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2023-02-02T00:34:19+09:00
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魚返善雄『「論語」新訳』前半
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<p>一 ならっては〔學而第一〕</p>
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〔一〕先生──「ならってはおさらいするのは、たのしいことだね。なかまが遠くからくるのは、うれしいことだね。知られなくても平気なのは、りっぱな人じゃないか。」</p>
<p>
〔二〕有先生──「人がらがすなおなのに、目上にさからうものは、まずない。目上にさからわないのに、むほんをするものは、あったためしがない。土台がだいじだ。土台あっての道だ。すなおということが、人の道のはじまりだな。」</p>
<p>〔三〕先生──「おせじや見せかけに、ろくなものはない。」</p>
<p>〔四〕曽(ソウ)先生 ──「毎日ふりかえることが三つ。人にまこころをつくしたか。友だちにすまないことはないか。教えは身についているか。」</p>
<p>〔五〕先生──「大きなかまえの国ほど、まともな政治をし、つましくなさけぶかく、人はひまひまに使うこと。」</p>
<p>
〔六〕先生──「若い人は、うちではすなお、そとでもおとなしく、よく気をくばり、みんなにやさしくして道をまなぶこと。そのうえひまがあれば、学問にふりむける。」</p>
<p>
〔七〕子夏──「色よりはチエを買い、親のためには苦労をいとわず、国にはすすんで身をささげ、友だちづきあいに、ウソをつかなければ、無学な人でも、学問があるというわけさ。」</p>
<p>〔八〕先生──「上の人は軽いと押しがきかぬし、学問も練れない。まこころを第一とし、つまらぬ人とつきあわぬこと。あやまちはアッサリあらためよ。」</p>
<p>〔九〕曽先生 ──「とむらい供養のしかたで、気風がずっとよくなるものだ。」</p>
<p>〔一〇〕子禽(キン)が子貢にたずねる、
「うちの先生はどこの国にいっても、きっと政治にかかりあうが…。たのむのかな、それともたのまれるのかな。」子貢──「先生はオットリとへりくだっていてそうなるんだ。先生のやりかたはだね、こりゃどうも人のやりくちとはちがってるね。」</p>
<p>〔一一〕先生──「ふだん父の気もちをくみ、死んだらやりくちを思い、三年そのしきたりを変えないのは、親孝行といえる。」</p>
<p>
12〔一二〕有先生──「きまりにも、なごやかさがだいじ。昔のお手本も、ここがかなめだ。万事がそうなっている。だが例外もある。なごやかにするだけで、しめくくりがないのも、うまくいかないものだ。」</p>
<p>13〔一三〕有先生
「取りきめも、すじがとおっておれば、はたす見こみがある。へりくだりも、しめくくりがあれば、見っともなくない。たよるのも、相手をまちがえねば、たのみがいがある。」</p>
<p>14〔一四〕先生
──「人間は、たべものにもこらず、よい家にも住まず、しごとは手ばやくて口をつつしみ、人格者を見ならうことだ。それでこそ学問ずきといえる。」</p>
<p>15〔一五〕子貢 ──「こまってもこびず、もうけてもいばらないのは、どうです…。」先生
──「よろしい。だがこまっても苦にせず、もうけてもしまりのあるのがましだ。」子貢
「うたに、『切ってはこすり、ほってはみがく、』とあるのがそのことですか…。」先生「賜くんとだけは、うたのはなしができるわい。かれは打てばすぐひびくやつじゃ。」</p>
<p>16〔一六〕先生 ──「人に知られなくてもこまらぬが、人を知らないのはこまる。」</p>
<p> </p>
<p>二 政治〔爲政第二〕</p>
<p>17〔一〕先生──「政治も良心的であれば、ちょうど北極星が動かずにいて、取りまかれるようだ。」</p>
<p>18〔二〕先生 ──「うた三百首を、ひっくるめていえば、『ひがまずに』ということじゃ。」</p>
<p>19〔三〕先生 ──「規則ずくめで、ビシビシやると、ぬけ道をつくって平気だ。親こころをもって、ひきしめてやれば、恥じいってあらためる。」</p>
<p>20〔四〕先生
──「わしは十五で学問を思いたち、三十で一人まえ、四十で腹がすわり、五十で運命を知り、六十で分別ができ、七十では気ままをしても、ワクにはまっていた。」</p>
<p>21〔五〕孟孫さんが孝行についてきく。先生 ──「ほどを知ることです。」樊遅(ハンチ) のやる馬車で、先生がいわれた、
「孟孫が孝行をきいたから、わしは『ほどを知れ』といったよ。」樊遅-ー「どういう意味ですか。」先生
──「親には、ほどよくつかえる。死んだら、ほどよくとむらい、供養もほどよくすること。」</p>
<p>22〔六〕孟武さんが孝行についてきく。先生 ──「父・母には、病気だけが心配です。」</p>
<p>23〔七〕子游(ユウ)が孝行についてきく。先生
──「いまどきの孝行は、養うことだという。犬でも馬でも、みな養われている。うやまわないと、区別がつかなくなるぞ。」</p>
<p>24〔八〕子夏が孝行についてきく。先生
──「態度がだいじだ。用のあるとき若いものが手つだい、ごちそうがあれば目上にあげる、そんなことで孝行になるかね。」</p>
<p>25〔九〕先生
──「回くんと話してると、一日じゅうハイハイでバカみたいだが…。あとで実情を見ていると、けっこう教えられる。回くんはバカじゃない。」</p>
<p>26〔一〇〕先生──「人はそのしわざを見、いきさつをながめ、思わくをさとられたら、かくそうにも、かくせはしまいて。」<br />
27〔一一〕先生 ──「古いものからも新知識、それなら指導者になれる。」</p>
<p>28〔一二〕先生 ──「人物は道具じゃない。」</p>
<p>29〔一三〕子貢が人物についてきく。先生 ──「おこないが先、ことばはあとだ。」</p>
<p>30〔一四〕先生 ──「人物は閥をつくらず、俗物は閥をつくる。」</p>
<p>31〔一五〕先生 ──「ならっても考えねばハッキリしないし、考えるだけでならわないとあぶない。」</p>
<p>32〔一六〕先生 ──「他流の末に走ると、損するばかりだ。」</p>
<p>33〔一七〕先生 ──「由くん、『知る」ということを教えようか。知ってるなら知ってる、知らないなら知らないという、それが知ることだよ。」</p>
<p>34〔一八〕子張は役人志願。先生
──「聞いてよくたしかめ、たしかなことだけをいえば、まず無難だ。見てよくたしかめ、たしかなことだけをすれば、まず安心。そうバカをいわず、あまりヘマをやらねば、自然に出世するさ。」</p>
<p>35〔一九〕哀(殿)さまのおたずね ──「どうしたら民がおさまるか…。」孔先生の返事
「まっすぐな人を上におけば、おさまります。まがったものを上においたら、おさまりません。」</p>
<p>
36〔二〇〕季孫さんがきく、「人民にうやまい、したがい、はげませるには、どうします…。」先生iー「重みを見せればうやまい、やさしくすればしたがい、すぐれた人にみちびかせれば、はげみます。」</p>
<p>37〔二一〕だれかが孔先生にいった、「なぜ政治をなさらないんです…。」先生
──「歴史の本にある、『孝行いちずに、兄弟なかよく、家庭もおさまる。』あれも政治です。なにもことさら政治をせずとも…。」</p>
<p>38〔二二〕先生 ──「人間は誠意がないと、人として台なしだな。荷車も小車も、横木なしでは、それこそやりようがあるまい。」</p>
<p>39〔二三〕子張がきく、「十代あとの世がわかりますか…。」先生
──「股(イン)は夏(カ)の時代をまねたから、たいしたちがいはないはず。周も殷をまねたから、たいしたちがいはないはず。周のあとがあったとて、百代までも知れているさ。」</p>
<p>40〔二四〕先生 -「先祖でもないのに祭るのは、物ほしそう。正義を見送るのは、いくじなしだ。」</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>三 八列の舞い〔八倫第三〕<br />
41〔一〕孔先生が(家老の)季孫さんを批評して──「八列の舞いを自宅でやりおる。あれが平気ならば、なんでも平気でやれるさ。」</p>
<p><br />
42〔二〕三家老は、「御歌」で祭りをおわる。先生──「『居ならぶ大名、大君おおらか』なんて、三家老のお宮では無意味だよ。」</p>
<p>43〔三〕先生 ──「人情をもたずに、なにが『きまり』だ…。人情味がなくて、なんの音楽だ…。」</p>
<p>44〔四〕林放が儀式の精神をきく。先生 ──「だいじな問いじゃな。儀式は、ハデにやるより、ジミがよい。葬式は、念入りよりは、しんみり。」</p>
<p>45〔五〕先生 ──「文化のない王国は、文化のある亡国におよばないね。」</p>
<p>46〔六〕季孫さんが(家老のくせに)泰山の祭りをする。先生が冉(ゼン)有に ──「おまえ、とめられないのか…。」返事 ──「ダメです。」先生
──「ウーム、泰山も林放以下と見なすわけだな。」</p>
<p>47〔七〕 先生 ──「人物に争いはない。まあ弓ぐらいかな。おじぎして場に立ち、降りたら飲ませる。あの争いはりっぱだ。」</p>
<p>48〔八〕 子夏がたずねる、「『ニッコリえくぼ、パッチリまなこ、オシロイまぶしや』って、なんですか…。」先生──「絵は白でしあげるよ。」
──「礼儀もしあげですね…。」先生 ──「商(子夏)くんには教えられるね。かれとなら詩のはなしができるわい。」</p>
<p>49〔九〕 先生
──「夏(カ)(の時代)のきまりはわしにもわかるが、杞(き(の国)のはよくつかめない。殷(イン)(の時代)のきまりはわしにもわかるが、宋(ソウ)(の国)のはよくつかめない。書き物も人もすくないからだ。それがあればつかめるわけだが…。」</p>
<p>50〔一〇〕先生 ──「大祭も、おみきをまいたあとは、わしはもう見るのがイヤじゃ。」</p>
<p>51〔一一〕だれかが大祭のわけをきく。先生
──「知らんです。それがわかっとれば世のなかのあつかいかたも、ここにのせたようでしょうな。」と手のひらをさした。</p>
<p>52〔一二〕 (先祖は)居るように祭り、神も居るように祭る。先生ll「白分で祭らないと、 祭った気がせぬ。」</p>
<p>
53〔一三〕王孫賈(カ)がきく、「奥の間のきげんより、板の間のきげん』ってのは、どうですか。」先生l──「ウソですよ。天ににくまれたら、いのる間(マ)はないです。」</p>
<p>54〔一四〕先生 ──「周は夏(カ)と股(イン)(の時代)を目やすにして、文化の花をさかせたのだ。お手本にしょう。」</p>
<p>55〔一五〕先生は大神宮で、いちいち人にきく。だれかが
──「躑(スウ)村の若僧め、儀式を知らんじゃないか。大神宮で、いちいちきくとは。」先生はそれをきいて ──「そこが儀式だ。」</p>
<p>56〔一六〕先生 一矢は通さなくてもよく、ちからわざにも差をつけるのが、背のやりかただった。」</p>
<p>57〔一七〕子貢がついたちのヒツジをそなえまいとした。先生 ──「賜くん、ヒツジがおしいだろうが、わしは儀式がおしいよ。」</p>
<p>58〔一八〕先生 ──「おかみをうやまえば、ごきげん取りといわれる。」</p>
<p>59〔一九〕定(テイ)(殿)さまのおたずね-
「殿が使い、家来がつかえる、その方法は…。」孔先生の返事lr「使うには手あつくしてやり、つかえるには心をこめます。」</p>
<p>60〔二〇〕先生 ──「『ミサゴの歌』は、喜びにもおぼれず、悲しみにも負けていない。」</p>
<p>61〔二一〕哀(殿)さまがお宮のことを宰我(サイガ)にきかれる。宰我のお答え
──「夏(カ)の王さまは松、殷(イン)の時代にはヒノキ、周はクリの木を植えています。『ビックリさせる」んだそうで…。」先生がそれをきかれ
──「できた事はいうまい。やった事は見のがそう。すぎた事は責めまい。」</p>
<p>62〔二二〕先生────鰤管仲は人物がちいさいな。」だれかが
──「管仲はしまり屋ですか。」先生──「管には妻が三人、家来はかけ持ちなし。なにがしまり屋だ。」──「そんなら管仲は礼儀屋ですか。」先生
──「殿さまは目かくしを立てるが、管も目かくしを立てていた。殿さま同士の宴会にはサカズキ台があり、管の家にもそれがあった。管が礼儀屋ならば、だれだって礼儀屋だ。」</p>
<p>
63〔二三〕先生が魯(ロ)の国の楽隊長に──「音楽って、こうなんだね。はじめは、音をそろえる。そして思いきり、ひびかせる。すみ通らせる。長つづきさせる。それでいい。」</p>
<p><br />
64〔二四〕儀の村の役人が会いたがっていう、「えらいかたがこちらに見えると、わたしはいつもお会いできたのですよ。」供の人が会わせる。あとでいう、「みなさん浪人もいいじゃないですか。世のなかはもう長いこと乱れている。世をみちびくのが先生の天職だ。</p>
<p><br />
65〔二五〕先生は 「韶(ショウ)の曲」を、「みごとだし、このましいものだ。」といわれた。「武の曲」は、「みごとだが、ちょっとこまる。」といわれた。</p>
<p>66〔二六〕先生──「おかみはガミガミ、礼儀はゾンザイ、おとむらいに空なみだでは、どこにも見どころがないわい。」</p>
<p> </p>
<p>四 住むには〔里仁第四〕</p>
<p>67〔一〕 先生──「住むには気ごころ。住みあてないのは、チエ者でない。」</p>
<p><br />
68〔二〕 先生 ──「俗物は貧乏にたえられないし、安楽も、長つづきせぬ。人物は心を乱さず、チエ者はくふうする。」</p>
<p><br />
69〔三〕 先生ー1「人物だけが、人をほめも、けなしもできる。」</p>
<p>70〔四〕 先生 ──「人物になる気なら、悪事はできぬ。」</p>
<p>71〔五〕先生
──「カネと身分は、だれでもほしいものだが…。無理に手に入れたのは、ごめんこうむる。貧乏と下積みは、ありがたくないものだが…。身から出たのでなければ、逃げだしはせぬ。人の道を離れて、なにが人物だ。まことの人は食事のあいだも道を離れぬ。どんなに急いでも道、とっさの場あいも道だ。」</p>
<p>72〔六〕 先生
──「わしはまだ道をこのむ者、道はずれをにくむ者に会わない。道をこのめば、それがなにより。道はずれをにくむのも、やはり道だ。道はずれの者に手だしをさせないからだ。一日でも道のためにつくした人があろうか。そのちからのない人にはまだ会わぬ。あるかもしれない<br />
が、わしはまだ出会わない。」</p>
<p>73〔七〕先生 ──「人のあやまちは、その人がらによる。あやまちを見れば、それで人がわかる。」</p>
<p>74〔八〕 先生 ──「真理がきけたら、その日に、死んでもいい。」</p>
<p>75〔九〕 先生 ──「真理を求める人が、着物くい物を気にしては、話せるとはいえないな。」</p>
<p>76〔一〇〕 先生 ──「まことの人なら世間にたいして、ヒイキもなし、意地わるもなし、ただ道理にみかたする。」</p>
<p>77〔一一〕先生 ──「徳をみがく人、土地にあがく人。おきてを守る人、おこぼれを待つ人。」</p>
<p>78〔一二〕 先生-ー「欲と相談でやると、うらまれる。」</p>
<p>79〔一三〕先生 ──「折りあいよく国をおさめれば、わけはない。折りあいよくおさめられねば、儀式もムダだ。」</p>
<p>80〔一四〕先生 ──「地位はなくてもいいが、いくじがなくてはこまる。知られなくてもいいが、知られるようなことをしたいもの。」</p>
<p>81〔一五〕 先生 ──「参(シン)くん、わしの道はひとすじじゃよ。」曽(ソウ)先生の返事
──「ええ。」あとで、弟子たちがたずねる、「あの意味は…。」曽先生ll「先生の道とは、『思いやり』なんだ。」</p>
<p>82〔一六〕 先生 ──「道理が。ピンとくる人と、利益が。ピンとくる人。」</p>
<p>83〔一七〕先生 ──「りっぱな人は、見ならいたい。つまらぬ人でも、わが身のいましめにするのだ。」</p>
<p>84〔一八〕先生 ──「親には、それとなくいさめる。きいてもらえなくても、さからわずにおく。つらくてもうらまない。」</p>
<p>85〔一九〕先生 ──「親のある身は、遠出をしない。出るにはまず行く先。」</p>
<p>86〔二〇〕先生 ──「三年(の忌中)父のしきたりを変えないのは、親孝行といえる。」</p>
<p>87〔二一〕 先生 ──「親の年は、知っておかねばならぬ。安心にもなり、川心にもなる。」</p>
<p>88〔二二〕 先生 ──「晋の人の口重いのは、やれないことを恐れたからだ。」</p>
<p>89〔二三〕先生──「つつましくてしくじることは、まずない。」</p>
<p>90〔二四〕先生 ──「上の人は口は重く、事はキビキビやりたい。」</p>
<p>91〔二五〕 先生 ──「道をふむなら、つれはあるもの。」</p>
<p>92〔二六〕子游 ──「殿さまにも、うるさいのはきらわれる。友だちも、うるさいと遠のく。」</p>
<p> </p>
<p>五 公冶長 〔公冶長第五〕</p>
<p>93〔一〕 先生は(弟子の)公冶長(コウヤ・チョウ)のことを
──「ムコにしてもいい。ナワつきになったとはいえ、かれの罪じゃないんだ。」といって娘をやった。また南容のことを
──「平和なときは、役につける。乱れた世にも、殺され<br />
94〔二〕 先生は子賤のことを ──「りっぱだなあ、あの人は。 この国に人物がいなければ、かれもああは成れまいて。」</p>
<p>95〔三〕子貢がたずねる、「わたくしは、いかが…。」先生──「きみは、うつわ物だ。」──「どんなうつわで…。」 ──「国宝級だ。」</p>
<p>96〔四〕 だれかがーー「雍(ヨウ)くんは、いい人だがブッキラボウで…。」 先生
──「ペチャクチャは無用だ。人にツベコベいうと、とかくにくまれる。かれの人がらは知らないが、ペチャクチャは無用だ。」</p>
<p>97〔五] 漆彫(シツチョウ)開を役人にしようとした。かれの返事 ──「それにはまだ自信がないです。」先生は喜ばれた。</p>
<p>98〔六〕 先生ーー「道のない世だ、イカダで海に乗りだそうか…。ついてくるのは、まあ由くんだな…。」子路はそれをきき、ニコニコ。先生
──「由くんは、わしよりすごいが…。材木がないさ。」</p>
<p>99〔七〕 孟武さんがきく、「子路はいい人ですか。」先生
──「知りませんな。」またもきく。先生──「由くんは、大きな藩で、いくさ奉行ができましょう。いい人だかどうだか…。」「冉(ゼン)求はいかが…。」先生
──「求くんは、ちょっとした町か、家老格の家で、その差配になれましょう。いい人だかどうだか…。」「公西(コウセイ)赤はいかが…。」先生
──「赤くんは、礼服で御前に出て、お客さまの接待役ですな。いい人だかどうだか…。」</p>
<p>100〔八〕 先生が子貢にいわれる、「きみと回くんと、どっちが上か。」答え
──「わたくしが回さんの相手なんぞ…。回さんは、一をきけば十を知ります。わたくしは、一から二を知るだけです。」先生
──「かなわないな。わしもきみもかなわないんだ。」<br />
〔注〕 回は、若くて死んだ清貧の秀才顔回。</p>
<p><br />
101〔九〕 宰予(サイヨ)がひるま寝ていた。先生
──「くさった木は彫り物にならぬわ。ゴミ土のヘイでは、コテがあてられぬ。予のやつときては、責めがいがない。」また
──「これまでわしは人を、いうとおりにするものと信じていた。これからわしは人の、いうこととすることをくらべてみる。予のせいだな、そうなったのは。」</p>
<p>102〔一〇〕先生「しっかり者には出会わぬ。」だれかがいう、「申〓(シンチョゥ)は…。」先生──「〓くんのは、欲だ。なんでしっかりなものか。」</p>
<p><br />
103〔一一〕 子貢 ──「わたしは人からされたくないことは、こちらからも人にしたくない。」先生──「賜くん、きみにやれることじゃないね。」</p>
<p>104〔一二〕 子貢 ──「先生のご講義は、 いつでもうかがえるが…。先生の人間観や宇宙観は、なかなかうかがえないなあ。」</p>
<p>105〔一三〕子路は教えをきいて、それがやれないうちは、もうきくのをおそれた。</p>
<p>106〔一四〕子貢がたずねる、「孔文さんは、なぜ『文』とおくり名されました…。」先生
──「才子で学問ずき、よく質、問された。その点が『文』とよばれたのじゃ。」</p>
<p>〔一五〕 先生は子産を批評し
──「人物のよさが四つあった。身のふるまいが、つつましい。おかみにつかえて、うやうやしい。民をおさめては、やさしい。民の使いかたは、正しい。」</p>
<p>〔一六〕 先生-──「晏平仲(アンペイチュウ)は、人とよく交際し、なじんでもスレなかった。」</p>
<p>〔一七〕先生 ──「臧(ゾウ)文仲は、(ウラナイ用の)亀をたくわえ、(お堂の)柱に山をきざみ水草をかいた。どうした分別なんだ…。」</p>
<p><br />
〔一八〕子張がたずねる、「楚の国の総理子文は、三べん総理になれても、
ニコニコせず、三べんやめさせられても平気でした。前総理の事務は、ちゃんと新総理に引きつぎました。どうです…。」先生 ──「忠実だ。」「人道的ですか。」先生
──「さあ、どうして人道的だか…。」「崔(サイ)さんが斉の殿さまを殺したとき、陳文さんは馬四十頭もあったのを、すてて去りました。ほかの国にゆくと、そこには、『くにの家老の崔みたいなのがいる。』といって、去ります。ある国にゆくと、またもや、『くにの家老の崔みたいなのがいる。』といって、去りました。どうです…。』先生
「清潔だ。」「人道的ですかご 先生 ──「さあ、どうして人道的だか…。」</p>
<p>〔一九〕季文さんは、 三べん思案してからなさる。先生がそれをきかれ「二へんでいいんだよ。」</p>
<p>〔二〇〕先生
──「〓武(ネイブ)さんは、平利な世では切れ者、みだれた世ではバカになった。あの切れかたはまねしても、あんなにバカにはなりきれない。」</p>
<p>〔二一〕先生は陳の国で──「帰ろう、帰ろう。くにの青年たちが野ばなしだ。みごとな織り物の、たちかたがわからないでいる。」</p>
<p>〔二二〕 先生 ──「伯夷(ハクイ)・叔斉(シュクセイ)は、うらみを根にもたぬ。だからにくまれない。」</p>
<p>〔二三〕 先生 ──「微生高が実直だって…。人が酢を借りにゆくと、となりから借りてきてやったのに。」</p>
<p><br />
〔二四〕先生
──「おせじや、見せかけ、バカていねいは、左丘(サキュウ)明が恥じとした。わたしモ恥じる。うらみをかくしてつきあうのは、左丘明が恥じとした。わたしも恥じる。」</p>
<p>〔二五〕 顔淵(ガンエン)と季路がかそばにいた。先生 ──「きみたちの願いをいってみないか。」<br />
子路──「乗り物、着物、皮ごろもを、友だちと共有で、いためられても半気だといいな…。」顔淵
──「得手をふりまわさず、手がら顔をしないこと。」子路…ー「先生の願いは…。」先生「としよりを楽にしてあげ、友だちからたよりにされ、若い者になつかれること。」</p>
<p>〔二六〕 先生 ──「もうダメかな…。わしはまだ、あやまちに気づいて、みずからをさばく人を見ないんだ。」</p>
<p>〔二七〕先生 ──「十軒の小村にも、わたしぐらいのリチギ者はあるだろうが、ただわたしのほうが学問ずきだ。」</p>
<p><br />
六 雍くんは 〔雍也第六〕</p>
<p>〔一〕先生 ──「雍(ヨウ)くんは、殿さまにしてもいい。」雍(仲弓)がきく、「子桑(シソウ)伯さんは…。」先生 ──「よかろう。大まかで。」仲弓
──「気はついていて大まかに、民をおさめるのでしたら、それもいいでしょう。大まかな人の大まかなら、ズボラですね。」先生 ──「雍くんのいうとおりだ。「</p>
<p>〔二〕哀(殿)さまがきかれる、「お弟子でだれが学問ずきかね…。」孔先生、のお答え
──「顔回というのがいて、学問ずきでした。やつあたりせず、二度としくじりません。おしいことに、若死にしました。いまはもうおりません。学問ずきは聞きませんです。」</p>
<p>〔三〕子華が斎(セイ)の国にお使いにゆくので、冉(ゼン)先生がかれの母の手当てを願い出た。先生 ──「五、六升おやり。」もっとほしいという。先生
-「では一斗.九升。」冉先生は七石もの食糧をやった。先生ll「赤くんは斉にゆくのに、こ5た馬に乗り、いい毛皮をきていた。わしは聞いている、『こまれば救え、あまればたすな』と。」、原思(ゲンシ)が秘書長として、もらった給料は九百。多いという。先生
──「いいよ。きみの近所となりに施すんだね。」</p>
<p>〔四〕先生は仲弓を批評して ──「マダラ牛の子だが、アメ色でツノもいい。のけものにしようたって、山川の神がすてはせぬ。」</p>
<p>〔五〕先生 ──「回くんは、三つきでも道徳的であり得た。ほかの人は、日に一度か月に一度がせいぜいだ。」</p>
<p>〔六〕季孫さんがきく、「仲由(子路)には、政治をやらせていいでしょうか。」先生
──「由くんは度胸があるから、政治も問題ないです。」また、「賜(子貢)には、政治をやらせていいでしょうか..」先生
──「賜くんはさばけているから、政治も問題ないです。」また、「求(冉求)には、政治をやらせていいでしょうか。」先生
──「求くんは腕ききだから、政治も問題ないです。」</p>
<p>
〔七〕(家老の)季さんが閔士騫(ビン・シケン)を費の町の差配にしようとした。閔子騫がいう、「うまくことわってください。もし二度とこられたら、わたしは国境に逃げますから。」</p>
<p>〔八〕伯牛がライ病なので、先生は見舞いにゆかれ、窓からかれの手をとって
──「おわかれだ。運命だなあ.…。こういう人でも、こんな病気になるのか…。こういう人でも、こんな病気になるのか...」</p>
<p>〔九〕先生 ──「えらいなあ、顔回は。 一ぜんのめし、
一ぱいの水で、裏長屋住まい。ほかの人なら苦にするが…。回くんは、たのしそうにしている。えらいなあ、顔回は。」</p>
<p>〔一〇〕冉求(ゼンキュウ)ーー「先生の教えに不満じゃないけれど、ちからがたりないんです。」先生
──「ちから.のたりないものは、中途でへたばる。きみのは見かぎりだ。」</p>
<p>〔一一〕先生が予、夏におっしゃった、「大らかな学者になれ、ケチくさい学者になるな。」</p>
<p><br />
〔一二〕子游が武城の町長をしていた。先生 ──「きみは人物を見いだしたかね。」子游
──「澹台(タンダイ)滅明というのがいます。わき道をとおらず、公用でないと、わたくしの部屋にもやってきませんです。」</p>
<p>〔一三〕先生 ──「孟之反はゆかしい人だ。負けいくさのしんがりで、町の門まできてから、馬にムチをあて、
『しんがりはイヤだが、馬が走らないんだ。』」</p>
<p>〔一四〕先生 ──「あの祝鴕(シュクダ)の弁才がなくて、美男子宋朝の顔だけでは、とても今の世に無事ではすむまい。」</p>
<p>〔一五〕先生 ──「出るには戸口しかないのに…。なぜこの道をとおらないのかな…。」</p>
<p>〔一六〕先生 ──「気だてが勝てば、野人。手だてが勝てば、知識人。手だてに気だてがつりあい、りっぱにできた人。」</p>
<p>〔一七〕先生 ──「人生はまっすぐなもの。よこしまな生活は、ただまぐれハズれ。」</p>
<p>〔一八〕先生 ──「知っているより、すきであるのがまし。すきであるより、心たのしいのがまし。」</p>
<p>〔一九〕先生 ──「中以上の人には、高級なことをいってよい。中以下の人には、高級なことをいってはならない。」</p>
<p>〔二〇〕樊遅(ハンチ)がチエのことをきく。先生
──「人間の義務をつくし、神をうやまうが、頼らないのは、チエがあるといえるね。」人道をきく。先生1--「なさけのある人が、難題を先にし利益をあとにするのは、人道的といえるね。」</p>
<p>〔二一〕先生 ──「チエの人は水がすき、なさけの人は山がすき。チエの人は動き、なさけの人は静か。チエの人はたのしみ、なさけの人は長生きする。」</p>
<p>〔二二〕先生 ──「斉(セイ)が革新をやると、魯のようになる。魯が革新をやると、理想国になる。」</p>
<p>〔二三〕先生 ──「サカズキとは名ばかり。サカズキなものか。サカズキなものか。」</p>
<p>〔二四〕宰我がたずねる、「なさけのある人は、『井戸に人が落ちています。』といわれたとしても、とびこんでいきますか。」先生
──「なんでそんなことがあるものか。りっぱな人はおびきだされても、おとしいれられないんだ。だまされはしても、バカにはされないんだ。」</p>
<p>〔二五〕先生 ──「読書人はひろく文献をまなび、それを規律でひきしめれば、ともかく本すじにたがわないだろうな。」</p>
<p>〔二六〕先生が南子夫人に会うと、子路がいやな.顔をした。先生は天にちかって ──「わたしに罪があれば、天が見はなす。天が見はなす。」</p>
<p>〔二七〕先生 ──「ほどよさという取りえは、まったくえらいことだな。そういう人がすくなくなって、久しいものだ。」</p>
<p>〔二八〕子貢 ──「ひろく人民に施しをして、みんなを助けたとしたら、どうです…。人道的といえますか。」先生──「人道的どころか…。まさに聖人だな。
あの堯帝・舜帝にさえできかねた。およそなさけのある人は、自分を立てたければ人を立て、自分がとげたければ人にとげさせ身ちかに感じ取ることが、なさけの道というわけさ。」</p>
<p> </p>
<p>七 受けつぐが〔述而第七〕<br />
〔一〕先生「受けつぐが作りはしない。 たしかめて昔をこのむ。おこがましいが彭(ホウ)さんのまねだ。」</p>
<p><br />
〔二〕先生 ──「だまっておぼえこむ。ねばってまなび取る。あきずに手びきする。わしにはほかに能はないが…。」</p>
<p>〔三〕先生 ──「人格もととのわず、学問もきわめられず、正しいことにもついてゆけず、欠点もあらたまらない、わが身のふがいなさ。」</p>
<p>〔四〕先生は自宅では、のびのびとして、たのしそうだった。</p>
<p>〔五〕先生 ──「ずいぶんと、おとろえたものだ。ながいこと、わしは周公さまの夢を見ない。』</p>
<p>〔六〕先生 ──「真理をめざし、個性をたもち、人情にそい、芸ごとをたしなむ。」</p>
<p>〔七〕先生 ──「ほし肉でも持ってくれば、わしはみんな弟子にしてやった。」</p>
<p>〔八〕先生 ──「意気ごまねば手をかさぬ。つかえねば引きださぬ。一方を見せて、三方に気がつかねば、もう教えない。」</p>
<p>〔九〕先生は不幸のあった人との食事では、あまりたべないのだった。死人をおくやみした日には、もう歌わなかった。</p>
<p>
〔一〇〕先生が顔淵(エン)にいわれた、「地位につけばやるし、浪人すれば引っこめる。わしときみだけだな、それがやれるのは。」子路がいう、「先生が総司令官だと」、だれと組みます…。」先生────「トラを手どりにし川をおしわたる、いのち知らずの人とは、わしは組まないね。なんとしても用<br />
心ぶかくて、計画的にやる人とだな。」</p>
<p>〔一一〕先生 ──「金持ちになれるものなら、馬かたのしごとでも、わしはやるんだが…。もしなれないものなら、すきな道をゆこう。」</p>
<p>〔一二〕先生の気を使われたのは、ものいみ、いくさ、やまい。</p>
<p>
〔一三〕先生は斉(セイ)の国で、「韶(ショウ)の曲」を三つきも聞いてならい、肉の味もわからなかった。そしてー-「はてさて、よい音楽はこうもなるものか。」</p>
<p>〔一四〕冉(ゼン)有
──「先生は衛の殿さまにみかたするかな...。」子貢──「そうだな、ぼくがきいてみょう。」奥にいってーー「伯夷・叔斉(セイ)は、どんな人でした…。」先生
──「昔のえらい人だ。」──「不平家ですか…。」先生 ──「生きがいを求めて生き得たら、不平があるものか。」出てきて ──「先生はみかたしないよ。」</p>
<p>〔一五〕先生 ──「まずい物をくい、水をのみ、うでをまげてまくらにする。そうしたなかにもたのしみがある。すじの通らぬ金や地位は、
わしから見れば浮き雲だ。」</p>
<p>〔一六〕先生 ──「もう数年生きて、五十になっても易をやったら、ひどいまちがいはしないだろう。」</p>
<p>〔一七〕先生のいつもいわれるのは、詩と、歴史と、お作法。これはいつもいわれた。</p>
<p>〔一八〕葉(知事)さまが孔先生のことを子路にきく。子路はだまっていた。先生 ──「なぜいわなかった
『あの人ときたら、意気ごむと食事もわすれ、おもしろくて心配もわすれ、年をとるのも気がつかないしまつです。』と。」</p>
<p><br />
〔一九〕先生 ──「わしは生まれながら知ってるんじゃない。古いことがすきで、のがさずに勉強したのじゃ。」</p>
<p>〔二〇〕先生は怪談、暴力、反乱、神秘を語らない。</p>
<p>〔二一〕先生 ──「三人もでやれば、きっとお手本はある。よい点をえらんでまねをし、よくない点があればなおす。」</p>
<p>〔二二〕先生-…1「天から徳をさずかった身だ。桓〓(カンタイ)なんぞに手だしはさせぬ。」</p>
<p>〔二三〕先生
──「諸君はわしに奥があると思うか。わしはきみたちにはアケスケだ。わしのすることで諸君に打ちあけないものはない。それがわたしなんだ。」</p>
<p>〔二四〕先生の教え四すじ- 学問、行動、まごころ、信用。</p>
<p>〔二五〕先生「聖人にはなかなかお目にかかれない。りっぱな人に会えたら、それでいいな。」また
──「善人にはなかなかお日にかかれない。変わらぬ人に会えたら、それでいいな。ないものを有るふりし、カラッポをいっぱいに見せ、貧しいのを鵠かに見せる。変わらぬ心どころか…。」</p>
<p>〔二六〕先生は、サオ釣りだけでナワ釣りせず、飛ぶ鳥は射ても寝鳥は射ない。</p>
<p>〔二七〕先生
──「知りもしないで作る人もあろう。わしにはそれがない。あれこれと聞いて、よいのをえらんでついてゆく。あれこれと見ておぼえておくのも、チエの下地だよ。」</p>
<p>〔二八〕互郷(ゴキョウ)はわからず屋の村。そこの少年が目通りしたので、弟子たちは面くらった。先生
──「かれを受け入れはしたが、出たあとのさしずはしない。だのになぜそうさわぐ…。身を清めてやってきたら、清いものとみとめるんだ。あとのことまで保証はいらぬ。」</p>
<p>〔二九〕先生 ──「人の道は、遠いものかね…。道を求めれば、そこに道があるんだ。」</p>
<p>〔三〇〕陳の国の法務大臣がきいた、「(お国の先代の)昭殿さまは礼式をこぞんじでしたか…。」孔先生
──「心得ていました。」孔先生がさがると、大臣は(先生の弟子の)巫馬期(フバ・キ)にあいさつして招ぎよせ、──「人物はヒイキせぬそうだが…。人物でもヒイキしますかね…。奥方は呉の人で、おなじ姫(キ)姓なのに、子(シ)姓のようによんでいた。あれで礼式を知っていたら、だれでも知ってるでしょう。」巫馬期が、そのとおり告げる。先生
──「わしはしあわせだ。ヘマをやろうものなら、人が気づいてくれる。L</p>
<p>〔三一〕先生は相手の歌うのが気にいると、きっとくりかえさせて、あとで合唱した。</p>
<p>〔三二〕先生 ──「学問は、わしも人なみであろうが…。りっぱな人のおこないとなると、まだ身についてはいない。」</p>
<p>〔三三〕先生ーー「『聖人』とか『人道的」とは、とんでもない。まあ熱心にまなんで、根気よく教えているのが、取りえといえるくらいのものだ。」公西華
──「それこそはわたしらのまねのできないことです。」</p>
<p>〔三四〕先生は病気が重い。子路が「おまじないを…」という。先生
──「そんなことがあるのか。」子路は答えて-──「ありますとも。礼拝の文句に、『そなたをあめつちの神にいのる』と。」先生
──「わたしは長らくいのってきた。」</p>
<p>〔三五〕先生 ──「ゼイタクは鼻につき、しまり屋はヤボくさい。鼻につくものよりは、ヤボがいい。」</p>
<p>〔三六〕先生 ──「人物はユッタリと落ちつき、俗物はいつもクヨクヨする。」</p>
<p>〔三七〕先生はおとなしいが、きつい。いかめしいが、あらっぽくない。ていねいだが、さばけていた。</p>
<p><br />
八 泰伯さま〔泰伯第八〕</p>
<p>〔一〕先生──「泰伯さまは、この上もない徳の人だったことになる。とうとう国をゆずりながら、国の人がほめるきっかけもないんだ。」</p>
<p>
〔二〕先生────「きりのないていねいはくたびれもうけ。きりのない用心はいじけさす。きりのない元気はさわぎのもと。きりのない一本気はなさけ知らず。上の人が身内によくすると、人民も人情味がます。古い人をわすれないと、人民も人によくする。」</p>
<p>
〔三〕曽(ソウ)先生が死にぎわに、弟子たちをよんでいうにはー-「足を見ておくれ。手を見ておくれ。歌に、『おそれつつしみ、ふちべをあゆみ、うす氷ふみ』とある。これよりのちは、おそれもいらぬわ。諸君。」</p>
<p><br />
〔四〕曽先生が病気で(家老の)孟敬さんが見舞った。曽先生は口をきいて
──「鳥も死にぎわの、鳴き声はさびしい。人も死にぎわの、ことばはまともです。上の人にだいじな心がけが三つ。ものこしは、ガサツにならぬよう。顔つきは、たのもしさをますよう。口ぶりは、下品にならぬよう。うつわ物のことなど、係りがあるはずです。」</p>
<p>〔五〕曽先生
──「才能があるのに無能の人にたずね、知識があるのに無知な人にきく。才能もなく、知識もないようで、してやられても張りあわない。むかし友だちにそういうのがいたっけ。」</p>
<p><br />
〔六〕曽完生 ──「十四五歳の若ぎみと、一つの国の政治をまかされ、重大なときにもビクともしないのは、りっぱな人か…。りっぱな人だ。」</p>
<p>〔七〕曽先生
──「知識人はたくましくなくてはダメだ。任務は重く道は遠い。人類愛が任務とあれば、重いではないか。死ぬまで続くとあれば、遠いではないか。」</p>
<p><br />
〔八〕先生──「詩に心いさみ、規律のなかに生き、音楽に高められる。」</p>
<p>〔九〕先生──「人民に信頼はさせても、理解はさせにくい。」</p>
<p>〔一〇〕先生 ──「いさみハダの貧乏ぎらいは、ただではすまぬ。ろくでなしを、ひどくにくむと、ただではすまぬ。」 .</p>
<p>〔一一〕先生ーー「周公さまほどのすぐれた才能でも、もしいばって教えなければ、ほかは見るまでもないことだ。」</p>
<p>〔一二〕先生 ──「なが年学問をしながら、役人になろうとしないのは、めずらしい人だ。」</p>
<p>〔一三〕先生
──「心から学問をし、いのちをかけて真理を守る。つぶれる国にはゆかず、乱れた国には住まぬ。まともな世には身をあらわし、まがった世には身をかくす。まともな国で、貧乏浪人とは、ふがいない。まがった国で、栄華な身分も、人でない。」</p>
<p>〔一四〕先生──「本職でないのに、口だしはしない。」</p>
<p>〔一五〕先生 ──「摯(シ)楽隊長の第一曲、『ミサゴの歌』のおさめは、あふれるばかりに耳に残ったなあ。」</p>
<p>〔一六〕先生 ──「野ほうずでひねくれ、無知なくせに出しゃばり、無能でいてズボラなのは、わしにも処置なしだ。」</p>
<p>〔一七〕先生 ──「追っかけどおしでも、のがしそうなのが学問。」</p>
<p>〔一八〕先生────「大したものだ、舜(シュン)帝や禺(ウ)王が世をおさめるのは、かかわりがないみたいだ。」</p>
<p>〔一九〕先生
──「えらいなあ、堯(ギョウ)さまの⊥さまぶりは。山のごとく、ただ天を上にし、堯さまがそれにあやかる。海のごとく、人はもうことばがない。そびえ立つ、その建設のあと。かがやかしい、その文化のすがた。」</p>
<p>〔二〇〕舜帝には部下が五人いて、世のなかがおさまった。(周の)武王は、「うできき十人をかかえた。」といった。孔先生
──「『人物難」とは、まったくだな。堯.舜のころよりも、周のほうが多い。だが女がいたからじつは九人だ。それで天下を三つにした二つをもち、しかも殷につかえていた。周のゆかしさは、この上もないものといえるだろう。」</p>
