『史談會速記録』第三百十四輯(大正一〇年四月二五日発行)


○勝伯 (は手を以て形容して)此れ程横文字の書いたものがある、細かいものである、皆な寫したものだ、お目に掛けやうか、

○寺師君 夫れは拜見を、

 「此時伯は侍女に命し謄寫の洋書卷數冊を取出し示さる」

○勝伯 是れである、能い手の者は其時は一枚一朱も二朱も取つた、私等は悪筆であるからさうは取れぬ。勢一盃で一朱位

○寺師君 伺ひますが元治元年九月頃西郷が神戸にてアナタを始めて御訪ひ申し兵庫開港の事を御談申上けたことがありますか、

○勝伯 ……(伯此時日誌を朗讀せらる)……此時だらうよ、

○寺師君 西郷は一人で來たのでありませうか、

○勝伯 さうでない、誰か附いて來た、

○寺師君 夫れは何年何月でありますか、

○勝伯 元治元年九月十一日ー(此時朗讀せらる)…斯ふいふ事を皆な言つて居つたのだ、けれども何も定めずにベラバウな奴だ、今の改革位なものだ、此時はあたしも若くて魂氣が宜いからネー、極く秘密な事は毎日の樣であつた。其時であらう西郷もソンな説であつたのだ。

○寺師君 さうすると誰が御紹介申したのでこざりますか、

○勝伯   アレは手紙をよこしたー堤だろうと思ふ

○寺師君 堤正誼でござりますか、

○勝伯 アレは春嶽の家來で春嶽の家來は一生懸命で居つたー(此時伯又書册を出されて)ー此書は二部を三年半て寫した、一部は自分で夜、偸み寫しにしたので小い本は藏に幾らもある、錢が無いからインキを自分手で拵へたもので、私が拵へたのだ、錢が無いから能く拵へる事が出來ぬで、夫れでソンなに淡くなつた。私は其時は寢床を取つて寢た事はない、親爺は亡くなり、母は煩ひ私が米なども買はねばならぬ、親爺は活潑な人で家計に搆はぬから恐ろしい借金をして死んだ。四十俵の祿で出しやうもなし、借金で責められて、其中でやるのだから書は筆耕を書かねばならす、夫れから夜米屋へ行つて私が買つた、私が善くなつて米屋は驚いた、三合二合宛買つた、私も筆耕で濟む積りではなく、やる積りであるから、善い本を買へぬが、大名などが筆耕を書かせる、晝は誂を書いて夜は偸み寫しをして自分のものにしたものでゴー〳〵と言つて寢たことはない、机に椅り掛つて寢たので(此時伯着衣を引かれて)コンな着物を着た事はない、劔術遣ひの上りで筒ツポで、綿入は二十二三まで着ない、紙か抔の蒲團を敷きて、ランプはない油火で、誰も私に交際する者はない、親類も善い親類がある、親爺の方の親類は皆宜かつたが、皆がお前も親爺が死んだから勤むれば口を利いてやらうと云ふ者があつたが、何分私は和蘭學を貫かうと思つて居つたものであるから聞かぬ、親爺が剛情であるから親爺の剛情を受けて悪い所が似たと言はれることで、お前は夫れで宜からうがお母さんをドウするとてやかましかつた、其中に私は誰れにも習はすに本を寫し〳〵して達者になつた、其中に流行つて來て筆耕に寫させる樣になつた、薩摩でも此時代には善い本が買はれぬものである。ソコテ大名は幕府に願つて天文臺の善い本を拜借することが出來る。其中に誦讀したり寫したりする、家來にさういふ者が無いから、人に寫させるか、譯させるか爲した、其時人の惡い者は質に置いたりする、書生は昔しもさういふものだ、蘭學をする者は醫者より他にはない、──夫れは大變なもので今の樣な樂なものでないぜー(此時又寫本を示さる)此も薩州から來たのだ、フンダクッテ寫した、私は本を質に置いたりせぬ、手は惡いか正直にした、私共は一枚一朱位なもので、中々夫れは書けないよ、本が出來上ると時々向ふから取りに來る、薩州からは野村源八とか云ふ奴が使に來た、此時分はヒドイ中で錢が無いから天井もブツコ拔いて、母の所は疊を敷きてあるが私の所は二疉しかない、何時行つても斯うだから魂氣の善い奴と云ふことを聞いて薩州では一朱かよこした、夫れは此時分より順聖公は知つて居らる、順聖公の氣入に三浦青山と云ふ畫家と高橋と云ふ城坊主がある、三浦青山は狩野の書家で佐久間抔は迚も適はぬ人物で、佐久間などが困まることがあると青山を呼んで來いと云ふことである位、大名には出入の坊主かある。内の來客抔にて手が足らぬときは出入の坊主に周旋させる、三浦は畫家であるから鹿爪らしいものでない。是れは大變な人物で順聖公の御氣に入りであつた、此兩人は大名の内に出入するから夫れでアタシは此兩人の手より順聖公に知られたのである、私も始めはさういふ譯で、知らず居りしか夫れがドウかして私共も懇意になつた、コチラは知らなかつたけれども飯の食へない中から、順聖公は私を見て居つたものであるから、如何にも魂氣が善いものぞ、雪が降つても寒い抔と火鉢にカヂリついたことは覺えない、けれども身分が輕いから行く譯にも行かす、其中に長崎で傳習と云ふ事になつて、其時分は百両位は御手當もあつて、夫れから御目にかゝつた、其時吉之助と云ふ者が居ると云ふ話もあつた、順聖公から吉之助なる者を聞て居るので、御紹介と云ふ樣な事はない、言はず語らずに、さうして元治の此時に始めて會つたので名を知つてから十年も經つてからである、順聖公のお話にお前の所へは江夏十郎から文通させ、江戸へ行けば井上宗八郎に申付けて居いた、他の者には話すなと云ふ事である、又鹿兒島灣臺場の事もドウすれば宜いか、お前の了簡でお前からよこして呉れと云ふ事で、あつて其通りになしたが、アシは半途でよしたので、島の樣な所があるアレにも砲臺を造るのであつた。今日只今幕府で允しはせぬ、軍艦などを拵へるにも私に手紙をよこされて、私と直談である、さうして表向は願出で舩の來る比に願が濟む、さうすると時を費さすして直きにコチラに來る、私ならば通辯は要らぬ、さうして舩將などに引合ふ、故に一々會ひはせぬ、野村源八とか言つたが夫れは大概一日置き位に薩州から話に來た、夫れは私の所へ出入したは早かつた、高田藤五郎と云ふ鹿兒島人があつた。夫れは十年もアスコを追出されて居て江戸ッ子になつて居つた、夫れは方々の用人なとをして居つた、夫れは鹿兒島で悪い事をして出されたと思つて居つたが、夫れは順聖公がさうしたもので、夫れから相良、是れは長崎に家を持つて居つたが、其相良が白状した、あたしがかくして居るは實は是は主人が斯うしたものでありますが、其時の事を知つた者はありませぬ、今比此事を主人に達したいものであれども道がない、アナタは幸であるからと云ふ事で夫れを船へ連れて行つて、輕輩であれども順聖公に會はせてこれを申上けしに、オー〳〵さうだつたけと言はれた。今の探索の樣な直くに言付けるとか云ふ樣な馬鹿なものでない、夫れ故に出來損つた者もあらう、出して向ふへ入れ込んで探索させたのである、相良は八年も音信不通であつたと聞いたが當時の政略と云ふものはさういふ深いものだ。

