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奇跡の先に」(2008/06/22 (日) 02:20:07) の最新版変更点

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<p>奇跡の先に<br> <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br>  絶対に失いたくないものは誰にだってある。<br>  だが、それは俺個人の中の問題だ。外側――例えば赤の他人や動物、偶然、不幸、地球的災害を含めて<br> そんな事なんてお構いなしに、好き勝手に振る舞おうとする。そして、それは結果として俺の大切なものを奪ったり、<br> 怖そうとするときがあるんだ。<br>  俺はあの冬の日、身の毛のよだつような喪失感を味わって以降、どうにかして守り抜きたいと思っていた。<br> そのためにどれだけの努力をしたのかと問われれば、うーんとうなってしまうかも知れないが、<br> それでも俺は俺なりにSOS団ってものを大切にしてきたつもりさ。<br>  <br>  ――でも、それはやっぱりやって来た。俺のいるべき、ずっといたいと願っている場所を地表どころか<br> マントルごとめくり上げて持って行こうとしやがった。<br>  <br>  その日の放課後もいつものようにSOS団の部室へやってきた。そういや、すっかり俺たちが巣くう根城と化してしまったが、<br> ここも一応文芸部室だったんだよな。<br>  俺は間違っても朝比奈さんの着替えをのぞかないよう――たまに忘れたくなる衝動に駆られるが、理性で乗り切っている――に<br> コンコンとノックする。<br> 「……どうぞ」<br>  返ってきたのは、長門の透き通ったガラス細工のような声だった。あいつが返事をするとは珍しい……<br>  それを認知した瞬間、俺の背筋に恐ろしく嫌なものが流れていった。<br>  長門が返事をするだと? いや、確かにあいつは以前に比べてどちらかというと人間らしい反応を見せるようになってきている。<br> 挨拶の一つや二つ返したところで何がおかしいんだ? <br>  すぐに俺は背中をはたいて、薄気味悪い感触を消した。<br>  そして、扉を開ける。<br>  <br>  部室内を見たとたん、いつの間にか浮いていた汗が俺の額から頬を伝って落ちていった。<br>  そこには、返事をした長門だけではなく、古泉・朝比奈さんのいたからだ。なぜだ? 部室の扉をノックされたとして、<br> まず返事をしようとするのは誰だ? 当然、愛しき朝比奈さんのはぁいという癒し声だ。次に来るべきなのは、<br> 扉の向こうから返ってくる声としてはいささか問題があるが、古泉だろう。にもかかわらず、二人は黙りで長門が返事をしただと?<br>  さらに俺の不安を煽るのが、部室内の空気だ。古泉と朝比奈さんはうつむいたまま、こちらを見ようともしない。<br> 逆に長門は部室では必ず膝の上に置いていた本を持たず、じっと俺の方を見つめていた。おいおい、どうして逆になっているんだ?<br> 「よ、よう。どうかしたのか、空気が悪いみたいだが……」<br>  不安丸出しの言葉を吐きながら、俺はいつもの椅子に座る。だが、古泉はじっと難しい目をしたまま、<br> テーブルを見つめているだけで反応すらしない。朝比奈さんは俺が椅子を引いた音に一瞬びくっと反応したが、<br> 決してこちらに視線を向けようとはしなかった。なんなんだ。<br>  …………<br>  …………<br>  …………<br>  部室内に長く続く沈黙。さすがに我慢強い俺もいらついてきたぞ。<br> 「おい。何かあったんならしゃべれよ。特に古泉。お前は俺が聞きたくないことでも、いつもべらべらしゃべるじゃねえか。<br> こんな時だけ黙りを決め込みやがって」<br>  俺の罵声に近い声に、古泉はちらりと視線だけをこちらに向けてきた。それは……何というか哀れみに満ちたものに見えたが、<br> すぐに動揺ものへと変化していく。<br> 「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」<br>  唐突に声を上げ始めたのは朝比奈さんだった。頭を振って、しきりに謝罪の言葉を並べていく。<br> 長い髪が拡散するように揺れるのに合わせて、多量の涙が机の上にまき散らされていった。<br>  俺は朝比奈さんを驚かせてしまったかと後悔し、<br> 「いえ! 違うんです。ただなんかあったなら話して欲しかっただけで、別に朝比奈さんに怒っていたわけではありませんから!」<br>  そう肩をつかんで弁明し続けるが、朝比奈さんの口は止まらない。<br> 「違うんですっ……違うんですっ……! あたしが何もできないからこんな事に……!」<br>  謝罪の内容が変化していくたびに、俺は朝比奈さんの動揺が別のところにあることを理解した。俺が怒鳴った事じゃない。<br> もっと根幹的な部分で彼女は謝罪の言葉を並べている。<br>  一向に口を止めない朝比奈さんに、俺はただオロオロすることしかできない。古泉にフォローを求めようとも、<br> またもやこいつは難しい顔つきでテーブルに視線を向けた状態に戻っている。<br>  ……もう何が何だかわからん! 誰か説明してくれ!<br>  <br>  俺の言葉が届いたのか、背後に誰かが立っていることに気がついた。<br> 「これから説明する」<br>  それを告げてきたのは、唯一俺の視線を向け続けた長門だった。<br>  <br>  <br>  <br> 「ふ……ふざけんなっ!」<br>  長門からの説明を聞いた後、俺は荒れ狂っていた。掃除用具入れのモップを取り出し、そこら中のあらゆるものを殴りつける。<br> 団長席のパソコン、コンピ研からの戦利品であるノートPC、黒板、ホワイトボード、朝比奈さんのコスプレ衣装……<br> 目に見えるものはとにかく殴りつけていた。<br>  俺に冷酷非情としか言えない通告をした長門は、ただそれを黙って見ているだけだ。古泉の野郎も長門と同様。<br> 朝比奈さんは顔を塞いでただ泣きじゃくるのみ。<br> 「くそっ! 何で俺なんだ!? どうして俺なんだ!? おかしいだろっ! なんでなんだよ!」<br>  俺の情動は止まる気配すら見えない。一度破壊して残骸と化したポットを見ても、それをさらに粉砕すべくひたすら殴り続ける。<br>  どうしてだ。なぜなんだ。俺が一体何をしたってんだ? 確かにSOS団に入って以降いろいろあったさ。<br> それこそ死ぬような目にだってあった。だが、それでも健全に生きてきたつもりだ。そんな俺が……<br> 「やめて! もうやめてくださいっ!」<br>  唐突に俺の背中に、暖かな感触が広がる。振り返ってみれば、朝比奈さんが涙を流しながら、<br> 俺を制止すべく抱きついてきていた。<br>  ひたすら額を俺の背中に押しつけ、やめてやめてと頭を振る朝比奈さんに俺はようやく我を取り戻した。<br>  なんてバカなことをやっているんだ、俺は。物に当たって何の意味がある?<br> ひたすら自分の醜い醜態をさらすだけじゃないか。<br>  俺はモップを床に落とし、自身の身体も無造作に投げ出すように壁により掛かった。<br>  <br>  茫然自失の状態がしばらく続くが、ふと部室内の状況が全て俺の乱心前に戻っていることに気がついた。<br> 長門がやったのか? いや、さっきの話だとできないはずだ。なら……喜緑さんの仕業か。<br> さっき限定的ながら協力してくれていると長門が言っていたからな。<br> 理由は掃除当番をすませたハルヒがもうすぐここに現れるからだろう。<br>  <br>  ほどなくして、やーほー!と元気はつらつな声でハルヒの奴が部室に飛び込んできた。<br>  <br>  ……どうしてこんなことになっちまったんだ。<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br>  その日も何にも変わらない日だった。朝起きて、学校に来て、キョンやSOS団のみんなと遊ぶ。<br> 昔みたいに何やってもつまらなかった日々とは違い、今あたしの毎日はとても充実していた。<br>  ――だけど、たまに不安になることもあった。楽しすぎることへの恐怖心。<br>  今は楽しい。でも、ひょっとしたら、今の楽しさはほんの一本の糸が切れただけで壊れてしまうのではないか。<br> そんな不安が常につきまとった。<br>  だから、あたしはSOS団を引っ張り続けた。いろいろなところへ行き、イベントをこなした。<br> ここにいる全員が決して飽きないように。<br>  <br>  でも、やっぱりそんなときが来てしまった。<br>  あまりに酷い現実が。<br>  <br> 「今……なんて言ったの?」<br>  SOS団――文芸部の部室。あたしは団長席に飛んできた言葉に耳を疑った。<br>  いや、それを発したキョンの奴は、うつむいてもごもご口を動かしているだけのせいで全然聞き取れない。<br> きっとあたしの聞き間違いだろう。<br> 「何よ、今の。あたしの聞き間違えじゃなければ、全くおもしろくないジョークが聞こえたような気がするんだけど。<br> ほらキョン、言いたいことがあるならはっきりと言いなさい。そんな思春期か、部屋に閉じこもって1年のヒキコモリのような<br> しゃべり方じゃ、SOS団団員はつとまらないわよ」<br>  あたしは諭すように指をさして、キョンに再度答えるよう促す。<br>  しばらくキョンは沈黙を保ったままだったが、やがてうつろな目であたしに告げた。<br>  <br> 「……俺、24時間後に死ぬんだ」<br>  <br>  <br>  スパァン!<br>  あたしがキョンの背中に振り下ろしたメガホンが、妙に透き通った音を鳴らした。部屋中にその音がこだまする中、<br> それでも微動だにしないキョンを、あたしは睨みつけながら、<br> 「つまんないわ! 最低のギャグね。0点よ。いや、マイナスだわ。テストの点にマイナスってのはあり得ないって言うつもり<br> かもしれないけど、テストの点は与えられるものだから、それがマイナスになれば逆に与えるものになるってわけ。<br> つまり罰金よ罰金! でも、すぐに反省して撤回するなら、一時の気の迷いって事で罰金はなかったことにしてあげる。<br> ほらっ! とっとと言い直しなさい!」<br>  あたしは自分の頭の隅にすらなかったキョンの言葉に怒りを覚えていた。何を言っているのだろうか。<br> 確かに、SOS団たるもの常におもしろいことを言えるようにしておくという心構えが必要なのは当然。<br> でも、よりによってキョンが死ぬって? こんなもの冗談っていえないわ。悪質な嫌がらせよ!<br>  すぐにあたしは腕を組んで目を瞑り、キョンからいつもの中途半端な笑みと声で訂正の言葉が返ってくるのを待った。<br> だが、一分二分経っても返ってこない。どうして訂正しないのっ!?<br>  あたしは目を開き、キョンのネクタイをつかみ上げて、強引に立ち上がらせる。<br> 「何で訂正しないのよっ! あんたが死ぬって? そんなばかげたことあるわけないじゃない。<br> どうしてそんなことが言えるのかっていいたそうね。だって、今日の朝からあんたの間抜け面をずっと見てきたけど、<br> 全然そんな素振り見せなかったじゃない! 明日死ぬ人間がそんな平然としているわけないわ!」<br>  あたしは盛んにネクタイを揺さぶって、キョンの口を動かそうとする。だけど、うつろな瞳をキョンは見せるだけで<br> こちらに視線すら向けようとしなかった。<br> 「訂正しなさいっ! 団長命令よっ! 聞いてんのキョンっ!」<br> 「……ふえええぇぇぇ」<br>  ここで突然みくるちゃんが泣き出した。ちょっとちょっと、どうしてみくるちゃんが泣くのよ。<br> 「ほらっ、キョン。あんたがばかげたことを言うからみくるちゃんが泣いちゃったじゃない! 早く訂正しないと<br> 本気で承知しないわよ!」<br>  さらにキョンを締め上げにかかるあたしだったが、みくるちゃんは首を振って、<br> 「違うんです……キョンくんの言っていること……本当なんですっ……」<br>  そう言ってテーブルに突っ伏して泣き始めてしまった。<br>  <br>  ……何言ってんのよ、みくるちゃんまで。そんなことをあるわけないじゃない。ねえ古泉くん?<br>  <br>  みくるちゃんまで言い出したキョンの死亡宣告に、あたしは思わず古泉くんへ助け船を出させようとするが、<br> 「残念ですが……彼の言っていることは本当です……」<br>  そう力なく言った――言ってしまった。<br>  <br>  それでもあたしは信じない。最後に、この一部始終を黙ってみていた有希に答えを求める。<br>  その答えは冷酷非道と言えるぐらいに落ち着いたものだった。<br>  <br> 「彼の言っていることは本当。否定できない事実」<br>  <br>  有希の言葉を聞いたとたん、世界が回った。<br>  今まで味わったことのないようなめまいで足がふらつき、そのままキョンのネクタイから手を離して団長席に座り込んだ。<br>  キョンが死ぬ? そんな……どうして?<br>  <br>  あたしは思わず手で顔を覆ってしまう。おかしい……おかしいわよ。昨日まで――それどころか、さっき一旦教室で別れるまで<br> 全然そんな感じじゃなかったじゃない。いつものようにキョンはあたしの前の席に座っていて、途中で居眠りを初めて<br> 宿題を忘れて後頭部をかいて困って、たまにあたしにわからないところを聞いてきたりしていたじゃない。