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スノーホワイト・レクイエム7」(2020/03/11 (水) 19:17:01) の最新版変更点

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<p> <br />  <br />  <br /> 小人が駆けつけたとき、<br /> ――総ては、終わったあとでした。<br />  <br />  <br />  <br /> --------------------------- <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br /> 人気のない校舎の片隅、保健室前の廊下通りで、古泉は朝倉と対峙する。<br /> <br /> 「……それは、どういう意味ですか」<br /> <br /> 古泉は、退路のない袋小路に行き詰ったように、苦渋の声を返した。想像し得る最悪の結末が、目の前にちらついて離れなかった。払い除ける余裕も、取り繕い毅然と笑ってみせる駆け引きも浮かばずに。<br /> 古泉の行く手を阻むように朝倉は扉前に立ち塞がり、桜色の唇をゆるく持ち上げて、淡く微笑んでいる。美しいと幾らでも形容されるだろう面を、けれども憂鬱に翳らせながら。<br /> それは総てを理解し、また、諦めた者の眼差しだった。意思を投擲し、手ぶらになった両腕に、抱きすくめるものを失くしてしまった母親のような哀しい瞳。<br /> <br /> 「言葉通りの意味よ。……分かってるんでしょう、あなただって」<br /> 「――っ、どいてください!」<br /> 長門の様子が気懸かりで急く古泉の必死さを哀れむように、朝倉は手をひらりと振って古泉を遮った。<br /> 試すように言葉の鏃を突きつけ、笑う。<br /> 「私が此処をどいたら、あなたは今から長門さんを護れるの?――もう、真相に辿り着いたんでしょう?世界が壊れ始めているんだから、そういうことよね」 <br /> <br /> 口調は雰囲気には不似合いに明るいまま、もしかするとそれは、朝倉涼子のTFEIとしての機能の限界であったのかもしれない。表情と出力する声の一致しない少女が行おうとする対話の意図を、古泉は察しかねた。<br /> 何れにせよ、朝倉涼子は長門と同じTFEIであった。その能力は人間の力の幅など軽々と凌駕する。朝倉が場を明け渡す気がない以上、無謀な喧嘩を吹っ掛けても勝てる見込みは、恐らくゼロに近いのだろう。<br /> 冷静に、冷静に。――冷静になれ。<br /> ポーカーフェースと冷徹なまでに、氷の如く揺るがずにあれ。土台に基く精神と、いつ如何なる災厄を前にしてもたじろがない信条こそが、古泉一樹が古泉一樹であり続けるためのパーソナルだ。心のうちにそう唱え、包帯の下の握り拳に行き場のない衝動を封じ込めて、浅く息を漏らす。<br /> 朝倉は、そんな古泉の様を言葉の上では賞賛してみせた。<br /> 「ここは流石ね、って言うべきなのかな。この状況下でそこまで落ち着けるなんてね。優先順位を履き違えないのはあなたの長所みたい」<br /> 「朝倉さん、あなたと問答をしている暇はないんです。其処を、……一体、何をすれば通して頂けるんですか」<br /> 「あなた相手だと話が早いわね」<br /> 朝倉は人差し指を自身の頬に押し当て、――古泉に挑むように唇の端を吊り上げた。<br /> 「条件は揃ったみたいだし、クイズを出すわ」<br /> 「……クイズ」<br /> 「私が一体、『何』役か。答えられたら此処を通してあげる」<br /> <br /> 古泉は、眼を眇めた。<br /> 古泉の知り得る「名有り」は、長門有希と朝倉涼子しかいなかった。それ以外に用意された群集は名も顔も見知らぬ「名無し」でしかなかった。長門に向けて刃仕込みの櫛入り手紙を託してきた女生徒でさえ、SOS団に縁もない無名のキャラクターが用いられていたのだ。あれは『妃役』が遣わせた作り物の使者というところだろうが、それでは、「名有り」として此の世界に残ることを赦されていた朝倉涼子にも、何らかの役が振られているはず。それは、憶測ではあったが、古泉の仮定に予め取り入れられていたことだった。<br /> 天に名を馳す武将達、猛者が集う歴史小説ではない、元は子供向けを意図して描かれた童話なのだから、登場人物は、片手で数えて足りる程度だ。キャストオフは為されている。大部分は、自動的に絞られる。<br /> 小人は古泉、白雪姫が長門、王子を『彼』とするならば。<br /> <br /> <br /> 余りに明快な消去法だ。<br /> <br /> <br /> <br /> 「――あなたは、『鏡』役でしょう」<br /> 朝倉は微笑みを絶やさぬまま、刹那に儚い色を残してみせた。