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涼宮ハルヒは夜しか泳げない」(2020/03/19 (木) 00:59:31) の最新版変更点

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<p>自分は世界の中心なんかじゃない。<br />  <br /> 世界が自分を中心に回ってるなんて考えたことなんてなかった。<br />  <br /> でも、まざまざと思い知った。<br /> 私は、世界の前では「その他大勢」でしかないんだ。<br />  <br /> 野球場でのこと以来、世界が違く見えた。<br />  <br /> 楽しい会話の中で、隙間を感じていた。<br />  <br /> クラスの男子が馬鹿をする。<br /> 誰かがそれを茶化す。<br /> 笑いの輪の中で、ふっと、冷静になる瞬間。<br />  <br /> こんなことが、本当に可笑しいのだろうか。<br /> 本当に、楽しいのだろうか。<br />  <br /> 考え始めると、どんどん隙間は広がっていって、<br /> 私は話しながら、笑いながら、<br /> 遠くからみんなを見る。<br />  <br /> 私は、どこにいるんだろう。<br />  <br /> 夜、ベッドの中で布団に隠れて考えてみる。<br />  <br /> もしも私がこのまま毛布の中で小さくなっていって、<br /> 見えないくらい小さくなって、<br /> 消えてしまったとしたら。<br /> この世界はどうなるんだろう。<br />  <br /> 私と一緒に消えてしまうんだろうか?<br />  <br /> そんなはずはない、世界は私のことなんかに構っている暇がないんだ。<br />  <br /> 毎日毎日、おんなじように回ることで精一杯なんだ。<br /> 私がいてもいなくても、明日は来る。<br />  <br /> 私の大好きな人たちもいつか私のことを忘れてしまって、<br />  <br /> …私は、誰なんだろう。<br /> 私は、なんのためにいるんだろう。<br />  <br /> 考えても考えても、答えなんてひとつも出なくて、<br /> 泣きそうなくらい寂しくなって、<br /> 喉がきゅんと締め付けられて、呼吸がしづらくなった。<br />  <br /> 空気が重くなって、まとわりついてくるような。<br />  <br />  <br />  <br /> 誰か、<br />  <br /> 誰か、<br />  <br /> 誰か私を<br />  <br />  <br /> 「そりゃ、そんな底でじっとしてたら苦しいにきまってるさ」<br />  <br />  <br /> どこからか声がした。<br />  <br /> 遠いようで、頭に響くようで。<br />  <br />  <br /> 「ほら、いい夜だよ。泳ぐにはもってこいだ」<br />  <br /> 泳ぐって、どうやって?<br />  <br /> 「昔とかわらないさ。さぁ、空気を蹴って」<br />  <br />  <br /> 毛布から顔を出すと、真夜中だというのに部屋は明るかった。<br />  <br /> カレンダーの日付がはっきりと見える。<br />  <br /> 窓の外にはレモンソーダのグラスみたいに澄んだ月。<br /> 絵本みたいに非常識なサイズの月が夜の景色の中で浮いて見えた。<br />  <br /> 「どうしたんだい、夜は短いんだ、さぁ早く」<br />  <br /> 「私、泳ぎ方なんて知らないわよ」<br />  <br /> 少し不機嫌な声で、その人は言う。<br />  <br /> 「ちゃんと教えただろう?<br /> まぁ久しく泳いでないから忘れるのも仕方がないかな」<br />  <br /> 私はなぜか申し訳ない気分で一杯になった。<br /> その声が、ほんの少し寂しそうだったから。<br />  <br /> 「よし、じゃあちょっと手伝ってあげよう。<br /> 目をつむって、息を止めて」<br />  <br /> 迷ったけれど、私は声の言う通りにした。<br />  <br /> 目をつむっても、月明かりはぼんやりと感じることができた。<br />  <br /> 「嬉しかったことを思い出してごらん。<br /> なるべく、最近のことを」<br />  <br /> 嬉しかったこと、何かあったかしら。<br /> 今夜はなんだか嫌なことしか思い出せないような気がする。<br />  <br /> なやんでいると、その人はぼそっとした声で諭す。<br />  <br /> 「今日の晩御飯は、何だった?」<br />  <br /> …そうだ、今日はカレーだったんだ。<br /> この間ハヤシライスだった日にカレーがよかったな、って言っちゃって。<br /> お母さん不機嫌になったのに、覚えててくれたたんだ。<br />  <br /> 「おいしかった?」<br />  <br /> 当たり前よ!お母さんが作ったんだから、おいしくないわけないじゃない。<br />  <br /> 「そりゃよかった。<br /> よかったことってのは意外と忘れがちだからね」<br />  <br /> そういわれてみれば、わりとたくさんの嬉しい出来事が見つかった。<br />  <br /> 指を折りながら数えていたら、ずっと、ずっと昔のことまで思い出すことができた。<br />  <br /> もっと昔に、何か嬉しいことがあった気がするんだけれど、<br /> 何かモヤモヤとしてはっきりしない。<br />  <br /> 見えない蜘蛛の糸に捕まってしまったみたいで、<br /> 私はうーんと頭をひねった。<br />  <br />  <br /> 「もう少しで、思い出せそうなんだけれど」<br />  <br /> 「それじゃあ、ばた足みたいに足を動かしてごらん。<br /> そうすると血がめぐって頭の回転がよくなるから」<br />  <br /> そういえば聞いたことがあるわね。<br /> ずっと机にむかっているよりも<br /> 散歩をしているときの方が脳が活発になる、って。<br />  <br /> 毛布の中でモゾモゾと足を動かす。<br />  <br /> うーん、もっと、もっと昔に何かあったような。<br />  <br /> うーん。<br />  <br /> 毛布がずり落ちても、気にせずずっと足をバタバタさせる。<br />  <br /> うーん、うーん。<br />  <br />  <br /> 「さぁハルヒ。息を吸って、目を開いて」<br />  <br /> え?<br /> ああそうだった。<br />  <br /> 目を閉じていたんだった。あまりにも月が明るくて、<br /> まぶたを閉じても届くからわすれていた。<br /> 何で今日はこんなにも月が明るいんだろう。<br />  <br />  <br />  <br /> 目を開くと、月が目の前にあった。<br />  <br /> 「えっ?」<br />  <br /> 私の体は送電線の上。<br /> ベッドに寝ていた姿勢のまま夜の風に吹かれていた。<br />  <br /> 「えっ?」<br />  <br /> 「絶対にうつむかないで。上を向いたまま、上に泳いでおいで」<br />  <br />  <br /> ばた足の幅を大きくして、体をくねらせる。<br /> 緩やかな風に乗って、私の体はふんわり高く昇っていく。<br />  <br /> 上空の空気は冷たく透き通っていて、体が軽い。<br /> 耳の中で空気が音をたてて回る。<br />  <br /> 月も星も、撫でてしまえそうなほどに近い。<br />  <br /> 地面から遠く離れてしまって、<br /> 回りに距離感がつかめるものがなくなったので、<br /> 私は自分がどこにいるのかわからなくなった。<br />  <br /> でも、それはそれで心地がよかった。<br />  <br /> ビルの群れの向こう側に、街の灯も星の光も見えないところを見つける。<br />  <br /> あそこは海。私の家は海から遠いのに、<br /> 高いところからなら簡単に見ることができた。<br />  <br />  <br /> 少し強い風が、火照った頬を冷やしてくれた。<br />  <br /> 鼻が、胸が、むずむずした。<br />  <br /> 「すごい!私、本当に飛んでる!」<br />  <br /> 突然走り出したい衝動に駆られたけれど、<br /> ふわふわ浮いているから出来なかった。