○寺師君 高田、相良は齋彬公の命で脱藩したものでありましやうか、

○勝伯 ソー、相良は長崎で女郎か何かを妻にして居つた相良の詠んだ歌があつたが、如何になつたか、

○寺師君 相良の身分は如何の者でありましたか、

○勝伯 ヘコか何かで、相良の事を薩州人に聞くとアレは國て悪い事をした者であるから私共は會はぬ杯と皆が言つたもので、國家の事はさういものである、高田は田中市郎右衛門の家來になつて御一新後に一度來たと思つたが、夫れから死んて仕舞ふた、薩摩を出てから十年も經つたと聞いた、私より年を取つて居つた、夫れから伊賀とか云ふ者もありて、夫れ等も順聖公に言付けられた抔と言つて居たが、夫は本當でない。又先生は眼が高いからソンな者は取合はぬ、高橋は御一新前に死んだ、書いた者もあつたが惜い事をしたよ。三浦青山も死んで仕舞ふた、是れは大變に順聖公の知遇を受けて居つた、私が長崎から歸つた時は生きて居て私に話した、其時己れは畫家で薩の奥にも行き居つたが、公は斯ういふ所に目を着けて居られたと云ふことを話した、

○寺師君 三浦の話は如何でありましたか、

○勝伯 順聖公の事をアレ程の人は無いと言つて居つた、高橋などは大變に服して居つた、夫れ故に决して口外する樣な事はない、城坊主は舊幕の御老中部屋へも出るから幕の秘密は皆な知れて居る、私が鹿兒島へ行つて順聖公にも引合つて來たものであるから秘密を話した、夫れで大きな人だと感心した、幾ら探索しても分らぬ、今の探索して分る樣な者は智慧が足らぬ、鹿兒島にもアレ丈け人が居つても順聖公の内心は知らぬ。西郷は獨り知つて居る、アレは國情があつて身分の低い者を急に取立てる事が出來ず、又さうしては當人の爲めにもならず、其儘に置かれた、其深慮には感心した、西郷ほどの者は取立てゝ貰ふても喜ぱす、庭造りで居て機密に與かるから一生懸命にやる、唯吉之助と云ふ者があると云ふことは仰つた、お取立てがありますかと云ふと、今取立てゝは功を成さぬと言はれた、西郷は椽側に來て南天を切るとかアノ木を移すとか云ふ事をして居るものであるから、國の者は誰も知らぬ筈であるので反て機密を申付られてある感心なものである、私共は鹿兒島に行つた際に石抔を抛り附けられて困つた、兵子が屋根から石を抛つて仕樣のない奴だ、我等は少々の事は致方はないが、蘭人に疵を附けてドウする。後に順聖公に鐵砲を打込と思ひましたと云つたら、公はアレで宜い〳〵と言はれた、夫れでピツクリした、アレ等はアレでどうかなると言はれる、二度目は自分で皆なを連れて歩かれたもので、兵子抔は一人も居なかつた、ドウだい其考へは出來るか、僅かの同志を集めてドウ〳〵などゝ云ふと較べらるゝかい、

○寺師君 さういふ乱暴をすると鐵砲を打込むとアナタがおつしやつたので……、

○勝伯 さう、さう申すと公は打ちやつて置け。どふかなると仰しやつた、後に此時の事を話して大久保利通などに此の事を言つてアナタは開化だ、私に石を打附けたからと云ふと大變に困つた、二度目に鹿兒島に行つた時は家老始め大身分の者共馬鹿で困るから船を見せて呉れと云ふことで四十人も來た、其時久光公も來られた、其時久光公を指し是れは私の弟だと云つて引合せられた、これが公の政略である、舩は珍らしいから行つて見よと言つて、夫れで内々我等に諜合せて外國は斯ういふものであると云ふ事を言はしめたのである、我共は急にいかぬと云ふ事を言つて聞かせた、夫れは家老連は分るか、後との兵子組は分らぬ、ドウだい、自分でやる、公は何も己れがやるから家來に無理にやれと云ふ事は言はぬ、アーいふ所はさうでなければならぬ、先つ山川の港に舩を入れた──アレは薩州から八里程ある、アスコは私が始めに船を入れた處である、時に順聖公は近隣の温泉へ御出であつたが、來たと聞かれて馬上乘切つて來られた、船より見るに山陰に金の笠が見えるかと思つたが果して公であつた。夫れから使者を御遣はしで鹿兒島に行けと云ふことで家老新納を遣つて不始末の無い樣にするがと云ふことで夫れから鹿児島に行つた さうすると兵子が石を抛つて困つた、始めは端艇で岸に着きしに兵子か水の中に飛入りてトウ〳〵船を岸に推上けた。岸に上りしに遠くから石を抛つて困つた、我等のみでなく教師の蘭人もあれば疵を附けられて面目を失ふから引返へした、夫れから手紙が來た。誠に不始末であつたからモウ一度蘭人を連れて來いと云ふことであつた、最も行くまいかと言つたか、蘭人が「プリンス」が斯く親切に云ふから行きたいと云ひて再ひ行つが、今度は公か自分で導かれて磯に行つたが、今度は兵子はどこに居るか知れなかつた、其お手際は恐入つたものである、

