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谷口探偵の事件簿 ~リュックの中身~」(2007/12/12 (水) 22:57:53) の最新版変更点

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<p>結局俺たちは2日連続の立て続けで、村はずれの居酒屋へ繰り出すハメになった。<br> もう50万は俺の口座にはいったも同然だから長門の言うことを素直にハイハイと聞いてやる義理もないのだが、喜緑さんが今後どうするのかなど会って話をしてみたいという気持ちもあり、大人の貫禄を見せてやると言って大物ぶりを発揮し、長門を引き連れて例の居酒屋へ向かったのだった。<br> 俺と喜緑さんが会ったことのある時間は、とても短い。夏の初めに仕事の関係で二度ほど会ったことがあるだけだ。知人というよりも、単なる顔見知りでしかない。そんな俺が彼女と会って何を話すというのか。自分でもよく分からない。<br> それでも何故か放っておけない気持ちになっていたことは間違いない。だからこそ、また会いに行ってみようという気になったのだから。<br> 身体の表面を叩くような風の中、俺と長門は街灯の明かりを頼りに村道を歩いていた。着古したコートをはおって歩く俺の背後に、ピッタリくっつくように長門がついてくる。兄貴分を風よけに使うとはいい度胸しているじゃないか。<br> しかしそれも、今はどうでもよかった。<br> 点々と続く街灯を頼りに砂利まじりの道を歩いていくと、夜闇の中に煌々と赤い光が灯っていた。昨日の今日なのに、なんだか無性にその朱が懐かしく感じられた。</p> <p> </p> <p><br> 見渡す限りの一面の田園風景から暖かい店内に入ると、崩れかけの建築物にもかかわらず非常に文化的な空間に足を踏み入れたような気がしてくる。薄汚れたテーブルに木椅子、ノイズ混じりのラジオ。ある種の逆説的なノスタルジックが作用しているのだろうか。<br> なめらかな長い髪を肩にかけた喜緑さんが、昨夜と同じように微笑んでいた。<br> また来たんですかと呆れられるんじゃないかとも思っていたが、彼女は何も言わず、ただ会釈するだけだった。</p> <p> </p> <p>「こんばんは」<br> こんばんは。今日は月が大きな晩ですね。<br> 「ここは月も星も大きいですよ」<br> 喜緑さんは厨房で手際よく漬け物を切ると、四角い平皿に載せてカウンターに置いた。京都あたりじゃ漬け物を出されたら自宅へGo aheadの合図らしいが、喜緑さんのおっとり顔を見る限りじゃ、そういう意味合いの物ではないようだ。<br> ヒヨコのオスメスを見分ける職人のような目つきで店の品書きを見つめる長門をよそに、俺は焼き鳥と日本酒を注文した。定番メニューから軽く入るのが良いんだよと言いながら目の前のキュウリの漬け物を一ついただいた。<br> 雑音の混じったラジオからは、政治家の献金がどうのこうのという話が流れてくる。そういや今日は新聞を読んでいないなと思い立ったが、まあいいかと思い出されたコップを傾けた。この村にいると、なし崩し的にあらゆることが 「まあいいか」 と思えてくるので面白い。<br> 「いつまでこの村には滞在されるんです? もうお祭りも終わってしまいましたし、明日には帰られます?」<br> 焼き鳥の串を焼く弾けるような音とタレのにおいが店内に漂い、白い煙が靄のように喜緑さんの背をくもらせた。<br> ええ、明日の一番で帰ろうと思ってます。もう用事も用件も終わりましたし。50万円を手に入れてこの旅は大成功のうちに終了するのです。<br> 50万円?と不可思議そうな顔をした喜緑さんがしゅうしゅうと湯気の立つ焼き鳥を目の前に置いた。