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「はい、メガネon」(2020/03/12 (木) 15:01:20) の最新版変更点
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<div class="main">
<div>週明けの月曜日。<br />
教室の窓の外、続々と登校してくる生徒たちを見下ろしながら、<br />
あたしは上機嫌でハミングなど口ずさんでいた。<br /></div>
<br />
<div>日曜の夜に見た映画が、意外にヒットだったのだ。キョンの奴も<br />
アレは見ただろうか。見たわよね、きっと。<br />
ああ、早くキョンとあの映画の話で盛り上がりたいな! 本当は<br />
晩の内に電話でも掛けようかと思ったのだけれど、我慢して<br />
今朝の楽しみに取っておいたんだもの。<br />
やっぱり、こういうのは直接話した方が楽しいもんね!<br /></div>
<br />
<div>いやでもだからって、朝イチであたしの方から話を振るってのも<br />
なんとなく引っかかるかも。そうね、キョンの方から<br />
声を掛けてくれるといいんだけど…。<br /></div>
<br />
<div>そんな、愚にもつかない事をあたしが考えていると、不意に<br />
教室の後ろの扉付近で、幾つもの歓声があがった。<br /></div>
<br />
<div>「わあっ、キョン君どうしたの、それ!」<br />
「なになに、イメチェン!?」<br /></div>
<br />
<div>いつもの朝の喧騒をさらに上回る驚きの声に、あたしも思わず<br />
そちらへ振り返る。途端、あたしは目を真ん丸にしてしまったわ。<br /></div>
<br />
<div>数人のクラスメートに囲まれ、照れたような困ったような表情で<br />
頭をかいているキョン。その顔には見慣れない物体、<br />
そう“メガネ”が装着されていたのだ。<br /></div>
<br />
<div>細い黒のフレームに、横に長い長方形のレンズ。うわ、意外だけど<br />
キョンのクールな所が引き立ってて、結構イイかも。<br />
小学校の頃に人気のあった先生を思い出して、あたしはちょっと<br />
ドキドキしてしまった。<br /></div>
<br />
<div>だけど。それは何も、あたし一人の感想ではなかったらしい。<br />
まるで街中で芸能人でも見かけたみたいに、数人の女子生徒たちが<br />
キョンを取り囲んで、矢継ぎ早に質問を浴びせていた。<br /></div>
<br />
<div>「キョン君て、そんなに視力悪かったっけ?」<br />
「いや、俺も自覚は無かったんだけど。こないだのテストの成績で<br />
親に絞られた時に『最近、黒板の字が見づらいんだ』なんて、<br />
うっかり言い訳しちまったんだよ。<br />
そしたらムリヤリ眼科に放り込まれてさ。調べてみたら、本当に<br />
視力が落ちてたんだよな、これが」<br />
「ゲームばっかりやりすぎなんじゃないのー?」<br />
「いやいやいや、甘いな!」<br /></div>
<br />
<div>女子の歓声に引き寄せられたのか、いつの間にか谷口や<br />
国木田たちもキョンを囲む輪に加わってる。本当にアホね。<br /></div>
<br />
<div>「ズバリ! 夜中にこっそり秘蔵のビデオとか見過ぎたせいだと<br />
俺は読んだね!」<br />
「きゃーっ、キョン君のえっちー♪」<br />
「お前と一緒にすんな、谷口。つか、チャック閉めろ」<br />
「うおっ!?」<br /></div>
<br />
<div>いかにも、やれやれと言いたげな顔をするキョン。と、あたしの視線に<br />
気が付いたのか、あいつは突然、首をこちらに向けた。<br /></div>
<br />
<div>瞬間、なんとなく視線をそらせてしまうあたし。何よ。何なのよ、<br />
今の居心地の悪さは。<br />
そんなあたしの焦燥を知ってか知らずか。キョンの奴は<br /></div>
<br />
<div>「ま、イメチェンとかそんな大げさな話でもないだろ。これで俺も<br />
現代っ子の仲間入りってだけの事さ」<br /></div>
<br />
<div>という一言で話を切り上げ、こちらに歩み寄ってきたのだった。<br /></div>
<br />
<div>「ようハルヒ、元気か」<br />
「別に」<br />
「なんだ、月曜からブルーだな。何かあったのか?」<br /></div>
<br />
<div>自分の机に鞄を掛けながら、そう訊ねてくる。キョンの質問に、<br />
あたしは内心でびっくりしていた。<br />
月曜からブルー? あたしが? あたしは今、そんなに<br />
不機嫌そうな顔をしてるっていうの?<br /></div>
<br />
<div>違う。違うわ! キョンが他の女子にチヤホヤされてたって、<br />
あたしには別に関係ないし!<br /></div>
<br />
<div>「キョン…あんた、そのメガネ…」<br />
「ああ、昨日の夕方に出来たんだ。慣れないもんだから<br />
どうもまだ耳とか鼻先とか痛くてな」<br /></div>
<br />
<div>そう言って苦笑してみせる、見慣れたはずのキョンの顔が<br />
なぜだか今日はやけに眩しくって、<br />
あたしはまっすぐ見続けている事が出来なかった。<br />
その、混乱のせいだろうか。<br /></div>
<br />
<div>「…なんか、変よ。似合わない。前の方が良かった!」<br /></div>
<br />
<div>気が付くとあたしは憎まれ口のようなセリフを吐いて、窓の方へ<br />
顔を背けていた。<br /></div>
<br />
<div>「そうか」<br /></div>
<br />
<div>別に気分を害した様子も無く、ただキョンはぽつりとそう呟いて、<br />
自分の机に向き直る。そのままホームルームが始まるまで、そして<br />
それ以降も、今日のあたしがキョンと会話を交わす事は無かった。<br /></div>
<br />
<div>朝のあの愉快な気分は、いったいどこへ飛んでいってしまったのか。<br />
苛立ちを胸に抱えながら、午後の授業を聞き流す。<br />
あ、でも…と6時間目の終わり際に、あたしは妙案を思いついた。<br /></div>
<br />
<div>有希もいつの間にかコンタクトにしていた事だし、SOS団に<br />
一人くらい、メガネ男子が居てもいいかもしんないわね。<br />
みくるちゃんたちが、キョンのメガネにどう反応するかっていうのも<br />
楽しみだし。そうよ、今日の部活は<br />
キョンの初メガネお披露目会で大いに盛り上がるとしましょう!<br /></div>
<br />
<div>「ねえ、キョン! 今日の部活だけどさ、あたしと…」<br /></div>
<br />
<div>でも、そんなあたしの興奮には、キョンの一言によって<br />
最悪の形で水が差されたのだった。<br /></div>
<br />
<div>「悪いがハルヒ、今ちょっと頭が痛いんだ、もう少し<br />
静かにしてくれないか」<br /></div>
<br />
<div>えっ? 何よ、それ。あたしがうるさいって事?<br />
あたしとは話したくないって事?<br />
呆然としているあたしに、キョンはさらにこう続けた。<br /></div>
<br />
<div>「それから、部活も今日は休ませてくれ」<br />
「ちょ、ちょっとキョン、そんな勝手な真似はっ!」<br />
「体の具合が良くないんだ、すまん」<br /></div>
<br />
<div>軽く頭を下げる、そんなキョンの顔色は本当に良くなくて。あたしは<br />
反論の言葉を思いつけなかった。<br /></div>
<br />
<div>「だったら、あたしが保健室に連れてってあげ…」<br />
「いや、大丈夫だ。もう授業も終わったし、一晩ゆっくり寝れば<br />
回復するだろ、たぶん」<br />
「そ、そう…。じゃあ好きにすれば!? あたしは部室に行くから!」<br /></div>
<br />
<div>本当は、キョンの事が心配だった。強引にでも、一緒に家まで<br />
ついていってやれば良かったのかもしれない。<br />
だけどこの時のあたしの胸の中には、心配と同じくらいの憤懣が<br />
渦巻いていた。いちいちこちらの裏目に出るような、<br />
キョンの言い分がなんだかあたしへの意地悪のように思えたのだ。<br /></div>
<br />
<div>学生鞄を引っ掴んだあたしはメガネキョンを教室に残して、ドカドカと<br />
