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「蜃気楼」(2021/09/10 (金) 15:35:24) の最新版変更点
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<div class="main">
<div>「あ、こんにちは、キョンくん」<br>
俺の愛しの天使様、朝比奈みくるさんが今日も部室で出迎えてくれた。<br>
俺はいつも言い過ぎとも言える表現で朝比奈さんを比喩するが、あながち言い過ぎとは言えない。<br>
何故なら……俺は、完全に心奪われていたからだ。<br>
あれは先週だったか?SOS団全員が俺の家に来たときだった。<br>
ゲームに夢中になってる奴等から少し離れて、シャミセンと戯れる朝比奈さんの笑顔を見た時に俺は恋に落ちた。<br>
穏やかで、かわいくて、それでいて守りたくなるような笑顔に俺は完全に惹かれたのさ。<br>
ともかく、俺はいつものようにお茶をもらった。<br>
今まではそんなに気にしていなかった距離、今じゃお茶を受け渡す距離でさえ俺の鼓動は早くなる。<br>
本気で恋に落ちたのは初めてだ……。それを悟られないようにするのも一苦労なんだな。片思いの奴の気持ちがよくわかるぜ。<br>
「あの……お茶、美味しくなかったですか?」<br>
とても不安げな表情でこっちを見つめていた。<br>
あぁ、俺の表情で不安にさせてしまったのか。<br>
俺は、柔らかく微笑んだ。……たぶんな。<br>
「大丈夫です。いつものように美味しいですよ」<br>
朝比奈さんは『よかったぁ』と言いながら長門にお茶を持っていった。<br>
今、俺はちゃんと笑えていたか?<br>
朝比奈さんの前じゃ何をやっても不自然になってるような感覚だ。<br>
自分をよく見せなくたっていいじゃないか。ありのままを見せればいいんだよ……。<br>
などと、悟りを開くための自問自答をしていると、いつもの台風がやって来た。<br>
「みんな、喜びなさいっ!あたしが素晴らしい企画を思いついたわっ!」<br>
やれやれ、この満面の笑みはまた一苦労ありそうだな。<br>
「明日は探索はおやすみっ!代わりに市内移動かくれんぼやるわよ!」<br>
</div>
<br>
<div>
……最悪だ。よりによってかくれんぼか。確実に鬼は俺なんだろうな。<br>
「ルールは簡単!逃げる人が鬼に3分ごとに現在地をメールする!それを元に鬼が捕まえに行くのよ!」<br>
いや、まずは範囲を狭くするべきじゃ……<br>
「制限時間は9時に始めて12時まで!明日は8時半集合!遅れた人は……死刑だからねっ!」<br>
俺の提案は華麗にスルーされ、今日は疲れを残さないためにすぐに解散となった。<br>
……ちなみに、やっぱり鬼は俺だった。やれやれ。<br></div>
<br>
<br>
<div>次の日、やはり最後に来たのは俺だった。<br>
「遅い!罰金……はいいわ。その代わり全員捕まえれなかったら奢りね!」<br>
わかったわかった。やってやろうじゃねーか。吠え面かくなよ?<br>
「ほほーう。今日は雰囲気違うわね。やる気ありみたいだから始めちゃいましょうか!」<br>
あぁ、構わないぜ。俺はどのくらい経ってから始めればいいんだ?<br>
「ん~……5分でいいわ。それじゃ、はじめっ!」<br>
ハルヒは猛ダッシュで、古泉はランニングペースで、長門は歩いて、朝比奈さんはオロオロしながら散り散りになった。<br>
まぁ……意外に楽しめるかもな。<br></div>
<br>
<br>
<div>
5分が経ち、俺はゆっくりと歩きだした。とりあえずメールが入るまではフラフラしておくか。<br>
適当に歩き出すと、ボブカットの小柄な少女が狭い路地に立って、本を読んでいた。<br>
……あまりに近すぎるぞ。それに背中を向けてても俺からは丸見えだ。<br>
「……そう」<br>
長門はそのまま、集合場所へ戻って本を読み出した。……やる気なんてなかったんだろうな。<br>
3人からメールが来た。一番近いのは……朝比奈さんか。<br>
俺は3人に長門を捕まえた旨と、了解のメールを送り、朝比奈さんがいる方向へと小走りで向かった。<br>
休日の街なんてものはとても広いもので、3分ごとに送られてくるメールを使っても全然見つかりゃしない。<br>
俺の楽しそうという感情はなくなり、早くもどこかでサボろうと考え始めた時だった。<br>