<br />  <br /> 「正確には泳いでるんだけどね。<br /> どうだい、久々に泳ぐ空は」<br />  <br /> どこかから聞こえていた声が、今度は真後ろから聞こえた。<br />  <br />  <br /> 振りかえるとそこには、大きな鯨が優雅に泳いでいた。<br />  <br /> 「うん、どうしたんだい?黙り込んで」<br />  <br /> 「…魔法みたいに連れ出してくれたから、<br /> 私、てっきりピーターパンみたいな男の子かと思ってたわ」<br />  <br /> 「残念だけど、子供だけの国には招待してあげられないよ」<br />  <br /> 愛嬌と魔法の粉を振り撒いてくれる<br /> かわいらしい妖精もいないしね、と鯨は言った。<br />  <br /> 「ねぇ、どうやって私を浮かせてるの?<br /> あなた超能力でも持ってるの?<br /> それとも、鯨はみんなこうなの?<br /> 私、本物の鯨なんて見るのはじめてだから<br /> どんなのが普通かわからないけど、<br /> 飛ぶなんて知らなかったわ」<br />  <br /> 「鯨?超能力?」<br />  <br /> 大きな口をぐわっと開いて、空気を震わせずに鯨は笑った。<br />  <br /> 「な、なによ!」<br />  <br /> 「そうか、君には鯨に見えるのか。うん、なるほど」<br />  <br /> 優しそうな大きな目で私を見て、鯨は言う。<br />  <br /> 「他の鯨はどうか知らないけど、<br /> わたしは別に念力だとか神通力だとか<br /> そんなようなものは持ってないよ」<br />  <br /> 「じゃあ、なんで」<br />  <br /> 「重い液体の中に軽いものがあると、それは浮くだろう?<br /> あれと同じさ。君は今、夜に浮けるくらい軽くなったんだよ」<br />  <br /> それだけさ。<br /> そう言って鯨は尾びれを振る。<br />  <br /> なるほど。<br /> 難しいことはよくわからないけど、なんとなく納得した。<br />  <br /> そんなことよりも、今はこうやって空を泳げていることが<br /> 嬉しくてたまらなかった。<br />  <br /> どうせなら腰から下が人魚みたいならよかったのに。<br /> イルカみたいにフリップしてみようとしたけど、うまくいかずに、<br /> 私はふよふよと後ろに漂うように流れていった。<br />  <br /> それをみて、鯨はまた大きな口で笑った。<br />  <br />  <br /> 「その様子だと、本当に忘れてるみたいだね」<br />  <br />  <br /> 「えっ?」<br />  <br /> 「昔も今日みたいに飛んでたことさ」<br />  <br /> しばらく練習して、少しは自由に泳げるようになった私に、彼は言う。<br />  <br /> 「まぁ仕方ないかな。ずいぶん昔のことだから」<br />  <br /> 「…ごめんなさい」<br />  <br /> 「そんな、謝らなくてもいいよ。今はこうやって泳げてるんだからね」<br />  <br /> 彼は月に腰掛けて、尾びれをひらひら振って言う。<br />  <br />  <br /> ビルのアンテナくらいまでしか泳げない私は、<br /> 高くまで泳げる彼がうらやましく思えた。<br />  <br /> 「さて、もうそろそろ時間かな」<br />  <br /> 彼は月から離れ、私の方へけのびをしてきた。<br /> その反動で、月はゆっくりと動き出す。<br />  <br /> 「ハルヒ、君ももう帰りな。これはお土産」<br />  <br /> 彼は口にくわえていた星を手のひらにのせてくれた。<br /> 一息で飛んでいってなくしてしまいそうなそれは、<br /> 蛍みたいに熱を出さずに輝いていた。<br />  <br /> とてもきれいで嬉しいけれど、<br />  <br /> 「私、まだ帰りたくないわ」<br />  <br /> 彼は困ったような顔をした。<br />  <br /> 「駄目だよ、こればっかりは」<br />  <br /> 「どうして!?」<br />  <br /> せっかく泳げるようになったのに。<br />  <br /> まだ、まだ高いところまで泳ぎたいのに。<br />  <br /> 「説明すると長くなるから、はやくしないと」<br />  <br />  <br /> 「…また、夜に連れ出してくれる?」<br />  <br /> 「わかった。約束しよう」<br />  <br /> 彼は、私を背中にのせて家の屋根まで運んでくれるという。<br />  <br /> 「危ないからちゃんと掴まってて」<br />  <br /> うん、と返事をしようとしたけれど、<br /> その時にはもう彼はすごい速さで泳ぎ始めていたから、<br /> 声に出すことができなかった。<br />  <br /> …うらやましい。<br />  <br /> 高いところまで行けるだけじゃなくて、こんなに速く泳ぐこともできるんだ。<br /> 彼の背中は広くて、熱くも冷たくもなくて、<br /> すべすべとした感触がした。<br />  <br /> 私の家の上まで、あっという間だった。<br />  <br /> 「ありがとう。あとは自分で泳いで帰るわ」<br />  <br /> 掴まっていた背びれから手を離す。<br />  <br /> ふっと、体が重くなるのを感じた。<br />  <br /> 「えっ」<br />  <br /> 耳元ですごい勢いで風がなく。<br /> ハジャマがバタバタと暴れだす。<br />  <br />  <br /> 泳げない。<br />  <br /> 彼が、星が、月が飛んでいってしまったみたいに離れていく。<br />  <br /> 離れてるのは私の方。<br /> 肩越しに後ろを見る。<br />  <br /> 私の家の屋根って、上から見たらこんな形なんだ。<br />  <br /> だんだん細かいところまで見えてくる。<br /> 鋭くて武骨なアンテナがすぐ近くに、<br />  <br /> ああ、<br />  <br />  <br /> 「……痛い」<br />  <br /> 背中から落ちたけれどあまり痛くなかったのは、<br /> 私より先に毛布がベッドからずり落ちていたからだった。<br />  <br /> 目の前には電器のヒモがだらしなくぶら下がっている。<br /> 真っ白い天井は、朝の光で照らされていた。<br />  <br /> 「あ、そうだ!星は!?」<br />  <br /> 彼からお土産にもらった星は、どれだけ探しても見つからなかった。<br />  <br /> 落ちたときになくしてしまったのかしら。<br />  <br />  <br /> あれだけ小さいものだから、もう見つからないかもしれない。<br />  <br />  <br /> 呆けていた私に目覚ましがヂリリと鳴いて、今日も動けと言った。<br />  <br />  <br /> 「いってきます」<br />  <br /> 扉を開けて、朝の空を見上げる。<br />  <br /> 雲がひとつもなくて、鉄塔や送電線がなければ<br /> 不安になってしまいそうなくらい広い。<br />  <br /> 昨日の夜、私はあそこを泳いでいた。<br />  <br /> そう考えるだけで、鼻の奥がむずむずした。<br />  <br /> たんっ、とはずみをつけて跳んでみる。<br /> すぐに墜落して、背中の鞄につけたキーホルダーがじゃらじゃらと鳴る。<br />  <br /> やっぱり、夜しか泳げないのかしら。<br />  <br />  <br /> 手を伸ばしてみたけれど、空は憎らしいほどに高い。<br /> でも、いい。<br /> きっと、夜になればまた。<br /> 退屈な朝だけれど、夜のことを思えば少し希望が見えた気がした。<br />  <br />  <br /> 嘘つき。<br />  <br />  <br /> あれから一週間、彼は現れなかった。<br /> 夜、窓を開けて待っていた。<br /> そわそわして部屋のなかをうろうろしたり、じっと空を見つめていた。<br />  <br /> でも、彼は迎えに来てくれなかった。<br />  <br /> 声も聞こえなかったし、空に鯨の影は見えなかった。<br />  <br /> ふっ、と。<br /> 不安になった。<br />  <br /> やっぱり、夢だったんだろうか。<br /> 彼のくれた小さな星も、結局見つからないまま。