○寺師君 太層懇篤な書附を出されまして其粗暴を戒められましたので、夫て辟易して仕舞ひました、

○勝伯 可笑しかつた、吉井に君等は石を抛つたと云ふ話をすると己れは其時は居らなかつたと云つて大体を言譯した、大久保は近侍か何かで、立派な若衆が居つたが、アレは西郷の御母の里で何とか云つた、何でもアレだよ、逢つたが其時は若衆である、

○寺師君 齊彬の死なれました後と云ふものはドウいふ成行であましたか、

○勝伯 江夏十郎は軍艦の誂へを私に頼むの御用で長崎に來て居つた、其留守に順聖公が大病と云ふ知せでは本當に腰が脱けたよ、私は醫者に希那鹽を貰ふて江夏に持たせて遣つたか間に合はなかつた、薩摩流儀であるから順聖公の使つた者は皆放逐して仕舞たが改革の端棒で騷いで居つた、順聖公に死なれた私は大變に迷惑した、軍艦を二艘も斯ういふのが宜い、アゝいふのが宜いと言つて蘭人に相談し圖面を作りて内證で私が蘭人教師に託して誂へてやつたが、夫れをは只斷るのだもの大變に迷惑したよ、

○寺師君 幾らほどの代價見積でありましたもので、

○勝伯 一艘五萬兩宛、三十二間の舩であつた、これは余り大きくては不可ぬ鹿兒島灣などに自由にする樣に態々誂ヘた、

○寺師君 二艘でありますか、

○勝伯 さう、二艘一時にも出來ぬから彼是總体で十七八万兩あれば出來る積であつた、夫れを斷はるのに困つた、先代が死んだからと云つて斷るのだものを。さういふ馬鹿な事を言はるゝものか、

○寺師君 齊彬公が死なれて程經つてゞありますか、

○勝伯 餘程經つてから斷つた、

○寺師君 ドウいふ風にして御斷りでありましたか、

○勝伯 あすこの奴は分らぬ奴で、御先代は凄い人であつたが後々は仕樣の無い奴と云ふ事の事情を話して、拵へても金が出るかドうか分らぬ、着手したかドウか、私の實に困まる事を察して公儀に持出さす、公儀に出せぱ私は處刑になるので、ソンな事も知ずすに薩摩ッペはヒドイ事をする、

○寺師君 其時の使は誰でありましたか、

○勝伯 江夏十郎、斯ういふ譯で私も面皮もないことであるが、さて私も放逐されると涙をこぼしたよ……夫れから私は御先代の風を改むるは悪るからうと云ふ事を久光公に言つて遣つた、

○寺師君 コチラから御遣りの手紙はありますか、其主意は、

○勝伯 御先代が死なれてアナタが爲さるゝであらうが、改あてはいかぬと注意である、

○寺師君 江夏十郎がお依頼したので、

○勝伯 さう、井上正太郎は反覆したと見えて出て來ぬ、

○寺師君 夫れから鹿兒島と事が斷絶でありましたか

○勝伯 さう、相良は長崎に來て居たが、相良の話に江夏が先代を瞞かしたとヒドク 悪く言つた、

○寺師沼 夫れから鹿兒島と關係なしでありますか、

○勝伯 さう、江戸に歸つてから柴山矢八郎と申者と懇意にした、同人は留守居で、夫れがあつたか、慶應三年の末に芝田町の屋敷を燒いたことがある、アノ際に捕はれ評定所にて未だ調のない内にピストルで自害した、夫れで道が絶えた.新納駿河守などは牲來して居つたが、新納は善い人であるから齊彬公が使ふた者で、夫れから私は小松帶刀に懇意になつて、夫れは餘程後で─私が軍艦奉行になつた後で、コチラへも能く來た、アノ人は善い人であるから幕府でも大阪の城に呼んで、アノ人も薩州の事を嘆じて居つた、夫れで帶刀も私の事は知つて居つてアナタは錢がない人であるから金の事は私はドウでも繰合すと云ふ手紙がある、順聖公は金は呉れぬが馬などは幾らも遣ると云ふ事で、手許から金は貰はぬ、夫れから久光公も古い知合であるから先生が志を得てからもコチラを悪い者とも見られぬ既に明治六年に連れて來る時も私が行くと來やうと云つて來られた、ドウだい夫れで分ったか

○寺師君 分りました、

○勝伯 順聖公は國家を善く仕やうと云ふ精神でやつたので、久光公も矢張り其説であれども力が足らぬからアーいふ大仕事はやれぬ、久光公を頑固などゝ云ふが、何頑固な者か一番早い、さういふ所以を薩縻人は皆知らぬネー、薩摩人は疑ぐりが深くて五年も交際して騙かした抔と云ふ私は鹿兒島人にヲンブした事もなく終始一に交際して居るから鹿兒島人に懇意になる、此方は薩麼人が斬ると云つても懼くはないもの、ドウしても齊彬公は國を興す人であると私も思つて居つた

○寺師君 幕府では阿部侯が齊彬に依られたものでありますか、

○勝伯 阿部は薩磨に依つて居つたもので、容堂も居つたけれども容堂位ではいかず、閑叟はコスイ男な.り、私などは船乘りであれども、大久保一翁などは其時監察であつて御伺を致して居る、公の御話に京都と大名は私が引受けてドウでもすると言はれた、ことがあると話した、度量が大いから只の人には見えないよ、

○寺師君 登城された際には、大久保さんなどと機密のお話があつたものでありまするか、

○勝伯 御城には御三家の御部屋があり諸大名も各々部屋かあつて、他人は一寸も行けない、使を遣つて監察を呼んで誰殿に會ひたいと云ふとソコまで御老中が出て來る、夫れは嚴刻なもので、今の樣に宴會などヘフラ〳〵行かぬ、屋敷は固いから、私が極く懇意なのは黒田長博公であつた、懇意にしたいから私の方の用人の出る口から這入つて呉れと云ふことで、玄關にかゝると側用人が出て來て茶、煙草の禮があつて主人に申上げるからと云ふことであつた、極く懇意になればコチラへと云ふことで、ソコラに給仕などもある私などは足が痛くて堪まらぬからと云つて、失禮であるからさう仕やうと云ふことで、用人の行く所で、一寸行つて直ぐに斯ういふ(伯の居らるゝ部屋を指す)所へ通す、黒田とは始終さうであつた、