<br /> 「ご名答。やっぱり、古泉くんなら答えると思ってたわ」<br /> 無感動に手を叩こうとする朝倉の挙動を、古泉は細い手首を鷲掴みにすることで制止した。虚像とはぐれたようなその少女の心象は、見るに耐えなかった。朝倉涼子は目に見えて、そう、初めから投げやりだったのだ。<br /> 道を遮る気すら、本当はなかったのかもしれない。ただ古泉に総てを再確認させるためだけに。<br /> 「……あなたが『鏡』なら、以前、僕に忠告をしてみせたのは何故ですか」<br /> 妃役の手下という役回りの『鏡』の、それは『妃』役に対する裏切りに値するのではないのか。古泉に掴まれた手をじっと見つめ、朝倉は息を吐き出す。まるで人のような仕草で。<br /> 「私はね、本来ならこんな役目まではなかったの――まあ、言うなればアフターフォローよ。私は『お妃様』の役に立てなかった、無様な『鏡』役だもの」<br /> <br /> PC内にあった、「白雪姫の鎮魂」というエンディングを描かれない、途切れたきりの物語。鏡は、確かに登場していた。お妃からの問い掛けにも、答える事の出来ない虚しい端役として。<br /> 役を与えられながらその役を全うできない存在の心は、忸怩たるものであったのかもしれない。……それはきっと、朝倉涼子の責任ではなく、世界が物語に従った故のことなのだが。 <br /> <br /> <br /> 「もう全部が分かってるみたいね、古泉くん。私が『お妃様』から一体何を訊ねられたか……あなたには、想像がつく?」<br /> 「……ええ」<br /> 「ふふ、よく見ているのね。そう、だから私は『お妃様』を救ってあげたいの。<br /> ……あなたに、後を任せてもいいかしら?」<br /> 「――お約束します」<br /> 「そう。良かった」<br /> <br /> 最期まで、少女の声は明瞭に、不揃いに、明るく優しかった。指の先から粒子になり、古泉が握っていた手首も徐々に侵食を受け、光を取りこぼしながら消滅してゆく。古泉は動揺しなかった。世界が壊れ始めていて、総ての人が消え失せていく<br /> のは分かっていたことで、恐らく時を待たずに古泉自身もそうなるのだろう。<br /> 朝倉涼子は――不完全な『鏡』であろうとも、『お妃』を本当に慕っていたのだろうと。終焉を眼の前に彼女は、そんな微笑み方をした。<br /> <br /> 「……あなたは、やはり、まるで人だ」<br /> <br /> 古泉がぽつりと吐いた呟きを、眠りに就く『鏡』役は聞いただろうか。<br /> 消え失せた朝倉の残像に眼を凝らし、それから眼を伏せ黙祷する。――腹は、据わっていた。<br /> 古泉は何もかもを見届ける覚悟を床敷きにして踏み越え、保健室の扉に手を掛けた。 <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ――扉そのものも、取っ手位置がチョコレートのように柔らかく液状になり、姿を保てずに融解していく。<br /> 露になった内装は、既に溶解したようになって原型を留めていない。古泉が脚を踏み入れた保健室は既に、先程までの保健室の様相を呈していなかった。いつかに体験した、ある種の情報制御空間のようだと古泉は思った。<br /> <br /> そしてどろりとした飴が伸ばされたような地平の見えぬ空間、――仰向けに、寝かされた細く折れそうな身体を見つける。<br /> だらりと四肢を垂らした少女。スカーフは整えられているのに、纏った制服のスカートはよれて皺になっていた。<br /> けれども臨む、少女の上蓋を落とした表情は不思議と穏やかだ。<br /> 眠っているかのような彼女の掌に握られていたのは、まるく赤く瑞々しそうな、齧り痕の残る一個の林檎。<br /> 古泉は無言で、眠っているかのような少女の下まで歩み寄り、――膝を折った。震える左腕を伸ばし、少女の頬に手を触れさせる。まだ生きているように暖かいが……それも、じきに温度をなくしていくだろう。<br /> <br /> 「…………『間に合わなかった』。この物語の小人役も、どうやらそういう役回りらしいですね」<br /> <br /> 古泉は、視線を上向かせた。<br /> 死神のように立つ、以前の絞殺未遂事件に目撃をした黒フードの立ち姿が、そんな倒れ伏した長門を観察するように見下ろしている。背景が銀色と黄土色をマーブルにしたような歪みに彩られる中で、ふわりともせず静止する黒布は、不気味に浮かび上がって見えた。<br /> この世界における『妃役』、この空間で長門を付け狙い、手に掛けた人物であることは瞭然だった。だが、古泉は罵声を浴びせかけることも糾弾をけしかけることもない。<br /> 眼鏡越しの少女の瞼は動かず、その結末を何処かしらで予感していた古泉の、噛み締めた唇から血が滲む。 <br />  <br />  <br />   <br /> ―――小人が呪に苦しむのを気に病んだ心優しい白雪姫は。<br /> ―――そこに、毒が塗られているだろうことを承知の上で。<br /> 終わらせるために。誰もこれ以上傷つけないために、妃から林檎を受け取り、自ら、口にする。<br />  <br />   <br />      <br /> 『長門有希』はか弱く、脆く、優し過ぎた。<br /> そしてそんな白雪姫の悲壮な死すら、計算づくで妃が書き上げたシナリオだというなら。視点を黒フードを羽織った『妃』役に向けて、古泉は遣り切れない総てをぶつけるように、問うた。<br />  <br />  <br /> 「どうして、ですか」<br /> 「…………」<br /> 「これは『あなた』だ。――あなたを、あなたが殺すのは、何故ですか…!!」<br />  <br />  <br /> どうして、此の場に立ち会うのが、僕だったのですか。<br />  <br /> 古泉の臓を絞り切るような声に応じて黒布がはらりと落ち、蒸発するように端から消滅した。<br /> 露になったのは――古泉が縋るように抱いた少女とは違い、フレームのない素顔に、超然とした宇宙人端末としての匂いを損なっていない少女。白く薄い無表情の表層を保持し、古泉一樹の好意に、決して答えてはくれないだろう女性。<br />  <br /> ――長門有希、だった。<br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br /> ---------------------------<br />  <br />  <br />  <br /> 小人が駆けつけたとき、<br /> ――総ては、終わったあとでした。<br /> <br /> <br /> 毒の林檎に齧りついて、白雪姫は死んでしまいました。<br /> <br /> <br /> けれど例えば白雪姫が生き残ったらば、<br /> 火で炙られた鉄の靴を履いて、お妃様は死んでしまうことでしょう。 <br /> <br /> 白雪姫を殺したのはお妃様。<br /> ――お妃様を、殺すのは、だあれ? <br />  <br />  <br />  <br /> <br />  <br /> <a href="//www25.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/4369.html">(→8)</a></p>
<p> <br />  <br />  <br /> 小人が駆けつけたとき、<br /> ――総ては、終わったあとでした。<br />  <br />  <br />  <br /> --------------------------- <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br /> 人気のない校舎の片隅、保健室前の廊下通りで、古泉は朝倉と対峙する。<br /> <br /> 「……それは、どういう意味ですか」<br /> <br /> 古泉は、退路のない袋小路に行き詰ったように、苦渋の声を返した。想像し得る最悪の結末が、目の前にちらついて離れなかった。払い除ける余裕も、取り繕い毅然と笑ってみせる駆け引きも浮かばずに。<br /> 古泉の行く手を阻むように朝倉は扉前に立ち塞がり、桜色の唇をゆるく持ち上げて、淡く微笑んでいる。美しいと幾らでも形容されるだろう面を、けれども憂鬱に翳らせながら。<br /> それは総てを理解し、また、諦めた者の眼差しだった。意思を投擲し、手ぶらになった両腕に、抱きすくめるものを失くしてしまった母親のような哀しい瞳。<br /> <br /> 「言葉通りの意味よ。……分かってるんでしょう、あなただって」<br /> 「――っ、どいてください!」<br /> 長門の様子が気懸かりで急く古泉の必死さを哀れむように、朝倉は手をひらりと振って古泉を遮った。<br /> 試すように言葉の鏃を突きつけ、笑う。<br /> 「私が此処をどいたら、あなたは今から長門さんを護れるの?――もう、真相に辿り着いたんでしょう?世界が壊れ始めているんだから、そういうことよね」 <br /> <br /> 口調は雰囲気には不似合いに明るいまま、もしかするとそれは、朝倉涼子のTFEIとしての機能の限界であったのかもしれない。表情と出力する声の一致しない少女が行おうとする対話の意図を、古泉は察しかねた。<br /> 何れにせよ、朝倉涼子は長門と同じTFEIであった。その能力は人間の力の幅など軽々と凌駕する。朝倉が場を明け渡す気がない以上、無謀な喧嘩を吹っ掛けても勝てる見込みは、恐らくゼロに近いのだろう。<br /> 冷静に、冷静に。――冷静になれ。<br /> ポーカーフェースと冷徹なまでに、氷の如く揺るがずにあれ。