<br>  それが何でこんな突然? 理解できない。納得できない。受け入れられるわけがないじゃない。<br> 「その点については僕の方から説明をしたいと思うんですが」<br>  古泉くんの声が聞こえ、あたしは顔から手を離した。強く目を押さえつけてしまっていたせいか、視界がぼんやりとしている。<br> 徐々に明朗になっていく視界に、あたしはこれが夢ではなく現実であることを再認識させられた。<br> テーブルにつっぷはしないていないもののしゃくり上げ続けるみくるちゃん、いつもは本をずっと読み続けているのに<br> 今日はこちらをじっと見つめている有希、いつもにこやかな笑顔を見せているはずの古泉くんの苦悶の表情、<br> そして、あの間抜け面はどこへやら呆然とだらしなく椅子に座り、じっと天井を眺めているキョン……<br> 「何があったのか教えて」<br>  あたしは覚悟を決めて、古泉くんからの説明に耳を傾けることにした。これは現実なのだ。<br> そして、24時間というあまりに短いタイムリミット。あたしの中の神経がわめき始めた。時間は戻らない、先に進めと。<br>  古泉くんが沈痛な表情で口を開き始める。<br> 「実は数週間前に彼から相談を受けていまして。最近どうも物忘れが酷くなっているような気がすると。<br> ただの気のせいだと言ってみたんですが、少々彼も気にしていたみたいだったので、僕の――そう親戚が経営している病院に<br> ちょっとした検査を受けに行ったんですよ。そんな大規模なものではなく、レントゲンや血液検査程度のものです」<br> 「ちょっと初耳よ。どうしてあたしにいわなかったわけ?」<br>  あたしは抗議の声をキョンに向ける。だが、じっと天井を眺めたまま答えようともしない。<br> 代わりに古泉くんがフォローするように、<br> 「彼もあまり大事には捉えていなかったんでしょう。ちょっと気になるからという程度で検査を受けたのだと思います。<br> で、それ以降彼の物忘れも気にならなくなり、検査のこともすっかり忘れてしまっていたようですね。<br> 今日、その結果が返ってきたのですが、自分でそれを受けたことも忘れていたほどですよ」<br>  ――古泉くんは一旦話を途切り、あたしの様子をうかがった。恐らくあたしが動揺していないか、見ているんだろう。<br> 「構わないわ。続けて」<br> 「……わかりました。そして、その検査の結果ですが、その……何というか大変まずい結果が出まして」<br> 「まずい病気だったって訳ね。病名は?」<br> 「……ええと……」<br>  古泉くんはどういう訳だか答えに困ったような表情を浮かべて、有希の方に振り返った。なぜ有希なのだろうか。<br> ひょっとしてその病気について何か知っている?<br>  有希は話が回ってきたと理解したのか、小さく頷き、<br> 「彼が発症している病気は極めて症例の少ないもの。全世界を探しても、同様の症状は数十例しか存在していない上、<br> それらが全て共通のものであるという確証も得られていない。そのためはっきりとした病名もない。当然治療法も。<br> 彼がどうしてその病気に罹っているのか分かった理由は、その症例のうち一つと完全に一致しているものだから」<br> 「病名がないって……そんなことがあり得るの?」<br>  あたしの疑問符に、有希はただ頷くだけだった。<br>  そんな。治療法どころか病名すら存在しない病気だなんて。<br> 「具体的な症状は?」<br> 「症状は次第に記憶と失われていく。物忘れが激しくなるのはその前兆。やがて思考能力の衰退していき、<br> 最後には脳の機能が停止してしまう」<br> 「アルツハイマー病みたいなものなの?」<br> 「似ているが異なる。この病気の決定的な特徴は個人差が極めて少ないことにある。最終段階の発症から急速なスピードで<br> 病状が進行し、ほぼ24時間後に生命活動が停止する。症例は少ないが、その誤差は数分程度のものしか確認されていない。<br> そして、先ほど彼に確認したところ、36分前の15時ちょうどにその最終段階の発症が起きていることがわかった。<br> だから、あと23時間24分で彼の命は尽きると思われる」<br> 「……そう」<br>  あたしは頭を抱えてしまった。もうそれが始まっている? なら一刻の猶予もない状況じゃない。<br>  同時に、そんな大事を淡々と語る有希に怒りもわいてきていた。なんなの、その平然な態度は。キョンが死んでもいいって事?<br> それともどうでもいいって言いたいの?<br>  だけど、あたしはすぐに思い直した。有希はそんな子じゃない。感情を表に出さないのはいつものことじゃない。<br> それにこんなに饒舌にしゃべる有希は初めて見た。いつも必要最低限の言葉しか口にしなかったんだから。<br> 「……なにか手だてはないの?」<br>  あたしは途方にくれて、周りに問いかける。だが、こればかりには有希も何も答えなかった。<br> 古泉くんもみくるちゃんもただ黙ったまま。<br>  ここでふと気がつく。当事者であるキョン。さっきから呆然と天井を眺めたままで何一言も答えようとしない。<br>  <br>  あたしはそれを理解したとたん、頭の血管が切れるんじゃないかと思うほどの怒りがわいてきた。<br> そして、椅子を蹴飛ばして立ち上がると、再びキョンのネクタイを締め上げ、<br> 「あんた! さっきから何一人だけ蚊帳の外でのほほんとしてんのよ! あんたのことでしょ!<br> もっとしっかりしなさいよ! それとももう諦めたってわけ!?」<br> 「……もういい」<br>  キョンがようやく口にしたのは、絶望に染まった言葉だった。それがさらにあたしの頭に血が集結させる。<br> 「ふざけないでよ! まだ24時間近くあるのよ! 何でそんなに簡単に諦められるわけ!?<br> SOS団団員としてそんな風に教育した憶えはないんだから!」<br> 「もういいって言ってんだろ!」<br>  キョンがあたしに向けて怒鳴った。あまりの口調にあたしはネクタイを話して、数歩距離をとってしまう。<br> 「お前に何が分かる――おまえに何が分かるって言うんだよ! もうどうやってもたすかりっこねえんだ!<br> どんなにあがいても、努力しても無駄なんだよ!」<br>  錯乱を始めたキョンをあたしは呆然と見つめることしかできなかった。頭を抱え、身をよじり、つばを飛ばして<br> 絶望の雄叫びを続ける。そんな彼を見たのは初めてだった。<br>  <br>  あたしは。<br>  <br> 「どうにでもなればいいんだっ! 俺はどうせもうすぐ死ぬんだからな! いっそここで殺してくれたっていいぞ!<br> くそったれが! おわっちまえ、こんな理不尽な世界なんて今すぐほろんじまえばいいんだっ!」<br>  <br>  バカだ。<br>  <br>  あたしは錯乱して腕を振り回すキョンの前に立った。そして、彼の顔を両手でしっかりとつかんだ。<br>  全身の震えがあたしの手を通して感じられた。<br>  そう、怖いに決まっている、訳の分からない病気に突然かかり、あまつさえ余命24時間ですなんていわれれば、<br> 想像を絶するほどのショックを受けるだろう。そんなこともあたしは理解できないって言うの?<br>  あたしはキョンの顔をつかんだまま、あたしの顔の前に持ってくる。荒い吐息があたしの顔に降りかかってきた。<br> 「いいキョン。あたしは絶対に諦めないから。あんたが患った病気がどんな難病だろうが知ったこっちゃないわ。<br> 約束する、どんな手段を使っても、絶対にあんたを助ける。あたしは最後の一秒まで諦めるつもりはないんだから。<br> だからあんたも戦いなさい。最期の最期の最期まで!」<br>  そして、キョンの反応も確かめずに、周囲の団員たちを一瞥し、<br> 「みんなも異論はないわよね。あるなら邪魔だから今すぐここから出て行ってもらうわよ」<br>  そのあたしの言葉に誰一人反論するものはいなかった。<br>  あたしは決まりねと言うと、キョンの腕をつかんで外に出ようとする。<br> 「とにかく、あんたの病気がホンモノかどうか、もう一度調べてもらう必要があるわ。<br> 最近じゃセカンドオピニオンなんていう言葉もあるぐらいよ。別の病院で調べれば、誤診だったっていう可能性もあるんだから」<br>  と、ここでようやく平静さを取り戻したらしいキョンが口を開く。<br> 「……なあハルヒ。一つだけ聞きたいんだが」<br> 「なによ」<br>  キョンはしばらく言いづらそうにしていたが、やがてあたしの目をまっすぐ見つめて、<br> 「おまえが俺を助けようとしているのは、SOS団団長だからか?」<br>  その言葉を聞いて、あたしもしっかりとキョンを見つめ返し、<br> 「SOS団団長として、ここにいる涼宮ハルヒとして、あたしの全立場を賭けてあんたを助けたい。それだけよ」<br>  <br>  <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br>  今から語るのは、ハルヒがまだ部室に来る前の事だ。初めて俺が24時間後に死ぬと言われたときの。<br>  <br>  最初は長門。<br>  昨日、あなたに何からの情報生命体が介入を行ったことが確認された。<br>  目的はあなたの生命活動の停止。<br>  それはわたしの警戒網をくぐり抜け、あなたの脳組織に障害を起こすプログラムを埋め込んだ。<br>  48時間後かけてじっくりと意識を消失させていく、自我崩壊プログラム。<br>  わたしがその存在を察知したとき、すでにそのプログラムは稼働状態に入り、どんな情報操作も受け付けなかった。<br>  最初の24時間は潜伏状態となり、あなたの身体組織になんら影響を及ぼさない。<br>  だが、残り24時間になると稼働を開始し、まずあなたの記憶媒体への攻撃を始める。<br>  時期にあなたの記憶に混乱と混濁が生じ始めるだろう。<br>  わたしは情報統合思念体へあなたの内部にいる破壊プログラムを停止させるべく、あらゆる申請を行った。<br>  だが、一つとして許可されていない。<br>  何度もわたしは申請を行ったが、最後には情報統合思念体はわたしを切り離した。<br>  今ではわたしは何の情報操作もできない通常の有機生命体と変わらない。<br>  情報操作という点については喜緑江美里が協力してくれているが、極めて限定的。<br>  今のわたしにあなたを助けることはできない。<br>  ……ごめんなさい。<br>  <br>  次に朝比奈さん。<br>  未来からは何も聞かされていません。<br>  長門さんからその――プログラムというものについての話を聞いたので、未来へすぐに対処方法がないか問い合わせました。<br>  でもダメ。<br>  長門さんが無理なら未来でも対処のしようがないって一点張り。<br>  ならTPDDでキョンくんに侵入する前にもどったらって申請してみたの。<br>  それもダメでした。<br>  理由は、そのぅ……禁則事項……です。<br>  ごめんなさい……あたし何もできなくて……<br>  <br>  最後に古泉。<br>  今回の件に関しては機関の力を持ってもどうしようもありませんでした。<br>  長門さんから初めてその話を聞かされたとき、ただ呆然とすることしか。<br>  腹立たしい。<br>  超能力者なんて結局は涼宮さんの精神安定の役割しかこなせないんですから。<br>  あなたの何の助けにもなれない。<br>  正直、屈辱的です。<br>  こんな状況をただ指をくわえて見ていることしかできないことに。<br>  申し訳ない……今僕から言えるのはそれだけです。<br>  <br>  <br>  ま、さっき長門と古泉が説明したのは、大体あっているってわけだ。<br>  ただここで情報なんたらとか言ってもハルヒが信じないだろうと思って、脚色したんだろう。<br>  どのみち俺の命はあと24時間というのは変わりないんだ。<br>  <br>  <br>  長門もダメ、朝比奈さんもダメ、古泉もダメ。もう俺が助かる可能性は万に一つすら残っていない。<br>  絶望的な状況ってわけだ。<br>  <br>  俺はどうすればいいんだ? ハルヒ、俺は……<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br>  あたしは校舎の外に飛び出すと、職員用の駐車場に置かれている自転車に飛び乗った。<br> これは無断で自転車登校した生徒から没収されて、長らく鍵も付けずにここに放置状態にされていたものだ。<br> 最初はタクシーに飛び乗って、病院に向かおうかと思ったけど、この辺りにタクシーがやってくるのには時間がかかりそうだし、<br> そもそも学校にタクシーを呼び出したら教師がうるさい。かといって説明している時間もない。<br> それならいっそ自転車で行った方が早いはず。<br> 「ほら、キョン。早く後ろに乗りなさい」<br> 「お、おい、二人乗りは……」<br> 「あんたの命がかかってんのよ! そんなこと気にしている場合!?」<br>  あたしはキョンを後部に載せると、猛スピードで学校の校門から飛び出した。どこからか、教師の怒鳴り声が聞こえてきたけど<br> 無視よ無視。<br>  そのまま、ブレーキもかけずに一気に坂を駆け下りる。一分一秒も無駄にできない。<br>  次第に日が傾き、街並みが赤く模様替えを始めつつあった。時計をちらりと見れば、もう残り23時間になろうとしている。<br> このままでは明日のこのくらいの時刻に命が尽きてしまう。<br>  ふと、後ろからあたしをつかんでいるキョンの手がまだ小刻みに震えていることに気がついた。