大きく足を踏み鳴らしつつ、部室棟へと向かったのだった。<br /></div>
<br />
<div>何よ。何よキョンの奴!<br />
ほんのちょっと女子たちにキャーキャー騒がれたからって、<br />
いい気になってんじゃないわよ! あのバカっ!<br /></div>
<br />
<hr />
<br />
<div>ドカドカドカドカ、バンッ!!<br /></div>
<br />
<div>「あ、涼宮さ…」<br />
「みくるちゃん、お茶ッ!」<br />
「ひゃ、ひゃいっ!?」<br /></div>
<br />
<div>苛立ちのままに扉を蹴り開け、部室に乗り込んだあたしは<br />
団長席に鞄を放り投げ、腕組みをして乱暴に椅子に腰を下ろした。<br /></div>
<br />
<div>みくるちゃん、有希、古泉君、SOS団の面子は全員揃ってる。<br />
それが余計に腹立たしかった。なんでキョンの奴は<br />
ここに居ないのよ! あのメガネ面を見せてやれないのよ!?<br />
あー、もう! 写メでも撮っとけば良かったわ!<br /></div>
<br />
<div>「ご機嫌ナナメのようですね。何かありましたか?」<br /></div>
<br />
<div>あたしの憤激を酌んだのか、困ったような微笑を浮かべて<br />
古泉君が訊ねてきた。あいつもこういった細やかな心遣いとか、<br />
少しは覚えなさいよねっ!<br /></div>
<br />
<div>「それがさ! 聞いてよ古泉君! 有希もみくるちゃんも!」<br /></div>
<br />
<div>立ち上がり、身振り手振りも交えて、あたしは今日のキョンの<br />
SOS団員としてあるまじき言動を露呈してやったわ。<br /></div>
<br />
<div>「――ってなワケなのよ。どう思う、キョンのあの態度!?<br />
まったく団長に対する敬意が足りないっていうか」<br /></div>
<br />
<div>ほとんど一息にまくし立てて、あたしは椅子に腰掛け直すと<br />
湯飲みのお茶をぐいっとあおった。でも怒りが<br />
血液まで沸騰させてるのか、あたしの喉の渇きはまだ治まらない。<br /></div>
<br />
<div>「みくるちゃん、おかわりをちょうだ…」<br />
「何がおかわりですかっ!?」<br /></div>
<br />
<div>その時、響いた声。お世辞にもあまり迫力の無いそれは、しかし<br />
彼女なりの精一杯の怒鳴り声だったのだろう。<br />
その声の主を、有希は目を瞬かせ、古泉君は微笑を失い、<br />
あたしは口をぽかんと開けて見上げていた。<br />
丸いお盆を胸に抱えた、メイド服姿のみくるちゃんを。<br /></div>
<br />
<div>「お茶なんか飲んでる場合じゃないでしょう!?<br />
ひどい…ひどいですよ涼宮さんッ!」<br /></div>
<br />
<div>大きな瞳いっぱいに浮かんだ涙を懸命にこらえ、体をぷるぷると<br />
小刻みに震わせながら、みくるちゃんは確かにあたしを<br />
睨みすえていた。<br />
もしかしたら初めてじゃないだろうか、この子がここまで<br />
怒りをあらわにしたのは。<br /></div>
<br />
<div>「髪型とか、服とか靴とか小物とか、そういうの変えるのって<br />
ちょっとした冒険じゃないですか!<br />
それが成功するか失敗するか、ドキドキしながら<br />
一歩踏み出す気持ち…分かってるはずです、涼宮さんだって<br />
女の子なんだから! なのに…それなのに…」<br /></div>
<br />
<div>えぐっ、ぐすっとしゃくり上げながら、それでもみくるちゃんは<br />
あたしから瞳をそらそうとはしなかった。<br /></div>
<br />
<div>「今日のキョン君だって! きっと心の中ではすっごく<br />
ドキドキしてたはずですっ!<br />
新しいメガネを掛けて…昨日とはちょっと違う自分になって…<br />
そんな、そんなキョン君に、どうして?<br />
どうして『似合わない』なんて言っちゃったんですか、涼宮さん!」<br />
「だ、だって、それは…他の子たちは褒めてたし…」<br /></div>
<br />
<div>思わぬみくるちゃんの糾弾に、つい口ごもってしまうあたし。<br />
すると、みくるちゃんは「あーん、もうッ!」と<br />
憤慨の色もあらわに左右に首を振った。<br /></div>
<br />
<div>「違うでしょう!? 他の人がどう言ってたかなんて、そんなの<br />
どうでもいいんです!<br />
涼宮さんが『似合わない』って言っちゃったら、それで全部<br />
台無しじゃないですかッ!」<br /></div>
<br />
<div>子犬のように頼りなげな姿で、それでも敢然とあたしに<br />
牙を剥いてくる。みくるちゃんを奮い立たせているそれが何か、<br />
あたしも認めざるを得なかった。<br /></div>
<br />
<div>『正義』だ。正しいと思う事が自分の中にあり、間違っていると<br />
思う事があたしの中にあるから、だからみくるちゃんは<br />
こんなにも怒っているのだ。<br /></div>
<br />
<div>「涼宮さんが冒険する時には、いつだってキョン君が…後押しを<br />
してくれてたじゃないですか…。それなのに…ひくっ、<br />
うう…ひ、ひ、ひどいでしゅ涼宮さんはっ!」<br /></div>
<br />
<div>最後にはもう、きちんとした言葉にもならずに。みくるちゃんは<br />
堪えきれなくなったのか、両手で顔を覆って泣き始めた。<br />
持ち手を失ったお盆が床に転がり落ち、からんからんと乾いた音を<br />
立てて回る。と、古泉君がそれを拾い上げて、<br />
参りましたね、と言わんばかりに肩をすくめてみせた。<br /></div>
<br />
<div>うん、参った。今回ばかりは負けを認めるしかないわ。<br />
泣く子と地頭には勝てぬとか言うけど、みくるちゃんの真摯な涙には<br />
本当、平伏するしかない。<br />
キョン、こんなに想われてるあんたは幸せ者よ? それから、<br />
これだけ一生懸命に説教して貰えるあたしもね。<br /></div>
<br />
<div>「分かったわ、みくるちゃん。お願いだから泣き止んでちょうだい」<br />
「うっ、ぐすっ…涼宮、さん…?」<br /></div>
<br />
<div>泣きじゃくるみくるちゃんを抱き寄せて、栗色の髪を撫ぜながら<br />
あたしはそうささやいていた。<br /></div>
<br />
<div>「うん。明日は必ず、この場でキョンのメガネ顔をみんなに<br />
披露してみせるから。絶対、約束ね!」<br />
「は、はい。待ってます、楽しみに待ってます!」<br /></div>
<br />
<div>ふふ、こうしてるとなんだか妹みたい。やっぱり、みくるちゃんは<br />
ぽわっと笑ってる方がいいわ。SOS団最強の和みキャラよね。<br /></div>
<br />
<div>みくるちゃんの笑顔の後ろ盾を得て、あたしは学生鞄を引っ掴み、<br />
踵を返しながら有希と古泉君に呼び掛けた。<br /></div>
<br />
<div>「って事で、あたしは用が出来ちゃったから本日の活動は<br />
これでおしまい!<br />
有希! 古泉君! 戸締りとみくるちゃんの事をよろしくね!」<br />
「………了解した」<br />
「ご武運をお祈りしています」<br /></div>
<br />
<div>端的に頷く有希と、芝居がかった仕草で微笑む古泉君に<br />
ニッと笑顔を見せて、あたしはダッシュで部室を後にしたのだった。<br /></div>
<br />
<hr />
<br />
<div>はやる気持ちと、ためらう気持ちが心の中で入り混じったまま、<br />
下校途中に立ち寄ったキョンの家の前。<br />
ひとつ息を飲み込んで、あたしはインターホンのボタンを押した。<br /></div>
<br />
<div>「はーい、誰~?」<br />
「あの、涼宮ハルヒと申しま…」<br />
「あっ、ハルにゃん!?」<br /></div>
<br />
<div>まだ舌っ足らずな返事が返ってきたかと思うと、すぐに玄関のドアが<br />
開いて、妹ちゃんがあたしの前に飛び出してきたわ。<br /></div>
<br />
<div>「キョンくんのお見舞いに来てくれたんだよね? ハルにゃん、<br />
やっさしーい!」<br />
「え、いやその、ちょっと様子を見に来ただけで」<br />
「んーん、ハルにゃんの顔を見たら、キョンくんもすぐに<br />
元気になるよきっと! さ、上がって上がって!」<br /></div>
<br />