土台に基く精神と、いつ如何なる災厄を前にしてもたじろがない信条こそが、古泉一樹が古泉一樹であり続けるためのパーソナルだ。心のうちにそう唱え、包帯の下の握り拳に行き場のない衝動を封じ込めて、浅く息を漏らす。<br /> 朝倉は、そんな古泉の様を言葉の上では賞賛してみせた。<br /> 「ここは流石ね、って言うべきなのかな。この状況下でそこまで落ち着けるなんてね。優先順位を履き違えないのはあなたの長所みたい」<br /> 「朝倉さん、あなたと問答をしている暇はないんです。其処を、……一体、何をすれば通して頂けるんですか」<br /> 「あなた相手だと話が早いわね」<br /> 朝倉は人差し指を自身の頬に押し当て、――古泉に挑むように唇の端を吊り上げた。<br /> 「条件は揃ったみたいだし、クイズを出すわ」<br /> 「……クイズ」<br /> 「私が一体、『何』役か。答えられたら此処を通してあげる」<br /> <br /> 古泉は、眼を眇めた。<br /> 古泉の知り得る「名有り」は、長門有希と朝倉涼子しかいなかった。それ以外に用意された群集は名も顔も見知らぬ「名無し」でしかなかった。長門に向けて刃仕込みの櫛入り手紙を託してきた女生徒でさえ、SOS団に縁もない無名のキャラクターが用いられていたのだ。あれは『妃役』が遣わせた作り物の使者というところだろうが、それでは、「名有り」として此の世界に残ることを赦されていた朝倉涼子にも、何らかの役が振られているはず。それは、憶測ではあったが、古泉の仮定に予め取り入れられていたことだった。<br /> 天に名を馳す武将達、猛者が集う歴史小説ではない、元は子供向けを意図して描かれた童話なのだから、登場人物は、片手で数えて足りる程度だ。キャストオフは為されている。大部分は、自動的に絞られる。<br /> 小人は古泉、白雪姫が長門、王子を『彼』とするならば。<br /> <br /> <br /> 余りに明快な消去法だ。<br /> <br /> <br /> <br /> 「――あなたは、『鏡』役でしょう」<br /> 朝倉は微笑みを絶やさぬまま、刹那に儚い色を残してみせた。<br /> 「ご名答。やっぱり、古泉くんなら答えると思ってたわ」<br /> 無感動に手を叩こうとする朝倉の挙動を、古泉は細い手首を鷲掴みにすることで制止した。虚像とはぐれたようなその少女の心象は、見るに耐えなかった。朝倉涼子は目に見えて、そう、初めから投げやりだったのだ。<br /> 道を遮る気すら、本当はなかったのかもしれない。ただ古泉に総てを再確認させるためだけに。<br /> 「……あなたが『鏡』なら、以前、僕に忠告をしてみせたのは何故ですか」<br /> 妃役の手下という役回りの『鏡』の、それは『妃』役に対する裏切りに値するのではないのか。古泉に掴まれた手をじっと見つめ、朝倉は息を吐き出す。まるで人のような仕草で。<br /> 「私はね、本来ならこんな役目まではなかったの――まあ、言うなればアフターフォローよ。私は『お妃様』の役に立てなかった、無様な『鏡』役だもの」<br /> <br /> PC内にあった、「白雪姫の鎮魂」というエンディングを描かれない、途切れたきりの物語。鏡は、確かに登場していた。お妃からの問い掛けにも、答える事の出来ない虚しい端役として。<br /> 役を与えられながらその役を全うできない存在の心は、忸怩たるものであったのかもしれない。……それはきっと、朝倉涼子の責任ではなく、世界が物語に従った故のことなのだが。 <br /> <br /> <br /> 「もう全部が分かってるみたいね、古泉くん。私が『お妃様』から一体何を訊ねられたか……あなたには、想像がつく?」<br /> 「……ええ」<br /> 「ふふ、よく見ているのね。そう、だから私は『お妃様』を救ってあげたいの。<br /> ……あなたに、後を任せてもいいかしら?」<br /> 「――お約束します」<br /> 「そう。良かった」<br /> <br /> 最期まで、少女の声は明瞭に、不揃いに、明るく優しかった。指の先から粒子になり、古泉が握っていた手首も徐々に侵食を受け、光を取りこぼしながら消滅してゆく。古泉は動揺しなかった。世界が壊れ始めていて、総ての人が消え失せていく<br /> のは分かっていたことで、恐らく時を待たずに古泉自身もそうなるのだろう。<br /> 朝倉涼子は――不完全な『鏡』であろうとも、『お妃』を本当に慕っていたのだろうと。終焉を眼の前に彼女は、そんな微笑み方をした。<br /> <br /> 「……あなたは、やはり、まるで人だ」<br /> <br /> 古泉がぽつりと吐いた呟きを、眠りに就く『鏡』役は聞いただろうか。<br /> 消え失せた朝倉の残像に眼を凝らし、それから眼を伏せ黙祷する。――腹は、据わっていた。