<br>  ……大丈夫。絶対にあたしはあんたを見捨てたりはしないから。<br>  <br>  しばらくすると上り坂にさしかかる。さすがに二人分の重量となると、かなり厳しい。<br> ぜいぜいと息を切らせながら、ただひたすらにペダルを踏み込み続けるが、一向にスピードが上がらない。<br> 「……おい、無理するな。ここは一旦俺が降りて――」<br> 「病人っ……は、黙って後ろに乗ってなさいっ……!」<br>  足が痙攣を始め、全身に汗が噴き出るが、それでもあたしは立ち止まる気にはなれなかった。<br>  だが、邪魔は別のところから入った。<br> 『そこの二人乗り。止まりなさい』<br>  背後からスピーカー越しの声。振り返ってみれば、いつの間にか現れたパトカーがこちらを呼び止めようとしている。<br> 「無視して突っ走るわよっ……」<br> 「無茶言うなよ」<br> 「うっさい! 止まっている時間なんてないんだから!」<br>  あたしは振り切るべくさらにペダルに力を込めるが、<br> 「ハルヒ。気持ちは分かるし、俺は感謝しているぞ。だが、ここで警察にとっつかまったら意味ねえじゃねえか。<br> 事情さえ説明すればわかってくれる。お前も無理しすぎだ。だから、ここで一旦止まれ。な?」<br>  そう身を乗り出して、あたしを制止し始めた。<br>  <br>  結局、キョンの言うように警察沙汰は最悪だし、あたしの体力も厳しくなってきていたから、一旦自転車を止めることにした。<br> 全身に足りなくなった酸素を補給すべく、自転車をつかんだまま大きく呼吸を続ける。<br>  だが、背後からはパトカーから降りた警察官がこちらに向かってきていた。時間がないってのに。<br> 「あー君たち。何を急いでいるのか知らないが、二人乗りはダメだよ」<br> 「すみません……ちょっと急いでいて……」<br>  キョンはあたふたと警察官に話しかけているが、そんな悠長なことをやっている暇なんてない。<br> あたしはまだ酸素を吸引し続ける肺を黙らせつつ、<br> 「……邪魔しないで……」<br> 「ん? 何か言ったかい?」<br>  息切れに呑まれて警察官まで声が届かなかったらしい。あたしは一旦呼吸を止め、完全に肺を押さえ込むと警察官を睨みつけて、<br> 「邪魔しないでっ!」<br>  続けてキョンを指差し、<br> 「病気なの! 一刻を争う状況だから、すぐに病院に連れて行かないといけないのよ! だからお願い、あたしたちを通して!」<br>  気がつけば、あたしの声は怒鳴り声になってしまっていた。だが、構うもんか。今、キョンに残されている時間は少ない。<br> 本来こんな事をやっている場合ではないんだ。もしこれ以上引き留めようとするなら、実力で……<br>  警察官はあたしの口調におどろいたのか、しばらく呆然としていたが、やがて帽子をかぶり直すと、<br> 「何やら事情があるようだな。だが、それでも二人乗りは見過ごせないな」<br>  ……全く、官憲って奴は頭が固いんだから。避けたかったけどここは実力行使しかないようね。<br>  だが、次に警察官が口にした言葉は意外なものだった。<br> 「病人を抱えているなら、なおさらだ。ちょうど病院前を通るから車で連れて行ってあげよう」<br>  思わぬ申し出にあたしはキョンに笑みを向けた。<br>  ――だが、彼はぎこちない作り笑顔を見せるだけ。<br>  <br>  理由はわからない。だけどキョンは完全に諦めてしまっているように見える。なぜ?<br>  <br>  <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br>  俺が連れて行かれた病院は、以前に入院したことのあるところだった。<br>  前に聞いた話だと、どうやら古泉の機関が一枚かんでいるらしい。その時点で腕は確かでも、、<br> 何の期待もできないと言うことだ。もう機関には俺の状況が伝えられているだろうから、色々検査したところで回答は同じ。<br> そもそも現代医療では治療どころか発見もできないような病気だ。治療法なんて見つかるわけがない。<br>  俺は病院の待合室の椅子でだらんと力なく座り込んでいた。さっきまで感じていた恐怖による震えはすっかり収まり、<br> 今ではただ呆然とするばかりになっている。おびえることにすらうんざりしてしまったのだろうか、<br> こんな時ばかりは、俺の事なかれ主義がいい具合に働いていると思ってしまう。<br>  ハルヒは最期まで諦めるなと言った。だが、無駄だ。長門すらダメだというのに、一体何に期待すればいい?<br> もうすぐ時間が過ぎて俺は死ぬ。これは――まあなんだ、規定事項ってやつだな。こんなんでどうやって諦めずにいろと?<br>  ふと、俺の両隣に誰かが座った。見回せば、長門と古泉が俺を挟むように座っている。<br> 「なんだ、来たのか」<br> 「ええ、黙って部室にいるのもあれですから」<br>  すっかりいつものさわやかスマイルが失せた表情で古泉。一方の長門は表情一つ変えずに俺をじっと見つめている。<br>  古泉は待合所を見渡して、<br> 「ところで涼宮さんは?」<br> 「さっきトイレに行った。汗をかいたから顔を洗ってくるって言っていたが」<br> 「そうですか。ちょうど朝比奈さんも行ったので顔を合わせるかも知れません」<br> 「そうかい」<br>  ――ここで沈黙がしばらく流れる――<br> 「ん、ところでいつもの閉鎖空間はどうなんだ? ハルヒがあんな調子じゃドでかいのが発生しているんじゃ」<br> 「その点については全く問題ありません。現在のところ、閉鎖空間の発生どころか、その予兆すらキャッチされていない状態です。<br> 物を壊して暴れている時間なんてないと認識しているのでしょう。涼宮さんはそれだけあなたを助けることに夢中になっている」<br>  古泉は寂しげな笑顔を浮かべた。これ以上面倒事が起きて欲しくはないからな。とりあえず、そっちは一安心か。<br>  と、俺はこの病院で検査の受付の時の事を思い出し、<br> 「そういや、病院の方はすっかり検査の準備をして待ち構えていたみたいだが、お前がやってくれたのか?」<br> 「ええ、機関を経由してお願いしておきました。一通りそれっぽいことをしなければ、涼宮さんは納得しないでしょうから。<br> それに受付などで時間をかけてしまいますと、涼宮さんは別のところに駆け込みかねません。口裏を合わせるためにも、<br> ここで受けた方が何かと都合がいいですから」<br> 「そうだな」<br>  古泉の答えを聞いて、俺はまた力なく床を見つめた。しゃべっている間に気がついたが、この他人事のような話しぶりは<br> 何なのだろう。少なくともあと一日もしないうちに死ぬというのに。<br> 「俺はもうすっかり自分の死を受け入れちまったみたいだよ。あがくとかそんな気持ちも一つとして出てきやしねえ。<br> 自分で言うのも何だが、俺は相当冷淡な人間だったんだな」<br>  口から自虐的な笑みがこぼれる。<br>  だが、ここで長門が俺の顔をつかみ、<br> 「それは違う。あなたがそう望んだから、死を受け入れたわけではない」<br> 「……じゃあ何でなんだ?」<br>  俺の問いかけに、長門はただ瞬き一つせずに俺の目を見つめながら、<br> 「自我崩壊プログラムの影響によるもの。初段階であなたの抵抗の意思を削除したものと思われる。<br> ただ時間から換算して、まだ浸食は大きくないはず。より大きいショックを受ければ、動揺や怒りの感情も出てくる」<br> 「この妙に晴れやかな気分も、病気もどきのせいだってのか。全く苦痛を与えずに、じりじりと優しく締め上げてくるとは<br> やたらと陰湿なプログラムだな」<br>  あきれ気味に答える俺。<br>  長門は続けて、<br> 「だからこそ、あなたは戦うべき。症状に身を任せてはいけない。希望を捨てないで」<br>  その声は凛として透き通っていた。俺の持ち合わせている長門感情探知レーダを確認する限り、こいつはまだ諦めていない。<br>  <br>  ……だが、どうしろと? 一体どんな奇跡が起これば俺は助かるって言うんだ?<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br>  あたしは洗面所でひたすら顔を洗い続けていた。<br>  最初は汗を流すだけのつもりだったが、冷たい水に意識が引き締まることを感じると、<br> ひょっとしたら今あたしは悪夢を見ているだけであって、顔を洗えば目が覚めるかも知れないという淡い期待が生まれてきた。<br>  数十回続けた洗顔を終え、あたしは正面の鏡を見つめた。顔どころか髪の毛までずぶぬれになり、<br> 頬や首筋にまとわりついている。こびりついた水滴は重力に引かれて髪を伝い、あたしの肩に降りかかっていった。<br>  ――やっぱりこれは悪夢なんかじゃない。現実に起こっていることだ。<br>  あたしはそう認識して、二、三度頬を叩いた。まだ残っていた水滴が当たりに飛散する。<br>  しっかりしなさい。こんな時に現実逃避してどうする。そんな時間なんて一分一秒もないんだから、<br> しっかり前を見つめて進むのよ。<br>  ふと、出入り口の扉が開き、ちょうどかがみにみくるちゃんの姿が映し出された。<br>  あたしはその姿に驚き、<br> 「みくるちゃん。来たんだ」<br> 「あ、はい。部室にいても仕方ないですし、キョンくんのことも心配だから……」<br>  不安と困惑の入り交じった表情で答えるみくるちゃん。さっきまで泣いていたせいか、目がすっかり充血し、<br> 目元が汚れてしまっている。全く可愛い顔が台無しじゃない。<br> 「えっ、あ、はい。そうですね」<br>  みくるちゃんは鏡をのぞきこみ、自分の顔を確認してからおずおずと顔を洗い始めた。<br>  あたしはすぐにキョンの元に戻ろうとするが、<br> 「あ、あの……涼宮さん」<br>  そう唐突に呼び止められた。振り返ってみれば、みくるちゃんがさかんに顔をハンカチでぬぐいながら、<br> あたしを止めるように手をこちらに向けている。<br> 「なに? 早くキョンのところに行かないといけないから、手短にね」<br> 「えっとですね……」<br>  みくるちゃんは顔を一通り拭き終えると、あたしに顔を近づけてきて、<br> 「涼宮さんは、キョンくんのことを助けたいんですよね?」<br>  至極当然すぎることを言われて、一瞬あたしは戸惑ってしまったが、<br> 「当然よ。自分が団長だとかそんなことは関係ないわ。あたしはキョンを助けたい。ただそれだけよ」<br> 「そ、そうですか……」<br>  あたしは断言するように答えたつもりだったが、みくるちゃんの表情が曇っていくのを見て、彼女が望んだ答えを<br> あたしは答えられなかったことに気がつく。<br>  このみくるちゃんの反応に、正直あたしは困惑した。<br> 「ごめん、みくるちゃん、わかんない。あたしはキョンを助けたいの。他に何の雑念もないわ。<br> そのためならどんなことをでもやるつもりよ。それにどんなことがあっても諦めるつもりはない。<br> それに何か問題があるって言うの?」<br> 「……ええと、それは涼宮さんらしくて、いいことだし間違っていないと思います。けど……」<br>  みくるちゃんはまるで答えを選ぶように慎重な口調で、<br> 「涼宮さんはまだ――その、キョンくんに遠慮しているんじゃないかって。そんな感じがするんです」<br>  この指摘にあたしは困惑を越えて、動揺が生まれた。<br>  <br>  この期に及んで、まだあたしが何かに遠慮している? そんなバカな。あたしはキョンのことを最優先に考えて、<br> キョンが助かるために必死にやっているのに。<br>  <br>  <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br>  結局、その後ハルヒに連れられて片っ端から検査しまくったが、診断結果は変わらなかった。<br> いや、検査する前から答えは決まっていたんだから当然なんだけどな。<br>  24時間後に命が尽きる。いや、もう20時間を切ったか。残り時間が短いせいか、入院の必要性すら言われなかった。<br> 助かる見込みがない状態で集中治療室とかに入っても何の意味もないから、当然か。<br>  変化なしの現状に、ハルヒは一瞬いらだった仕草を見せたものの、すぐにいつもの強気の姿勢に戻り、<br> 「仕方がないわ。医者の診断を受け入れましょう。でも、これで終わりじゃないわ。今度は治療法――最悪でも、<br> 症状を遅延させる方法を見つける。キョンを自宅に送り届けたら、あたしは図書館に行って調べるつもりよ」<br>  そう言ってタクシーの手配を始めた。全くどこからそんな行動力が生まれてくるんだ。<br> 生まれたときもお腹から発射されるかのように飛び出てきたんじゃないか?<br>  ハルヒは病院入り口前に、一旦SOS団を集合させ、<br> 「みんな聞いて。あたし一人だけじゃ時間がなさ過ぎるから、手分けして動こうと思う。古泉くんは先に図書館に行って、<br> 事情を説明して今夜一晩中借りられるようにお願いしてほしいの。無茶な頼みだと思うけど、人一人の命がかかっているんだから、<br> どんな嘘を言っても納得させて。有希とみくるちゃんは自宅に戻って、何か手だてがないか考えてほしい。<br> 手だてすら見つからない状況だから、全員で図書館に籠もるのは発想を拘束してしまうから、他の視点で何か無いか探って」<br>  ハルヒの言葉に、俺以外のSOS団団員たちがうなずく。<br>  外はすっかり薄暗くなり、俺の余命も19時間を切ろうとしていた。