<div>と、あたしはいつの間にか妹ちゃんに後ろからお尻を押されていた。<br />
う~む、こうして懐かれるのは嬉しいんだけど、なんだか<br />
この子が相手だと、ペースを握られっぱなしなのよね。将来が<br />
ちょっとばかり不安だわ。<br />
って、いったい何の心配をしてるのよあたしは!?<br /></div>
<br />
<div>「あの、妹ちゃん、お家の方は?」<br />
「お父さんは、まだお仕事だよ。お母さんはね、キョンくんが<br />
調子悪いみたいだから、今晩はちょっとご馳走作ってあげるって<br />
お買い物に行ってるのー」<br />
「キョンの奴、そんなに具合悪いんだ…」<br /></div>
<br />
<div>妹ちゃんの言葉に、あたしの胸はずきりと痛んだ。もしかしたら<br />
あたしの言い放った心ない一言が、キョンを精神的に<br />
苦しめてしまったんだろうか。<br /></div>
<br />
<div>ああ、みくるちゃんの言った通りだ。<br />
5月のあの日、あたしはなんとなく夢で聞いた言葉通り、無理矢理な<br />
ポニーテールで学校に行った。キョンはそれを笑う事もなく、<br />
『似合ってるぞ』ときちんと褒めてくれた。<br /></div>
<br />
<div>もしあの時、冗談ででも「似合わない」などと言われていたら<br />
どうだっただろう。考えただけでもゾッとする。<br />
そのゾッとするような事を、あたしはキョンにしてしまったんだ。<br />
しかもその事を、みくるちゃんに指摘されるまで気付きもしなかった。<br />
本当にひどい。最低だわ、あたし。<br /></div>
<br />
<div>「キョンくんはね、お部屋に居るはずだから先に行ってて!<br />
あとでお飲み物持ってってあげるから!」<br />
「あ、ありがとう」<br /></div>
<br />
<div>やたらとテンションの高い妹ちゃんの笑顔炸裂っぷりとは裏腹に、<br />
あたしは急激に気分が重たくなっていた。<br />
階段を昇る足が止まりそうになる。いったいどんな顔で<br />
キョンに会えばいいんだろう。<br />
ううん、違うわ。今は自分の事を考えてる場合じゃない。いま一番<br />
大事なのは、キョンの事のはず!<br /></div>
<br />
<div>意を決して、あたしはキョンの部屋の扉をノックした。<br /></div>
<br />
<div>「どーぞ」<br /></div>
<br />
<div>ずいぶんと気の抜けた返事だわ。キョンの奴、あたしを<br />
妹ちゃんと勘違いしてるのね。<br />
それは、むしろ当然の事。いきなりあたしが家に押し掛けてくるなんて、<br />
キョンの方だって予想できるはずがない。でも。<br />
でも、キョンにとって…あたしはどんな存在なんだろう…?<br /></div>
<br />
<div>「どう、キョン。具合は?」<br /></div>
<br />
<div>思いきって扉を開けたあたしが中に向かってそう訊ねかけると、<br />
こちらに足を向けてベッドに横になっていたキョンは<br />
案の定、驚きの色もあらわに上体を起こした。<br /></div>
<br />
<div>「ハルヒ!? お前、なんでここに?」<br /></div>
<br />
<div>あ、メガネは外してる。そして、窓から差し込む夕焼けの赤を背景に<br />
こちらを凝視するキョンの顔は…ひどいしかめっ面だ。<br />
やっぱり、あたしのあの一言のせいで不機嫌なんだろうか。<br /></div>
<br />
<div>「ん、その…帰り際にさ、キョンったら調子悪いみたいな事を<br />
言ってたから、なんとなく気になって」<br /></div>
<br />
<div>いや、そーじゃないでしょ!? 自分が悪いのは分かってるんだから、<br />
素直に謝りなさいよ、あたし!<br /></div>
<br />
<div>「なんだ、そんな事なら携帯で訊けば済むだろうに」<br /></div>
<br />
<div>呆れたような口調で、キョンもそう言う。あたしが来たって、<br />
別に嬉しくも何ともないんだろうか。それとも…<br />
やっぱり、うるさくって迷惑だとか思ってるんだろうか。<br /></div>
<br />
<div>「携帯でなんて…言えるわけないじゃない…」<br />
「は?」<br />
「だから! 携帯で謝るなんて卑怯じゃないって言ってるの!<br />
そういう大事な話は面と向かって言うべきでしょ!? あたしは<br />
あんたに直接謝りたかったのよ!」<br /></div>
<br />
<div>我ながら、なんて言い草だろうかと思うわ。こんなバカな<br />
謝り方をするのは世界でもあたし一人よ、きっと。<br /></div>
<br />
<div>「本当はあのメガネ、あんたによく似合ってたって――<br />
言わなきゃ気が済まなかったのよ! だって<br />
それが、あたしの本心なんだから!!」<br /></div>
<br />
<div>それでも。意地っ張りなあたしとしては、それでも精一杯の<br />
謝意を込めたつもりだったのだ。それなのに。<br /></div>
<br />
<div>「…なんだそりゃ?」<br /></div>
<br />
<div>キョンの奴は、ぽかんと間抜け面で口を開けていた。明らかに<br />
言っている事の意味が分からない、という顔だ。<br /></div>
<br />
<div>「な、なんだそりゃって、だって、あんた――」<br /></div>
<br />
<div>仕方がないので、あたしは部室でみくるちゃんに叱られたくだりを、<br />
渋々ながらキョンに教えてあげたわ。本当はこんな事、<br />
話したくはなかったんだけど。<br />
するとキョンの奴は口元を覆って、むせぶように…ううん、<br />
だんだん堪えきれないといった感じで笑い始めたの。<br /></div>
<br />
<div>「ぷっ、くくっ…いや朝比奈さんの勘違いも相当だけど、<br />
それを真に受けるお前もお前だよ、はっはは」<br />
「か、勘違いって、え…?」<br /></div>
<br />
<div>当惑してるあたしに、キョンはすいっと机の上を指差してみせた。<br /></div>
<br />
<div>「ハルヒ、そこに俺のメガネが置いてあるだろ、ちょっと<br />
それ、取ってくれないか?」<br />
「なんですって? 団長を小間使い代わりにするつもり!?」<br />
「いいからいいから。そうしたら、俺が笑ってる理由も<br />
分かるだろうさ」<br /></div>
<br />
<div>にやにやと思わせぶりにキョンが笑うので、あたしは不承不承に<br />
キョンのメガネを手に取ったわ。するとキョンは、さらに<br />
こうつけ加えた。<br /></div>
<br />
<div>「そのメガネ、ちょっと掛けてみろよ」<br />
「だ、だからなんであたしが指図されなきゃ…!」<br />
「掛けてみれば、ちょっと違った世界が見えると思うぜ?」<br /></div>
<br />
<div>まったく、何なのかしらね!? このあたしに一方的に<br />
指示するなんて。キョンのくせに生意気だわ!<br />
それとも、なに? メガネを掛けたあたしが見たいっていうの?<br />
こいつってばメガネ属性もあったのかしら?<br /></div>
<br />
<div>キョンのメガネ、か…。まあ、試しに掛けてやってもいいけど。<br />
そうして、あたしは両手で持ったメガネを自分の顔に<br />
差し込んでみた。あー、やっぱりあたしにはサイズがちょっと<br />
大きいや。油断すると鼻からずり落ちそうになる。<br /></div>
<br />
<div>「こ、これで…いいの?」<br /></div>
<br />
<div>おずおずとキョンの反応をうかがう。レンズ越しに見た<br />
キョンは、いつもの優しいあいつに見えた。<br /></div>
<br />
<div>「ふうん。メガネっ娘のハルヒってのも、なかなか…」<br /></div>
<br />
<div>と、キョンの奴はあご先に手を当てて、感心したように頷く。<br />
その呟きに、あたしは急激に頬が火照るのを感じた。<br /></div>
<br />
<div>「な、なにエロ親父みたいなこと言ってんのよ、このバカっ!」<br /></div>
<br />
<div>照れ隠しに引っぱたいてやろうと、あたしはベッドに腰掛けてる<br />
キョンに詰め寄ろうとしたわ。でも1歩、2歩、3歩目で<br />
視界がぐらっと歪むのを覚えた。あ、あれ?<br /></div>
<br />
<div>「おっと」<br /></div>