○寺師君 何時からでありますか、

○勝伯 私が亜米利加から歸つて來ると直くであつた、夫れは中々嚴刻なもので、門番がヘーツク張つたりして、堪まらぬ、御出入は内玄關から行つて、表の部屋に通るものであつた、アヽいふ大家へは出入と云ふ者かあつた、これは大名がシクジッタリする時には名代に出ねはならぬ、夫れ故に祝儀、不祝儀にも呼ぶコチラもヘー〳〵言はねばならぬが、出入となれば火事があつて燒けてもお出入屋敷からして呉れる、盆暮にも錢が無からうと云つて百兩も呉れる、夫れ故に加州などは殊に出入を希つた、黒田に脇屋肅と云ふ者があつた、同人より黒田は洋癖であるからアナタが言つて呉るれば聽くからと云ふ手紙がある、

○寺師君 黒田公は開化好きの御方でありましたか、

○勝伯 開化家であつた、

○寺師君 夫れは御家來は不承知であつたので有升か

○勝伯 家來などは不承知である、順聖公は家老が分らぬから講釋して呉れと云ふことであつた、お前は馬鹿だとも言はずに遣らるゝか、それは黒田には出來ぬ、歴史もさういふ事から碎かねば意が達せす、只書面の事は分らぬ、頼山陽が日本外史で評する樣なものである、

○寺師君 當時の大名中齊彬公に並ぶ人は無つたものでありますか、

○勝伯 無い〳〵、素人にもあれ丈けの人はない、

○寺師君 補佐した人も誰もないのに、

○勝伯 無い、細川銀臺公でも上杉の鷹山公でも家來が何に補佐するものか、寺師君でも居れば、補佐するか知らぬが(笑)

○寺師君 樂翁公は如何でありますか、

○勝伯 皆な天禀だ、夫れ故に生きて居らるゝ内にはコレト言ふべきものはない、私は齊彬公には親しくも會ひ、手紙も屡々來て其人と爲りを察するから、大した方と思つた、御親類もあらうが是れは盲目な人であるから、私を其時は山師と思つて居つたものであらうか、公は其時より見出された、山師は山師で微賤で王侯を凌ぐからネー、

○寺師君 西郷の初てお會したのは、元治元年の九月十一日に越前の人が連れて來たのでござりますネー、

○勝伯 さう、堤であったかと思ふ、西郷も立派な樣子して來た、

○寺師君 西郷は側用人でござりましたか、

○勝伯 側用人の格だと思ふ、轡の紋を附けた羽織て、仙臺平の袴であつた、

○寺師君 西郷の調子はブコツでござりましたか、

○勝伯 中々さうでない、

○寺師君 慇懃に致しましたか、

○勝伯 夫れは慇懃なものであつた、西郷は進撃に來た時分も手つかぬばかりに敬禮をする人であつた、

○寺師君 始めて會つた時は一方は陪臣で、アナタは御直參でありますから……、

○勝伯 コチラは安房守だもの、旗本で諸家の方で家老などが來ても本門を開けぬ小門より出入した萬石以上の家老でもいけぬが、大方一格上げて家老丈けに門を開ける、斯ういふ所(伯の部屋の襖を指す)を開けドウゾ此方ヘ〳〵と云つても歟居に足のかゝる位なものである、私は大坂に居たは旅宿だもの何も格式張たことはない、夫れで幕府の嫌疑を受けたものである。例へば寺師君が來て無禮な事を言ふ、口が逹者で適はぬと思ひ、夫れは夫れで濟まして私の用人から島津公の用人に言つてやる、御藩の寺師が來て別懇に致します、けれども内實は甚だ粗言もあり安房守は御役柄であるから大に心配を致しますと云ふ、さうすれば寺師には言はぬけれども寺師を使に遣ると云ふことはせぬと云ふことになるのが幕府の習であつた、さうせねば力の無い者はヘー〳〵言はねばならぬ、夫れは幕府の弊と云ふが今は幕府の者よりヒドイ面をして居る、コチラは西郷でも大久保でも旅宿へ來るのであるから向うが脇差をヒネクリても此方は側に抛り棄てゝ、袴は面倒であるから着けもせす、至極ゾンザイにすれば向うは此方を馬鹿野郎だと思ふから言ひたい事を言ふではないか、

○寺師君 始めは兵庫開港でござりましたか、

○勝伯 兵庫開港で、誠に困りますと云ふことで、何に困るものか巳れに言せぱ譯けない、コンな事に困つて是から先きにドウする、其時は今も同じ事で精神を張つてやるかと思ふとイヤやる精神はない、幕府も今日の通りにモット巧みで捕へどころがない、捕へどこがないから議論して責めもせぬ、責めても奧が知れぬ、實に精神の無いものである、幕府が此通り巧みであるから外國が來れば揚足を取られる、さうしてキウ〳〵と云ふ、私か諸侯を集めてやると云つても、諸侯も任すと言つても順聖公でも居れば宜いが、細川や、春嶽が何が出來るものか、私にやらせれば斯うしませう〳〵と言へば分かる、私の精神でやれば譯けはない、

○寺師君 西郷の見込は如何でありましたか、

○勝伯 西郷は兵兒論をして居つた、

○寺師君 兵庫開港は不可である、依て幕府の御處置は如何でありましたか、存しませんからと云ふのでありましたか、

○勝伯 さう、其筈で、廟堂の事も知らず諸侯の事も知らず、今は天子でも御辞儀をするが兵兒の頭で方策がない、見込がないからアナタの考へを聞きに來たと云ふことで私は斯ういふものだアーいふものだと言つて話してやりました、夫れは西郷の一寸も知らぬことで、夫れであたしは幕府の嫌疑を受けた、薩摩ッペのヒドイ奴にアーいふ事を言つたと云ふので譴められた