<br />  <br />  <br /> 今日は、もう寝てしまおう。<br /> 毛布にくるまる。<br /> もうそろそろ、毛布でも暑い季節になってきた。<br />  <br /> 明日また暑いようだったら、タオルケットを出そう。<br />  <br /> ひゅわっ、<br />  <br />  <br /> 部屋の中に、涼しい風が吹き込んでくる。<br />  <br /> 机の上のノートが、壁のカレンダーが、はらはらと音をたてる。<br />  <br /> 部屋の中に、ぼうっと蛍のような光が浮かぶ。<br />  <br /> 「あっ」<br />  <br /> 彼のくれた星だ。<br />  <br /> 蛍光灯の紐や壁にぶつかったりしながら、開け放たれた窓から逃げていく。<br />  <br /> 「ごめんね、なかなか会いに来れなくて」<br />  <br /> 彼の声に、私は急いで毛布から飛び出した。<br /> 踏み出した勢いで、私の体はふわりと浮いた。<br />  <br /> 輪をくぐるイルカみたいに、窓から外へと飛び出す。<br />  <br /> 「遅いじゃない!」<br />  <br /> もう、来てくれないんじゃないかと思った。<br />  <br /> あたりを見渡す。 偉大な鯨の影を探す。<br />  <br /> 「ごめんごめん、急いで片付けないといけない用事が重なってね」<br />  <br /> 声はすぐ後ろからした。<br />  <br /> 我が家の屋根の上で、燕尾服を着こなした兎が恭しく礼をしていた。<br />  <br /> 姿は違っていても、私にはそれが彼だとすぐにわかった。<br />  <br /> 「今度こそ不思議の国に連れていってくれそうな格好ね」<br />  <br /> 「格好だけ、だけれどね」<br />  <br /> 彼の耳と髭が夜風になびく。<br /> 上等な生地のジャケットが、月の明かりでなめらかに輝く。<br />  <br /> 「あなた、はいったい何者なの?」<br />  <br /> 「なんだと思う?」<br />  <br /> 彼はにこりと笑って、ふわりと浮かぶ。<br />  <br /> 引力から解き放たれたみたいに<br /> ゆっくり高くあがっていく彼に<br /> 置いていかれないように必死で泳ぐ。<br />  <br /> 「えぇと、天使か、神様かしら?」<br />  <br /> 「神様、ねぇ」<br />  <br /> 彼は考える人みたいなポーズでくるくる回る。<br />  <br /> 「…そんなに、似てる?」<br />  <br /> 「そういえば、そんなに似てないわね。<br /> 神様は大体いつも人間の形だもの」<br />  <br /> 「似てないのか、ならよかった」<br />  <br /> よほど神様が嫌いなんだろうか、<br /> 彼は嬉しそうにくるくる回る。<br />  <br /> さっきらか何度も回っているけど、<br /> 目は回らないんだろうか。<br /> 気持ち悪くなって、落っこちてしまったりはしないだろうか。<br />  <br /> あ、そうだ。<br />  <br /> 「ねぇ、この間、何で私泳げなくなっちゃったの?<br /> いきなりだからびっくりしたわ」<br />  <br /> 「ふむ」<br />  <br /> 顎をさすりながり、彼は考えるフリをする。<br /> にやにや笑っているんだから、絶対真面目に考えてなんかいない。<br />  <br /> 「なんでだろうねぇ」<br />  <br /> 「教えてよ!」<br />  <br /> 「それはハルヒが一番よく知ってるんじゃないかなぁ」<br />  <br /> どういうことだろう。<br /> わからないから聞いてるのに、いじわる。<br />  <br /> 「…ヒントくらいは頂戴よ」<br />  <br /> 「じゃあ、ひとつだけ。軽くないと夜は泳げないよ」<br />  <br />  <br />  <br /> …あ、<br />  <br /> 「つまり、その」<br />  <br /> 「ハルヒが何を考えてるかなんてわからないけれど、多分正解」<br />  <br /> 「……ごめんなさい」<br />  <br /> 不思議そうな顔で彼は言う。<br />  <br /> 「なんで謝るのさ。怖かったのはハルヒなんだから」<br />  <br /> それでも、私は謝りたかった。<br />  <br /> 今日の彼は、この間とは違う泳ぎ方を見せてくれた。<br /> 屋根や電線にふわりと降りては、けのびするみたいにして昇っていく。<br />  <br /> 昇りきった上空で、彼はしばらくふよふよと漂うように泳ぐ。<br /> 私も真似をしてみたけれど、彼みたいに身軽には泳げなかった。<br />  <br /> 彼の白い毛並みは、月の光を反射してきれいだった。<br />  <br />  <br /> 月にうさぎがいないのは知っているけど、<br /> 月にうさぎはよくあっていると思う。<br />  <br /> 昔の人が勘違いしたのもわかる気がする。<br />  <br />  <br /> こんなにきれいなんだから。<br />  <br /> 「毎日が楽しくないって?」<br />  <br /> 「そう」<br />  <br /> 鉄塔のてっぺんに並んで座って、彼と話をする。<br />  <br /> でも、彼は自分が何者かは教えてくれなくて、<br /> 私の話を聞いて楽しそうにしているだけだった。<br />  <br />  <br /> 「でも、友達はいるんだろう?」<br />  <br /> 「うん。だけどね…」<br />  <br /> 私は、彼になら遠くに離れてみている私のことを話してもいいかな、と思った。<br />  <br /> 彼になら、何を話しても許してくれそうな気がした。<br />  <br /> 「そうだ!いいことを教えてあげよう!」<br />  <br /> 急に大きな声で彼が言うから、私の大事な決心は消し飛んだ。<br />  <br /> 「いいことって?」<br />  <br /> 「暗号さ!」<br />  <br /> 彼が教えてくれたのは、私とおんなじように退屈していて、<br /> 一緒に退屈を吹き飛ばしてくれるような人を呼ぶ暗号だという。<br />  <br /> 「ややこしい形ね…覚えるの大変そう」<br />  <br /> 「そうかい?簡単だよ」<br />  <br />  <br /> 彼は星を並べかえてもう一度空に描いた。<br /> 適当な線みたいで、覚えにくい。<br />  <br /> 手のひらに何度も練習していると、彼は懐から時計を取り出して取り乱した。<br />  <br /> 「いけない!もう夜が終わってしまう!」<br />  <br /> 「えっ、もうそんな時間!?」<br />  <br /> 彼は急いで時計のねじを巻いたり、月を蹴り飛ばしたりした。<br />  <br /> 「私に何か手伝えることは?」<br />  <br /> 「あぁ、ありがとう、でもこれは僕の仕事なんだ<br /> ハルヒは急いで家に帰りなさい、<br /> 朝は影について厳しくて、<br /> 絶対に許してくれないから!」<br />  <br /> 「影?」<br />  <br /> 私は足元を見た。<br /> そういえば、いつも私につきまとっていた影がない。<br />  <br /> 「夜は優しいから時々許してくれるけれど、<br /> 朝や昼は容赦なく影を作るからね!」<br />  <br /> なんで影があるとダメなのか聞こうとしたけれど、<br /> 忙しそうに飛び回る彼に悪いような気がしたから<br /> 言われた通りに家に向かった。<br />  <br /> 「じゃあ、またね!」<br />  <br /> 彼は、軽く手を振って応えてくれた。<br />  <br /> 「じゃあ、あの暗号を書いたお札を学校じゅうに貼ったのかい!?」<br />  <br /> 「そうよ」<br />  <br /> あれからまた一週間くらいたった夜、<br /> 彼はまた私に会いに来てくれた。<br /> 前よりも高いビルの上で、<br /> 魚に餌をやりながら話をした。<br />  <br />  <br /> 「………っ」<br />  <br /> 「…どうかした?」<br />  <br />  <br /> 「あはははははははっ!<br /> 君はすごいな!まさかそんな風に使うなんて!」