明日のこの時間には<br> 俺はもうこの世に存在していないってわけか。明日がないというのも、何か現実感がない微妙な気分だ。<br>  ほどなくして、古泉たちが別々にタクシーに乗ってそれぞれの目的地に向かっていった。<br> それを見送った後、俺とハルヒもタクシーに乗り込み、俺の家へと向かう。<br>  検査結果で何の変化がないことを認識した辺りから、ハルヒはしきりに時計を確認するようになっていた。<br> 一秒も無駄にはできない。ハルヒの思いが俺にひしひしと伝わってくる。<br>  ……だが、そんなハルヒを見ても、俺は何とも思わなくなっていた。普段なら、感激するなり感謝の余り涙するぐらいの<br> 人並みの感情は持ち合わせていたはずだ。なのに、今の俺はそんな感情どころか、ただ呆然とハルヒの行動を<br> 見ているだけで何の感情もわき起こってこない。そして、そんなふがいない俺に怒りすら起きてもいなかった。<br> やれやれ、次第に人間らしい感情を失いつつあることが、手に取るようにわかるな。<br>  長門は言った。これは全て病気――プログラムのせいだと。<br>  そうだな、全部病気のせいだ。俺が悪いんじゃない。だから自分に絶望する必要はないんだ。<br>  車通りの多い県道を走り、自動車のライトや街の明かりが俺たちを照らす。ハルヒは難しい顔をしたまま、<br> 俺とは目を合わせず外を見つめていた。<br>  ふと、ここで家のことを思い出した。そういや、こんなに遅くなるって言うのに、連絡一つすらしていなかったな。<br> 今更かも知れないが、念のため電話ぐらいして――<br>  …………<br>  …………<br>  …………<br>  俺の呼吸が激しく乱れた。何だか長らく忘れていた動揺、そして絶望感。動いてもいないのに、<br> まるで100メートル無呼吸で泳いだほどに心臓の鼓動が速まる。さっきまで一つとして浮いていなかった汗が、<br> 全身に浮き上がり瞬時に服を湿らせた。<br>  長門が言っていた。俺の感情は次第になくなってきていると。だが、ぎりぎりのところでまだ理性らしき物は残っていたようだ。<br> 「――キョン? 大丈夫? どうかしたの?」<br>  気がつけば、俺の異変を察知したハルヒが肩をさすってきている。だが、俺はそれを感じる余裕がないほどの<br> ショック状態に陥っていた。<br> 「わからねえんだ……」<br>  俺の口からこぼれ落ちる。ハルヒは困惑した視線を向け、<br> 「なにが?」<br> 「俺の家族って誰だ……?」<br>  俺の言葉を聞いたとたん、ハルヒの可愛らしい顔が絶望的なまでゆがんだ。<br>  思い出せない。<br>  自分の家族のことが。オフクロや妹のことが。<br>  外見も思い出せず、名前も思い出せない。だが、俺には確実に帰るべき家があって、そこには家族がいたはずだ。<br> それはわかっているのに――なのに、そこにいた人たちが全く思い出せねえ。<br>  いや、もっと悪いことに家族と一緒にした記憶が全くない。俺が認識できるのは、家族がいたという点だけで、<br> それ以外の記憶が全くなくなっていた。<br>  それを認識したとたん、俺は悲鳴と嗚咽が混じった奇声が喉から飛び出始める。<br> そして、言いようのない喪失感が頭の中を見たし、無我夢中でハルヒの身体に抱きついた。<br> 「落ち――落ち着いてキョン! 大丈夫、大丈夫だから……っね!」<br>  ハルヒは俺をしっかりと抱きしめて背中をさすってくれた。だが、俺は奇声を上げることを止められない。<br> 狭い車内の中に、自分の声が幾十にも乱反射され、さらに頭がおかしくなりそうになる。<br> 「あんたのせいじゃない……あんたのせいじゃないのよ! 全部、みんな病気が悪いの! だから落ち着いて。<br> あたしが、あたしが絶対にキョンを助けて上がるからっ……」<br>  ハルヒの言葉も虚しく感じられた。<br>  病気? そうかもしれない。だが、一番世話をしてくれて、一番身近にあった家族のことを俺は忘れてしまっている。<br>  言い訳のしようがない。<br>  俺は最低だ。<br>  <br>  ほどなくして、俺は奇声を上げることもできなくなり、ハルヒに抱きついたまま身動きできなくなった。<br> 限界を超えた声量で叫び続けたため、喉あたりから出血が起きているのか、口の中が嫌な味で汚染されていく。<br> 「ほらっ……キョン、家に着いたわよ」<br>  ハルヒに促されて、俺はタクシーの窓から外を見回した。<br>  目の前にはごく平凡な一軒家が建っている。どうやらこれが俺の自宅のようだ。<br>  だが、どれだけ記憶の糸をほじくり返しても、それは見知らぬ他人の家にしか見えない。<br>  今まで俺が住んでいたという記憶どころか感覚すら生まれてこず、子供が親戚の家に初めて訪ねたときに感じる新鮮さのような<br> 気分になった。<br> 「まだ思い出せないの?」<br>  ハルヒは恐る恐る俺の顔をのぞき込む。俺は首を二、三度横に振り、<br> 「ダメだよ。全く思い出せない。どこをどう見ても他人の家にしか見えねえ……」<br>  そう肩を落とした。<br>  正直、このままこの家の中に入って家族といつものように会話ができるかと聞かれれば、無理だと答えるしかない。<br> 恐らく初めて会う人と話すようなたどたどしいやり取りしかできないだろう。<br>  ハルヒは必死に、痛々しいまでに取り繕った笑顔を俺に近づけ、<br> 「どうしようか。あんたの好きにしていいわよ。このまま家に帰りたいって言うなら、すぐに戻ってもいいし、<br> どこか別のところへ行きたいなら、どこにでも連れて行ってあげる。言ってみて」<br>  俺の行きたい場所。本当ならこの家なのだろうが。ダメだ、どうしてもそんな気にはならない。<br>  ならどこがいい? 俺が少しでも安心できる場所は……<br> 「部室がいい」<br>  すぐさま俺の頭に浮かんできたのは、あの旧館の文芸部室だった。古びて、わけのわからんものがたくさん置かれている<br> SOS団の根城。俺の高校生活の大半が詰まっていると思っていい。<br> 「わかったわ。部室ね。それで本当にいいのね? 他に行きたいところがあるなら遠慮なく言ってもいいわよ。<br> 物理的に難しいところはできないけど、あんたの行きたいところならどこにでも……」<br> 「いいんだ。部室がいい」<br>  俺はそうきっぱりと答え、さらに続ける。<br> 「もう部室以外の場所をほとんど憶えてないんだよ……」<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br>  あたしはキョンの要望通り、北高へ向かった。<br>  この間に見たキョンの絶望と雄叫びを見て、あたしはまだ自分がこの病気が嘘か間違いならいいと思っていたことを恥じていた。<br> しかし、キョンが家族のことを忘れてしまったということ、そして、それを心底苦痛に思っている彼を見て、<br> もう言い逃れも現実逃避もできない状況だと確信させられた。<br>  同時に、あたしの脳裏に不安も過ぎる。キョンの症状は深刻だ。あたしは必ず助けると大見得を切ったが、<br> 本当にできるのだろうか? そもそも専門である医者ですらさじを投げているのに、あたしなんかに何ができる?<br> あの症状を見せつけられてから、ついさっきまでの自信がすっかり消え失せかけていた。<br>  ようやく北高前につき、あたしたちはタクシーを待たせた状態で校門を乗り越えて学校の敷地内に入った。<br>  あたしはふとキョンの顔を見た。さっきまで不安で染まっていた表情だったが、学校に来てある程度の安堵感を見せていた。<br> よかった。まだここのことは憶えているみたい。<br>  時間は午後8時。校舎は明かり一つなく、部室のある旧館も闇に染まっていた。<br>  しまった。この時間では旧館の入り口が開いているわけがない。中にはいるためにはどこかの窓を割って……<br> 「待っていたよ」<br>  唐突にかけられた声。あたしたちがそちらに振り返ると、そこにはあのいけ好かない生徒会長と喜緑さんの姿があった。<br> 何よ、こんな時に。まさかこんな時間に部室を使うのは風紀の乱れの原因になるとかいうんじゃないでしょうね。<br> 言っておくけど、今のあたしはあんたの下らない説教なんて聞いている暇はないんだから。<br> 本気で阻止するつもりなら、こっちも容赦しないわよ。<br>  だが、生徒会長は予想外の言葉を告げてきた。<br> 「話は聞いている。場合によっては学校に来るかもしれないと思っていたが、予想通りだったな。<br> 彼はこちらで面倒を見よう。部室にきちんと連れて行くから安心したまえ。君は行かないとならない場所があるのだろう?」<br>  あまりに物わかりのいい生徒会長にあたしは一瞬警戒心を憶えるが、すぐに考え直す。<br> いくらこいつがむかつく石頭とは言え、キョンの命がかかっている状態でSOS団の存続うんぬん言ってくるほど、<br> 頭がおかしいとは思わない。今までやり取りした中の情報を総合すれば、常識的な判断ができる奴だと思うし。<br>  あたしはキョンの腕をつかんで、生徒会長の方に渡すように近づいた。<br> 「今はどうこうやるつもりはないわ。そんな状況でもないから。悪いけど、キョンをお願い」<br> 「任せてくれ。彼は私が責任を持って面倒を見る。喜緑くんも最大限サポートしてくれるそうだ」<br> 「はい、生徒会長」<br>  喜緑さんも軽くうなずいた。<br>  あたしはキョンの腕をつかんだまま、じっとキョンの顔を見つめて、<br> 「ごめん、キョン。本当は一緒にいてあげたいけど、それじゃ何も変わらないから。<br> いい? 部室に入ったらじっとしてそこから動かないこと。喜緑さんたちもキョンがどこかに行っちゃったりしないか、<br> ちゃんと見ておいて」<br> 「わかりました」<br>  そう言って喜緑さんはキョンの隣に立った。<br>  そして、あたしはキョンから手を離すと、そのまま校門前のタクシーに向かって走り出す――が、一旦足を止めて<br> 再度キョンを見つめながら、<br> 「あたし、何度も言ったけど諦めないから。最期の最期まで絶対に諦めないから。だから――あんたも諦めないで」<br>  そう宣言する。<br>  そんなあたしにキョンはただただ中途半端な笑みを浮かべるだけだった……<br>  <br>  <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br>  俺は暗い旧館の廊下を抜け、文芸部室に入った――戻ってきた。<br>  家族や自宅という存在が俺の中から消え去ってしまった以上、今の俺の心のよりどころはここにしかない。<br> まるでゆりかごに入れられたかのような安堵感が、俺を包んでいくのを感じた。<br> 「毛布と食料、水ぐらいは用意しておいた。ゆっくりくつろいでくれ」<br>  その言葉通り、部室内には一晩ぐらいは簡単に明かせるだけのものがそろっていた。パソコンもあるから、<br> 予定時刻が来るまで退屈することもないだろう。<br>  俺はこんな配慮をしてくれた二人に深々とお辞儀する。いい人たちだな。俺のためにこんなことまでしてくれるなんて。<br>  一方で、感謝に反比例して罪悪感も募った。なぜなら、俺はこの二人が一体誰なのかわからないんだから。<br> 恐らく何らかの形で知り合った仲なのだろう。だが、やはり俺の記憶にはこの二人の情報はいくら探っても出てこなかった。<br> この数時間で俺は一体どれだけの記憶を欠落させたのだろうか。<br>  部室内には言った俺は、せっかくだからと団長席に座った。そういや、ここに座ったのも久しぶりな気がする。<br> おっとこういったことの記憶はまだ残っているんだな。<br>  と、ここで喜緑さんという少女が俺のすぐそばに立ち、<br> 「生徒会長。申し訳ありませんが、彼と二人で話させてもらえないでしょうか」<br> 「わかった。外で待っている」<br>  そう言って生徒会長と呼ばれるめがねの男は部室から出て行った。<br>  喜緑さんは俺のそばに、清楚な振る舞いで立ったまま、<br> 「今回のことについては、わたしとしても大変残念に思っています。こちらとしましても、全力であなたの問題点を解消しようと<br> 試みましたが、上の方の動きが大変鈍いというのが実情です」<br> 「……ああ、あなたも長門と同じ――えーっと何でしたっけ」<br> 「対有機生命体ヒューマノイドインターフェース、です。人によってはTFEI端末と称される場合もあります」<br> 「それそれ。あなたも長門と同じなんですか」<br>  初耳の情報だったが、恐らくこのふざけた病気にかかるまえの俺はそのことを知っていたんだろうなと、<br> 自嘲ぎみに考えてしまった。<br> 「その通りです。今回の一件につきましても、大方の情報は入手しています」<br> 「……何とかならないもんですかね。何だかどうでもいいような気分になってきているんですけど、<br> はっきり言ってしまえば、俺もこの若さで他界なんてしたくないんで」<br> 「現在のところ、手だては何もないと考えています。先ほども申し上げましたが、情報統合思念体は今回の一件の発覚以降、<br> 大変緊迫した状態が続いています。かすめ取った情報の断片を解析しましたところ、どうやら内部で――言語に当てはめるには<br> いささか齟齬が生じるかも知れませんが、『交渉』が頻繁に行われているようですね。細部の情報は、<br> わたしや長門さんのような端末レベルまでは伝達されていません」<br> 「つまりできることは何もないって事ですか」<br> 「その通りですね」<br>  喜緑さんはにこやかな笑顔を浮かべたまま答えた。