「ふえぇっ、見つかっちゃった!」<br>
聞き覚えのある声だ。朝比奈さんのかわいらしい声。<br>
俺が辺りを見回すと、走り去って行く後ろ姿を見つけた。俺の大好きな人の背中が……な。<br>
すぐに追いかけはじめたが、人が多くてなかなか追いつけない。<br>
あと10メートルを保ったまま、しばらく走ると、横道に逸れて行った。<br>
しめた、あっちは人が少なくなる道だ。<br>
人込みから離れると、走るスピードを上げた。<br>
あの人はとろいからすぐに捕まるはずだ。<br>
10メートル……5メートル……3メートル……1メートル……。<br>
「捕まえた!」<br>
俺は声をあげながら朝比奈さんの腕を捕まえた。<br>
「あうぅ~、キョンくん……はぁ、はぁ……早いよぉ」<br>
走ったせいなのか、息をきらして涙目で俺を見上げてきた。……やべぇ、かわいい。<br>
妙な感覚に包まれる。俺と、俺が腕を握っている朝比奈さんの二人しかいないような感覚……。<br>
「キョン……くん?」<br></div>
<br>
<div>
声は聞こえている……が、この衝動は止められない。<br>
俺は、朝比奈さんの肩を抱いて少しずつ引き寄せた。<br>
唇と唇の間隔が狭まっていく。<br>
50センチ……30センチ……10センチ……5センチ……。<br>
「あ……」<br>
いつの間にか、俺の手に触れるものはなくなり、朝比奈さんは消えていた。<br>
なんてことをしてしまったんだ……俺のせいで、消えちまった。<br>
たぶん……いや、間違いなく未来に連れてかれたんだろう。<br>
バカか、俺は。あの時に言われたじゃねーか。<br>
『わたしと仲良くしないで』と。それは、こういう意味なんだと薄々感じていただろう?<br>
自分の欲望だけで、朝比奈さんを消してしまったんだ。俺は。<br>
涙が溢れてきた。<br>
遠い所からだと近くに見えて、近付くと離れていく。それへと近付いても、近付き過ぎると消えてしまう蜃気楼。<br>
朝比奈さんはそんな存在だったんだ。<br>
「ははは……わかってたくせに、バカ野郎……」<br>
3分ごとに送られてくるメールを無視して、俺は一人、人通りの無い横道で泣き続けた。<br>
</div>
<br>
<div>
「やっぱりキョンはダメね。あたしと古泉くん、二人も残しちゃうなんて……ってあれ?みくるちゃんは?」<br>
どうにか正気を装い、俺は集合場所に戻ってきた。<br></div>
<br>
<div>
「朝比奈さんは……親からの緊急連絡で帰ったよ。親族に何かあったんじゃないか?」<br>
よくもこんな嘘がつけるな……自分で消したくせに。全てが嫌になってしまう。<br>
朝比奈さんのいない世界に何の意味がある?代わりに俺が消えればよかったのに……畜生。<br>
ハルヒに一万円札を渡し、『体調が悪いから帰る』と伝えて逃げ出すように家へと走った。<br>
その夜、俺はベッドの上で泣き続けた。<br>
自分の失敗に、無力さに、抗えない《禁則事項》に対しての怒り……。<br>
様々な感情を心に抱えて、明日からを生きていくことを決めた時、深い眠りへと誘われた。<br>
</div>
<br>
<br>
<div>
朝、手持ちぶさたにハイキングコースを登っていく。周りには誰もいやしない。<br>
何故かって?朝6時半に学校に来る奴なんていやしないからさ。<br>
結局、眠りは深かったものの眠った時間は短くて、やることもなく早く学校へと向かった。<br>
……部室に行きたかった。もしかすると、メイド服姿の朝比奈さんが笑顔で『ただいま、キョンくん』なんて言いながらお茶を用意してるんじゃないかと思ったからだ。<br>
都合の良い妄想だ。だけど、今だけはこの妄想が現実になることを信じたい。<br>
そう思いながらハイキングコースを早足で歩き続けた。<br>
生徒のいない学校、校舎を一人で歩く。まるで色のついた閉鎖空間だな。<br>
部室棟に入り、心臓が高鳴る。……居てくれ、頼む。<br>
そして、部室のドアを開けると……誰もいなかった。<br>
「都合がよすぎるんだよ……俺の頭は」<br>
いつもの席に座り、辺りを見回す。<br>
もういくら待ってもお茶はもらえない。こんにちはとも言ってもらえない。<br>
また、涙が溢れてきた。<br>
止まらないし……止める気もない。畜生……畜生……。<br></div>
<br>