<p><br />
〔二一〕先生
──「丙(ウ)さまは、アラのさがしようがない。食事は手軽にしても、祭りは手あつくした。ふだん着はわるくても、礼服はみごとだった。御殿はちいさくしても、ミゾ川には手入れをよくした。属さまは、アラのさがしようがない。」</p>
<p> </p>
<p><br />
九 先生はめったに 〔子罕第九〕<br />
〔一〕先生はめったに利益や、運命や、人道を語らない。</p>
<p>
〔二〕達巷(コウ)村のだれかがいう、「えらいや、孔先生は。なんでも知ってて、なに屋でもない。」先生はそれをきき、弟子たちにむかって──「なに屋になろうかな…。馬かたか…。弓ひきか…。わしは馬かただ。」</p>
<p>〔三〕先生
──「黒麻のかんむりが本式だ。いま絹にするのは、略式。わしもそれでいい。下でおじぎが本式だ。いま上にあがってするのは、思いあがり。みんなとはちがうが、わしは下でする。」</p>
<p>〔四〕先生のしないこと四つ。かんぐらない、思いさだめない、こだわらない、わがまましない。</p>
<p>
〔五〕先生は、匡(キョゥ、という土地)でとんだ目にあい、いわれた、「文王はいまはないが、文教はここにあるぞ。天が文教をほろぼす気なら、のちの人はおかげをこうむれないはず。天が文教をほろぼさないかぎり、匡のものはわしをどうにもできぬ。」</p>
<p>〔六〕大宰(だざい)職のかたが子貢にきいた、
「先生は聖人ですな。どうしてああ多芸でしょう…。」子貢──「天のおさずけですもの、聖人みたいで多芸ですよ。」先生がそれをきかれ
──「大宰どのはこぞんじか…。わしは若いとき下っぱで、雑務をよくこなした。人物は多芸なのかね…。多芸じゃない。」牢がいう、「先生はね、『浪人したおかげで、多芸だ。』って。」</p>
<p>〔七〕先生「わしに知識があろうか。知識はない。無学な人のたずねるのは、あけっぱなしだから、わしはあれこれときいて説きあかすのだ。」</p>
<p>〔八〕先生 ──「めでたい鳥も出ず、竜馬も現れぬ。わしもゆきづまりか…。」</p>
<p>〔九〕先生は喪服の人、礼装の人、それにメクラの人と会うと、年下とわかっても席を立った。まえを通るには、小走りした。</p>
<p>
〔一〇〕顔淵がつくづく感心していう、「下から見ればいよいよ高く、もぐりこむにはいよいよかたい。まえにあると見るまに、たちまちうしろになる。先生は手順よく人をみちびかれる。文献で目をひらかせ、規律で身をひきしめる。やめようにもやめられず、こちらは精いっぱいだ。スックと高いところに立たれたようで、ついてはゆきたいが、手がかりがないんだ。」</p>
<p>〔一一〕先生の病気が重い。子路は弟子たちを家来にしたてた。持ちなおした先生
──「まえまえからだな、由くんがとりつくろうのは。ない家来をあることにして。だれをだまそう…。天をだますか。それにわしは家来なんぞにみとられて死ぬよりは、いっそ学生諸君にみとられて死にたいものじゃな。ましてわしはりっぱな葬式はしてもらえなくても、このわしが野ざらしになることもあるまいしさ。」</p>
<p>〔一二〕子貢 ──「きれいな宝石があります。箱にしまっておきましょうか、いい値段で売りましょうか。」先生
──「売るんだな。売るんだな。わしも売り物に出てるよ。」</p>
<p>〔一三〕先生が未開地に住みたいという。だれかが「下品で、しようがないでしょう。」先生──「まともな人が住めば、なんで下品なものか。」</p>
<p>〔一四〕先生 「わしが衛から魯に帰り、そのあと音楽も立ちなおり、雅楽も納まるところに納まった。」</p>
<p>〔一五〕先生
──「そとでは目上につかえ、家では年上につかえる。とむらいごとはゾンザイにしない。酒に飲まれることもない。わしにはなにも取りえはないが…。」</p>
<p>〔一六〕先生は川のほとりで──「時もこうして流れ去るのか。昼となく夜となく...。」</p>
<p>〔一七〕先生 ──「わしはまだ、道徳が女ほどすきな人には会わない。」</p>
<p>〔一八〕先生
──「山をつくるときに、あと一ぱいの土でも、やめたら、それっきりだな。くぼ地をうめるときに、ただ一ぱいの土でも、人れたら、そこからだな。</p>
<p>〔一九〕先生 ──「おそわるとシッカリやるのは、まあ回くんだろうな。」</p>
<p>〔二〇〕先生は顔淵を批評して ──「かしいことをした。いつも向⊥して、やまない人だったよ。」</p>
<p>〔二一〕先生 ──「芽は出ても穂の出ぬのが、あるんでなあ。穂は出ても実のらぬのが、あるんでなあ。」</p>
<p><br />
〔二二〕先生 ──「若い者はこわい。どうして未来がわれわれ以下だといえよう。四十、五十になっても知られないようなら、それはもうこわくないがね。」</p>
<p>
〔二三〕先生-──「正面きった意見は、きかずにいられようか。あらためるのがよいこと。遠まわしの意見は、喜ばずにいられようか。さぐりだすのがよいこと。喜んでもさぐらず、きいてもあらためないなら、わしにもそんな人はどうしようもないさ。」</p>
<p>〔二四〕先生──「まごころを第一とし、つまらぬ人とつきあわぬこと。あやまちはアッサリあらためよ。」</p>
<p>〔二五〕先生──「集団は、大将を人れかえてもいい。個人は、意志をうばうわけにいかぬ。」</p>
<p>
〔二六〕先生-──「ポロ綿人れをまとい、よい毛皮をきた人とならんで恥じないのは、まあ由くんだな。『ねたまず取らず、これよからずや。』」予路はいつもこれをとなえる。先生
──「そんな心がけは、よいことのほかじゃ。」</p>
<p>〔二七〕先生 ──「寒さがきて、ようやく松やヒノキの根づよさがわかるね。」</p>
<p>〔二八〕先生 ──「チエの人はまごつかない。なさけの人は苦にしない。勇気の人はおびえない。」</p>
<p>〔二九〕
先生「いっしょに学べても、いっしょに進めるとはかぎらぬ。いっしょに進めても、いっしょにガンバれるとはかぎらぬ。いっしょにガンバれても、いっしょに分別できるとはかぎらぬ。」</p>
<p>〔三〇〕『ニワウメの花、ヒラリやハラリ。思うおかたの、お里は遠い。」先生──「思っていないんだな。なにが遠いものか。」</p>
<p> </p>
<p>郷里では〔郷黨第十〕</p>
<p>〔一〕孔先生は郷里では、ただもうおとなしくて、口もきけないようだった。だがお宮や御殿では、ハキハキものをいい、ただつつしみがあった。</p>
<p><br />
〔二〕御殿で、下の家老と話すのは、なごやかそうである。上の家老と話すのは、きまじめそうである。殿さまのまえでは、「気をつけ」をしながらも、シャチコばらずにいる。</p>
<p>
〔三〕召されて接待役になると、顔つきがあらたまり、足どりも重重しい。ならんだ人とあいさつするのに、手を横にうこかすが、着物のまえうしろは、キチッとしている。いそぎ足には、羽をひろげたよう。客が帰ると、かならず報告にきて
──「お客はあのまま帰られました。」</p>
<p>
〔四〕ご門を入るには、身をまるくかがめて、入りにくいかのよう。通路のまんなかに立たず、シキイをふんだりしない。(殿の)お立ちどころを通るには、顔つきをあらため、足どりも重重しく、口をきくにも舌たらずのよう。スソひきあげて広間にのぼるには、まえこごみになり、ジッといきを殺したかたち。出しなに一段おりると、顔つきがゆるんで、ホッとしたかのよう。段をおりきるといそぎ足で、羽をひろげたよう。席にもどると、かしこまっている。</p>
<p>
〔五〕(殿さまのしるしの)玉を持つと、身をかがめて、持てないかのよう。あげてもおじぎの高さ、さげても物をわたす高さ、顔つきは用心そのもの。足は持ちあげず、物がからんだよう。贈呈式には、顔をやわらげ、懇親会には、ニコニコしていた。</p>
<p>
〔六〕ご自身はコンやクリ色(のような喪服ふう)のヘリをつけず、赤や紫(のようなハデな色)はふだん着にもつくらなかった。夏にはひとえの麻ごろもで、かならず下着をかさねる。黒い服には黒ヒツジの皮、白い服には子ジカの白皮、黄色の服にはキツネの皮をあしらう。ふだん着は長くし、右ソデをつめる。ネマキは別にして、身のたけと半分。キツネやムジナの毛ぶかい皮が家庭着。喪中のほかは、玉などをいつも身につける。祭りばかまのほかは、みなヒダをとらぬ。羊の皮に黒かんむりでは、おくやみにゆかぬ。ついたちには、宮中服で参内する。</p>
<p>〔七〕ものいみには、清いころもを着、それは布製。ものいみには、たべ物を変え、居場所も変える。</p>
<p>〔八〕
米は精白ほどよく、ナマスは細くきざむほどよい。飯のすえてまずくなったのと、魚や肉のいかれているのは、たべない。色のヘンなのは、たべない。においのヘンなのも、たべない。火加減のわるいのは、たべない。時期はずれは、たべない。切りかたのまがったのは、たべない。タレが合わないと、たべない。肉が多くても、飯をおかずのようにはしない。酒だけは、量をかぎらぬが、酔っぱらいはしない。街の酒やほし肉は、口にしない。肉にはショウガを放さぬ。たべすぎをしない。殿の祭りでいただいた、肉は晩を越させない。家の祭りの肉も三日を越させない。三日を越すと、たべないことにする。たべながら口をきかぬ。寝ながらものをいわぬ。ただの飯、菜っぱ汁、ウリ類でも、感謝の気もちでささげる。</p>
<p>〔九〕しき物がゆがんでいると、すわらない。</p>
<p><br />
〔一〇〕村の宴会では、(六十以上の)老人が帰ると、すぐ帰りかける。村の「やくばらい」には、礼服をきて戸主の位置に立つ。</p>
<p>
〔一一〕他郷の人を見舞わせるときは、二度おがむおじぎをして送りだす。(家老の)季康さんが薬をとどけると、おじぎをして受けとり、──「わたしは不案内ゆえ、あとでいただきます。」</p>
<p>〔一二〕馬小屋が焼けた。先生は御殿からさがって、「ケガ人はないか…。」馬のことはきかなかった。</p>
<p>
〔一三〕殿からお料理をたまわると、しき物にちゃんとすわって自分がまずいただく。なま肉をたまわると、かならず煮て先祖にそなえる。生きものをたまわると、かならず飼っておく。お相伴のときには、殿のおそなえがすむと、お毒見をする。病気で、殿が見舞われると、東まくらにして、礼服をかけ、かざり帯をのせる。およびだしがあると、馬車を待たずに歩きだす。</p>
<p>〔一四〕大神宮では、いちいち人にきく。<br />
</p>
<p>
〔一五〕友だちが死んで、ひきとり手がないと、──「わたしがあずかりましょう。」友だちのおくり物は、車や馬であっても、おそなえ肉でなければ、わしいただかない。</p>
<p>
〔一六〕寝るには、のびきらない。家では、とりすまさない。喪服の人を見ると、心やすくても、顔をひきしめる。かんむりの役人、それにメクラには、ふだんでも、身じまいをただす。野べの送りの人には、車からでもおじぎする。国の書類を持った人にも敬礼する。大ごちそうには、顔つきを変えて立ちあがる。カミナリ大風にも、顔をひきしめる。</p>
<p>〔一七〕車に乗るには、足もとをしっかりし、ツナにつかまる。乗ってからは、うしろを見ず、 セカセカものをいわず、指さしをしない。</p>
<p>
〔一八〕人の顔つきで、鳥は舞いあがり、クルグルまわって、それからおりる。先生──「山の橋のメスキジ、時を知る、時を知る。」子路がつかまえようとすると、ウサンくさそうに飛び立った。</p>
2023-02-02T00:34:19+09:00
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昔夢会筆記・明治四十三年一月二十五日
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/50.html
著作権切れと判断したので公開しましたが、
渋沢栄一財団の方で、既に公開されていることに気づきましたので、更新することはやめております。
[[https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK470130k_text]]
第八
明治四十三年一月二十五日兜町事務所に於て
興山公
豐崎信君
猪飼正爲君
男爵 澁澤榮一
澁澤篤二
法学博士 男爵 阪谷芳郎
文学博士 三上參次
文学博士 萩野由之
江間政発
渡辺轍
井野辺茂雄
藤井甚太郎
高田利吉
○藤井 私から御伺ひ致します、安政六年八月二十七日、思召の御旨があらつしやるといふことで、御前に御隠居御慎といふ御達がありました、其御慎といふことにつきましての御前の思召は、先年承つたことがございますが、新家雑記といふものに依りますと、其時御前は唯深き思召といふ一言では甚だ御不審があらつしやつて、つきましては御家の御瑕瑾にもなることであるから、一応如何なる罪科であるかといふことを御尋ね申せといふことで、御家老の竹田豊前守に御話がございまして、豊前守が老中の松平和泉守の処へ参つて、御前の思召の所を申述べました処が、和泉守が永いことでもありますまいから、|素直《スナホ》に御受けなすつた方が御為であらうといふことを御話したといふことが書いてあります、其事は外に見えませぬでございますけれども、新家雑記といふ書物だけに今までの処では見えて居ります、実際豊前守などを御遣りになりまして、和泉守との御問答があつたものでございませうか、それを御伺ひ致したうございます、新家雑記にはかやうに書いてございます、
〈中略〉
○公 考へたけれども、それはどうも覚がないやうだ、思召これあるについて隠居謹慎といふことは、それは御書附があつた、それで畏まつただけで、何の訳であつたかといふことは、どうも無いやうだ、ここにある不肖の我等御屋形を汗《(汚)》す段幾重にも恐入るといふ書面を、出したことがあつたかどうだつたか、
○猪飼 どうもさういふことはございませぬやうに思ひます、
○公 竹田豊前守が和泉守の処へ行つて口上の趣を申した処、和泉守が永いことでもあるまいから、素直に受けた方が宜からうと言つたといふことが、これも|訝《ヲカ》しな返事で、畢竟どういふ罪状だか、それを伺ひたいといふ節に、そんなに永いことでもなからうから、素直に慎んで居れといふのは、訝しな返事だ、罪があるとか無いとかいふならとにかく、少しの間だからまあ慎めといふのも、どうも閣老の答としては何だか瞹昧だ、どうも無いやうに覚えて居る、
○猪飼 どうもさういふことは無いやうに思ひます、
○阪谷 どういふ本ですか、
○藤井 水戸の新家といふ人の雑記から書抜きましたものです、
○阪谷 水戸にさういふ家がありますか、
○猪飼 覚えませぬ……、私は御側に仕へて居りますから、能く御様子は伺つて居ります、御側の者が余り御慎が過ぎると思ひまして、実は切歯扼腕といふ感じもございました、誠に唯仰せの儘で、少しもどういふ事柄であるといふことの御尋もない、余りのことであるといふやうに皆申して居つたので、さういふ御詞のあつたことは、確に無いやうに思ひます、
○公 どうも素直に御受をしたやうに覚えて居るがね、
○萩野 御慎の時に、斯ういふことをしてはならぬ、幕府や御先代の御霊屋にも参詣に及ばぬといふやうなことを、細かく箇条書にしたものがありますが、一々幕府から、何をしてはならぬ、斯ういふことをしてはならぬといふことが、出ますものでございませうか、
○公 それは慎といへば何もしないことに極まつて居る、何をしろ彼をしろと、そんなことはない、先づ通常ならば、慎といへば他出もしないし、書見でもするといふくらゐで、一室に閉ぢ籠つて居るのが通常なんだけれども、私は先頃も話した通り、麻上下を著けて、雨戸をちやんと締めて、此くらゐの竹を切つて其間へ挾んで、内に慎んで居た、自分に何もないのだから、どこまでも厳格に慎むといふ積りであつたのだ、それから推して見ても、どんな訳だの何だのといふことを聴くのは、少し意気組が違ふのだ、
〇三上 先例書を、或は君側の者にでも送つたといふことはありませぬか、例へば病気の時に医者をどうするといふやうなことがありますそんなことを、老公でなく、誰か君側の人に送つたといふやうなことはありませぬか、
○公 決してそんなことはない、何もないやうだつたね、
○猪飼 何もありませぬ、外の御三家の方はさういふことがありますけれども、御三卿は誠にさういふやうな規則といふものはありませぬ 御慎といふことは、屋形といふものが出来てから始めてゞありますから、規則といふものもなければ、何もありませぬ、唯御素直にあらせらるゝの外ないといふくらゐのものであつて、御前の思召で雨戸を御引かせになり、御服を御正しになつて、朝からずつと御慎みで、規則でもなければ誰が申上げたでもなく、ほんの御自身の御考だけであります、
○萩野 これは一橋家の日記にあるのでございます、箇条書を読上げませう、
〈中略〉
○公 それは一橋から家中へ達したんだらう、公辺の方から出したんぢやなからう、
○江間 御屋形へは勿論御屋形から御達になつたには違ひないですが其御達になりましたについて、どのくらいの程度といふことは、幕府から出ましたやうに見えまするのです、
○公 尾州にしろ何にしろ、又は旗下にしろ、蟄居とか謹慎とかいふことを申付けても、其者へ対して斯く〳〵致せといふことを言つたことはない、蟄居なら蟄居致せといふだけで、何はどうする斯うするといふやうな差図は決してしない、それで不謹慎の者は、後で慎み中甚だ不謹慎だからといふことはあるが、どうもそれから推して見ても、斯ういふことを公儀から出すといふことはない筈だと思ふ、
〇三上 私の考では、御三卿は知りませぬが、大名の慎といふ時は、出るだろうと思ひます、さうでないと、慎といふものゝ標準が分らない、柳営秘鑑などにも、これに似たものがあるやうです、
○公 場合に依つては、慎み罷り在るべし、或は他人に面会を差止めるなどゝいふやうなことも随分あるやうだけれども、斯ういふことはなかつたよ、
○萩野 幕府や御先代の御霊屋へも、御参詣をしないで宜いといふやうなことは、老公御自身からでなく、他から即ち他動的に出たことのやうにも見えます、即ち「公儀並御手前御霊前向御名代無之候事」といふ箇条は、老公から御屋形へ御触れになる御詞としては、少し穏でないやうですが、
○公 家老から家中へ達したものちやないか、御謹慎に対しては一同さう心得ro
と……、
○猪飼 御家老から内意を伺つて一同へ達したものゝやうに思ひます
○公 家老が独断ぢやあ遣らない、内意は聴いたらうよ、かやうなことに仕るといへば、それが宜からうといふやうなことだつたらうと思ふ、
○江間 さういふ訳でありますと、それが能く分つて来ますな、御慎といふことを仰せ付けられたが、どのくらゐにして謹慎を表したら宜いかといふことは、どうしても伺はなければならぬ、
○公 どうしても謹慎といふことを言はれる以上は、そんなことを言ふことは出来ぬ、謹慎中は家中といへどもそんなことは言へない、だから家老がさういふ箇条を拵へて内々耳打ちをして、至極宜からうといふやうなことで遣つたんぢやないか思ふ、
○江間 それでありますと、一橋家日記も大変都合が宜くなつて参りますな、
○猪飼 此時は御附といふものは一人もないです、皆御屋形附といふので、御前の御附といふものはない訳になりましたのです、
○萩野 それも此日記の初の一箇条にございます、
○公 一橋附といふと、離れて見ると家来ではない訳になる、
○猪飼 今までは刑部卿附、今度は一橋附といふことになりましたから、御家来といふものは一人もない形になりましたのです、それで御家老が一同へ達するのに、伺つてしましたことゝ思ひます、
○江間 大変なものですな、親御様の御霊屋へも御挨拶がいらぬといふのですから、
○阪谷 御謹慎といふと、動かざる姿勢……、不動の姿勢を取らなければならぬ、
○江間 成程今までは謹慎といへば、不動の姿勢を取らなければならぬが、少しこれが緩んで見ると、其程度がなくてはならぬから、他人に面会はならぬとか、文通を差控へうとかいふことが起つて来たのではないかと思ひます、
○井野辺 生麦事件が起りました時、其報知が幕府に達しますと同時に、幕府ではこれに対する評議を致しました、其時に幕府の諸役人は島津三郎の挙動に対して非常に不快の念を抱いて、これはきつと殊更に外国人と争を開いて、幕府を困難の地位に陥らしめやうといふ策略に相違ないといふので、大層憤激致しました、殊に御目付の服部帰一などは、速に兵を出して島津三郎を追撃しなければならぬといふ、過激の議論まで致しました、併し老中は、今の場合はさういふ過激のことをすると、却て天下の騒乱になるやうな虞があるから、先づ其儘にして、臨機の処置をするが宜からうといふやうなことでございましたが、春岳侯はそれに反対されて、島津三郎にして幕府を尊崇するだけの念慮があるならば、神奈川か程ケ谷あたりに滞在して下手人を出し公儀の御差図を待つべき筈であるのに、其手続をせずして、後始末を幕府に託し、知らぬ顔をして京都へ行つてしまふといふことは甚だ不都合であるから、速に旅行を差止めて下手人を出させるやうにしなければ、幕府の御威光が立たぬといふ意見でございましたが、老中は今申しました通り穏和の意見でございましたので、春岳侯の意見は行はれませぬでございました、其時御用部屋での御評議の際、御前の御意見はどういふことでございましたらうか、老中と同じやうな御意見でございましたらうか、
○公 あの時は実は突然に出来たことで、討つてしまふが宜いの、或はどうするが宜いのと、色々議論があつたんだね、それでつまる処、あの出来事があると三郎は急いで上京する、こちらで評議をしても今更如何とも仕方がないから、あちらへ掛け合つて下手人を出させ、それを外国人の前で処刑する、償金は償金で出す、到底それより外に手段はないといふことに結著したんだね、早く追掛けてどうするといふやうな議論もあつたのだが、結局それより外に仕方がないといふことに極まつたのだ、私も別に考といふものはない、つまりそれより外になしのだ、
○江間 さう致しますると今の春岳様の御論が行はれましたのですか
○井野辺 行はれないのです、春岳侯は三郎の旅行を差止めろといふのです、
○公 三郎を止めて置いて始末をつけろといふのだ、然るに三郎は行つてしまつたから、それはそれで構はずに、あちらへ達して、さうして下手人を出させて、外国人の前でちやんと処刑して見せて、それで償金は償金で相当に遣る、それより外はないと斯ういふことになつたんだ、それで其時分は、掛け合へば向ふで恐れ入つたといつて出すだらうといふ考であつた、処が掛け合つて見ると、供の中で誰がしたか分らぬから、是非出せといふなら、三百人とか居つた供を残らず差出すから、宜しく願ふといつたやうなことなんだ、それで此生麦一条は大変むづかしくなつた、
○井野辺 あの時に春岳侯ハ、多分英吉利といさくさが起るに相違ない、然るに京都あたりの御守衛が如何にも薄弱である……、丁度其時大原三位が関東に滞在して居りまして、生麦事件の起りました翌日立ちましたのですが、其勅使に従つて老中が一人京坂地方に上つて、御守衛に当らなければならぬといふ説でございましたが、其春岳侯の主張に対しまする御前の御意見は、どういふことでございましたらうか
○公 それは今記憶しないがね。
○井野辺 其時に神奈川奉行をして居りました阿部越前守が、其事件が起りますと同時に、島津三郎の程ケ谷の宿舎へ、支配組頭若菜三男三郎といふ者を遣はしまして、下手人を差出せ、さうして此事件落著するまで程ケ谷に滞在して居れといふことを掛け合ひました処が、三郎は聴入れないで、其翌日立つて京都へ上つてしまひました、そこで越前守は小田原藩に対し、箱根の関を閉ぢて三郎の上洛を喰止めるやうにといふ命令を伝へました、尤も自分一己の考でしましたので、幕府の指令を待つて遣つたのではありませぬ、其知らせが幕府に達しますると、幕府の方では非常に驚きまして、さういふことを遣つては困る、今三郎の機嫌を損じては、京都の首尾を損ずるから大変だといふので、急に越前守を責罰し、小田原藩には急使を遣つて、差支なく通過させろといふ命令を発して、無事に落著を致しました、其越前守の始末なども、定めし御評議になつたことゝ思ひますが……、
○公 其評議のことは記憶しないが、今ちよつと考へるに、神奈川の奉行が島津三郎を止めるといふことは出来まいと思ふ、島津三郎に止まつて居ろといふ命令を出すといふことは、神奈川奉行には出来ない筈だが、
○井野辺 さういふ事実があつたといふことは御記憶でございませぬか、
○公 どうも記憶しない、
○井野辺 田辺蓮舟の書きました幕末外交談といふものに書いてありますが、其他には何も見えませぬので、それで伺ひました、
○公 仮に神奈川奉行が止めたのを島津三郎は聴かずに行つても、私は其方が本当だらうと思ふ、神奈川奉行の命を聴く訳がないのだから聴かずに行つた処が、なぜ聴かなかつたと咎めることは出来ない、神奈川奉行は三郎を止めるといふ何はないのだから、どうもどんなものだらうか、能く記憶しない、
〇三上 それは其命令といふことは出来ないが、神奈川奉行から小田原へ言つて遣つて止めさせる、一面は幕府へ届けて、幕府で評議の結果、三郎の機嫌を損ずると宜くないから通せといふやうなことを小田原へ言つて遣る中には、時日は経過してしまふ、事実出来ないことゝ思ふ、
○公 何でもあの時は兼行して、何日とかで行つたといふことだ、止めるどころぢやない、間に合はなかつたのだ、
○江間 其時に英吉利の公使の方でも、兵隊を繰り出して島津を止めるといふ運動があつたやうに思つて居りますが、
○井野辺 さうでした、
○江間 私の考へますに、固より神奈川奉行から公然と命令は出来ませぬけれども、あの一条は実に幕府に取つては大事件である、それを命令することが出来ぬから己の職掌ではないといつて、見す〳〵そこへ来た機会をぼんやりして捨てゝ置くといふことも出来ますまい、越前守は成程命令する職権はありませぬが、これは実に容易ならぬ大事と認めましたからには、職権はともかくも、臨機の活動で、島津であらうが何であらうが、差止めるくらゐのことは遣つたらうと思ひます故に私は至極越前守に同情を表して居るのであります、だが併し、これは田辺と小田原に一つ聴いて見るが宜しうございますな、
○阪谷 其時阿部越前守の一番心配すべき点は、島津を逸するにあらずして、英吉利の兵隊が居留地以外に出て、日本の大名を砲撃するといふことで、これは大変なんだ、さうすると国体に関するから、それをさせてはならぬ、だから横浜の居留地以外に一歩も出ちやならぬといふことは言ふかも知れない、それについては、阿部が如何なる非常手段を執つても差支ない、ついては其島津に、暫く御止まり下さいませぬかといふことは言ふかも知れぬが、止まれといふ差紙は附けられまい、だから相談はしたかも知れぬ、
○江間 私は逸速く言ふだらうと思ふ、無論止まれと言つて命令は出来ませが……、
○阪谷 今の関所を締めるといふこともえらいな、関所破りといふことになるのだから、
〇三上 今の三郎の機嫌を損じては京都の都合が悪いといふので、小田原へ人を遣つたといふことも、想像が出来ぬですな、
○阪谷 幕府から直接に小田原へ達したのですか、
○井野辺 さう書いてあります、
○阪谷 それを聴くと同時に、大変だといふので、幕府から小田原藩に重ねて命令を下したといふことがあるのですな、
○井野辺 さうです、
〇三上 神奈川から小田原まで何里ですか、
○阪谷 東京から三十里ですから、二十里くらゐのものでせう、
〇三上 それは島津の日誌を調べて見れば分る、それから英吉利の態度は外交掛の記録がございますから、それを一遍参考の為に御覧なさると宜い、
○阪谷 島津三郎が程ケ谷へ泊つて、其次には大磯で泊つたか、或はすぐに小田原へ行つたか、一日は泊つて居る訳でせう、幾ら昼夜兼行でも……、
○江間 それは三郎の日記にあるでせう、
○井野辺 三郎の履歴書にも大久保一蔵の日記にもあります、
○江間 さうすると先づ小田原を聴いて見るのですな、
○公 小田原へ聴いたら分るだらう、
○江間 若菜三男三郎を遣つたなどゝいふことを言つて居るのですからな……、それから今の三郎を止めるといふ春岳様の議論が行はれると面白かつたのですが、不幸にして行つてしまつた、彼の機嫌に障るといかぬから、まあ自由にして置いて、どこへ行つても後から掛合が出来るからと斯ういふことになりますと、幕府がちと弱くなりますな
○阪谷 幕府の評議は止めぬというのですな、
○江間 さうです、京都へ行つてから差紙を附けたのです、事実さうなつて居ります、其止めぬといふのは、今彼に手を附けると京都の方が不首尾になるかも知れぬからと、斯ういふことに帰著するのですな
○公 それがだね、幕府に威力が十分あれば止めるにも及ばない、国へ帰つた上で、さあ下手人を出せ、出さなければこちらが勘考がある斯ういへば済むのだ、京都へ行かうと国帰へらうと子細はない、下手人を出せと達すればそれで宜い、いや私にはございませぬ、あつたものを無い、愈かといふ訳になると、恐れ入りましたといつて出す外はない、処がこちらはさうはいかぬから、まあちよつと止めて置いてといふ中に、向ふは何も構はずにずん〳〵行つてしまつたといふ訳だ、こちらに威力があれば、向ふから止まる訳になる、勢がさう違ふ、彼の機嫌を損つては宜くないといふのがこちらの弱味だ、威力があれば国へ帰らうと京都へ帰らうと、一本手紙を遣ればそれで事は分る、後で掛け合ふと、誰がしたか分らぬ、出せといふなら三百人残らず出しませう、然らばそれを出せと斯ういへはば《ママ》宜いのだ、処がそれがいへない、其訳だからむつかしい、
○阪谷 三百人残らず出すといふのが、既に嘲つた詞ですな、
○公 さうだ、誰か分らぬなら残らず出せ、三百人首を斬つてしまふ それで宜いのだ、けれどもそれが出来ぬのだから大変むづかしい
○江間 平たくいへば|怖《コハ》いのですな、怖いといふことが公儀の方に十分ある、それで以て向ふの強い|奴《ヤツ》を処分しやうといふのだから、事は面倒だらうと思ひます、
○井野辺 文久二年に将軍家が愈御上洛の御評議が纏まりました、併し当時京都の形勢は、非常に過激の攘夷論者が集まつて居る、さういふ処へ急に将軍家が御出でになるのは宜しくないから、御上洛の前に後見職が総裁かゞ先に御出でになつて、色々御交渉のあつた後に御出での方か宜からうといふので、九月五日に御前に御上京を願ふといふ御評議がありましたが、固く御辞退なさいましたので、評議が纏まりませぬでございました処が、十二日になりまして遂にこれを御受になりました、数日の後に御受になりますることを、数日前に固く御辞退になりましたのは、何か其間に御事情でもありましたのでございませうか、
○公 それは三条・姉小路が攘夷のことを持つて来た時だ、とても攘夷は出来ないから辞職するといつて引込んで、それから其後に色々何があつて、先頃も大体は話して置いたが、愈来春御上洛の上で、平たくいえば攘夷の出来ないといふことを申上げて、攘夷をやめにしやうといふのが皆の腹であつた、けれどもそれを先へ行ってするといふことは大任なんだ、どうも届かぬからといふことを一応申上げたけれども、何でも先へ出るやうにといふことで、さういふ訳なら出ませうといふことを申上げただけのことで、別に深しいどう斯うといふことがある訳ではない、早くいふと、一応は辞退したが、強ひて行けと仰しやるから畏まつたといふだけの話なんだ、
*欄外記事
是は御記憶の誤なり両卿の著府は十月、辞表の御呈出は十一月にて御上京の議ありしは九月の事なり
○井野辺 それから引続きまして、もはや勅使が来るといふ間際でございます、十一月十一日松平肥後守が登城致しまして、勅使の待遇法を改めなければならぬといふことについて、会津の家臣が三条卿から授かりました覚書みたやうなものを幕府に呈出して、其意見を述べました、板倉周防守は非常に反対で、其時の評議が纏まりませぬでございましたが、其時に御前は周防守の説に御左袒遊ばした形跡があるといふことが、越前家の記録に見えて居りますが……、
○公 成程会津の藩士が勅使より先へ来て其事を話した、それについて色々評議があつたけれども、それは評議の時には、随分ひどいことをいふとか何とかいふことは、まあ当り前のことで、つまり板倉周防でも決してそれが不同意といふ訳ではない、実は板倉や春岳など御用部屋だけの者の話に、まあどうも段々色々なことになつて来て困る、勅使の御扱などゝいふことも昔から極まつて居る、併し御尊奉といふ上から考へると、実は扱がひどい、昔東照宮が天下を取つて、其勢で実は押し附けたのだ、だから能く考へて見ると、君臣の間でひどいと思ふことは幾らもある、こちらで思ふくらゐだから、向ふから見れば尚さう思ふに相違ない、こゝは相当に改めずばなるまいといふやうな話が、極内輪の話であつて、それぢやどういふ廉を改めやう、斯ういふ処は斯うしやうといふので、待遇が色々改まつたが、板倉でも決して不同意のどうのといふことではない、
○井野辺 其時の覚書を呈出致しまする手続について、板倉が非難して居りますが……、
○公 それは確か持つて来たよ、其書附の箇条は私は能く覚えて居ないが、持つて来て、どうか改めるやうにしたいといふことを肥後守も言つた、
○井野辺 一体あの覚書と申しますものは、三条卿が京都に居りました会津の藩士の柴秀治を呼びまして、色々御相談があつて、今度愈勅使が関東へ下るについては、従前のやうな待遇では困る、若し従前の通りの待遇であるならば、登城をしても勅旨を述べずに帰るといふやうなことを御話になりました、それではどういふ風にしたら宜からうかといふ柴からの質問に対して、覚書が出ました、それを柴が持つて参つて肥後守に渡し、肥後守から幕府の方へ呈出した、其手順が悪い京都から関東へ下るべきものは、一切所司代の手を経なければならぬ然るに会津の藩士が直接に京都の方から受取り、又肥後守はそれを承知して居ながら、幕府へ呈出したのは手落であるといふやうな議論であつて、非常にやかましかつたといふことでありますが……、
○公 成程それはさうだ、理窟をいへば板倉のいふ通りだ、伝奏から所司代へ仰しやるといふのが、御極まりはさうなんだ、併しながらさう言つて見ると、以前は守護職といふものはないのだから、昔のことを考へて見ると、どうもさうばかりはいかぬことがある、といふものは、こちらの都合の宜い時には藩士を内々使ふことがある、藩士を以て堂上方へ密に願つて、都合宜くいけば黙つて居る、向ふから仰しやる時はかれこれ言ふといふのは、余り虫の宜い話だ、どうもそれまで板倉が言ひはしまいよ、これはもう皇族方にしろ、|何方《ドナタ》にしろ、表向ではいけないから、お前の方から内々さう言つてといふことは、幾らもあることだから、こちらからさう言へば向ふからもさう言つたつて何も悪いことはない、だから板倉がそれを咎めたかどうか、又私はさういふことを聞きもしないが、板倉は攘夷は出来ない、攘夷は出来ないから、どうか御上洛の上でやめにしたい、併し御尊奉の処は、昔からの仕来りだが、どうもちとひどい処があるから、あゝいふ処は改めずばなるまいといふやうな話はした、
○井野辺 それでは強ひて反対されたといふことではありませぬか、
○公 さういふことではあるまい、
○井野辺 越前家の記録に依りますと、其手続に御前が御反対であつたやうでありますが、
○公 そんなことは少しもない、
○井野辺 十一月二十九日に、御前が春岳侯と御一緒に、三条・姉小路の両卿を清水邸に御招待なされたことがございますが、其時席上での御話について、御記憶のあらつしやる所を御伺ひ致します、
○公 其時の談じは、此度攘夷を御受になつた旨は、速に天下へ布告しろと斯ういふのだ、処がこちらでは御受はしたけれども、尚来春大樹上洛の上で色々見込を申上げて、其上で布告するといふ考だ、といふのは、どうかそれを取戻したいといふのだ、片方はさういふことがあつてはならぬから、受けたものならすぐに布告しろと斯ういふのだこれは全体穿つた話だが、攘夷を受けたのは策略で受けたんだらうと斯う向ふからは出るんだ、其策略を聴きたいものだといふ、処がそれは今策略を言ふ訳にはならず、又こんな策略だ、あんな策略だといつて天下に知ちせたら、策略にはならないといふやうな談判だつた、攘夷を受けたら早く布告しろといふのが大眼目だ、外に用はない、それで策略云灯は後で|揶揄《カラカヒ》半分に言つたんだね、
○江間 あの時は肥後守は江戸に居りましたかな、
○公 守護職であつた……、
○江間 田舎者が俄に京都へ行つて堂上の間に周旋して、宜い工合に順序をつけて、肥後守の地をなさうといふのですから随分困難です、それで先づ行つて趣向をさせるといふので、そこで藩士の中から働きのある連中を遣つて置いたのであります、其時の京都はどうかと申しますと、三条様の全権の時代、何でもあすこへ気脈を通じないと万事に都合が悪い、そこで色々心配をして居ります処へ、恰も三条様御東下といふことになりまして、これが幸になつて今の秘密が……、御註文などゝいふことも聞出すことが出来ましたので、そこで新任の肥後守が京都の政治をするといふについては、どうしても朝廷の要路に手寄る所がなければならぬ、殊に勢の宜い三条様其人の御註文でありますから、これこそ屈竟の方便と思つて、会津の藩士が専心に此斡旋を致しました時でありますから、肥後守はまだ上京以前で、江戸に居りましたやうに考へます、上京は其翌年でせう、
○渋沢 あの勅使を御迎へ遊ばす時に、御所労で御引きか何かであらしつたのですな、それで御前が受け方について、今までの受け方が宜くないといふので御直しになつたのは、あの時ではございませぬか、
○公 あの時には御尊奉のことはそれは同意だつたが、攘夷といふことは私は不同意であつた、攘夷といふことは出来ない、それを御受をするといふことは私には出来ないから、私は辞職すると言つて辞表を出したのだ、其中にあの因州が来て、どうも攘夷が出来ないと言つては烈公へ対しても済まないから、成るべく攘夷をするやうに御受をしなければならぬといふことで、丁度私は不快で寝て居たが、其床の脇へ来て議論が始まつた、どうあつても出来ない、いや受けなければならぬといふやうなことであつたが、別に極まりがつかないで別れてしまつた、それから板倉だの岡部駿河だの代り〴〵来て、岡部などは頑固説で、是非出なければならぬ、出るには出るが迚も攘夷の御受は出来ない、それぢや御家の為にならぬ、お前それぢや攘夷が出来るか、出来ない、出来ないのに御受をするのか、さう仰しやれば誠に言ひやうがないといふやうな訳で、そこが一方はこゝで御受をして置いて、来春御上洛の時に京都の方を何とか拵へて、攘夷でないやうにしやうとにかくこゝで御受をしろ、出てくれなければ困る、いや出ないといふ押問答だ、処が和宮御下向の時のことだが、安藤対馬の何で、京都では和宮を下さらぬといふのだ、和宮も関東へ行くのは厭だと仰しやる、そこで陛下も、あれほど厭といふなら止すが宜からうといふことになつて、御やめにならうとした、抑和宮のことは井伊掃部頭の考で攘夷といふ一方の思召、攘夷を致すには人心一致しなければならぬ、国内一致でなければ攘夷といふことは出来ない、国内一致するには公武御合体でなければいかぬ、公武御合体をするには、和宮を関東へ御遣はしになるが一番宜い、さうさへすれば、七八年乃至十箇年の間には攘夷を仕るといふことが出てあるのだ、さういふ訳で、国家の為であるならば宜しいから遣らう、斯ういふことになつてあれは御下向になつたんだ、それでどうあつても攘夷といふことは、七八年か十箇年の間に遣らなければならぬことに極まつて居る、さういふ訳であるから、どうも出来ませぬといふ訳にいかず、又申上げた処で、そんなら取返すと仰しやつた処が仕方がない、それから考へて、成程さういふ理窟が極まつて居るのでは、今更受けたつて受けないたつて、ちやんと極まつて居るんだから、それならば出ませうといふことになつて、そこで御受をしたのだ、なれども来年御上洛の上で、どうかならうといふのが有司たちの考だ、そこで御受になると今の三条と姉小路が、受けた上からはすぐ布告しろと斯う出る、もう来年のことは向ふでも知つて居る、変更のならぬやうにしてしまうと斯ういふ訳だ、そこで攘夷は仕るといつて遣らない、向ふでは出来ないのを知つて遣れと斯ういふのだ、それで両方其間に何かあるのだ、
○渋沢 勅使の御扱を直さなければいかぬといつて、御前が色々御直しになつたといふことでありましたな、
○公 それは其時から直つたんだ、これまでの処では、将軍は真中で勅使は横座に斯うなつて居た、それを今度は改めて、勅使を真中にして、将軍の方で正面へ行つて、勅使へ御辞儀をして勅語を伺ふ、これはどうも其方が本当なんだ、自分が上に勅使が下に坐るといふことは全体不都合で、少し御尊奉といふ処へ気がつけば、どうも不敬な訳だそれから玄関まで送り迎へをなさるといふことになつた、それが一番大きい処で改まつたのだ、どうもあれは昔からの仕来りではあるが、実は余りひどいやうでね、