○寺師君 夫れで嫌疑をお受けでありましたか、

○勝伯 夫ればかりでもない、私のは皆なさういふ風であつたから嫌はれた、

○寺師君 當時西郷より大久保に送つた書面中に斯樣に書てあります、

勝氏へ初而面會仕候處 實に驚入候人物に而 最初は打叩賦に而 差越候處 頓と頭を下け申候 ドレ丈智略の有るやら知れぬ塩梅に見受申候 先つ英雄肌合之人に而 佐久間より事の出候事は一層も越し候半學問と見識に於ては佐久間拔群の事に候得共 現事に臨み候而は此勝先生とヒドクホレ申候 攝海に異人相廻り候時の策を相尋候處 如何にも明察御座候 只今異人之情態に於も幕吏を輕侮致し居候間 幕吏之談判に而は迚も難受 イツレ此節明賢四五人の諸侯御會盟に相成り 異艦を可打破之 兵力を以て横濱並長崎之兩港を開き 攝海之處は筋を立て談判に相成屹度條約を被結候はゝ皇國の耻にも不相成候 異人は却而條理に服し此末天下之大政も相立國是相定候 期も有御座との議論にて實に感服の次第に御座候 彌左樣之向に成立候はゝ明賢侯之御出揃迄は受合而異人は留め置くとの説に御座候云々

 とあります、期樣の御談論でありましたか、

○勝伯 私は諸侯を郡縣にするなどゝ云ふ事は言つた、諸侯を立てゝ……大諸侯を盟主にして小諸侯の産物を其所に寄せて外國に遣つて監督をさせて賣捌をすれば全國の貨物は其所に寄る譯だ、凡て産物は直ぐに送らずに兵庫へなり寄せてやれば──其所で交易すれば諸侯は何とも言はぬと云ふのだ、

○寺師君 明賢の諸侯四五人を御會盟に相成りとはドナタ方でありますか、

○勝伯 閑叟、容堂、仙臺抔かアゝいふ諸侯四五人で澤山、

○寺師君 「異艦を撃破るべき兵力を以て」横濱並長崎の兩港を開きと云ふ御主意は……、

○勝伯 能く考へて御覽、何の爲めに家來を養ふのだ、全國兵だ、宜いかい、士を養ふて置き、軍さの請負人とせねばならぬ、其請負人に御辭儀して算盤なさいと云ふことは、そういふ事はない、……夫れはジーッとして置き負けても勝つても討死しなさいと言へば譯けはない、五萬人の中に五千人もない、二千人もない、二百人位は滅法界にやるが、後とは逃げて行く奴だ、兵が出るならば此所で討死すると言へば宜いのにソンな馬鹿なことを云つてもアイツ等は出來ない馬鹿だなどと云ふから内で喧い、騎兵隊も皆な呼んで宜い。向ふで不理を言ふならば討死すると言つて貴けば宜い。西郷は弱つて居つた、是れはヒドイと云つて弱つて居つた、

○寺師君 さうすれば遣ると云ふ者は遣らすると云ふお積でありますか、

○勝伯 行くと云つても、天子や將軍の前で評議して尤もと云ふ事ならば遣らしても宜い、大久保ではいかないが、西郷であるから殊の外感服した、異人は何も心配する奴でないと思ふ、却て頼母しいと思ふ、殊に寄れば二千人も討殺さるれば宜いではないか、

○寺師君 夫れ丈けの意氣込で行けばいける御考でありましたか、

○勝伯 己れならば出來る、西郷は私をヒドイ膽力の有る奴と思つて閉口した──夫れは行くのだ、夫れは順聖公直傳の法だ、順聖公は薩摩の兵兒をイヂメずに置いて使つた、──併し夫れは薩摩一國の人であるがコチラは全國の人を夫の傳でやるの積であつた、

○寺師君 止め〳〵と云ふから喧いのであるから遣らして懲らすとのお見込でありますか、

○勝伯 邪魔にならないヨ、薩摩人は強からうがアレが何が出來るものか斯うせよと云へば喜んでするではないかアレを止めるから何時までも紛擾して仕樣がない、…二度目の時は私は引込んで仕舞ふた、明治十年の時説諭に行けと云はれしか全權を假すなら行くと云つて行かなかつた、全權を假すと云へば行くよ、第一大久保などを一時辞職させて戰を止めさする考であつた

○寺師君 夫れは西郷の出軍を止めに行けと云ふことでありますか、

○勝伯 佐野常民宅に二三度私を呼んだ、佐野が大に氣を揉んだ、佐野が御馳走して西郷は軍さに出やうか出まいかと云ふことで、西郷がベラバウな出れば大笑の馬鹿だと言つてやつた、夫れから西郷は擔かれて出た、併し出たが番人をするのである、逃げられぬからである、指揮せねば出たとは言はれぬ、私が行けば西郷に己れが來ぬ先きに大久保などを免職させた、コチラでグツ〳〵やるのは宜くないから東京へ御出で爲さへと云ふ積であつた、さうせねば决して行かぬ、さうせねば私は木戸や大久保に使はれねばならぬ.それ故にさうせねば决していかぬと云つたところが大久保が承知せぬであつた、其前西郷が國に歸る時分に私が止めたことがある西郷が征韓論と云ふは嘘で、アレは斯ういふ譯で岩倉大久保木戸等か皆な外國へ行くから其中は西郷にコチラに居つて呉れと云ふ約束である、歸るならば己れも歸ると云ふ話で、西郷が無暗に國に歸りたいと云ふがさうでない、忠義な人であるから久光公に對して都合もあり言ふべからざる情があるから此所に居ると久光公の方で西郷がやると思つて喧嘩するからである、大久保は西郷が歸つてはならぬと止めたもので、ソコで西郷が歸らうと言つたは前の約束があるからで、荷物を横濱へ運んだ、夫れで兵隊も歸ると言つて親兵が騷いだ、それはオドカシでない本當であるから止める道がなくて大久保、吉井が來たよ、アナタの所は來客が多いから大久保一翁を連れて來て呉れと云ふことで其時は大久保は病氣で行かなくて、あたし一人行つた、其時精養軒で話した、其時に今の約束あることを話した、久光公の情實は話さぬであつたがドウしても西郷は止まらぬ、アレが今引込んで歸つては私共は困る、もう一月も居つて呉れねばと云ふことでそれで止める談判をする人がない夫れで私に言つて呉れといふことで話したところが前の談判は切れて荷物はもう遣つて仕舞ふた、吉井も迚もいけませぬ、其事をアナタに折入つて頼みますと云ふことで、夫れ位な事ならば行かうと云ふとアナタと大久保一翁さんに頼むと云ふことであつた、其位な事ならば行かうと云つて行つた、歸りに大久保に寄つたところがマダ風で出られぬと云ふことであつた、今日行つたところが斯ういふ譯で、私は直ぐに西郷に行つて話さうと思ふけれども兎も角お前行つて呉れのか─行かう─何と云ふのだ─何とも言はぬでも宜い、私共や勝はアナタの正義に感じて斯うやつて居る、アナタが歸れば斯うやつて居ても面白くないから共に皆な歸ると其通り西郷に言つたところが誰がさういふ事を言ひますか、吉之助はマダ歸りませぬと云つた、後とで勝は惡い奴だと云つたとか、仕方がないから荷物を取返した、大久保は喜んだよ、ドウして止めたらう、ドウして止めたらうと云って驚いた、