<br />  <br /> 彼は長い尻尾をぐねぐね振って、<br /> 喉をぐるぐると鳴らして笑った。<br />  <br /> 今夜、彼は猫だった。<br />  <br /> 「なっ、なによ」<br />  <br /> 「いやね、今まで何人かに教えたことがあったんだよ。<br /> でも、だいたいの人は紙に書いて枕元に置いたり、<br /> お気に入りの本に栞みたいに挟んだりしててね。<br /> まさかこんなに派手にアピールするとはね」<br />  <br /> 「だからって、なんでそんなに笑うのよ!」<br />  <br /> 呼吸困難になるくらい笑うなんて。ちょっと拗ねる。<br />  <br /> 「あはは、君は本当に変わりたいんだね」<br />  <br /> 「どういうこと?」<br />  <br /> まだ落ち着かない呼吸で、彼は言う。<br />  <br /> 「変わりたい、って思ったり言ったりしていても、<br /> いざチャンスが与えられたら急に臆病になる人が多い。<br /> いや、ほとんどの人がそうだ。<br />  <br /> 僕が今まで出会ってきた子どもたちも、<br /> 結局は誰かが助けてくれるのをじっと待ってるだけだった。」<br />  <br /> へんなの。<br /> 私だったら、そんなチャンスいつだって大歓迎なのに。<br />  <br /> 笑ったはずみで彼がばらまいた餌に、魚がきらきらと群がる。<br />  <br />  <br /> 「君みたいな人は素晴らしいよ。<br /> きっと君みたいな人が、世界を変えるんだ」<br />  <br />  <br /> そんな、大袈裟な。<br />  <br /> でも、私を見つめる黄金色の瞳は真剣だった。<br />  <br /> 真っ直ぐで澄んでいて、夜みたいな彼の毛並みに浮かぶ満月に見えた。<br />  <br /> 「大人になる時、人はいろんなものを削っていく。<br /> 要らないものも、大切なことも。<br /> その要らないものの中で一番大切なものを、<br /> ハルヒはずっと守っていけるよ。きっと」<br />  <br />  <br /> 彼のウインクで、新しく星が生まれた。<br /> 魚たちは驚いて、放射状に逃げていく。<br />  <br /> 朝、いつのまにかベッドに戻っていて、<br /> 頭の向こう側で目覚まし時計が鳴っていた。<br />  <br /> 頭をはたいて黙らせたとき、ふっと思った。<br />  <br />  <br />  <br /> そうだった。<br /> 私もいつか、大人になるんだ。<br />  <br /> ある日突然大人になっているんだろうか。<br /> それとも、気付いたら大人になっているんだろうか。<br /> 私は、大人になるんだ。<br /> ぼんやりと、変な感じがした。<br />  <br /> それからしばらく、彼は姿を見せなかった。<br />  <br /> 彼がいなくても泳げるんじゃないだろうかと、ベッドから<br /> 飛び立ってみたけど、私はすぐに墜落して、下の階で寝ていた<br /> お母さんを怒らせただけだった。<br />  <br /> その朝は、拍子抜けするほど唐突にやってきた。<br />  <br /> 寝覚めが悪くて、なかなか起き上がれずにいた。<br />  <br /> 寝直したいけど、時間はどうだろう。まぁ、いいや。そう決心して寝返りを打つ。<br />  <br /> 不快な感触に、どきりとした。<br />  <br /> 「え?」<br />  <br />  <br /> どうしよう、まさかこの歳でしてしまうなんて。<br />  <br /> 焦って、身動きができなくなる。どうしよう。<br /> でも、このままじっとしているわけにもいけないし。<br />  <br /> おそるおそる、触れてみる。<br /> 確実に湿った感触が伝わって、落ち込む。<br /> どうしよう。<br />  <br /> 違和感に気づいたのはその時だった。<br />  <br /> 腐ったサビような、鼻をつく臭い。<br />  <br />  <br />  <br /> それに気付いて、瞬間に私は言葉を失った。<br />  <br /> 「大丈夫よハルヒ、病気じゃないわ」<br />  <br /> 私のシーツを片付けながら、お母さんは言う。<br />  <br /> 「…本当?」<br />  <br /> 「授業でまだ教わってないのかしら」<br />  <br /> こんなこと聞いたことがなかった。<br /> 私は顔を横に振る。<br />  <br /> 「教えておいた方がよかったわね」<br />  <br /> お母さんは優しく、私の頭を撫でる。<br />  <br /> 「ハルヒは、みんなよりちょっとだけ早く大人になったの。<br /> これはその印なのよ」<br />  <br /> ぎゅっと抱き締められた私は、また遠くから自分を見ていた。<br />  <br /> 抱き締められている実感なんてなくて、<br /> お母さんの腕の暖かさなんて全然届かなくて、<br /> 寒いところへ突然突き放されたみたいだった。<br />  <br /> 名前を呼ぼうにも、私は彼の名前を知らなかった。<br />  <br /> 一人でも飛べないかと思ったけれども、<br /> 昼も夜も、影がついてきた。<br />  <br /> 彼がくれた星は、そういえば、あの夜逃げていったままだ。<br />  <br /> 夕方にまでふらふらやってきた星を見て、<br /> あのときにちゃんと捕まえておけばよかったと、<br />  <br /> どうしようもない気持ちになる。<br />  <br /> 夜、窓を開けて空を見上げてみる。<br /> 空を遮るほどの偉大な鯨も、<br /> 月がよく似合う飄々としたうさぎも、<br /> 夜そのものみたいな猫も<br />  <br /> 見つけることができなかった。<br />  <br /> …大人になってしまったから?<br />  <br /> 大人になって、彼の言っていたものをなくしてしまった?<br />  <br /> 私の楽しめる場所は、<br /> 泳げる場所は夜だけだったのに、<br /> 夜しか泳げなかったのに、<br /> 夜にさえ許してもらえなくなってしまった。<br />  <br /> 今日は月が綺麗。<br />  <br /> 彼は、あそこまで泳いでみせた。<br /> いつか君も届くよ、と。<br />  <br />  <br /> 今となっては、全部が嘘なんじゃないか、<br /> 最初から夢だったんじゃないかと、疑ってしまう。<br />  <br /> きっと、今の私は泳げないほどに重いだろう。<br />  <br /> 余計なものを捨てて、重くなったんだろうか。<br />  <br />  <br /> 私は、<br /> もう大人なんだろうか。<br />  <br /> 月に手をかざしてみても、残酷なほど遠い距離が<br /> はっきりわかって、余計に寂しくなるだけだった。<br /> もう泳げないのなら、二度と月には届かない。<br />  <br /> 彼の言ったいつかなんて、来るはずがない。<br />  <br /> 指の間から、小さな月が見え隠れする。<br />  <br /> 嘘みたいにくっきりとした小さすぎる月は、<br /> 私の細い指にでも全部隠れてしまう。<br />  <br /> 頼りなさげな月は、ぼんやりと光る。<br />  <br /> 月が現れると、星がぼやける。<br /> 月が隠れると、星がよく見える。<br />  <br />  <br /> 星。<br />  <br /> 「ちょっと、どこに行くの?こんな時間に」<br />  <br /> そうだ、<br />  <br /> 彼は私に教えてくれた。<br />  <br /> 「友達ん家!親戚から竹切ってもらったんだって」<br />  <br /> 星を、並べかえて。<br />  <br /> 「そう、あんまり遅くならないようにね」<br />  <br />  <br /> あの暗号を。<br />  <br /> 「うん、いってきます!」<br />  <br /> 描こう。<br /> あの暗号を、彼に見えるように描こう。<br /> 遠く離れてしまった月からでも見えるように。<br />  <br />  <br /> 笹の葉に紛れてこっそり願うんじゃなく、<br /> 大切な人に届くように。<br />  <br />  <br /> 今日は、願いが叶う夜。<br /> 待ち望んで、二人が出会う夜だから。<br />  <br />  <br />  <br /> おわり<br />  </p>