恐らく数時間前の俺だったら、人の不幸を見て楽しいかとか言い出して<br> 暴れていたかも知れないが、今はただただどうでもいいと思ってしまうのみである。<br>  俺は結局何も変わらないと自覚し、だらしなく椅子の背もたれに寄りかかった。<br>  と、ここで長門があのパトロンから切り離されたという話を思い出し、<br> 「長門はいろいろ上に申請して、その結果親玉から切り離されたって言っていましたが、あなたは違うんですか?」<br> 「わたしも申請自体は行いましたが、そういった強制措置は執られていません。長門さんが切り離されたのは、<br> 3度エラー蓄積が原因の暴走事故を起こしたからです」<br>  暴走事故――俺は喜緑さんの言葉に目を丸くした。あの長門が3回も暴走しただと?<br>  喜緑さんは続ける。<br> 「最初の二回は抗議程度のものでした。その位ならエラー訂正など軽処置で対応できますが、<br> 3度目は涼宮さんの能力を使って世界の改変まで行おうとしたのです。事態を重く見た情報統合思念体は<br> 長門さんから情報操作能力を抹消して切り離しました」<br>  世界の改変って……ええと具体的に思い出せねえが、確か冬の時に同じ事があったよな。<br> 長門……お前また同じ事をやろうとしたのか? あの時は様々なことが重なった上で長門自身も不可避にやってしまったはずだが。<br> 「長門さんは今回は意図的に実行しようとしました。どんな手段を使用してもあなたを救おうとしたようです」<br>  にこやかな笑みを継続しつつ、喜緑さん。<br>  ……バカ野郎。俺なんかのためにまたあんなことをやるなんて。だけど、嬉しいよ。あんな風に平然としているように見えて、<br> 俺のためにできることは徹底的にやろうとしてくれたんだから。<br>  <br>  その後、話を終えた喜緑さんは部室から出て行った。蛍光灯が照らす部室の中、俺だけになり、寂寥感がじわりじわりと<br> 首筋から頭に上ってくる。<br>  俺は椅子に座ってしばらくぼけっとしていたが、ふと壁に貼ってある写真が目にとまる。<br>  それは見るまで忘れかけていたが、去年の夏に合宿に言ったときの物だった。まだぎりぎりこの時のことは憶えている。<br> どうやら記憶の欠落は、古い新しいにかかわらず虫食いのようにランダムに進んでいるらしい。<br>  俺は立ち上がり、それを壁からはがして手に取る。<br>  心底そこ楽しそうな笑顔を見せるSOS団のメンバーに、この時はまだこんなに平和で楽しかったんだなと思う。<br> いや、つい十数時間前まではこんな感じだったはずなんだけどな。<br>  しばらくすると俺の記憶から、この事も消え失せるのだろう。ほどなくして、家族のことが分からなくなったように、<br> 長門・朝比奈さん・古泉――そして、ハルヒのことも忘れてしまうのだろうか。まるで俺の元から一人ずつ去っておくかのように<br> 消えてしまうのだろうか。<br>  ぽたっ。<br>  手に持っていた写真に水滴が落ちた。知らぬ間に、俺の目から止めどなく涙が流れ落ち始め、次々と写真をぬらしていく。<br>  <br>  ……忘れたくねえ、忘れたくねえよ。もうこれ以上誰のことも……<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br>  あたしはタクシーを飛ばし、ようやく目的地の図書館にたどり着いていた。もうすぐ夜21時になろうとしているが、<br> さんさんと施設の明かりがついているところを見ると、古泉くんがうまくやってくれたみたいね。<br> 「やあ涼宮さん、お待ちしていました」<br> 「ありがと、古泉くん」<br>  入り口で待っていた古泉くんと言葉を交わすと、あたしは図書館に駆け込んだ。<br>  さすが古泉くんと言ったところだろうか、図書館の全てが開放状態になっていて、どこでも本を取り出せる状態になっていた。<br> しかし、礼を述べている暇はない。今はとにかく情報をかき集めないと。<br> 「余り時間はありません。見るべきなのは医療関係のものでしょうから、そのカテゴリを集中的に探しましょう」<br> 「そうね」<br>  あたしと古泉くんは、医療の本が並んでいる場所に入り、一つずつ片っ端から開き始めた。<br> ただ、内容を一つ一つ読んでいる時間はとてもないから、とりあえずそれっぽい本の目次を見て、必要そうなところを<br> 洗い出していく。<br>  そんな作業をひたすら続けていたが、ふと時計を見てみるとすでに0時を回っていた。キョンが発病したのは<br> 大体15時ぐらいだったから、あと15時間ぐらいしか残っていないことになる。<br> 「これじゃ間に合わないわ。あたしは向こうの机で本を片っ端から読んでいくから、古泉くんはそれっぽい本があったら<br> じゃんじゃんこっちに持ってきて」<br> 「わかりました」<br>  古泉くんの了承を確認すると、床に置いた本の山を持って机に向かった。<br>  <br>  午前3時。あたしはすでに30冊以上の本に目を通していた。だけど、ダメ。治療法どころか、キョンの症状と<br> 一致する病気の情報すら見つからない。<br>  あたしは困り果てて、思わず天を仰いでしまった。あと、12時間しかないってのに、まだ手がかりすらつかめていない……<br> 「新しいのを見つけましたので、お持ちしました」<br>  そう古泉くんが10冊ほどの本をあたしのそばに置く。あたしは弱気になっている自分の頭を一回こづいてから、<br> その本を手に取った。<br>  この程度で参ってどうする。一番辛いのはキョンなのよ。あたしがしっかりしなくてどうする。<br>  と、ここで古泉くんがじっとあたしを見つめているのに気がついた。時間がないので、あたしは本に視線を向けたまま、<br> 「なに? 何かあったら教えて。どんな些細なことでもいいから」<br> 「いえ……」<br>  あたしの耳に返ってきたのは、ばつの悪そうな古泉くんの声だった。<br>  しばらく答えるべきか迷っていたようだが、やがて意を決したようにまじめな口調で、<br> 「涼宮さんに確認しておきたいことがあるんです」<br> 「なに?」<br> 「その……涼宮さんは恐らく心の底から彼のことを助けたいと思っているんですよね?」<br>  またその話か。病院でもみくるちゃんに聞かれたのに、いったい何だって言うの。あたしの心はもう決まっている。<br> 「それは十分承知しています。涼宮さんは彼を助けるためにはどんな努力も惜しまないでしょう。<br> その決意がどれだけ固いのかも理解しているつもりです」<br> 「ならどういう意味なのよ」<br>  ここであたしは古泉くんの言っていることの意図が読めず、一旦本から目を外し彼の方を見る。<br> 古泉くんはどこか困ったような表情を浮かべていた。<br> 「言い方を変えてみましょう。涼宮さんは彼をどうしたいのかと聞かれた場合、どう答えますか?」<br> 「どうって……そりゃ、キョンを助けたい。他に言葉なんてないわ。約束したんだもん、絶対に助けるって。<br> それ以上に出せる言葉なんてないし、それで十分のはずよ」<br> 「そう……ですか……」<br>  古泉くんの表情は、病院でみくるちゃんが見せた物と同じだった。何か期待していた答えと違うという落胆。<br> わけがわからない。一体二人はあたしに何を期待しているってのよ。<br> 「悪いけど、今はそんな話をしている場合じゃないわ。禅問答みたいなのはキョンを助けてからにしましょう。何か異論ある?」<br> 「いえ……」<br>  そう古泉くんは答えると、また本棚の方に戻った。<br>  <br>  あたしが気がついていないだけで、実はどこか気持ちの問題があるのかも知れない。だけど、それがどうしたというのか。<br> そんなこと、キョンが助かれば何の関係もないはずだ。今はとにかくそれに全力を尽くす。あたしにできるのはそれだけだ。<br>  <br>  翌朝7時。あたしたちは全ての本に目を通し終えた。<br>  だが、結局何の手がかりも見つかっていない。<br> 「ダメでしたね……」<br>  古泉くんは疲れ切った表情で、床に座り込んでいた。あたしも本ばかり読んでいたせいか、目がチカチカしているのを<br> 押さえ込むようにこすりつつ、<br> 「……まだよ、まだまだ! 消去法は決して無駄じゃない。図書館がダメなら次に行けばいい。それだけの事よ!」<br>  <br>  あたしたちは図書館を後にし、一旦部室に向かうことにした。<br>  まだ諦めてたまるか。絶対に何か方法があるはずよ。それを見つけてやるわ。<br>  <br>  <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br>  俺は朝日と物音に気がつき、目を開けた。<br>  昨日は団長席で写真を眺めていたのまで憶えていたが、どうやらそれのまま眠ってしまったらしい。<br> 頭を上げると頬にくっつていたハルヒの写真がへろりとはがれ、床に落ちていった。<br>  それをすっと誰かが手に取り、俺に差し出してくる。<br> 「落ちましたよ。大切な写真だからきちんと持っておかないとダメです」<br>  少し間延びしたような声。見れば、朝日も反射してしまうような美しく可愛らしい笑顔があった。<br> メイド服に身を包んだその人は、朝日をバックにまさに天使といってもいい神々しさを醸し出している。<br> 「昨日は大丈夫でしたか? 生徒会長の方には、僕の方から対応をお願いしておきましたので、<br> 恐らく何の問題もなかったと思うんですが」<br>  せっかくのエンジェル降臨を楽しんでいたというのに、優男のニヤケ声が俺の気分をぶちこわしてきやがった。<br> おいおい、せっかくだからもうちょっとエンジェルボイスの余韻に浸らせてくれよな。<br> 「涼宮さんは少し遅れてくるそうです。病気の進行を少しでも遅らせられればと、コンビニでサプリメントを買ってくると<br> 言っていました。昨日は一睡もしていないのに本当に大した体力ですよ」<br>  ハルヒの奴、得体の知れないドリンクや薬物を買ってきたりしないだろうな。そんなものを呑まされたら病状が加速しそうだぜ。<br>  部室にはすでに3人いた。唯一、俺に声をかけていない奴は無言のまま部室の入り口付近で俺の方をじっと見ている。<br>  やれやれ。これは一体どうしたことか。<br>  俺は一番近くにいた天使降臨な少女を呼び止め、<br> 「またハルヒが何かやらかしましたか? そうでもなければ、こんなへんぴなところにある文芸部室なんかに<br> 来たりはしないでしょう。人手不足とかいってその辺りに歩いている人間をとっつかまえて、強引に勧誘したんでしょうけど」<br> 「えっ……?」<br>  その可憐な少女の表情が困惑にゆがんでしまった。いかん、何かまずいことをいっちまったか?<br>  少女は無理に取り繕ったような笑顔を俺に見せ、<br> 「や、やだなぁ。キョンくん、冗談が過ぎますよ。あたしは朝比奈みくる、いつもここにいたじゃないですか」<br> 「はい?」<br>  何を言っているんだ、この少女は。こんな超絶美少女がいたら、SOS団に俺は喜んで参加しているぞ。<br> 大方が俺がハルヒの奴に引っ張り回されるだけだからな、ここの活動は。<br>  ……しかし、朝比奈みくるさんか。いい名前だ。<br> 「えっと、まだ寝ぼけているみたいですね。目覚ましに良いお茶を買ってきたから、すぐにそれを入れますね」<br>  そう言って手慣れた手つきでお茶を入れる準備を始めた。待て待て、お客さんにそんなことをやらせるわけにはいかないだろう。<br> 「ちょっと待ってください。お茶なら俺が入れますよ。せっかく来てもらったってのに、それじゃ立場が逆じゃないですか」<br> 「いいんですっ……良いから、あたしにやらせてくださいっ……!」<br>  そうそのエンジェル少女は俺の言葉にとりつく島もない。<br>  ほどなくして、お茶を入れ終えた少女はお盆に湯飲みを乗せ、俺に差し出してくる。仕方がない。<br> せっかく入れてくださったんだから、ここは素直にごちそうになりますよ。<br>  俺はその熱々だが、喉を通すには熱すぎない絶妙なバランスの保たれたお茶をすすり始める。<br> これはうまい。俺が適当に入れたお茶とはまさに天と地の差だ。冗談抜きでSOS団の入って欲しくなってきたぞ。<br>  とはいえ、ハルヒの強引な勧誘に俺が乗っかるわけにも行かないので、お茶を飲み終えるとその少女に深々と頭を下げつつ、<br> 「ハルヒに変わって謝ります。こんな朝っぱらにそんなけったいな服装で部室に来させるなんて非常識にもほどがありますからね。<br> 最近は大人しくなってほっとしていたんですが、また調子に乗りだしたみたいだから一つ言い聞かせておきますよ――」<br>  がたん。<br>  突如、その少女は手に持っていたお盆を床に落とした。そして、それを拾おうともせず……<br>  今度は部室中に、まるで小学生になるまえの子供が泣くような泣き声が響き渡る。<br> その少女がどでかい声を上げて泣き始めたのだ。<br>  俺は突然のことに気が動転し、近くでこっちを見ているだけだった優男の方に近づいて、<br> 「お、おい、俺ひょっとして何かまずいことをいっちまったのか。すまねえ、妙な病気にかかっているせいで、<br> ちょっと記憶が混乱しているんだ」<br>  ――自分の言葉で思い出した。そうだ、俺は記憶と意識が徐々になくなっている病気にかかっているんだ。