<br />
<div>あやうく前に倒れこみそうになったあたしは、慌てて立ち上がった<br />
キョンに、両肩を支えられていたの。<br /></div>
<br />
<div>「うぷっ、なんか…気持ち悪い…。まるで船酔いしたみたいな…」<br />
「だろ? 遠近感が狂っちまうもんだからな、慣れないと<br />
最初はそうなるんだよ」<br /></div>
<br />
<div>あたしに向かって、キョンはそう苦笑してみせた。<br /></div>
<br />
<hr />
<br />
<div>それから、キョンが語ってくれた事によると。<br />
メガネが似合うか似合わないか、という点についてはキョンの奴は<br />
割と無頓着だったらしい。キョン本人は何が良くて何が悪いのか<br />
さっぱり見当がつかなかったそうで、実はあのデザインを選んだのは<br />
妹ちゃんなのだそうだ。<br />
だからあたしに似合わない!と言われても、それが<br />
正直な評価なんだろうと思った、という。<br /></div>
<br />
<div>…ちょっと、みくるちゃん。あなた、キョンがどれだけ鈍感なのか<br />
まだ分かってないみたいね。まあ、それはあたしもだけど。<br /></div>
<br />
<div>ともかく、キョンとしてはメガネがきちんと役に立てばそれで<br />
良かったらしい。実際、黒板の文字は驚くほどハッキリと<br />
見えるようになって、今日はいつになく授業に集中していたという。<br /></div>
<br />
<div>ところが普段の反動が出たのか、気が付くとキョンの奴は<br />
ひどい頭痛と肩こりに悩まされていたんだって。<br />
あたしが声を掛けたのが、ちょうどその頃だったのね。さっきの<br />
しかめっ面も、まだ痛みが抜けきってなかったせいだそうだ。<br /></div>
<br />
<div>まったく、まぎらわしいんだから!<br />
…でも良かった。キョンを傷つけてたわけじゃなくって。<br />
キョンに嫌われてなくって――。<br /></div>
<br />
<div>そこでハッと、あたしは気が付いた。<br />
あたしはさっき、前によろけたわけで…キョンがそれを受け止めて<br />
くれたわけで…その、か、顔がちょっと近いんですけど!<br />
夕日に照らされて寄り添った二人の影が長く壁に伸びてて、なんだか<br />
昨日見た映画みたいに雰囲気もバッチリなんですけどっ!?<br /></div>
<br />
<div>「ねえ、キョン…ちょっと、目を閉じてくれない…?」<br />
「はあ?」<br /></div>
<br />
<div>反射的に訊ね返して、すぐにキョンは茹でダコみたいに<br />
真っ赤になった。<br />
そりゃこのシチュでこのセリフなら、いくらあんたがニブチンでも<br />
分かるでしょーよ。<br /></div>
<br />
<div>「お、落ち着けハルヒ、そういう事はだな…」<br />
「いいから! 団長命令よ!」<br /></div>
<br />
<div>あたしが全力で睨みつけると、キョンはしばし目を泳がせて、<br />
それから勝手にしろよとばかりに目を瞑ったわ。<br />
あたしはそんなキョンの頬に両手を当て、まっすぐに<br />
こちらを向かせると、スッと――<br /></div>
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<div>――例のメガネを、キョンの顔に掛けてやったのだった。<br /></div>
<br />
<div>「はい、メガネon♪」<br />
「…………」<br />
「なあに、キョンったらそんなに唇とがらせちゃって。何か<br />
変な勘違いでもしてたのかしら?」<br /></div>
<br />
<div>意地悪くそう訊ねかけると、キョンはいかにも恨めしそうな顔で<br />
あたしを睨んできた。<br /></div>
<br />
<div>「ハルヒ、お前なあ」<br />
「ふーんだ、あたしの唇はそんなにお安くないの!<br />
くやしかったら…無理矢理にでも、奪ってみなさいよ。だいたい、<br />
そういうのって男の方からするものでしょ…」<br /></div>
<br />
<div>小さく呟いて、ぷいっとそっぽを向く。そんなあたしに、<br />
キョンの奴は<br /></div>
<br />
<div>「やれやれ、どうにも自己中で意地っ張りなお姫様だな」<br /></div>
<br />
<div>と呆れたように溜め息を吐いて、今度はあいつの方から、<br />
あたしの頬に手を添えてきてくれた。<br /></div>
<br />
<div>二人の距離がゆっくり縮まっていく。今度はあたしも<br />
しっかりと目を閉じる。<br />
あっ、キョンのメガネのフレームが頬に触れ――。<br /></div>
<br />
<br />
<br />
<div>正直に言おう。あたしは自分の不明を恥じる。<br />
この時点で、すでにキョンからヒントは出ていたのに。あたしは<br />
それを全く見過ごしていたのよ。<br /></div>
<br />
<div>そう…確かにキョン自身は、自分にメガネが似合ってるかという<br />
問題について、全く無頓着だった。でもこの件に関して、<br />
キョン以上に並々ならぬ関心を抱いている人物が、他に居たのだ。<br /></div>
<br />
<div>それはもちろん、キョンメガネのデザインを決定した妹ちゃんに<br />
他ならない。今なら、今日のあの娘がどうしてあんなに<br />
ハイテンションだったのかがよく分かる。妹ちゃんの中では、<br /></div>
<br />
<br />
<div>《自分がキョンくんのメガネを選んであげた》 →<br /></div>
<br />
<div>《おかげでキョンくんは格好よくなった》 →<br /></div>
<br />
<div>《だからハルにゃんはキョンくんのお見舞いに来たんだ!》<br /></div>
<br />
<br />
<div>という3段論法が、既に確立されてたのよ!<br />
そして妹ちゃんはその確認のために、自分が一番見たい場面を<br />
見ようとする――。そんな事は、すぐに推理できて<br />
然るべきだったのに、ああ!<br /></div>
<br />
<div>「ハルにゃ~ん! キョンく~ん! おっ待たせー!<br />
特別濃い目に作ったげたカルピスだよ~! …あややっ?」<br /></div>
<br />
<div>ノックも無しに妹ちゃんがババーン!と扉を開けたのは、まさしく<br />
キョンとあたしが触れ合おうとしていたその寸前で。<br />
妹ちゃんは絵に描いたように、ニンマリとした笑みを浮かべてみせた。<br /></div>
<br />
<div>「わ~っ! キョンくんとハルにゃん、ちゅーしてるっ!?」<br />
「ち、ちちち違うのよこれはっ!」<br />
「そそそ、そうだぞ妹よ! 俺たちはまだ何もしてないし!」<br />
「えー? じゃあ、これからする所だったんだー?」<br /></div>
<br />
<div>慌てて、ババッと左右に離れるあたしたち。それでも妹ちゃんの<br />
ニヤニヤ笑いは収まらない。さらにさらに間の悪い事に、<br />
階下からは玄関の扉が開く音が聞こえてきたの。<br /></div>
<br />
<div>「ただいまー、お留守番ごくろうさま。すぐ夕飯にするからね」<br />
「あっ、お母さん! あのねー、今キョンくんがねー!」<br />
「「うわあああ!?」」<br /></div>
<br />
<div>あたしとキョンは揃って妹ちゃんを引き止めようとしたけれど、<br />
時すでに遅し。妹ちゃんはあっという間にお母さんの元へ<br />
階段を駆け下っていってしまったのだった。<br /></div>
<br />
<div>うわーん、どうしてこうなるのよ!? それもこれも、あんたが<br />
メガネなんか掛けてきたせいよ! もう、キョンのバカぁ!<br /></div>
<br />
<hr />
<br />
<div>【 エピローグ 】<br /></div>
<br />
<br />
<div>その後、あたしは日曜や祝日の空いてる日に、キョンの勉強を<br />
見てやるようになっていた。<br />
そもそもキョンがメガネを掛けるようになった原因は<br />
総合的な学力の低下であり、それを<br /></div>
<br />
<div>「SOS団の活動にかまけてるせいだなんて思われたら<br />
迷惑ですから!」<br /></div>
<br />
<div>とあの日、キョンの親御さんに宣言した結果、そういう事に<br />