<p>自分は世界の中心なんかじゃない。<br />  <br /> 世界が自分を中心に回ってるなんて考えたことなんてなかった。<br />  <br /> でも、まざまざと思い知った。<br /> 私は、世界の前では「その他大勢」でしかないんだ。<br />  <br /> 野球場でのこと以来、世界が違く見えた。<br />  <br /> 楽しい会話の中で、隙間を感じていた。<br />  <br /> クラスの男子が馬鹿をする。<br /> 誰かがそれを茶化す。<br /> 笑いの輪の中で、ふっと、冷静になる瞬間。<br />  <br /> こんなことが、本当に可笑しいのだろうか。<br /> 本当に、楽しいのだろうか。<br />  <br /> 考え始めると、どんどん隙間は広がっていって、<br /> 私は話しながら、笑いながら、<br /> 遠くからみんなを見る。<br />  <br /> 私は、どこにいるんだろう。<br />  <br /> 夜、ベッドの中で布団に隠れて考えてみる。<br />  <br /> もしも私がこのまま毛布の中で小さくなっていって、<br /> 見えないくらい小さくなって、<br /> 消えてしまったとしたら。<br /> この世界はどうなるんだろう。<br />  <br /> 私と一緒に消えてしまうんだろうか?<br />  <br /> そんなはずはない、世界は私のことなんかに構っている暇がないんだ。<br />  <br /> 毎日毎日、おんなじように回ることで精一杯なんだ。<br /> 私がいてもいなくても、明日は来る。<br />  <br /> 私の大好きな人たちもいつか私のことを忘れてしまって、<br />  <br /> …私は、誰なんだろう。<br /> 私は、なんのためにいるんだろう。<br />  <br /> 考えても考えても、答えなんてひとつも出なくて、<br /> 泣きそうなくらい寂しくなって、<br /> 喉がきゅんと締め付けられて、呼吸がしづらくなった。<br />  <br /> 空気が重くなって、まとわりついてくるような。<br />  <br />  <br />  <br /> 誰か、<br />  <br /> 誰か、<br />  <br /> 誰か私を<br />  <br />  <br /> 「そりゃ、そんな底でじっとしてたら苦しいにきまってるさ」<br />  <br />  <br /> どこからか声がした。<br />  <br /> 遠いようで、頭に響くようで。<br />  <br />  <br /> 「ほら、いい夜だよ。泳ぐにはもってこいだ」<br />  <br /> 泳ぐって、どうやって?<br />  <br /> 「昔とかわらないさ。さぁ、空気を蹴って」<br />  <br />  <br /> 毛布から顔を出すと、真夜中だというのに部屋は明るかった。<br />  <br /> カレンダーの日付がはっきりと見える。<br />  <br /> 窓の外にはレモンソーダのグラスみたいに澄んだ月。<br /> 絵本みたいに非常識なサイズの月が夜の景色の中で浮いて見えた。<br />  <br /> 「どうしたんだい、夜は短いんだ、さぁ早く」<br />  <br /> 「私、泳ぎ方なんて知らないわよ」<br />  <br /> 少し不機嫌な声で、その人は言う。<br />  <br /> 「ちゃんと教えただろう?<br /> まぁ久しく泳いでないから忘れるのも仕方がないかな」<br />  <br /> 私はなぜか申し訳ない気分で一杯になった。<br /> その声が、ほんの少し寂しそうだったから。<br />  <br /> 「よし、じゃあちょっと手伝ってあげよう。<br /> 目をつむって、息を止めて」<br />  <br /> 迷ったけれど、私は声の言う通りにした。<br />  <br /> 目をつむっても、月明かりはぼんやりと感じることができた。<br />  <br /> 「嬉しかったことを思い出してごらん。<br /> なるべく、最近のことを」<br />  <br /> 嬉しかったこと、何かあったかしら。<br /> 今夜はなんだか嫌なことしか思い出せないような気がする。<br />  <br /> なやんでいると、その人はぼそっとした声で諭す。<br />  <br /> 「今日の晩御飯は、何だった?」<br />  <br /> …そうだ、今日はカレーだったんだ。<br /> この間ハヤシライスだった日にカレーがよかったな、って言っちゃって。<br /> お母さん不機嫌になったのに、覚えててくれたたんだ。<br />  <br /> 「おいしかった?」<br />  <br /> 当たり前よ!お母さんが作ったんだから、おいしくないわけないじゃない。<br />  <br /> 「そりゃよかった。<br /> よかったことってのは意外と忘れがちだからね」<br />  <br /> そういわれてみれば、わりとたくさんの嬉しい出来事が見つかった。<br />  <br /> 指を折りながら数えていたら、ずっと、ずっと昔のことまで思い出すことができた。<br />  <br /> もっと昔に、何か嬉しいことがあった気がするんだけれど、<br /> 何かモヤモヤとしてはっきりしない。<br />  <br /> 見えない蜘蛛の糸に捕まってしまったみたいで、<br /> 私はうーんと頭をひねった。<br />  <br />  <br /> 「もう少しで、思い出せそうなんだけれど」<br />  <br /> 「それじゃあ、ばた足みたいに足を動かしてごらん。<br /> そうすると血がめぐって頭の回転がよくなるから」<br />  <br /> そういえば聞いたことがあるわね。<br /> ずっと机にむかっているよりも<br /> 散歩をしているときの方が脳が活発になる、って。<br />  <br /> 毛布の中でモゾモゾと足を動かす。<br />  <br /> うーん、もっと、もっと昔に何かあったような。<br />  <br /> うーん。<br />  <br /> 毛布がずり落ちても、気にせずずっと足をバタバタさせる。<br />  <br /> うーん、うーん。<br />  <br />  <br /> 「さぁハルヒ。息を吸って、目を開いて」<br />  <br /> え?<br /> ああそうだった。<br />  <br /> 目を閉じていたんだった。あまりにも月が明るくて、<br /> まぶたを閉じても届くからわすれていた。<br /> 何で今日はこんなにも月が明るいんだろう。<br />  <br />  <br />  <br /> 目を開くと、月が目の前にあった。<br />  <br /> 「えっ?」<br />  <br /> 私の体は送電線の上。<br /> ベッドに寝ていた姿勢のまま夜の風に吹かれていた。<br />  <br /> 「えっ?」<br />  <br /> 「絶対にうつむかないで。上を向いたまま、上に泳いでおいで」<br />  <br />  <br /> ばた足の幅を大きくして、体をくねらせる。<br /> 緩やかな風に乗って、私の体はふんわり高く昇っていく。<br />  <br /> 上空の空気は冷たく透き通っていて、体が軽い。<br /> 耳の中で空気が音をたてて回る。<br />  <br /> 月も星も、撫でてしまえそうなほどに近い。<br />  <br /> 地面から遠く離れてしまって、<br /> 回りに距離感がつかめるものがなくなったので、<br /> 私は自分がどこにいるのかわからなくなった。<br />  <br /> でも、それはそれで心地がよかった。<br />  <br /> ビルの群れの向こう側に、街の灯も星の光も見えないところを見つける。<br />  <br /> あそこは海。私の家は海から遠いのに、<br /> 高いところからなら簡単に見ることができた。<br />  <br />  <br /> 少し強い風が、火照った頬を冷やしてくれた。<br />  <br /> 鼻が、胸が、むずむずした。<br />  <br /> 「すごい!私、本当に飛んでる!」<br />  <br /> 突然走り出したい衝動に駆られたけれど、<br /> ふわふわ浮いているから出来なかった。<br />  <br /> 「正確には泳いでるんだけどね。<br /> どうだい、久々に泳ぐ空は」<br />  <br /> どこかから聞こえていた声が、今度は真後ろから聞こえた。<br />  <br />  <br /> 振りかえるとそこには、大きな鯨が優雅に泳いでいた。