<br> 何でこんな重要なことを忘れていたんだ? そうなるとまさか今ここにいる人たちは……<br>  あたふたとする俺に、その男は答えようともせず目頭を強く押さえ、そのまま壁に寄りかかってしまった。<br>  少女はひたすら泣き続けるだけだったが、優男の方はようやく口を開き、<br> 「……覚悟はしていたつもりですが、この現実はあんまりです……いえ、あなたは何も悪くないんですよ。<br> 全部、あなたを蝕む病気が悪いんです……」<br>  苦悩に満ちたうめき声のような言葉を吐いてきた。<br>  俺はさらに混乱を加速させてしまったが、さっき泣いている少女から返してもらった写真を見て、ようやく事態が飲み込めた。<br>  そこにはどこかの海辺で泣いている少女・優男・じっと見つめるだけの無表情少女が映っていた。<br> 全員水着姿で楽しそうに微笑んでいる。<br>  ……そうか、俺はこの人たちのことをわすれちまったんだな。このくそったれな病気のせいで。<br>  俺は軽く頭を抱えつつ、<br> 「すまない。どうやら全員SOS団のメンバーみたいだな。俺がすっかり忘れちまった……だけで」<br> 「キョンくんっ! 本当に憶えていないんですかっ!? あんなに一緒に……ずっと!」<br>  泣いていた少女が俺の胸に飛び込んでくる。うれしさよりも罪悪感の方が強く募った。こんな事をされても、<br> 俺はこの少女に対する感覚・記憶ともに何も呼び起こされないからだ。<br> 「すいません。写真を見る限り、一緒にいたのはわかりますが、俺自身はもう……」<br>  少女は、俺の言葉に床に崩れ落ちて泣きじゃくり始めた。<br>  何もできない。何もして上げられない。<br>  そして、何もしてあげようと言う気にもならなかった。人間らしい感情も酷く欠落しているのか。<br>  今ならまだはっきりと認識できる。俺は着実に死に向かって進んでいるってな。<br>  ほどなくして、優男が少女を抱きかかえるように立たせ、椅子へ導く。しばらく子供をあやすように少女に何か話しかけていた。<br>  ようやく徐々に落ち着きを取り戻した少女を確認すると、その優男は俺の元にやってきて、<br> 「状況を確認したいんですが、いいですか」<br> 「……あ、ああ」<br>  そいつはメモ帳を取り出し、<br> 「まずここはどこですか?」<br> 「SOS団の部室だ。元々は文芸部の物だったけどな」<br> 「なら文芸部員は一人だけいましたが、誰だかわかりますか?」<br> 「ん……すまん、憶えていない」<br> 「では、今この部屋にいるあなた以外の人で、憶えている方はいますか?」<br> 「さっきも言ったが、誰も知らない――思い出せない」<br> 「ならば、このSOS団の団長は?」<br> 「それは忘れたくても忘れないだろうな、我らが団長涼宮ハルヒ様だよ」<br>  この答えに優男ははっとして、<br> 「涼宮さん、涼宮さんのことは分かるんですか?」<br> 「ああ、あいつのことならはっきりと憶えているぞ。それはもう入学式にぶっ飛んだ自己紹介をした時から、<br> 昨日散々励ましてくれたことまでな」<br>  俺が今言ったとおりでハルヒのことだけは、鮮明に記憶が残っていた。今記憶の糸をほじっても、ハルヒのことばかり<br> 脳裏にかすめてくる。<br>  ここで、ずっと黙ったまま俺を見つめていた無表情少女が俺に近づいてきた。そして、俺の両腕をつかむと、<br> 「聞いて。突破口が見えたかも知れない」<br>  ……どういうことだ?<br>  その無表情少女は瞬き一つしない瞳で俺を見つめながら続ける。<br> 「わたしたちは記憶から消去されるほどプログラムによる浸食が続いているが、それでも涼宮ハルヒの事だけは<br> はっきりと憶えているのはあまりに不自然。涼宮ハルヒが情報フレアを発生させ、あなたに干渉を行っているとしか<br> 考えられない」<br> 「悪い。思考能力も落ちているみたいだから、わかりやすくいってくれ」<br>  頭の中が飽和状態のようになっているせいか、まともに考えられない。無表情少女はしばらく黙っていたが、<br> 「プログラムの浸食を涼宮ハルヒは止めることができるかも知れない」<br> 「つまり、ハルヒがあの神的変態パワーを使えば、俺を助けられるってのか?」<br> 「そう」<br>  俺は後頭部をかきながら、<br> 「だが、どうしろってんだ。今からお前には凄い力があって――なんて説明しても信じるような奴じゃないぞ。<br> それに、あいつが願って俺が助かるっていうなら、とっくに助かっているはずだ。あいつの思い――俺を助けたいっていう気持ちは<br> 鈍い俺だって強く感じ取っているからな」<br> 「恐らく涼宮ハルヒの介入はプログラム内部で想定されていて、対抗措置が執られている。<br> だから、それを越える形で涼宮ハルヒがあなたの生存を願わなければ、効果はない」<br>  助けたい以上の願い? なんだそりゃ、俺も思いつかないぞ。<br>  だが、無表情少女の言葉に、エンジェル少女と優男がはっと気がついたように顔を上げる。<br> 「あとは涼宮ハルヒにかけるしかない。彼女があなたをどうしたいのか、それを認識できるかが鍵となる」<br>  ――そう無表情少女が言い切ったタイミングでハルヒが部室に現れた。<br> 「ごめん、遅くなったわ!」<br>  両手には山のようなコンビニの袋を抱えている。おいおい、どれだけ買ってきたんだよ。<br> 「この際何でも買ってきたわ。贅沢いっている場合じゃないもんね。ほら、ビタミンとか亜鉛も大量に買ってきたわよ。<br> 今すぐ残らず食べなさい」<br> 「ちょっと待て。そんなチャンポンで喰ったら、別の病気でしんじまいそうだぞ」<br>  ハルヒはコップに複数のサプリをじゃらじゃらと詰め込みながら、<br> 「あんたの病気は一筋縄ではいかない、非常識な物なのよ! だったらこっちも非常識で対抗するしかないわ。<br> ほら、どんどん食べなさい。みくるちゃん、手伝ってあげて」<br>  そう呼ばれたエンジェル少女が俺に来て、ハルヒの手伝いを始める。<br>  その間に、優男がメモ帳片手にハルヒと話し始めた。一言一言を聞くたびに顔色が変わっていくのは、<br> 俺がハルヒ以外のSOS団のことをすっかり忘れてしまったことを聞いているからだろう。<br>  ――次にハルヒがとった行動は、ある意味必然でハルヒらしかった。<br>  パアァンと気持ちのいいほどに、ハルヒが俺の頬をひっぱたいた音が部室内をこだまする。<br> 「あんた……あんたって奴は……!」<br>  続いて、俺のネクタイを締め上げ、<br> 「どれだけみんながんばっているかわかってんの!? なのにあんたはホイホイと病気に任せて何でもかんでも忘れて!<br> キョンを助ける、キョンを助けたいの! だから、あんたも少しはがんばってよ!」<br> 「やめてくださいぃ!」<br>  ここでエンジェル少女――ああ、朝比奈さんだったな――が俺とハルヒの間に割って入ってきた。<br> 激高しているハルヒを盛んになだめようとしている。<br>  だが、ひっぱたかれても罵られても、俺は怒りどころか反論すらわき起こってこなかった。<br>  俺は朝比奈さんの肩をつかむと、<br> 「いいですよ。ハルヒの言っていることは事実ですから。俺がこんなんだから、病気が簡単に進行――っ」<br>  突然――俺の周りの世界が回転した。まるで回転型の絶叫マシンに乗ったかのように足下と視界がふらつき、<br> そのまま床に倒れ込む。<br> 「キョンっ!」<br>  そのまま頭から落下しそうになるが、すんでの所でハルヒがキャッチしてくれたおかげで難を逃れる。<br> しかし、強烈なめまいは収まる気配を見せず、もう立つことすらままならない。<br> 「ああっ……どうしよう。ごめん、キョン。あたし、バカなことしちゃった。ごめん、本当にごめんなさい!」<br>  ひっぱたたいたことについてだろう、ハルヒはしきりに謝罪の言葉を並べた。<br> だが、俺はハルヒを責める気なんて全く起きず、揺れる視界のなか、ハルヒの頬にすっと手を当てる。<br> 「いいんだ。気にするなよ。お前は悪くないさ。あっさり忘れちまう根性なしの俺が悪いんだよ……」<br> 「キョン……!」<br>  ハルヒは痛いくらいにぎゅっと俺の頭を抱きしめてきた。かすかに触れた肌を通して、活発に動くハルヒの心臓の鼓動が<br> 俺にまで伝わってくる。<br> 「助けてあげる――絶対に助けるから!」<br>  ハルヒはそう大声で俺に呼びかけた後、まるで周りに聞かれたくないのか、俺の耳元に口を寄せてきて、<br> 「どこまでもついていってあげる。だから安心して……」<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br>  午前8時。リミットまで残り9時間を切っている。<br>  あたしはみくるちゃんと古泉くんにキョンを託すと、有希と二人で街に出た。登校してくる生徒の逆送して走るあたしたちの姿を<br> 周りの人間が奇異の目で見てくるが気になんてしていられない。今日も平日だから授業はあるけど、<br> そんなものに出ている場合じゃないんだから。<br>  あたしはもう藁にもすがる思いだった。医者もダメ、図書館で調べてもダメ、こうなったら有希の知っている古本屋をめぐって<br> それっぽいものを探すしかない。神社で祈ったり、境界に駆け込んだりもしてみたらと頭を過ぎったけど、<br> それでキョンが直るとはとても思えないから止めた。今あたしがやらなければならないことは、<br> キョンを助ける方法を探すこと。祈っていても見つかるわけがない。<br>  幸いなことに有希は本好きだったので、たくさんの古本屋を知っていた。それこそ、魔術書まで置いてありそうな物まで<br> 置いてありそうな怪しげな店もあった。あと、昔あたしがいろいろ調べて回ったときに見つけていた、<br> 民間療法も治療薬を売っている店も廻って効果のありそうな物を手当たり次第に確保するつもりだ。<br>  駅前までつくと、あたしは有希を連れてタクシーに飛び乗った。とりあえず、メモを片手に行き先を運転手に指示する。<br>  時計を確認すると、もう午前8時20分になっていた。この調子だと廻れる店はかなり限られてくる。<br> 近場からどんどん目的地を潰して起きないと……<br>  と、有希があたしの方をじっと見ていることに気がつく。<br> 「なに? 有希」<br> 「一つ確認したいことがある」<br>  あたしはメモから目を離さず、口だけで答えた。<br>  有希は続ける。<br> 「あなたは彼のことをどう思っている?」<br> 「好きよ」<br>  何というかあっさりと本心が口に出てしまった――というか出てしまった。はっきり言ってしまえば、照れている余裕も<br> あたしにはないと言うことである。<br> 「キョンが好きだから助けたい。でなきゃ、ここまでやれないと思う。そう――あたしはキョンが好き。だから、助けたい」<br> 「わかった。それを聞いて安心した」<br>  そう有希は答えると、あたしから視線を外してじっと前を見つめ始めた。<br>  ……この子がこんな事を聞いてくるなんて。やはりキョンの死が近づいて酷く動揺しているんだろうか。<br>  <br>  まず一番近くにあった古本屋数軒を廻ってみたが、こぢんまりしているだけで、並んでいるのは大手の新古書店と<br> 大して変わらない本ばかり並んでいた。時間をかけている余裕もないので、軽く本のタイトルだけを見回すと、<br> また次の目的に向かう。<br> 「有希、もうちょっと変わったところはないの? こんなところじゃ図書館と大差ないわ」<br> 「少し離れた場所に、変わった本を集めているところがある。そこに行けばいい」<br>  そう言って、あたしが持っている地図を指さす。今の位置からかなり離れているところか。<br> それなら漢方薬とか売っている店を廻りつつ、そっちに向かった方が効率がいいか。<br>  ――だが、こんな時に限って問題が発生する。乗っていたタクシーが渋滞に捕まってしまったのだ。<br> 「裏道はないの!?」<br>  あたしはどうにか回避できないのかと訪ねるも、この周辺ではこの時間帯は局地的に渋滞が発生していて、<br> 例えここをうまくかわしても、他の場所で引っかかるだけらしい。なお目的地を記した地図を見せて食い下がったが、<br> 運転手が出した結論は至って簡単な物だった。あたしの行きたいところへ最も早く、かつたくさん廻るなら走った方が早いと。<br> <br>  あたしは運賃を払うと、タクシーから飛び出し一目散に走り出した。息を切らせながら、全速力で走ること10分、<br> 一番近くにあった薬を売る店に飛び込んだ。<br>  <br>  <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br>  あー、なん……だろ、か。頭が……ぼーっとしてきた。<br> 「古泉くん! キョンくんの様子が!」<br>  耳元で朝比奈さんの声が響く。しかし、それもまるでトンネルの中で話しているように、乱反射して聞こえてきた。<br>  しばらくして、古泉と呼ばれる優男が、不安げな表情で俺をのぞき込んできた。<br> 「大丈夫ですか? 何かしゃべれますか?」<br> 「う、あーううあーいいい……」<br>  俺の口は完全にろれつが回らなくなって来ていた。考えがまとまらない上に、まともにしゃべることもできなくなるとは。<br> いよいよ俺も終わりが近いらしい。<br> 「死なないでください! お願いだから死なないでっ」<br>  朝比奈さんが俺の頭をぎゅっと抱きしめてきた。全く俺は幸せ者だったんだな。<br> こんな人と一緒にずっと高校生活を送っていたんだから。