有機性情報伝達物質、いわゆるデオキシリボ核酸における塩基配列を解析した結果、珪素系情報伝達物質に相似したアドレス空間があることが判明した。それは、彼らの情報ネットワークを形成するスペースとして十分たるものだった」<br />  本人からしては俺にわかりやすい言葉を選び噛み砕いて説明しているつもりなんだろうが、長門の毛髪一本にも満たない俺の知識ではやはり理解するのは不可能である。だから「そうかい」とだけ呟き、それ以上は何も言わなかった。<br />  長門もそれで十分だったのか、嬉しさのあまりシャミセンをほうり投げて遊ぶ橘をただただじっと見つめていた。<br /> <br />  暫くは嬉しそうに遊ぶ橘の他愛の無い言動を見守っていた俺と長門だったが、<br /> 「弊害もある」<br />  突如、思い出したかのように呟いた。<br /> 「なんだ、問題って」<br /> 「有機生命体としての制約上、情報ネットワークの形成には限りがある。溢れた情報ネットワーク網は、有機生命体の記憶だけではなく、様々な言動や行動にも影響を与える」<br />  つまり、副作用ってやつか。阪中や樋口さんところの犬が神経を消耗したのと同じだな。<br /> 「そう」<br /> 「因みに、どんな作用があるんだ?」<br /> 「例えば、」ここで言葉を区切り、「相手の気持ちや立場を理解しようとせず、自身の意思や気分によって言動が決定付けられることが頻繁になる」<br /> 「ええと、つまり……」<br />  難しくはないが、理解するのに時間を要する言葉の羅列に戸惑っていると、長門はさらに簡潔に申し上げた。<br /> 「空気が読めない」<br />  …………え?<br /> 「略して、KY」<br />  そ、そうなのか? 俺がそう問おうとしたところ、<br /> 「ああーっ! 思い出しましたぁ!!」<br />  橘が悲鳴に近い大声を上げた。<br /> 「今日あたしがここに来た理由ですけど、隣町のショッピングモールで夏のクリアランスセールやってるんですよ! 大量にお買い物しなきゃいけないんで、キョンくんも手伝ってください!」<br />  何で俺が手伝わんといけないんだ?<br /> 「だって、荷物の持ち運び大変ですもの」<br />  い・や・だ。<br /> 「報酬として、さっきの『新・三種の神器』まるごとあげちゃいますよ」<br />  いらん。<br /> 「うーん、いけずぅ」<br />  何年前のギャグだ。今時ち○ま○子ちゃんでもやらないぞ、そんなの。<br /> 「それより、記憶が戻ったんなら一緒に隠した俺のDVDを早く見つけ出しやがれ。もし無事に見つかったなら考えてやってもいい」<br /> 「本当ですか!? んー。ちょっと待って下さい…………今思い出しながら……多分、あそこだと…………」<br />  ブツブツ言いながら橘は廊下の奥――あっちは風呂場以外ないんだが……まさか風呂場に隠したのか? ――へと向かっていった。見守る俺、そしてぬいぐるみと見紛うべきピクリともしないシャミセンを抱えたままの長門。<br />  橘の姿が見えなくなった後、長門は何かを言いたげな表情で小首を傾け、しかし再び廊下へと視線を移した。<br /> 「どうした? なにか聞きたいのか?」<br />  俺の言葉を待ってたかのように、長門は視線を俺にぶつけ、そして口を開いた。<br /> 「三種の神器とは、なに?」<br />  …………。<br /> 「彼女が有する三種の神器の詳細を知りたい」<br />  言えねー。言える訳がねー。<br /> 「あれはだな……橘の私物だから、俺は全く知らないんだ。いや本当だ」<br /> 「そう」<br />  少し残念そうな表情で、<br /> 「ならば、デジタル多目的ディスクの中身を知りたい」<br />  それももちろん言えるはずがない。言ったら今以上の白い目線が俺の五臓六腑を貫通してそのままお陀仏するに違いない。<br /> 「そのデジタル多目的ディスクはあなたのもののはず。あなたなら、どのような内容か知っているはず」<br /> 「いや、そうなんだが、でもまだ俺は中身を見てなくて……その……」<br /> 「ありましたぁ!!」<br />  ここで橘が戻ってくる。両手に抱えているのは三種の神器とやらと、そして俺のDVD。<br /> 「おおっ! よくやった!!」<br />  KYどころかナイスタイミング。これを気に質問はうやむやにさせてもらう。長門には悪いが。<br />  俺たち二人の視線がそちらに切り替わったのを気に、いつもより少し声を大きめにして橘の方へと詰め寄り、トートバッグの中身を確認。橘所有の新旧三種の神器、その上に俺のDVDがちょこんとのっかっている。<br /> 「へへへー。じゃ、約束ですよ。お買い物付き合ってくださいね」<br />  むう……しょうがない。長門、お前も行くか?<br /> 「いい」軽く首を横に振って、「それより、多目的ディスクの中身を教えて欲しい」<br />  な、長門にしてはしつこい……。だが無理なものは無理だ。<br />  そう口にしようとした瞬間、橘京子がついに異常行動の片鱗を見せることになった。<br /> <br /> 「DVDの中身ですか? あれはキョンくんの趣向の集大成ですよ。キョンくん好みのおっぱいが大きい女の子が現れて、○○を刺激したり、××を舐めたり、挙句に△△で□□□を挟み最後はポニーテールにフィニシュ!」<br /> <br />  …………い、<br /> 「言うなバカヤロー!!!!!!」<br /> 「ひぃん!」<br />  手にしていた卵さんを再び投げつけ、見事沈黙させる。……が、時既に遅し。<br /> 「…………・・・…………」<br />  あああああああああ。長門の視線が白い。ひたすら白い。