なってしまったのよ。まあ、物のはずみという奴ね。<br /></div>
<br />
<div>キョンのご家族はこの提案に、諸手を上げて賛成。お母さんは<br />
家の合鍵まであたしにくれたわ。うーむ、そこまで<br />
あっさりあたしの事を信用しちゃうってのもどうなのかしら?<br /></div>
<br />
<div>ああ、キョンの奴は一人だけ夕飯にろくに箸も付けずに、<br />
ぐったりした顔を手で覆って<br /></div>
<br />
<div>「もう好きにしてくれ…」<br /></div>
<br />
<div>とか呻いてたっけ。<br />
せっかくのご馳走だったのに、もったいないわね。<br /></div>
<br />
<div>そのキョンは、数日メガネに慣れようとしてたんだけど、<br />
どうも度を少し強めに作ってしまったようで、結局、<br />
授業の時と勉強する時以外はメガネを外すようになっていた。<br /></div>
<br />
<div>クラスの女子たちはしばらく残念がってたけど、すぐに<br />
話題にも上らなくなったわ。あの子たちにとっては、<br />
単に格好の暇つぶしネタだったみたいね。<br /></div>
<br />
<div>詰まる所、現在キョンのメガネ顔をまともに拝めるのは、<br />
教師連中とそれから、今こうしてキョンの部屋で<br />
あいつの勉強を見てやってるあたしくらいのものって事よ。<br /></div>
<br />
<div>「…ルヒ、ハルヒ!」<br />
「えっ? あっ、なに?」<br />
「解き終わったから答え合わせしてくれって言ってるだろ?<br />
どうしたんだ、ぽけーっとしちまって」<br /></div>
<br />
<div>「ん、ちょっと見とれてたのよ」<br /></div>
<br />
<div>そう答えて、あたしは伸ばした人差し指の先で、ちょんと<br />
キョンのメガネのフレームを突っついた。<br /></div>
<br />
<div>「あんたの間抜け面にね♪」<br /></div>
<br />
<div>思わせぶりに、くすっと笑う。するとその手に、キョンの奴は<br />
自分の手を重ねてきた。<br />
引き込まれるように、あたしとあいつの距離が縮まる。そうして、<br />
夕暮れの赤い光の中。<br /></div>
<br />
<div>あたしはあいつに、あたしだけのメガネ顔に、<br />
そっと唇を重ねたのだった。<br /></div>
<br />
<br />
<br />
<div>はい、メガネon おわり<br /></div>
</div>
<div class="main">
<div>週明けの月曜日。<br />
教室の窓の外、続々と登校してくる生徒たちを見下ろしながら、<br />
あたしは上機嫌でハミングなど口ずさんでいた。</div>
<div>日曜の夜に見た映画が、意外にヒットだったのだ。キョンの奴も<br />
アレは見ただろうか。見たわよね、きっと。<br />
ああ、早くキョンとあの映画の話で盛り上がりたいな! 本当は<br />
晩の内に電話でも掛けようかと思ったのだけれど、我慢して<br />
今朝の楽しみに取っておいたんだもの。<br />
やっぱり、こういうのは直接話した方が楽しいもんね!</div>
<div>いやでもだからって、朝イチであたしの方から話を振るってのも<br />
なんとなく引っかかるかも。そうね、キョンの方から<br />
声を掛けてくれるといいんだけど…。</div>
<div>そんな、愚にもつかない事をあたしが考えていると、不意に<br />
教室の後ろの扉付近で、幾つもの歓声があがった。</div>
<div>「わあっ、キョン君どうしたの、それ!」<br />
「なになに、イメチェン!?」</div>
<div>いつもの朝の喧騒をさらに上回る驚きの声に、あたしも思わず<br />
そちらへ振り返る。途端、あたしは目を真ん丸にしてしまったわ。</div>
<div>数人のクラスメートに囲まれ、照れたような困ったような表情で<br />
頭をかいているキョン。その顔には見慣れない物体、<br />
そう“メガネ”が装着されていたのだ。</div>
<div>細い黒のフレームに、横に長い長方形のレンズ。うわ、意外だけど<br />
キョンのクールな所が引き立ってて、結構イイかも。<br />
小学校の頃に人気のあった先生を思い出して、あたしはちょっと<br />
ドキドキしてしまった。</div>
<div>だけど。それは何も、あたし一人の感想ではなかったらしい。<br />
まるで街中で芸能人でも見かけたみたいに、数人の女子生徒たちが<br />
キョンを取り囲んで、矢継ぎ早に質問を浴びせていた。</div>
<div>「キョン君て、そんなに視力悪かったっけ?」<br />
「いや、俺も自覚は無かったんだけど。こないだのテストの成績で<br />
親に絞られた時に『最近、黒板の字が見づらいんだ』なんて、<br />
うっかり言い訳しちまったんだよ。<br />
そしたらムリヤリ眼科に放り込まれてさ。調べてみたら、本当に<br />
視力が落ちてたんだよな、これが」<br />
「ゲームばっかりやりすぎなんじゃないのー?」<br />
「いやいやいや、甘いな!」</div>
<div>女子の歓声に引き寄せられたのか、いつの間にか谷口や<br />
国木田たちもキョンを囲む輪に加わってる。本当にアホね。</div>
<div>「ズバリ! 夜中にこっそり秘蔵のビデオとか見過ぎたせいだと<br />
俺は読んだね!」<br />
「きゃーっ、キョン君のえっちー♪」<br />
「お前と一緒にすんな、谷口。つか、チャック閉めろ」<br />
「うおっ!?」</div>
<div>いかにも、やれやれと言いたげな顔をするキョン。と、あたしの視線に<br />
気が付いたのか、あいつは突然、首をこちらに向けた。</div>
<div>瞬間、なんとなく視線をそらせてしまうあたし。何よ。何なのよ、<br />
今の居心地の悪さは。<br />
そんなあたしの焦燥を知ってか知らずか。キョンの奴は</div>
<div>「ま、イメチェンとかそんな大げさな話でもないだろ。これで俺も<br />
現代っ子の仲間入りってだけの事さ」</div>
<div>という一言で話を切り上げ、こちらに歩み寄ってきたのだった。</div>
<div>「ようハルヒ、元気か」<br />
「別に」<br />
「なんだ、月曜からブルーだな。何かあったのか?」</div>
<div>自分の机に鞄を掛けながら、そう訊ねてくる。キョンの質問に、<br />
あたしは内心でびっくりしていた。<br />
月曜からブルー? あたしが? あたしは今、そんなに<br />
不機嫌そうな顔をしてるっていうの?</div>
<div>違う。違うわ! キョンが他の女子にチヤホヤされてたって、<br />
あたしには別に関係ないし!</div>
<div>「キョン…あんた、そのメガネ…」<br />
「ああ、昨日の夕方に出来たんだ。慣れないもんだから<br />
どうもまだ耳とか鼻先とか痛くてな」</div>
<div>そう言って苦笑してみせる、見慣れたはずのキョンの顔が<br />
なぜだか今日はやけに眩しくって、<br />
あたしはまっすぐ見続けている事が出来なかった。<br />
その、混乱のせいだろうか。</div>
<div>「…なんか、変よ。似合わない。前の方が良かった!」</div>
<div>気が付くとあたしは憎まれ口のようなセリフを吐いて、窓の方へ<br />
顔を背けていた。</div>
<div>「そうか」</div>
<div>別に気分を害した様子も無く、ただキョンはぽつりとそう呟いて、<br />
自分の机に向き直る。そのままホームルームが始まるまで、そして<br />
それ以降も、今日のあたしがキョンと会話を交わす事は無かった。</div>
<div>朝のあの愉快な気分は、いったいどこへ飛んでいってしまったのか。<br />
苛立ちを胸に抱えながら、午後の授業を聞き流す。<br />
あ、でも…と6時間目の終わり際に、あたしは妙案を思いついた。</div>
<div>有希もいつの間にかコンタクトにしていた事だし、SOS団に<br />
一人くらい、メガネ男子が居てもいいかもしんないわね。<br />
みくるちゃんたちが、キョンのメガネにどう反応するかっていうのも<br />
楽しみだし。そうよ、今日の部活は<br />
キョンの初メガネお披露目会で大いに盛り上がるとしましょう!</div>
<div>「ねえ、キョン! 今日の部活だけどさ、あたしと…」</div>
<div>でも、そんなあたしの興奮には、キョンの一言によって<br />
最悪の形で水が差されたのだった。</div>
<div>「悪いがハルヒ、今ちょっと頭が痛いんだ、もう少し<br />
静かにしてくれないか」</div>
<div>えっ? 何よ、それ。あたしがうるさいって事?<br />
