○無常虎声近耳不覚雪山鳥出巣速忘と。先徳の御釈に示し置かれた。無常の虎とは大集経の御譬て。人ありて山中に行きかかり。遽に虎に追われ、足に任せて逃る処に。思はず深い井の中に投りたが。おりふし藤の蔓のさがりたをしっかりと握り。其を力にして居るところへ。見れば上には虎が来て頻りに吼る。下もを見れば大蛇が紅の舌を巻かへし。水底に腹行る。堕たらば呑ふとする勢ひ。さてさて怖ろしひ事かなと。いよいよ藤の蔓をたのみに爰を大事と縋り居る処へ。どこともなふ黒鼠と白鼠が。かはるかはる来て藤の蔓をかじる。此の人其を見て。さても悲しや若しこの蔓を喰い切らるると。直に大蛇に呑まるるが。是は何とせふぞと仰天して怖れかなしむとあるは。余の事ではなふて。即ち今日人間の分野。無常の虎に追るるとは。念々壊滅《えめつ》の無常にうつされて。生住異滅とかはりゆく姿。老の坂上り上りてあと見れば。いしがぬ道の先のちかさよ。然るに井の中に落ちて藤の蔓にとりつひたとは、未だ無常の烈しき風にもさそはれずして。我身あり貌の体は。露の命の藤の蔓一つを頼みぢゃ。処へ黒白の鼠と譬られたは。夜と昼とのこと。夜が昼になり昼が夜になりて。せんぐりせんぐりに移り換て命の促るを。鼠が藤を齧るに比させられ。水底に大蛇が待ち受けるとは。三悪の火坑臨々好入と。衆生の命終るを。地獄の獄卒が今やをそしと待かけ居るに比させられて。暫くも弓断《ゆだん》のならぬ世態を。無常虎声近耳と仰せられた。

 

 

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