<br />  元々無言なだけにさらに堪える視線だ。おまけに明らかな侮蔑の表情まで混じってやがる。<br />  ポジティブ論で行けば単に意味が理解できず困り果てているだけかもしれないが、逆に理解した後のことを考えると、今からでも背筋が凍りつく。<br />  どおしてくれるんだバカ橘ぁぁ!!<br /> 「そ、そんなこと言ったって……長門さんが聞きたいんだろうと思って……」<br />  卑猥な趣味を聞きたがる女子高生がお前以外のどこにいるってんだ空気読めぇぇぇぇぇ!!!!<br /> 「ひええええ~」<br />  ……ったく、相手がまだ長門で良かったぜ。もし万が一にでもハルヒや佐々木に聞かれたら……。<br /> <br /> 『キョン、呼んだ?』<br /> <br /> 『…………え゛?』<br />  女の――女達の声が聞こえた。<br />  夏と言う時期にはピッタリな、しかし真っ昼間と言うのは時期尚早な。<br />  うらめがましく、血の気が引くようなおぞましさを含んだ、二人の女性の声。<br />  ま、まさか……そんな……あいつら…………。<br />  必死に脳内に浮かんが可能性を否定する俺。<br /> 「ひ……ひえ…………」<br />  恐怖のあまり、ガチガチと震えだす橘京子。<br />  次の瞬間、ポルターガイストの如く、バァンと大きな音を立てて玄関が開き――。<br /> <br /> 「ふふふふ…………なるほど、キョン。あんた部屋のカーテンを締め切って何をしてるかと思ったら、そんなことしてたのね」<br /> 「くくくく…………例えバーチャルな存在であっても、キョンを誑かすものは許せないね……」<br />  ハルヒに佐々木…………お前らどうして……!?<br /> 「あの時はつい動揺して逃げ出したけど、キョン一人に押し付けるのも悪いから戻ってきたのよ」<br /> 「それに、二人っきりにしておくと何をしでかすかわからないからね……」<br />  長門の白い視線より何百倍も殺傷効果の高い二人の視線が、俺と橘を切り刻む。<br /> 「記憶戻ったみたいじゃない。良かったわね、橘さん」<br /> 「え……ええええと………………あ、あひがと……ごじゃましゅ…………」<br />  寒さのためか、恐怖のためか。橘のろれつはまわってない。<br /> 「戻った途端、キョンをデートに誘うなんて、なかなか冗談きついね」<br /> 「い、いえ……デートだなんて……そんなつもりは毛頭……ないわけもなかったんですが……ええと…………」<br /> 「ふふふふ…………」<br /> 「くくくく…………」<br /> <br /> <br />  DVD観賞がばれてしまった俺と、二人を出し抜いて俺を使役した橘。<br />  共に怒りを買うのに十分な行為をしでかし……。<br /> <br /> <br /> <br />  裁きを言い渡す。<br />  俺:DVDは二人によって粉々に壊され閲覧不能に。<br />  橘:今から『夏休みの補習』と称した勉強会に、三日三晩受講すること。<br /> <br />  因みに、勉強会の内容がどんなものかは……怖すぎて聞く気にもなれなかった。<br /> <br /> <br /> <br />  なお、ハルヒたちによって粉々に粉砕された我がDVDだが、俺はそんなに失望していなかった。<br />  何しろあのDVDはコピー。もう一度頼んで送付してもらえばいいだけのこと。<br />  手数料がかかるのが痛いが、とは言ってもそれほど高いものではないし、背に腹は替えられない。<br />  何より、俺の中にある溢れんばかりパトスが限界水域を突破しそうだ。<br />  というわけで、上記の旨を簡潔に纏め、メールで送信。<br />  そして数分後、返信メールにはこのように書かれていた。<br /> <br /> <br /> 『ゴメンゴメン、もう要らないと思って消しちゃったよ。何しろうちのハードディスクも容量一杯で、人気の無いヤツから消さないと……』<br /> <br /> <br />  ――もう、何もかも真っ白に燃え尽きた瞬間だった。<br /> <br /> <br />  …<br />  ……<br />  ………<br /> <br /> <br />  ああ、今思えば、あれが空気を読まない発言の根本だったのかもしれない。<br />  記憶回復の代償に、橘はとてつもない能力を身に付けてしまった。<br />  お陰でその後に起こった様々な事件に巻き込まれ、無駄に体力を消耗しては他人にも迷惑をかけ。<br />  残るは、何の実りもない実績のみ。<br />  だがしかし、それら全てはあの時のDVDにあるなんて……。もしかしたら軽い気持ちでとんでもないことをしてしまったのかもしれない。<br />  ……ん、だが待て。DVDを買ったのは確かに俺だが、しかしそれも谷口からのメールが無ければそんなこと露にも思わなかったわけで、そうすると全ての元凶は谷口にあるってことに……。<br /> <br />  ……。<br />  ……。<br />  ……。<br /> <br />  ……うん。そうだ、そうだったんだ。<br /> <br />  コホン。冒頭の俺の言葉を訂正しよう。<br />  橘京子のKY化。<br />  それは俺のせいではなく、すべて谷口のせい。<br />  よーし決めたそう決めた今決めた。<br />  はっはっはっはっは………………<br /> <br /> <br /> <br />  ……ふう。やれやれ。<br /> <br /> <br /> <br />  終わってる。<br /> <br />  </dd> </dl>

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