あたしとは話したくないって事?<br />
呆然としているあたしに、キョンはさらにこう続けた。</div>
<div>「それから、部活も今日は休ませてくれ」<br />
「ちょ、ちょっとキョン、そんな勝手な真似はっ!」<br />
「体の具合が良くないんだ、すまん」</div>
<div>軽く頭を下げる、そんなキョンの顔色は本当に良くなくて。あたしは<br />
反論の言葉を思いつけなかった。</div>
<div>「だったら、あたしが保健室に連れてってあげ…」<br />
「いや、大丈夫だ。もう授業も終わったし、一晩ゆっくり寝れば<br />
回復するだろ、たぶん」<br />
「そ、そう…。じゃあ好きにすれば!? あたしは部室に行くから!」</div>
<div>本当は、キョンの事が心配だった。強引にでも、一緒に家まで<br />
ついていってやれば良かったのかもしれない。<br />
だけどこの時のあたしの胸の中には、心配と同じくらいの憤懣が<br />
渦巻いていた。いちいちこちらの裏目に出るような、<br />
キョンの言い分がなんだかあたしへの意地悪のように思えたのだ。</div>
<div>学生鞄を引っ掴んだあたしはメガネキョンを教室に残して、ドカドカと<br />
大きく足を踏み鳴らしつつ、部室棟へと向かったのだった。</div>
<div>何よ。何よキョンの奴!<br />
ほんのちょっと女子たちにキャーキャー騒がれたからって、<br />
いい気になってんじゃないわよ! あのバカっ!</div>
<hr />
<div>ドカドカドカドカ、バンッ!!</div>
<div>「あ、涼宮さ…」<br />
「みくるちゃん、お茶ッ!」<br />
「ひゃ、ひゃいっ!?」</div>
<div>苛立ちのままに扉を蹴り開け、部室に乗り込んだあたしは<br />
団長席に鞄を放り投げ、腕組みをして乱暴に椅子に腰を下ろした。</div>
<div>みくるちゃん、有希、古泉君、SOS団の面子は全員揃ってる。<br />
それが余計に腹立たしかった。なんでキョンの奴は<br />
ここに居ないのよ! あのメガネ面を見せてやれないのよ!?<br />
あー、もう! 写メでも撮っとけば良かったわ!</div>
<div>「ご機嫌ナナメのようですね。何かありましたか?」</div>
<div>あたしの憤激を酌んだのか、困ったような微笑を浮かべて<br />
古泉君が訊ねてきた。あいつもこういった細やかな心遣いとか、<br />
少しは覚えなさいよねっ!</div>
<div>「それがさ! 聞いてよ古泉君! 有希もみくるちゃんも!」</div>
<div>立ち上がり、身振り手振りも交えて、あたしは今日のキョンの<br />
SOS団員としてあるまじき言動を露呈してやったわ。</div>
<div>「――ってなワケなのよ。どう思う、キョンのあの態度!?<br />
まったく団長に対する敬意が足りないっていうか」</div>
<div>ほとんど一息にまくし立てて、あたしは椅子に腰掛け直すと<br />
湯飲みのお茶をぐいっとあおった。でも怒りが<br />
血液まで沸騰させてるのか、あたしの喉の渇きはまだ治まらない。</div>
<div>「みくるちゃん、おかわりをちょうだ…」<br />
「何がおかわりですかっ!?」</div>
<div>その時、響いた声。お世辞にもあまり迫力の無いそれは、しかし<br />
彼女なりの精一杯の怒鳴り声だったのだろう。<br />
その声の主を、有希は目を瞬かせ、古泉君は微笑を失い、<br />
あたしは口をぽかんと開けて見上げていた。<br />
丸いお盆を胸に抱えた、メイド服姿のみくるちゃんを。</div>
<div>「お茶なんか飲んでる場合じゃないでしょう!?<br />
ひどい…ひどいですよ涼宮さんッ!」</div>
<div>大きな瞳いっぱいに浮かんだ涙を懸命にこらえ、体をぷるぷると<br />
小刻みに震わせながら、みくるちゃんは確かにあたしを<br />
睨みすえていた。<br />
もしかしたら初めてじゃないだろうか、この子がここまで<br />
怒りをあらわにしたのは。</div>
<div>「髪型とか、服とか靴とか小物とか、そういうの変えるのって<br />
ちょっとした冒険じゃないですか!<br />
それが成功するか失敗するか、ドキドキしながら<br />
一歩踏み出す気持ち…分かってるはずです、涼宮さんだって<br />
女の子なんだから! なのに…それなのに…」</div>
<div>えぐっ、ぐすっとしゃくり上げながら、それでもみくるちゃんは<br />
あたしから瞳をそらそうとはしなかった。</div>
<div>「今日のキョン君だって! きっと心の中ではすっごく<br />
ドキドキしてたはずですっ!<br />
新しいメガネを掛けて…昨日とはちょっと違う自分になって…<br />
そんな、そんなキョン君に、どうして?<br />
どうして『似合わない』なんて言っちゃったんですか、涼宮さん!」<br />
「だ、だって、それは…他の子たちは褒めてたし…」</div>
<div>思わぬみくるちゃんの糾弾に、つい口ごもってしまうあたし。<br />
すると、みくるちゃんは「あーん、もうッ!」と<br />
憤慨の色もあらわに左右に首を振った。</div>
<div>「違うでしょう!? 他の人がどう言ってたかなんて、そんなの<br />
どうでもいいんです!<br />
涼宮さんが『似合わない』って言っちゃったら、それで全部<br />
台無しじゃないですかッ!」</div>
<div>子犬のように頼りなげな姿で、それでも敢然とあたしに<br />
牙を剥いてくる。みくるちゃんを奮い立たせているそれが何か、<br />
あたしも認めざるを得なかった。</div>
<div>『正義』だ。正しいと思う事が自分の中にあり、間違っていると<br />
思う事があたしの中にあるから、だからみくるちゃんは<br />
こんなにも怒っているのだ。</div>
<div>「涼宮さんが冒険する時には、いつだってキョン君が…後押しを<br />
してくれてたじゃないですか…。それなのに…ひくっ、<br />
うう…ひ、ひ、ひどいでしゅ涼宮さんはっ!」</div>
<div>最後にはもう、きちんとした言葉にもならずに。みくるちゃんは<br />
堪えきれなくなったのか、両手で顔を覆って泣き始めた。<br />
持ち手を失ったお盆が床に転がり落ち、からんからんと乾いた音を<br />
立てて回る。と、古泉君がそれを拾い上げて、<br />
参りましたね、と言わんばかりに肩をすくめてみせた。</div>
<div>うん、参った。今回ばかりは負けを認めるしかないわ。<br />
泣く子と地頭には勝てぬとか言うけど、みくるちゃんの真摯な涙には<br />
本当、平伏するしかない。<br />
キョン、こんなに想われてるあんたは幸せ者よ? それから、<br />
これだけ一生懸命に説教して貰えるあたしもね。</div>
<div>「分かったわ、みくるちゃん。お願いだから泣き止んでちょうだい」<br />
「うっ、ぐすっ…涼宮、さん…?」</div>
<div>泣きじゃくるみくるちゃんを抱き寄せて、栗色の髪を撫ぜながら<br />
あたしはそうささやいていた。</div>
<div>「うん。明日は必ず、この場でキョンのメガネ顔をみんなに<br />
披露してみせるから。絶対、約束ね!」<br />
「は、はい。待ってます、楽しみに待ってます!」</div>
<div>ふふ、こうしてるとなんだか妹みたい。やっぱり、みくるちゃんは<br />
ぽわっと笑ってる方がいいわ。SOS団最強の和みキャラよね。</div>
<div>みくるちゃんの笑顔の後ろ盾を得て、あたしは学生鞄を引っ掴み、<br />
踵を返しながら有希と古泉君に呼び掛けた。</div>
<div>「って事で、あたしは用が出来ちゃったから本日の活動は<br />
これでおしまい!<br />
有希! 古泉君! 戸締りとみくるちゃんの事をよろしくね!」<br />
「………了解した」<br />
「ご武運をお祈りしています」</div>
<div>端的に頷く有希と、芝居がかった仕草で微笑む古泉君に<br />
ニッと笑顔を見せて、あたしはダッシュで部室を後にしたのだった。</div>
<hr />
<div>はやる気持ちと、ためらう気持ちが心の中で入り混じったまま、<br />
下校途中に立ち寄ったキョンの家の前。<br />
ひとつ息を飲み込んで、あたしはインターホンのボタンを押した。</div>
<div>「はーい、誰~?」<br />
「あの、涼宮ハルヒと申しま…」<br />
「あっ、ハルにゃん!?」</div>
<div>まだ舌っ足らずな返事が返ってきたかと思うと、すぐに玄関のドアが<br />
開いて、妹ちゃんがあたしの前に飛び出してきたわ。</div>
<div>「キョンくんのお見舞いに来てくれたんだよね? ハルにゃん、<br />
やっさしーい!」<br />