<br>  次第に視界も濁り始めた。もう二人の顔もまともに見えなくなってきている。<br>  ……ハルヒ。もう俺はダメだよ。せめて最期にお前の顔は拝んでおきたい。だから、もう諦めて帰ってきてくれ……<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br> 「そう……わかった。できるだけ早く戻る」<br>  あたしは古泉くんからの連絡を聞き終えて、携帯電話を閉じる。<br>  キョンの状態が限界に達しつつある。今は午前12時半。タイムリミットは3時間を切っていた。<br> しかし、目的の半分しか廻れていない上に、手に入った物と言えば適当に買いあさった漢方薬だけの状態だ。<br>  古泉くんは電話の中でこういっていた。<br>  キョンはあたしに会いたがっていると。少しでも顔を見たいと。<br> 「…………っ!」<br>  あたしはどうすればいいのか分からず、ただ無我夢中に走り出した。心臓が破裂するほどになっても足は止まらず、<br> 肺は悲鳴を上げて酸素を求め続けている。<br>  嫌だ。キョンに死んで欲しくない。<br>  でも、このまま街中をさまよっていてももう解決策が見つかるとは思えない。<br>  でも、ここで部室に戻ってもただキョンの死んでいく姿を見続けるだけになる。<br>  <br>  あたしは……あたしはどうすればいいのよ!<br>  <br>  ――ふいに、限界に達した足がもつれ、アスファルトの道路の上を転がるように倒れ込んだ。<br> 全身に強烈な痛みが走り、全神経にしびれが駆け抜けていく。<br>  全身の酸素も足りないせいか、あたしは道路の上に突っ伏したまましばらく動けなくなった。<br>  ほどなくして、あたしが倒れたのと見た野次馬たちがあたしを取り囲み始める。<br>  あたしはある程度呼吸が落ち着いたことを感じると、すぐさま立ち上がろうとした――が足に来ているらしく、<br> 全く立ち上がることができない。<br>  と、ここで遅れてきた有希があたしの肩に手をかけ、<br> 「手を貸す。立って」<br> 「あ、ありがと……」<br>  あたしは有希と二人三脚のように歩き出した。周りの野次馬たちも、無事を確認したのか次第に散っていく。<br>  そのまま数十メートル歩いたところで、有希が突然立ち止まった。そして、あたしをじっと見て、<br> 「部室に戻ることを推奨する」<br> 「なにバカなこと言ってんのよ。今戻ったって何もできることがないじゃない!」<br>  帰るならせめて手がかりだけでも見つけたかった。そうでなければ、必ず助けるというキョンとの約束を破ることになる。<br>  だけど、有希は迷いのない口調で言った。<br> 「このまま探しても手がかりが見つかるとは思えない。このままではあなたは彼の生きている姿を見ることなく、<br> 別れを迎えることになってしまう。そうなればあなたはきっと後悔する。それに」<br>  ――ここで一拍置いて――<br> 「彼の最期を見届けるのはあなたしかできない。わたしはあなたがそうするべきだと思っている」<br>  あたしは有希の言葉に反論できなかった。<br>  はっきり言ってしまえば、もうこれ以上街中をさまよったところで無駄だろう。ただの自己満足的な行為になってしまう。<br> 例え手がかりが見つかったとしても、今からでは準備ができるとは思えない。突然、空から万能薬が降ってきて<br> キョンがそれを飲んだらたちまち直ったなんて言うことにはなるわけがない。<br>  それに本音を言えば、あたしはキョンと一緒にいたかった。これ以上離ればなれになっているのは耐え難くなってきている。<br> このまま最期まで逢えないという事態になれば……<br>  アスファルトの乾いた地面に多数の水滴が落ちる。気がつけば、いつの間にか空は真っ黒に染まり、夕立がやってきていた。<br> その中の水滴にあたしの涙も混じって、地面に叩きつけられる。<br>  あたし……何もできなかった。キョンがあんなになっているのに、なにもできなかった……!<br> 「近くでタクシーを拾う。迂回していけば20分で部室まで戻れるはず」<br>  有希の言葉にあたしはただ黙って頷くことしかできなかった。<br>  <br>  猛烈に続く土砂降りの中、あたしたちは屋根付きのタクシー乗り場にたどり着き、そこでタクシーがやってくるのを待つ。<br>  あたしはどうしようもない喪失感に染まり、有希の肩にしがみついたまま動けなかった。<br>  辺りはまるで夜のようになり、自動車のライトがあたしたちを照らしていく。<br>  ふと思い出す。みくるちゃんと古泉くんが言っていたことだ。 あたしはまだキョンに対して<br> 何か遠慮しているところがあると言っていた。わからない。あたしはキョンが好きであることも認めているし、<br> 助けたいというのは嘘のかけらもない心の底からの願いだ。なら、あたしに足りない物はなに?<br> 「わたしも古泉一樹や朝比奈みくると同じ気持ちを持っている。彼に対して決定的に足りない何かがあなたにはある」<br>  まるであたしの心を読んだかのように、有希がしゃべり出した。<br>  足りない物。わかんないよ、有希。あたしの一体どこがいけないって言うの?<br> 「あなたの彼に対する感情は全く問題ない。助けたいという気持ち、好きであるという愛情、どれをとっても固く強いもの。<br> 過不足なく最良の感情を形成している」<br> 「……ならいいじゃない。それがあたしの気持ちなんだから」<br> 「それは違う。あなたはまだ到達できていない部分がある。その原因は恥ずかしさから来るものなのかもしれないし、<br> 自分に対して――彼に対して遠慮しているからかも知れない。具体的なことはわたしにはわからない。<br> しかし、確実に言えることはあなたはもう一歩踏み出だせることに気がついていない」<br>  あと一歩。好き、助けたい。この先がまだある……?<br>  有希は続ける。<br> 「これはわたしの推測。あなたはずっと彼に対して奇跡が起きることを望んでいた。<br> でも、あなたはその先が見えていないように感じる。奇跡の向こう側に存在しているものが」<br>  <br>  ――奇跡の先にある……もの?<br>  <br>  <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br>  あー、あはーははーハルーヒ、ハルー……<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br>  あたしは部室に戻ってキョンの変わり果てた姿を見て、思わず床に膝をついてしまった。<br>  顔面蒼白になり、目は明後日の方を向き、口からはだらだらとだらしなくよだれが垂れている。<br> 「あ……ああ!」<br>  あたしは無我夢中で飛びつくようにキョンを抱きかかえた。<br>  ごめん……こんなになるまで何もできなくて!<br> 「ごめんなさい。いろいろ手を尽くしたんですけど、あたしにはなにも……」<br>  そうキョンのそばでずっと看てくれていたみくるちゃん。ううん、もう十分よ。ありがと。<br> あとはあたしがキョンのそばにいるから。みくるちゃんは少し休んで。<br>  すでに時間は午後13時半を廻っていた。あと2時間半でキョンの命は尽き果てることになる。<br>  ……だけどもう打つ手はなくなった。少なくともあたしがここに戻ってきた時点で、キョンが助かる見込みはなくなった。<br> いや、最初から助けられる可能性なんて存在していなかったのかも知れない。あたしはただ自分を納得させるためだけに<br> 街中を走り回っていただけで。<br>  <br>  嫌な沈黙が流れる。時計が針を刻む音が耳につき、それがあたしの喪失感をじわりじわりと広げていった。<br>  誰もなにも言葉を口にしない。<br>  <br> 「あー、あハルはるひ……?」<br>  唐突にキョンがあたしを見て口を開いた。たどたどしく、もう言葉として成り立っていない<br> 「なに? キョン。大丈夫、あたしはそばにいるから大丈夫……」<br> 「かか、かえ、かえ……って……き……くれ……た」<br>  キョンはあたしの腕をつかみ、たどたどしい言葉を重ねる。次第にその手の力が入ってくるのを感じると、<br> まだキョンのあたしのことを憶えていてくれていることを感じ取り――たまらなくなった。<br> 「帰ってきたよ。もうどこにも行かないから大丈夫……ずっとあんたのそばにいるから……!」<br>  あたしは思わず強くキョンの頭を抱きしめ、止めどなく涙を流した。<br>  <br>  助けられない。<br>  約束を守れなかった。<br>  キョンはこんなになってもあたしを見て……信じてくれている。<br>  でも、あたしは何もできない……<br>  <br>  <br>  ふと、あたしの脳裏にあることが過ぎった。<br>  あたしにできること。<br>  最後にできること。<br>  それは……<br>  <br>  <br>  唐突に校内放送が流れ、有希、みくるちゃん、古泉くんの名前が呼ばれ、職員室へ来るように指示が出る。<br>  3人とも微動だにせず、じっと黙ったままうつむいていたが、<br> 「……大丈夫。キョンはあたしが看ているから行ってきて。向こうからこっちにやってこられて、<br> こんなキョンを教師たちが見つけたら大騒ぎになるから」<br>  あたしは3人にそう告げると、ほどなくして部室から出て行った。<br>  <br>  しばらくして、3人が戻ってこないことを確かめると、あたしはキョンを背負い部室から出る。<br> 「あー、ああ……」<br> 「大丈夫よ。ちょっと場所を変えるだけだから」<br>  そう言ってキョンを安心させると、人目につかないように学校から外に出る。<br> そのまま平日昼であまり人通りのない坂道を降りていった。雨は上がったものの、未だに薄暗い空は<br> まるで虚脱感で真っ黒に塗りつぶされたあたしの心を表しているかのようだった。<br>  <br>  ……一緒よ、キョン。絶対にあんたを一人で逝かせたりしないから……<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br>  午後2時半。あと30分でキョンはこの世からいなくなってしまうだろう。<br>  <br>  あたしはキョンを背負ったまま、数十階の高層ビルの屋上に立っていた。北高からタクシーで<br> 一時間ぐらいの場所にある新築のものだ。別にここを目指していたわけではなかったが、街中をさまよっているときに<br> ふとこの高層ビルが目にとまったからここを選んだだけである。警備員やビル関係者に見つかるかと思ったが、<br> 幸いなことに誰一人としてあたしの姿を気にとめる人はいなかった。まるであたしたちの姿が見えないのかと思ったぐらいだ。<br>  夕立の湿気の篭もった冷たく強い風が自分の身体を叩きつけてくる。<br> 「あーあー」<br>  キョンはたまに声を上げるが、完全にものを言えなくなってしまっていた。たまに思い出したようにうなり声を上げるだけだ。<br> 意識が混濁しているのか、あたしに背負われているということすらわからないらしい。<br> 「あんたと出会ってからいろいろあったわね……」<br>  あたしの脳裏に様々な思い出が過ぎる。<br>  <br>  北高に入学した初日に見たあんた。<br>  あたしの自己紹介に唖然としてマヌケな顔をこっちに向けていたわね。<br>  <br>  あんたがあたしの髪型の変え方を見抜いたとき。<br>  正直ちょっと悔しかった。前の席に座っていたからといって、ただの凡人のあんたに見破られたんだから。<br>  <br>  SOS団設立のきっかけをキョンがくれたとき。<br>  当時は余り考えなかったけど、今では凄く感謝している。あれがなければ、あたしは中学のときと同じ状態だったと思うから。<br>  <br>  それからはいろんなことをした。<br>  野球もした。<br>  七夕もした。ついでにコンピ研の部長も探したっけ。<br>  合宿で孤島にも行ったわね。あれは古泉くんにしてやられたわ。やり返してやったけど。<br>  夏休みの終わりはこれでもかってぐらいに遊んだ。<br>  映画の撮影もした。あれは……ごめん、ちょっと調子に乗りすぎたかも。<br>  文化祭で歌うことになるとは思っていなかったわ。でも、結構気持ちよく歌えたからいいけどね。<br>  コンピ研とゲーム対決して。<br>  ラグビーを見に行って。<br>  冬は……<br>  <br>  <br>  今までのことを思い出していくたびに、瞳から流れる涙の量が増大していく。もうぬぐう必要も感じない。<br>  <br>  あたしは時計で時間を確認する。午後2時55分。思い出に浸っていたら、もうこんな時間になっていた。<br> すぐにキョンを背中から降ろし、抱えるようにして屋上の縁の部分に立った。真下には細い路地が通っている。<br> 人通りも全くなく、自動車も走っていない。誰かにぶつかってしまうことはないだろう。<br> 「あ、あー」<br>  下を見つめていたあたしに、キョンが手をかけてきた。あたしの顔を確かめるように頬をなで回してくる。<br>  あたしはとびっきりの笑顔を作って、<br> 「大丈夫よ、キョン。あたしはここにいる。この高さならどうやってもたすかりっこないわ」<br>  涙が瞳の中に溢れかえり、キョンの顔がゆがんで見える。瞬き一つするたびに、水滴が飛散することを感じた。