<div>「あ、あれ?キョンくん?何でこんなに早く……」<br>
あぁ、もうダメかもな。幻聴まで聞こえてきやがった。<br>
「っていうか……その……ただいま、です」<br>
ただいま……?<br>
俺が顔を上げると、メイド服ではなく普通の制服だったが、確かに本物の朝比奈さんが立っていた。<br>
「あ、朝比奈さん!」<br>
俺は立ち上がり、抱き締めようとして……躊躇した。<br>
『また、消えたら……』<br>
そう思うと足が進まなくなってしまった。<br>
「……もう、大丈夫です。消えたりはしないです。上から許可が出ました、涼宮さんの能力もだいぶ落ち着いてきたから……って」<br>
そうは聞いても、俺は金縛りにあったように動けなかった。昨日の喪失感が蘇る。恐い……失うのが、恐い。<br>
朝比奈さんがゆっくりと近付いてきて、俺の行動と同じことをしてきた。<br>
腕を掴み、肩を抱き寄せて、唇と唇の間隔が狭まっていく。<br>
50センチ……30センチ……10センチ……5センチ……。<br>
「んっ……」<br>
触れた。柔らかく、暖かい感触。近付くと、消えてしまうはずの蜃気楼に触れることが出来た。<br>
「やっと……やっと言えるよぉ……。キョンくん、好き……大好きぃ……」<br>
</div>
<br>
<div>
朝比奈さんは、泣きながら俺に抱き付いてきた。か弱い腕から伝わる、確かに強い力。<br>
幻じゃない。近付いたら消える蜃気楼じゃない。やっと……捕まえた。<br>
背中に手を回し、そっと抱き返す。<br>
「俺も……大好きです。離さない、絶対に離さない。もう二度と……」<br>
人差し指が俺の唇を制止した。その向こう側から微笑みが見え、大好きな声が聞こえる。<br>
「言葉じゃなくて……行動で、わたしを離さないって教えてください」<br>
涙を拭った。自分と、彼女の。幸せなキスをするのに涙は似合わない。<br>
目を瞑り、俺を待つ彼女の唇にゆっくりと近付いた。<br>
50センチ……30センチ……10センチ……5センチ…………0センチ。<br>
</div>
<br>
<br>
<div>おわり<br></div>
</div>
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<div class="main">
<div>「あ、こんにちは、キョンくん」<br />
俺の愛しの天使様、朝比奈みくるさんが今日も部室で出迎えてくれた。<br />
俺はいつも言い過ぎとも言える表現で朝比奈さんを比喩するが、あながち言い過ぎとは言えない。<br />
何故なら……俺は、完全に心奪われていたからだ。<br />
あれは先週だったか?SOS団全員が俺の家に来たときだった。<br />
ゲームに夢中になってる奴等から少し離れて、シャミセンと戯れる朝比奈さんの笑顔を見た時に俺は恋に落ちた。<br />
穏やかで、かわいくて、それでいて守りたくなるような笑顔に俺は完全に惹かれたのさ。<br />
ともかく、俺はいつものようにお茶をもらった。<br />
今まではそんなに気にしていなかった距離、今じゃお茶を受け渡す距離でさえ俺の鼓動は早くなる。<br />
本気で恋に落ちたのは初めてだ……。それを悟られないようにするのも一苦労なんだな。片思いの奴の気持ちがよくわかるぜ。<br />
「あの……お茶、美味しくなかったですか?」<br />
とても不安げな表情でこっちを見つめていた。<br />
あぁ、俺の表情で不安にさせてしまったのか。<br />
俺は、柔らかく微笑んだ。……たぶんな。<br />
「大丈夫です。いつものように美味しいですよ」<br />
朝比奈さんは『よかったぁ』と言いながら長門にお茶を持っていった。<br />
今、俺はちゃんと笑えていたか?<br />
朝比奈さんの前じゃ何をやっても不自然になってるような感覚だ。<br />
自分をよく見せなくたっていいじゃないか。ありのままを見せればいいんだよ……。<br />
などと、悟りを開くための自問自答をしていると、いつもの台風がやって来た。<br />
「みんな、喜びなさいっ!あたしが素晴らしい企画を思いついたわっ!」<br />
やれやれ、この満面の笑みはまた一苦労ありそうだな。<br />
「明日は探索はおやすみっ!代わりに市内移動かくれんぼやるわよ!」</div>
<div>……最悪だ。よりによってかくれんぼか。確実に鬼は俺なんだろうな。<br />