○井野辺 それから島津三郎の問題でございますが、十二月五日に勅使が登城致しました時に、三郎を守護職にすることについて、幕府には異存がないといふ御受がございますが……、
○公 いやあの時分島津三郎の守護職といふことは、屡噂や何かにあつたけれども、さういふことはない、あの節の大原・板倉・水野なんぞ皆守護職にするのどうのといふ訳ぢやない、確か官位のことか何か望みであつた様子だ、これ〳〵で上げてもらひたいといふやうな内談が大原からあつた、それは京都で騒動を鎮定した功があるから、其廉を以て官位を上げてもらひたいといふやうな談じがあつた、私は其時分には居なかつたけれども後で聞いた処が、板倉のいふには、京都の騒ぎといふものは自分の手から出したのだ、それを鎮定したからといつて、どうも位を上げることは出来まいといふやうなことであつた、とにかく鎮定したんだから、なに一段や二段進めたつて何程のこともないから、何しても宜ささうなものだと思つたこともあつたが、先例にないといふことで、それはそれつきりになつてしまつた、其談じはあつたが、守護職といふことはないやうだ、
○井野辺 十一月に朝廷から御沙汰が下つて居ります、それで色々評議の結果、十二月五日に御受になつて居りますが……、御沙汰になつたのと御受になつたのは確でございます、併し諸藩にも色々異議があるから、将軍家御上洛の後に発表するが宜からうといふやうなことでありましたけれども、其事はとう〴〵発表せずにしまひました、
○公 其事は能く記憶して居ないが、何しろ大原が来た時の談じは官位だけの話だつた、
○井野辺 今伺ひますのは二度目の勅使の来ました時です、三条卿が御出でになつて攘夷の勅諚の下つた時です、其勅諚も御受になりますし……、
○公 併し三条・姉小路の勅使の際に、島津を何するといふことは分らぬ話だ、
○井野辺 三条卿が江戸へ御出でになつた後に、伝奏の手を経て幕府へ御沙汰があつたのです、然し幕府からは、其事も三条卿の持参せられた勅諚も、一纏めにして御受になりましたので、御受の箇条が沢山ございます、
○渋沢 其時は会津が守護職であつたのですな、其守護職を替へやうといふのですか、
○井野辺 朝廷では二人置かうといふのです、
○公 島津が守護職になるなんていふのは……、どうもそれを御受になつて居るか、
○井野辺 さやうです、御受になつて居ります、其御受になつたといふ理由を、少し説明の出来ることがあります、それは文久三年の春に島津三郎も春岳侯も山内容堂も、打揃つて京都に上り、近衛関白と青蓮院宮と此五人が一緒になりまして、急激派即ち長州並に長州派堂上の勢力を、一度に挫いてしまはうといふ計画がございました、多分それらの為に、島津家の機嫌を損じてはならぬといふので、承諾したのではないかと思ひます、
○公 さういふことはなか〳〵表面上からではないと思ふ、
○井野辺 併し書面を以て御受になつて居ります、
○江間 先づこゝで御受して置いて、さうして御上洛の上で順序をつければ宜いくらゐのことではありませぬか、
○井野辺 多分さうだつたらうと思ひます、
○公 真面目に受ける訳はない、
○井野辺 三郎の守護職については御記憶はございませぬでせうか、
○公 どうも記憶はないね、これは三条の方で島津の守護職は厭なんだ、それで島津が守護職になるといふ噂があるがどうだと聴いたんだらう、全くさうだらうよ、
○渋沢 御沙汰の通りで、三条さんが御自分で島津の勢力を保護するといふ訳もなからうと思ふ、翌年騒動があるくらゐだから……、あの騒動は薩長の軋轢から起つた、其半年ばかり前に三条さんが来て、是非島津を守護職にしたいといふことはありますまい、それは全く御沙汰の通りだらう、
○井野辺 御前が後見職をなされて居ります時分に、始終御相談相手になつた者がございませうか、
○公 家来でか、
○井野辺 さやうでございます、
○公 それは平岡円四郎・黒川嘉兵衛、それから其後に原市之進、先づ其くらゐのものだ、
○渋沢 中根長十郎といふ者は如何でございます、
○公 少しは何したが、相談相手といふ程の者ではない、
○江間 文久二年に御前が京都へ御出向の際に、武田耕雲斎などは御供をして参りましたが、あの時分から耕雲斎には御相談をなすつたことはございませぬか、
○公 あれは相談といふ程のことはないが、まあ色々相談したんだね
○江間 あの頃の一橋家日記を調べ見てますと、毎日出ました人々の名前が出て居ります、先づ十一月十一日から一番に出ましたのが、岡部駿河、それから其翌日にも岡部が参り、又其翌日も来て居ります、それから其翌日は竹本甲斐守……、大目付です、其晩に水野・井上・小笠原・三人が出て居ります、
○井野辺 其頃将軍家が官位を一等御辞退になるといふ思召で、朝廷へ御奏聞になるといふことになりましたが、折から御前は御引籠中でございましたので、十一月二十日に、御親書を以て其事を御前に御相談がございましたから、翌日御登城になつて将軍家に拝謁なされましたが、御用部屋へは御出でにならずに、すぐに御退出になりました、多分御親書に対する御返事を御申上げになつたのであらうと思ひますが、尚念の為に御伺ひ致します、
○公 それはさうだ、
○江間 今日は先づこれで一段落としまして、そこで御前にちよつと申上げて置きますが、民部公子の外国へ御渡海について、前回小林がちよつと伺ひましたことは、深い続きのことではなかつたのですけれども、それらのことは渋沢が能く知つて居るから、あれに聴いたら宜からうといふ御沙汰で、其儘になつて居りました処が、男爵が帰られましてから、あの時の速記を御覧になりまして、どうも私は其時分にはまだ役も下の方であつたから、詳しいことは一向分らぬけれども、併し其渦中に居つたのだから、其時の考で、斯ういふことでは面白くないから、斯うしたら宜からうくらゐのことはあつたといふ話でありましたから、然らば今度昔夢会の開ける折に、其時御経過になつた所の御履歴を、席上で御話し下すつたならば、御前に於かせられても所謂昔夢で、段々御趣味のあることであらうかとも思ひますからと、実は男爵に願つて置きました、先づ記憶して居る所だけ、話の済んだ後で述べて見やうといふ御許諾を得て居るのです、其事を一つこれから願ふことに致しては如何なものでございませうか、
○公 それは至極宜しからう、
○渋沢 唯今江間氏から申上げましたのは、あれは丁度慶応二年の冬のことでございました、卯年の正月に御国を出立をしまするといふ前の話ですから、慶応二年の年末に起つたことゝ覚えて居ります、私は其御議定になつた御模様などはちつとも知らないで、突然原市之進から呼ばれて、市之進の小屋へ参りましたら、内々お前に意見を聴くが今度民部公子が仏蘭西の博覧会に大使として御越しになる、其礼式が済むと凡三年、若しくは五年になるかも知れぬが、仏蘭西の学問を学んで御帰りなさる積りである、其時は即ち留学生となつて学業に従事なさる、但仏蘭西の礼問が済んだ後で、修好の為め各国を御廻りなさるといふ御都合であるのだ、其国々は判然極まつては居ないけれども先づ英吉利・独逸・伊太利・和蘭・白耳義・瑞西等の国々であらうと思ふ、それについて水戸からして七人の御附添が極まつたが、これは皆御手許の用を足すのだ、それから御傅役としては山高石見守といふ人が任命されて、此人が其七人の指揮なり、其他公子の御身に属する百事をば総轄する、但外交上のことは、外国奉行向山隼人正が行く、又組頭なり調役なり、其他の役人も相当の人々が行くであらう、其顔触れは残らず分つては居らぬ、お前に命ずるのは、つまり山高の手に属して俗事を取扱ふ、即ち会計に書記にといふやうな位置である、此水戸から御附き申すことについては少し事情があるので、それだけのことを一応言うて置かなければならぬ、元来民部公子を海外に出したら宜からうといふ評議については、本国寺の水藩士には大変議論があつて、なか〳〵それを纏めるに骨が折れた、外国旅行だから、そんなに沢山連れて行かぬといふ説が外国方ではあるけれども、水藩士の方では、決してさう御手放し申す訳にはいかぬと言うて、或は二十人も三十人も御附き申さうといふ評議であつたけれども、種々の論判からやつと選つて七人といふことになつた、蓋し此人々は留学などゝいふことにはどうも同化しない、其時分は同化といふ詞はなかつたやうだが……、それでとかくまだ攘夷といふ感じを持つて居るので、それを引離して御連れ申す訳にいかない、已むを得ず附添として連れて行く訳であるから、山高も大分骨が折れるであらう、其間には丁度お前は最初は攘夷家であつて、今は攘夷ではいけないと考へついた人で、所謂中間に居るから、斯ういふ人を附けて遣つたら宜からうといふのが内々の思召なんだ、是非永く留学させたいのだから、篤太夫を附けて遣つたら宜くはないかといふことは、打明けて言ふと御沙汰があるのだから、愈受けるなら確定すると斯ういふ私に原市之進から御沙汰でありました、私は真に寝耳に水で、実に変つた話でありましたけれども、心密に嬉しかつたものですから、もう考もへちまもございませぬ さういふことで私で間に合ふならば、即時に御受を致しまする、いつ立つのでございますか、来年の一月早々の積りであると思ふ、それから先は、愈極まれば大目付の永井主水正が掛りであるから、其指図を受けなければならぬ、尤も山高石見守が大体の指図はするやうになる 斯ういふことに承知しまして、私は愈旅行の仲間に組込まれました、勿論外国方の人々は、博覧会と各国礼問が済むと帰るので、残る所は其七人にお前・山高、其他通訳等について一二の外国方で居る人を残すやうになるかも知れぬが、それも残らず留学生たるや否やは、行つてからの都合だから分らぬが、とにかく七人は行くことに極まつたのだから、其余のことは又旅行先の模様に従つて変更することもあるであらう、礼問中の通訳の人などはどうなりますかと聴くと、京都に来て居るジュリーといふ仏蘭西人、これを公子の案内に遣はすことになる、学校の教師か何かして居つた人である……、それから更に日本の詞の能く出来る、もと長崎に居つたシーボルトといふ人、これはまだ若いけれども、英仏語を能くし、又日本の詞も能く出来るからこれを遣はす、其他に外国方から仏英の通訳官が行くのだから、それらについては一向差支ない、更に御医者で高松凌雲といふ人が行くやうになる、砲術方で木村宗蔵といふ人が、やはり御附の方で召されるやうになる、而して俗事はお前の受持と斯ういふことでございまして、それから私は御受をして置きまして、翌日であつたか、翌々日であつたか日は確に覚えませぬが……、其命令を受けたのは京都であつたやうに覚えて居ります、あの時分には京都へ入らしつて御出ででございますが、それから何でも永井主水正に引合つて、それから外国奉行支配調役で杉浦愛蔵といふ人が来て居りました、これらの人に会つて、やがて山高石見守に面会致し、続いて水戸から行く御附の人々に引合ふといふやうなことで、何でも一月早々に出立するといふことに極まつたやうですが、其時分には仏国人に何等さういふことがあるといふことは、承らずにしまひました、唯其時分の評判に、頻にレオンロセスといふ人は所謂幕府方であつて、英吉利の其時の公使はパークスでございましたが、パークスはとかく幕府に対してかれこれと苦情を言ふけれども、ロセスは幕府に同情を表する方の側であつて、英仏で自ら其意思を異にして居るとは、世評もさうであつたし、外国方の人、若しくは山高あたりの認め方もさうでありました、それで民部公子の御出立といふことは、勿論幕府の中で種々評議して極めたことではあるけれども、其中には仏蘭西政府とは大分消息があるのだ、レオンロセスといふ人は、三世ナポレオンには厚く信ぜられて、種々なる内命を蒙つて居る人である、それらの話合から今度公子が御出でになるのだから、御出でになつたなら、ナポレオンは殆ど我が養子の如く思うて、深く御世話申すであらうといふやうな話は、殆ど公然の秘密と言うても宜いくらゐに、私は承知して居たのであります、併し其ロセスが一緒に行くといふことは、其時分には何等聞込はございませぬ、唯それなりで旅立の仕度をしたやうに記憶して居ります、何でも差向いて困つたのが御衣服と御髪を始終上げなくてはならぬ、御附の人は一通り自分の髪は出来るけれども、其時分の髪は大きくて、なか〳〵月代を剃つたり髪を結うたりすることは本職でなければいかぬといふのが一つと、それから今一つは、汗れた著物の洗濯をしなければならぬ、新しい著物の仕立もしなければならぬ、あちらへ行つた上は洋服を著なければならぬが、先づ重立つた時は日本の礼服を用ゐたい、それには仕立屋もなくてはならぬ、と言つて仕立屋と髪結と二人連れて行くといふことは困る、さういふことはお前が心配しなければならぬといふことで、すぐ困つてしまつた、そこで水戸の御附の人に相談すると、丁度それまで髪を結つて居つた綱吉といふ者がある、これは仕立も出来るし髪も結へるし、至極宜からうといふことで、其男を私の手に属して連れて行くことになりました、さて其七人の人々は、菊池平八郎井阪泉太郎・梶権三郎・大井六郎左衛門・皆川源吾・三輪端蔵・服部潤次郎、斯ういふ人々であつた、それから確には覚えませぬが、正月になつてからでした、長鯨丸で神戸から横浜へ来て、横浜に暫く御滞在で、其間にちよつと公子は小石川の御屋形へ御越しになつたかと思ひますが、其辺のことは能く覚えませぬ、横浜で御出立前の御世話をした人は、会計に関する人では小栗上野介、外国奉行では川勝近江守成島甲子太郎……、成島は其時は騎兵頭でありました……、其他にもございましたらうが、能く記憶して居りませぬ、右等の人々と種々引合ひまして、さうして支度が整うて出立といふ順序でございました、外国方で重なる人は、向山隼人正・田辺太一・杉浦愛蔵、これらが一番重立つ人で、職分も相当の位置に居りました、それから会計方で日比野清作・生島孫太郎、徒目付といふ考は参りませぬで御小人目付の中山某、通弁では保科信太郎・山内文次郎、此保科といふ人は陸軍の人でありまして、とう〳〵死にました、山内といふ人は、現に宮内省に居ります山内勝明氏でございます、それから唯今大磯あたりに居ります山内六三郎、今日は堤雲と号します、それから先頃死にました名村泰蔵……、名村吾八と申しました、それに箕作麟祥、あれが箕作貞三と申しました、 一行の人数は総勢二十八人でございました、多少忘れて居る者もございますが、概略其やうな顔触れで……、
○公 ロセスは一緒に行つたんではないね、
○渋沢 一緒には参りませぬ、ロセスが一緒に行くといふ話は、どうもございませぬでした、唯其時に横須賀造船所にウイルニーといふ仏人が技師長をして居りました、其人が横須賀のことについて常に協力して居ると言うた汽船会社の役員で、グレーといふ人がありまして、此グレーもやはり同行致しました、それは御一行についての用向ではなくて、つまり横須賀との関係で、原料か何かの注文を引受けて、それを取りに参るので、途中一緒に参りました、故に此横須賀のことについては、小栗其他川勝などゝいふ人々が、仏蘭西人との間に、拡張といふことについて色々話合うて居られた様子は、外国奉行の手からも承りましたやうに覚えて居ります、旁想像致しますと、少くとも今の公子の入らつしやるのは、仏蘭西に向つて情意を繋ぎ、懇親を厚うし、続いて仏蘭西の力をば成るべく日本に及ぼして、場合に依つては其政治関係から、商売人に資本を造船所に入れさせるといふやうなことを、為し得べくんば進めるといふ意味まで含蓄して居たと言うても大事なからうと存じます、けれどもそれらはいはゞ内輪の意味に属することで、表面何もございませぬで参りました、それから参つて、まだ博覧会の手続中は御祭礼中のやうでございましたから、内輪にも別に物議もなくて済みましたけれども、博覧会が済みまして、八月頃から各国を公子が廻らなければならぬといふことになりますと、そこで外国方の人々と、御附と称へる水戸から参つた七人の人々との間に強い確執が起りました、其前から時々小衝突はあつて、公子の供連の相談がございますと、御附の人の希望は、外国方ではそんな馬鹿なことは出来ぬ、一方は又そんな指図に服従して|堪《タマ》るものかといふやうな訳で、水戸連中は頻に国粋主義を主張して、さういふことを遣られては困ると言うて小言を言ふ……、これは今度の米国旅行などには其やうなことはありませなんだが、いつでもあることで、一体外国人が勝手次第に日本の風習に背いたことをさせるのは不都合だ、日本人として来てからに、さう国の習慣に背いたことに服従して堪るものかと言うて力む、時に或は公子は此御席に、御附の人はこゝへといふ揚合に、ボーイなどが珈琲を持つて来た時に、必ず御取次でなければ珈琲を上げるといふことは出来ない、すぐさまボーイが上げれば、ボーイを呼んで、なぜ珈琲を上げたと言ふて小言を言ふといふやうな有様で、ちよつとしたことにも苦情は常にある、まさかに喧嘩はしませなんだが……、とう〳〵各国御巡廻中は御供連を減ずるといふ議論になつて、大衝突を起した、尤も井阪泉太郎・梶権三郎などゝいふ人はなか〳〵の鯁骨男子で、我々こゝへ来たのは本国寺を代表して来たのだ、さういふことを言はれては我々の面目に関はるから、刀に掛けても承知しない……、大騒動で大に弱りました、私は中間に居るので、井阪だの梶などからは、到底命令に服従が出来ぬと言うて小言を言はれる、外国方からはあの頑固連には困るといふ苦情が出る、拠なしにとう〳〵二人だけ置いて皆帰さうといふ評議になりました、水戸の連中の言ふには、そんなことなら我々は一同に帰る……、これは少し意地悪く言ふ詞で、よも帰しはしまい……、といふのは、公子は極御幼少から此人々が御附き申して、百事御世話をして居たから、若しも一同に帰るといふと、第一公子が御機嫌が悪い、甚しきは涙ぐむといふやうな御様子であるから、愈帰るといふことになつたら、第一に御本尊様が共に帰ると仰しやるに相違ない、さうすると目的が無くなつてしまふのだからといふことを考へて、帰る〳〵と言うて威張る、それでどうしたら宜からうかといふ評議になり、私も中間に立つて弱りましたが、拠ないから帰さう、公子の御供に連れないから承知しない、一人でいかぬ二人でいかぬといふのは、御附き申す人の方が間違つて居る、外国奉行の方が尤もだから、其詞に服従せぬならば、もはや切つて離す外なからう、唯帰すといふ訳にはいかぬから私が帰る、一同を連れて帰るといふことに極めまして、それから私が双方の間の使者を再三勤めまして……、最初には何でも五人連れろといふのを、二人は連れやうといふやうなことで、そればかりではない、此事も気に入らぬ、あの事も気に入らぬといふやうなことで、種々押問答の末、とう〳〵帰すといふことになつて、私が連れて帰ると決定しました、すると御附の方の連中も、一方がさう覚悟をすると……、其前に山高とも相談をして、公子も一緒に帰ると仰しやり出すと困るから、帰しても宜しいと仰しやらなくては困る、それさへあれば私が連れて帰るといふことに極めました処が、こつちでさう確定しますと、つまり向ふが折れまして、いやそれなら已むを得ぬから二人でも宜しい、其代り交代して丁度三度の御旅行で一同に廻るからといふので、漸く折合がつきましたが、此瑞西へ御立の前の騒動といふものは、なか〳〵の混雑でございました、今でも其困難のことを記憶して居ります、それでつまり外国奉行の説に服従することになりました、それから八月の暑い時分、瑞西・和蘭・白耳義を一廻り廻つて帰りました、其十月頃再び立つて伊太利へ参りまして、伊太利からマルタ島へ参つて、マルタで四日か五日逗留して、あすこから英吉利の軍艦のインデミオンといふ船に乗せられて、マルセーユに参ります途中、妙なことでインデミオンのクランクシヤフトが折れてしまつて、運転の動力を失つた為に、二日ばかりで行かれる処を、一週間ばかり掛つて行きました、其時暴風に遭つて、公子始め非常に難儀したことを覚えて居ります、併し其時は向山は居りませぬ、山高も私も居りました、船中で外国人に大和魂を見せましたので、ひどく賞められたことがある、今でも愉快に思うて居ります、それはマルタを出掛けたのは昼の十二時で、夜の十二時頃に至つて、今のさういふ出来事が起つたのである……、それで船長が参つて、甚だ残念のことであるけれども、斯ういふ訳でありますから、どうしても引返す外ない、外に船の都合がつかない、まだ漸く十二時間ばかりしか来ないから、引返して他の船を以て航海する外ないからさういふことにしたいと思ふ、但今の処では、風の順がマルセーユへ行く方が宜いのだから、帆を用ゐて行けば行かれぬことはない、併し風帆で行くとすれば、三日も四日も掛かるだらうと思ふからして、余り時日が遅れるといふならば、マルタに帰つた方が宜い、但帰るからと言つても、蒸汽の力には依れぬ、だから幾日でマルタへ帰れるかといふことは確には分らぬ、何れにした方が宜からうか、一つの出来事を御報告すると同時に、向後の進退をどう致したら宜いか御指図を請ひたい、斯ういふ話です、それから何でも公子に、斯ういふ場合には成るべく勇気を出して御答にならなければなりませぬと言うて、畢竟此船に乗る時に、我々は船に生命を託してあるのだ、もうどうしやうとも、艦長が宜しいと思ふ通りになさい、こつちから指図は致しませぬ、苟も我々を乗せる以上は、それだけの御考があつて乗せたことであらうから、機関が動かぬでも何でも構はぬ、半年でも一年でも一向厭ふ所ではござらぬ、それとも帰らなければならぬといふことならば帰るが宜し、私どもの方から御註文は致しませぬ、我々の生命は艦長に全然御託しゝてあるのだと公子の御考だから、さやう御答をすると申した処が、艦長及士官一同は大変喜びまして、それならば私ども意見を申しますが、どうぞ此船で遣つて戴きたい、如何に出来事があつたにした処が、別に船体に故障がある訳でないから、日が掛かるだけで、四五日の中には必ずマルセーユへ著くに相違ない、さうして戴けば我々は本望である、此船でいかぬといふことになると、実に此上もない不名誉であるけれども、強ひてさう申上げるのも恐入るから伺つたのだが、任せると仰しやればさう願ひたい、勿論宜しいと答へまして、それから其後、夜分は水夫などにいろ〳〵印度の踊などをさせて毎晩御饗応になつたのですが、其中に海が荒れて、私などは船に弱いものですから、|止《ヨ》せば宜かつたと思つたやうなこともあつたと覚えて居ります、これらは一つの旅行の余談でありますが、それから致しまして伊太利の旅行をしまひ、其年の十二月に英吉利に参りました処が英吉利でも大層丁寧に待遇をしてくれました、ポルツモースなどへも案内をしまして……、
○公 其時分英吉利の方では、待遇上に少しも変りはなかつたかね、
○渋沢 少しもございませぬ、やはり全くプリンスとしての待遇で、それらの礼式は有栖川宮様が御出でになつた時と同じやうでございました、マルタ島のレセプションなどは、今考へて見ても全く君上に対するレセプションでございました、別に高い処へ公子を御置き申して其時には向山は居ませなんだが、山高とそこの司令長官が附いて居りまして、さうして来た士官其他の人々に握手の礼をさせる、全く君臣の格でございました、それから倫敦へ参つた時も、旅宿は別に改めて取つてくれなかつたやうに思ひます、故にそれ程の取扱ではないか知れませぬが、やはりウインゾルで謁見があつたやうです、私は御供が出来ませなんだが、何でもポルツモースの軍艦訪問の時などは、十七発の礼砲を打つたやうに覚えて居ります、ですから礼遇等は鄭重でございました、唯英吉利の方では、商売人の待遇は日本に対して甚だ悪うございました、外国方もそれは大に心配しました、どういふ訳であつたか、それで拠なく為替金等のことは、仏蘭西の方から取扱をしたやうに覚えて居ります、仏蘭西の公子に対する待遇は、博覧会のことが済み、他の国々の旅行及英吉利の訪問が済みましたら、丁度十二月の末になりました、それでこれから留学といふことになる、其前からしてウイレツトといふ騎兵大佐が全く御附き申して、学業其他平素の御挙動について御世話をする、これはナポレオン三世の指図で、其時の有力なる陸軍大臣の大層贔負の軍人であるとかいふことでありました、これからはもう全く完全なる留学生に御成りなさいました、其中に段々内国の腫々なる騒動が聞えて参るといふやうなことになりまして、翌年の何月頃であつたか確に覚えませぬが、伏見・鳥羽の騒動の仏国へ知れて来たのが、多分一月の中頃かと思ひます、それから続いて三月の何日頃でありましたか、東久世・伊達・両公の名前で、民部公子に帰国しろといふことの通知が参りました、併し私ども其時の考は、周章てゝ帰つた処が仕方がないと思ひましたから、其命令にはどこへ返事を出して宜しいか分らぬくらゐですから一其時の外国方の方に、今帰つた処が仕方がないやうに思ふ、斯かる御沙汰であるけれども、其通りには出来かねるといふことを言うて寄越したやうに覚えて居ります、其時に多分御直書と思ひました、御前から民部様への御手紙がございました、それはいつぞ伺つて見たいと思つて居りましたが其御直書の趣旨は、政権を返上したのみならず、斯ういふことになつたといふ、大坂の顯末を概略御書き遊ばして、さうして此日本の将来を思ふに、内輪の騒動をして居つてはいけないから、それで拠なく斯ういふことにしたのだから、誤解をしてはいかぬぞ、折角其地へ出掛けたことであるから、是非お前は留学の目的を十分達するやうにしたい、私も次第に依れば丁度ぺートルの故事に倣うて、海外へ出掛けるといふくらゐまでの希望を持つて居る、故に内国の騒動に依つて、周章てゝ帰るといふやうな考をしてくれては困るといふやうな、尊書のあらしつたことを覚えて居ります、もう其頃には江戸の方からの指図に依つて、外国方の人々は皆帰つてしまひます、それから前に申上げた七人の人々も段々帰つて、漸く菊池平八郎・三輪端蔵・二人だけになりました、それに私と小出俑之助といふ少年と、唯四人だけ御附き申すことになりましてのことです、さういふ御手紙が、多分江戸から御発しになつたので、三月頃でもございませうか、著きましたのが五月か六月と覚えて居ります、其少し後に、かの駐日公使ロセスも巴里に帰つて参りました、即ち御一新の翌年で、辰の年に帰つて参りました、上野の騒動の後でございませう、ロセスが帰つて参つた時分にはまだボワデブロンの近傍なるリュードヘルゴレーズといふ処の、五十三番地の御旅館に御住居になつて居る頃です、そこヘロセスが参りました、其時分には御附き申す人も沢山居りませぬから私どもがロセスに接遇致しました、ロセスの申すには、どうも御一新といふことにはなつたけれども、つまり申すと薩摩と長州が力を合せたからとう〳〵あゝいふことになつたのだ……、其時の詞を能く判然と覚ませぬけれども、どういふ思召か知らぬが、大君の隠退したのは少し御弱いやうだ、あんなことをなさらぬでも、もう少し主張を強くなされば、決してあんな場合にならぬで行けるのであつた、それは如何にも残念であるが、決してあのまゝで日本が無事に治まるものではない、更に種々なる騒動が起るであらう、此揚合に|貴所《アナタ》が学問もせずに此まゝ御帰りなさつても、何たる利益はない、どうか相当の学問をなさつて、さうして此仏蘭西の軍制なり、或は政治なり、さういふやうなことを十分に会得して、仏蘭西に相当な信用を持つて御帰りになれば、必ず貴所の御身に自然御身柄だけの利益は附くに相違ない、或は機会に依つては、貴所は宜い順序で迎へられるといふことが無いでもなからうと思ふからして、周章てゝ帰るといふことは宜しくございませぬ、決してあのまゝ都合宜く行くものではないと私は思ふといふことを、頻に申しましたやうに記憶して居ります、何でも昨夜帰つたと言うて、翌日御旅館に参りまして、頻に前に申した趣意を述べたやうに思ひます、名誉領事のフロリヘラルトといふ人と一緒に参つて色々話をしました併し其後に度々参つてさういふ話をするといふことはなかつた、察する処、どうもナポレオン三世が、ロセスの意見を十分採用して、日本に対して尚引続いて力を入れる考が、余り無かつたやうに思はれた、前にはあつたか知らぬが、其頃には少かつた、当初ロセスは民部公子を一の奇貨として、何か日本に向つての政治関係をつけるといふ意念は、日本を去る時には計画してあつたか知らぬが、仏蘭西へ帰つてからは少し其目論見が齟齬して、それで初め帰国して御目に掛つた時は今のやうなことを申したけれども、後は引続いて其情を以て御世話を申上げなかつた、斯ういふ次第のやうに承つて居ります、或はそれが事実かと思ふのであります、併しさういふ場合で、私も今公子を御帰し申してはいけないから、是非とも御止め申す方が宜いと考へましたので、甚だ恐入つたことでありますが、帰りまして後、駿河へ出て拝謁をしました時にも、一体御前の遊ばされ方が間違つて居るといふことを、申上げたことを記憶して居ります、私ども仏蘭西に居る中は、民部公子と共に、一体大君のなされ方がつまらぬ……、甚だ恐入つた申分だが、さういふことを頻に申して居りました、なに今にどうか変化するだらうといふやうな念慮は、始終持つて居りましたのです、旁ロセスなどに於てもさういふ意見で、御前が負けぬ気象を御持ちならそれを頼りに十分働かうといふ意念は、必ずあつたらうと思ひます、其時のことを極丁寧には覚えて居りませぬが、行掛り上さういふ念を持つて居つたやうに思はれました、其くらゐですから、公子も其時の御直書に対しては、如何にも情ない思召である、露西亜のぺートルと今の徳川は時代が違ふではありませぬか、さやうな解釈を以て海外へでも足を踏出さうと仰しやるが、日本をどうなさる思召か、それならなぜ御世継を遊ばしたなどゝ、公子の御手紙で御諌言を申上げた、其下書は私が致したのですが、それらは皆既往の空想でありました、それで多分其時の想像は、誠に邪推でございますけれども、ナポレオン三世の考がなか〳〵東洋に手を著けるといふことはむつかしいといふ意念で、前の勢とは違つて来た為に、ロセスは帰つて来てから、公子を擁護するといふやうな思案が変つたのではないか思ひます、そこへ持つて行つて、多分七月頃でもございましたか、井阪泉太郎と服部潤次郎が、是非御帰りなさらにやいかぬといふので、再び御迎ひに参つた、それは丁度前中納言様が御逝去になつたについて、是非水戸の御家の相続を民部公子にといふことで、前中納言様に対しては、其時の水戸の激党が、怪しからぬ御方だといふやうな観念を持つて居ましたから、其世子がすぐさま御相続といふことは皆不承知であつた、そこで公子といふことに極まつて、それで前に御供をして先へ帰つた連中が、公子はあちらで永く学問をするといふ深い御考を持つて居る、殊に渋沢は頻にそれを主張して居るといふことを知つて居るものですから、唯の手紙ではいかぬといふので、わざく御迎ひに来た、其時に井阪などが、若し貴所が妨をしたら、貴所を殺す積りであつたといふことを申して居りました、或は仏蘭西人と申合せて妨げるかも知れぬレオンロセスも帰つて居るから、或はさういふ計画をせぬとも限らぬ故に唯優長の人を遣つたのでは、迚も御連れ申すことは出来ぬから、まかり間違つたら腕力で連れて帰れといふことで、二人の者を特に派出されたのだといふことは、井阪などは打明けて申して居りました、私もさういふことを承知しましたから、初は御止め申したく思ひましたけれども、もうさうなつた以上は、迚も私の微力では御止め申す訳にいかぬと思ひましたから、仏蘭西の外務省では頻に止めましたし、それからコロネルウイレットといふ人も、切歯して極言抑留しましたが、斯ういふ訳だから是非とも帰るといふので、後の始末をして帰つたといふやうな訳でございました、斯う申上げますと誠に短いやうですが、なかなか入組んだ事情があつたやうに覚えて居ります、何でも其頃旧政府の方の別の用向で参つた栗本鋤雲、それから先達て死にました三田葆光、これらの人は他の談判で暫く巴里に滞留して居りました、伏見のことが聞えて参つて、大に心配したことがございました、さういふやうなことでございまして、ロセスが最初公子の御供をするといふことは、多分どうも無かつたでございませう、併しロセスの斡旋で公子が仏国行になつたといふことは事実に相違ない、それからウイルニーといふ横須賀に関係を持つた人と、グレーといふ商人が申合せて行つたといふのは、横須賀造船所の為に、更に資金を仏国より入れるといふやうな下談判があつたやうに思はれるのです、併し其事も色々の騒動の為に運びませんで、唯レオンロセスの帰つた時分には、まだ若し機会があつたらといふ考が、まんざら無いではなかつたやうに思はれますが、ナポレオン三世は、今頃そんな考を持つて東洋に手を著けることは宜しくあるまい、余り立入つてはいかぬといつたのではないかと思ひます、これは全く私の推測でございます、果して事実如何であつたか分りませぬ、それ故にロセスといふ人は、自分が帰国した後でございますけれども、公子の御帰りの時には至つて冷淡で、それでは拠ございませぬから、御帰りなさいといふくらゐのことであつたやうに覚えて居ります、今の尊書を御出しになりましたことについて、御記憶はあらつしやいませぬか、多分五月頃にあちらへ著きました、
○公 さういへば遣つたやうにも思ふが、どうも能く覚はない、
○渋沢 あれは公子は持つてござるに相違ございませぬ、余程綺麗な御書で、余り小さくない、大きな文字でございました、奉書の巻紙に書いてあつたのです、或は御直筆であつたかも知れませぬ、
○萩野 民部様に伺ひましたら其御手紙が……、
○渋沢 ありませうと思ひます、
○萩野 其御手紙が拝見が出来ますと大変仕合です、
○渋沢 随分色々の失策などもございました、前に申しました仕立屋が頑固の奴でございまして、ボーイや何かと度々の喧嘩がございました、可笑しかつたこ乏は、蘇士からアレキサンドリヤへ来る途中、汽車の中で外国人と喧嘩を始めました、これは後で聴くとどつちも尤もなんです、汽車に乗つて居つて、仕立屋先生硝子に気がつかない、蜜柑を買つて食べては皮を投げる、硝子に打附かつて隣に居る人の顔ヘ|弾《ハネ》返つた、隣の人は、硝子を知りつゝ自分を馬鹿にして|悪戯《イタヅラ》をするんだと言うて怒つた、こつちは言ひ掛りをすると言うて怒つた、能く聴いて見ると、硝子に気がつかなかつたといふことが分つて、始めて大笑をしました、さういふ弥次喜多のやうな話が度々ございました、公子外七人の荷物の世話と、それから日々の筆記と勘定と、それを私一人で遣つて居りましたが、なか〳〵に苦しうございました、そこへ持つて来て、例の仕立屋といふのがやゝもすると喧嘩をする、一度などは和蘭から来る時に、とう〳〵汽車に乗後れてしまつたので、仕方なしに自分も汽車から降りまして、仕立屋を連れて……、曲りなりにも仏蘭西語が出来るものですから……、一汽車後れて遣つて来ました、それで旅行の時には、荷物方の者を一人頼んで、それに荷物の世話をさせました、此荷物をどの部屋に入れろ、どうせいあゝせいといふ世話をしなければならぬ、事に依ると自分で其荷物を部屋まで持つて行つたり何かしたくらゐです、随分人手の無い処で大勢の荷物を世話をするといふことは、うるさいものです、さうしておまけに会計を遣らなければならず、日常の日記をつけねばならず、殆ど一人で遣りました、私は出納は余程正確に且つ明細に遣つた積りです、それで静岡で平岡準造といふ人が私を目して、此男は大変綿密の人だと見たのですどうもあゝいふ時の後始末について、計算書を判然と出した人は滅多にない、海外へ出た者は、経費が足らなければ足らないと言うて来るが、余れば持つて来るといふ人はないのに、誠に明瞭に調べて……、且巴里の御旅館になか〳〵の品物があつたものですから、それを種々心配をして、売るものは売り、掛け合つて返すものは返して、何でも金額で三万円余り持つて帰りました、前に一万六千円ばかりの金を持つて帰つて、其中で公子が水戸を御相続なさるについて、何か水戸へ御土産にといふので、スナイドル銃を一小隊分か買つて上げました、六七千円の金を其方へ使ひまして、一万円余りの金を駿河の方へ持つて帰りました、それから後へ頼んで置いた道具が売れて其金が還つて来た、それが一万五六千円の金でございました、処が其金は自分が持つて帰らぬので、あちらから名誉領事が送つて来たものですから、外務省で、これは新政府のものだ、取らうといふ論です、それからこれを取られては困る、政府のものではない、民部大輔一身に属して居るものだと、多少強弁もあつたかも知れませぬけれども、段々説明して其金はこつちへ貰ひまして、併せて三万円ばかりの金が残つたのです其残つた中で、今のスナイドル銃を六七千円出して買つて、二万円ばかりは駿河の方の計算に残つたのです、余程明瞭に調べて、細かい道具なども、方々へ進上をされた後の残りが、茶碗が幾つ、茶托が幾つ盆が幾つと、皆明細に調べて御引渡をしました、それらのことから、私は静岡の勘定組頭といふ職を言ひ付かつたのです、それで民部公子に向つては、永い間御世話を致しまして、日本へ帰る時には、もう山高といふ人も先に帰つてしまふし、御附の人は菊池平八郎・三輪端蔵小出俑之助と私と、これだけで帰つて来たのですから、旅行中若しくは其他でも、人数の少くなつた際には、万事を私が御世話を申上げて居つたものですから、大層御馴染みなすつて、公子は帰つた上は水戸を相続するのだが、若しも出来るならば、水戸へ来て働いてくれぬかなどゝいふ御話もありましたが、私の一身はどうなるか分りませぬから、いつれ日本へ帰つた暁に、静岡の方の仰せを伺つて、其模様に依つてといふやうなことで、それに対して御受もしなければ、御断もせぬといふやうなことでありました、初は井阪だの服部だのといふ人は私が帰国を大に反対するだらうと思つて居たのに、さうでなく都合宜く帰つて来たものですから、これらの人々も多少私の方に同情をして共に旅行をして来たのです、そんなことから、帰り早々小石川の御屋敷へ行きまして、公子に御目通りをして、老公は宝台院に御蟄居になつてゐらつしやるから、迚も公子の御対面は出来ぬ、それなら手紙を差上げたいからといふので、私が下書を拵へて上げまして、御直書でそれを持つて、とにかく御返昼を下さるであらうから、其御返昼を頂戴したらお前は水戸へ来てくれ、まだ水戸へ来たことはないといふし永い間世話を受けたから、水戸へ来て休んだら宜からうといふ仰せ、委細承知仕りました、御返書を頂戴しましたら、早速水戸へ参りますと言うて、丁度著船が十一月三日で、それから私は郷里へも参りなどして、十二月の二十三日と覚えて居ります、駿河へ伺つて其御書状を大久保一翁に取次いで貰つて、事情を申上げた処が、宝台院に今御謹慎中であるから、書面は早速取次がう、尚拝謁が願へるなら、どうか拝謁を願ひたいと申して置きました処が、其翌晩でございましたか、夜来いといふことで、そこで宝台院で久々で拝謁を得たのです、其時に私は、全体老公の遊ばされ方が間違つて居るといふやうなことを申上げましたら、そんなことを言うてくれては困る、もうそんなことは言ひつこなしだといふやうな御沙汰を蒙つたことを覚えて居ります、さう長い間でもございませぬが、色々御話を致して下りました、それで水戸への御返事が出るだらうと思つて待つて居つた処が、二日経つても三日経つても其御返事がないのです、ぐづ〳〵して居る中に、或る日静岡の藩庁から出て来いといふ喚出しが来た、行つて見ると、勘定組頭を言ひ付けるといふこと、それから水戸の方への御返書はどうしましたかといふと、それはこつちから別に飛脚を出すから、お前が心配せぬで宜しい、お前はこつちの御用を言ひ付けたのだから、こつちで役所の事務を取扱へば宜い、斯ういふことでありました、それで私がひどく立腹をしたのです、一体どうも恐入つた申分だけれども、老公といへどもなされ方が余りひどいぢやないか、御兄弟の間柄で、斯ういふ場合になり、永らく海外へ行つて居つて、さうして大層に御慕ひ申上げて、丁寧に御手紙まで認めて、其許が出て申上げうと仰せ付かつて来たのだから、とにかく此返事を遣るから持つて行け、さうして世の中が斯うなつたのだから仕方がない、心得違のないやうに勉強しろとでも仰せられさうなものだのに、唯手紙は飛脚で遣るから貴様は用はない、貴様はこつちで用を言ひ付かつたのだから働け……、それは私が衣食に窮して、駿河に食禄を求めにでも来たのなら知らぬこと、余り藩庁の役人の仕方も、又老公のなされ方も人情に背いて居る、折角の仰せだが、さういふことなら御受け申すことは出来ぬ、これから国へ帰つて百姓でもするか、他の方向を立てる方が宜いと、心で大に立腹したのです、それでこんな書附は|要《イ》りませぬと言うて、平岡に突返して帰つて来た、処が一体なんぼ世の中が変つたと言うても役所で与へた書附を突戻すなんといふことは、失礼の話ぢやないかといふことで、何でも大坪本左衛門とかいふ人が来て、頻に私に意見をしてくれた、余り乱暴だ、乱暴だつて役人などは|厭《イヤ》だから厭だ、そんなことを言うて威張つて見た処が、今日の場合どうすることも出来ぬぢやないか、私は役人にならうと思つて来たんぢやない、一体なされ方が余り分らぬと、頻に蔭で威張つて居たのです、すると其翌日であつたか翌々日であつたか、大久保一翁が藩の役所まで来てくれといふことで、それから行つた処が、大変お前は見当違の話で怒つて居るといふが、それは藩庁の話ぢやない、宝台院様の方で、どうも此手紙を渋沢に持たして水戸へ遣るのは宜しくない、別に届けるが宜い、さうして渋沢は藩の方で使うて、水戸へ遣らぬ方が宜いと斯う仰しやつたそれだからこつちで用を言ひ付けないと、水戸の方へ遣らなければならぬ、既に水戸の方から、お前をこつちへくれうといふ掛合が来て居るくらゐだから……、それでこつちで用向を言ひ付けたのだ、それから手紙もこつちから届けるといふことにしたのだと斯ういふ話であつた、然らばどういふ訳でさういふことに宝台院様が思召されたでありませうか、それが一体分らぬ話だと言うた処が、一翁の言ふには、どうも詳しいことは分らぬけれども、水戸へ行くのは余りお前の為に宜くないといふ思召だらう、併しこれは想像だからといふ話、そこで私は再び考へて見ると、はゝあそれでは私が水戸へ行つて、水戸に抱へられるといふやうな身になると、水戸の連中はあゝいふ人々だから、渋沢の為にならぬから寧ろ水戸へ遣らぬ方が宜いといふ深い思召で、それとなしに御止め下すつたのであらう、能くそこまで考へずに、徒に唯尋常一様の情誼だけを思うて、余り行き走つて、御不人情だなどと思うたのは私の方が誤つたのだと斯う考へて、さてはさういふ次第かと大久保に聴いて見ると、全くさうだらうと思ふから、お前が大変立腹したといふが、其立腹は分らぬ話で、少し見当違だ、さういふ意味合から、こつちでも適当の人なら使つたら宜からうといふので、丁度平岡と小栗尚三が是非渋沢を勘定所の方へ取りたいといふことになつたのだ、斯う詳細なる話を聴いて始めて私は成程と思つたのです、其時に水戸へ行つたら、私の身の上には悪かつたに相違ない、あのことは幾らか御記憶にあらつしやいまするか、