「え、いやその、ちょっと様子を見に来ただけで」<br />
「んーん、ハルにゃんの顔を見たら、キョンくんもすぐに<br />
元気になるよきっと! さ、上がって上がって!」</div>
<div>と、あたしはいつの間にか妹ちゃんに後ろからお尻を押されていた。<br />
う~む、こうして懐かれるのは嬉しいんだけど、なんだか<br />
この子が相手だと、ペースを握られっぱなしなのよね。将来が<br />
ちょっとばかり不安だわ。<br />
って、いったい何の心配をしてるのよあたしは!?</div>
<div>「あの、妹ちゃん、お家の方は?」<br />
「お父さんは、まだお仕事だよ。お母さんはね、キョンくんが<br />
調子悪いみたいだから、今晩はちょっとご馳走作ってあげるって<br />
お買い物に行ってるのー」<br />
「キョンの奴、そんなに具合悪いんだ…」</div>
<div>妹ちゃんの言葉に、あたしの胸はずきりと痛んだ。もしかしたら<br />
あたしの言い放った心ない一言が、キョンを精神的に<br />
苦しめてしまったんだろうか。</div>
<div>ああ、みくるちゃんの言った通りだ。<br />
5月のあの日、あたしはなんとなく夢で聞いた言葉通り、無理矢理な<br />
ポニーテールで学校に行った。キョンはそれを笑う事もなく、<br />
『似合ってるぞ』ときちんと褒めてくれた。</div>
<div>もしあの時、冗談ででも「似合わない」などと言われていたら<br />
どうだっただろう。考えただけでもゾッとする。<br />
そのゾッとするような事を、あたしはキョンにしてしまったんだ。<br />
しかもその事を、みくるちゃんに指摘されるまで気付きもしなかった。<br />
本当にひどい。最低だわ、あたし。</div>
<div>「キョンくんはね、お部屋に居るはずだから先に行ってて!<br />
あとでお飲み物持ってってあげるから!」<br />
「あ、ありがとう」</div>
<div>やたらとテンションの高い妹ちゃんの笑顔炸裂っぷりとは裏腹に、<br />
あたしは急激に気分が重たくなっていた。<br />
階段を昇る足が止まりそうになる。いったいどんな顔で<br />
キョンに会えばいいんだろう。<br />
ううん、違うわ。今は自分の事を考えてる場合じゃない。いま一番<br />
大事なのは、キョンの事のはず!</div>
<div>意を決して、あたしはキョンの部屋の扉をノックした。</div>
<div>「どーぞ」</div>
<div>ずいぶんと気の抜けた返事だわ。キョンの奴、あたしを<br />
妹ちゃんと勘違いしてるのね。<br />
それは、むしろ当然の事。いきなりあたしが家に押し掛けてくるなんて、<br />
キョンの方だって予想できるはずがない。でも。<br />
でも、キョンにとって…あたしはどんな存在なんだろう…?</div>
<div>「どう、キョン。具合は?」</div>
<div>思いきって扉を開けたあたしが中に向かってそう訊ねかけると、<br />
こちらに足を向けてベッドに横になっていたキョンは<br />
案の定、驚きの色もあらわに上体を起こした。</div>
<div>「ハルヒ!? お前、なんでここに?」</div>
<div>あ、メガネは外してる。そして、窓から差し込む夕焼けの赤を背景に<br />
こちらを凝視するキョンの顔は…ひどいしかめっ面だ。<br />
やっぱり、あたしのあの一言のせいで不機嫌なんだろうか。</div>
<div>「ん、その…帰り際にさ、キョンったら調子悪いみたいな事を<br />
言ってたから、なんとなく気になって」</div>
<div>いや、そーじゃないでしょ!? 自分が悪いのは分かってるんだから、<br />
素直に謝りなさいよ、あたし!</div>
<div>「なんだ、そんな事なら携帯で訊けば済むだろうに」</div>
<div>呆れたような口調で、キョンもそう言う。あたしが来たって、<br />
別に嬉しくも何ともないんだろうか。それとも…<br />
やっぱり、うるさくって迷惑だとか思ってるんだろうか。</div>
<div>「携帯でなんて…言えるわけないじゃない…」<br />
「は?」<br />
「だから! 携帯で謝るなんて卑怯じゃないって言ってるの!<br />
そういう大事な話は面と向かって言うべきでしょ!? あたしは<br />
あんたに直接謝りたかったのよ!」</div>
<div>我ながら、なんて言い草だろうかと思うわ。こんなバカな<br />
謝り方をするのは世界でもあたし一人よ、きっと。</div>
<div>「本当はあのメガネ、あんたによく似合ってたって――<br />
言わなきゃ気が済まなかったのよ! だって<br />
それが、あたしの本心なんだから!!」</div>
<div>それでも。意地っ張りなあたしとしては、それでも精一杯の<br />
謝意を込めたつもりだったのだ。それなのに。</div>
<div>「…なんだそりゃ?」</div>
<div>キョンの奴は、ぽかんと間抜け面で口を開けていた。明らかに<br />
言っている事の意味が分からない、という顔だ。</div>
<div>「な、なんだそりゃって、だって、あんた――」</div>
<div>仕方がないので、あたしは部室でみくるちゃんに叱られたくだりを、<br />
渋々ながらキョンに教えてあげたわ。本当はこんな事、<br />
話したくはなかったんだけど。<br />
するとキョンの奴は口元を覆って、むせぶように…ううん、<br />
だんだん堪えきれないといった感じで笑い始めたの。</div>
<div>「ぷっ、くくっ…いや朝比奈さんの勘違いも相当だけど、<br />
それを真に受けるお前もお前だよ、はっはは」<br />
「か、勘違いって、え…?」</div>
<div>当惑してるあたしに、キョンはすいっと机の上を指差してみせた。</div>
<div>「ハルヒ、そこに俺のメガネが置いてあるだろ、ちょっと<br />
それ、取ってくれないか?」<br />
「なんですって? 団長を小間使い代わりにするつもり!?」<br />
「いいからいいから。そうしたら、俺が笑ってる理由も<br />
分かるだろうさ」</div>
<div>にやにやと思わせぶりにキョンが笑うので、あたしは不承不承に<br />
キョンのメガネを手に取ったわ。するとキョンは、さらに<br />
こうつけ加えた。</div>
<div>「そのメガネ、ちょっと掛けてみろよ」<br />
「だ、だからなんであたしが指図されなきゃ…!」<br />
「掛けてみれば、ちょっと違った世界が見えると思うぜ?」</div>
<div>まったく、何なのかしらね!? このあたしに一方的に<br />
指示するなんて。キョンのくせに生意気だわ!<br />
それとも、なに? メガネを掛けたあたしが見たいっていうの?<br />
こいつってばメガネ属性もあったのかしら?</div>
<div>キョンのメガネ、か…。まあ、試しに掛けてやってもいいけど。<br />
そうして、あたしは両手で持ったメガネを自分の顔に<br />
差し込んでみた。あー、やっぱりあたしにはサイズがちょっと<br />
大きいや。油断すると鼻からずり落ちそうになる。</div>
<div>「こ、これで…いいの?」</div>
<div>おずおずとキョンの反応をうかがう。レンズ越しに見た<br />
キョンは、いつもの優しいあいつに見えた。</div>
<div>「ふうん。メガネっ娘のハルヒってのも、なかなか…」</div>
<div>と、キョンの奴はあご先に手を当てて、感心したように頷く。<br />
その呟きに、あたしは急激に頬が火照るのを感じた。</div>
<div>「な、なにエロ親父みたいなこと言ってんのよ、このバカっ!」</div>
<div>照れ隠しに引っぱたいてやろうと、あたしはベッドに腰掛けてる<br />
キョンに詰め寄ろうとしたわ。でも1歩、2歩、3歩目で<br />
視界がぐらっと歪むのを覚えた。あ、あれ?</div>
<div>「おっと」</div>
<div>あやうく前に倒れこみそうになったあたしは、慌てて立ち上がった<br />
キョンに、両肩を支えられていたの。</div>
<div>「うぷっ、なんか…気持ち悪い…。まるで船酔いしたみたいな…」<br />
「だろ? 遠近感が狂っちまうもんだからな、慣れないと<br />
最初はそうなるんだよ」</div>
<div>あたしに向かって、キョンはそう苦笑してみせた。</div>
<hr />
<div>それから、キョンが語ってくれた事によると。<br />
メガネが似合うか似合わないか、という点についてはキョンの奴は<br />
割と無頓着だったらしい。キョン本人は何が良くて何が悪いのか<br />
さっぱり見当がつかなかったそうで、実はあのデザインを選んだのは<br />
妹ちゃんなのだそうだ。<br />
だからあたしに似合わない!と言われても、それが<br />
正直な評価なんだろうと思った、という。</div>