○寺師君 兵庫開港も其手段で、お遣りの積てありましたか、

○勝伯 さう、止めるからいかぬ、夫れから西郷は内閣で大久保と議論した、私はアノ時は居らぬ、面倒だから横須賀へ船を見に行くと云って逃げた、そそから歸つて來ると西郷が喧嘩して引いたと云ふことで、西郷の後との者も總免職である、私や寺島を參議にした、夫れから兵隊を説得にお出てと云ふことで、私共も行つた、天子樣の説得でも兵隊はドン〳〵行つた、私などが參議や犬の糞やと云つてドウいふ譯かと岩倉に云つて斷りたが、さういふ處ではないと云ふことで着物でも着替へませうかと云ふと、それなりて宜いと云ふことで、夫れから直ぐに御前で言付けられた、夫れから大木は跡で聞けば考て見ると馬鹿らしいから止めたと言つた、

○寺師君 アノ時の副島君等を免職にしたのは大久保ですか、岩倉公ですか、

○勝伯 岩倉は大久保の宅に頻りに百度參りして居つたが行くものでない、皆な大久保である、

○寺師君 大久保も燒けになつて、仕方がないから、斷行したのでありますか、

○勝伯 さう、又しても言って呉れと云つても私も幾度もせぬ、大久保もアゝ云ふ人で私共をヒドイ目に逢はせて大事を頼むも男らしくないから言はぬ、仕方がないから斷行したものである、又久光公を呼出したも私である三條さんか長崎に御用があるから行けと言付けられて、何の事だと云ふと實は内々鹿兒島へ遣りて久光を連れて來よと云ふことで、さういふ譯で六ケしいけれども、大概の事は伺ひを經ずにやるからと云ふとドウでも宜いとおつしやつたから行つた、困つて來るとさういふ事を言ふ、

○寺師君 横井平四郎はドウいふ人物でありますか、

○勝伯 横井は昔の大名の御留主居の樣なものである、

○寺師君 横井も西郷も恐ろしい者とお認でありましたか、

○勝伯 横井は膽力か無いから兵隊を取扱ふ事は出來ぬ。然し公平な者である、

○寺師君 公平と云ふと大いのでありますか、小いのてありますか、

○勝伯 大きい、

 (時正に午時即ち午餐を喫す)

○勝伯 自分の好いた嬶ですら長の間には喧嘩もする、况して他人じや喧嘩もする仕やうが却つて後とは善くなる、ドウだ私は惡い了簡か、

○寺師君 此書面に諏訪因幡守と云ふがありますが、旗本か大名でありますか、

○勝伯 今生きて居るが御老中だ、私より年は上だ

○寺師君 此人は悧口なお人で、ありますか

○勝伯 中々悧口な人である、西郷の書面中にも

畢竟幕吏之處 此度之一戰に而 暴客恐縮致しモフハ身之禍を免れ候心持に而 大平無事之体と相成 奸威にほこり立候向に被聞申候 左候而幕吏も余程老練イタシ何方に種の有るとは知れぬ樣に致し一同して持合居候姿に御座候 其内諏訪因幡守と申もの魁首と相聞得申候 色々と正義を立て込候得は尤と同道致し何とナク正論之者を退け候に付 迚も盡力無之との譯に御座候

○勝伯 伊藤さんの樣な人で、アーいふヂラ〳〵した才はないが能く練達して居る、

○寺師君 お上手者で、

○勝伯 さう、

○寺師君 此後との方に「何時までも共和政治をやり通し申さずては相濟み候はず能々御勘考下さるべく候」とあります、西郷が御逢ひ申した時に「此策を御用ひなければ斷然割攘して國を富ますの策に出です候ては相濟不申候と奉存候」とありますが其意味は如何でありますか、

○勝伯 其樣に書かれるから困まる、新聞社の樣に、

○寺師君 對馬の人で大島友之丞を、朝鮮に遣られた顛末は如何でありますか、

○勝伯 アノ時分御一新より前であつたが、神戸へ海軍所を起すはアレが基になつて居る、坂本龍馬の一列と薩摩から二十幾人、土州から十幾人來た、アスコで海軍所を起しても仕やうがない、軍艦もなし、軍艦を斯うと人が知らぬ、薩摩にも三四艘廻はした、アーいふものを買つて下手に交易をすると中々承知せぬ、又遣る物もない、私は朝鮮御用を言付つた、此事は木戸か大變世話をして御所向きに通して呉れた、丁度下ノ關の軍さの時であつた、それからして對州の大島友之丞──對州の全權だ、アレを先に使つて、對州と朝鮮の貿易があるからアレを先づ擴張して、アスコは小い舩で行つて居るから神戸の船で交易を仕やう、對州から掛合間がよければ私が行つて掛合はふと思つて、朝鮮へ行くと言つて上海へ行き、夫れから天津へ行く積りでそれで諸家の舩を買ふたのである、

○寺師君 交易が主意でありますか、

○勝伯 航海と云つても船ばかり買つて何にしたものか、目當は航海の入費を夫れから補ふ積りである、石炭も入り、手當もやらねばならぬ、さういふ事をグツ〳〵言ふものでない、實事を切れば皆な分る、故に今の様に順序を追ふて、對州が交易をして居るから朝鮮の物を殖やしたり天津に行つたりなどして、入費丈けは夫れから出すの見込であつた、