○公 あるよ、
○渋沢 為にならない、どうかこつちに置く方が宜いと思つたから扱つたのに、藩庁の者が悪いとか、人情を知らないとか言うて威張るのは、間違つて居るといふことを大久保に言はれて、恥入つたことを記憶して居ります、
○公 仏蘭西で水戸の者と余程どうも衝突して居るといふことを聞いた、なか〳〵頑固の連中だから其筈だ……、始めて詳しい話を聴いたロセスのことはさういふ訳であつたか、それでロセスは殺されたか、
○渋沢 いえさういふことはございませぬ……、それともう一つは、御前の御面前で申上げますのは甚だ恐入りますが、武田耕雲斎のことです、あれは丁度子年です、元治元年の冬、武田耕雲斎・藤田小四郎田丸稲之衛門などゝいふ連中の御処分は、御察し申上げても御困難であつたらうと思ひます、丁度闕下に訴へるといふのが、申さば中納言様に泣き附かうといふのですから、さうして表面は大に官規に触れるどころぢやない、殆ど人を斬り財を奪ひ、乱暴を遣つて来たのです、さらばというて、其心は真に強盗又は賊徒などではないのですから、それの処分には随分御困りなさつたらうと思ひます、厳にすれば酷だと言はれるし、寛にすれば幕吏の宜い口実になる、併しあの時すぐさま田沼へ御引渡になつたについては、時の巷説は、全体一橋は自分さへ宜ければそれで宜いのかといふやうな批評が沢山あつたのです、現に後に東京府知事になつた高崎猪太郎などは、私は其頃一橋家の周旋方で常に附合つて居りましたが、一体分らないとか言うて御批評を申上げた一人でございました、
○公 何でもこゝは一つ踏張つて遣れといふことを、ひどく説いた様子だ、
○渋沢 悪く言へば煽動する方になるのです、何とか苦しめる位置に立たせる訳です、あの時には、平岡はあの年の六月水戸の人に殺されまして、黒川が専ら任じて、私は黒川の秘書役見たやうな位置に居りました……、
○江間 あの時原は……、
○渋沢 原はまだ御屋形へははいりませぬ、
○公 いや居た、やはり原と梅沢と敦賀の方へ行つた、
2021-02-14T22:14:26+09:00
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山東京伝・骨董集・上・〔十五〕行水船、居風呂船
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/55.html
〔日本永代蔵〕【刻梓の年号なしといへども、按に貞享の時代なるべし。】四之巻に、江戸の事をいへる条に、或人船つきの自由さする行水船といふものを仕始て、利を得たる事をしるせり。〔義理桜〕【刻板の年号なし。画風を見るに、宝永正徳の比ならん。】一之巻に、和泉の堺の事をいへる条に、「六左衛門もと商人の子なれば、何がな身すぎになる事をと工夫せしに、万事元手なければ取つく島もなき小舟に、居風呂〈すゑふろ〉をこしらへ碇をおろしたる大船のあたりを漕ありき、一人三銭の極め、これは心安き事かな。舟宿まであがりて湯ばかりにも入れず、出来合を喰ば相応のとゞけ入事にて、おのづから堪忍して船中にくらす所へ、仕出し居風呂こそ重宝なれと、もと船一般より五人十人づゝ此銭湯に入つもりて、あまたの銭をまうく云々。」とあれば、行水船よりおもひつきて居風呂船をこしらへ、居風呂船より今の湯船〈ゆぶね〉といふものいできしなるべし。
[[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554343/18>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554343/18]]
〔十三〕江戸銭湯風呂の始
寛永十八年印本〔そゞろ物語〕【杏花園蔵本。】に云、「見しはむかし江戸はんじやうのはじめ天正十九卯年の夏の比かとよ。伊勢与市といひしもの銭瓶橋のほとりに、せんたう風呂を一ツ立る。風呂銭は永楽一銭なり。皆人めづらしき物哉とて入給ひぬ。されども其比は風呂ふたんれんの人あまた有て、あらあつの湯の雫や。息がつまりて物もいはれずゝ煙にて目もあかれぬなどゝ云て、風呂の口に立ふさがりぬる風呂をこのみしが、今は町毎に風呂あり。びた十五銭廿銭づゝにて入也云々。」【これにて江戸の銭湯の始り古きことをしるべし。】
〔十四〕風呂犢鼻褌
左にあらはす寛永正保の比の銭湯風呂の古図を見るに、犢鼻揮をむすびたるまゝ風呂入する体をゑがけり。こは画工の心を用たる絵そらごとにやと疑おもひしにしからず。昔は民家のいやしき者も風呂に入に、かならずふどしをはなつことなし。〔一代男〕【天和二年板。】〔三代男〕【貞享三年板。】等のうちにある銭湯風呂の図を見るに、皆ふどしをむすびて風呂入する体をゑがけり。〔棠大門屋敷〕【宝永二年印本。】一之巻に、下帯して風呂入する事をいへり。〔御前独狂言〕【宝永二年印本。】五之巻に、或人酒に酔、風呂犢鼻揮をときて、風呂入せしをあるまじきことゝて笑たることをしるせり。これ宝永の比まで風呂ふどしといふものありて、常のふどしにむすびかへて風呂いりしたる証なり。【按るに、ふどしを湯具といふもさるゆゑにやあらん。湯具といふより女は湯もじともいひしなるべし。湯巻といふはふどしのたぐひにあらず。うちあがりたる御方の湯殿に仕ふる者の身におほふ物なり。】
2020-02-15T18:28:23+09:00
1581758903
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言葉の栞(菊池実科高等女学校)
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/54.html
https://app.box.com/s/hyqk07j507tsqgxyyw8wi3cywktkrx68
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1zwP4JOtggxjiDdUAawF-E9qVnYuXARDEGgQ0h3PxiIU/edit?usp=sharing
|方言|正言|h
|アセガル|あせる|
|アド|かがと|
|アンネ|こもり|
|アマル|たはむる|
|アゴタ|あご|
|アキャァ|あかい|
|アザ|ほくろ|
|アゴタタク|しゃべる|
|アギャン|あんなに|
|アガシコ|あれだけ|
|アッチャン|あちらに|
|アツガリ|あかぎれ|
|アンタ|あなた|
|アメガタ|あめ|
|アシノハラ|あしのうら|
|アチイ|あつい|
|アキニャ|あきなひ|
|インマ|いつか|
|イガハ|ゐど|
|イゾウ|ぢぞう|
|イロツケ|につけ|
|インマ|そのうち|
|イノウ|になふ|
|イクミャイ|ゆくまい|
|イケ|すずり|
|イゲ|とげ|
|イゲボタン|ばら|
|イケヅム|りきむ|
|イデル|ゆづる|
|イギル|ゑぐる|
|イモアリャ|いもり|
|イコイ|ゆきませう|
|イラン|いりません|
|イソゴイ|いそぎませう|
|イヒバシスル|いはないのに|
|イチャ|いたい|
|イサギュ|たいそう|
|イッチョ|一つ(どうぞ)|
|イヤン|いや|
|ウチナリ|らいびゃう|
|ウマカ|うまい|
|ウスヌッカ|きまりわるし|
|ウウゴツ|おほごと|
|ウムス|むす|
|ウンガ(バ)|きさまが(を)|
|ウンベチマ|かいめん|
|ウブクルル|おぼるる|
|ウトイ|うちませう|
|ウント|たくさん|
|ウシツル|すつる|
|ウッチャル|あたへる|
|ウミャ|うまい|
|エタィ|よくあります|
|エイグヮン|あかゑい|
|エロウ|たいそう|
|エダ|うで|
|エエクリャ|ゑひどれ|
|エル|ゑらぶ|
|エグウ|こんじよわるく|
|エエコツ|よいこと|
|エザリ|ゐざり|
|エグチナハ|あをだいしょ|
|エツリダケ|こまいだけ|
|エ|よい|
|エジイ(エズカ)|おそろしい|
|オンナハル|いらっしゃる|
|オハチ米|ごくうまい|
|オロヨカ|わるい|
|オトテ|一昨日|
|オリ|じぶん(われ)|
|オッケル|つかれる|
|オンチヨ|をす|
|オゴチソ|ごちそ|
|オゴル|しかる|
|オケラコボシ|おきなこぼし|
|オウナク|あをむく|
|オガ|こびき|
|オガメ|かまきり|
|オドン|じぶん(自身)|
|オッサン|伯叔父さん|
|オキスクイ|じふのう|
|オズム|めさむる|
|オメキッテ|おもひきりて|
|オメダス|おもひだす|
|オメク|大きな声する|
|カカ|つま(家内)|
|カカサン|おかあさん|
|カイ(カナ)|か|
|カカル|さわる|
|ガッコ(ガツケエ)|学校(学校に)|
|カッガネ|かきがね|
|カサ|できもの|
|ガアニ|かに|
|カルウ(カラウ)|せおふ|
|ガンチイ|かため|
|カンネン|かんにん(ごめん)|
|カグ|欠く|
|カブ|かび|
|カザム(カズム)|かぐ|
|カサツバナ|かさ|
|カコイ|かきませう|
|カリャ|からい|
|キナメ|こほろぎ|
|キャァ行ツタ|行って終った|
|何々シタキャ|何々したか|
|何々シギャ|何々しに|
|キユウ|今日|
|ギバル|いばる|
|キメリ|きもいり|
|ギメ|ばった(いなご)|
|ギス|きりぎりす|
|キサニャ(キタニャ)|きたない|
|キチギャ|きちがい|
|キヤス|けす|
|キャァ|思はず|
|キナハリマツセ|おいでなさい|
|クルブク|うつむく|
|クベル|たく|
|クダハリ(クンナハリ)|下さい|
|クヮンジン|こじき|
|クレラシタ|下さった|
|クシャン|くしゃみ|
|クラワル|かまる|
|クラワスル|うつ|
|クウヤ|こうや|
|クリャ|くらい|
|クド|かまど|
|クビマキ|ゑりまき|
|クレ|下さい|
|クシャ|臭い|
|クレエ|黒い|
|クッタイ|あがります|
|ケリャ|けらい|
|ゲ|かた(方)|
|ケッドン|けれども|
|ケマヅルル|けつまづく|
|ケット|毛布|
|ケチイ|ずるい|
|ケミイ|けむい|
|ケロイ|けりませう|
|ケン|ますから|
|コケル|ころぶ|
|コブ|くも|
|コルモン|たくあん|
|ゴヌル|しぬ|
|コッチャン|こちらに|
|コソデギャ|あさり|
|コソグリノキ|さるすべり|
|コウゾ|ふくろふ|
|コカス|おとす|
|コヌル|こねる|
|コギャン|こんなに|
|コスイ(コシイ)|ずるい|
|コシコ(コイシコ)|これだけ|
|ゴンボウ|ごぼう|
|コンニャア|こんや|
|ゴンノジユ|ねつびゃう|
|コケ|ここに|
|コリバ|これを|
|コンナア|お出ませぬか|
|ゴケジョ|ごけ|
|コヤァ|かたい|
|サズル|かきよする|
|サブ|さび|
|サンゾク|ごとく|
|サルク|あるく|
|サト|さたう|
|サシャッタ|なされた|
|サムリャ|さむらひ|
|サミイ|さむい|
|シャアガ|ならば|
|ジンベン|よく|
|シラメ|しらみ|
|シッキャ|みな|
|シヨウイ|しょうゆ|
|シワガルル|しなびる|
|シチャクチャ|やたら|
|ジカ|はしか|
|シユ|しよ|
|シキ|しきい|
|ジャアゴ|ざいがう|
|シャアク|さいく|
|シャリムリ|ぜひに|
|シヤン|さん|
|シャアヅツ|さいづち|
|シデロクソ|そまつ|
|シユウ|しやう|
|シモバレ|しもやけ|
|シモタ|しまった|
|シュウジ|小路|
|シナハッタ|なされた|
|シミャア|をはり|
|シバンハ|しばのは|
|シタンサキ|した|
|スミャトル|すましてゐる|
|スウリョ|そうりゃう|
|スダ|しだ|
|スッチョモン|ぶしょうもの|
|ズクショ|こんじゃう|
|スボル|いぶる|
|ズウシイ|ざうすい|
|ズンド|すぐれて|
|セセクル|いぢくる|
|ゼ|よ|
|セドヤ|せと|
|セハラシ|忙し|
|セニャ|せねば|
|ゼンチャ|ぜんたい|
|セメル|せむる|
|セビャ|せまい|
|ソビク(ゾビク)|ひきずる|
|ソガシコ|それだけ|
|ゾウタン|じょうだん|
|ソッテチャ|それでも|
|ゾウナメ|めだか|
|ソンマン|すぐに|
|ソギャン|そんなに|
|ソケ|そこに|
|ソリバ|それを|
|ダンプ|らんぷ|
|タイアタ(タイ)|ました|
|タンゴ|たご|
|タケンコ(ヒャボ)|たけのこ|
|タマガル|おどろく|
|ダテスル|しゃれる|
|タベル|たぶる|
|タチャァ|等は|
|タリャ|たらい|
|タリカブル|くだす|
|タツ|たこ|
|タンベン|たびごと|
|ダンダン|ありがたう|
|タンギャク|とのさまがゑる|
|タッチャ|ても|
|ダッデン|だれでも|
|チイン|めったに|
|チイット(チット)|すこし|
|チケ|ちのみち|
|チキリノコ|ふんどう|
|チョヅダリャ|てうづだらひ|
|チヂュミ(チヂュム)|ちぢみ(ちぢむ)|
|チユウノ|をの|
|チャント|ただしく|
|チットン|すこしも|
|ツルノハ(ツンノハ)|ゆづりは|
|ヅッキン|づきん|
|ツンナフ|つれなふ|
|ツッコケタ|たふれた|
|ツンマガル|まがる|
|ツリャ|つらい|
|テグヮン|てせい|
|テングルマ|てぐるま|
|テチィユ|と云ふ|
|テチャ|でも|
|テエ|のに|
|テボ|こざる|
|テンゲ|てぬぐひ|
|テッタイ|といふことで|
|デデムシ|みのむし|
|テレットシテ|ぐづぐづして|
|ドグラ|かねつかひもの|
|トッサン|ととさん|
|トテン|とても|
|ドンドヤ|左義長|
|トツケムニヤ(トホムニヤ)|とんでもない|
|ドゴ|おしまい|
|ドウソク|ろうそく|
|ドガシコテン(トシコテン)|どれだけでも|
|トカギリ|とかげ|
|トカマユル|とらへる|
|ドケ|どこに|
|ドデライ|おほきな|
|トッペン|てっぺん|
|トッパイ|とうふ|
|トッパ|うはきもの|
|ダウ|いかに(だろう)|
|ドウカ|ろうか|
|トボケル|ぼんやりする|
|ナンテチナ|なにですか|
|ナニシギャナ|なにをしにですか|
|ナンカイタ|なにですか|
|ナンジャロウカ|なにでせうか|
|ナニンキャン|なにしろ|
|ナンデン|なにでも|
|ナンノ|いいゑ|
|ナシヤ|なぜに|
|ナハリ|なさい|
|ナンカ|など|
|ニユウイ|ねませう|
|ニイジン|にんじん|
|ニトル|にてゐる|
|ニキャ|にかい|
|ニャァタ|ないた|
|ニヤ|には|
|ニエル|にゆ|
|ニゲル|にぐ|
|ニギャアタ|にがした|
|ヌシドン|おまゑたち|
|ヌシャ|おまへは|
|ヌッカコツ|たわけごと|
|ヌッタクル|ぬりつける|
|ヌクタン|ばか|
|ヌスドコブ|ひらたぐも|
|ヌリィ|ぬるい|
|ヌリュ|ぬれやう|
|ヌンダ|のびた|
|ネロウ|ねよう|
|ネヤァタ|ねあいた|
|ネイ|はい|
|ネッカラ|ねから(少しも)|
|ネセモン|ねかしもの|
|ネコンメ|ねこのめ|
|ネギァ|ねがひ|
|ノゴフ|ぬぐう|
|ノイ|ね|
|ノッパラ|のはら|
|ノサン|たまらん(たへられん)いや|
|ノモ|のみませう|
|ノリミャ|のりますまい|
|ノカンカイタ|のきなさい|
|ノメル|すべる|
|ハガイカ|ざんねん|
|ハジカ|はしか|
|バクリヨ|ばくらう|
|ハナツボン|はなかげ|
|ハチクル|くる|
|バチグリカヘス(ハチカヘス)|こぼす|
|ハワク|はく|
|バッテン|けれど|
|ハッテク|行く|
|バナ(バイタ)|です(ですよ)|
|ハリカク|はらたつ|
|ビクニ|をんなのこ|
|ヒャア|はい|
|ヒャアホ|たけのこ|
|ヒザボス|ひざ|
|ヒョウナ|妙な|
|ヒュウタン|ひさご(へうたん)|
|ヒユドリ|ひようどり|
|ヒョコシ竹|ひふき竹|
|ビンタ|よこずら|
|ビャァラ|かれゑだ|
|ヒラクチ|まむし|
|ビキ|ひきがへる|
|ヒャッタ|はいった|
|ヒケタ|こまった|
|ヒョナコツ|いやなこと|
|ヒダリイ|ひもじい|
|ヒリアガリ|ちゅうじき|
|フギャムニャ|ふがいない|
|フウタレ|おだふく|
|フツ|よもぎ|
|フテエ|ふとい|
|フウチャ|ふうたい|
|フウヅキ|ほほづき|
|フユジ|ぶしょもの|
|フンタクル|ふみちらす|
|フマンゴツ|ふまないやうに|
|フン(ヘ)(ヘン)|はい|
|ヘゴダケ|へご|
|ヘンボ|とんぼ|
|ベンジ|べんり|
|ヘタクソ|へた|
|ヘコタレ|いくじなし|
|ベンザシ|主人|
|ヘラン|へらない|
|ホウジャ|こうひな|
|ホッポ|法外|
|ホダレ|つらら|
|ホトキサン|ほとけさん|
|ホトクロ|ふところ|
|ホッチラカス|ちらす|
|ホンニクサイ|ほんとうに|
|ホタクル|あせる|
|ホリコム|入るる|
|ホクソ|たいへん|
|ホンナコテ|ほんとうに|
|マッガリ|かまげ|
|マッガミ|まきがみ|
|マコツ|まこと|
|ママツギ|めしびつ|
|マイッチョ|ま一つ|
|マッシュウ|ませう|
|マツセン|ません|
|マルカ|まるい|
|ミミノハ|みみ|
|ミミナバ|きくらげ|
|ミイ|み|
|ミアァル|まへる|
|ミャァストル|おもねる|
|ミュウト|めうと|
|ミユイ|みませう|
|ミミャァ|みまい|
|ミヤイ(ミヤァ)|まい|
|ムコズネ|むかふづね|
|ムシノセク|はらのいたむ|
|ムゲエ|かはいそう|
|ムゾガル|かはゆがる|
|ムゾラシ|かはゆらし|
|ムコドン|むこどの|
|ムカイ|むかへ|
|ムヤミイ|みだりに|
|メラウ|をんな|
|メッチャ|めったに|
|メシツギ|めしびつ|
|メンタマ|めだま|
|メンドクシャァ|めんどい|
|モガサ|あばた|
|モチケ|もってこい|
|モン|もの|
|モウズ|もず|
|モエル|もゆ|
|モチャグル|もちあぐ|
|ヤト|きう(やとう)|
|ヤネ|やに|
|ヤボ|やぶ|
|ヤン|さん|
|ヤァタ|あいた|
|ヤッパシ|やはり|
|ヤタリャクヮタリャ|みだりに|
|ヤスゴロ|やすもの|
|ヤッシヤモン|ごろつき|
|ヤセゴロ|やせもの|
|ヤラカス|なす|
|ユダレ|よだれ|
|ユドノ|べんじょ|
|ユサンゴ|ぶらんこ|
|ユルリ|ゐろり|
|ユウジン|ようじん|
|ユウナカ|よくない|
|ユウケムニャ|ゆうきなし|
|ユルット|ゆるゆると|
|ヨノモン|ほかのもの|
|ヨロリ|など|
|ヨセ|よそに|
|ヨロクソ|よはむし|
|ヨメアザ|そばかす|
|ヨガム|ゆがむ|
|ヨコヒ|やすみ|
|ヨマ|ひも|
|ヨコフ|いこふ|
|ヨンニョ|たくさん|
|ヨカロウ|いいでせう|
|ヨッポド|よほど|
|ヨケ|やすみ|
|ラクリャ|らくだい|
|リャア|ところが|
|リュケムニャ|めんぼくない|
|リャネン|らいねん|
|リャアスカン|すかぬ|
|ロ|やうだ|
|ロクニ|正しく|
|ロクロク|十分に|
|ワガヘ|おけや|
|ワレキ|たきぎ|
|ワリガ(ワリサン)|おまへが(きさま)|
|ワッガ|わきが|
|ワンアリャ|みづすまし|
|ワッコ(ワクド)|ひきかへる|
|ワカラン|わからぬ|
|ワビル|わぶ|
|ワヤ|むちゃ|
|ワキャモン|わかいもの|
|ワイフイ|わいふに|
2020-01-06T17:21:51+09:00
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池田大伍「西郷と豚姫」
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/51.html
>京都三本木揚屋の中の間。舞台上手二重、座敷の心、上手より打廻して腰襖の障子。続いて一段低く板敷上より八間を釣下げ、中央に囲炉裏《ゐろり》。正面壁添に膳棚、欄間に定め書き。続いて繩暖簾の通ひ、台所へ続く心。舞台前よと下手へ打廻して土間。ずっと下手に格子戸の出入。続いて奥へ障子の嵌った出格子、この繊格子と二重下手とは小壁で絡《つな》ぐ。壁はすべて赤壁。
>二重座敷には小蔦籠、鼓、縮緬手拭なぞ置き、舞妓四人呼ばれてきてゐる心にて二人は綾取をし、一人はお手玉を取って遊んでゐる。別に一人少し離れてつくねんと物案じ顔でゐる。
>板敷には仲居二人赤前垂にて膳立をしてゐる。下手の框に廻しの男、ぶら提灯を格子へ下げ腰を伸して囲炉裏《ゐろり》で煙草を吸ひ附けてゐる。始終縫って騒ぎ唄。
廻しの男 おきのはん〳〵。家の岸野はんはまだ貰はれやへんのかいな。
仲居甲 さ、さっきもいうてぢゃけど承知々々とばかりで、いつもの通りの大酔ぢゃわいな。
廻しの男 あきやへんな。あの妓も酔はんとえゝ気質《きだて》やけど、いつもこれで弱らせられるなあ。まことに済まんこっちゃが、もう一度云うておくれんか。あと口がやい〳〵いうてぢゃ程に。
仲居甲 まあ、待ちいな。今|忙《せは》しいによって……
廻しの男 そないなこといはんと一寸頼みます。
仲居甲 そないにいうても今仕懸けた用があるがな。ま、も一服して待ちい。
廻しの男 あゝ仕様《しよ》ことがない。
(とまた一服する。こゝへ奥より仲居丙出てきて、舞妓《まいこ》達をみて。)
仲居丙 あれこの子達はまだこゝかいな。お客|様方《はんがた》はもう見えたがな。早う行きんかいな。(と物案じ顔の一をみて)おや雛勇はん、どないしやはった。気合でもわるいのかえ。
舞妓 いゝえ、さうやおへん。
仲居丙 ではどないしたの。
(雛勇黙って俯首《うつむ》く、舞妓の一人口を出して。)
舞妓甲 雛勇はんはな。襟かへが近々だんな。
舞妓乙 それで沈んでまんがな。私等《わしえら》が何かいふと直《じき》泣きまんがな。
(雛男顔へ袖を当てる。)
仲居丙 まあこの子は、襟かへとはお目出度いことやないか。御赤飯|炊《た》いて祝ふほどの事やないか。泣くといふことがあるものかいな。……さあ、早ういきんか。
舞妓甲 座敷へ往くは面白いけれど此の頃はお武家はんのお客はみんなお刀を傍へ引つけてゐやはるによって怖うてなあ。
舞妓乙 それで酔うてなあ昨日《きんによう》も菱屋はんのお座敷で剣の舞を舞うてみせうてなあ、長いお刀を抜きやはったので私等《わてえら》はきゃアって逃げたがなあ、岸野姉はんは酔うて居やはって空力味から肱をはって見て居やはったらお武士はんがすうと振りなはる拍子にあぶなく首が落ちる所《とこ》やったってなあ。
舞妓丙 あの怖《こは》。……姉はん、今日のお客はんもお武家はんやないか。
仲居丙 此頃のお座敷はお武家はんばかりで持ってゐるのやないか。お武家が怖うてはお座敷がありやへん。……
それに今日のお武家はん方は御年輩の立派な方ばかりやによって少とも心配なことはありやへん。早う往きい。
舞妓等 あい〳〵。
(と舞妓等打連れて奥へ入る。)
仲居甲 おとははん。お玉はんはどないしてゐやはる。
仲居丙 お玉はんはたゞ気合が悪いというてまだあの小座敷に俯伏《うつぶ》してぢゃがな。
仲居甲 ほんにまあ、西郷はんが少とも見えなうなってから、あんな気象なお玉はんやけれど、めっきり元気が無うなって変った人の様になったなあ。あんなものかいな。
仲居乙 ほんに他《はた》からは分らんもんやな。何ぼ自分が肥えてゐやはる云うたかてあんな太いだぶ〳〵した西郷はんが何処がいゝのやろ。
仲居丙 ほんにお玉〳〵ってお客衆に可愛がられ此処の名物になってゐるお玉はん、どないな浮気かて出来やはるに選《え》りに選って西郷はんとは可笑《をかし》いな。
仲居甲 おゝ先刻《さつき》もその話で大笑ひやがな。いかに豚姫さんやて、あんまり食《しよく》好みが無さすぎるてゝ。
仲居等一同 おほゝゝゝほ。
廻しの男 これおきのはんも、おさわはんもそないな事いうてゐる手間があったら一寸あの妓に知らしておくれんか。ほんに矢の催促ぢゃがな。
仲居甲 あい〳〵、もう一寸ぢゃがな。……だがまあ、お玉はんも余程突き詰めてゐやはる。眼付が据ってゐやはるな。
仲居丙 さうやなあ、誰しも男に凝ってくると争はれんもんや、みなあれや。だがまあ、それがあの、わてえ等に意見の一つもいふお玉はんとおもうとほんに可笑《をかし》いやうなお気の毒なやうな。
仲居乙 ほんに全くさうやなあ。
仲居甲 それにこりゃ内密《ないしよ》の話やがなあ、西郷はんの為にはな、あの慎《たしなみ》のよかったお玉はんが、着る物も頭のものもみななくして葛籠は空《から》ぢゃといの。この移り代りもどうしやはるやろう。
廻しの男 (忍耐《がまん》しかねて)もし早う頼みますに、これ、おきのはん。
仲居甲 あい〳〵。
(この途端台所にて。)
声 お吸ひ物が上ったがな。
仲居等 あい〳〵。
(と答へて膳を持って立つ。)
廻しの男 では頼んますぜ。
仲居等 あい〳〵。
(と繩暖簾の口へ入る。)
廻しの男 何のこっちゃ仲居等まで意地悪な。此頃は更けては往来はうか〳〵と歩かれやへん。ほんに物騒な。昨夜も橋詰で斬られた奴があるがな。岸野はんも困りもんやなあ。早うしてくれんかいな。え、いっそ自分でいてよんでこうか。
(とこれも上へあがり暖簾口へ入る。此時踊地の三味線の止り。拍子の音一しきりして、奥より仲居お玉|太《ふと》り肉《じし》の色白、愛くるしい顔つき、二十四五の扮《つくり》、頭痛のする心にて物憂さうに出る。)
お玉 おや、誰もゐやはらんの。
(と云ひながら囲炉裏《ゐろり》へゆき、湯呑へ罐子の湯を汲み、帯の間から合薬を出してぐっと呑む。この時奥より以前の雛勇|竊《そつ》と出て小葛籠へ倚りかゝりしく〳〵泣き出す。お玉気がつき、ふっとみて。)
お玉 おゝお前は雛勇はんやないか。どないしなはった。
雛勇 おゝ姉《ねえ》はん。私《わてえ》姉はんを捜してゐたんのや。
お玉 お玉、どうしやはった。
雛勇 私《わてえ》な、私《わてえ》な。(と泣き)明後日《あさって》な襟かへで、あの嫌ひな夢はんの世話になる様に、家の姉はんが約束しやしたの。私《わてえ》何《ど》うしよう。
お玉 おゝ、お前、あの夢はんの世話で、襟かへしやはるのか。まあ〳〵あのさんもよい年をしてこないな者を捉《つかま》えて……あゝ厭々。ま。見る事も聴くことも……(と額を押へる)
雛勇 あれ姉はん、何うしやはった。(と立寄る)
お玉 (隔てゝ)いや、何うもしやへん〳〵。
(此時奥には廻しの男の声。)
声 あれ、あぶない。姉はん。さ、河徳はんが矢の催促ぢゃわいな。
女の声 あれ、そないに引張っては衣服《べゝ》が切れるよう。引張らずとも往くわいな。
(と岸野酔ひどれた芸子の扮り、先刻の廻し男に介抱されて出る。)
岸野 (お玉を見て)あれ、姉はん、こゝにか。ま、先刻《さつき》にから何処にゐやはった。私《わてえ》姉はんに是非きいて貰はにゃならんことがあるのや。(と坐り込む)
廻しの男 あれ、又かいな。
お玉 お、岸野はん、なんや知らんけれど。今頭痛がしてどもならん。今度にしい。
岸野 その頭痛知ってゐる。誰《たあ》れも知らん姉はんの胸の中、私はよう知ってゐる。ま、姉はんもあの西はんのことでは大《いか》い苦労しやはるの。
お玉 ほゝ、私《わてえ》のやうな不恰好のものが、色の恋のと、他人《ひと》が笑ふにえ。
岸野 ほゝ、恰好が何うなとあろうと思う心に変りはあらへん。殊に姉はんの一図な気象では嘸ぞ辛いことやろうと察せられて私《わてえ》も涙が零《こぼ》れるにえ。(と泣く)
お玉 ほゝ、お前、酔うてぢゃな。
岸野 ま、私が酔うてたてゝ、何もそないに隠しだてなはることはありやへん。では私《わてえ》がみんな云うて上げうかいな。西郷はんは此頃、殿様の御首尾が悪うて蟄居してゐやはるのやろ。
お玉 え、西郷はんは蟄居してゐなはる。
岸野 え、知りやはらんのか。
お玉 何にも。……みなが私《わてえ》のことを西郷はんと大層訳のある様にいはんすけれど、そりゃ西郷はんがお可哀相や。あのお方はほんに蒙《えら》い方や。今の世に二人とない人や。そないな方が私の事など、何うなと思やはろうか。ま、でも蟄居などしてゐやはるなら、手紙なと下されたら好いに、いかにさっぱりしやはった御人ぢゃとてあんまりぢゃ。もうあれきりに見えぬことかと、大抵案じたこっちゃない。あんまりや。
岸野 ほう、ほんにさうや、何とか直ぐ怨んで上げんかいな。
お玉 いや〳〵さうで無い。西郷はんには色々の外に大事な御苦労がある。私《わてえ》らが事なぞは……。
岸野 ま、姉はんもめっきりと気の弱い、こゝらがほんの恋ぢゃな。
お玉 何の、私《わてえ》ももうちっと女らしい恰好もしてゐたら、云ひたい事もあるのやけれど……(ヂッとなる)
岸野 ま、また姉はんはあないな事を……肥えてゐやはるによって皆が、悪い名をつけて言囃すけれど、私にいはせりゃ、色白で柔和な所は白象《びやくざう》はんや。それでお腹の中は普賢菩薩はんというてもえゝ。私《わてえ》はしみ〴〵姉さんが好《すき》や。随分男さん達も姉はんを好きやはる人々はそりゃ多い。
お玉 ほゝ、岸野はんは相変らずやなあ。あゝ、私《わてえ》も岸野はんの様に飲めたらまた気の移ることもあるやろ。因果と酒の臭《かざ》も厭でなあ……(と顔を顰める)
岸野 ま姉はん。私《わてえ》もかうみえても此胸《こゝ》は楽ぢゃありやへんの。お、然う〳〵その事で姉はんに聴いて貰はんならんこと、あの半の字な……
(廻しの男仕方なく後向いて囲炉裏《ゐろり》で煙草を呑んでゐたが此時。)
廻しの男 姉はん、もうえい加減にしやはれ、さ、もう往にまほ。(引立にかゝる)
岸野 (振り放して)えゝ、これからが大事な話や、まあ待ちんか。姉はん、聴いとくれなあ。又あの人は何時まで私に苦を懸けるのやろ。もう自棄《やけ》や、それで呑む酒《さゝ》や、一寸も酔やへん。
廻しの男 でもこないに酔うてゐて……
岸野 えゝ、黙りんか。でもなあ、姉はん、わてえ余り気にかゝるによって先刻な祗園はんへ往て御籤を頂いてみたらなあ、末を頼めといなう。今は苦労をしたとても先に楽みがあればなあ。で急に胸が開いたやうで心嬉しさについこないに酔うた。はゝゝゝは。
廻しの男 ま、姉さん、さ、もう往にませよ。さ。
岸野 お玉、これをいうたら最往《もうい》ぬ。最往《もうい》ぬ。……姉はん、また、明日。
廻しの男 さ、さ、では姉はん、大けに。
(と仆れさうにする岸野を介抱して一寸お玉に挨拶してぶら提灯を持って格子戸より出て行く。)
お玉 (悩さし相に見送り)あゝ、苦労するというても笑ふてすまして置ける苦労。……
(と胸を押へる)
雛勇 (此時まで一寸離れて案じ顔でゐたが)もし、姉はん私《わてえ》何《ど》うしょう。
お玉 おゝ、お前は雛勇はん、堪忍しておくれ。岸野はんに捉《つか》まへられてお前の話を途中にして……(とヂッと雛勇の顔を覗き)お前はたしか両親《ふたおや》とも無いのぢゃな。
雛勇 えゝ。(と涙を拭く)
お玉 たよる者は誰もない。何を当ての楽みもない。(と俯伏した顔を勃然《むっくり》と上げ)お前、お死にんか。
雛勇 えゝ。(と逃げかゝる)
お玉 (捉へて)ほゝ、恐いかえ。さうも命は惜しいかえ。ほゝ、まだお前は命の惜しいのも知らぬ。たゞ死ぬるといふのが怖いのや。堪忍しい。わてえが悪かった。……だが、なあ、姉はんも何うぞして救うて上げたいが此頃は仔細《わけ》があってそれもならん。
雛勇 でも姉はんから家の姉はんに話してくれたら。
お玉 さあ、それは先の私《わてえ》なら、お前の知らんこって姉はんが私《わてえ》のいふことを聞く法もあったのやけれど。今の私《わてえ》にはもう出来《でけ》んこっちゃ。
雛勇 えゝ、では姉はんにも……何《ど》うせう。(と泣く)
お玉 もうお泣きでない。あゝ、私はもう泣かれると堪らん〳〵。あ、も一層《いツつ》此様《こんな》厭な世界に生きてゐたとて何になる。死ぬるならお前方の年のうち、厭な苦労もしずに死ぬるが増しや。
雛勇 あれ、姉はん、免《ゆる》して!
お玉 ほゝ、仰山な。私《わてえ》が殺すといやしまいし。
雛勇 でもいつもの姉はんと違うて怖《こは》らしい。
お玉 (我に返ったやうに)おゝ、何にも知らぬお前にこんな事。堪忍しい。いゝわ、私《わてえ》が味《あん》じょうしてやる。明日にもお前とこの姉はんに会うてよう云うてやる。夢はんの方は断りいうてやるやうにいうてやる。
雛勇 え、ほんまに? ま、嬉しい、……姉はん、頭痛は何うぢゃわいな。
お玉 ほゝ、現金やな。
雛勇 ほゝ、でも姉さんが請合《うけあ》うて呉れやはったので嬉しうて〳〵……姉はん、私《わてえ》あちへ往《い》ていゝ?
お玉 ほゝ、往きい。
雛勇 あちで今、小六はんが面白い事してゐやはるよって見たうて。え。
お玉 おゝ、往きい。
雛勇 お玉、嬉しい。
(とばた〳〵奥へ入る。あと。)
お玉 (せぐり来る涙を押へて)あゝ、この恰好《なり》で人を思ふのなんのてゝ、恥かしいけれど、西郷はんの事ばかりは思ひ切れん。何卒《どうぞ》してま一度逢ひたい。ま一度……この儘では諦めうにも諦められん。……あゝ私の様な者が、西郷はんを慕うたてゝ、迚も末の遂げらるゝこっちゃ無いとしれてゐて、何うしてこないな心が附いたんぢゃ。……というて諦めて何を楽みに生きてゐよう。……親も兄弟もない唯《たつた》一人の因果な身に産れて、もう何もかも厭はしうて死なうと思ひ切った、迚ものことにもう一度西郷はんに逢うて死にたい。たった一目でも逢へたなら夫を名残に死んでしまふのぢゃ。たゞ此儘では死切れん。死切れん。ま、せめて有所《ありしよ》なと知れてゐたら、せめては心頼みがあるに、私のこの苦を知りやはん方の、知らせて来よう訳もなし。思ひ遣りないとて恨まれぬ。所詮はこの身の拙《つた》なうて、分に余った人を思ひつめたが過誤《あやまり》ぢゃ……というて〳〵諦められん。ま一度逢うて……逢うて……(と伏し沈む。この途端グワラリと音して頬冠りの太った男、無恰好な尻端折《しりぱしおり》して飛びこむ。お玉ワッと驚いて飛び退くのを見て)
男 おゝお玉か。己《おれ》ぢゃ。
お玉 えツ。(と見て)あれ西郷はん。
(と土間へ飛下り、獅噛ついて)逢ひたかった。 逢ひたかった。(と泣く)
西郷 お、久しかったなう。いつも無事で結構ぢゃ。
お玉 え、無事で? ま、(と泣き)私極りの悪いこっちゃけれど、見えなうなられてからといふもの、毎日夢の様に暮した。――でもまあ、よう尋ねて来て下された。さ、上らんせ。
(此時一寸外にて人の気勢する。)
お、誰やら外に……お連様があるのかいな。
西郷 いんや、ありゃ己《おい》を斬らうとしてゐる奴等ぢゃ。
お玉 えッ。(と驚いて戸口を鎖す)
西郷 いや〳〵あいつ等はかういふ明るい所へは入《はひ》って来ん。出るのを待って斬らうとしてゐるんぢゃ。
お玉 まあ一体|何《ど》ないしやはった?
西郷 (框へ掛けて)おゝ、今日大久保の所まで所用で忍んでいて、その帰途《かへり》から跟けられた。たゞ危険《けんのん》とおもうたのは三条の橋の上ぢゃ。あの上で掛かられたら逃場がないとおもうて急いでくると仕合せと斬懸けをらん。あれから此通へ曲ってくると不意と走り懸って来をった。
お玉 まあ……
西郷 すると不斗《ふと》こゝの行燈《あんどん》が見えたによって飛びこんで来た。
お玉 ま、それで何《ど》うしなはる。
西郷 何うするとて別に法はない。こゝを須臾《しばらく》借りてゐるのじや。
お玉 ま、でもそいつ等が入って来たら……
西郷 なに入っては来はせん。実は二日ばかり寝んのぢゃ。睡うてたまらん。何処ぞ貸してくれんか。寝て往《い》なう。
お玉 ま、そないな事いうて表の奴等が何時までも待ってゐたら何ないしなはる?
西郷 うむ、それはまたその時の思案にする。
お玉 でもま、お刀を持ってゐやはらんで無用心な……此頃は御武家衆は廓でもお刀を預けやはらいで手許に引つけてゐやはるに……
西郷 でもおいは剣術は空下手《からぺた》ぢゃからな。用のない時にこそ武士の表道具大小は差してゐれ、大事の場合には何時も空手《からて》ぢゃ。
お玉 でも……斬りかけられなされたら……
西郷 逃げる。
お玉 でも……
西郷 はて逃げられなんだら、斬られて死ぬるばかりぢゃ。
お玉 まあ。
西郷 あゝ、こゝへ掛けたら一時に睡うなってきた……何処ぞ一寸貸してくれ。
お玉 あい〳〵、ま上らんせ。
(この時表にて「えい」「やっ」と気合、チャリ〳〵と二太刀三太刀太刀音、バッサリ二人ほど斬らるゝ音、呻り声。舞台の二人耳を澄ます。やがて格子戸を叩く音。)
声 先生、先生、己共《おいども》でごわす、中村でごわす。
西郷 おゝ、中村か、お玉、開けてやれ。
お玉 え、よいのかえ?
西郷 おゝ、同藩の者だ。大丈夫ぢゃ。
(お玉開ける。中村半次郎(後の桐野利秋)飛白の着附に小倉袴を短かく穿き、赤毛布をマントの様に着し血刀を下げてぬっと出る。)
中村 おゝ、先生、危険《あぶな》い所でごわしたな。
西郷 おゝ、中村か。何うして来た。
中村 先刻から先生の跡を追掛けて歩いてゐました。大久保どんの所《とこ》へ行くと一|歩《あし》違い、そいからまた跡を追うてくると先生の影をみかけた。そいで声を掛けうとして不図《ふと》みると、怪しい奴が二人先生を附けてゐる。で、これはならんと身をひそめてくると先生はこゝへ入られた。で、二人の奴等囁き合って家の中を窺ひ、抜き居らうとしたから、走り懸って声をかけて斬った。二人ともえい気持に斬れた。
西郷 さうか。だがさう無闇と人を斬ってはいけん。
中村 でも己《おい》が斬らなんだら、先生は斬られてゐなさろ。
西郷 (一寸返答に困って)ふむ。
中村 先生はよく己《おい》が人を斬ると叱りなさるが、斬ろか、斬るまいかと考へては人を斬れん。斬るとおもうたら直ぐ斬らんと斬れん。
西郷 中村、用件といふのは何だ。
中村 その事でこわす。殿様の御決心がまだ附かん。佐幕とも、勤王とも確《しか》とした仰せがなく、唯西郷は憎い奴だとばかり、繰り返し〳〵お憤りぢゃさうな。今日も午前《ひるまへ》から大久保どんが懇々と利害を述べ、再び先生を御採用あって藩論を一決するが最上策と声を嗄して申上げたのぢゃさうなが、矢張り只憎い奴ぢゃ〳〵の一点張りの御返答なさうな、畢竟《つまり》西郷切腹と仰せ出されたいのであるが御先代の愛臣といふ所から御遠慮があって、重役共に察しろと許りのお仕向けなのぢゃ。で、大久保どんも到頭あぐねて座を立たれたやうな訳ぢゃ。それで先生の所へ使が向いた。先生も大久保どんに逢ひなされたら大略《あらまし》聞かれたで、ごわせう。
西郷 おゝ、聴いた。
申村 それから跡ぢゃ。後は藩老の頑固党の分らずやばかりお側で、到頭西郷切腹と仰せ出された。
(お玉えっと驚く。西郷が軽くうなづいて。)
西郷 ふむ。
中村 すると今まで何にもいはれなかった新納《にいろ》どんが、「西郷切腹とはその意を得ん。謹慎といふならばまだ聞えてゐる。腹を切る罪はない」と論じられて有繋の殿様も返される言葉もなく、切腹の御沙汰だけは一時中止となったが、何せい殿様は赤間が関の事以来、自分の指揮を待たず、越権の計ひをする。今の中に仕置をせんと謀叛をする奴ぢゃといふのぢゃ。それといふも余り先生に衆望が集まるからの御嫉みぢゃ。御先代と違うて狭量で何事も先生に任せておけんからぢゃ。
西郷 ふむ。それで……
中村 それで? (一寸拍子抜けして)それで大久保どんは今、もう一度最後の嘆願をするとて支度を改めて出てゆかれた。
西郷 うむ、大久保がもう一度……さうか。
中村 大久保どんも余程の覚悟のやうぢゃ。ぢゃ先生、其が万一叶はんやうなら。何うしなさる。
西郷 (それに答へず)中村、今|汝《おはん》が斬ったのは、ありゃ矢っ張り幕府の者か。
中村 慥に幕府の奴等でごわす。
西郷 おゝ己《おい》も幕府からは憎まれて附狙はれる、殿様からは御勘当、もう何処へも往く処のない身になたな。あはゝゝは。(と淋しく笑ふ)
中村 (膝を進めて)先生もかうなっては非常手段ぢゃ。薩藩の為にも天下の為にも藩論を一決させんけりゃいかん。若し大久保どんの嘆願が届かんやうなら、同志を集めて御旅館へ嗷訴する積ぢゃ。
西郷 いかん。そんな乱暴な事はせんと、己にはまだ考へがある。
中村 えゝ考へが?