てかてかと光る茶色の皮の上に、赤い唐辛子がぱらぱらと振りかけられている。<br> 「私も。お祭りが終わったので、2,3日のうちに帰ろうと思っているんですよ」<br> 黄色い柄のはいったコップに、甘い香りのするアルコールがつがれていく。コップの腹を眺めていると、そこに映る喜緑さんの困ったふうな笑顔がゆらゆらと揺れていた。<br> 「それで、私の旅はおしまい」<br> 一升瓶に栓が締められる。<br> まだ、喜緑さんの顔が揺れているように見えた。</p> <p> </p> <p> イチゴ味とメロン味のキャラメル、どちらか一方だけもらえるという状況の子供のような苦渋の選択で注文した長門の料理ができあがる頃、ガラガラと音をたてて扉を開き寒そうにコートを詰めた客が入店してきた。<br> 誰のものともつかない、あ!という声を聞いてふり返ると、なんのことはない。珍しくもなんともない見慣れたいつもの2人組だった。他人のことをどうこう言えた立場じゃないのだが、どうしてこの若いカップルは連日でこんなしけた居酒屋にやって来るのかねえ。多少遠出することになっても、国道沿いのファミレスに行こうという話にはならないのだろうか。<br> 「お前にとやかく言われる筋合いはない」<br> よほど定位置が好きなのか、朝比奈さんとキョンはそれぞれ思い思いの挨拶を俺たちに向けて昨日と同じテーブル席に着席した。まあ、好きな席を選べるほど広い店でもないから仕方ないことだが。<br> 2人の出迎えをするために喜緑さんがカウンター席から出てくると店内フロアは満杯状態で、なんだか一気ににぎわいを深めたような気がした。人口密度はやたら高いのに、その実店内には5人しかいないのだからおかしな話だ。</p> <p> </p> <p>「谷口くんは、あのお祭りを見にきてたんですか?」<br> 控えめなチェックのセーターを膝の上で畳みながら、朝比奈さんはそう言った。旅行最後の日だし、いろいろ口やかましくすることもないと思っているのだろうか。俺と不可侵の紳士協定を結んでいたキョンも、今夜はお互いの交流を良しとしているようだった。<br> 「………兄貴は50万円さえ手に入れば旅行なんてどうでも良いと思っているに違いない」<br> 不穏当な長門の発言に、キョンの眉が訝しげにつり上がる。嫌だなあ。あれって絶対にいやらしいことを考えている目だよ。<br> 「50万ってお前、まさか。あの神社のご神体を盗んだのは……」<br> 例の黄金の神様像窃盗事件を指して、キョンが言いがかりをつけてくる。本気でそう思っているわけじゃないだろうが、不謹慎な話をネタにして他人を釣るとは、なんといういやらしい男だろう。<br> 良識ある朝比奈さんがそれを注意するが、悪びれた様子もなく曖昧に微笑んでいるキョン。その表情が何とも気にいらない。だいたい金塊なんて物は、ちょっとの量で軽く50万円の値を超えるだろう。少しは考えろこのバカめ。<br> 酒が入って気が大きくなっていたのか本当に腹が立ったためかは分からないが、気づくと俺は椅子を引きずってバカップルの卓にくっついていた。</p> <p> </p> <p> </p> <p> だいたいだな、このキムチ男め。お前のような空気を読まないタワゴトを言う人間がいるから、若い二十代中盤の男までもがオヤジだオヤジだと言われるんだよ。自覚しているのか、おい。<br> 「それはお前のことだろう。なんだよ、50万って」<br> 何って、あれだよ。人生ゲームの話だよ。集金マスに停まったから50万円もらえたんだよ。まさにリアル人生ゲームDXだよ。<br> 「そりゃゲームでの話だろう。リアル人生じゃサイコロ振ったからって50万円も一括でポンともらえたりはしないんだよ。お前、最近はやりのゲーム脳なのか?」<br> 人生が一種のゲームであることは認めるが、別に俺はゲーム脳じゃねえよ。