「ルールは簡単!逃げる人が鬼に3分ごとに現在地をメールする!それを元に鬼が捕まえに行くのよ!」<br />
いや、まずは範囲を狭くするべきじゃ……<br />
「制限時間は9時に始めて12時まで!明日は8時半集合!遅れた人は……死刑だからねっ!」<br />
俺の提案は華麗にスルーされ、今日は疲れを残さないためにすぐに解散となった。<br />
……ちなみに、やっぱり鬼は俺だった。やれやれ。</div>
<div>次の日、やはり最後に来たのは俺だった。<br />
「遅い!罰金……はいいわ。その代わり全員捕まえれなかったら奢りね!」<br />
わかったわかった。やってやろうじゃねーか。吠え面かくなよ?<br />
「ほほーう。今日は雰囲気違うわね。やる気ありみたいだから始めちゃいましょうか!」<br />
あぁ、構わないぜ。俺はどのくらい経ってから始めればいいんだ?<br />
「ん~……5分でいいわ。それじゃ、はじめっ!」<br />
ハルヒは猛ダッシュで、古泉はランニングペースで、長門は歩いて、朝比奈さんはオロオロしながら散り散りになった。<br />
まぁ……意外に楽しめるかもな。</div>
<div>5分が経ち、俺はゆっくりと歩きだした。とりあえずメールが入るまではフラフラしておくか。<br />
適当に歩き出すと、ボブカットの小柄な少女が狭い路地に立って、本を読んでいた。<br />
……あまりに近すぎるぞ。それに背中を向けてても俺からは丸見えだ。<br />
「……そう」<br />
長門はそのまま、集合場所へ戻って本を読み出した。……やる気なんてなかったんだろうな。<br />
3人からメールが来た。一番近いのは……朝比奈さんか。<br />
俺は3人に長門を捕まえた旨と、了解のメールを送り、朝比奈さんがいる方向へと小走りで向かった。<br />
休日の街なんてものはとても広いもので、3分ごとに送られてくるメールを使っても全然見つかりゃしない。<br />
俺の楽しそうという感情はなくなり、早くもどこかでサボろうと考え始めた時だった。<br />
「ふえぇっ、見つかっちゃった!」<br />
聞き覚えのある声だ。朝比奈さんのかわいらしい声。<br />
俺が辺りを見回すと、走り去って行く後ろ姿を見つけた。俺の大好きな人の背中が……な。<br />
すぐに追いかけはじめたが、人が多くてなかなか追いつけない。<br />
あと10メートルを保ったまま、しばらく走ると、横道に逸れて行った。<br />
しめた、あっちは人が少なくなる道だ。<br />
人込みから離れると、走るスピードを上げた。<br />
あの人はとろいからすぐに捕まるはずだ。<br />
10メートル……5メートル……3メートル……1メートル……。<br />
「捕まえた!」<br />
俺は声をあげながら朝比奈さんの腕を捕まえた。<br />
「あうぅ~、キョンくん……はぁ、はぁ……早いよぉ」<br />
走ったせいなのか、息をきらして涙目で俺を見上げてきた。……やべぇ、かわいい。<br />
妙な感覚に包まれる。俺と、俺が腕を握っている朝比奈さんの二人しかいないような感覚……。<br />
「キョン……くん?」</div>
<div>声は聞こえている……が、この衝動は止められない。<br />
俺は、朝比奈さんの肩を抱いて少しずつ引き寄せた。<br />
唇と唇の間隔が狭まっていく。<br />
50センチ……30センチ……10センチ……5センチ……。<br />
「あ……」<br />
いつの間にか、俺の手に触れるものはなくなり、朝比奈さんは消えていた。<br />
なんてことをしてしまったんだ……俺のせいで、消えちまった。<br />
たぶん……いや、間違いなく未来に連れてかれたんだろう。<br />
バカか、俺は。あの時に言われたじゃねーか。<br />
『わたしと仲良くしないで』と。それは、こういう意味なんだと薄々感じていただろう?<br />
自分の欲望だけで、朝比奈さんを消してしまったんだ。俺は。<br />
涙が溢れてきた。<br />
遠い所からだと近くに見えて、近付くと離れていく。それへと近付いても、近付き過ぎると消えてしまう蜃気楼。<br />
朝比奈さんはそんな存在だったんだ。<br />
「ははは……わかってたくせに、バカ野郎……」<br />
3分ごとに送られてくるメールを無視して、俺は一人、人通りの無い横道で泣き続けた。</div>