西郷 うむ、まあ、落着いてゐなされ、まだ〳〵切羽《せつぱ》にはなってをらん。それより汝《おはん》幕吏を二人まで斬って此処等にゐてはいかん。早く帰りなされ。
中村 でも先生一人置いて……
西郷 己《おい》は二日起され通しなので睡うてたまらん。少し寝てゆく。……よし町方の者がこゝまで取調べに来たとて己《おい》は大丈夫ぢゃが、汝がゐると面倒ぢゃ。早く帰りなされ、えゝ早く帰りなされ。
中村 (不承々々)では帰ります。
西郷 待ちなされ。(と呼び止め)だが返す〳〵も嗷訴なぞしちゃならん。
中村 は、はい。
西郷 (お玉に)おゝお玉。この人を目立たんやうに外の出口から帰してやりなはれ。
お玉 あい、あんた、此方《こっち》へ。
(と心得て中村をつれて上手の奥へ入る。中村西郷に黙礼して履物をもってのそ〳〵と入る。あと西郷腕組して眼を閉ぢてゐる。やがてお玉引返してきて。)
お玉 もし、お帰し申しました。
西郷 おう、さうか。
お玉 今のお方の話の様子ではえらい事になりましたな。
西郷 うむ。
お玉 それで何ぞよい御工夫でもありやすの。
西郷 無い。
お玉 えッ……でも今まだ切羽《せっぱ》ではない。考へがあるといやはったぢゃありまへんか。
西郷 いや、ありゃ若い者は押へておかんと何んな事を仕出すか知れんから、それで云うたのぢゃ。
お玉 (おろ〳〵声を出し)ではま、何《ど》ないしやはる〳〵。
西郷 ま、心配せんといゝ。何うかなる。ま、少《ちつ》との間寐るかしてもらはう。
お玉 (顔を見て)まあ。
(と呆れる。此時表の方物騒しくなり、口々に罵る声きこえる。お玉ははっとして。)
お玉 お取調べが来たと見えます。さ一寸こゝへお隠れなさりませ。私が工合ようやりますから……
西郷 さうか。
(と西郷立って無造作に衝立の蔭へかくれる。お玉急いで西郷の履物をかくす。)
声甲 慥に斬手はこの家へ逃げこんだやうだ。
声乙 左様で、一応取調べましょう。
(と声して戸口をぐわらりと開けて出役の同心二人。手先を連れて入ってくる。)
同心甲 これ、唯今これへ何者か参りはせんか。隠すと為にならんぞ。有体にいえ。
同心乙 其奴は上役人を二人まで斬った重罪人ぢゃ。どれへ往った。早く申せ。
お玉 (落着いて)これはようお出で……(と挨拶して)唯今これへ何方もお見えなさりはしまへん。
同心甲 やあ、偽りを申せ。この方には確な証拠があるぞ。隠し立てして後で後悔するな。
お玉 でも何とお云やはってもお出でにならんものはお出でにならん。
同心甲 よし、其方にはもう問はん。これ誰ぞ居らんか。これへ出い。これへ出い。
(と高声あげて呼ぶ。暖簾口から料理番の六。洗ひ方の平など出る。)
六 (同心をみて恐れ)へ、これはお出で。なに御用でござりまする。
同心甲 こりゃ其方共はこれへ唯今まゐった奴を存じてをらぬか。
六 (平と顔見合せて)へ、一向知らん。なあ平公。
平 おゝ、私《わたい》も知らん。
同心乙 然らばこの女は最前よりこゝにおったか。何うぢゃ。
六 (平と顔見合せ)へ、それは……
同心甲 こりゃ、偽ると為にならんぞ。
六 へ、へい。確に居りましたやうにございます。
同心乙 左様か。(と同心甲とうなづき合ひ、お玉に向い)其方最前からこれに居ったと申し、外の者共は知らんといふ。然らば其方一人で何処ぞへか、その者を逃がしたな。
お玉 いえ、私《わてえ》は全く知らんがな。
同心甲 やあ知らんと申しても最前からこれに居ったら、二人まで人の斬られたを知らんといふことはあるまい。
お玉 はい、そりゃ知ってまんがな……
同心乙 然らば何者が斬った?
お玉 そりゃ知りまへんがな。私《わてえ》は女子《をなご》のことぢゃし、ここで慄へてゐました。
同心甲 やあ、それで知らんとは言抜けさせぬぞ。さ、真直に申せ。何処へ逃がした。
お玉 そりゃお前、無理ぢゃがな。こゝで斬合ふ音をきいた許り、誰がきったか、誰がきられたか知りやへん。多分お互いに斬合はしゃんしたが誰も好んで斬られる人もなし、やっぱり強い方が勝って弱い方が斬られやんしたのやろ。
同心甲 こりゃ何を云ふ。斬られたは御上の御用を勤むる新徴組の人達ぢゃ。
お玉 では相手が強すぎやしたのやろ。お前《ま》はんもまあ、こゝで私のやうな昧《つま》らん訳の分らん女子を捉えてわや〳〵いうて居やはる手間で、早う外を捜したらよござんしょ。
同心甲 やあ、此奴、無礼な奴、一筋縄ではいかん。番屋へ引立てゝ詮議しよう。
お玉 えゝ、どうなとさんせ女《をなご》ぢゃとて命をすてたら強いもの。知らんものは知らんまでぢゃ。
同心乙 こいつ強情な奴。では番所へ引立てろ。
(手先等はっとお玉の傍へ行かうとする。料理番、洗ひ方なぞ驚いておど〳〵してゐる。此時。)
西郷 待て。
(と衝立を押退ける。お玉「アレ」と是非なき思入)
同心甲 やあ貴公は何者《なんもん》ぢゃ。
西郷 己《おい》は薩藩の西郷吉之助ぢゃ。
同心甲 えっ、西郷ッ。(同心乙と顔見合せる)
西郷 いやその女は己《おい》が馴染の者ぢゃが、まことに癇持でならん、そいで御無礼申したやうぢゃが、何うかお免《ゆる》しが願ひたい。
同心甲 あゝ左様でござるか。それでお手前には最前から其処にお出でゝございましたか。
西郷 左様。
同心甲 ではこの門口での変事を御存じかな。
西郷 いや知らん。
同心甲 いや御存じないと云はれても下手人がこれへ入ったやうな形跡でござれば、居合はされたる不祥、番所まで御同行を願ひたい。
西郷 いや、それは断る。
同心乙 では後日の為め、御名刺《おなふだ》が頂戴したい。
西郷 左様なものは持合さん。
同心甲 では強《た》って番所まで御同行を願はう。
西郷 ふむ、行かんというたら……
同心甲 (擬勢して)強ひても御同行申す。
西郷 (嚇と怒りて)やあ、己《おい》を強ひて同行する。強ひてとは繩かくるといふのか。薩藩の西郷吉之助と名乗った者に繩かくるといふのか。馬鹿者《ばかもん》が!!(と大喝して) 幕府が表向きにこの西郷に繩打って引かるゝものなら、何故《なぜ》刺客などを使って闇打になぞしようとするのぢゃ。……門口で斬られた奴は新徴組の奴等というたな。彼等《あいつら》は己《おい》を斬らうとしをった。但し彼等《あいら》新徴組の奴等は内職に物取りを働くかッ。
同心等 (気を呑まれてゐる)
西郷 物取りならば斬らるゝが当然ぢゃ。一体幕府の遣り口がすべて堂々としてをらん。当路の役人共に誠意がない。だから己《おい》共のやうな芋を掘ってをりゃよい者《もん》にまで世話かけさせるのぢゃ。おのれ等小役人には分らん。帰って上役の者に云へ。西郷を縛るなら、堂々と縛れ。卑怯な暗殺なぞせんとおけといへ、えゝ、もう帰れッ。
同心等 (身体を固くして息を切ってゐる)
西郷 但し、おのれ等、立派に薩藩の西郷吉之助縛って牽くかッ。
同心甲 むゝ。(と詰る)
同心乙 (口を出して)いや、強ひて御同行申すと申したは同僚の申しあやまり。御身分柄のこと、帰って一応相談を遂げ、重ねて、御藩の方へ御照会申さう。では失礼。
(と一同そこ〳〵にして出る。六と平も西郷とお玉の様子をみてこそ〳〵と暖簾口へ入る、お玉土間へ下り戸口を鎖し。)
お玉 ま、私《わてえ》、待てえと衝立を開けて出てきやはった時には何ないしょうとおもった。
西郷 あはゝ。彼等《あいら》何奴《どいつ》も、己《おい》を斬って返す刀で腹を斬らうといふ気魄のある奴は一人もない。おのが命を庇ふから踏込んだ事が出来ぬ。彼等に限らず、幕府の奴はみなあれぢゃ。だから幕府は衰へるのぢゃ。
お玉 だがまあ、大夫《たいふ》はんは何時もに似気なく大きな声を出しなはれて私《わてえ》も吃驚《びつくり》した。それにあないな者を相手にしやはる方やないとおもうてゐたに。
西郷 (長大息して)あゝ、お玉、汝《おはん》にそれが気が附いたか。さういはるゝと己《おい》も恥入った。あんな小役人共を相手に大声を上げたとおもふと己《おい》ももう終《しまひ》ぢゃ。……有繋の今度の事には己《おい》も思案に余った。永らくの謹慎が免《ゆ》りてやっとお目見得が叶うたと思うと、又勘気ぢゃ。もう今度は駄目ぢゃ。迚も大久保がいかに申上げたとて御免はあるまい。……あゝ己《おい》の仕事も中途挫折ぢゃ。まだ時節が来んのぢゃ。勤王の大業も、竹内式部先生に始まった。山県大弐先生と、いずれも時が来んで中途挫折ぢゃ。今度こそは時節到来と己《おい》も幸ひな時に生れあはしてこの曠古の大業の雑兵位は勤めらる玉とおもうて喜んだが、矢張|己《おい》の妄想ぢゃった。まだ時節がこん。あとは次の時代ぢゃ。もう己《おい》の仕事はしまひぢゃ。(とぢっとなる)
お玉 (はら〳〵と涙を滾して)ま、大夫《たいふ》はんがさういやはるのは余っ程なことぢゃ。
西郷 (顔を上げて)ま、えい。この成行は翌日までぢゃ。睡うてならん。ま、寝てまたう。
お玉 えっ、寝やはる? おゝ、嘸ぞお疲れたやろ。少とお横になって手足を伸しなさるもよかろ。あちの小座敷へ一寸床をしませう。
西郷 いや、こゝでよい〳〵。
(とごろりと横になり、衝立を引寄せ、身体をかくす、お玉取支えかねて。)
お玉 おゝ、さぞお腹も空いてゐやはろう。一寸|飯《まゝ》をして持ってこよう。(と立つ)
西郷 おゝ一寸|握飯《むすび》でもしてくれ。
お玉 あい〳〵。
(囲炉裏の側にあった煙草の筥を取って懐紙を当て、枕にあてがひ、涙を拭いて暖簾口へ入る。あと奥より幕明きの舞妓達出る。一人は三味線を持つ。)
舞妓甲 さ、愈々わてえ等の番や。さ、こゝで当っておかん。
舞妓乙 なにしやはる。
舞妓甲 椀久やないか。雛勇はん。さ、お立ちんか。
雛勇 (以前とはかわり、にこ〳〵してゐて)あい。(と小葛籠から杖と面を出す。舞妓等鼓、三味線など合はせることよろしく)
舞妓甲 さ、よいか。
(と雛勇一寸椀久の振になる。どっと風の音、雛勇止めて。)
雛勇 おゝ怖《こは》。
(一同も三味線、鼓の手を止める。と何処ともなく鼾の声、舞妓等おびえて。)
雛勇 ありゃ何や。
舞妓甲 ま、鼾の様やが、何処にも誰もゐやへん。ま、気味わる。
舞妓乙 もしや、怖《こは》いもんやないか。あれ又……
舞妓甲 おゝ怖《こは》。……もしやすると蝮蛇《うはばみ》やないか。
(一同えっとおびえる。この途端風の音、一同わっと我先に逃げようとする。出会頭にお玉握り飯に箸をそへ盆にのせ、土瓶をもって出る。)
お玉 まあ、びっくりした、お前方はどないしたのや。
舞妓甲 でも姉はん、あれ蝮蛇《うはばみ》が鼾をかいて……
お玉 えっ。(と聴耳たて、呆れ)ま。あれ程の苦労の中でもうあないに……(舞妓達に)これ、お前方そないなこといふもんぢゃありやへん。ありゃ私《わてえ》の知ったお方が其処に寐てゐやはるのや、だが彼方《あち》へいては云うてはならんぞえ。
舞妓等 あい〳〵。
(と点頭いて入る。お玉、盆を下へ置き衝立を掻いやり、西郷の寐姿をみて。)
お玉 ま、このよくお寐《よ》ったこと。全く私等《わてえら》なぞには底の知れんお方や。……此お方の御苦労に比べたら、私の苦労なぞ、馬鹿らしうて話にもならん。……というて、かうして御傍にゐりゃ、何事も忘れてゐるけれど、また離れたら……あゝ、此お別離《わかれ》がもう名残ぢゃ。(と声を呑んで泣き。やがて涙を拭ひ)もし、大夫はん。おにぎりが出来ました。起きてお上りんか。もし〳〵。この儘ではお風召します。さ、お起きんか。もし〳〵。(と揺り起す)
西郷 あゝゝゝあ。(と目覚し、お玉をみて)おゝお玉か。(腹匍いになりて顔を上げ)お、握飯《むすび》か一つくれ。
お玉 ま、起きてお上りんか。
西郷 おゝ。
(と起きかけて握り飯を取ろうとしてふとお玉の顔を見て熟とみつめる。お玉見詰められて顔を反《そむ》けるやがて。)
西郷 お玉、汝《おはん》は死ぬ気ぢゃな。
お玉 (極端に驚く)ひえッ、……(漸く気を取直したやうに)いゝえ。
西郷 嘘をいえ。死ぬ気ぢゃ。相《さう》に出てゐる。
お玉 えっ、相に? (と顔へ手をやる)
西郷 いや、己《おい》は人相見ぢゃないが、今までいくらも死を決した男に出会ってゐる。そいで分る。何うしたんぢゃ。
お玉 (胸迫って泣き出す)
西郷 これ泣いてゐちゃ分らん。いへ。
お玉 (泣きながら点頭き)では私《わてえ》いふ。私はな、九つの時から親に別れてかういふ茶屋へ奉公にやられた。母親はもうずっと小さい時に無くなられて、父《とう》やんは私《わてえ》が九つの時、都の世帯が張りきれず。私を奉公に出されて田舎へ引込まれた。それから十、十一、十二、十三と五年、随分悲しい目にもあった。それで忘れもせん十三の冬、丁度、ちら〳〵と雪のふる朝、不意と父《とう》やんが私を尋ねて杖に縋って来やはれた。久し振りで遇うた嬉しさに種々《いろ〳〵》聴くと、父《とう》やんは田舎へ行《い》て農業《ひやくしやう》をしていやはれたが、もう年を老って出来やはらんので私《わてえ》を便《たよ》ってきやはれたとの事、何をいふにも私《わてえ》はその時まだ十三、父《とう》やんを過すこともならず。家《うち》の無くなられたお家《いへ》はんは禄《ごく》にも立たん者、来たと白い眼で睨みやはる。でやっと貯めた三分のお金を父やんに渡してどうぞもう一度国へ帰ってくれなはれと泣いて頼んだら聴分けて出てゆかれた。やがてその翌日の午頃にまた、飄然《ひよつこり》と帰ってこられた。私ははっと肚胸を突いて何うせうかとおもうてゐると、「これお玉よ。もうわれ心配するな、おれはな、今国の檀那寺の和尚さんに遇うた。それでかう〳〵いふ訳と話したらな。よし〳〵飾りを下したなら、国へ連れていておれが世話してやらう、おれはもう金はいらんことになったから返すというてな。私《わてえ》の顔をぢっとみてな、これが別れにならうもしれん、達者で居ろよというて出てゆかれた。その姿が今でも眼にあり〳〵。……それっきりに今に音沙汰なく。今考へれば多分その時何処ぞ遠くの河淵なと往《い》て身を投げて死なしゃれたと見える。……それからは私は一人ぼち。努めて元気にしてみせて、やれ玉は面白いの、苦がなさゝうなのとお客衆に云はれても、時々一人になると何ともいへず寂しうて〳〵……(と云ひ差して少し顔を上げ)それがふと大夫はんに逢うてから始めの中は済まんこっちゃが、取り止めもないやうなお方ぢゃとおもうてゐたが、日増しにお目に懸るにつれて、大様で底の分らん、それで懐かしい、世の中にもこんな蒙いお方があるかとおもふと、お傍にゐると、物に喩へていへば、かう大きな〳〵お日さんの一杯さした野辺にでもゐる様な、酔うたやうな気持ちになり、夫から今までの我身が顧みられて今まで賢うみえたお人も、豪うみえた客衆もみな下らん人になって、座敷で浮いたこというてゐるのが馬鹿らしうなり、何やら、かう心に大穴でもあいた様、それでその隙《すき》が塞《ふさが》らんでゐるやうな気持がして、何もかもみな厭になって、というて大夫はんの奥|様《はん》にはどうあがいたてならるゝ身やなし。もう何の執着もなし。もう一度お目に懸かれたら、夫れを仕舞に死んでしまはうと覚悟をきめた。……というてそりゃ、みんな私《わてえ》の心の勝手、大夫《たいふ》はんのお知りやしたことではない。ついみな云うて仕舞うたれ、怒らんとおくれやす。(と胸迫って泣き出す)
西郷 (ぢっと聴いてゐた首を抬げて)今まで己《おい》は何にも云はなかったが、汝《おはん》が己《おい》に蔭に日向にいろ〳〵尽してくれたのもよう知ってゐる。いつか己《おい》も礼の出来る時がくるだらうと黙ってゐた。
お玉 おゝ。(とたゞ泣いてゐる)
西郷 汝《おはん》が身の廻りのものや、何もかも無くして己《おい》や同志のもんの為にしてくれたこともよく知ってゐる。
お玉 (驚いて)えっ。……
西郷 しかも己《おい》にそれを隠して少しも知らせまい〳〵と骨折ってゐる事もよく知ってゐる。
お玉 えっ、それまでも……私、う、うれしい。
(と感極まって西郷の膝に打伏し、咽び泣く。西郷その肩へ手をかけ。)
西郷 己の様な昧《つま》らん者を、よくこんなにまで面倒をみてくれた。……その上に命まで……己は、う、う、うれしい〳〵。(と泣き出す)
お玉 (首振り上げて)あれ、ま、大夫《たいふ》はんが私《わてえ》の様なもんに涙を……
西郷 汝《おはん》は、汝《おはん》は、己《おい》に、己《おい》に、たうたう、たうたう、涙を出させてしまった。涙を出させてしまった。
(こみ上げておい〳〵と泣き出す)
お玉 あれ、大夫《たいふ》はん。そんな大きな声をして……ま、人がきく。見ともない〳〵。
(といひながら、これもしゃくり上げて泣く。この時奥の間より仲居甲何の気なしに出てこの体を見て笑ひを忍び、こそ〳〵と出てゆく。やがて一同を呼んできた心にて仲居二三人、料理番、洗ひ方の男など押重なってそっと覗き指さし、囁いて腹を抱へ、笑ひを堪へる心。とゞ弾みを打って衝立を押倒し、どっと逃げて行く。二人気が附いて見送り、心にも懸けぬ様子。台所の方にて一人の男の声堪へかねたやうに。)
声 でも肥えたのと肥えたのとが握飯《むすび》を前へおいて手放しでおい〳〵泣いてゐては、いっかな金仏でも笑はずにゃ……
他の声 しっ。(といって笑ひを堪へる様子、とゞ堪へかねてどっと笑ひ崩るゝ声)
西郷 (居住居を直してふいと)お玉、己《おい》も一緒に死なう。
お玉 えっ、ま、大夫はんとしたことが、そないな冗談いうて……
西郷 いや冗談ではない。己《おい》も死ぬる。己《おい》ももう世に用のない身体《からだ》ぢゃ。今まではどんな難事も忍んで大業を成就しようといふ煩悩があったが、それもふっつり絶えたれば、もう何にもない。己《おい》はよく首を斬られる奴をみたが、切られるまでは眦を釣上げ、歯を喰ひしばって有りたけの力をみせてゐるが、太刀風と共にばったりと何にもなくなってしまふ。己《おい》の望の絲も切れたら、もう持扱ふほど隙な身になった。迚も死ぬなら汝《おはん》と死ぬ。
お玉 でも滅相な、私のやうな者《もん》と死にやはったら、それこそ取り返しのならんお名の汚れぢゃ。
西郷 あはゝ死後の名なぞいふものは己《おい》に取ってはなんでもない。……それにつけても思ひ出すはあの月照上人のことぢゃ。あゝお気の毒なことをした。元来|己《おい》はあの時死ぬべき筈ぢゃった。国家の為に死ぬるのも、汝《おはん》と一緒に死ぬるのも事に軽重はあれ、己《おい》に取っては一つぢゃ。たゞ情に酬いるのぢゃ。あの月照どんと一緒に薩摩潟の水へ入ったのも同じ覚悟ぢゃった。あの時月照どんの歌は「大君の為には何か惜しからむ、さつまの瀬戸に身は沈むとも」己《おい》のは「ふたつなき道に此身を捨小舟、波たゝばとて、風ふかばとて」己《おい》の心はいつも変らん。なんで死なうが道一つぢゃ。波がたゝうが風が吹かうが。さあ往《い》こ。
(とお玉の手を取って立たうとする。)
お玉 (手を執られたまゝ)往《い》ことは何処へ。
西郷 死にゝぢゃ。鴨川の深みを尋ねて川伝ひにいかう。
お玉 でもまだ宵で人通りが……
(とつか〳〵と下手へゆき出窓の障子を明けて見渡す。どっと風の音、八間の燈火《あかり》、瞬いて消える、十日頃の月の光、流れ入り、一面窓外には黒く流るゝ鴨川と北山みえる。お玉その景色に見入りながら立戻ってきて。)
お玉 もしあの鴨川の黒い流れを……三途の川とやらもあの様であろ……(とあたりを見廻し)まあ静ぢゃ。死んだといふもこんな気持やろか。
西郷 さうぢゃろ。
お玉 まあ、うれしい。いゝ気持やろ。幸ひ人通りもない。さ、往《い》にませよ。
西郷 おゝ、往《い》こ。
(と戸口へかゝる。この途端、けたゝましく戸口を叩く。二人一寸慌てゝ土間の隅の雑具の陰へ小隠れする。)
声 これ、明けんか。これ明けんか。急用ぢゃ。たれも居らんか。これ。
(これにて奥より仲居甲出て。)
仲居甲 おやまあ、真暗《まつくら》や。これ、平はん。ちゃと燈《あかし》がきえてる。来ておくれか。おや、お玉はんもあのお方も居やはらん様や……
声 これ、開けんか、これ。
仲居甲 はい〳〵どなたです。これ平はん、早う燈《あかり》を持ってこんか。
(この中、窓口より中村半次郎覗き。)
中村 これ、早くあけんか。先生に急用ぢゃ。
仲居甲 はい〳〵。
(とこの中、平|燈《あかり》を持ってきて、八間に点ずる、仲居甲は土間へ下り、戸を開ける。中村半次郎、羽織袴装の大久保市助(後の利通)と共につか〳〵と入ってくる。)
中村 これ先生は何処ぢゃ、急用ぢゃ。喜ばしいお知らせを持ってきたのぢゃ。早く知らせう。
仲居甲 へ、でも何処においでやら。
西郷 いやこゝだ〳〵。
(と前へ出てくる。あとよりお玉おず〳〵出る。)
中村 お、先生、何でそんな処に居られた。……ま、それより大吉事でごわすぞ。大久保さんが御尽力で遂に復職されて藩論一決(とやゝ声をひそめて)勤王にきまりましたぞ。
西郷 え、勤王に……
大久保 さうぢゃ、西郷どん、喜びなされい。直ぐに西郷どんは密使として水戸と打合せの為め江戸へ下されることゝ決《きま》りましたぞ。
西郷 えっ、では殿様の御思召が急に変って……あゝ有難い。大久保どん。みんな君の御厚志ぢゃ。
(と大久保の手を執る、大久保もその手を執って。)
大久保 あゝ、先刻《さつき》はあれまでに言葉を尽してもお聴き入れがない。もうこれまでと己《おい》を信頼してこの大事を任せた汝《おはん》にも済まんと刺違へて死なうとおもったが今一度と決死で上って望みが叶うた。思へば先刻《さつき》よう死なゝんだぞ……おゝこれは殿様からのお手許金、旅費として下さった。
(と懐より百両包を出して西郷に渡す。)
西郷 おゝ、では直ぐ立とう。
(この時おず〳〵とお玉側へゆき。)
お玉 も、もし、もし。
西郷 (振向き)お、お玉、情死《しんぢう》はもう変更《へんがへ》だ。
一同 えっ、情死《しんぢう》!
(と驚く、お玉極り悪く顔を隠す。)
西郷 (百両包の中から一両だけ抜出し、あとをお玉の手に持たせ)さ、これは帰って来る迄の手当だ。
(と一両兵児帯の間へ挾んで出ようとする。)
中村 ま、先生一両持って何処へ行きなさる。
西郷 何処へゆくて、二分あれば東海道は上り下り往返《わうへん》が出来る。……では大久保どん往《い》てくる。あとを頼んますぞ。……おゝ、お玉ッ。
(とつか〳〵と側へゆき手をかけようとして中村と大久保をみて極まり悪さうにして、こそ〳〵と出て行ってしまふ。お玉呆っ気に取られたやうに二足三足出て大久保や中村に顔見合せ、これも極り悪く、框へ後向きに俯伏してしまふ。大久保と中村とは顔見合せて、「何んだ」といふ顔。仲居甲も居合せてたゞ呆れてゐる。)
ー幕ー
[[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019537/30>http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019537/30]]
[[http://kokugosi.g.hatena.ne.jp/keyword/池田大伍「西郷と豚姫」>http://kokugosi.g.hatena.ne.jp/keyword/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%A4%A7%E4%BC%8D%E3%80%8C%E8%A5%BF%E9%83%B7%E3%81%A8%E8%B1%9A%E5%A7%AB%E3%80%8D]]
2019-09-13T22:06:03+09:00
1568379963
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市来四郎「島津久光公の修史に關する意見」
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/47.html
『史談会速記録』第3輯(明治25年12月7日) pp.75-112
明治二十五年九月二日午前九時三十分着席 市來四郎君講演
吉木竹次郎速記
○島津久光公の修史に關する意見 附 島津家史料編録の順序
○同家舊記保存の顛末
○藩廳公簿燒棄の顛末
○齊彬公世繼の顛末
丁野君(遠影) 此内より願ひ置きました、久光公御在世中修史の事に御熱心にて、夫れをアナタに御命しになりました御次第は、誠に貴重な御事と存しますれば、今日は其御咄を伺ひとう存します、
磯野君(佐一郎) 前頃伺ひましたる久光公修史の事に付思召の次第は、實に皇室の御爲め必用にして、又國家將來の龜鑑と仰くべき尤も貴重の御事なれば、願くは詳細に御咄あらんことを希望致します、
市來君 ナルホド久光の、修史の貴重なることと、
先帝の御事蹟の、遺漏なく後世に傳へさせられんことに熱心なるは、少し許り承り置きたる次第もござります、今日は御望にまかせ、記臆せる丈けを一と通り御咄し致しましう、然るに私は御存しの如く、昨年中風症に罹り、其後口もつれいたしまして、十分に御咄か出來兼まするのみならす、元來不辯、殊に薩言は御分り兼でござりましやうが、其邊は御用捨の上御遠慮なく御質問を願ひます、扨て島津家編集より始ます、久光の、忠義と相談致しまして、編修事業に取掛りましたは、明治十五年の春からでござります、其時先つ先代齊彬の言行録を調べよと申付けました、御存し通りの不識なる私に申付けたる所以は、鹿兒島にも老年輩や、又は齊彬と同時世の者も澤山居りますけれど、夫々顯要の官職に就き、在麑のものは至て寡ふござりますから、實に鳥なき里の蝙蝠とやらで、私か少しく事蹟を記臆せるとか、或は若年の時分より考證學か物數寄て、筆記した書類がござりましたからのことで、私の口よりは甚た申し兼ねますれども、俗吏は俗事に多忙で、時事の筆記などは致し得ませぬから、別に記したものも少ふござります、夫等のことよりして私に命したことゝ考へます、尤も私は壯年の頃より、庭方役を勤め、齊彬か嘉永四年、家督後歸國致しました夏、城内の外庭に製藥館を創設して、製煉分析術等を致させました、此外庭と申すは、本城休息所より、僅に一丁足らすの所で、齊彬は夕方より散歩旁に、毎日程此所に參りまして、色々な事を下知致しまして、是を樂に致しました、夫れが爲めに私は研究した事が澤山でござります、ケ樣に私は其方に使はれて居りました故に、齊彬とは直接に話しも致しました、之れか則ち私が齊彬の事蹟を少し許り、記臆致し居る原因でござります、又製藥分析等に關する洋書の調方は、松木弘安乃ち今の寺島宗則、八木稱平なと申す輩て、實業を執りしは、私共の三四名でござりました、
丁野君 醫藥製煉でありましたか、
市來君 サヨウ、それに砲術に關する事業、又は製鐵大砲製造則ち反射竈の建築等も兼ねました、私はソウイフ所から、齊彬と直接に話も致し又間には色々機密の用向も申付られました、或は琉球に遣して、外國接待應接等の事にも使われました、此れは多端の事柄でござりますから、外國事件に付て、後日の御話に致しましう、ソンナ續きよりして、齊彬の言行録を調べよと云ふ事を、久光、忠義より申付られました、
丁野君 イヅレの藩でも、一体正面の役目の重ひ方は、却て機密の事柄には關係せざるもので、既に西郷隆盛君の機密を、照國公より御命しになりましたると同じことで、唯事柄の替りたる迄のことでありましたろふ、
市來君 サヨウ、西郷も始め江戸に出る時分迄は、齊彬に目通りはせぬ役目で、中小姓と云つく供方でござりましたけれども、御承知の西郷でござりますから、齊彬も西郷が人物使ふに足る事を聞きもし、或は書面等にても人となりは知り居りたりと見へ、ソコデ直接の用向を申付ねばなりませぬから、庭方役を申付けた譯と心得ます、以前は御承知の通り、何事も幕府の仕向きに習ひまして、御庭番の仕向きと存しますか、庭方役は庭より出て、椽側から直接に話をする樣になつて居る故に、小姓や小納戸など丶同じく能く話しが出來ました、ソウイフ都合で、庭方役を申付られ、私も其同し役目でござりましたけれども、素より西郷と同一の私ではござりませぬが、庭方の役名を以て、製煉館の事を執り、ソウイフ所から、齊彬の事蹟を少しく記臆致しましたから、言行録の編輯をも請合ひました、乍併言行録は、現今に至りても未だ全く脱稿は致しませぬが、已に百三十卷ばかりになッて居ります、又時々久光、忠義にも質問しまして、私一己の記臆ばかりで、編輯したものではござりませぬ、其上近頃は、水戸家、越前家、宇和島家、池田家等より、澤山の書類を借り蒐めまして、右の冊數になりました、猶折角探して居ります、然して明治十八年でありましたか、久光の申されまするには、拙者は維新前後に御先代(を云ふ齊彬)の遺命を繼き、聊か國事に盡したことで、夫れを書き遺したいと思ふけれども、一向ソウモイカズ、是迄段々申付けた人もあッたけれども、頓着なく已に拙者も老年で、何日死ぬかも知れぬ事なれば、子孫にも其事實を傳へたいと思ふて居ると、私に申聞けましたから、夫れは固より私も希望致す事で、言行録を終りました上に、其編輯方を御願ひいだす心得でござりましたと答へましたが、夫れでは骨折れと申付ましたから、不束の私恐入りますれど、御沙汰にまかせ、御請け致しますと答へました、ソウシテ二三日を經て、忠義の家令東郷重持と申す者と、一緒に久光の目通をしまして、編輯に付て色々の事を申陳べ、一局を鹿兒島下町の別邸内に取り立、言行録は勿論維新前後の事實の調に取掛りました、書名は則ち舊邦秘録と、久光の自から名付け、書き付けて私に渡されました、其時久光の申されまするに、秘録と言ヘば大層な様であるが、他に憚る事もあり、或は内外國事の機密に罹り、世上に知れぬ事も記さねば、後世の爲めにならぬと云ふことで秘録と名付けた、又拙者も老年になッて、何日何時死ぬかも知れす、是迄親子の間にても企ッて、過きし事柄等を咄しすることも調わす、適々咄し聞かせるにも一口咄して續けた咄を致す事も出來けない、依てどんな事も遠慮なく尋ねて筆を取る樣に致せ、若しも自分か今日ボツタイ(ボツタイとは死する方言)すると、事實の分らぬことになるから、今の内に注意して充分質問するがよいと申聞けました、故に夫れは如何にも御尤ものことで、貴賤共無常の風は免かれぬもので、仰せの趣きは誡に後世の爲め格別の思召、國家の爲め朝廷の御爲めに貴重なる思召でござります、委細畏りましたと答へました、又久光は維新前後の事を書きてある書籍は、澤山出版にもなツて居るか、其中には誤りが多く、則ち拙者か事に就ても、或は褒め過ぎた事もあり、間には失敬な事もあるが、必竟當時秘密に屬して、世上に現はれぬ事で尤なれども、凡そ歴史は當時の事實を眞直ぐに記すこそ肝要であるから、若し此儘に後世に傳はりては、誠に遺憾な事である、拙者は島津家の末子で、一門の列に加り居るも、今日斯く難有身分になりしも、御先代の御遺志を繼ぎて、聊か盡した譯で、全く御先代の遊されたものと思ふから、詳に事實を記して置ねば相濟ぬことであるから、遺漏なく調ぶるがよい、ソウスルト夫れが、後世の歴史の材料になるであろう、維新の御事業は、開闢以來未曾有の沿革であるから、其事業を遺漏なく記して置ねば、後世に至りて誠に遺憾な事で、事實が瞹眛、糢稜、錯誤に渉う、後世に疑惑を抱く樣にありては、第一文明に御誘導の陛下の御精帥に反く故、其邊にも注意して毀譽褒販を顧みす、取調るが肝要である、自分も辞職以來閑散無聊に苦む位であるから、眼の明いて居る間は、朝廷の御爲め、國家の爲め盡さねばならぬが、頑愚の身で今日の世に用立つことは出來す、唯修史の事を後世に傳ふれば、
先帝の艱苦を甞めさせられ、維新の大業を遂げさせられし御事蹟も千歳に傳はり、恐れながら御歴代の御規鑑、御追孝の御一端にもならう、决して私の爲でない、其上歴史は政務の龜鑑である、尊王の説我が薩摩で起りしは、水戸の大日本史或は山陽が外史などで、夫れから追々盛んになッたので、大日本史などは、維新の基ひと申しても宜しひと思ふ、今日拙者が莫大の朝恩を蒙り、位も人臣の分を極めたるも、全く齊彬公の賜と考へる、此賜は齊彬公か密かに、
先帝の御眷顧を蒙らせられたるからの事で、誠に難有譯で、尸位素餐で眠むるは遺憾であるから、維新前後聊か國事に鞅掌したる事を修纂して朝廷に献したらば、必す御參考になるであろうと思ふ、之れは今日の思ひ立ちでなく、明治七年に、修史の大事なる事を奏上したこともあり、其後書付を以て申上けたこともあり、
先帝の御艱難遊はされた次第、歴史の必要なる事を言上したる事もあり、又岩倉、三條などへも談したこともあり、夫れから修史局も立派になりしものと思ふ、且つ其修史局の掛は、重野厚之亟などにて大に手を付くると聞て喜むだ、
丁野君 今の安繹氏のことでござりますか、
市來君 サヨウ、然るに久光の申されまするに、ドウイフものか、其取調べた書は今に見たことはない、且つ安心にならぬ事がある、何んとなれば拙者が書類も澤山ある、其書類は未だどこにも出さぬ故に、拙者が聊か盡力した事に就て考證を得るものがあるから、修史局の調は實を得たるものか得ぬか、未だ見ぬうちは何とも言はれぬと申しました、私申しまするには文躰は、漢文体に致しましうか、東鑑樣に致しましうか、如何なる文体に致しましうかと尋ねました所が、久光の申されまするに、成程ソウデある、漢文体でも東鑑風でも、宜しからうが、一体歴史と云ふものは治國平天下の大龜鑑なるは云ふ迄もなし、今囘の取調方は、先つ史料にして事實の遺脱、誤謬なきを本旨とし、婦女子も分り易ひ樣にせねばならぬから、漢文体や、東鑑風や、或は四角な文字を用ふれば、文字の遣ひ方等にも時日を費し、又は飜譯せねばならぬ事になるから、先つ第一に事實を確かに擧げて置けば、漢文でも、和文でも、洋文でも、後世に學者が出てやるだらうから、事實を一日も早く確めるを第一とするがよい、今申す通り自分がボツタイすると、自分か知つて居る分は消へる。既に小松、西郷、大久保もなくなり、今殘り居るは岩下、吉井其他四五人位で、其外は第二流、第三流の人で、本途の事實は知らぬと思ふ故に、文章は後にして事實を先きにし、事實さへ取り置ひて、後世に傳ふれば宜ひではないか、今の新聞体の文章は、俗語も漢文も交り、事實を能く書き盡さると思ふから、其体に認め置くがよからうと思ふが、如何であろうと申されました、如何にも御尤の事で、私が下手な漢文の眞似でも致しましうが、仰の通り事實を第一にして、文躰を平易に致しまするは、誠に仕合の次第にて、特に仰の通り事實を主としますれば、後世學者が出て、ドノヨウの文体にても作りませうから、御沙汰の趣畏りましたと答へました。又久光の申されまするには、今日流行の假名交り文体は、元來漢文体より出たるものにて、今では國文と云ふても宜ろしひかと思はる、婦女子にも能く意義が分り易ひから、史料の記事には至極適當なりと思ふ、先づ今日の話しは大体の事で、是れから何日何時でも厭わないから、問題を設けて質問致せ、問題がないと話しが致し惡い、又其當坐考へ付ぬ事は、夜分なり、寢覺なり考へ、追々咄しをするから遠慮なく質問せよ、拙者が生きて居る中に、大体の事を調へ骨組みを拵へて、そうして外々の人に聞糺して、添削せよと申しました、其日の話しは右通りにて、追々と手許の書類を出して呉れましたから、段々取調に掛りました、何分御承知の通り、鹿兒島は明治十年の戰爭の際、城下は丸で燒野原になりましたから、家々に保存して居るものも過半燒けますし、藩廳の書類は、故縣令大山綱良が、在職中に燒き棄ましたから、公書と云ふ者は大概なくなりました、唯僅に遺りたものは、舊時城中の式臺の次の間を、御番所と唱へまして、道具なども一緒に格護しまして、何時でも擔き出す樣備へてござりました、侍四五人、足輕二三十人づ丶、畫夜詰切りにて不寢番を致す所がござりましたが、其處にあツた書類丈殘りまして、他は皆燒けました、此書類は系圖其他貴重なる書類でござりました、又久光の手許保存の書類は殘りました、又大山綱良が縣令の時は、一種特別の縣制で、舊習が脱けぬと云ふ所から、藩廳の家老坐、大監察局、其他公用帳簿類、土藏に詰めて有りましたのも、悉く綱良が指揮で燒き棄てました、夫故今日取調べまするにも考證の書類はござりません、又江戸藩邸の帳簿類は、丁夘十二月廿五日、酒井家其他の兵で、邸内に浪士を圍ひ置くとのことで、燒き拂ひになりましたとき、悉皆燒かれました、夫れで今殘りて居るものは、久光、忠義の手許の分丈けで、久光の手許の書類は、十年の爭乱には、土中に填めました込ので、六十余日間も土中に填めて在りましたから、文字の磨滅したるもござります、
丁野君 夫れは御庭内の土中に、埋めてありましたか、
市來君 庭を堀りて、箱に容れながら、填めたのでござります、
丁野君 アノ時に、御殿は燒けましたネー、
市來君 左樣、燒けました、本城は明治六年に燒けまして、久光住居の二の丸は、同十年九月に燒けまして、其後今の伊敷村、字玉里邸に移住いだされました、
丁野君 山内家は、一代毎に手許の書類は、死後に燒捨る例と申して、蓉堂が死後も露通り燒ひたソウデズ、其時燒捨に掛りのものが、拔き取りて匿したことが、後に露れて罪したそうでござります、
市來君 島津家は、右様度々の災に逢ひまして、公書類は全くないと申す譯で、寔に遺憾でござります、則ち天保十五年の春、琉球國に佛國軍艦が參りまして、國人を在留せしめ、夫より外國の騷ぎが起りましたは、御承知の通りで、其時の公書類は、過半なくなりましたが、一昨年水戸家に御保存書を、服部君より借用いたして、寫取りました、ケ樣のことで御互に御取遣りしますると、何れかに傳り居りまして、大幸なことでござります、其書冊は烈公に、齊彬が御貸し申しましたもので、御往復書も御保存になりて、誡に確だるものでござります、又私か今確かに考證に致しまするは、舊藩内では鎌田出雲が日記、大久保利道が日記、桂久武が日記、伊地知正治が日記、小松帶刀が日記、道島正亮家記、樺山資之日記等の數部にて、其他にも少しは益になる書もござりますけれども、皆多くは表面に顯はれたる事柄のみを記したもの勝ちにて、事の源因始末を記したるものは、甚だ寡ふござります、御承知通り歴史の眼目は、其事の源因よりして、初中後の事實が肝要なことで、兎角日記の如く當時日々の事情顛末を知り、而して發表に至るの事情を專要に調べるを肝要と存じます、久光も其邊の事を肝要にしらべよと申聞けました、又御互に今日の如く有功の御方々を御招待致しまして、現實のことを御質問致しまして、誤謬遺脱を正し、又は速記して後日の考證に供へまするは、實に必要で、久光在世で聞かれましたらば、嘸そ滿足せらる丶であらうと存じます、或る日久光の目通を致しまして編輯事件の話に、拙者在職中、維新歴史編輯の肝要なることを、三條、岩倉に、上奏あらんことを談せしこと三四回もあつたが、兩人共に同意と申された故、多分上奏に及びしならん、中にも岩倉は、至極肝要なこと丶申されたから、御互に聊か盡力したる事蹟を記して、後世に自謾しようと思ふてゞはない、
御上の一視同仁の思召を以て、功を賞し、罪を罸せらる丶は政務の要、殊に維新の大業は、