○寺師君 夫れで航海業で眼を開きて開港に及はすの御見込てありますか、

○勝伯 貿易と云へば大層であるが昆布の百把も買つて石炭に代へるのであつた、

○寺師君 朝鮮は足溜りでありますか、

○勝伯 朝鮮と對州は交易して居るから對州の尻を押して大きくすれば宜いので、アスコまで行けばモウ直きであるから上海天津に行く積りである、それであんなに盛んになつて來たので、それであるから私しでなく御所の方へは勝に許すと云ふ事は木戸が周旋したので、幕府から朝鮮へ行けと云ふ事の書付を取つた、

○寺師君 幕府へ御願になつてありますか、

○勝伯 否や言付けたのである、木戸が周旋して御所の方は許すから御懸念なしと云ふことで願つたのである、其時は長州の下の關の軍さのある八ケ月も前である、さうしたところが八ケ月も前に各國の軍艦が長崎に遣つて來て、それを留めに行けと云ふことで、參豫から私に言付つた、

○寺師君 老中は關係ござりませぬか、

○勝伯 老中は間を隔てゝ居るから知つて居る、此處に老中が居れば參豫は奧に大きな面をして居る、

○寺師問 老中と同格と思つて居りましたが、

○勝伯 老中の上である、それで仕方が無いから京都から長崎に行き二月居つた。さうしてアスコで談判して止めた、

○寺師君 それは如何なる御趣意でお止めになりましたか、

○勝伯 あれは長州で和蘭の舩を打つから蘭の舩將か最も憤りて英、佛、米の船將に通したのである、長崎にて船を待合せて居つた、幸に蘭の船將は海軍教師に雇ふた人ぞ面識あるから大に話も易かつた、要はコチラで處分するから待つて呉れ今さういふ事をされては困るからと云ふのであつた、それで朝鮮へ行く遑がなくなつた、其中に私はシクジツて仕舞ふた、惜しい事をした、斯ういふ世の中の事は半分は當るものである。故に百折撓ますでなければならぬ、私は爲す事は皆外つれたか、先つ外國人に八ケ月待たせたかグヅ〳〵する内に八月も過きた、各國軍艦横濱より直くに下ノ關に行つた、一橋より是非行つて止めよと云ふことてそれから姫島へ又遣つた、私は一寸姫島へ船を寄せたか談判せすに仕舞ふた、

○寺師君 其時はドウいふ御覺悟でありましたか、

○勝伯 迚も前の約束が切れて仕舞ふては私を遣つても仕やうがないと辞せしも誰も行く者がないから是非行かねばならぬと云つて何と言つても聞かないそれをグツ〳〵言つてもいかないから左樣ならば行かう、─ドウする、ドウすると言つても仕樣はないが先つ行きませう後とで岩倉公はドうして止める積りだと云ふことであつた、私は前に八月間も待たせたので再びと云ふことは出來ぬ、前に知つた人であるから止めないけれども、行けと云はれたから仕方なく來たとて軍艦上にて各船將の前にても、私は昔し流儀で腹を切つて見せ君命を辱かしめねば宜いと、覺悟した、何の仔細はありませぬと言つた驚いて居つた、朝鮮論も命を棄てゝやれば幕府の信用を増すけれども私はさういふ事をせぬ、昊天が助けて姫島へ着かぬ前に事が濟んだ、眞に天狗ではないが幕府の瓦解を私の力でアレまで助けた、それならば容れらるゝかと云ふに讐敵の樣に思はる○仕樣ない、……それは別記仕やうと思つて居つたのであつたか、モウ老朽用に適せすで──悪い奴と思ふだらうが悪い所へ出つくはするのであるから仕樣がない、さうじやないか、其時分は役人と喧嘩したが別段褒められたくもない、けれとも後と云ふものがあるから、アレは斯う扱つた、斯うなつたと云ふ事があるから、開陽丸の來た時は夜まで行つて談判し陀、英のパークス抔と誰れだとて私を否やがつて居るもの、用があれば引出しなければ悪むケチなものである。

  (此時伯日記を朗讀せられたれども伺取れす)

○勝伯 四月十五日に久光公がコチラに來た、

○寺師君 海江田、奈良原は何と申しました、

○勝伯 左大臣か右大臣に仕やうと云ふのでれそはまだ見識が狹い、何處に見て居ても久光のある事を人は知つて居るから出ぬが宜いと云つたか兩人は聞かぬ。アナタから言つて呉れねば聽かぬから是非言つて呉れと云ふことで、それから私が周旋して左大臣になつた。岩倉は右大臣で其上に止まらうと云ふのであるから中々六ケしかつた、三條を左大臣にして右大臣に仕やうと云ふのであれども其上に立たせやうと云ふので、長州人は不承知で困り果てたよ、それで五百人の奴が來よと云ふからよしとて來させ、私がさふ事を漏らせぱ大變な葛藤が起るから困り果てたよ、けれども私は始終ドウか仕やうと言つた者であるから奈良原海江田等は大久保には容れられず、然らばとて長州人の方へ行つても困まるし、今こそアゝいふ面をして居るけれども私は大變骨を折つてやつた、さうすると彼奴等がやつた樣な面を仕上る、久光は一生の中私を見ることは彼等を見ると同等には見て下さらぬ、息子さんもさうだ、私は大變骨を折つた、私が骨を折つたと云ふと方々で當るもし、直くに出ることも出來ず、一体の鹿兒島の國情が分らぬから出ぬ方が治まると云ふ樣なものだ其事を斯ういふものだと云ふことをシツクドク話さねば分らぬ、私が錢でも取つて頼まれた樣に思はれてもならぬからねー、

○寺師君 それは長州人が拒んだに相違ない、

○勝伯 久光公は己れが出れば慶喜公を相談相手にすると言はるゝので、私はそれで决して成りませぬ。私の眼の黒い中には出しませぬ。亦才略もありませぬと言つた、それて説得するに及ばぬ、久光公であるから快く出られた、それで説く所が違ふ、