<br> 「………兄貴は、私がもらった宝くじを横取りし、私財にするため私を懐柔しようと旅行につれてきた。その宝くじの当選金が50万円」<br> 長門、おまえ。今さらそれは無いんじゃないか? それで納得してたんだろ?<br> 「………あれは、そろそろ私も大人な考え方をした方が良いかなと思った上での妥協だった」<br> 全然大人な発言じゃないじゃないか。むしろ子ども丸出しだよ。なんだよその言い訳、最悪だよ。<br> 「谷口くん、それどういうことなの? 未成年から宝くじを取り上げるなんて」<br> 違うんですよ、朝比奈さん。これには事情があるんです。その仏頂面の言うことを真に受けてはいけません。<br> 「………生活費がどうこう言いながら、券をよこさないと私の目の前で用便を漏らすと脅迫してきたため、精神的に追いつめられた私は彼の言い分を聞かざるを得ない状況だった」<br> 「谷口お前……最低だな」<br> ちがうんだよ。ちがうんだって。話せば長くなるしあまり話したくないんだが、それはちがうんだ。長門がだな、俺のお茶に下剤を混入したんだよ。<br> 「………私は薬物など使用していない。確かに利尿効果の強いお茶を出したことは事実だが、それは兄貴の健康を考えてのこと」<br> 嘘つけお前。俺が青くなってたのを笑いながら見てたじゃないか。なんという口先三寸。<br> 「………私の予想をはるかに凌ぐオーバーリアクションだったから、思わず笑ってしまっただけのこと。下心あってのことじゃない」<br> いやれは下心しかない笑いだっただろ!? 嘘偽りを申すな!<br> 「でもその宝くじだっけ? それは元々長門さんの物だったんじゃないの?」<br> ちがうんですよ、朝比奈さん。元々は俺がもらった物だったんですよ。長門は宝くじらしき物をもらった夢を見ただけなんですよ。犬になった夢を見て朝起きた後も寝ぼけて自分が犬であると思いこんでいるようなもんなんですよ。ただ未だに寝ぼけていてまだ目が覚めていないだけなんですよ。<br> 「お料理をお持ちしました」<br> 喜緑さんもなんか言ってやってくださいよ。ほら。犬なんですよ、あいつは。<br> 「はあ。なにを言って良いのやら分からないのですが。もう酔っているんですか?」<br> 酔ってないです! 谷口探偵は酔っていないです!<br> 「………砂に埋めたら早くアルコールが抜けると聞いたことがある」<br> 「たぶん、それ毒だと思う」<br> 「ああ、デトックスっていうやつですね」<br> 「う~ん、ちょっと違うような気もする」<br> 「デトックスってなに? スターウォーズに出てくる星の名前?」<br> 「知りませんよ、そんなの」<br> 「SFといえば無責任艦長タイラーをおいて他にない。あの磊落さは、人生を真面目に生きることをバカバカしく思わせる」<br> 「んなわけないだろう。というか、ラノベかよ」<br> 「艦長といえば先々月号の週間文春の劇団ひとりさんのエッセイ。面白かったですね。まさかレンタルボートで一人で座礁するとは」<br> 「いや、関係ないと思うよ。でもボートはいいですよね。船舶免許ってけっこう簡単にとれるらしいし、挑戦してみようかな」<br> 「船舶免許なんてとっても使いようないですよ。大型特殊以上に使い道ないと思う」<br> 「免許は普通免許以外、あまり使わないからね」<br> 「そんなこと言ってたらお前、周防大明神にひき殺されるぞ」<br> 「大明神といえば。今日のお祭りの神様。どうなるんでしょうね」<br> 「さあ。警察沙汰になれば、遅かれ早かれ解決すんじゃないスか?」</p> <p> </p> <p>気づくと狭苦しい店内で5人の人間がテーブルを囲んでやいのやいのと騒いでいた。<br> もう、誰がなにに対してなにを物申しているのかも判からない。