<div>「やっぱりキョンはダメね。あたしと古泉くん、二人も残しちゃうなんて……ってあれ?みくるちゃんは?」<br />
どうにか正気を装い、俺は集合場所に戻ってきた。</div>
<div>「朝比奈さんは……親からの緊急連絡で帰ったよ。親族に何かあったんじゃないか?」<br />
よくもこんな嘘がつけるな……自分で消したくせに。全てが嫌になってしまう。<br />
朝比奈さんのいない世界に何の意味がある?代わりに俺が消えればよかったのに……畜生。<br />
ハルヒに一万円札を渡し、『体調が悪いから帰る』と伝えて逃げ出すように家へと走った。<br />
その夜、俺はベッドの上で泣き続けた。<br />
自分の失敗に、無力さに、抗えない《禁則事項》に対しての怒り……。<br />
様々な感情を心に抱えて、明日からを生きていくことを決めた時、深い眠りへと誘われた。</div>
<div>朝、手持ちぶさたにハイキングコースを登っていく。周りには誰もいやしない。<br />
何故かって?朝6時半に学校に来る奴なんていやしないからさ。<br />
結局、眠りは深かったものの眠った時間は短くて、やることもなく早く学校へと向かった。<br />
……部室に行きたかった。もしかすると、メイド服姿の朝比奈さんが笑顔で『ただいま、キョンくん』なんて言いながらお茶を用意してるんじゃないかと思ったからだ。<br />
都合の良い妄想だ。だけど、今だけはこの妄想が現実になることを信じたい。<br />
そう思いながらハイキングコースを早足で歩き続けた。<br />
生徒のいない学校、校舎を一人で歩く。まるで色のついた閉鎖空間だな。<br />
部室棟に入り、心臓が高鳴る。……居てくれ、頼む。<br />
そして、部室のドアを開けると……誰もいなかった。<br />
「都合がよすぎるんだよ……俺の頭は」<br />
いつもの席に座り、辺りを見回す。<br />
もういくら待ってもお茶はもらえない。こんにちはとも言ってもらえない。<br />
また、涙が溢れてきた。<br />
止まらないし……止める気もない。畜生……畜生……。</div>
<div>「あ、あれ?キョンくん?何でこんなに早く……」<br />
あぁ、もうダメかもな。幻聴まで聞こえてきやがった。<br />
「っていうか……その……ただいま、です」<br />
ただいま……?<br />
俺が顔を上げると、メイド服ではなく普通の制服だったが、確かに本物の朝比奈さんが立っていた。<br />
「あ、朝比奈さん!」<br />
俺は立ち上がり、抱き締めようとして……躊躇した。<br />
『また、消えたら……』<br />
そう思うと足が進まなくなってしまった。<br />
「……もう、大丈夫です。消えたりはしないです。上から許可が出ました、涼宮さんの能力もだいぶ落ち着いてきたから……って」<br />
そうは聞いても、俺は金縛りにあったように動けなかった。昨日の喪失感が蘇る。恐い……失うのが、恐い。<br />
朝比奈さんがゆっくりと近付いてきて、俺の行動と同じことをしてきた。<br />
腕を掴み、肩を抱き寄せて、唇と唇の間隔が狭まっていく。<br />
50センチ……30センチ……10センチ……5センチ……。<br />
「んっ……」<br />
触れた。柔らかく、暖かい感触。近付くと、消えてしまうはずの蜃気楼に触れることが出来た。<br />
「やっと……やっと言えるよぉ……。キョンくん、好き……大好きぃ……」</div>
<div>朝比奈さんは、泣きながら俺に抱き付いてきた。か弱い腕から伝わる、確かに強い力。<br />
幻じゃない。近付いたら消える蜃気楼じゃない。やっと……捕まえた。<br />
背中に手を回し、そっと抱き返す。<br />
「俺も……大好きです。離さない、絶対に離さない。もう二度と……」<br />
人差し指が俺の唇を制止した。その向こう側から微笑みが見え、大好きな声が聞こえる。<br />
「言葉じゃなくて……行動で、わたしを離さないって教えてください」<br />
涙を拭った。自分と、彼女の。幸せなキスをするのに涙は似合わない。<br />
目を瞑り、俺を待つ彼女の唇にゆっくりと近付いた。<br />
50センチ……30センチ……10センチ……5センチ…………0センチ。</div>
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