先帝の叡慮を煩させられしと、御徳澤に依ることなれば、今日之を表頌せらる丶は、恐ながら御孝道の一端、御國務の第一義なるべく、又大義名分と云ふことの、國人の腹に浸みたるは、則ち大日本史の如き、日本外史の如き、國史纂論の如き、新論の如く、全く歴史の功能と云ふべきなれば、殊に此樣日に増し、外國學か盛なる時世になれば、勿論正確なる國史に善惡正邪の分を明にし、善正を賞揚し、邪悪を筆誅して、後世を規誡せらる丶が肝要であるから、古今内外國史を勅撰せられし例に、傚わせられんことこぞ望ましけれど申したことがあツた、岩倉は殊に同意てあツた、拙者も上奏したこともあツたと申されました、私申すに有名なる岡某が尊攘紀事は立派な文章で、重野などが序跋なども見へますから、事實に於ても遣脱誤謬はなきかと能く〳〵閲まするに、照國公安政の始、天拜密勅を奉せられしことを、大に賞賛してござりますが、是れは至極結搆の説ではござりますけれども、事實は全く誤りで、素人は之れを信じましやうが、當時の形勢、時態を知りだる人は誤謬とか、杜撰とか附會緊とか申して、卷を投つかも知れませぬ、重野や、伊知地などが序跋も、全く無用に屬すべしと考へます、且つ後世の人は有名なる岡が著書に、重野などが序跋もあれば、本途の事ぢゃと異説が起りて、累をなすかも知れませぬ、ケ様のものでござりますから、能く事實を討究せねばならぬこと丶存じますと申しました所が、久光の申されまするには過日も云ふた通り、則はち拙者がことに就ても賞め過ぎた事もあり、間には迷惑の事もあう、之れを今のうちに訂正せずしては、後世に害を流すから、能く心を付けねばならぬ、重野が楠公高徳の咄の如く、後世に疑惑を生じ、人心を煩す樣なことになるから、能く氣を付けねばならぬと申されました、私の答には、御尤の御言葉、重野などの博識なるに、楠公や、高徳の説には、大に人心を惑し、中には尊王家の怒に觸れますることでござります、殊に修史局の職員として、アノ樣な説を出しますると、歴史も反古紙同樣に相成る譯で、折角官幤社迄御取建になりしものなれば、大に信仰上に關する一大事になりますから、學者は其邊をも厚く考へて貰ひ度きこと丶存じます、畢竟之れも討究が足らぬと、文獻の乏しき故と存じますれば、私共には能き誡めでござりますと答へました、又或時久光の咄しに、昔と違ひ日々飜譯書など多く出來、我日本は世界無比の國柄である、天子は百王連綿、千万歳に榮へ玉ひ氣候温和五穀も良品を産し、人心純艮にして茅出度國で、已に數千年の今日迄も他姓を交へたる王位あることなく、随ッて革命など丶云へる恐るべき心の起らぬ國柄なれば、人心輕薄になり行くも、至尊に對し奉りては敢て、何の彼の云ふ者なきは、外國に例なきことならむ、徳川氏の失政より、人心紊亂せしも、今日の盛世と成りしは、全く至尊の御恩徳と數千年來の歴史上薫育の功で、御維新の功業史は世界に誇るべきことであると、力を盡し精を究めて、詳密に記述して千歳の模範としたきものである、則ち此歴史は西洋人より見れば幾十万の甲兵、幾十の軍艦、何程堅固の砲臺より丈夫に思ふならん、地理人和に若かずと云ふに庶幾らん、万里の長城も一朝無用に屬したるも、人心の和不和に基ひした事など、其他色々の話しを致しました、私には元來歴史の必要なるは、國家の安危存亡に罹る大事と存じますから、不肖無識の分を顧みす、只管從事致しまして、殆んど十年許になりますが、是非目の明ひて居る内に脱稿したいと存じますから、最初より家事向等には一切關しませぬ、乍併未だ御覽に入れる程の草稿も出來ませぬ、實に恥入る次第でござります、已に御話し致しました通り、公書類が丸でなくなりましたから、編輯には餘程困りましたけれども、私は若年の時分より色々な事を書き集めまして、石室秘稿と名付近頃迄五六百冊になりてあります、又二十歳の頃より今日まで日記を記しますが、家事などの事は置きにして、重に世上の事柄を書き留めました、又私の實兄は宗道と申まます、則ち寺師が父でござります、同人も色々筆記致しまして、夫れも三百餘冊になりて居りますが、編輯には之れ等の書類に付て骨組みを立置き、そうして門閥家等の書類は、固より縣内中を探し、又は諸家様よりも拜借し或は御互に質問等致し、補缺致しました、實に度々の災厄で、島津家の編輯は、本當の考證書はないと云ふ位でござります、已に取調べました分は、久光が申聞けました通り、新聞体の文章で、久光が存命中は、自から添削しましたものは、數百冊に及んで居ります、ソウして久光が添削した上は、忠義に廻わし、忠義は又自分の考へや覺への程を書き入れます、未た舊邦秘録も完全にはなりませんけれども、大凡三千六七百冊になりて居ります、私は筆者で、久光、忠義父子の著書でござります、久光が死後は忠義、忠濟の兄弟で添削します、之れが先づ舊邦秘録の成立の概畧の御咄しでござります、
久光に質問に出ましては、假令少々不快な時も、床の中でも話して聞かせました、或時家令東郷重持と倶に目通しまして、文久二年に始ての上洛、則ち伏見寺田屋事件を質問致しましたが、久光は病中でござりましたけれども、此事は肝要な事柄であるから、之れをスツカリ語ると、中々今日中には話し盡されぬから、夜に入ると申されました、故に御病中のことなれば、他日に伺ひませうと申ましたけれども、久光はイヤサヨウデナイ、决して苦しからず、此事丈は今日話して置くと申しました、丁度其時は午後二時頃でござりました、夫れから原因より委しく話して聞せましたが、私共も初めて聞た事が澤山ござりました、丁度暮方に及びました、私は質問しながら筆記致し、又編輯の事に付色々下知も加へました、其日は夫れで引取りて、翌々日先きの話の續きを聞ふと思ひ參りました所が、家人等の申しまするには、一昨日貴殿方の帰りになると御震ひつきなされて、御苦みで醫者よ何よと心配致しましたとの事にて、私には大に驚き、夫れは甚だ不都合な事で、御病中餘り長坐を致し恐縮でござります、其節御病中故、他日伺ひませうと申上ましたけれども、何に苦しからぬとの仰にて長坐仕りました次第何共恐れ入ります、今日伺へとの御沙汰でござりましたけれども、差控へませうと申しました、家人も今日はおやめの方が宜しからう、併し御快氣ではあると申しました、私には此日は目通りはせぬ心得にて居りましたが、
丁野君 御家人は御側の御婦人でござりましたか、
市來君 家令家扶でござります、ソウして話を致して居る中に、婦人共が出て参りまして、家人共と何か用を談する樣で、其ものが私が出邸して居る事を、久光に告げたと見へ程なく呼びに參りました、然るに震ひ付れた末でござりますかへから、辞退しましたけれども、家人共も御呼ひだから御出でなさいと申しましたから、目通りに出まして、私申しまするに、唯今承りますれば、先日はあまり長坐致しまして御震ひ付きの御樣子、畢竟御話が御ヒタスラデ、退出の時間も忘れまして,今更恐れ入りますると詫び申しました所が、久光申されまするに夫れで愁あらうが覺へす話しを致した、之れは兼て能く記して置ねばならぬと考へて居ッた事で、前からの不快で、引續き震ひ出しだが、翌朝になりて直ッたから、今日は出るだらうと心待して居ッた故に、今日は先日の續きを話さうと申されましたから恐れ入ります、今日は御止めを願ひますとことはりましたけれども、久光申されまするには考へ付たこともあるからと申して、先日の話し續きに掛りました、私は先日の如く、筆記しました、之を親話記と名け置きました、是も數冊になりて居鴨ります、然れどもマダ々々聞き殘した事が澤山で、今になりて實に遺憾でござります、又久光の兼て申されまするには、拙者も老年であるし、又往時盡した方々には、近衛殿始め嵯峨殿、中山殿、大名には伊達殿、越前殿などで、いつれも今は老年の事で、無常の風は避けることは出來ぬから、元氣な中に聞糾して置くがよい、水戸殿や春嶽殿などは、齊彬公と御懇意の間であッだから、予の知らぬ事も貫ぬかれてあらう、老年の御事であるから、其方の都合次第にて、上京して尋ぬるが宜ひ、齊彬公御時代の事がよく分るであらうと思ふ、拙者には能く知らぬ、春嶽殿や伊達殿に就て尋ぬれば、能く分るであらう、維新前の事もソウデある、此兩人は御互に盡したことがあるから、能く、取調べて事實の齟齬ゼせぬ様に調べるが第一なり、堂上方では久邇宮殿下、近衛殿、嵯峨殿は勿論或は中山殿にも、元氣にして居らるゝから、此方々に就て聞けば分らぬ事はあるまい、我一家の事で置くでなく、全國又は宇内にも渉ることであるから、一冢の事と思ふと、本當の事實は分らぬ、拙者は拙者丈けの咄しするから、春嶽殿其他の人にも聞き、先づ一家の事から、基を立て置きて、そうして後他家に連帶した事に渉るがよい、今出版になりて居るものは、表面上の事のみで、一ツの詔の發するには、數日の朝議或は諸侯其他の議論も六ケ數きことであッたから、ソウイフ事實をも明記せざれば、眞正の歴史ではない、思ふに古の歴史は、能く事實を盡したものとは云われなひ、假令は幾万の軍兵を、何處に出すと云ふにも、兵粮の運搬は、どうした、弓矢はどうして拵へた、甲冑はどうした、斯く々々の命今になツた、夫等に付てはケ樣々々と、種々の議論があツたなど丶云ふ事を第一に記し置ねば、今日文明を唱ふる世になッたから、後世に笑はるゝことになる、又後世の歴史家が、其方や拙者か奇特な物を遺し呉れたと云ふかも知れぬから、其邊も能く心得ねばならぬと申聞けました、久光が病氣は、明治廿年の舊暦五月五日【雨天に付翌六日】に忠義の長男の初幟祝とて、織旗を立てます、其時久光は、忠義の邸に參り、夜に入りて歸邸の際、駕籠の中で風氣に感じまして、夫れが初めでござりました、
丁野君 忠義公の御邸は磯村【吉野村字磯】でござりますか、
市來君 ソウデあります、其翌日から煩ひ付きまして、八九月頃には稍快方でござりましたから、私は又も質問に出ました、九月の末方より病が重く、下痢症になりて、段々危篤に赴きましたから、高崎正風と吉井友實の兩人が見舞に態々帰りまして久光にも面會致しました、其時までは種々の話しも致しましたそうでござります、ソウして其時分兩人は、編輯所にも參りましたから、
先帝より久光に賜はりました宸翰の寫など拜見致させましたが、兩人も始めて拜見したことで、殊更吉井は驚きまして、成程宸翰御頂戴になツたと云ふことは、當時密に聞ひて居りました、今日始めて拜見しましたと申しました、夫れから久光も病が怠りまして、兩人共歸京致しましたが、吉井が陛下に申上げたと見へ、彼の宸翰を携へて上京せよ、實はケ樣々々と御沙汰があツたと照會致しました、然るに其後久光は病癒へませず薨去になりました、誠に殘念でありました、就ては朝廷よりは、鄭重な國祭を賜はりましたに依て、翌年春忠義、忠濟兄弟一緒に御禮旁々上京致しまして、其折簷翰を携へ、御直に御覽に入れました次第でござります、そうして明治廿一年の七月に至り、國事鞅掌の始末を取調べ、奉呈致すべき旨の御沙汰がありまして、御互に今日此樣に取調べる有樣になツたてござります、固より久光在生中申されました、此取調は决して一已一家の爲めでなく、皇室の御爲め、後世の爲めと口癖の如く申して居りました、殊に開國以來未曾有の沿革の事であるから、此様文明に御導きになる世であるから、錯雜不明なる材料を遺しては
陛下の思召にも相適はぬことであるから、極めて精密に調べて、後世に傳へなければならぬと、毎々申付けました、今日は大畧の話で未だ存生の年齢でござりまするに、質問も行届きませぬは、寔に遺憾の至りでござります、今申上げました通り、歴史編輯の貴重なことは云ふ迄もなく、御追孝の第一にて國家の爲めと云ふ事は、毎々申聞けました、之れは久光が平素の誠心てござりました、故に忠義、忠濟も其志を紹述致しまして、私共に督勵致す譯でござります、
岡谷君(繁實) 誠に格別な思召にて、皇室の爲め、我々も其御志を體認せねばなりませぬ、あの島津國史の編輯はイツ頃でありますか、
市來君 アレは、安永頃に出來たものてあります、
岡谷君 其頃は、編輯局が立て居りましたか、
市來君 其編輯は、學舘長の山本正誼と云ふ人で、學舘内で編輯したものでござります、
岡谷君 修史局に、島津家からの古文書が出て居りますが、鎌倉頃のものを其儘出したものでありますが、アレは御文庫の中より出されたものでござりますか、
市來君 島津家秘書中の三分一位も、普通のもの丶みを寫したものでござります、其他神社、佛閣に在るもの、又は家々にある古文書を寫して出しだもので、完全なものではござりません、
岡谷君 考證には、恰好なものであります、
市來君 古い神社、佛閣などに納めてありましたものには、參考になるものが澤山ござります、
岡谷君 中國筋より、美濃あたりには、軍が度々ありて神社仏閣にも、古文書はござりませぬ、日向大隅邊は古國、其上遠國で軍も少ふござりましたから、殘りて居るでござりましふ、
市來君 慶應二年の頃から、神佛混合を匡し、其時寺院は廢しましたから、寺院にあつた古文書類は、皆藩廳に引上げてしまいましたから、十年の兵燹に丸で燒け失せました、
丁野君 アナタの方は大山君が、書類を燒かれたと云ふことであるが、私の國は夫に裏腹で、藩主一代毎に手元の書類は、死後に燒棄るの例て、容堂か死後も、皆な燒捨てました、夫れで城下の南河原と云ふ所で、三日程燒きました、昔の事を知ると、御一新の御政治に害をなすといつて燒いたものもありました、私は其時アチラに參りては居りませんから委しくは知らぬが、後に聞きました、參事と權參事で、縣治をやッて居りました、皆燒いて仕舞ひましたそふです、
岡谷君 舊藩の(舊舘林藩)方でも、栃木縣へ引繼ぎまして縣廳より、舊藩時代の書類は、皆燒く樣にと、三度程も嚴達がありました故燒捨ました、
市來君 御承知の通り、去る十年戰爭の時分、貴重なる文書類は、舊城の北手に時鐘の樓がござ今ました、其後に文書庫がありました、其庫も燒けました、其文庫の内に貴重なるものは納めてありました、是を取り出して今に保存してござります、其文書は藩制中は城中式臺の二の間に、目見以上の侍が番をする所で御番所と唱へました、晝夜不寢番で大事に致した書類でござりましたが、十年の兵乱に久光、忠義には櫻島に避乱しまして、則ち九月一日西郷等が、再び鹿兒島に襲ひ參りました、急遽の事で、遂に西郷などは岩崎谷と申す所に立籠り、官軍は幾重にも取園みて、或は堀を堀り、或は竹垣を設けて、猫も犬も通れぬ樣に取巻きましタ、ソウして官軍は晝夜大小砲を撃込みましたが、文庫もはや燒けると云ふ危ひ塲合でありましたが、今の家令東郷重持が、其文庫にある文書類を出さねばならぬと申しまして、官軍に切に取り出し方を乞ひましたけれども、軍法上ドウシテも許されぬと申します故、東郷は其塲て身命を投じて、其請を允されざるに於ては、自决する所あらんとせしに、其精神に感して官軍も取出し方を許しましたから、自分は固より他の人々にも擔せて取出しました、其時若し東郷か夫程の决心の働きがござりませんければ、島津家殆んと七百年來の系譜、文書の貴重なるものは、悉皆烏有に歸するでありました、寔に同人の功と存します、
丁野君 實に其通りのことて、家財器物は金圓さへあれば、イクラも買はれますか、古文書類は决して其通りにはなりませぬ、寔に感心の事であります、
市來君 此文庫は、西郷などか立籠りて居りました所より凡そ二町ばかり手前で、ソコ迄參りまして、東郷は兵隊に護衞せられまして、系圖や、家譜や、其他貴重の文書類の入つて居る長持など數十個を出して、久光、忠義の避所、則ち櫻島に移したでござります、之れは全く同人の働で、其功は詳に記し置かねばならぬことであります、又久光が先帝より頂戴の御劒、御宸翰類も、九月の再襲に、久光も忠義も同樣櫻島に避けましたから、邸内の藏に仕舞てありまして、家扶家從の輩家族の者まて、邸内に居りましたが、男女共七八十人位でござりました、官軍は城山を攻撃し、晝夜大小砲を打掛け、邸中にも頻りに丸か落ち來りて、誠に危い事でありましたけれども、邸中より出ることが出來けす、家從共が段々官軍の方に訴へましたけれども、ドウシテも出しませぬ、然るに家扶の法元《ホウガ》太郎左衛門と申すもの、河村純義の親戚であります故、法元の妻なるものが、一同へ申しまするには、私か河村さんの許に參りまして、願ひましよふと、官軍の峭兵線に參りました所が、峭兵等は間牒と疑つて、線内に入れませぬから、左樣に御疑ひならば、アナタ方の手に掛けて下さいと决心を見せた所が、兵隊もそれに感しまして、河村の居る營所まで護邊してつれ行たそうであります、河村が所迄護邊の途中は、軍法ぢやと云て白布て眼をシバツテ、十人計りで護送したそうです、其女は河村に面會して、御邸内には七八十人の男女が居るのみならす、天朝より御戴きになつた大切の御品物がござりますから、夫れを出して戴きたいと訴へますと、河村も評議に渉りて、翌日に出して遣るから、軍法通りにせねばならぬと云て、時限を究めて送り返しました、則ち翌日は七八十人の男女と、久光が拜戴の品も悉く出ました、今日殘つて居るも全く其女の功であります、寔に此法元の妻の働は、島津家においては貴重な事でござりますから、私は今回の取しらべには、事實を詳記して參考の部類に入れる下稿迄して置きました、法元が妻は六七年前に死しましたから、其墓碑を書きて呉れと、其夫か申しましたから、可笑な文を作りてやりました、
岡谷君 御咄の如く、歴史の保護上大切なことてござりますネー、西郷か城山に立籠るには、女も逃けすに御邸内に居りましたか、
市來君 逃げることは出來ぬ、直ぐ城山下でござりましたから、
丁野君 西郷などが籠りて居る所は、城山の穴であると聞きましたが、
市來君 ソウであります、法元の息子は、現今分家の島津家に仕われて居るものでござります、東郷が働きと法元が妻の働きとは、島津家に於て貴重な品物の火災を免れましたことで、能其事實を記して置かねばならぬ事と考へます、
蒲君(義質) 御婦人の其働きは、後世の龜鑑になる事でありますネー、
岡谷君 軍は、殺風景でも、間にはソウイフ事がなければ面白くない、誡に美談の一ツであります、
市來君 大山綱良が、県廳の帳簿を燒いた時の事、お話し申しませふ、其燒いた書庫は、藩治の比は、記録舘の書庫で、此庫は齊彬の代に、近衛家の御文庫の構造に依りまして、堅固なる土藏を拵へたもので、廢藩後は縣廳を、其構内に建ました、然るに御承知の通、一種特別の縣制でござりましたから、縣令が、其文庫を統轄になつて居りましたか、御一新になつても鹿兒島は頑固で、時勢に順ふことはせぬ、文庫の書類は燒いて仕舞へと申したと云ふ事で、實は或る要路の人も申したと、其頃聞て居りました、私は其時分大山に用がありて出廳して見ました所が、藏の前の庭で燒いて居りますから、大に驚いて其藏に立寄て見ますると、人足共か擔き出して散々に燒いて居る、其藏に踏込んて見ると、松本武雄と云屬吏か下知を致して居りました、其中に御筆入りと云ふ小サナ箱があるから、之れはどうするかと尋ねました所が、焼くのであると申しましたから、サヨウなれば之れは自分が貰度と申しました所が、勝手にせよと申しましたから、私は喜んで箱を提けて出まして大山に面會して、お前さんはドウいふものかと申しました所が、ドブイフ事もあるものか、今日になりて此類の書か何になるものかと申しましたから、其儘持歸りて保存して、明治十一年に忠義が家令内田政風を以て献しました、私は臨寫して置きました、其文意は文武奬勵等、其他士氣振作等の事を令したものでござります、此の如き始末でありますから先刻もお話し申した通、維新前後の事實を考證する書類は、多くはなくなりて夫を蒐集するには骨が折れました、
丁野君 私の方で、安政の末に紙幤を拵へ、御維新の少し前に、再ひ大黒樣の像を畫ける紙幤を拵へ、又鯨漁幤をも拵へて、藩内に發布いたしました、御維新後夫を引換ねばならぬことになりまして、引替所を立ました、其時の人で、今生きて居るもござります、其鯨札と云ふが、凡二百万圓程と云ふ届出で、其札取扱したもの過半、其罪を負ふて皆罪せられました、夫等の事に關した書類は皆燒きましたことがあります、それとは、違ひ公簿を燒ては惜しきものであります、
市來君 齊彬が臨終の遺言に、貴重な書類は皆燒せましたが、之れには久光も遺憾だと毎々申して居りました、齊彬が病氣は、安政五年七月八日からで、其前方より、兵隊の操練に余程勉強して、炎暑も厭はす時々出張して下知しました、此日天保山と申す所で調練を催し、齊彬は例の通り出張しましたが、前晩から下痢に罹りて居りましたけれども、厭はすに出張いたして、歸りには小船に乘つて、釣を垂れよふと云ふ事でござりましたけれども、翌日は琉球人が態々鹿兒島に參りまして、對面の儀式を受けました樣子で、此の琉球人は八月には召し連れて、江戸に赴きまする筈でござりました、然かるに其儀式を受けますると、益々病が悪くなりて、十六日の曉方には最早自分にもいけない事を知りて、久光を呼ひまして遺言を申し聞せたソウデござります、其遣言は先帝より御内勅を蒙りしことで、志を繼ひで叡慮を安んし奉らねばならぬ、夫れから忠義を順養子にせよと云ふ事であつたそふでござります、
丁野君 齊彬公の御養子の事でござりますか、
市來君 忠義が、相續の事でござります、其前年の九月九日に哲丸と申す子が生れましたけれども、時勢と云ひ、御内勅と云ひ、幼少ではいけないと思つて、忠義を養子にして、哲丸を順養子にしよふと云ふ事を、久光に遺言したそふでござります、
丁野君 其の時御幾歳でありましたか、
市來君 十九才でありました、久光の答には京都の事は委細承知致しました、御安心くだされ、不省ながら盡します、乍併長男又次郎(忠義幼名)の相續は、御免を蒙り度存じますと辭退致しましたけれども、齊彬は承知しませなんだそふでござります、其時は、余程衰弱して居りました樣子でござります、尤も久光が出まする前に、山田壯右衛門と云ふ側役と、妾か枕邊に居りまして、細かに遺言を受け、美濃守殿には、ケ樣に申せ、或は城内製藥舘にある器械、書冊等も澤山あるから、是れは悉皆美濃守殿に贈れ、又某には何をやれと申付け、誰某には斯うしてやれと云付けましたそふでござります、又齊彬の子哲丸は、安政六年の春死ました、齊彬の子で今生きて居らる丶は島津珍彦の家内一人であります、其妹は忠義の妻でありましたが夫も死ました、妾と山田に遺言を爲す時に、枕邊にある貴重な書類がござりまして、自分か眼を塞ぎたらば、直樣燒け追命したそふで、其翌日右側役山田と、妾の計らひにて、城内浩然亭と申す所で燒いたそふです、密宸翰も數通あつたと申す事でありました、其中に
懸物に致した御製のみ殘りて居ります、其歌は確か、
武士も心合わして秋津洲の。國はうこかす共に治めむ
と云御製でござります、是れは掛物に致して貴重に保存してござります、安政五年の正月(死去の年正月)元日一門、家老の年始の式を受けまして、後に奥の書院で御製と、宸翰を拜見致させましたソウです、
岡谷君 御宸翰の御文意は、
市來君 幕府の失政を擧けられて、見込を附けて過を改めさせ、國威を輝すの策を樹てよとの御旨意てあつたと申傳てござります、其他水戸、越前、伊達、尾張樣などの御書翰類も、澤山ござりましたそふです、
丁野君 國家の爲め一大貴重なる御書類で、寔に遺憾な事でござりましたネー、
市來君 齊彬は四十二才の時、家督致し、若い時から心配の多ひ人でござりました、安樂なことは少しもない人でござりました、然れども今にては其徳望は犬打つ童子まて殘りて居ます、實に諺に申す如く、人は一代、名は末代迄と申すこと能く申したものでござります、若年より徳望ありて、國中一般早く家督して貰ひたひと希望でござりましたけれども、奸吏共が居て四十二才迄部屋住みで置きました、剰へ廢立を謀りまして、正論黨の巨魁には、高崎正風が親などて、邪黨の家老共を除かんことを謀りました所が、遂に發覺して屠腹を命しました、之れには南部、黒田、伊達、越前樣なとが、非常に御盡力下され、齊彬も大に心配致しましたが、諸侯方の御盡力で、お茶入れ拜領となり、却て多年の功勞を賞せられ、お茶入れを拜領しました、水戸、伊達、越前樣抔の御盡力て、齊彬は四十二才て家督致しました、是の事に關する書類なども、久光に告げすして側役と妾で燒ひたものであるから、私共か編輯に付きましては大に歎息して居りました、そこで貴重な物は皆手許に置きましたものと見へ、ケ樣に度々の災に、貴重なる材料は、過半はなくなりて、多くは諸家樣の御蔭で漸く蒐集しました、
丁野君 齊興公の御隱れは、
市來君 安政七年の秋でござります、
丁野君 齊興公の御隱れの後は、久光公は全く御國政に御關係でござりましたか、
市來君 表向に政事に預りましたは、文久二年の春からで、其内忠義を内輔いたしたてござります、齊彬は注意の厚き人で孝道を盡した、又奸吏の所爲は、齊興は全く知らすに、親子の間は隔りは、毫髪もなかつた樣子でござります、
丁野君 齊彬公を出さねばならぬと云ふた人は、誠忠の人々で、何人許りでござりましたか、
市來君 輕重罪、又は譴責せられたる人々まで、凡五十人許りてす、此事柄は、齊興は丸で知らす、家老や側役寺隆の所爲であツたと云ふことでござりました、明治十八年の冬、久光が鹿兒島名士傳を作ろうではないかと私に申付けました、久光が申しまするには、昔より鹿兒島には隨分名士が出たけれども、文事に拙ひ所だから、現れぬである、近頃には大久保や、西郷などは、世上に知れて居るが、其以前にも人物は澤山あるから、拙者も加勢するから、やらぬかと申しましたから畏りました、下稿して御檢閲を願ひますと答へ置きました、其の時久光の言に、文化五年に家老、側役、馬廻等か屠腹した事があるが、之れは内訌と云ふ程てはないが、然れとも幕府の忌諱に觸れての事と聞く、此輩は人物だと思へりと申聞けました、當時の藩主は齊宣と申しまして、重豪の長男でござります、則齊彬の曾祖父に當ります、黒田長溥公南部信順公の親で、膸分聰明な人で、開化好きの人でござりましたが、之れは則ち家齊將軍の御臺所の親である、ソコデ齊宣の家老樺山相馬、秩父伊賀と申す兩人か、巨魁で、國政の改革を初めました、則財政困難になりたから、夫れではいけないと云ツて、改革企てを致したが、早くも御臺所の耳に這入りて、重豪に告けられまして、屠腹を申付けました、其人數凡三十人位で、其外押込めになッたものを合せて八十人位の人數て、秩父伊賀と云ふ人と樺山相馬と云ふ家老と兩人で、秩父黨、樺山黨とまて云ひ囃しました、久光は之れ等のものともの事をも、今日迄逆人の樣な名を蒙りて居るが、其心は面自い輩であるから、此の言行をしらべやうではないかと申しましたから、私の答には、ソレは結構な思召で、私は友達中と申合せた事もござりましたが、左樣の思召でござりますれば、嘸ぞ靈魂も喜びませう、書類も少々ござりまするから、追々着手致しませうと返答しました、久光重ねて申しまするには、山田、高崎などの一件であるが、之れは拙者の事に關係した事と聞て居るが、其後側に仕ふ者などに聞くけれども、明らかに言ッて聞かせぬから、一向譯が分らぬが、仄かに聞くに本當の事と思ふが、誠に遺憾の事で、皆齊彬公御召し仕になッたものであるから、精しくしらべて人物傳に載せて置きたい、齊彬公より少しく伺ッた事もあるが、其時は心配したことがあッたりと、今日は申すに及ばぬことであるとの仰でありたから、恐入てお尋は出來なかッた、私答へには其時死ましたもの丶中に、私の友達もござりました、内輪の事を可なり心得ても居りましたが、仰せがなければ私よりも言上の出來兼ぬることで、今日は難有存します、其者共の子孫に仰の趣を申聞けましたならば、嘸ぞ難有存じませう又靈魂もさぞ難有存するでござりませうと答へました、
岡谷君 誡に結搆な御咄しでござりましたネー、久光公は寔に公明な御方でござりましたネー、
市來君 此の咄は、十九年の春の事で、吉井、高崎が歸縣致しました時、高崎に其事を咄しましたが、高崎は返詞も出來すに暫時は落涙して居りました、
岡谷君 ドウもサウは參らぬもので、久光公は實に御公明でござりましたネー、
市來君 サウして、久光が薨去後、翌年忠義、忠濟は御禮旁上京致しました時分、刀劍其他親の遺物及正風を誡めました書付、又は畫像などがござりまして、夫を一覽に供へまして、死後宥免と申す樣な事を致しました、其時正風夫婦子とも目通り致させまして、私にも供して參りましたから、則ち實况の御咄でござります、
今日は時限も迫りますし、又クダラヌ長話を致しまして、嘸御退屈でござりましたらう、
丁野君 今日は貴重なる御話を伺ひました、尚ほ後日齊彬公、久光公の御行状並に尊王に御盡しの始末を委しく伺ひませう、中にも編輯御熟心の事柄は實に万世に傅へねばならぬことでござります(一同立禮)
2019-08-29T10:30:29+09:00
1567042229
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嘉納治五郎「わしが初めて柔道と名付けた」
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/53.html
『戊辰物語』
[[国会デジタルコレクション>http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1178345/129]]
二十一 わしが初めて柔道と名付けた
五十|年前《ねんぜん》、わしがまだ十八ごろのことだよ。しかし十八といふ年はわしには思い出の多い年さ。わしが柔道《じうだう》といふものを初めて稽古したのはこの年だからね。その頃のわしはこんな体ぢゃなかったよ、まるで骨と皮ばかりだった。
*
さう〳〵面白い話があるよ。わしがはじめて柔道の先生をさがしあてた時の嬉しさったらなかったね。何にしろ当時柔道なんてものは勿論《もちろん》なかった。維新のごた〳〵で世の中がすっかり変って、もうそんなものを考へる者もなかったよ。維新前までは、やはらとか体術とかと相当武家の間に行はれてゐたがね。その頃やってゐたのは山岡鉄舟ぐらゐのもので、さういっても矢はり腕っぷしの強い奴がはゞがきいたね。わしも頭だけは誰にも負けなかったが何にしろ体が貧弱だからどうも馬鹿にされてね。そこで考へたのが、体が貧弱でも勝てる方法はないかといふ事さ。
*
柔術《じうじゆつ》といふものゝあることを知ってゐたが、何処《どこ》に先生がゐるか皆目わからない始末、その頃わしの家は日本橋の蠣殻《かきがら》町、今の水天宮のそばにあったが何にしろ附近は商人ぱかりで、家に出入りする者でも誰一人柔術なんぞ知ってゐる人間はなかったし、親父《おやぢ》の治郎作も幕府の御船匠《おふねしやう》——今の技師長みたいなことをやってゐたが、わしの柔術には賛成してくれないので、先生を探すには随分骨を折ったよ。何んでも接骨医は、みんな柔術が出来るといふ事を聞いたので毎日、足をすりこぎにして接骨医の看板をさがし廻った。「今時なんだって柔術なんど稽古をするのだ」と何所《どこ》でも真面目に相手にしてくれる者のなかったには閉口した。
*
ところが、偶然探しあてたのが、人形町通りのせゝこましい路地内さ。接骨医の看板を発見したので飛込んで見ると、白髪を総髪にした如何《いか》にも柔術でもやりそうなお医者さん。早速「実はかう〳〵」と切り出すと「今時神妙な願ひである。自分はできないが友人を紹介してやらう」と添書《てんしよ》を書いてくれたのが、日本橋大工町に道場を開いてゐる天神真揚流《てんじんしんやうりう》の達人福田八之助先生だった。
*
福田先生は、当時四十歳位、幕府の講武所世話係をやってゐたが、なか〳〵しっかりした腕を持ってゐたね。こゝへ弟子入りしたわしは雨の日も風の日も毎日開成学校の寄宿舎から熱心に通ったよ。道場といったって八畳のお座敷で、しかも火鉢やら、つゞらやらが置いてあるので正味四畳位しかない狭さ、弟子といってはわしの外に青木某といふ青年が一人ゐるだけで、そこで締めや逆手《ぎやくて》を一生懸命に稽古したものだよ。真揚流といふのは締めと逆手の専門で、柔道着といへば今のやうな立派なものはなくて皆手製でわしは姉さんに縫ってもらったが、破れた時にはいつも凧《たこ》の麻糸で自分でつゞったものさ。その時の柔道着は、今でも記念に保存してあるよ。
*
併し間もなく福田先生は亡くなられたので、次は起倒流《きたうりう》の宗家|磯正智《いそまさとも》氏に、次は|飯久保恒年《いひくぼつねとし》氏についたが、これが投げが専門で今の柔道といふのは真揚流と起倒流とを|折衷《せつちう》したもので、わしが初めて柔道と名称《なづ》けて、この一派を開いたのさ。そんなわけでわしは誰からも免許といふものはもらってゐないが、真揚起倒二流の奥義を究めてその伝書は悉《こと〴〵》く譲りうけてゐる。柔道に初段とか二段とか段を設けたのも、わしの創案で、この頃は剣術でも弓術でも道の字を用ひて段をつけるのはわしの専売特許を侵すものだよ。しかし柔道の本当に盛んになったのは日露戦争後さ。考へると久しいもんだねえ。
(嘉納治五郎翁談)
(注)
松平定信「退閑雜記」に「柔道」あり。
[[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898547/67>http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898547/67]]
乙卯十一月九日、柔道の本体の伝を得てけり。この柔道といふは、世にまれなるたとき事にて外にたぐひはあるまじ
2019-06-17T17:10:44+09:00
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真山青果「西郷隆盛」第三幕
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/52.html
第三幕
>岩倉右大臣家の奧庭に面したる茶室がかりの離れ家《や》。茅葺きの二室ばかりの瀟洒《せうしゃ》たる家にて、落葉の中に懸樋《かけひ》の水音幽かなる築山のほとりにある。母屋《おもや》との通ひは廊下にてつゞき、苔さびたる鉢前《はちまへ》の石などあり、小柴垣にてしきる。
>一室は四疊半ばかりの小座敷にて、床の間あり、一行ものの細き勦をかけ、冬椿一輪をさす。次の間六疉の部屋には『涵養亭』と彫りたる埋木《うもれぎ》の掛額《かけがく》をかけ、瓦燈口《ぐわとうぐち》の横に、古雅なる狩野風の繪屏風を置く。三方は廻り縁にて、奧庭に向ってゐる。
>大久保利通紫緞子の厚き座蒲團に、顏を埋めて、六疊の間と四疊半の間に倒れゐる。その姿勢より見れば、聲は立てねど、身を伏せてすゝり泣きでもしてゐるやうにも見える。枕もとには白銀《しろがね》づくりの脇差を置き、また手紙など書きかけたるさまにて、科紙、硯箱などを、その砂に取り散らかしてある。縁側には大久保の脱ぎ捨てたる藤巴《ふぢどもゑ》の紋付羽織が投げ出されてゐる、そのかたちより云へば、彼が癇癪《かんしゃく》のあまり、力をきはめて縁側に叩きつけたもののやうにも見える。
>桐野利秋は、謹嚴をもって聞ゆる大久保の、いつになく興奮せる態度を見て呆れゐるさまにて、遠く離れて縁側の柱のそばに、四角に膝を揃へて畏《かしこま》ってゐる。
>遠き客間のオルゴール時計の音《ね》、緩やかに、フランス國歌マルセーユの曲を奏す。
>やゝありて大久保は『あゝ』と低きうめき聲を洩らして、さも苦しげに寢返りする。兩手を後頭部の下に組んで、凝ツと天井《てんじゃう》を睨らめて、何やら思案に耽ける。
>奥庭一面の虫の聲の中に、龍《たつ》の口《くち》に奔謄する水音、折々際立ちて瀑布の音のやうに聞え来る。
桐野 (瓦燈口の方に、桐野を呼ぶ侍女の聲をきゝつけたる心持にて立つ)え、何んか——何ですか?(と襖を明け) あ、菓子か、給仕はおいどんがします。それに置いてツてたもし。
侍女一 (銀盆に載せし伊萬里燒《いまりやき》の大鉢に、カステーラを山と盛りしものを渡しながら) あの、奥方さまよりの仰せにございますが……
桐野 は、は、奥方さまから。何んとごわすかーー?
侍女一 あの、今日は別にお酒の御用意など——
桐野 酒? そら可《い》きもはん。止《よ》しときませう。(菓子鉢を大久保の前に運びながら)今日は酒など絶對にいきもはん、止しときませう〳〵。今日は酒など出して、とんだことごわす。
>侍女の二、何やら云ひながら、茶臺にのせし茶を捧げ出す。
桐野 あ、お茶、よろし。わしが給仕する。よか〳〵。どうか今日は、一向お構ひ下さらんやう、奥方さまへ申し上げてたもし。
>侍女等、去る。
桐野 (無恰好なる手つきにて、大久保の枕もとに茶菓を選び)大久保|様《さア》。さア、お茶ぢゃ。
利通 (うめく如く)えゝ、うるさいな。構はんとおけ、
桐野 (前場の桐野とはまるで別人の如き穩かなる態度にて)大久保さア、さう短氣|云《ゆ》ちゃ——どもならん、おいどんな、もう何事《ないごて》も云はんちうとる。もうそれでよからうが。
利通 考へ事をしてるのだ。邪魔をせんでくれ。
桐野 だからおいどんな、おとなしう此處に控へとる、
利通 ちょツ(舌打ち。やゝ輕蔑の語調)いつもの通り、匕首《あひくち》でも出して振りまはさんか。
桐野 (笑って)おいどんとて、それほどの氣狂ひぢゃごわはん。匕首を振りまはして好《よ》か時と、振りまはさんで好か時と、その時の見分けぐらゐは、知っとり申《も》す。はゝはゝゝ。
利通 ちょッ! (舌打ちするのみ)
桐野 お前《まん》さアは、いツこくで、わしの云ふことをよう聞いてくれんから困るが……朝鮮國の國防は、さまで怖るゝものぢゃごわはん。お前《まん》さアも一通りは、北村重兵術や別府晋介の報告書をお讀みだらうが、俺《おい》もまた、あい等二人の観察だけでは滿足ならんで、別に軍事密偵を三四方に巡遣《じゆんけん》して、彼れらの軍備及び國内事情は、充分に研究し盡してをりもす。(二本指を出して見せて)これだけあれば澤山ぢゃ、二大隊の鎭臺兵《ちんだいへい》があれば、俺や一擧にして、朝鮮京城まで、まツしぐらに攻め入って見せもす。
利通 うゝむ……。(うるささうに寢返へる)
桐野 また木戸公なんか、ひどくロシアの陸軍力を怖れて居られるが、これとて決して怖るゝに足りもはん。ロシアは懸軍《けんぐん》千里、これを攻めるには遉く、境域《きゃうゐき》もまた廣しなどと怖れちょる文官どももあるが、なアにお前《まん》さア、こっちから攻めるのに遠いほどなら、あっちからこっちを攻めて來るのにも遠い筈だ。なア大久保さア、さうぢゃらう。一里行けば一里の忠義、二里行けば二里の忠義になるとぢゃ。取るところあって、失ふところのない戰爭といふのはこれなのぢゃ。なア大久保さア。俺《おい》に十大隊、八千の兵隊を貸して下され。わしゃな、一里に一人の人柱《ひとばしら》をたてても、浦鹽《ウラヂポ》からロシアの首府モスコビヤまで、見事押し寄せて見せもす。お前《まん》さア長州の文官どもなどに、クリミヤ戰爭の話などきいて、驚いてはなりもはんぞ。兵《へい》家の語に、目には恐れても、耳には恐れなちうとりもす。
利通 誰も、戰さの話をきいてゐない。わしゃ今、西郷のことを考へてゐるんだ。 (また寢返へりする)
桐野 西郷先生——?
利通 彼と俺とは、遂に相戰ふべき宿命が來てゐるのかも知れない。(間を置いて、嘆息)あ、……、貴公らには何故《なぜ》、これほど判り切ったことが、判らんのぢゃらうなア……。
桐野 そらこツちで云ふこツちゃなかか。あんた達には何故これほど判り切った面白い戰爭が、恐ろしうてならんのぢゃらう。
利通 もうよい、去んでくれ。
桐野 いや、そりゃいかん。大久保さア、お前《まん》さアもう一つ考へ直してみて……
利通 えゝ、煩《うる》さい!
>此の時、瓦燈口の襖を開きて、西郷隆盛ノッソリ入り來る。
隆盛 市藏どん、此處にゐなさるか。
利通 おゝ、西郷どんか。(思はす半身を起し、肘《ひぢ》にて身を支へて、凝ツと西郷を見詰める)
隆盛 東京は寒いなう。朝晩めツきり寒うなった。
利通 (穩和なる語調に復りて)それでもお前《まん》さア、ちと痩せたかなう。
隆盛 うゝむ。扛秤《ちぎり》の上ぢゃ二貫目ほど違うとるさうぢゃが、自分の身としては、やツぱい同じ事《こつ》ぢゃ。
利通 (笑って)すゐぶん酷か目に逢うとるとなう。
隆盛 はゝはゝゝ藥も藥ぢゃが、三度々々お飯《めし》を制限されるには閉口しとる。朝はの、鳩麥《はとむぎ》とか云ふやつのお粥《かゆ》をたった二杯ぢゃ。
利通 わは、はゝゝ。
隆盛 そいでゐて醫者は、運動せい〳〵云うて、馬に乘ったり、相撲とったり、一日中そこらを駈け廻らにゃならん。晩になると、身體中へと〳〵ぢゃ。
利通 わはゝはゝゝ。そら酷《ひど》か折檻ぢゃなう。まア横になって、ゆっくりさんせ。ほら敷かんせ。(枕もとの座布團を一枚とって投げる)
隆盛 (横になりながら) ついでにもう一枚。腹が冷えちゃないもはん。
利通 ほおら。(また一枚投げて)うむ、さう〳〵、忘れとった。此の間は駒場野《こまばの》の信吾どん屋敷から獲物の兎をわざ〳〵ありがたう。
隆盛 ありゃ些と、まだ早かったやうぢゃ。血臭《ちくさ》うて困ったらう。おゝ、あん時は、おうつりに貰うた西洋|林檎《りんご》、あいにはびツくらし申した。(兩手の指にて輪をつくりながら)大きいのは、これほどもあったらうかなう。
利通 はゝはゝゝ。あら、おいどん自慢の唐林檎《たうりんご》ぢゃ。三年前に、こッそり札幌《さっぽろ》開拓所のケプロン博士に頼んで、北海道で秘密に試作さしたのぢゃ。どや、どや、相當驚いたでござんそ。(大久保には産業殖琵の話になると、小見の如く得意になって自慢する癖がある)
隆盛 おゝ、あの林檎にはスツカリたまげてしまった。
利通 苗で取り寄せては、せツかちのおはん逹が待ちきれんち思うての、黒田どんにも内證《ないしょ》で、面倒して生木《せいぼく》のまゝで、亜米利加《アメリカ》カナダ州から取り寄せて試植してみたのだ。日本の土でも西洋の木が立派に育つといふところを、おはん逹頑固黨に見せたかったのだ。おいどんな、おはん逹に反對されるか知らんが、何が何でも、西洋の眞似は出來るだけ眞似てみるがよかと思ふ。今の時代は何よりも先づ、西洋の眞似をやってみる時ぢゃと思ふ.