<br> 俺もだいぶ酒がはいっていたので、視界に飛び込んでくる映像と脳が直結していないように感じられるし、耳から入ってきた会話が頭にまで届かず、反射的に返事が口をついているような状態だ。今日はずいぶん動いたから、酔いやすい状態なのかもしれない。<br> まあ、それはそれでいいか。と思った。<br> 頭がふわふわとして、それでいてぴりぴりと痺れているような心地よさ。<br> 気分がいい。時々自分がなにをしてなにを言っているのか分からなくなるが、それも大層おもしろかった。<br> キョンの囃し立てにのせられてズボンのチャックに手をかけたあたりで、俺の曖昧な記憶はぷっつり途切れてしまった。</p> <p> </p> <p><br> ~~~~~</p> <p> </p> <p><br> 薄暗い民宿の一室で、藤原はだらしなく足を開いて座りこんでいた。呆けたように身体を壁に預ける。どれだけそうしていたのかも覚えていないが、腰のあたりがちりちりと痛んだ。壁にもたれる姿勢は身体に負担をかけると聞いたことがあるが、この腰の痛みも、身体が悲鳴をあげている警鐘なのだろうかと思うと、そうしていることがたまらなく嫌になり、前傾姿勢のまま立ち上がった。<br> ルームメイトの姿は、室内になかった。今、同室の橘は腹が減ったと言って食事に出かけている。食事誘われはしたが、藤原は食欲がないと言って同行を断った。だから、ひとりで自動販売機で買ってきたお茶を飲みながらひとりで部屋の留守番をしていた。<br> 傍らには、持参していた黒いリュックサック。登山用といっても通じる大き目のバックは、中にたくさん内容物を詰め込んでいることを想像させるほどに大きく膨らんでいた。<br> しばらくじっとリュックを眺めた後、藤原は無造作にリュックのヒモを解いてその中を開いた。<br> 中には、しわくちゃに固められた新聞紙が、花瓶のような割れ物を包むように丸められていた。そんなことお構いなしに、藤原は新聞紙をめくる。<br> 盛り土が掘り返されて土中から埋蔵物が顔を出すように、鈍い黄土色の光を反射する人型の像が姿を現した。<br> 藤原は、またそれを乱雑に新聞紙にくるみ直し、袋の中に押し込んだ。<br> 藤原は、もう何度もそうした反復行動を繰り返していた。<br> 室内には誰もいない。誰も彼のリュックに手を出す者は存在しない。リュックの中には、藤原と橘が神社から掠め取ってきた黄金の神像が入っていることに間違いはない。それでも、藤原はそうやって数分おきに本尊を確認せずにはいられなかった。そこに黄金があることが、今の彼にとって唯一自身の安全を確信させる要因だから。もしもここにある黄金が錯覚で、この金物くさいにおいが幻臭で、手触りが自分の勘違いなのだとしたら。一度そう疑ってしまうと、後はもう際限なく落ち続ける落石のようにキリがない。</p> <p> </p> <p>彼のまぶたの裏には、まだ昼間の映像が鮮烈に焼きついていた。<br> 神社の勝手口に不審火を放つ瞬間の視覚。激しい動悸を無理矢理おさえるように強くライターを押さえつける手。<br> 火が木材に燃え移った時に手元に感じた熱が、まだじりじりと手を焦がしているようだった。</p> <p>不安と焦燥感とイライラが頂点に達した時、藤原は舌打ちをして立ち上がった。</p> <p><br> やはり自分も橘と共に外へ出るべきだった。部屋に閉じこもってうじうじ考えていたら、嫌な妄執にとらわれるだけだ。<br> そう思うと、一気に緊張がとけて空腹がこみあげてきた。同時に自分に留守番を押し付けおきざりにした橘に怒りを感じた。<br> 急激に腹の内側が煮えたぎるのを感じ、藤原は乱暴にリュックを担ぎ上げると部屋を出た。橘は国道沿いのファミレスに行くと言っていた。店の主人に自転車を借りて行けば、20分とかからず到着できるだろう。そういう結論に行き着いた藤原は、財布を腰のポケットにねじこんで部屋を出た。