<br /> 古泉は何もかもを見届ける覚悟を床敷きにして踏み越え、保健室の扉に手を掛けた。 <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ――扉そのものも、取っ手位置がチョコレートのように柔らかく液状になり、姿を保てずに融解していく。<br /> 露になった内装は、既に溶解したようになって原型を留めていない。古泉が脚を踏み入れた保健室は既に、先程までの保健室の様相を呈していなかった。いつかに体験した、ある種の情報制御空間のようだと古泉は思った。<br /> <br /> そしてどろりとした飴が伸ばされたような地平の見えぬ空間、――仰向けに、寝かされた細く折れそうな身体を見つける。<br /> だらりと四肢を垂らした少女。スカーフは整えられているのに、纏った制服のスカートはよれて皺になっていた。<br /> けれども臨む、少女の上蓋を落とした表情は不思議と穏やかだ。<br /> 眠っているかのような彼女の掌に握られていたのは、まるく赤く瑞々しそうな、齧り痕の残る一個の林檎。<br /> 古泉は無言で、眠っているかのような少女の下まで歩み寄り、――膝を折った。震える左腕を伸ばし、少女の頬に手を触れさせる。まだ生きているように暖かいが……それも、じきに温度をなくしていくだろう。<br /> <br /> 「…………『間に合わなかった』。この物語の小人役も、どうやらそういう役回りらしいですね」<br /> <br /> 古泉は、視線を上向かせた。<br /> 死神のように立つ、以前の絞殺未遂事件に目撃をした黒フードの立ち姿が、そんな倒れ伏した長門を観察するように見下ろしている。背景が銀色と黄土色をマーブルにしたような歪みに彩られる中で、ふわりともせず静止する黒布は、不気味に浮かび上がって見えた。<br /> この世界における『妃役』、この空間で長門を付け狙い、手に掛けた人物であることは瞭然だった。だが、古泉は罵声を浴びせかけることも糾弾をけしかけることもない。<br /> 眼鏡越しの少女の瞼は動かず、その結末を何処かしらで予感していた古泉の、噛み締めた唇から血が滲む。 <br />  <br />  <br />   <br /> ―――小人が呪に苦しむのを気に病んだ心優しい白雪姫は。<br /> ―――そこに、毒が塗られているだろうことを承知の上で。<br /> 終わらせるために。誰もこれ以上傷つけないために、妃から林檎を受け取り、自ら、口にする。<br />  <br />   <br />      <br /> 『長門有希』はか弱く、脆く、優し過ぎた。<br /> そしてそんな白雪姫の悲壮な死すら、計算づくで妃が書き上げたシナリオだというなら。視点を黒フードを羽織った『妃』役に向けて、古泉は遣り切れない総てをぶつけるように、問うた。<br />  <br />  <br /> 「どうして、ですか」<br /> 「…………」<br /> 「これは『あなた』だ。――あなたを、あなたが殺すのは、何故ですか…!!」<br />  <br />  <br /> どうして、此の場に立ち会うのが、僕だったのですか。<br />  <br /> 古泉の臓を絞り切るような声に応じて黒布がはらりと落ち、蒸発するように端から消滅した。<br /> 露になったのは――古泉が縋るように抱いた少女とは違い、フレームのない素顔に、超然とした宇宙人端末としての匂いを損なっていない少女。白く薄い無表情の表層を保持し、古泉一樹の好意に、決して答えてはくれないだろう女性。<br />  <br /> ――長門有希、だった。<br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br />  <br /> ---------------------------<br />  <br />  <br />  <br /> 小人が駆けつけたとき、<br /> ――総ては、終わったあとでした。<br /> <br /> <br /> 毒の林檎に齧りついて、白雪姫は死んでしまいました。<br /> <br /> <br /> けれど例えば白雪姫が生き残ったらば、<br /> 火で炙られた鉄の靴を履いて、お妃様は死んでしまうことでしょう。 <br /> <br /> 白雪姫を殺したのはお妃様。<br /> ――お妃様を、殺すのは、だあれ? <br />  <br />  <br />  <br /> <br />  <br /> <a href="http://www25.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/4369.html">(→8)</a></p>

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