隆盛 (澁々と)そらまア……、さうぢゃらうなア。
利通 西洋には博覽會ちふもんのあって、農夫も工人《こうじん》も商人も、みな銘々得意の産業製品を持ち寄って、お互ひにその品物の巧拙上下《かうせつじゃうげ》を批評し合うとる。おいどんな、今度の内務省建設が端緒についたら、早速この博覽會ちふもんを、上野公園あたりで開いてみたいと思うとる。
隆盛 (何か考へつゝ)そいもまア……よかことござんそ。
利通 われ〳〵封建思想に養はれた日本人の心では、博覧會に出して褒められる人はよかろが、褒められない人はつまるまい。わざ〳〵自分の拙劣《せつれつ》を博覽會にまで出して、世間に廣告しちょる如《ごつ》もんだが、西洋人は然うは考へとらんやうぢゃ。自分の出品はどこが悪しく、彼の出品はどこが勝れてゐるかちふ點を、根氣よく研究する習癖がある。此の批評精帥が文明進歩の第一だ。産業、工業ばかりぢゃなか。政治にもまた、批評精神が必要だ。固執《こしつ》はいかんぞ。獨斷はいかんぞ。なア、西郷どん。
隆盛 (幾分か相手の談話の目的を察しつゝ)さうだ、固執はいかん、獨斷はいかん,
利通 (しばらくして、もう一度いふ)さう、固執はいかん、獨斷はいかん。なア西郷どん。はゝはゝは。
隆盛 いかん〳〵、固執はいかんなア。はゝはゝゝ。
>利通と隆盛、思はず視線を合せて、どツと大聲に笑ひ合せしが、その笑聲の後に、云ふべからざる一種の苦味殘りて、兩人淋しさうに口を閉ぢる。
>此の時、侍女某、また西郷のために茶など運び來る。桐野、立ってそれを受けとり、恭しく西郷の前にすゝめることなどあり。
利通 (やゝ間を置き、仰両けの姿勢のまゝ、卒然として)云って見りゃ、なア西郷どん、今度の朝鮮問題なども、やッぱい然うぢゃが…
隆盛 (ギロリと眼を走らせ)何、朝鮮問題ー? (しばらく利通を睨らみしが、その答へなきを見て、まぎらすやうに)桐野どん、おはんも此方《こっち》へ來て横になんなされ。借りられた猫の如《ごつ》、恰好《かっかう》がつかん。
桐野 はア……。
隆盛 何うしなさった。今日は大層遠慮深かうごわすな。
桐野 は。(云ひにくさうに、モヂ〳〵しながら)先生、實はいま大久保どんから叱られたことでごわすが……、今日三條公が自邸に於て卒倒されたといふは、やツぱい本《ほん》のことごわすか。
隆盛 はア、わしも今なア……、岩倉さんから聞いた。
桐野 先生。虚病《きょびゃう》ごわせう。三條さんは今更ら軍配をどちらへも上げかねて、虚病をつかって、この場を逃れようとなさるんでごわせう。
隆盛 三條公は、嘘をつける人ぢゃごわはん。卒倒して、譫言《うはごと》を云ひなさるまでにゃ……、よくよく御苦勞をなさったもんと思ひもす。
桐野 然し、わしは、先刻|正院《せいゐん》の廊下でお目にかゝって——
隆盛 大久保どん、煙管《きせる》貸して下され。あまり急いで、煙草入れを忘れて來もした。
>大久保、無言、袂落《たもとおと》しの煙草入を西郷の前に投げ出す。
桐野 さうでごわんそかな、おいどんな確かに虚病と思うたゆゑ……、さうかなア。
隆盛 (腹這ひになって、煙管の雁首にて煙草盆を引き寄せながら)どうしてな、おはん又何か、三條さんの屋敷で何か仕出來《しでか》したのぢゃごわはんか。(少し起き上って、煙草の火をつける)
桐野 いや、虚病だ。虚病でごわす。たしかに虚病だ。
隆盛 (坐り直して)虚病なら、お上《かみ》に於かれても、わざ〳〵この夜中《よなか》、三條邸への行幸はごわんすまい。
桐野 えー、(思はす叫ぶ)天皇陛下には、三條さんの御用屋敷に、今夜行幸遊ばされたとごわすか。
隆盛 はい。誠に……恐れ入ったことでごわす。
桐野 先生、ちょツと行って來もす。(狼狽して立ち)ちょツと一走り行って來もす。先生も、大久保|樣《さア》も、どうか何處へも行かず、此處に待ってゐてたもし。直ぐ歸りもす。直ぐ帰りもす。
>桐野、周章せるさまにて出で去る。
>西郷、強ひて心を沈着けんとして、煙管に火をうつさんとして、ふとその一點の火先を見詰めるうちに、本能的にこみあげる憤怒に、われにもあらす煙管もつ手ワナ〳〵と顫へて、思はず力まかせに、パン〳〵と煙管を吐月峯《はひふき》に叩く。
利通 (反射的にむっくり起きて) 何だ! (一喝、蒼白なる顏色にて、屹ッと西郷を睨む)
隆盛 えゝ、煙管が塞《つま》ツとる! (怒聲鋭く、大久保の前に、叩きつけるやうに煙管を投げる)
利通 西郷!
隆盛 何《ない》か!
>兩人、肩で呼吸《いき》しながら、互ひに凝ツと睨らみ合ひしが、大久保は先づ冷静に返りて、一種冷笑の如きものを洩らして、又ゴロリと横になり、兩手を後頭部の下に組み、兩足をグツと踏みはりて、天井を睨みゐる。
>西郷もまた、ゴロリと横になる。
>薄き月の光、地におちて、龍の口に溢るゝ落ち水の音、急に雨ふるやうに耳に立つ。
利通 (長き間の後、不圖思ひ出したるやうに、靜かに)吉之助どん。
隆盛 あゝん?
利通 時候はまるで違ふが……、あの龍の目のお堀にあふるゝ水の音を聽き、この中空《なかそら》にたゆたふ此の薄月《うすづき》の光を眺めると……、俺や妙に……、文久二年の四、月,宇治の萬碧樓《ばんべきろう》からおはんを無理に連れ出して、兵庫の濱の、あの黒い松原の濱邊で、おはんと抱き合って泣いた……あの晩のさまが眼に見える。
隆盛 さう云や、あれも、こんな静かな、晩ぢゃったかな……。
利通 おはんは京都に諸國の勤王浪人を集めて、一擧に倒幕の義戰を起さうとする。藩知事久光公は又、あくまで公武合體論を捨てず、西郷の暴擧は徒らに天下を亂すものだ、西郷を縛れ、最後の決心を以て吉之助を處分して來いと、心の底から御立腹で、何とも致し方がない……そいでも俺や、あの松原へおはんを誘ひ出す時までは、たとひ俺の落度になっても、おはんの生命《いのち》だけは助けんにゃならん。薩摩の寳玉だ、西郷を殺してはならん。たとへわが一命に換へても、おはんだけは、いづくの果《はて》なと隱れ蹲《かゞ》んで、やがては來る勤王の御代を、おはんの眼に、たゞ一目でも見せたいと思うた。たとへ君命でも、おはんを殺してなるものかと思うた。が——松原の松の根にかゞんで、お互ひに言葉なく……ゆるやかな波の音を聞きながら、おはんのその牛の首のやうに太い頸筋《くびすち》からかけて肩のあたりに、落ちて流れる月の光を凝ツと眺めてゐるうち、おれは不圖、こりゃいかん、こいつは可かんと思うた。
隆盛 うゝむ。あん時おはんはいきなり俺の首を抱いて、西郷、一緒に死んでくれ云《ち》うた……。
利通 (強ひて感情を抑へて、靜かなる声、一種の微笑すら帶びて)實に……實に恐ろしい經驗だった。おいどんの一生を通じて、あげん恐ろしか一瞬間を經驗した記憶は、ほかにない。今なら云ふが、やツぱいあの時も、こいつ俺が殺さんで、こいつを誰が殺すだらうと、心の底から憎かったのだ。
隆盛 然う云や、筑前の平野《ひらの》次郎がなア、始終口癖に云ひよった、大事に際して、不可んと云うたら、本當にいかんのは大久保どん一人ぢゃ、大久保だきゃ、とても俺らの手にいけさうがない。西郷どん、そん時アあんただぜ、あんただぜ、と笑ひをった。
利通 それぢゃ……(思はす笑ひを起して)お互ひの間は、憎むための親友だったのか。
隆盛 まアの、或は、お互ひに、親し過ぎたために憎むのか、そこは何とも云はれんよ。はゝはゝは。然しいろ〳〵考へると、お互ひに手をとり合って三十何年來の奔走苦勞、安政以來今日まで……長い〳〵經歴でごわしたなア……。
利通 長いと云へば、一所に手を携へて王事に奔走した舊友親友等は、いつの間にか……みな死んだ。あの元氣者の平野次郎は、六角《ろくかく》の牢屋で、この明治の新政府を見すに……斬られて死んだ。
隆盛 うむ、長州の久坂《くさか》義助どんなア……入江九一《いりえくいいち》どん、あれもこの御代を見すに死んだ。
利通 有村も死んだ……。橋口も死んだ……。
隆盛 田中|河内守《かはちのかみ》も喃……。吉村寅太郎も喃。
利通 (嘆息)ほんに、今日のこの日を待つ間の三十年……、考へりゃ長かった喃。
隆盛 (間をおいて)う㌻む、長かったなア……。
>兩人、また無言に陷る。月光次第に明るし。
>やゝ暫くして、何か急に思ひ出したるやうに、西郷はムックリ起き上りて、それに坐る。
隆盛 大久保どん、ちょツと起きてもらはうか。
利通 何んで——?
隆盛 何んでちふこともなかが……、ちょツと起きてたもし。
利通 まア好《よ》か。この儘で話さんせ。
隆盛 (膝前のはだかるのを掻き合せつゝ)利通どん。おはんはよく、日本の古い歴史を讀んでゐなさるなア。
利通 (突然の言葉に、ぷッと吹き出し)何をお云ひやツど。はゝはゝゝ。
隆盛 (案外真顏にて)あんたは日本歴史の古いところを讀んで、いつも厭やアな氣のするところはごわはんか。國史の汚鮎を見るやうで、心が重う苦しうなる個條《かでう》はごわはんか。
利通 さアー? が、おはんには、そげんものごわすか。
隆盛 はア、ごわす。
利通 ふむ……。(西郷を見る)
隆盛 わしゃなア、いつも六國史《りっこくし》を神代のくだりから讀んで來て、ある個條に來ると、思はず書物を土に投げつけたうなる條《くだり》があります。
利通 ほう、それは——?
隆盛 奈良朝以後の歴史でごわす。わが國の、滿洲大陸|抛棄《はうき》の個條でごわす。
利通 滿洲大陸——?
隆盛 遼束、滿洲、蒙古——この大陸を、われ〳〵祖先の日本人が、これを抛《なげう》って顧みぬに至った個條を讀むと、身體が自然に顫へて來て、どうにも耐らんほど厭やな氣がしてなり申はん。
利通 …………。(片肱を枕にして、熱心に西郷を見る)
隆盛 六國史の教へるところによれば、日本朝鮮兩國は、もと純然たる一國でごわした。遼東滿洲の大陸は、我等の御先組樣が親しく往來して、鐡材を求め、牛馬の輸入をうけた、大事な交換國でごわした。こっちにないものは彼地《あっち》に求め、彼地に無きものは此地《こっち》より送り、朝鮮と日本とは兩地相扶けて、東洋の一獨立國をなしてゐた事は、今更らおはんのやうな學者に云うまでもない事《こ》ツてごわせう、その後、情勢が幾度《いくたび》か變遷して、兩國は分立の形をとりましたが、然も國民は相往來して、綏急相援けてゐたのでごわす。
利通 西郷どん。學者の議論を眞似《まね》るんぢゃなかが、違うとるよ、違うとる。
隆盛 違うとるとは、そりゃ——?.
利通 歴史が違うとるのぢゃなか、おはんには、西洋現在の政治組織といふものがわからんのぢゃないかと思ふ。
隆盛 はア——?
利通 過去の歴史はどうでもよいのだ。現在通用の國際公法とは、現在あるがまゝの情勢を維持して、しかもその所有する権利を守り、持てる者はその持てるものを失ふまいとするが通則なのである。現在強國と云はれ、文明國と稱せらるゝ泰西の諸先進國は、歴史に遡《さかのぼ》って過去の眞實を再現しようなぞとは考へてもゐないのだ.
隆盛 ぢゃが——
利通 まア聞かんせ。(起き上って)そら歴史上より見れば、日韓兩國は大昔一國であったに相違なか。日本と同國であるべき三韓が叛亂を企て、本國に反抗したればこそ、神功皇后の三韓御親征となったのぢゃらう。
隆盛 そいぢゃ聞いてもらはんにゃならん、(座を進めて)その時の御條約をもって、朝鮮の國はわが國に隷屬《れいそく》して、朝貢聘問《てうこうへいもん》の禮をとり、その後三百年の間、今の言葉で云うたら——、朝鮮はわが國の植民地でごわした、然うぢゃらう、然うでごわせうが。こりゃ歴史のわれ〳〵に示すところで、昭々乎《せう〳〵こ》として明らかなことでごわす。然るに奈良朝以降、我國の上層政治家は隋唐《ずゐたう》の文明に眩惑《げんわく》されて、支那人の文化を讃美する結果——
利通 西郷《せいご》どん、今それ云うても何にもならん。今の時は世界の現勢に應じて——
隆盛 まア聞かんせ、歴史が降《くだ》り、文化が進むほど、人間はたゞ支那文化の壓倒に負けて、國力萎縮し、兵氣|沮喪《そさう》して、自ら交端《かうたん》を避けるために、遂に殖民地の韓國を捨て、物資資源の大陸を抛棄し、わが日本國は、絶海の一孤島として、纔《わづ》かに自己の命脈を保つ、悲しい状態になり申した。わしゃ、日本歴史を讀んで、これらの個條に至る毎に、いつも、正直、潜然《さんぜん》として涙が下《くだ》ります。
>大久保、さすがに西郷の眞摯の氣に打たれて、濛かに起き上り、傾聽の態度となる。
隆盛 日本の學者だちのうちには、太閤さんの朝鮮征伐を見て、無名《むめい》の師《し》ぢゃの、無謀の軍ぢゃのちうて嘲ける人もあります。また室町《むろまち》時代に、朝鮮邊海を侵した倭寇《わこう》の八幡船《ばはんせん》を、盜賊、不義の海賊のやうに攻撃する人もあるさうでごわす。が——おいどんな、さう思はん。三千年の日本歴史を讀む者は、誰しも朝鮮に對し大陸に對して、一種いふべからざる不快の觀念が無意識の間に起されてゐると思ふ。我等は、新しき獨立國の朝鮮を侵略する意味でなく、過去に於て我が國の植民地であった朝鮮を囘復する意味に於て、征韓の二字は、何人《なんぴと》の頭にも拂ひ去る事の出來ぬ烙印《やきいん》となって、殘ってゐると思、諏。利通どん、こりゃわし一人の頑迷なる、獨斷でごわせうか、舊弊《きうへい》なる固執《こしつ》でごわせうか喃《なう》。笑はれるならやめもす。
利通 (意外に熱心なる態度にて)あとを云はんせ、何うしたー?
隆盛 朝鮮は橋でごわす。我が日本國——大和《やまと》島根は、大陸につゞく一國であることを證明する、朝鮮國はその大事な橋でごわす。わしが先づ、明治新政の第一歩として、朝鮮問題を解決しようとするのは、我國歴史千年の宿題を解決し、同時に大陸問題にもその手を染めようとするのでごわす。利通どん、將來の問題は、此の大陸にごわすぞ。また此の大陸の問題を處置すべき使命を帶びてゐるのは、日本國民でごわすそ。朝鮮に問罪修交《もんざいしうかう》の使としてわしの行くのは、日本は決して大陸に對して無開心なるを得すとの、強烈なる意志を、世界各國に表明するためでごわす。
利通 …………。
隆盛 大久保どん。是非わしを朝鮮にやってくれ。頼む。いま此處でわしを大陸に派遣して置かぬと、日本は將來、大陸について發言の權利がなくなりもす。その時|悔《くや》んでも、間に合ひもはん。おいどんが朝鮮に行くのは、たゞ一意、わが天皇國の存在を世界各國に認めさせるにある。どうか遣っちくれ。頼む〳〵。
利通 おいどんの意見は、過日《くわじつ》木戸公と連署にて奉りたる七個條の建白書にて明らかだー、今さら何も云ふことはなか。
隆盛 そりゃ、知ツちょる。が、ありゃおはんの意見に過ぎ申《も》はん。掩《おい》の云ふのは根本《こんぽん》ぢゃ。
利通 根本——?(ジロリと西郷を見る)
隆盛 日が暮れては夜のことを思ひ、夜があけては昼のことを思はざなりもはん。日本は今、長き夜の眠りから覺めたのだ。目が覺めると同時に、今まで四海|懸絶《けんぜつ》の朿洋の一孤島とのみ思うてゐた日本が世界の日本であり、亜細亞大陸につゞく日本であることを知ったのでごわす。徳川時代の惰眠《ねむり》から覺めて、雨戸をあけてみて、初めて隣家あるを知ったのだ。なう利通どん。こゝで些《いさゝ》かの方寸を誤ると、將來の日本に取返しのつかぬ禍根《くわこん》を殘すことにない申《も》す。
利通 そいこそ、おはんの意見に過ぎない。おいどんな然うは思はん。
隆盛 大久保どん——。
利通 卑怯ぢゃ、貴公は。公明なる態度を取んなはれ!
隆盛 (さすがにムッとして)では何うあっても、わしの説に應じてくれんとか。
利通 おぬしのやうな——、先づその卑劣卑怯な態度を置いて來なされ。他《ひと》の不在中に、小股《こまた》をすくふやうな眞似はやめたがよか。
隆盛 市藏どん、(屹ッとして、思はで脇差をとる)では、こげん云《ち》うても、おはん飽くまでも不同意なのか.
利通 絶對に反對する。
隆盛 何——?
利通 反對だ!
隆盛 うゝむ……。
>大久保、ドタリと寢返る。
隆盛 えゝもう頼まん! (俄破《がば》として立ち上がる)
利通 (同時に撥ね起き、瓦燈口に立ち塞がりて)西郷、おはん、何處へ行く!
隆盛 わいの知ったことぢゃなか。放せ、邪魔をするな!
利通 (牙《きば》を噛むが如き憤怒に燃えつゝ)貴さま……、貴さま……。(一歩づつ進む)
隆盛 もう……頼まん。俺《おい》は俺《おい》の、本心を貫く。
利通 貴さま——。
隆盛 何
利通 ふうむ、ふうむ……。 (憎悪に燃ゆる眼を鋭く) 偖てはーわりゃ、大不敬罪を冒すつもりだな!
隆盛 (意外の言葉に面色を變じて)何、不敬罪だー?・
利通 わりゃ今となって……、非常最後の手段として、闕下《けっか》に膝まづき、直訴《ぢきそ》する心だらう、 (隆盛の肩を掴む)
隆盛 え——。
利通 吉之助! わりゃ、それほどに血迷ったか! 大不敬の罪を犯してまで、我意我儘《がいわがまゝ》を通したいのか! (聲は次第に低く、西郷をにらみ)犯して見ろ、犯して見ろ。おれも豫《か》.ねて、その用意はしておいた。犯されるものなら、犯してみろ! .馬鹿者!
>利通、渾身の力をその腕にこめて、西郷の肩を衝く、不意を打たれて西郷は、よろ〳〵よろめき、その場に倒る。
利通 かゝる場合もあるだらうと察して、俺《おい》はさきほど侍從長徳大寺さんのもとまで書面を送り、暗夜《あんや》ひそかに西郷が、陛下に拜謁ねがふやうな事があっても、三職同列の上ならでは、決してお取次ぎ下さるなと、木戸さんと兩名にて、固くお願ひして置いた、參内《さんだい》して見ろ、拜謁を願うて見ろ!
隆盛 そら怪《け》しからん。おはんこそ君側《くんそく》を擁蔽《ようへい》して、君徳を損ふちふものだ。
利通 暴に當るに、暴を以てするのだ。公明正大を以て任する大久保に、この横暴を犯させたのは何者だ!
隆盛 うゝむ……。(肩を刻んで大久保を睨む)
利通 吉之助どん.、おいどんとておはんの至純充誠、國家百年の將來を思うて、身を殺して仁を爲さうとするその精榊を知らぬではない。又——尊敬せぬではない。然し、何を云うても今はその時ではなか。眞に國威の發揚、國權の伸張とは、徒らに武力をもって世界にわが存在を認めさせることではない。内に整へ、内に養うて、民を富まし國を富まして、世界の認識を改めさせるのが第一急務だ。五年待ってくれ、三年待ってくれ。俺《おい》は先づ内務省を確立し、産業を起し、憲法制定の基礎をつくり、卑屈なる外國條約を改正して、そこに初めて立憲帝國の面日を立て、あたらしき日本國の形態《けいたい》を作り上げてみせる。西郷、殘念ながら日本の現状は、弧ひて事を起すべき時ではない、何事も忍ぶべき時だ、我慢すべき時なのだ、
隆盛 いや不可《いか》ん。それこそ反對だ、順逆を誤っとる。今の時の大事は、何よりも先づ日本帝國の存在と、その意志とを世界に發表する時ぢゃ。
利通 ぢゃから、それは三年、五年……
隆盛 いや、一日も待たれぬ。 一日も待たぬ!
利通 (唇を噛んで、暫く間をおき)西郷! おはんな心の底に恃《たの》むところあって、此の横暴を敢てするのだな。
隆盛 (ギックリ)何——?
利通 われらの海外漫遊中、わりゃ、龍顏《りうがん》に咫尺《しせき》し奉って何かお耳に御入れ申したことがあるな、いつにないおはんの強情は、確かに何か御耳にお訴へ申してゐることがあるに相違ない、あると云へ、あると云へ! (脇差を引き寄せ、西郷に詰め寄せ)あると云へ! わりゃ深く心に恃《たの》む事あって、今日の強情を貫く氣なのだ、吉之助! わりゃ、何か、陛下のお耳にお入れ申した事がある! さ、云へ、云へ!
隆盛 …………。
利通 わりゃ、御年若《おとしわか》なる天子様に、國家非常の大責任を負はせ奉る心なのか! 天子樣を善悪兩道のなかに立たせられる御方《おんかた》と見奉るのか。我國は未だ専制政治の域を脱せず、やゝもすれば正邪の批判を陛下に願ひ奉る風があるが、それで果して我等|輔弼《ほひつ》の大任が盡されてゐると思ふか、もし不幸にして、今度の征韓の使節が日韓開戰の端緒となる時は何んとする、開戰の責任は果して何人《なんびと》に歸する、戰亂の責任は誰方《どなた》に歸すると思ふ。吉《きち》、わりゃ陛下を開戦の御責任者にお立たせ申し上ぐる心か。吉! 陛下は善悪の外《そと》に立たせ給ふ現人神《あらひとかみ》でましまさねばならぬ。その御膝をゆすりまつって陛下を責任の地に導き奉ることは、それが忠義か、それが正義か! 聞かう! さア云へ、さア云へ!
隆盛 …………。
利通 海外交明諸國には、かゝる場合に處する爲に、憲法を定めて輔弼の責任を確立して、陛下はいつ如何なる場合に於ても悪をなし給はす、また過《あやま》ちをなし給はぬやうな制度が完備してゐる。吉之助、わりゃそれともに、天子様に過ちを見たいのか。天子様を善悪の中にお立たせ申したいのか。
隆盛 (嗚咽して)わしが、わしが、終生の誤りぢゃった…-・なるほど、俺が誤りであった、
利通 (幾分言辭を柔らげて)外國には、このための制度あり、政治の責任は儿て輔弼の臣下に屬し、陛下に累《るゐ》を及ぼさざる事になってゐる、我等の、内に充ちて外に溢るゝと云ふは、其處だ。
隆盛 市蔵どん、謝まった、謝まった……。(と泣く)
>桐野利秋、悄然として入り來り、廊下に坐る。
桐野 西郷先生。三條公の病氣はやはり實正《ほんと》でごわした。虚病と見て罵詈《ばり》を極めたのはわしの輕率でごわした。國事の大任にあたる人は、さすがに違ふところがごわす.
隆盛 おう、利秋どんか。歸らう。おいどんな薩摩にかへらう。
桐野 え——?
隆盛 大久保どん、後《あと》のところ、宜《よろ》しう頼ん申《も》す、日本は、これからが多事ぢゃ。御苦勞ながら、あとのこと、好《よ》かやうに頼みます、桐野どん、さア行かう、薩摩にかへらう。
桐野 先生、急に何《ど》うされたのでごわす。
隆盛 わしはな、陛下の聖明を發揮するつもりで、却って聖徳《せいとく》を煩はし奉ることに氣かつかなかった。歸ります〳〵、薩摩へ歸って、また百姓でもし申《も》さう。
利通 (思はずハラ〳〵と落涙しながら)西郷どん!
隆盛 大久保どん。もう止《と》めずと置いて下され、たゞなア大久保どん、滿洲大陸は日本國の癌腫《がんしゅ》のやうなものだ。五十年三十年と、年か経《た》つほど経營に骨が折れますぞ。どうかよろしう後は頼ん申《む》す、頼ん申《も》す……。
(幕)
https://app.box.com/s/jqiuzkcqmiy6cls9ytv7u3ygd0jnwfv0
2018-12-17T17:22:28+09:00
1545034948
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昔夢会筆記・明治四十二年十二月八日
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/49.html
第七
明治四十二年十二月八日兜町事務所に於て
興山公
文学博士 三島毅君
豊崎信君
猪飼正為君
渋沢篤二
法学博士 男爵 阪谷芳郎
三上参次
江間政発
渡辺轍
井野辺茂雄
藤井甚太郎
高田利吉
○江間 ちよつと申上げて置きますが、これまで御伝記は小林庄次郎が始終引受けて居りまして、万事疑はしいことは伺ひつゝ筆を執つて居りましたが、今回からは其代りとして、こゝに陪席して居ります渡辺・井野辺・藤井・高田の四人が、力を協せて従事致しますことになりました、つきましては其調べ方も一調子に参りかねます、節目を立てゝ各分担することでございますから、随つて伺ひます事柄も前後色色になりまして、御煩はしくいらつしやいませうがどうぞ其御含を願ひます、即ち昨日御手許へ差上げて置きました書類が、其不審の廉でございます、尚其詳細は当人どもから直に伺ひますからどうぞ……、
○阪谷 一人質問してしまつてから、次の質問をするやうにしませぬと、仰しやる方でも仰しやりにくいし、書取る方でも書取りにくうございますから……、
○井野辺 後見職といふ御職掌について伺ひます、後見職と申します御職掌は、将軍家の|後見《ウシロミ》をなさるもので、朝廷で申しますれば摂政の如き者に当ると思ひますが、将軍家に代つて、一切の政を御裁決になる御権能を持つて御出でになりましたのでございませうか、
○公 それは後見職の名義から言へば、さういふ風に相違ないが、併し其節の後見職はさういふ訳でないので、色々そこに事情がある、一体後見職・総裁職を置くについては、大原三位が勅使に立つて、島津三郎がそれに附いて来て、其勅命のことを三郎から議つた、議つた処が皆不承知なのだ、不承知で幾度も押返して、何分大原の言ふやうにいかなかつた、それで薩州人が、閣老方の登城・退散を途中で拝見致すと言つて、帯刀をして、あつちへ三人、こつちへ四人といふやうに出たのだね、それで此事が通らなければといふ意味を暗に含んで、早く言ふと嚇したやうなものだ、それでどうも困るとか何とかいふことで、それから段々其説が用ゐられるやうになつて、後見職も是非御受をするやうにといふことを、閣老から勅命といふものを達しになつたけれども元々幕府の方では、後見職や総裁職のあるのを望まない、然るに已むを得ずして、拠なくそれを聴かなければならぬといふ場合になつて、遂に御達といふものまでに運んだのだね、其節に再応御辞退をしたといふものは、昨日までは謹慎仰付けられて、まあ隠居といふのである、今度はひつくりかへつて後見といふのは、余り表裏反覆であるから、却てそれは御為に宜くない、どこまでも御断を申上げる、且は一同不承知を唱へると言つて辞退したが、それを御受をしなくては、朝廷に対して何分上を無視する訳で、申訳が立たぬからといふことで、とにかく御受さへすれば宜いといふことになつた、それで再三申上げたやうに、どうあつても御受をしなくては、今日纏まらぬといふまでになつて、已むを得ず御受をしたといふのが元の芽なのだね、それで後見職といひ総裁職といふけれども、こゝまでは言ふ、こゝからは秘密だといふものは、後見でも総裁でも話さない、そこで衝突したこともあつた、大体あの節の後見・総裁といふものは、唯の大老でもなければ何でもない、さう考へなければ能く分らない、
○井野辺 御用部屋の評議などは、纏まりました上で御前に申上げるのでございますか……、
○公 それは御用部屋で議すこともあるが、先づ早く言ふと、閣老なら閣老、目付なら目付、三奉行なら三奉行を召して、大概腹が極まつた上で……、
○井野辺 御相談で……、
○公 形は御相談だけれども、実は同意させて、後見・総裁の名前を出して行はう、さうすれば朝廷も何も仰しやらない、諸大名も御受をするのが宜からうといふ考のやうだつた、又閣老の秘密を守るのも無理のないことがある、総裁にしろ後見にしろ、本当に極秘密の何から何まで話せば、家に帰つて横井平四郎や家来に話すだらう、話せば世間に流布してしまふ、其辺の懸念も閣老の方にないでもない、片方の方を考へて見ると、強ち無理とばかりも言はれぬやうな傾がある、
○井野辺 政事総裁職などは、幕府の総理大臣の意味でありませうが総理大臣だけの実権は御持ちになつて居らぬのでございますか、
○公 実権は持つて居らぬ、
○井野辺 唯形式だけでございますか、
○公 唯形式だけだ、是非置くと仰しやるから、それを置いてこちらの都合になるやうにといふ訳だね、
○井野辺 どうも越前家の記録を見ましても、老中の権力が非常に強いやうで、御前や春岳侯の御意見も、行はれぬことが屡あつたやうでございますが、
○公 さう、都合宜くいつた時には、出て極めてくれうと言つて極める、それで宜いと言へばそれで極まつてしまふ、不都合なことはなかなかさうはいかない、
○井野辺 一体後見職を設けてある時代は、将軍家の御親政とは申されぬと思ひますが、さういふ有様でございますと、やはり事実は御親政でございませうか、
○公 御親政といふ訳ではないのだね、
○井野辺 やはり御前が政を御聴きになるといふ訳ではございませうが……、
○公 形の上ではさうであるが……、
○江間 文字から申しますと、総裁は政治の総裁で、読んで字の如く総ての政治も裁決する、御後見は将軍様御一身上、総ての御行状を御世話申上げるといふことに見えるやうでございますが、事実上に於きまして、後見職と総裁職が文字にあてはまらぬので、さま〴〵な説も出るのでございますが、唯今の御話で能く分りました、
○公 あからさまに言へばさうである、
○江間 何さま余り文字に拘泥せずに、一時都合上からあの御役が出来たと見る方が、分り易いやうに存じます、
○公 困ることがある、あなたは後見職だ、老中や何かの仕方に不承知なら、罰してしまふとか引かせてしまへば宜い、さうして断然とやらねばいかぬと人から言はれるのだね、けれども勢ひさうはいかないのだ、それに誠にどうも困るのだね、又どうも大分話が漏れる、総て今日は斯ういふ評議があつたといふことが速に漏れる、銘々家に帰つて話すだね、話すと其考が又知つた者と文通するとかして、ずつと広がつてしまふ、又中にはどうも知らなければならぬこともある、それは公明正大といふけれども、それも事と品に依つて、秘密にしなければいかぬことが必ずあるものだが、それで閣老や何かの方で秘すといふのも、斯ういふことが漏れるといけないといふ懸念があるのだね、
○井野辺 文久二年の閏八月、幕府で改革を致します時に、参勤交代のことや何かでございますが、其事の評議が纏まりましたので、板倉閣老が将軍家に申上げて御親裁を仰いだといふことが、越前家の記録に見えて居ります、直接に老中から将軍家の御親裁を仰ぐといふことが出来るものでございませうか、一旦御前の手を経て将軍家に申上げなければならない制度ではあるまいかと思ひますが……、
○公 事に依ると、後見・総裁を経ずに、ぢきに行くこともあるが、先づそれはないのだね、
○井野辺 あつたとしますと異例でございますか、
○公 あつたとすると異例だ、殊に参勤交代などゝいふ重いことを閣老から持つて行つて御親裁といふ、さういふことはない、それは不同意だと同意させるやうにはするけれども、これは不同意だからといつて、閣老がするといふやうなことはない、
○井野辺 さやうでございますか、越前家の記録には見えて居ります
○公 それはない、殊に参勤交代などゝいふことは、それはどういふ事情があつても、後見といふ名目もありするから、それは出来ない、
○井野辺 出来ない事情とは心得て居りますが……、其前に色々御評議がありまして、さうして板倉閣老から将軍家の御親裁を仰いだといふことになつて居ります、
○阪谷 私どもが内閣に居ります時分には、何の事件でも天皇の御裁可を請ひます書附には、大臣が十人居りますから十人が署名致します同意をすると書判を致します、十人名前が揃ふと、それを総理大臣から侍従長の方に送りまして、侍従長が御前へ持つて行つて御裁可を受ける、其時に御質問かありますと、大蔵省のことでありますれば私が出まして、斯く〳〵でございますと申上げる、それで宜しいと仰しやいますと、そこで御署名があります、それで其事が極まります、幕府の時分にはやはり……、
〇公 やはりさうだ、老中なら老中の方で同意して後見・総裁に話をする、後見・総裁もそれで宜からうと言へば、それから申上げる、それを別にちよつと申上げるといふことはない、
○阪谷 御書判がございますか、
○公 書判までゝはない、別に名前も書かない、一同評議に列したが一同同意でござる、後見・総裁にもこれを以て同意だといふことになれば、又さういふやうな重いことになると、書かないこともない、其中評議に閣老の携はらぬ者があれば、誰々は不快故、此事は心得ませぬといふことにして申上げる、
○阪谷 今のは皆書判を取りますのでございます、それから天皇の御裁可が済みまして、それを官報に載せます時、もう一遍書判を取ります、其時は天皇の方が先に御判をなされます、最初に此度斯く〳〵の事件が起つたについて、斯く〳〵遊ばさなければなりますまいといふことについて申上げる時には、総理大臣なり私どもなりそれを持つて行つて、天皇の御判が済むと決します、決しましたものを書記官が写しまして、官報に出す時にもう一遍御判が|要《イ》ります、其時は天皇の御判が先に据わります、天皇の御判ばかりで出す訳にいきませぬから、総理大臣と大蔵大臣が連署します、又大蔵大臣限り致しますことがございます、其官報に出す時に判をします者が責任を持ちます、幕府の時には定まつた形はございませぬか、
○公 形はあつても判然とせぬ、
○阪谷 さうすると書面が残りませぬな、後見職が御承知か御承知でなかつたか……、御承知でなかつたと言ひ張ることも出来るのでございますな、何か書面がありさうなものですが……、
○公 書面と云つても奉書に書いたもので、名はない、
○阪谷 後見職が承知したといふ御|証《シルシ》が何かありませうか、
○公 それは何もない、
○阪谷 御右筆とか書留役とかいふ者が証拠立てますか、
○公 極機密なものは、閣老がすぐに認めてさうして御覧に入れる、右筆にも秘すといふ場合にはさうする、さうでないことは右筆がちやんと書いて、書附を持つて来て御覧に入れる、
○阪谷 何か併しありさうなものですな、御裁可が済んだか済まぬか分らぬのでございますな、
○江間 もつと甚しいのは、幕府には辞令書がありませぬ、老中になりましても若年寄になりましても、辞令書を出されることがありませぬ、唯将軍が、例へば老中の筆頭が板倉だといふと、伊賀守同様に勤めろ、念入れて勤めうと御意のあるだけで、別に辞令書なしといふくらゐでございますから、果して何もありますまい、
○阪谷 書類の保存はどうするのでありませう、簡単な時分にはそれで宜しうございませうが、万機と称するくらゐでありますから、煩雑な時にはどうするのでございませうか、
〇三上 それは各部の御右筆の留、目付の留といふものが訳山あります、〔入力者注、ママ。東洋文庫では「沢山」〕
○公 先づ今の通りでも申合せて、其時には月番といふ者がある、月番といふと、一番下の人でもやはり上へ坐るやうになる、さうすると月番からして申上げるといふことになつて、評定のことでも月番が口をきく、月番でない者は滅多に口をきかずに、月番に任せて置く、斯ういふ訳になつて居る、それで自然初の人の月番の時には事が捗取るが、一番筆末の閣老が月番に当ると、事の運びが遅い、それで変なことをすると、上の閣老から、お前そんなことをすることはないと言つて小言を聞く、と言つて月番だからやる、けれどもそこでふん切りが出来ない、どうも遅いといふ気味がある、
○井野辺 御登城になりました時は、御用部屋へ御出でになつて御評議を御聴きになりますのでございますか、或は別に御詰所があつて、そこへ老中が参りまして御伺ひ致しますのでございませうか、
○公 本当は扣所といふものがあつてそこに居る、それで閣老始め総裁残らず評決したものを持つて来て、大君同様に後見に告げられる、それでこれは宜いとか、或はこれは悪いとか、御前に出て申上げてするとか、何とかいふのが当り前、又総裁もやはり少しく閣老とは何が違つて居るけれども、あの時分には事が多端になつて、そんなことをして居ては間に合はぬから、どうぞ御用部屋にすぐに来てくれといふことで、通知があるとすぐに御用部屋へ出る、御用部屋には総裁や閣老が坐つて居て、三奉行始め諸役人がそれへ出て評議をする、其時には斯ういふことゝいふことを黙つて聴いて居る、これは宜いとか悪いとか議論して、総裁に向つて今の議論はどうでございますといふ訳になる、総裁がどうとか斯うとかいふことになる、それから後見の方にそれが向いて来る、それで一同同意して、それなら宜いからさう極めやうといふと、御前を願つて申上げる、斯ういふ手続になる、
○江間 御側御用御取次といふ役がありますな、老中などから申上げますことは、あの手を経ずに直接に……、
○公 あれは昔はないのだ、御用御取次といふのは……、古い処は、用があれば閣老がぢきに出て申上げる、極昔の処は御手軽だ、御手軽だから閣老がずつと出て来る、何か用があるかといふやうなことで、すぐに御用を申上げるといふくらゐのことである、処がずつと後世になつては鄭重になつて、先づ閣老でも出ると、そこに散らばつた物を片附けるとか、次に扣へさせて置いて、程が宜い処で出るとかいふ訳になつて、何分おつこうなのだね、そこで御用御取次といふ者を拵へて、閣老が出て申上げべきことも、大したことでないことは御用御取次に頼んで、申上げてくれといふのである、これは立場が違ふからずつと持つて出て、何を遊ばして居らしつても、これは斯う〳〵、そんなら斯う〳〵と言つて済んでしまふ、閣老が出るとなか〳〵おつこうである、先づ唯今出て宜しいかといふことを伺ふ、少し待てとか、或は宜しいとかいふ訳で、出て御次に扣へて居ると、茵の上に御著座といふ訳で、出るといつても甚だおつこうである、それで御取次といふものが出来たのださうだ、それであれも誠に善し悪しで、どうも正直な人なら宜しいが、さうでないと、老中から言ひ付けられたことを、少し詞の工合で申上げるとどうでもなるものだから、それでどうもあすこに弊が生じて来て困る、
〇江間 現に後の方でございますが、大久保越中守などが……、
○公 あれも最初は御目付に居つた者だが、御用御取次で取次をする者が、やはり御用部屋の中にはいつて評議に加はる、それで色々のことがあつて、どうも少し工合が悪かつた、
○江間 あゝいふ役がありますと、仕事が機敏に行きまして大変便利でございませうが、其人を得るのに余程困難でございますな、
○公 さうだ、
○井野辺 春岳侯も御側御用取次に権力があるのを心配され、其権力を殺がうと計画されたことがございます、
○公 春岳の時の御側御用は、当人の最も信用した人だ、大久保は……、
○井野辺 万事御相談があつたやうに、越前家の記録に見えて居ります、
○江間 京都に御勤め中でも、大抵のことは大久保に相談になつて居ります、
○公 さうだ、全くさうだ、
○井野辺 春岳侯が御任用になつたのでございませうか……、初は大目付で外国奉行を兼ねて居たやうに思ひますが、
○公 さうだつたらうか、何でも大目付だ、
○井野辺 今度は幕府の改革のことについて、ちよつと御伺ひ致します、文久二年の改革でございますが、あれは後から見ますと、大原左衛門督が島津三郎を従へて関東へ下り、勅旨を伝宣しました結果であるかのやうでございますが、改革のことが始めて発布せられましたのは、文久二年四月十五日で、久世大和守が老中首座の時でございます 尤も安藤対馬守は老中を罷めまして三日目か四日目になりますが、多分此事は久世大和守・安藤対馬守あたりの合議で、幕府を改革する議案が成立つて居つたことかと思ひますが、何か其事について御聞きになりましたことはございませぬか、
○公 別に聞いたことはない、私の聞いたのは島津・大原・久世、それから前話しする通り出たが、其前のことは能くはつきりと承知しない、それは其前にも改革する話があつたか知らぬが、何もそれは聞いたことがない、
○井野辺 それから文久二年の閏八月十五日でございますが、御前から板倉侯に御手紙を御贈りになりまして、登城を御辞退になつたことが越前の記録に見えて居ります、それは其頃幕府で計画致して居りました改革のことについて、御不満の点があらせられた為で、御手紙はこんな塩梅では、迚も改革などは出来るものではないといふやうな意味を、御認めになつたらしく思はれますが、実際さやうな御手紙を御贈りになりましたことがございましたらうか、
○公 一々どうであつたか覚えて居ないが、それは腹立つたこともある、色々あるが、どうもしつかりとは覚えない、
○井野辺 あの頃幕府の御評議に対して御不満で居らせられたといふことは、御記憶はございませぬか、
○公 別にさういふこともないやうに考へる、
○井野辺 其次には、例の参勤交代を廃しますることでございますが参勤交代を廃して大名の妻子を国に還すといふことは、早くから春岳侯の御意見で、安政年間でありましたか、阿部伊勢守に話されたことがございます、阿部伊勢守は、幕府制度の根本であるから、唯今廃することは出来ぬといふことでありました、それを文久二年になつて御実行になりました、一体春岳侯の御説は横井小楠の説に基きましたもので、小楠の説は小楠遺稿の中に見えて居りますが、それに依ると、幕府の勢力はもはや諸大名を制することは出来ぬ、それ故に大名の方で無断で妻子を国に還したり、或は参勤交代を怠つたりするようなことがあつても、どうすることも出来ない、それよりは寧ろそんなことのない前に其制を廃して、諸大名に恩を施すやうにした方が宜いといふ議論であつたやうに見受けますが、幕府であのことを断行致しましたのは、それと同じやうな理由でございませうか、
○公 一体あのことは島津三郎が、どうしてもこれからは全国の武備を十分に整へなければならぬ、船も拵へなければならぬ、それには何分費用も掛かるから、参勤交代といふものを寛いやうにしなければ、なかなかさういふ訳にはいかないと言つたといふことは、聞いたやうに覚えて居る、大原の著いた時に、さういつたやうなことがある、それに横井の説もあり、それで結局がもう参勤交代を緩めるといふことを、言ひ出すやうになつたのがいかぬとかいふやうな議論で、もうさうなつたならば、無理に引止めた処が何にもならぬ、断然とやる時には、たとひさうなつて居てもやるといふやうな議論で、それよりは寧ろ緩めて、其代りにどうの斯うのといふ評議があつたのだね、結局あれは持耐へが出来ない、つまりそれであゝいふことになつたのだね、