<br>  あたしはキョンをぎゅっと抱きしめると、<br> 「一緒に逝こう……キョン」<br>  そう言って空中に身を投げた――<br>  <br>  <br> ▽▽▽▽▽<br>  <br>  ゆっくりと落下感が加速し始めるのを感じたとき、あたしの脳裏にあの言葉が過ぎった。<br>  <br>  みくるちゃんが言った。<br>  あたしがまだキョンに対して何か遠慮しているのではないかと。<br>  <br>  古泉くんが聞いてきた<br>  あたしはキョンをどうしたいのかと。助けたいと素直に答えたら落胆した表情を浮かべていた。<br>  <br>  有希が言った。<br>  あたしの思いはまだ到達できていない部分があると。<br>  <br>  <br>  最期まで分からなかった。<br>  あたしはキョンが好き。<br>  あたしはキョンに生きて欲しい。<br>  生きてくれれば、またSOS団して楽しくやっていけるから<br>  死んでしまえば、もうあのキョンのいる楽しい生活は戻ってこないから。<br>  <br>  なにが問題だったのだろう。<br>  なにが足りなかったんだろう。<br>  <br>  ――不意に有希の言葉が脳裏に蘇る。<br>  <br> 「これはわたしの推測。あなたはずっと彼に対して奇跡が起きることを望んでいた。<br> でも、あなたはその先が見えていないように感じる。奇跡の向こう側に存在しているものが」<br>  <br>  <br>  奇跡の先にあるもの。<br>  奇跡って言うのはキョンが生き延びるってことよね。<br>  じゃあ、その先になにがある?<br>  <br>  奇跡が起これば、続きができる。<br>  だから、奇跡が起こって欲しい。<br>  だから――<br>  <br>  <br>  <br>  ――あたしの思考がはじけた。<br>  <br>  あたしは……<br>  本当にバカだ……<br>  こんな時になるまで気が付けないなんて本当にバカだ……<br>  <br>  <br>  あたしはずっとキョンが生きて欲しいことばかり考えていた。<br>  キョンが生きてくれれば、結果としてまだまだキョンと一緒にいられる。<br>  SOS団として楽しく生きていける。<br>  <br>  でもそれは違う。<br>  間違っている訳じゃないけど、あたしの本心じゃない。<br>  <br>  あたしは何を望んでいる?<br>  あたしは何を望んでいるから、奇跡が起こって欲しい?<br>  あたしは何を望んでいるから、キョンに生きて欲しい?<br>  <br>  答えなさい、あたし!<br>  <br>  <br>  ――ゆっくりと身体が降下していくのを感じた――<br>  <br>  <br>  ……一緒にいたいから。<br>  <br>  キョンとずっと一緒にいたい!<br>  <br>  あたしの前の席に座っていて欲しい。<br>  部室でぶーたら文句を言っていて欲しい。<br>  不思議探検でどこかでこっそりとさぼっていて欲しい。<br>  あの中途半端な笑みを見たい。<br>  あたしの無理難題に文句を言って欲しい。<br>  <br>  それだけじゃない。<br>  <br>  ずっとそばに立っていて欲しい。<br>  その内キスもしたい。<br>  キスしてほしい。<br>  抱きしめられたい。<br>  抱きしめてあげたい。<br>  <br>  キョンと一緒に、またみんなで孤島に行きたい。<br>  キョンと一緒に、またみんなで映画を撮りたい。<br>  キョンと一緒に、またみんなで文化祭を楽しみたい。<br>  キョンと一緒に、また遠くに行きたい。<br>  <br>  <br>  キョンがいなきゃダメなの!<br>  <br>  だから!<br>  <br>  お願い!<br>  <br>  <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br> 「――生きて!」<br>  俺の頭に、ハルヒの声がはじけた。<br>  どこからか吹き付けられる風が、痛みを憶えるほどに俺の全身にまとわりついてきている。<br>  <br>  ゆっくりと目を開けてみる。<br>  目の前にはなぜか涙が上に飛んでいくハルヒのドアップがあった。<br>  その顔は涙でぐしゃぐしゃになってしまっている。<br>  で、俺が真っ先に口に開いたのはこれ。<br> 「……なんて顔してんだ、お前は」<br>  俺に言葉に、ハルヒは反発して睨みつけてくるかと思ったが、逆に信じられないほどの笑顔入りの感激の表情に様変わりし、<br> 「キョン……キョン……!」<br>  そう言って俺の胸元に、抱きついてきた。<br>  ああ、もう状況が分からん。なんなんだこれは。だれか説明してくれ。<br>  ――って、今更気がついたんだが、俺たちもしかして落ちているのか!?<br>  俺が素っ頓狂な声を上げると、ハルヒはおずおずとこちらを見上げて、<br> 「ご、ごめん、ちょっと早まっちゃった……」<br>  そう反省しきりのハルヒ。<br>  おいおい、勘弁してくれ。じりじりと地面が近づいてきているぞ。あと十数秒で三途の川に落ちちまう。<br>  だが、何となく見上げた上空を見て、俺はほっと胸をなで下ろした。<br> 「あー、でも大丈夫だな。さすがはSOS団副団長様だよ」<br> 「え?」<br>  ハルヒがきょとんしたタイミングで俺たちの落下速度が大幅に落ちる。上空から降りてきた古泉が、<br> 俺の身体をつかんでパラシュートを開いたのだ。<br> 「……ぎりぎりでしたね。さすがにちょっと肝を冷やしましたよ」<br>  古泉がはにかんだニヤケ顔を浮かべてくる。顔が近くて気色悪いが、まあ、今日は勘弁してやるか。<br>  ほどなくして、地上の方で騒ぎが起こる。オフィスの窓や通行人たちが俺たちを指さして、何事かと言っているようだ。<br> そりゃ、いきなり高層ビルの屋上から人が落ちてきて、さらにパラシュートが開けば目立つだろうからな。<br>  古泉は器用にパラシュートの進行方向を操作して、できるだけ人気のない方に向かって移動を始める。<br> 「全くこんな大騒ぎを起こして、機関だけではもみ消すのは困難ですね。長門さんに助力を願わないと」<br> 「おい、ハルヒがいるそばでその話は……」<br>  俺が焦って古泉の口を止めようとするが、逆に古泉は俺の胸元のハルヒを指さしてきた。<br> 見れば、さっきまでの泣き顔はどこへやら、幸せそうな顔ですーすーとハルヒが寝息を立てている。<br>  俺はしっかりとハルヒを抱きかかえると、<br> 「全く……こいつは人をこんなところに突き落としておいて……」<br> 「涼宮さんはあなたのために徹夜で走り回っていたんですよ。まさか忘れたと言いませんよね?」<br> 「言われんでもわかっているさ、そんなことは」<br>  ついふてくされたように返す俺に、古泉は素直になったらどうです?と苦笑を浮かべる。ええい、無視だ無視。<br>  俺の顔に太陽光が当てられる。見れば、分厚い雲の隙間から徐々に光が差し込み始めていた。<br>  ふと、俺は思いつき、<br> 「なあ古泉。お前ハルヒを付けていたのか? でなけりゃ、こんなタイミングで俺たちを助けられないだろ?」<br> 「ええ、涼宮さんとあなたが部室から姿を消したときは卒倒しそうになりましたが、何とか再発見できましてね。<br> いやあ準備もぎりぎりでしたよ。高層ビルに入る姿を発見したとき、これはもう飛び降りしかないと思い、<br> あわててパラシュートの準備をしてもらいましたからね。昔にちょっと機関の訓練絡みでやった経験がこんなところで<br> 役に立つとは」<br>  お前の自慢話なんてどうでもいい。俺が聞きたいのは一つだけだ。<br> 「もし――もしもの話だが、俺が復活しなかったら、ハルヒを助けたのか?」<br> 「……さあ、どうでしょうか? きっとその時僕が感じたままに動くと思いますよ」<br>  そう俺の問いかけをはぐらかして、苦笑を浮かべるだけだった。<br>  <br>  <br> ▼▼▼▼▼<br>  <br> 「で、何で俺は助かったんだ?」<br>  俺は病院のベッドで、見舞いに来ていた長門に尋ねる。<br>  その後、どうにかして現場を逃げ出した俺たちは、そのまま病院に直行することになった。<br> 危機的状況は脱したとは言え、まだどこかに悪いところがあるかも知れないということで、現代医療の先端技術を駆使した<br> 検査を片っ端から受けさせられ、その後には能力が戻った長門による未知の病原体・何とかプログラムが<br> 残っていないかの検査も受けた。<br>  結果はオールグリーン。俺は至って健康体であるということだ。やれやれ、ようやく一件落着か。<br>  ただ、体力的な問題や念には念を入れてと言うことで、数日入院することになった。翌日、ようやく連絡の取れたオフクロ達も<br> ついさっき見舞いに来たところだ。変な物を喰って食中毒になったということにしているが。<br>  その後、朝比奈さん・古泉が見舞いにして、それと入れ替わりで長門がやってきた。で、俺はせっかくなんで、<br> ハルヒの奴がどうやって俺を救ったのか聞いてみることにした。<br>  長門は首を少しだけ傾け、しばらく考える素振りを見せた後、<br> 「抽象的な話になる。また事実ではなく推測でしかない。それでもいい?」<br> 「構わん。教えてくれ」<br>  俺の了承を確認すると、長門は続ける。<br> 「あなたを蝕んだ破壊プログラムはあなたの生命活動を奪うという、その一点のみを狙った。<br> その点を標的にあなたの時系列的存在存続を切断するという手段。同様に涼宮ハルヒも途中までは<br> あなたの生命活動が存続して欲しいという一点のみを願い続けた。点の消滅を避けようとしていた。<br> だが、それを予測していた破壊プログラムはそれを受け付けないように細工されていたと思われる」<br>  何が変わって、俺は助かったんだ?<br> 「涼宮ハルヒは、最後にあなたに未来があること願った。それは点ではなく線となる。破壊プログラムが点を抜き去ろうとした<br> 点に対して、涼宮ハルヒはその上から線を引いた」<br>  本当に抽象的な話だな、おい。<br> 「現段階に置いても涼宮ハルヒの情報創造能力の詳細は不明。これはわたしの推測に過ぎない話。<br> だが、彼女があなたとともに先に進む――あなたが助かるという奇跡の先の存在に気がついたのは否定できない事実」<br>  なるほどね……<br>  ところでこんなふざけたことを仕掛けた奴は一体どこの誰なんだ?<br>  長門は少しうつむき加減になり、<br> 「情報統合思念体はわたしに情報操作能力を復元させた後でも、何も教えようとはしない。<br> しかし、有機生命体の死を点でしか捉えられないことを考えれば、仕掛けたのは情報統合思念体に他ならないと思う。<br> 急進派が仕掛けたのか、主流派が考えを変えたのか。それとも別の意志が働いたのか。どちらにしても<br> わたしがそれを知るすべはない」<br>  長門の口が少しだけ重くなっていることに、俺は責任を感じていることを感じ取って、<br> 「気にすんなって。お前を責めるどころか、責任があるとすら思ってねえよ。はっきり言わせてもらうが、<br> お前とお前のパトロンは完全に別物だ。俺の中ではな」<br>  長門はこくりと頷く。ありがとうという感謝のサインだろう。<br>  しかし、ハルヒが俺の未来を願うとはね。全くハルヒはまだ俺を引っ張り回したりないってのかよ。<br> どんだけ突っ走ればこいつは止まるんだか。<br> 「今度はあなたが気がついていない」<br>  はい?<br> 「何でもない」<br>  唐突にかけられた長門の言葉の意味が分からず間の抜けた声を上げる俺だったが、長門はそれ以上語ろうとしなかった。<br>  しばらくして、長門はすっと立ち上がると、<br> 「帰る」<br>  そう言って外に出て行こうとする。俺は待てよ、と声を上げて、<br> 「いろいろ心配かけちまったな。ありがとよ」<br> 「わたしは何もしていない。お礼を述べるなら、涼宮ハルヒに言うべき」<br>  そう言って俺の寝ているベッドのすぐ横を指さす。<br>  <br>  そこには寝袋にくるまったハルヒの姿があった。幸せそうな笑顔で寝息を立てている。<br> まあ、なんだ。冬に入院したときと同じってことさ。俺が回復するまでここで一緒に寝泊まりするんだと。<br>  俺はすっとハルヒの頬に手を当ててやる。あの時はここで起きたが、今は深い眠りに落ちているのか<br> 目を覚ます気配を見せなかった。<br> <br>  ――お前が願ったとおり、ずっとそばにいてやるよ、ハルヒ。<br> <br> <br> ~~完~~</p>
<div class="plugin_recent_day_div"> <ul class="plugin_recent_ul"><li><a title="奇跡の先に(前編) (26s)" href="http://www25.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/4839.html">奇跡の先に(前編)</a></li> <li><a title="奇跡の先に(後編) (1m)" href="http://www25.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/4840.html">奇跡の先に(後編)</a></li> </ul></div> <p> </p>

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