空気のよどんだ部屋から風とおしの良い廊下に出ると、肌を縮み上がらせるような寒さと新鮮な空気が身体を包み込む。</p> <p> </p> <p> 狭い廊下を歩いて玄関に着く。どこに主人の岡部がいるのか、藤原には分かりかねていた。宿内をあちこち見て回ったが、どこにも見当たらない。そういえば神社で地元の主だった人間が集まって会合を開いていると聞いたが、それに行ってしまったのだろうか。いや、まさか。宿の経営者が客に挨拶もなしに出かけるなど。いくらなんでも。<br> 二階に上がってみたが、あの騒々しい2組の客の姿は見当たらなかった。ちょうど夕食の時間帯だ。きっと外食に出てしまったんだろう。ということは、なにか。今この宿には、自分ひとりしか人間はいないということなのか。そう思うと主人のいい加減さや寂しい状況に顔をしかめて舌打ちしてしまうが、それとは裏腹に内心では苦笑している自分が少々気恥ずかしかった。<br> 主人は外だろうか。そう思って藤原は自分の靴をはき、玄関から外へ出る。外を探していなければ、構うものか。無断で自転車を借用しよう。<br> 玄関から出た藤原を、車のテールランプが照らし出した。それが橘の車だと悟り、また藤原は舌打ちした。</p> <p> </p> <p>「ちょっと。何してるのよ!? 黄ご……リュックを外に持ち出すなんて!?」<br> 車から降りてきた橘が黄金入りのリュックを担ぐ藤原を見咎め、驚き混じりの表情で言い寄ってきた。<br> 「……腹が減ったから、晩飯を食いに行くんだよ。リュックも、誰もいない部屋に放っておくよりはマシだろ?」<br> 「だから夕食に行かないかって私が誘ってあげたじゃない。そしたらあなら、行かないって答えたでしょ!? だったら最後まで責任持って留守番しててよ!」<br> 「僕にだって、腹が減ったら飯を食いに行く権利くらいある」<br> 「なに意地張ってるのよ。変なプライドのために計画を危険にさらさないでちょうだい! おなか減ったと思って、ほら。コンビニで弁当買ってきてあげたんだから」<br> 「別にプライドどうこうで物を言ってるわけじゃないさ。腹が減ったから外へ出る。ごく普通のことだろ」<br> 「あのねえ……あなたが子どもっぽい理屈をこねるのは勝手だけど。今は計画のことだけを考えてちょうだい」<br> 「屁理屈で言っているんじゃないと言ってるだろう」<br> 「それが屁理屈だって言ってるのよ!」</p> <p> </p> <p>我を通した主張をすれば、話し合いになどなるはずもない。互いに自分の理屈を口にして宿の玄関前で対峙する藤原と橘。<br> そんな2人の姿を、青白い誘蛾灯のほのかな明かりが淡々と照らしていた。</p> <p> </p> <p><br> ~~~~~</p> <p> </p> <p><br> 客の居ないさびれた居酒屋を早々に畳み、喜緑はキョンや谷口たち4人とともに暗い夜の寒空の下を歩いていた。<br> 街灯の下でちかちかと瞬くように飛び交う羽虫をかき分け、つかみ合ってわめき合うキョンと谷口が酒気をあたりにまき散らしながらちどり足で進んでいく。その後ろを、そんな2人を意に介さないふうに女性3人が歩いていた。朝比奈みくるも長門有希も、キョンたちのこの仲たがいするような様子が日常のものと感じているので、一切口出しをしたりはしない。せいぜい、酔いで転倒して用水路にはまったりしないかどうかを心配している程度だ。喜緑には、それがとてもおかしかった。<br> 藤原に電話ごしに別れを切り出されて以来、誰にも会いたくなくなっていたものだが、今はもうそんなことどうでもよくなっていた。谷口たちに混ざってあまり得意でもない酒を飲んだせいかもしれないが、それでも嫌なことが忘れられ愉快な心になれるのなら、まったく文句はなかった。