<br />  <br /> 「うん、どうしたんだい?黙り込んで」<br />  <br /> 「…魔法みたいに連れ出してくれたから、<br /> 私、てっきりピーターパンみたいな男の子かと思ってたわ」<br />  <br /> 「残念だけど、子供だけの国には招待してあげられないよ」<br />  <br /> 愛嬌と魔法の粉を振り撒いてくれる<br /> かわいらしい妖精もいないしね、と鯨は言った。<br />  <br /> 「ねぇ、どうやって私を浮かせてるの?<br /> あなた超能力でも持ってるの?<br /> それとも、鯨はみんなこうなの?<br /> 私、本物の鯨なんて見るのはじめてだから<br /> どんなのが普通かわからないけど、<br /> 飛ぶなんて知らなかったわ」<br />  <br /> 「鯨?超能力?」<br />  <br /> 大きな口をぐわっと開いて、空気を震わせずに鯨は笑った。<br />  <br /> 「な、なによ!」<br />  <br /> 「そうか、君には鯨に見えるのか。うん、なるほど」<br />  <br /> 優しそうな大きな目で私を見て、鯨は言う。<br />  <br /> 「他の鯨はどうか知らないけど、<br /> わたしは別に念力だとか神通力だとか<br /> そんなようなものは持ってないよ」<br />  <br /> 「じゃあ、なんで」<br />  <br /> 「重い液体の中に軽いものがあると、それは浮くだろう?<br /> あれと同じさ。君は今、夜に浮けるくらい軽くなったんだよ」<br />  <br /> それだけさ。<br /> そう言って鯨は尾びれを振る。<br />  <br /> なるほど。<br /> 難しいことはよくわからないけど、なんとなく納得した。<br />  <br /> そんなことよりも、今はこうやって空を泳げていることが<br /> 嬉しくてたまらなかった。<br />  <br /> どうせなら腰から下が人魚みたいならよかったのに。<br /> イルカみたいにフリップしてみようとしたけど、うまくいかずに、<br /> 私はふよふよと後ろに漂うように流れていった。<br />  <br /> それをみて、鯨はまた大きな口で笑った。<br />  <br />  <br /> 「その様子だと、本当に忘れてるみたいだね」<br />  <br />  <br /> 「えっ?」<br />  <br /> 「昔も今日みたいに飛んでたことさ」<br />  <br /> しばらく練習して、少しは自由に泳げるようになった私に、彼は言う。<br />  <br /> 「まぁ仕方ないかな。ずいぶん昔のことだから」<br />  <br /> 「…ごめんなさい」<br />  <br /> 「そんな、謝らなくてもいいよ。今はこうやって泳げてるんだからね」<br />  <br /> 彼は月に腰掛けて、尾びれをひらひら振って言う。<br />  <br />  <br /> ビルのアンテナくらいまでしか泳げない私は、<br /> 高くまで泳げる彼がうらやましく思えた。<br />  <br /> 「さて、もうそろそろ時間かな」<br />  <br /> 彼は月から離れ、私の方へけのびをしてきた。<br /> その反動で、月はゆっくりと動き出す。<br />  <br /> 「ハルヒ、君ももう帰りな。これはお土産」<br />  <br /> 彼は口にくわえていた星を手のひらにのせてくれた。<br /> 一息で飛んでいってなくしてしまいそうなそれは、<br /> 蛍みたいに熱を出さずに輝いていた。<br />  <br /> とてもきれいで嬉しいけれど、<br />  <br /> 「私、まだ帰りたくないわ」<br />  <br /> 彼は困ったような顔をした。<br />  <br /> 「駄目だよ、こればっかりは」<br />  <br /> 「どうして!?」<br />  <br /> せっかく泳げるようになったのに。<br />  <br /> まだ、まだ高いところまで泳ぎたいのに。<br />  <br /> 「説明すると長くなるから、はやくしないと」<br />  <br />  <br /> 「…また、夜に連れ出してくれる?」<br />  <br /> 「わかった。約束しよう」<br />  <br /> 彼は、私を背中にのせて家の屋根まで運んでくれるという。<br />  <br /> 「危ないからちゃんと掴まってて」<br />  <br /> うん、と返事をしようとしたけれど、<br /> その時にはもう彼はすごい速さで泳ぎ始めていたから、<br /> 声に出すことができなかった。<br />  <br /> …うらやましい。<br />  <br /> 高いところまで行けるだけじゃなくて、こんなに速く泳ぐこともできるんだ。<br /> 彼の背中は広くて、熱くも冷たくもなくて、<br /> すべすべとした感触がした。<br />  <br /> 私の家の上まで、あっという間だった。<br />  <br /> 「ありがとう。あとは自分で泳いで帰るわ」<br />  <br /> 掴まっていた背びれから手を離す。<br />  <br /> ふっと、体が重くなるのを感じた。<br />  <br /> 「えっ」<br />  <br /> 耳元ですごい勢いで風がなく。<br /> ハジャマがバタバタと暴れだす。<br />  <br />  <br /> 泳げない。<br />  <br /> 彼が、星が、月が飛んでいってしまったみたいに離れていく。<br />  <br /> 離れてるのは私の方。<br /> 肩越しに後ろを見る。<br />  <br /> 私の家の屋根って、上から見たらこんな形なんだ。<br />  <br /> だんだん細かいところまで見えてくる。<br /> 鋭くて武骨なアンテナがすぐ近くに、<br />  <br /> ああ、<br />  <br />  <br /> 「……痛い」<br />  <br /> 背中から落ちたけれどあまり痛くなかったのは、<br /> 私より先に毛布がベッドからずり落ちていたからだった。<br />  <br /> 目の前には電器のヒモがだらしなくぶら下がっている。<br /> 真っ白い天井は、朝の光で照らされていた。<br />  <br /> 「あ、そうだ!星は!?」<br />  <br /> 彼からお土産にもらった星は、どれだけ探しても見つからなかった。<br />  <br /> 落ちたときになくしてしまったのかしら。<br />  <br />  <br /> あれだけ小さいものだから、もう見つからないかもしれない。<br />  <br />  <br /> 呆けていた私に目覚ましがヂリリと鳴いて、今日も動けと言った。<br />  <br />  <br /> 「いってきます」<br />  <br /> 扉を開けて、朝の空を見上げる。<br />  <br /> 雲がひとつもなくて、鉄塔や送電線がなければ<br /> 不安になってしまいそうなくらい広い。<br />  <br /> 昨日の夜、私はあそこを泳いでいた。<br />  <br /> そう考えるだけで、鼻の奥がむずむずした。<br />  <br /> たんっ、とはずみをつけて跳んでみる。<br /> すぐに墜落して、背中の鞄につけたキーホルダーがじゃらじゃらと鳴る。<br />  <br /> やっぱり、夜しか泳げないのかしら。<br />  <br />  <br /> 手を伸ばしてみたけれど、空は憎らしいほどに高い。<br /> でも、いい。<br /> きっと、夜になればまた。<br /> 退屈な朝だけれど、夜のことを思えば少し希望が見えた気がした。<br />  <br />  <br /> 嘘つき。<br />  <br />  <br /> あれから一週間、彼は現れなかった。<br /> 夜、窓を開けて待っていた。<br /> そわそわして部屋のなかをうろうろしたり、じっと空を見つめていた。<br />  <br /> でも、彼は迎えに来てくれなかった。<br />  <br /> 声も聞こえなかったし、空に鯨の影は見えなかった。<br />  <br /> ふっ、と。<br /> 不安になった。<br />  <br /> やっぱり、夢だったんだろうか。<br /> 彼のくれた小さな星も、結局見つからないまま。<br />  <br />  <br /> 今日は、もう寝てしまおう。<br /> 毛布にくるまる。<br /> もうそろそろ、毛布でも暑い季節になってきた。<br />  <br /> 明日また暑いようだったら、タオルケットを出そう。