<div>…ちょっと、みくるちゃん。あなた、キョンがどれだけ鈍感なのか<br />
まだ分かってないみたいね。まあ、それはあたしもだけど。</div>
<div>ともかく、キョンとしてはメガネがきちんと役に立てばそれで<br />
良かったらしい。実際、黒板の文字は驚くほどハッキリと<br />
見えるようになって、今日はいつになく授業に集中していたという。</div>
<div>ところが普段の反動が出たのか、気が付くとキョンの奴は<br />
ひどい頭痛と肩こりに悩まされていたんだって。<br />
あたしが声を掛けたのが、ちょうどその頃だったのね。さっきの<br />
しかめっ面も、まだ痛みが抜けきってなかったせいだそうだ。</div>
<div>まったく、まぎらわしいんだから!<br />
…でも良かった。キョンを傷つけてたわけじゃなくって。<br />
キョンに嫌われてなくって――。</div>
<div>そこでハッと、あたしは気が付いた。<br />
あたしはさっき、前によろけたわけで…キョンがそれを受け止めて<br />
くれたわけで…その、か、顔がちょっと近いんですけど!<br />
夕日に照らされて寄り添った二人の影が長く壁に伸びてて、なんだか<br />
昨日見た映画みたいに雰囲気もバッチリなんですけどっ!?</div>
<div>「ねえ、キョン…ちょっと、目を閉じてくれない…?」<br />
「はあ?」</div>
<div>反射的に訊ね返して、すぐにキョンは茹でダコみたいに<br />
真っ赤になった。<br />
そりゃこのシチュでこのセリフなら、いくらあんたがニブチンでも<br />
分かるでしょーよ。</div>
<div>「お、落ち着けハルヒ、そういう事はだな…」<br />
「いいから! 団長命令よ!」</div>
<div>あたしが全力で睨みつけると、キョンはしばし目を泳がせて、<br />
それから勝手にしろよとばかりに目を瞑ったわ。<br />
あたしはそんなキョンの頬に両手を当て、まっすぐに<br />
こちらを向かせると、スッと――</div>
<br />
<br />
<br />
<br />
<div>――例のメガネを、キョンの顔に掛けてやったのだった。</div>
<div>「はい、メガネon♪」<br />
「…………」<br />
「なあに、キョンったらそんなに唇とがらせちゃって。何か<br />
変な勘違いでもしてたのかしら?」</div>
<div>意地悪くそう訊ねかけると、キョンはいかにも恨めしそうな顔で<br />
あたしを睨んできた。</div>
<div>「ハルヒ、お前なあ」<br />
「ふーんだ、あたしの唇はそんなにお安くないの!<br />
くやしかったら…無理矢理にでも、奪ってみなさいよ。だいたい、<br />
そういうのって男の方からするものでしょ…」</div>
<div>小さく呟いて、ぷいっとそっぽを向く。そんなあたしに、<br />
キョンの奴は</div>
<div>「やれやれ、どうにも自己中で意地っ張りなお姫様だな」</div>
<div>と呆れたように溜め息を吐いて、今度はあいつの方から、<br />
あたしの頬に手を添えてきてくれた。</div>
<div>二人の距離がゆっくり縮まっていく。今度はあたしも<br />
しっかりと目を閉じる。<br />
あっ、キョンのメガネのフレームが頬に触れ――。</div>
<br />
<br />
<div>正直に言おう。あたしは自分の不明を恥じる。<br />
この時点で、すでにキョンからヒントは出ていたのに。あたしは<br />
それを全く見過ごしていたのよ。</div>
<div>そう…確かにキョン自身は、自分にメガネが似合ってるかという<br />
問題について、全く無頓着だった。でもこの件に関して、<br />
キョン以上に並々ならぬ関心を抱いている人物が、他に居たのだ。</div>
<div>それはもちろん、キョンメガネのデザインを決定した妹ちゃんに<br />
他ならない。今なら、今日のあの娘がどうしてあんなに<br />
ハイテンションだったのかがよく分かる。妹ちゃんの中では、</div>
<div>《自分がキョンくんのメガネを選んであげた》 →</div>
<div>《おかげでキョンくんは格好よくなった》 →</div>
<div>《だからハルにゃんはキョンくんのお見舞いに来たんだ!》</div>
<div>という3段論法が、既に確立されてたのよ!<br />
そして妹ちゃんはその確認のために、自分が一番見たい場面を<br />
見ようとする――。そんな事は、すぐに推理できて<br />
然るべきだったのに、ああ!</div>
<div>「ハルにゃ~ん! キョンく~ん! おっ待たせー!<br />
特別濃い目に作ったげたカルピスだよ~! …あややっ?」</div>
<div>ノックも無しに妹ちゃんがババーン!と扉を開けたのは、まさしく<br />
キョンとあたしが触れ合おうとしていたその寸前で。<br />
妹ちゃんは絵に描いたように、ニンマリとした笑みを浮かべてみせた。</div>
<div>「わ~っ! キョンくんとハルにゃん、ちゅーしてるっ!?」<br />
「ち、ちちち違うのよこれはっ!」<br />
「そそそ、そうだぞ妹よ! 俺たちはまだ何もしてないし!」<br />
「えー? じゃあ、これからする所だったんだー?」</div>
<div>慌てて、ババッと左右に離れるあたしたち。それでも妹ちゃんの<br />
ニヤニヤ笑いは収まらない。さらにさらに間の悪い事に、<br />
階下からは玄関の扉が開く音が聞こえてきたの。</div>
<div>「ただいまー、お留守番ごくろうさま。すぐ夕飯にするからね」<br />
「あっ、お母さん! あのねー、今キョンくんがねー!」<br />
「「うわあああ!?」」</div>
<div>あたしとキョンは揃って妹ちゃんを引き止めようとしたけれど、<br />
時すでに遅し。妹ちゃんはあっという間にお母さんの元へ<br />
階段を駆け下っていってしまったのだった。</div>
<div>うわーん、どうしてこうなるのよ!? それもこれも、あんたが<br />
メガネなんか掛けてきたせいよ! もう、キョンのバカぁ!</div>
<hr />
<div>【 エピローグ 】</div>
<div>その後、あたしは日曜や祝日の空いてる日に、キョンの勉強を<br />
見てやるようになっていた。<br />
そもそもキョンがメガネを掛けるようになった原因は<br />
総合的な学力の低下であり、それを</div>
<div>「SOS団の活動にかまけてるせいだなんて思われたら<br />
迷惑ですから!」</div>
<div>とあの日、キョンの親御さんに宣言した結果、そういう事に<br />
なってしまったのよ。まあ、物のはずみという奴ね。</div>
<div>キョンのご家族はこの提案に、諸手を上げて賛成。お母さんは<br />
家の合鍵まであたしにくれたわ。うーむ、そこまで<br />
あっさりあたしの事を信用しちゃうってのもどうなのかしら?</div>
<div>ああ、キョンの奴は一人だけ夕飯にろくに箸も付けずに、<br />
ぐったりした顔を手で覆って</div>
<div>「もう好きにしてくれ…」</div>
<div>とか呻いてたっけ。<br />
せっかくのご馳走だったのに、もったいないわね。</div>
<div>そのキョンは、数日メガネに慣れようとしてたんだけど、<br />
どうも度を少し強めに作ってしまったようで、結局、<br />
授業の時と勉強する時以外はメガネを外すようになっていた。</div>
<div>クラスの女子たちはしばらく残念がってたけど、すぐに<br />
話題にも上らなくなったわ。あの子たちにとっては、<br />
単に格好の暇つぶしネタだったみたいね。</div>
<div>詰まる所、現在キョンのメガネ顔をまともに拝めるのは、<br />
教師連中とそれから、今こうしてキョンの部屋で<br />
あいつの勉強を見てやってるあたしくらいのものって事よ。</div>
<div>「…ルヒ、ハルヒ!」<br />
「えっ? あっ、なに?」<br />
「解き終わったから答え合わせしてくれって言ってるだろ?<br />
どうしたんだ、ぽけーっとしちまって」</div>
<div>「ん、ちょっと見とれてたのよ」</div>
<div>そう答えて、あたしは伸ばした人差し指の先で、ちょんと<br />
キョンのメガネのフレームを突っついた。</div>
<div>「あんたの間抜け面にね♪」</div>
<div>思わせぶりに、くすっと笑う。するとその手に、キョンの奴は<br />
自分の手を重ねてきた。<br />
引き込まれるように、あたしとあいつの距離が縮まる。そうして、<br />
夕暮れの赤い光の中。</div>
<div>あたしはあいつに、あたしだけのメガネ顔に、<br />
そっと唇を重ねたのだった。</div>
<br />
<br />
<div>はい、メガネon おわり</div>
</div>