<br> 閉店の時間になってもまだまだ騒ぎが収まらず宿へ帰って後半戦を行おうと言う話になり、喜緑さんも一緒にどうですかと誘われた時にはもう、失恋の痛手など本当に瑣末な事態としか思えなくなっていた。それがまた楽しかった。</p> <p> </p> <p> 先頭で互いに罵りあいながら肩を組むキョンと谷口はもちろん、それに続く朝比奈みくるも酒気を帯びて赤ら顔になっていた。といっても、彼女はほんの少し嗜んだ程度なので大した量は飲んでいない。きっと自分の方が赤くなっているに違いない、と喜緑は微笑んだ。<br> 唯一酒を飲んでいない長門有希は、ドリフターズのコントのワンシーンのような男2人の乱痴気具合を不思議そうに眺めている。<br> 傍から見ても、とても仲の良さそうな5人組みだった。</p> <p> </p> <p><br> 谷口たちが泊まっているという宿に到着した時、薄ぼんやりとした玄関口で、2人の男女が言い争っている姿が目にはいった。最初は暗さのせいでそれが誰なのか判別できなかったが、近づくにつれて目が人影の識別を可能にする。<br> キョンと谷口が相変わらず酔った勢いで玄関に入っていく。朝比奈みくるは少し具合が悪そうにしながらも、愛想笑いを浮かべて玄関前の男女、藤原と橘に会釈して宿の中へ入っていった。<br> 藤原も橘もそんなことお構いなしに口論をつづけるが、おどおどとした調子で喜緑が2人の脇を抜ける時。藤原と喜緑の目が合った。<br> だがそれも一瞬のことだった。バツの悪そうな顔を伏せ、風のようにすっと藤原の横をすりぬける。藤原も、それ以上喜緑の後を追う仕草はなかった。何事もなかったのかのように、また再び橘との言い合いに頭を戻すのだった。</p> <p> </p> <p>ごとり、という重々しい音がして、喜緑はふと後ろを振り返る。<br> 藤原が地面に置いた黒い大きなリュックが、石のようにごろりと鈍い音をたてて転がった。</p> <p> </p> <p> 特に意識したわけでもないし、意味があったわけではない。そういうわけではないが、何故か、喜緑は藤原が地面に転がした重そうなリュックが気になっていた。その音が、彼女の心を引き寄せていた。<br> かつての恋人が、リュックの中に何を入れているんだろう。その程度の、小さな執着心からくる意識だった。<br> だが一度後ろを振り返り、見知らぬ女性と言い合いをするかつての恋人の姿を見ていると、その心の奥の小さな執着心が燃え上がる炎のように見る見る肥大化していくのがわかった。<br> ああ、やはり自分はまだ彼のことをあきらめきれていなかったのだな、と喜緑はふらふらする頭で明確に理解した。<br> 彼の隣にいる小柄な女性の背を見つめていると、ふつふつと嫉妬心が湧き上がってくる。あの位置にいて良いのは、私ひとりだけのはずなのに。<br> その女性にむかって熱心に言葉をかける彼の姿を見ても、同じような思いが生じてくる。彼はかつて、自分にあれほど熱心に本音をぶつけてきてくれたことなどなかったのに。あの女性に対してはあれほどまで心を開け放って語りかけているなんて。<br> 妬ましい。<br> この時、喜緑の良識人的な心はアルコールによって眠りについていた。だから、彼女の行動を抑制する意思は、どこにも存在していなかった。<br> 喜緑は、藤原と橘が車輌の隣へ舞台を移して熱弁を振るい合う間隙をつき、藤原の置いたリュックを持ち上げていた。<br> ずしりとくる重みに、喜緑の腕がきしむ。しかし酔いに頭を浮かされた彼女には、自制心はほとんど残っていなかった。<br> 藤原と橘は口論に夢中になるあまり、闇の中の一瞬の出来事にまったく気づいていなかった。</p> <p> </p> <p><br> ~~~~~</p> <p> </p> <p><br> 俺の名は谷口。探偵さ。<br> 人と人のつながりに敏感であるべき探偵は、社交にも優れているものなのだ。