<br />  <br /> ひゅわっ、<br />  <br />  <br /> 部屋の中に、涼しい風が吹き込んでくる。<br />  <br /> 机の上のノートが、壁のカレンダーが、はらはらと音をたてる。<br />  <br /> 部屋の中に、ぼうっと蛍のような光が浮かぶ。<br />  <br /> 「あっ」<br />  <br /> 彼のくれた星だ。<br />  <br /> 蛍光灯の紐や壁にぶつかったりしながら、開け放たれた窓から逃げていく。<br />  <br /> 「ごめんね、なかなか会いに来れなくて」<br />  <br /> 彼の声に、私は急いで毛布から飛び出した。<br /> 踏み出した勢いで、私の体はふわりと浮いた。<br />  <br /> 輪をくぐるイルカみたいに、窓から外へと飛び出す。<br />  <br /> 「遅いじゃない!」<br />  <br /> もう、来てくれないんじゃないかと思った。<br />  <br /> あたりを見渡す。 偉大な鯨の影を探す。<br />  <br /> 「ごめんごめん、急いで片付けないといけない用事が重なってね」<br />  <br /> 声はすぐ後ろからした。<br />  <br /> 我が家の屋根の上で、燕尾服を着こなした兎が恭しく礼をしていた。<br />  <br /> 姿は違っていても、私にはそれが彼だとすぐにわかった。<br />  <br /> 「今度こそ不思議の国に連れていってくれそうな格好ね」<br />  <br /> 「格好だけ、だけれどね」<br />  <br /> 彼の耳と髭が夜風になびく。<br /> 上等な生地のジャケットが、月の明かりでなめらかに輝く。<br />  <br /> 「あなた、はいったい何者なの?」<br />  <br /> 「なんだと思う?」<br />  <br /> 彼はにこりと笑って、ふわりと浮かぶ。<br />  <br /> 引力から解き放たれたみたいに<br /> ゆっくり高くあがっていく彼に<br /> 置いていかれないように必死で泳ぐ。<br />  <br /> 「えぇと、天使か、神様かしら?」<br />  <br /> 「神様、ねぇ」<br />  <br /> 彼は考える人みたいなポーズでくるくる回る。<br />  <br /> 「…そんなに、似てる?」<br />  <br /> 「そういえば、そんなに似てないわね。<br /> 神様は大体いつも人間の形だもの」<br />  <br /> 「似てないのか、ならよかった」<br />  <br /> よほど神様が嫌いなんだろうか、<br /> 彼は嬉しそうにくるくる回る。<br />  <br /> さっきらか何度も回っているけど、<br /> 目は回らないんだろうか。<br /> 気持ち悪くなって、落っこちてしまったりはしないだろうか。<br />  <br /> あ、そうだ。<br />  <br /> 「ねぇ、この間、何で私泳げなくなっちゃったの?<br /> いきなりだからびっくりしたわ」<br />  <br /> 「ふむ」<br />  <br /> 顎をさすりながり、彼は考えるフリをする。<br /> にやにや笑っているんだから、絶対真面目に考えてなんかいない。<br />  <br /> 「なんでだろうねぇ」<br />  <br /> 「教えてよ!」<br />  <br /> 「それはハルヒが一番よく知ってるんじゃないかなぁ」<br />  <br /> どういうことだろう。<br /> わからないから聞いてるのに、いじわる。<br />  <br /> 「…ヒントくらいは頂戴よ」<br />  <br /> 「じゃあ、ひとつだけ。軽くないと夜は泳げないよ」<br />  <br />  <br />  <br /> …あ、<br />  <br /> 「つまり、その」<br />  <br /> 「ハルヒが何を考えてるかなんてわからないけれど、多分正解」<br />  <br /> 「……ごめんなさい」<br />  <br /> 不思議そうな顔で彼は言う。<br />  <br /> 「なんで謝るのさ。怖かったのはハルヒなんだから」<br />  <br /> それでも、私は謝りたかった。<br />  <br /> 今日の彼は、この間とは違う泳ぎ方を見せてくれた。<br /> 屋根や電線にふわりと降りては、けのびするみたいにして昇っていく。<br />  <br /> 昇りきった上空で、彼はしばらくふよふよと漂うように泳ぐ。<br /> 私も真似をしてみたけれど、彼みたいに身軽には泳げなかった。<br />  <br /> 彼の白い毛並みは、月の光を反射してきれいだった。<br />  <br />  <br /> 月にうさぎがいないのは知っているけど、<br /> 月にうさぎはよくあっていると思う。<br />  <br /> 昔の人が勘違いしたのもわかる気がする。<br />  <br />  <br /> こんなにきれいなんだから。<br />  <br /> 「毎日が楽しくないって?」<br />  <br /> 「そう」<br />  <br /> 鉄塔のてっぺんに並んで座って、彼と話をする。<br />  <br /> でも、彼は自分が何者かは教えてくれなくて、<br /> 私の話を聞いて楽しそうにしているだけだった。<br />  <br />  <br /> 「でも、友達はいるんだろう?」<br />  <br /> 「うん。だけどね…」<br />  <br /> 私は、彼になら遠くに離れてみている私のことを話してもいいかな、と思った。<br />  <br /> 彼になら、何を話しても許してくれそうな気がした。<br />  <br /> 「そうだ!いいことを教えてあげよう!」<br />  <br /> 急に大きな声で彼が言うから、私の大事な決心は消し飛んだ。<br />  <br /> 「いいことって?」<br />  <br /> 「暗号さ!」<br />  <br /> 彼が教えてくれたのは、私とおんなじように退屈していて、<br /> 一緒に退屈を吹き飛ばしてくれるような人を呼ぶ暗号だという。<br />  <br /> 「ややこしい形ね…覚えるの大変そう」<br />  <br /> 「そうかい?簡単だよ」<br />  <br />  <br /> 彼は星を並べかえてもう一度空に描いた。<br /> 適当な線みたいで、覚えにくい。<br />  <br /> 手のひらに何度も練習していると、彼は懐から時計を取り出して取り乱した。<br />  <br /> 「いけない!もう夜が終わってしまう!」<br />  <br /> 「えっ、もうそんな時間!?」<br />  <br /> 彼は急いで時計のねじを巻いたり、月を蹴り飛ばしたりした。<br />  <br /> 「私に何か手伝えることは?」<br />  <br /> 「あぁ、ありがとう、でもこれは僕の仕事なんだ<br /> ハルヒは急いで家に帰りなさい、<br /> 朝は影について厳しくて、<br /> 絶対に許してくれないから!」<br />  <br /> 「影?」<br />  <br /> 私は足元を見た。<br /> そういえば、いつも私につきまとっていた影がない。<br />  <br /> 「夜は優しいから時々許してくれるけれど、<br /> 朝や昼は容赦なく影を作るからね!」<br />  <br /> なんで影があるとダメなのか聞こうとしたけれど、<br /> 忙しそうに飛び回る彼に悪いような気がしたから<br /> 言われた通りに家に向かった。<br />  <br /> 「じゃあ、またね!」<br />  <br /> 彼は、軽く手を振って応えてくれた。<br />  <br /> 「じゃあ、あの暗号を書いたお札を学校じゅうに貼ったのかい!?」<br />  <br /> 「そうよ」<br />  <br /> あれからまた一週間くらいたった夜、<br /> 彼はまた私に会いに来てくれた。<br /> 前よりも高いビルの上で、<br /> 魚に餌をやりながら話をした。<br />  <br />  <br /> 「………っ」<br />  <br /> 「…どうかした?」<br />  <br />  <br /> 「あはははははははっ!<br /> 君はすごいな!まさかそんな風に使うなんて!」<br />  <br /> 彼は長い尻尾をぐねぐね振って、<br /> 喉をぐるぐると鳴らして笑った。<br />  <br /> 今夜、彼は猫だった。<br />  <br /> 「なっ、なによ」<br />  <br /> 「いやね、今まで何人かに教えたことがあったんだよ。