○井野辺 あの頃実際に於て諸大名が色々のことに託けて、参勤交代などを怠つて居つたので、あの御触が出ても諸大名が喜ばなかつたといふことでございますが、さういふ事情がございましたでせうか、
○公 それはどういふものだらうか、けれどもあれで諸大名の方が強くはなつて居る、
〇三上 会沢安が烈公様に申上げました詞に、大名を国に還した方が宜からうといふことを言つて居りますが、それは関係はありませぬか
○公 それは一向関係はない、
〇三島 あれは大名の方の都合のやうになつて居つて、何分恩政のやうに聞えたのだが、実は幕府が持耐へられぬのですな、弛みの本でありますか、
○井野辺 塩谷宕陰・芳野金陵などの学者も反対でございました、
○江間 建議をして来た時に、それはならぬといふ力がなかつた、
〇三島 外国を防いだり何かするに、諸大名に入費が要るといふことから来たのですな、参勤交代をする入費を銘々の藩に持つて行つて、攘夷の方に心を用ゐるといふ処から来たのですが、其実は多くの話から来たので……、
○井野辺 あの時長州の世子長門守が勅旨を奉じて関東に下向致しましたが、其折参勤交代の制を廃したが宜いといふことを建白したといふことが、忠正公勤王事蹟に見えて居りますが、さやうのことがありましたでございませうか、
○公 表向幕府へ建白したことは覚えないが、一橋の宅へ長門守が来て、覚書のやうなものを出したことがある、四五箇条もあつたと覚えて居るが、其中の一箇条に、是非攘夷をしなければならぬといふようなことがあつた、其中に参勤交代のことがあつたか能く覚えない、今考へると、丁度長井雅楽を退けて藩論が攘夷に一決した時分で、専ら攘夷を申立てゝ長井の開国説を打消したものかと考へる、
○江間 世子奉勅東下記といふ本がございます、それにあの時の消息が詳しく書いてあります、
○井野辺 防長回天史の中に見えて居なければならないのですが、見えて居ないのでございます、
○江間 ちよつと今思ひ出しましたが、島津三郎の参りました時には後見職を置き政事総裁を置く建白の大趣旨、それから長門守の参りました時には、例の五大老といふことを申出しはしませぬか、
○公 五大老といふことはあつたが、それは島津かと思つたよ、島津が五大老に倣つてどう斯うといふことで……、大原であつたか、何でも耳にある、
〇三上 島津三郎といふので思ひ出しましたが、斯ういふことを聞いて居ります、あの時に勅使が下られて幕府に要求がある、それと同時に九条家から幕府に、表向はさうあつても、其通りされると御迷惑だといふことで、島津三郎と大原三位と、今度斯ういふことで下られるむつかしい注文もあらうけれども、それは宮中でも已むを得ず仰出されたので、若し幕府で御受をすると御迷惑になると、斯ういふ九条家からの注意があつた、其書面は九条家にあるさうです、
○井野辺 それに似寄つたことがあります、和宮様の御生母の観行院から、あの時和宮様に御手紙があつて、今度は島津家の言ひ分を立てるについて、勅使が御下向になる、併し実際は島津家を慰める為であるから、其御積りでといふやうな意味で……、
〇三上 其手紙を写して置いたら宜しうございませう、九条家にある……、
○阪谷 観行院の手紙は残つて居りますか、
○井野辺 手紙の文言はないので、大体だけ記してあります……、今一箇条伺ひます、文久二年八月七日に、御前と春岳侯と老中と御連署になつて、朝廷へ御書面を御出しになりました、其御文面は、今回の勅諚を遒奉して、従来の失政を改革し、公武一和の実を挙げるといふことゝ、春岳の上京は暫く御猶予を願ひたいといふことゝでございますが、其最後の方に至りまして、尚今後も思召の旨があれば御申聞けを願ひたいのであるが、時勢に於て行はれ難いことは、自然御断りを申すかも知れぬから、其事は御含みを願ひたいといふことが見えて居ります、尤も其以前の七月二十三日に、御前が春岳侯と御一緒に大原卿を御訪問になつて、大原卿から十箇条ばかりの難問が出ました時にも、それを一々御答弁になりました上で、やはり同様の御趣意を御述べになつて居りますが、其時勢に於て行はれ難いことゝいふのは、何か御意味があつて御申上げになつたのでございませうか、
○公 所謂攘夷だね、
○井野辺 鎖国攘夷のことでございますか、
○公 それは覚えて居るが、第一攘夷、攘夷の外でも、どうしても行はれ難いことは御免を蒙ると言つたことは覚えて居る、
○井野辺 さうすると、開国説でも朝廷へ申上げるといふ御考がございましたか、
○公 まだそこまでは行かぬけれども、総て出来ないことを仰しやれば御断りを申上げる、攘夷に限らぬ何事でも、そこが却つて公武合体の処であるといふ、確か考のやうであつた、
○井野辺 やはり重には攘夷のことで……、
○公 攘夷は最もであつた、
○江間 一昨々日東久世伯に伺ひました、九州の太宰府に四十五年ぶりで行つて来たといふ御話で、今ではもう知つて居る者はなくなつて残らず孫の代である、唯感慨が深いばかりで、一向昔のことを語るといふ興味もなかつたといふ御話、段々御話を続けまして、あの当時攘夷といふことが流行しましたが、攘夷は夷を攘ふといふことで、何でも眼色の変つた奴は、片端から斬殺してしまふといふのが攘夷の原則で、攘夷を大別しますと、水戸の攘夷、長州の攘夷、それから天子様の御攘夷と、斯う三つと見まして、水戸の攘夷などゝいふものは、私ども考へると本当の攘夷ではない、為にする所あつての攘夷、あなたはどう御考へなさるかと申し試みました処が、長州の攘夷もさうだよ何も攘夷をしたいといふ訳ではない……、して見ると攘夷といふことは、今日から忌憚なく申すと、反対党を叩き潰す看板である、さう言つても宜しい、併し其頃の七卿と言つた三条様始め、あなた方七人の方々が攘夷の発頭人、それが為に長州までも動き、伏見の役などがありましたが、此あなた方の攘夷は、為にする攘夷でありますか、単純な攘夷でありますか、私ども考へるに、三条様始めの攘夷は、これは単純なる攘夷で、どこまでも主上の叡慮を安め奉る為めの攘夷であると思ひますが、如何ですかと尋ねました、それは実際其通りであつた故に長州が攘夷をすると言へば、それは飛立つ程嬉しかつた、それから後、馬関であゝいふことをしてしまつて、京都で失策をして、それからあゝいふことになつて、能く考へて見ると、長州の攘夷は為にする所があつたのだ、其事が当時既に分つた、我々は徹頭徹尾叡慮を奉じて、攘夷さへすればそれで宜いのだと言はれまして、大笑になりました、
○阪谷 併し伊藤公爵や井上侯爵やの話を聴いて見ると、馬関の戦争などは、長州が本気の攘夷のやうであります、今の攘夷を餌にして幕府に迫らうといふやうなことは、或は後には其考があつたか知らぬがなか〳〵馬関の砲撃の時分には、悪くすれば伊藤公爵・井上侯爵・首がないのですからな、
○江間 水戸にしましても、末々の者は単純の攘夷ですが、所謂操り人形で、其人形使ひ即ち隊長株の心術は、ちと怪しうございますな、
〇三島 何でも打払はなければならぬといふことを、遂には名にするやうになつて来た、
○公 攘夷にも幾通りもある、
〇三上 水戸が余程変つて居ります、
○阪谷 条約勅許・開港といふことを幕府に迫らうといふ処で、幕府が開港論になつたから、それぢや反対に行けといふことであつたが、末流の処は真面目に一生懸命にやつた、
○江間 ちよつと伺ひます、永井主水正が近藤勇などを長州に連れて参りました、あのことを長州人の中原邦平といふ者が話しました筆記がありますが、それで見ますと、周旋の為に連れて行つて、長州へ入込ませて、周旋を名として防長内の景況を調べさせる意味のやうに見えますが、それならばもう少し人の選抜方もあつたらうかと考へます然るに御案内の通り、近藤を始め人斬り屋の方で、迚も巧な周旋などといふことの出来る人物ではないかのやうに考へられます、それに色色の役名を加へて、自分の家来にして連れて参つたのでありますが、絶対的向ふの長州から謝絶してしまひましたから、それ切りでございましたが、あゝいふ人物を連れて行く永井の考といふものは、少しく非常手段を帯びて居らぬかと思はれますが、其時長州の謝絶に対して二の槍を入れるのに窮して、永井はそれでは困るぢやないか、実は此事は将軍家に申上げて、御許可を得て来たのだからと申したさうでありますが、連れて行きました人が人でございますから、やはり内心の極意は非常手段を含んで居て、重な大将株、たとへば高杉晋作に逢つて置いて、機会を見てやつてしまへとか何とかいふことは、固より明言は出来ませぬけれど、あの時分の状態から考へて見ますと、何だか怪しく思はれますが、何ぞ此時の消息の御耳に入りましたことはございませぬか、
○公 新選組を連れて行くといふやうなことは、聞いたやうに覚えて居るが、どこといふ深しいことは覚えて居らぬ、新選組を連れて行くといふことは聞いたよ、
○江間 自分の護衛に連れて行くのなら適当でありますが……、
○阪谷 長州へですか、
○江間 さうです、永井が長州へ派遣したいと申入れました人々は、近藤内蔵助……、これは勇の変名で……、武田観柳斎・伊藤甲子太郎尾方俊太郎、此四人で、孰れも京都の壬生浪士、即ち新選組の強の者でありまして、永井が京都で遽に召抱へた家来であると申したさうでございます、そこで役名は、近藤が用人、武田が近習、伊藤が中小性尾方が徒士、此四人を長州に派遣したいがどうかと申しました処が、応接役の宍戸備後助が、それはどういふ訳で長藩に御遣はしになるのか、弊藩の疑惑を解く為に御遣はしになるのでありますかと問ひました、いや別に疑惑を解くといふ訳ではない、此四人を派遣して懇談をさせたならば、幕府の事情も能く分り、長州の事情も能く分つて、互にこれまで阻隔したことが融和するかも知れぬと答へました処が、宍戸は体よく謝絶してしまひまして、此事は遂に其儘になつたと書いてございます、
○公 それは聞いたやうに思ふ、会津の方で新選組の者を長州へ探索に入れて、探索の者が帰つて来て、そこはかやう〳〵といふことはないかい……、新選組の者を会津の方で入れて、そこで探索した処が、其探索した処の趣はかやう〳〵であつたといふことは、私は聞いたやうに覚えて居る、
○江間 それは成程ありましたでございませう、現に薩州の高崎猪太郎、あれなども藩の命令で参つたのですが、長州の状態を詳しく調べました、芸州からさう言つて寄越しました書面がございます、さすがに能く調べて居りますな、あ、いふ風に諸藩からもはいつて居りましたから、会津などは別してやつたことゝ思ひます、
○公 それは話に聞いた、何がどうだ、こゝがどうだといふことは、聞いたことはどうも覚えて居るやうだ、
○高田 それでは私から御伺ひ致します、万延元年に烈公様が水戸で薨去になりましたが、烈公行実や鈴木大の日記などに拠りますと、誠に急な御病気で、八月の十五日に御胸痛が再発して、其夜の中に薨去になつたやうでございますが、さやうでございますか、
○公 さうだ、
○高田 其時順公様は江戸に御出でゝございましたが、大層御歎きになりまして、どうかして御生前御慎解といふことになさりたいといふので、輪王寺宮様、或は久世閣老などに、御嘆願になりましたといふことが書いてございますが、又水戸見聞実記などを見ますと、烈公様の御病気は以前からのことでございまして、段々御悪くなるものでございますから、八月の上旬に、貞芳院様から輪王寺宮様に御書面を御遣はしになりまして、どうか御慎解になるやうに御執成に預りたいといふことを御頼みになりましたので、宮様は幕府の様子を御探りになりまして、幕府の模様も追々宜しいから、昨今の中には城内の御歩行ぐらゐは許されるやうになるのであらうし、尚近々の中に御慎解の御沙汰も出る様子であるから、此知らせを薬にして、十分御養生をなさるやうにといふ御返書を御遣はしになりましたが、不幸にして此御返書の著しまする前に、烈公様は薨去になつたといふことでございますが……、
○公 宮様に御願ひになつたといふことは、仄に聞いたやうに覚えて居る……、謹慎中のことで、どうもはつきりとは言ひかねるが、御願ひになつたといふ話は聞いて居る、
○高田 あの時、御前は御自身御出でになりませんでも、御使でも御遣はしになつたのでございますか、
○公 別にさういふことはない、烈公の御なくなりになつた時は、私はまだ慎中と覚えて居るが……、
○猪飼 確か御慎中でございました、麻上下を著けて御遙拝があらしつたやうに思ひます、
○江間 御慎中とあらつしやると、親御様の薨去でございましても、御悔みを仰しやるといふことも出来なかつたものでございますか、
○公 さうだ、
○高田 さう致しますと全く御急病で、前から御悪いといふことはなかつたのでございますか、
○公 御悪いといふことはなかつたが、胸痛があつた、十五日、丁度御夜食が済んだ処、今日も胸が痛い、今日の痛いのは非常に痛いがと仰しやつたが、それ切りであつた、それ切りすぐに御臨終になつた、
○高田 それから御葬送の時に、尾州・紀州・因州などは御名代を御遣はしになつたが、一橋公は御断りになつたといふことが、松宇日記に書いてございますが……、
○公 まるで断るまでにもいかぬことになつて居る……、慎中であるから、断ることにもいかぬ、
〇三上 今の烈公様の御胸痛といふのは、余程以前からでございますか、
○公 これはずつと十年も前からだ、ちよつと庭などを御覧になつて居る時に痛み出すことがある、すると側の者が、体を極めて力一杯に握り拳を出すのだね、それをずつと押し附けて居る、あゝもう宜いと言ふと癒つてしまふ、
〇三上 今日で申すと胃の痙攣とでも申しますか、
○公 いやどうも心臓のやうだ、御悪くなつたのは心臓の破裂でもしたのかと思はれる、どうもいつもにない今日の痛みはきびしいといつて、それ切りなのだから……、水戸の篤敬ね、あれがやはりさうだつたよ、心臓で折節胸が痛い、此くらゐの木の先に玉を拵へて綿を入れて、痛が起ると胸を押す、それが日光で……、今日は苦しいと言つてそれ切りだ、それを後で医者に聴くと、心臓の破裂だと云ふ、誠に同じだ、遺伝といふのでもあるまいが、能く似て居る、
○高田 其頃御前の御歌といふやうなものはございませぬか、
○公 其時分詠んだ歌が二つ三つあつた、
○高田 御記憶はございませぬか、
○公 三つばかり覚えて居る、
○高田 御記憶のございますだけ伺ひたうございます、
○公
泣く〳〵もかりの別れと思ひしに、ながき別れとなるぞ悲しき、
しばしだに君がをしへや忘るべき、我になおきそ露も心を、
けふよりはいづくの空にいますとも、心はゆきて君に仕へん、
○高田 それから文久元年の末に、大橋順蔵が、久世・安藤の両閣老を斬り、輪王寺宮様を奉じて日光に拠り、攘夷の旗挙げをしやうといふ計画を致しまして、御前を其謀主に仰がうといふので、御近習番の山木繁三郎といふ者を説いて、書面を御前に上らせやうとしました処が、山木は一旦は承諾致しましたけれども、後に後悔しまして、御家老か何かに其事を訴へましたので、大橋の隠謀が露はれまして、翌年の正月十二日に捕縛せられたといふことでございますが、それについて何か御聞及びになつたことはございませぬか、
○公 それは其通りで、山木繁三郎に書面を持つて来て……、家内の|実家《サト》が金満家だから、金も出来る、因つて斯く〳〵の企であるといふ書面、山木もこれは容易ならぬことだといふので、用人まで其書面を出した、それで大橋順蔵、山木も共に吟味になつたが、山木の方はどう聴いてもそれだけのことで、容易ならぬことだから出したといふだけのことで、それですぐに赦されてしまつた、尤も余程手間は取れた
○高田 其年の八月に町奉行所で赦されて居ります、それから間もなく九月五日に、御前の御素読御相手を仰付けられて居ります……、唯それだけのことでございますか、
○公 それだけのことだ、
〇三上 堀織部正の遺書は大橋が作つたのだといふことを、其頃から申しましたさうでございますが、
○公 一向知らぬ、
〇三上 近頃専ら言ふのですが、大橋順蔵は何か余程沢山他人の為に書いたといふことであります、「ふるあめりかに袖は濡らさじ」といふ、横浜の女郎の歌といふものがございますが、あれも順蔵の門人か何かゞ作つたとか言ひます、何か証拠を見出したいと思ひますが……
○高田 坂下の時の斬奸趣意書は、大橋が書いたのだといふ説があります、
○江間 坂下の一件には、大橋が関係して居るやうに見えますが、全く何も関係はないさうであります、唯趣意書を書きましたゞけださうです、あれは水戸と長州の結託上から来て居るので……、
〇三上 幕末に将軍家のことを、大君と言はうか、王と言はうかといふ議論があつたといふことでございますが、どういふことでございますか、
○公 どうも大君大君と言つたが、あれもどういふ処からなのだか、それは私ども知らぬのだ、仏蘭西のロセスはマゼステーと言つた、マゼステーといふのは何のことかと言つたら、これは帝といふことに当る、それはどうも帝ではいけない、英の公使はハイネスと言つた、ハイネスといふと、私は何か知らぬが帝ではないので、いはゞ其下に位する者で、閣老でもない……、
○阪谷 皇族に当ります、
○公 英の公使はハイネスと言ひます、どうしますと言ふから、私は外国語は知らぬが、帝といふことを言つてはいかぬ、ハイネスといふのが宜からう、それならばもう一向子細ない、処が閣老あたりは、どうもハイネスと言つてはいかぬ、やはり仏公使の言ふ通り、どうしてもマゼステーといふことにしたいと言ふのだ、それで私はそれはいかぬ、京都に帝といふ者があるのだからいけない、色々論があつたが、英公使の話をする際にはハイネス、仏公使はマゼステーと言つた、大坂などでやはりマゼステーと言つた、英の方はさうでない、大君といふことはどういふ何か、私も知らぬけれども……、
○阪谷 今皇室では、ハイネスは殿下と訳します、マゼステーは陛下 エキセレンシーが閣下になつて居ります、それで私どもが話をしますと、公使がエキセレンシーと言つて話をします、皇族が御出でになるとハイネス、陛下はマゼステーと申上げます、あれは何ではございませぬか、大君の上の人があるならば、其人々と応接したいといふことを申しはしませぬか、
○公 それは言つた、最初ペルリ、ハルリス、あれらの時分に其事を言つたね、やはりマゼステーと言つたんだらう、日本の帝といふことを言つた、処が日本では将軍といふ考があつて、総て政治はそれに任せてあるから、それと談判をしなければならぬと言つた、けれどもどうも解けない、何だか分つたやうな分らぬやうな風であつた、段々と長い中に、日本では斯ういふ訳といふことが分つたらしいのだね、それでやはり江戸で条約取替せといふことになつた、一体がむづかしかつた、どうしても向ふでは分らなかつた、帝といふ下にあつて、どうもそれがはつきりしない、
○阪谷 それで向ふの方では両頭政府と名づけまして、幕府は政権を持つた大頭だといふことを申しました、民部公子に渋沢が御供をして参りました節に、向ふでは丁度伏見宮殿下・小松宮殿下が御廻りになつたのと同じく、ハイネス即ち皇族の扱をしました、渋沢の書きました航西日記を読んで見ますと、大した向ふの迎接で、それは皇族で扱つて居ります、それが丁度それで宜い訳になります、将軍様の弟に御当りになりますから、向ふでは大切なる御客でございます、両頭でありますから、京都が一つの頭、江戸も一つの頭……、
〇三島 大君と言ふと、「おほきみ」といふ詞であるから、易に「武人為于大君」といふことがあるから、丁度幕府で、「武人為于大君」といふことで、其辺から来たのでございませう、
〇三上 新井白石の言ふ所は、日本国王源家宣といふと、京都の天子と紛らはしい、大君と言ひますと、日本では大君が将軍といふ意味で使つて居つても、朝鮮では王族の一つで、皇族外の者ださうでございます、それで朝鮮の方で日本王と言つても不敬でなくつて、対等の交際が出来るといふので、遂に王といふことに致しましたけれども、それは一代だけで、後は大君といふことになりました、
○江間 近頃よくあつちこつちで故老の話を聞くことがありますが、先年史談会で水戸の小瀬某と申します老人が話を致しまして、慎徳院様が小金の御鹿狩の時に、御前に金の采配を御授けになつたとか、御浜御殿で御前に、将軍家といふものは丸袖の襦袢は著ぬものだと仰しやつたとかいふことを、さもく見て来たやうに話しましたが、東湖の門人で八十何歳の老人だといふのですから、如何にも本当らしく聞えますけれども、其頃此老人はまだ一介の書生で、そんな処へ出られる身分ではないのですな、
○公 御浜御殿での話は、まるで形のないことだけれども、あゝいふ話の伝はつた種はあるのだね、一体幕府では、男が十五になればもう一人前だけれども、十五までは子供だから大奥へも出ることが出来たのだね、それで私が始めて登城した時だから、確か十一の時だつたと覚えて居るが、御伽の外山岩太郎を連れて、五十三間の菊の御花見へ出たことがある、其時岩太郎は下ざま風の裄の長い襦袢を著て居たものだから襦袢の袖が薯物の下からちら〳〵見える、そこで上ざまの短い袖を見なれて居る女中どもが、お前の袖はどうも長くて見ともないからといつて、剪刀を持つて来て岩太郎の襦袢の袖をぶつ〳〵と切つてしまつたことがあつたが、慎徳院様がどう斯うといふのは、多分こんなことから聞き伝へ言ひ伝へたのに相違なからうと思ふのだね、
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昔夢会筆記・明治四十二年十月十一日
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昔夢会筆記
渋沢栄一編
上巻・第一二O-一三七頁
大正四年四月刊
第六
明治四十二年十月十一日兜町事務所に於て
興山公
文学博士 三島毅君
豊崎信君
猪飼正為君
渋沢篤二
法学博士 男爵 阪谷芳郎
文学博士 萩野由之
江間政発
渡辺轍
井野辺茂雄
藤井甚太郎
高田利吉
○江間 昨日御次まで申上げて置きましたが、今日は二箇条ばかり御記憶のあらつしやる所を伺ひたうございます、あの長州征伐といふごとを仰出されまして、将軍様が是非御進発にならぬではいけぬといふことは、あの時有志家の輿論でありました、御前なども其思召で、既に度々御書面もあり、それから永井なども御遣はしになつたかの御意でございました、あの永井の江戸へ下りますといふことは、書面では見当りませぬ次第でございます、何かあるか知れませぬが……、全体あれは御内々といふやうな御使者に参りましたものでございませうか公然と御申付になりましたものでありませうか、
○公 あれは別に内々といふ訳ではない、永井は京都に居つた人で、委細を申含めて、是非御進発になるやうに申上げうと言つて、永井を下したまでのことで、内々といふ訳ではない、
○江間 其他に誰ぞ又御遣はしになつたことがありませうか、
○公 其他ちよつと記憶はない、会津の公用人、これも永井と一緒に卞つたか、又別であつたか……、
○江間 確かあの時は小森久太郎といふ者が……、
○公 会津の使者にも、京都を立つ前に逢つて其事を申含めた……、よく|彼方《アチラ》へ行つて其事が貫徹するやうに尽力しろといふことを申含めたが、それだけのことで、他にはちょつと覚はない、
○江間 すると小森は肥後守からの催促、永井は御前からの御催促で……、
○公 さうだ、
○江間 そこで其後に又会津が一度手紙を老中へ贈つて御進発を促したやうに覚えます、それから近衛様からも御書面を天璋院様の御側の老女に御贈りになりまして、天璋院様から将軍様へ御勧め申すやうにといふ意味で其周旋を御申遣はしになつたことがあります、其当時には薩州からも行きました、修理大夫の弟でございましたが、島津備後といふ者から天璋院様へ書面を差上げましたことが、或記録に見えました、けれども天璋院様も流石にあの時分の諸役人を憚られまして、遂に近衛様の書面といふものは、併せて其意味も将軍家へは御示しになることが御出来遊ばされなかつたさうでございます、又其当時に尹宮様から、津・芸州・久留米・肥後・薩摩、此五藩に内命がありまして、江戸の方へ下つて来て、すぐに幕府の有司に説いたのであります 因循して機会を失つてはならぬから、是非にといふことを申上げた処が、これも遂に有司が用ゐぬといふ有様であつたさうでございます、それで私考へて見ますのに、かやうに京都から間接に御催促が頻に参つた動機はと申しますと、前回にちょつと伺ひました、御前が尹宮様へ御出でになりまして、かねがね朝廷の御沙汰といふことで、将軍を早く進発させいといふことに仰出されるであらうとの御内意に対せられまして、先づ御待ち下さい、朝廷を煩はし奉らぬでも、手前どもから一つ骨を折つて勧めて見ますからといふことで、一時御断りになりました、処が段々今の通り御申遣はしになりましても、書面も受けなければ、肝腎の御使者の言ふことも行はれないといふことになつて、機会が益逸してしまひます処から、其後又御参殿になりまして、もう此上は仕方がありませんから、御内沙汰ぐらゐは又願ふことになるかも知れませぬといふことを申上げて、御下りになつたといふことだけは、前回伺ひました、それで斯うなつて来ますと、近衛様から老女、尹宮様からどうと、今度は彼方へ向けて朝廷の方から頻に催促をなすつた、つまる処、願ふことがあるかも知れぬと言つて御下りになりました後です、もう仕方がないから、どうぞ御沙汰になるやうにといふ御内願でも、御前から出ましたものでございませうか、
○公 そこは能く覚はない、判然と覚はないが、あつたかも知れない
○江間 何か願ふやうになるか知れませぬ、誠に困つたものでございますといふことが、宮様などの御耳にはいつた後でありますから、唯何ともないのに、それでは|此方《コチラ》から遣らうと……、確にそんな御運動があらうとは思はれませぬ、殊に阿部豊後守が出て来ました時には、関白様から、早く帰つて将軍を出せ、委細承知しました、帰つてさういふことに致しませう、そこに至つて始めて朝命になるのですな、今の近衛様から人を以てといふことは、先づ幕府の注意までに御申遣はしになつた、斯う見て宜い、どうも私の考では、もう仕方がありませんからどうぞ朝廷から御沙汰の下りますやうに御願をするといふくらゐのことは、御口上がら、ありましたことだらうと思ひます、
○公 まああの時分の周旋方といふものは、江戸の方へ斯く〳〵の用があつて参りますからと申上げると、此事は斯く〳〵だから周旋をしたら宜からうといふやうなことは、毎々あることだ、或はさういふ御沙汰があつたかも知れないよ、
○江間 それから関東の有司が、強ひて将軍様の御進発を拒んで、其中にはどうかなるだらうといふやうな関東流儀で、あの大事を姑息にして置くといふのも怪しからぬ話ですが、どういふ訳であらうと、段段研究して見ますと、将軍様がすぐに御進発といふことは、格別議論はなかつたか知れませぬが、唯関東の憂ふる所は、将軍が御上京になると、前の通り京都に止められて、江戸へ御帰りなさらうとしても迚もいけない、先づ体の宜い人質のやうになつてしまふ、さうした時分には、関東の御威勢といふものは衰弱してしまふ、それでは御家の為にならぬといふやうな考から、頻に止めたのであらうといふやうに書きましたものがありますのですけれども、これは甚だ薄弱の考でございまして、どうも何か他に理由があるであらう、京都の方へも、いづれ永井が参りますにせよ、御書面の返事にせよ、何か申遣はしたに相違なからうと思はれますが、何か此外に御順延になります理由とも見るべぎものはございませぬか、
○公 それは専ら役人どもの頭に、なに進発すると言へば、長洲は降参してしまふことは目に見えて居る、進発すると言ひさへすれば、もうそれで片附くと、斯う見て居たのが第一のやうだ、藩士などは一番軽蔑して居たものだから、なにあんなことを言ふけれども、進発と言へば、もうそれでべた〳〵と閉口してしまふといふ議があつたのだ、それだから先づ行つて、一つ向ふの様子を見るといつたやうなことがどうもあるのだね、
○江間 其有司中で、あの時の老中は残らずは記憶しませぬが、勝海舟の書きましたものに依つて見ますると、どうしても巨魁と見るべき閣老は、諏訪因幡守であるといふことを書いてございますが、成程あの人は祖宗の御法度といふ方の主義で、|極《ゴク》おめでた主義の人のやうに私どもは見聞して居りますが……、
○公 さうだ、あれは其方の派の人だね、
○江間 誰ぞが関東の事情などを申上げました折に、どうもあの男がどうしても承知せぬ、あれがなか〳〵納得せぬといふやうなことが、御耳にはいつたことはございませぬか、
○公 さういふことは別に聞かない、幕府一体に、物を費して親征するまでもない、唯進発すると言つて置けば、それで向ふで閉口して事が済むといつたやうなことがあるんだ、それに藩士を大変軽蔑して居るんだ、それでどうもいけない、
○江間 其引続きで、尾張老侯が総督で広島へ入らしつて、それで間もなくあゝいふ御取扱で済んでしまひました、其まだ済みませぬ少し前に、松前が老中になりまして、なりました翌日に長州行を命ぜられました、どういふ訳のものか、長州の方は御案内の通り稲葉閣老が専務であります、それに又松前が長州行を命ぜられました、其意味といふものは、水戸人の書きましたものに依りますと、幕府の有司は一時長州と媾和をする、将軍進発と発表すれば、御意の通り皆もう萎縮してしまふと思つたが、なかなか萎縮しない、総督が副将がと言つて、ぽつ〳〵足を挙げて見ましたけれども、頑乎として居る、それに朝廷の方からは頻繁の御催促といふやうなことで、もう已むを得ませんから一時媾和を申込んで、其媾和使の意味で松前が長州行を命ぜられたのである、そこで松前は三日目に立ちまして、岡崎まで行きましたら長州の片が附いたといふ報に接しまして、それで済んでしまつたといふことが書いてあります、或は何かそんなことがあつたものでございませうか、
○公 それはどふいふものだか、事実如何のものだか……、此方から媾和をするといふのは如何のものだか、
○江間 それが実説として見ますと、如何にも唯故なく将軍様を御放し申すのが差支へるといふやうな、誠に薄弱の議論であらうかと思はれるのですが、よもやそんなことはなかつたのでありませうな、
○公 どうも全く様子を見て言へば、向ふの方から必ず|謝《アヤ》まるといつたやうな考が大趣意のやうだ、
○江間 今一事伺ひます、あの武田伊賀の一条でございますが、あれが元治元年十月二十三日水戸を脱走して、段々に上方へ出て来ました結局は京都へ上つて御前に御目に懸つて、さうして歎願するといふ申立でやつて来まして、遂に美濃まで参りました時分に、あの党の中の鏘々たる三木左太夫・鮎沢伊太夫といふ二人の者が、美濃路から密に同行の者と途を異にして尾張に抜けまして、さうして十一月の朔日か二日の頃に、京都へはいつて潜伏したといふことがあります、そこで何しに二人途を異にして行つたかといふに、一同より先へ京都へはいつて居て、彼の地で何かの内訴等を致し、総ての周旋をする積りであつたやうに思はれます、両人のはいりましたことは明でありますが、其当時に何か内訴やうのことがありませぬでございましたか、
○公 其時に京都へはいつたといふことも、とんと聞かないことだよ どういふことか、ちつとも知らぬことだ、
○江間 尤も此前月に、まだ水戸で頻に騒いで居る中に、京都では本国寺党の手からでもありましたか、会津の手代木を以ちまして、水戸の正義党の御処置の寛大といふことを内願しまして……、是非取次いでくれといふことを頼まれたからといふので、会津の公用人から尹宮様へ申上げたことは確でございますが、さういふ工合にして段々|彼方《アチラ》へ運動をして居ましたのですから、何か三木と鮎沢の行きましたことについては、御前へ内訴を申上げたかも知れぬと存じましたから伺ひました、
○公 ちつとも知らぬ、鮎沢・三木の来たといふことも少しも知らぬ
○江間 尤も三木・鮎沢は平素から御承知で……、
○公 それは知つて居る人だ、奸党といふ方ではないから、それは能く知つて居る、
○江間 其引続きで、結局加賀で降伏をしまして、巨魁を合せて三百五十何人といふものを斬罪にしましたのです、あれは今日から考へても、其時に身を置いて考へてもどうも酷に過ぎて居はしまいかと考へますが……、
○公 あれはね、つまり攘夷とか何とか色々いふけれども、其実は党派の争なんだ、攘夷を主としてどう斯うといふ訳ではない、情実に於ては可哀さうな所もあるのだ、併し何しろ幕府の方に手向つて戦争をしたのだ、さうして見ると、其廉で全く罪なしといはれない、それで其時は、私の身の上がなか〳〵危い身の上であつた、それでどうも何分にも、武田のことを始め口を出す訳にいかぬ事情があつたんだ、降伏をしたので加州始めそれ〳〵へ預けて、後の御処置は関東の方で遊ばせといふことにして引上げたのだ、
○江間 あの時は総大将が田沼玄蕃頭でございました、あの方から所謂処刑をするといふことについて、何人は遠島にするとか、何人は斬罪にするとかいふことは、別に御前の方へ御相談といふことはございませぬでしたか、
○公 それは相談はない、唯斯く〳〵降伏したといふことを江戸へ言つてやつて、江戸からは、田沼玄蕃頭を上京させて御受取申すから、其事を申上げると言つて受取に来た、それで田沼玄蕃へ降伏した者を引渡した、それで此方は全く手が切れたのだ、そこで田沼が斬罪か何かにやつたと斯ういふ訳だ、
○江間 それで能く分りました、実は幕府と御前の御間柄が、ずつと意思が能く通じて、唯場所を異にして居るといふことに考へますと、是非御相談がなければならぬことのやうに思はれます、
○公 江戸の方では、武田が私等と気脈を通じて居ると斯う見て居るのだ、処で此方から何かいへば、そらといふ訳になるのだ、そこで余程どうもむつかしい、それで降伏するまでの手続はちやんと附けて、それ〳〵加州始めへ分けて預けた、で田沼玄蕃が受取に来るといふから、それを待つて、玄蕃が来た処で田沼へそれを引渡したのだ、御引渡し申す、受取つた……、それまでゝ此方の手は切れた、それから後の処置は田沼がやつたのだね、
○江間 あの時には確か民部様が総大将として、御前が御補助遊ばして御出張になりましたな、
○公 さうだ、連れて行つた、
○江間 これはもう済んでしまつたことですが、若し其時に、向ふも禁闕へ上訴するとかいつて、威張つてずん〳〵出て来ますると必ず衝突する、衝突したら段々御諭しになりませうが、万一聴入れませなかつたら……、
○公 それはもう其時にあつたのだ、それで原市之進・梅沢孫太郎等を皆|彼処《アスコ》へ連れて来た、即ち武田党の者だ、それで今度斯く〳〵の訳で闕下へはいつて歎願するといふことだが、一体其者が罪のあるものか無いものか、何しろ情実はある、色々情実はあるけれども既に幕府の兵と戦つて見ると、どうも罪なしといふ訳にはいくまいといふ処でどうも仕方がないといふことになつたのだ、|□□《スイジユン》もどうも情実もあり色々だけれども、幕府の兵と戦つて見れば、即ち幕府へ敵対をしたのだ、どうも情実はあるけれども、致し方がないといふことになつたのだ、それで私の考には、若しどうあつてもいかなければ、武田耕雲斎も知つた者だし、|□□《スイジユン》をあげて申上げなければならぬとして説く積りであつた、さうして片をつけやうといふ見込で出たんだ、処がもうそれまでゝなしに、向ふから降伏するといふことだから済んでしまつた
○江間 あれは大変御前の御仕合せで……、
○公 むつかしい処だ、
○江間 もう一つ伺ひますが、海江田武次の実歴史伝といふものがあります、其中にちよつと面白いことがあるのです、日下部伊三次……水戸に居りました……、其日下部が、
将に京師に赴かんとして一日一橋公に謁せしに、公又国詩を贈与せり、此時公は幕譴に触れ幽居中に在るを以て、其意を寓する所あるものゝ如し、曰く、
これは古歌のやうに覚えますが、
後ついに海となるべき山水も、しばし木の葉の下くゞるなり、
かやうに書いてありますが、これを御記憶あらつしやいませうか、殊に御直筆だといつて、こゝに石版刷にしたものがあるのです、
○公 それはいつのことだらう、
○萩野 密勅を賜はる時の運動に出掛けましたので……、
○公 密勅の出た時は私は謹慎して居たらう、
○江間 さやうです、そこにもさう書いてございます、
○公 それはないやうだね、謹慎中どうも人に歌を書いて遣るなどゝいふことは決してない、謹慎は余程厳格であつたから……、
○猪飼 なか〳〵御謹慎中に御歌を賜はるなどゝいふことはございませぬ、君側の者でも、格別御話をしたこともないくらゐ、実に歯痒い程でございました、僅ばかり戸を御|透《スカ》しで、御上下でちやんとなすつて、誰に御逢ひなさるといふこともないくらゐですから、物を御遣はしになるなどゝいふことは、決してないことゝ思ひます、君側に居つた者でも、さういふことに関係したことはないのです、御前に居つても無言で居るくらゐでした、
○江間 日下部が、かやうなものを戴いて来た、御目に懸つて来たと言つたのでありませう、其時のことを海江田が記憶して居つたのかも知れませぬ、
○阪谷 枢密顧問の海江田ですか、
○江間 さやうです、自分で書いたのではありませぬ、話をして人に書かせたのです、
○公 併し此書はどこか自分で書いたやうな覚がある、
○江間 それは御謹慎中でなく、外の時に拝領したやうなものではありませぬか、
○阪谷 さうでせう、時が違つたのを記憶違ひでせう、
○公 いづれにしても謹慎中に遣つたことはない、或は又外の人に遣つたのかも知れぬ、どうも自分の書いたやうな処がある、
○江間 其頃一橋様といふ御名前は、総て有志の間に望を属されて居つたので、御目に懸つて御歌を拝領したといふことになりますと、履歴上余程日下部其者が重みが附きますやうになりますから、利用したのでありませう、
○阪谷 どこかで其歌を又頂戴したものと思はれる、短冊は真物だが御謹慎中に日下部に遣つたことはないと仰しやると、日下部がこれを利用したものとすれば、其当時有志奔走の状況を見ることが出来る、
○渡辺 御前が日下部に拝謁を賜はつたことがございますか、此時の外にでも……、
○公 全く無い、
○江間 日下部は一書生です、それがすぐに一橋公に御目に懸つて、色々御意を頂戴したといふのは怪しい話です、
〇三島 昔階段のある世の中に、一書生が拝謁・御歌頂戴などゝいふことはないことだ、
〇公 昔薩摩の人に逢つた時に困つたことがある、話をしても言ふことがちつとも分らぬ、向ふでは一生懸命しやべるけれども、少しも分らぬ、何とも答のしやうがない、唯ふん〳〵と聴いたけれども、善いとも言はれず悪いとも言はれず、甚だ困つた
○阪谷 御使者にでも来たのですか、
○公 やはり国事のことで……、
○江間 京都での御話ですか、
○公 確か京都だつた……、小松でも海江田でも吉井でも、それは話が能く分るが、其人のはちつとも分らなかつた、薩摩人の次に詞の分りかねるのは肥後人だ、これはどうも余程分らぬのがある……、外国人が日本語で話をするのも実に閉口する、彼方の詞だと分らぬと言へば向ふも止してしまふが、日本語で話すのに分らぬとは言はれぬ、向ふが一廉出来る積りで得意に話すのを、分らぬではどうも気の毒で、あれには誠に困る、
○阪谷 駿府の方へ御退去になりましてからは、別に国政上のことにつきまして申出ました者はございませぬか、
○公 少しも……、
○阪谷 あの時世でありますと、もう一遍御出掛を願ひに行きさうなことが沢山あつたやうですが、
○公 誠に昔のことを知つた人がなくなつたね、四五人寄つて其時分の困り話でもすると余程面白いが、さつぱりなくなつたね、
○江間 さやうでございます……、昭徳院様御上洛の時に、場所は失念致しましたが、松か何か御手植になつて、宿屋で珍重して居る趣でございますが、あの頃そんなことは珍らしいことであつたでございませうが、御前の御手植なんといふものはございませぬか、
○公 どうも無いやうだ……、植ゑたことは二三度あるが、静岡では無いやうだ、
○江間 あの水戸にあらしつた時分のことですが、御上りになる御膳の上の御百姓、あれは御子供衆まで皆附きましたのですか、
○公 あれは烈公の御趣意で、残らず一つづゝ附いて居る、被り笠を百姓が仰向にして持つて居る、それが膳の上に載せてある、自分の食べる前に、飯を五粒なり六粒なり取つて其笠の上に置いて、さうして御飯を食べる、農は国の本といふことを、子供や何かに教へる御趣意のやうだ、
○江間 それを先刻御話しました展覧会に、誰か摸造したのがあるのです、摸造では有難味が薄いのですが、御手許に本当のがございますまいか、
○豊崎 それはありませう、
○萩野 好文亭でそれを摸造して居ります、
○公 本物は青銅で、烈公の御書判がちやんと押してある、
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