○寺師君 國家全体の爲めに出られねばならぬと云ふ點でありますか、

○勝伯 さう言はねば私が非難する樣になる故に──自分の心から出る樣になるから心持ち喜く出る、けれども私は精神を張つて居るから通るよ、

○寺師君 大隈氏を去らうと云ふ事を久光が言はれた樣子、同氏が言つて居りました、

○勝伯 知つて居つたかい、知るまいと思つたら

○寺師君 さうして三條公の所で久光に始めて逢はれたと云ふ話もありました、又アナタか仲間に立てお世話があつたと話もありました、

○勝伯 大隈は嫌ひであつた、アタシは善い面の皮だ、

○寺師君 始終頼まれ役で、

○勝伯 それでも聞かれたからネー、明治政府には私は骨を折らぬと人は思ふて居るけれども大變六ケしくて骨を折つたよ、其御褒美で今度免職して貰ふ、成程勝はヱライ者だと云ふ事の喝釆は受けぬ何だか否やな奴と思はれた、唯私は國に報する積りで、─危い仕事であるから人が否やがる、大仕事は危くなければならぬ、他力本願では行かぬ、斷する時は斯して斷ぜなければならぬ、自分が死ねば宜いからと云ふか先途だ腹切つて死ぬ樣な事はソンな驚くものでない、剃刀を渡つて極端まで行くが六ケしい、そればかり考へると小くなつて道理が積んで行はれぬ樣になる、此事は稻垣滿次郎が來たから話したが容易に分らぬ、一日して漸く分つた、活世界のものであるから活撥でなければならぬ、活撥にやるには機會がある、機會が去れば道理が積んで行はれぬ、例へば明智光秀の信長を撃つ時宵に家老に談じて明日兵を出したものである、考へて見なさへ、出來る道理がない、一日置けば向も去るもの漏るれば直ちに手を付けてコチラがやられる、それが機會であらう、左馬之助が明日と云つたはヱライと思ふ、後との奴等がモウ少し考へやうと云ふのは道理を積まふと云ふのだ、今時はさういふ事はないが、機會と道理とは別々で、今の改革の樣に道理が積むと人心に脊く、滅法界にやつては堪まらぬが、ソコを能く碎きて機會に乘じなければならぬ、

○寺師君 無鐵砲ではいかぬでありますかナー、

○勝伯 無鐡砲ではいかぬ、此機會は斯う、口から出してはいかぬ、今の通り理論々々と理論を見れば立派だよ、併し此頃の説は理屈が積んで六ケしくなる、幾ら理論が立つても今日は實事が立たぬであらうそれは、それに暗いからである、それは私は大變にロ廣いけれども敗軍の將だ、敗軍は悉くヒドイ者だ、十分の力があつて一分しか通らぬ、之を不平に訴へる時は法理に訴へねばならぬ、それを看破すればさういふ事はないそれは私の知つたのは二十年難儀の衝に當つて百折千磨して來たから薄々覺えて居る、今の人は何か知らぬけれども國家の大事でなく一身の大事だ、さうして斯うなつたから其事を知らぬは尤もだ、十年も經てぱ私の難儀した樣な目に逢ふであらう、其時眼が覺める私は浪人で朝廷から聘さるれば善いものになり、幕府に聘さるれは殺さるゝ、我儘者であるから潰れる方に聘された、私は命ある中にメケル丈けの事はせぬと云ふ膽力はあると云ったが、それは馬鹿であるがトウ〳〵續けた、それで今の人よりは能く分るよ、それは機の去つたも來たも知らぬでやるから尾大振はずになる此機會が去つたからと云つても變らず矢張り押してやるから尾大振はずになる それで益々理論は上るが規摸は下る、板垣や大隈はエライか知らぬが不平の臣があつては天下は治まらぬ、アレでは一生思慮を廻らさなければならぬ、是れは全く學問上からの話だ、

○寺師君 板垣、大隈兩氏は道理が積んで事が益難くなるの證據てありましやうか、

○勝伯 今あの人を出して見れば困るよ、古風だもの、廟堂の人が困まるのは古風であるからだ、充分宜い道理が立つて居るものであるから、それが通らねば不平になる、

○寺師君 齊彬公などの見識は世の流れと云ふものは現在は斯う後々落附くものはこふと云つて自分で厄難の上に立つて導かれたのでありますか、

○勝伯 それは自分のする事で搆はぬ、それが自分の用をやる樣になる、

○寺師君 世の中の事は流れて來る道行きを見て先きを判斷するのが肝要で、人の考へをつけると云ふものは今日の自然で東に行くから此處に落附く、西に行くから、彼處に止まると云ふ見當を付くるか第一であると思ひます、

○勝伯 能く考へて御覽、古から有ることは一つところをやつて居るのだ、一つ所をやつて居るからだ、それでは活撥と云ふものではない、『殷は夏の禮に因り周は殷の禮による損益する所知るへし』で能く盡くして居る、損益する所と云ふのが六ケしいので、西洋に斯うしたからと云ふものでない、それが活撥と云ふものかい、さういふ事は私は横井に一寸聞いてゐる、ドウしたら宣からう、横井は始め己れにも分らぬ、ドンな事になるか分からぬと云ふことで、詰まらないと思つたが成程さうだ、

○寺師君 横井に天下の政治を執らせたら行さませうか、

○勝伯 それは行か沁、ヒドイ事を云つても皆なさうは行かぬ、又さういう事に仕やうと云ふ人でもないから講究する所が違ふ、藤田も文天祥の正氣歌を燒直しても行くまいじあないか、アー云ふ事の無いのは横井だ、

○寺師君 横井の學問は活世界に活理を以て押すと云ふ風でありましたか、

○勝伯 さう、さうして見やうが違ふ、文天祥は穴藏で正氣の歌を作つてエライと褒める、藤田は世が違ひ、時の勢ひが違ひ身分も違ふ、何と云ふ事で、─理論はさうだ、理論は悪くない、活撥に圓滑に行けば宜いが、理論に拘泥するからさう云ふことであらう、生きて居るから困まる、位牌になつて棚に居れは論は無いが、生きて居るから歩きもすれは色々する、速記先生でも飯を食はせずに速記させれは困るてあらう、それは速記先生が生きて居るからである、生きて居るから中には自分が瞞着して人を苦しめたり色々な事をする、ハゝアー書生が天下を掌上に廻らす樣な事を言つて居る、能く考へて見るも面白い譯だ、今のは六ケしいところで、─モウ二三年經ては餘程六ケしくなる、

○寺師君 色々と善い學問を致しました、 (畢)