<br> 社交と一口に言っても様々な形態があろうが、酒宴もその一つだ。人間というものは、酒宴というものを非常に重要視する。アルコールは人を酔わせる。酔うと人は饒舌になり、なんかよく分からないが良い気分になる。良い気分になれば、まあたいていの人と楽しく付き合えるという寸法だ。だから、コミュニケーションを考える上で酒というアイテムは外せない物なのだ。<br> そんな社交を生業とする俺だからして、酒にやられるということはない。酔ってやたら眠くなってきたりすることはあるが、自分の限界というものを学習しているからして、二日酔いになどここ数年なったことがない。<br> 呑んだ酔ったも眠るまで。起き抜けはさっぱり爽やか。それが俺の酒宴スタイルだ。</p> <p> </p> <p><br> 夕べはついつい調子にのって勢いよく呑みすぎてしまったが、今日はもう大丈夫。完全復活。俺、絶好調。<br> しかし昨日は久しぶりに楽しい思いをした。朝比奈さんや喜緑さんまで交えてのお祭り後夜祭だったわけだから、楽しくないはずがない。これでキョンがいなくて長門が自室で寝てれば言うことなしだったのだが、まあそこは大目に見てやろうと思う。<br> ところどころ記憶に不明瞭なところがあるが、全体的に失敗のない模範的な在り様であったと思う。</p> <p> </p> <p>俺は大きく伸びをしながら布団の中から起き上がった。ブラインドの隙間から朝の陽がもれ入ってくる。<br> あたりを見回す。酒のビンや缶が散乱している現状は早々になんとかしないと岡部さんに会わせる顔がないな。後でキョンを呼んで、俺の部屋を酒宴に使った所場代がわりに掃除させよう。<br> キョンと朝比奈さんは自分たちの部屋に戻っていたようだが、喜緑さんは、ええと……俺の記憶が正しければ長門の部屋に行ってるはずだ。<br> 俺は布団の中のあたたかさに別れを告げ、果敢にも肌寒さの残る朝の空気の中に身を投じた。<br> 鉛のように固まった身体を解きほぐしながら、部屋によどんだ酒気を吹き飛ばすため部屋の窓を開ける。冷たい空気がさっと部屋に流れ込んでくる。</p> <p> </p> <p> それにしても、まあ。酷いもんだ。酔った勢いとはいえ、一晩でよくぞここまで部屋をゴチャマゼにできたもんだ。少しくらいは、せめて足場くらい自分で片付けた方がよさそうだな。<br> やれやれと呟きながら、俺は横倒しにたおれている一升瓶を手にとった。<br> その時気づいた。一升瓶の隣に見覚えのある黒いリュックサックが転がっている。<br> そういや、キョンがこんなリュックを持っていたな。くそう、これキョンのカバンかよ。まったく、あいつめ。この谷口領に小汚いカバンを持ち込むなんて。</p> <p> </p> <p> そのリュックの中に一升瓶を入れて運んでやろうと、俺はリュックのヒモを解いた。その中には既に、新聞紙でくるんだデカイ石のような物がつめこまれてあった。<br> 試しに手の甲で叩いてみるが、どすどすと重苦しい鈍器音がする。なんとなく、石でもないようだ。どちらかといえば、金属?<br> 一体あいつは何を持って来たんだ。そう思い、俺は苦々しく顔をしかめて新聞紙の包装を解いていった。</p> <p> </p> <p>やめておけばよかった、と思った。</p> <p> </p> <p>そこからは、黄土色の光を放つ、人型の像が出てきた。<br> 最初、俺はそれが何なのか判別できなかった。<br> だが、やおらそれが何であるか。ほとんど直感的に理解することになる。<br> そして、俺はくぐもった悲鳴をあげて部屋を飛び出した。</p> <p> </p> <p><br>  ~つづく~</p>

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