<br /> でも、だいたいの人は紙に書いて枕元に置いたり、<br /> お気に入りの本に栞みたいに挟んだりしててね。<br /> まさかこんなに派手にアピールするとはね」<br />  <br /> 「だからって、なんでそんなに笑うのよ!」<br />  <br /> 呼吸困難になるくらい笑うなんて。ちょっと拗ねる。<br />  <br /> 「あはは、君は本当に変わりたいんだね」<br />  <br /> 「どういうこと?」<br />  <br /> まだ落ち着かない呼吸で、彼は言う。<br />  <br /> 「変わりたい、って思ったり言ったりしていても、<br /> いざチャンスが与えられたら急に臆病になる人が多い。<br /> いや、ほとんどの人がそうだ。<br />  <br /> 僕が今まで出会ってきた子どもたちも、<br /> 結局は誰かが助けてくれるのをじっと待ってるだけだった。」<br />  <br /> へんなの。<br /> 私だったら、そんなチャンスいつだって大歓迎なのに。<br />  <br /> 笑ったはずみで彼がばらまいた餌に、魚がきらきらと群がる。<br />  <br />  <br /> 「君みたいな人は素晴らしいよ。<br /> きっと君みたいな人が、世界を変えるんだ」<br />  <br />  <br /> そんな、大袈裟な。<br />  <br /> でも、私を見つめる黄金色の瞳は真剣だった。<br />  <br /> 真っ直ぐで澄んでいて、夜みたいな彼の毛並みに浮かぶ満月に見えた。<br />  <br /> 「大人になる時、人はいろんなものを削っていく。<br /> 要らないものも、大切なことも。<br /> その要らないものの中で一番大切なものを、<br /> ハルヒはずっと守っていけるよ。きっと」<br />  <br />  <br /> 彼のウインクで、新しく星が生まれた。<br /> 魚たちは驚いて、放射状に逃げていく。<br />  <br /> 朝、いつのまにかベッドに戻っていて、<br /> 頭の向こう側で目覚まし時計が鳴っていた。<br />  <br /> 頭をはたいて黙らせたとき、ふっと思った。<br />  <br />  <br />  <br /> そうだった。<br /> 私もいつか、大人になるんだ。<br />  <br /> ある日突然大人になっているんだろうか。<br /> それとも、気付いたら大人になっているんだろうか。<br /> 私は、大人になるんだ。<br /> ぼんやりと、変な感じがした。<br />  <br /> それからしばらく、彼は姿を見せなかった。<br />  <br /> 彼がいなくても泳げるんじゃないだろうかと、ベッドから<br /> 飛び立ってみたけど、私はすぐに墜落して、下の階で寝ていた<br /> お母さんを怒らせただけだった。<br />  <br /> その朝は、拍子抜けするほど唐突にやってきた。<br />  <br /> 寝覚めが悪くて、なかなか起き上がれずにいた。<br />  <br /> 寝直したいけど、時間はどうだろう。まぁ、いいや。そう決心して寝返りを打つ。<br />  <br /> 不快な感触に、どきりとした。<br />  <br /> 「え?」<br />  <br />  <br /> どうしよう、まさかこの歳でしてしまうなんて。<br />  <br /> 焦って、身動きができなくなる。どうしよう。<br /> でも、このままじっとしているわけにもいけないし。<br />  <br /> おそるおそる、触れてみる。<br /> 確実に湿った感触が伝わって、落ち込む。<br /> どうしよう。<br />  <br /> 違和感に気づいたのはその時だった。<br />  <br /> 腐ったサビような、鼻をつく臭い。<br />  <br />  <br />  <br /> それに気付いて、瞬間に私は言葉を失った。<br />  <br /> 「大丈夫よハルヒ、病気じゃないわ」<br />  <br /> 私のシーツを片付けながら、お母さんは言う。<br />  <br /> 「…本当?」<br />  <br /> 「授業でまだ教わってないのかしら」<br />  <br /> こんなこと聞いたことがなかった。<br /> 私は顔を横に振る。<br />  <br /> 「教えておいた方がよかったわね」<br />  <br /> お母さんは優しく、私の頭を撫でる。<br />  <br /> 「ハルヒは、みんなよりちょっとだけ早く大人になったの。<br /> これはその印なのよ」<br />  <br /> ぎゅっと抱き締められた私は、また遠くから自分を見ていた。<br />  <br /> 抱き締められている実感なんてなくて、<br /> お母さんの腕の暖かさなんて全然届かなくて、<br /> 寒いところへ突然突き放されたみたいだった。<br />  <br /> 名前を呼ぼうにも、私は彼の名前を知らなかった。<br />  <br /> 一人でも飛べないかと思ったけれども、<br /> 昼も夜も、影がついてきた。<br />  <br /> 彼がくれた星は、そういえば、あの夜逃げていったままだ。<br />  <br /> 夕方にまでふらふらやってきた星を見て、<br /> あのときにちゃんと捕まえておけばよかったと、<br />  <br /> どうしようもない気持ちになる。<br />  <br /> 夜、窓を開けて空を見上げてみる。<br /> 空を遮るほどの偉大な鯨も、<br /> 月がよく似合う飄々としたうさぎも、<br /> 夜そのものみたいな猫も<br />  <br /> 見つけることができなかった。<br />  <br /> …大人になってしまったから?<br />  <br /> 大人になって、彼の言っていたものをなくしてしまった?<br />  <br /> 私の楽しめる場所は、<br /> 泳げる場所は夜だけだったのに、<br /> 夜しか泳げなかったのに、<br /> 夜にさえ許してもらえなくなってしまった。<br />  <br /> 今日は月が綺麗。<br />  <br /> 彼は、あそこまで泳いでみせた。<br /> いつか君も届くよ、と。<br />  <br />  <br /> 今となっては、全部が嘘なんじゃないか、<br /> 最初から夢だったんじゃないかと、疑ってしまう。<br />  <br /> きっと、今の私は泳げないほどに重いだろう。<br />  <br /> 余計なものを捨てて、重くなったんだろうか。<br />  <br />  <br /> 私は、<br /> もう大人なんだろうか。<br />  <br /> 月に手をかざしてみても、残酷なほど遠い距離が<br /> はっきりわかって、余計に寂しくなるだけだった。<br /> もう泳げないのなら、二度と月には届かない。<br />  <br /> 彼の言ったいつかなんて、来るはずがない。<br />  <br /> 指の間から、小さな月が見え隠れする。<br />  <br /> 嘘みたいにくっきりとした小さすぎる月は、<br /> 私の細い指にでも全部隠れてしまう。<br />  <br /> 頼りなさげな月は、ぼんやりと光る。<br />  <br /> 月が現れると、星がぼやける。<br /> 月が隠れると、星がよく見える。<br />  <br />  <br /> 星。<br />  <br /> 「ちょっと、どこに行くの?こんな時間に」<br />  <br /> そうだ、<br />  <br /> 彼は私に教えてくれた。<br />  <br /> 「友達ん家!親戚から竹切ってもらったんだって」<br />  <br /> 星を、並べかえて。<br />  <br /> 「そう、あんまり遅くならないようにね」<br />  <br />  <br /> あの暗号を。<br />  <br /> 「うん、いってきます!」<br />  <br /> 描こう。<br /> あの暗号を、彼に見えるように描こう。<br /> 遠く離れてしまった月からでも見えるように。<br />  <br />  <br /> 笹の葉に紛れてこっそり願うんじゃなく、<br /> 大切な人に届くように。<br />  <br />  <br /> 今日は、願いが叶う夜。<br /> 待ち望んで、二人が出会う夜だから。<br />  <br />  <br />  <br /> おわり<br />  </p>

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