『史談会速記録』11輯(明治26.8.8)

pp.21-44

文久三年癸亥七月鹿児島湾に於て英船と戦争の事実附十七節

吉木竹次郎速記

明治二十五年十二月二日 一同着席 市来四郎君臨席

(目次では「明治二十四年十二月二日」と記す)

文久三年七月鹿児島湾に於て英船と戦争の事実

附鹿兒島に於て戰爭と决し準備を設けたりし事

○英艦の要求は殺人を出し養育料を收めるにありし事

○剌客を用ひ英人誘殺の策を立てし事

○刺客を商人に姿ひ軍艦奪掠を策せし事

○天保山砲台より初めて砲撃し爾他砲台之に做ひし事

○英艦薩摩の蒸氣船を燒きたる事

○始めて大小砲の長徑彈丸を見たる事

○鹿兒島にて死傷人は拾一二人に過ぎざりし事

○軍艦の死傷は五十九人に上りし事

○鹿兒島の蒸氣船を奪ひし際の實况

○英兵の上陸を期して藩廳は防戰の準備を爲せし事

○英艦錨を截り棄て去りし事

○英人の死屍を市街に曝せし事

○沖ノ小島の砲台より不意に英艦を砲撃せし事

○前の濱戰爭は陋習改良の効果を奏せし事

○アルムストング社報告に誤謬ある事

○齊彬公海岸に高壘を築かれし事


市来四郎 久しいことでありますから忘れましたけれども、思ひ出して不束ながらお話し申ます。鹿児島で英船と戦争を致しましたは、文久三年七月二日三日の両日でござります。此の原因から御話し致しますと、文久二年の夏久光が大原卿の関東御下向の時は御付添を命ぜられ、江戸に参りまして、其秋八月帰国の途中で八月二十一日でござります、生麦村に於て英人を殺したことが原因でござります。夫れから鹿児島戦争となって居ります。其殺してから戦争までの間の種々の事実を御話し申しますは、中々長ひ話になりまして、一日や二日に御話し申しても尽くされぬ次第でござります。

今日は鹿児島に英船が侵入致して戦争になって、其後和睦を致したことをお話し致します。

鹿児島に英船が大小七隻参りましたは、文久三年の六月二十七日の申の刻時分にて鹿児島より二里半ばかりある所の谷山郷と申す所に七つ島と云ふがござります。小さい島が七つありますから、七つ島と申します。其沖合に乗込みて碇泊致しました。其軍艦は、大軍艦が一隻、中形軍艦が二隻、四艘は小さいので今言ふ巡洋艦とか砲艦とか申すさまの船かと思ひます。皆な小さいでござりました。固より本藩では戦争を致す積りになって居りましたから、前以てより海岸には随分警備も堅固に設け、大小砲や或は烽火台なども拵へました。可なりの準備が出来て居りました。そこで英艦が見へたと云ふことを、遠方から烽火を挙げまして城下まで通知致してから、豫ねて準備の通り、砲台や其他の警衛の兵隊は烽火或は号砲に依って悉く持場々々に出ましてござります。そこで英艦は七つ島の沖合に七隻ながら碇泊致して、依然として何たることもなくて、其日は、碇泊致して居ったでござります。夫れから役人共が出て、何様なことでやって来たかと言ふことをたずねました處が、彼申すに、生麦に於て我国人を殺したことに就て、幕府に掛合を致すけれども曖昧糢糊の答へで、一向訳が分らぬから、止むを得ず談判に来たのであると申して、其参った当日は最早や夕景になりまして、其儘に於て砲台の警衛兵抔が出て警護して居ったのでござります。翌日即ち二十八日の朝巳の刻比でござりました。二里半ばかりの所でござりますから、城下まで直ちに乗込みて城下の海岸砲台の前十町位の所に、其七隻が投錨致したでござります。程なく応接の役人が出て次第を尋ねました所が、大軍艦の方に廻れと云ふことで、其方に乗込みましたところが、次官と申すものより書面を出して、生麦に於て無暗に我国人を殺したことに就て、幕府に掛合すれども曖昧糢稜なることで、一向訳の分らぬ答弁であるから、止むを得ずこちらに乗込みて来たから、此書面を只今渡すから、是れより二十四時聞内に答弁せよと云ふ。斯ふいふ初めより剛情な申振りであったさうでござります。其書面の趣と云ふは、生麦に於て国人を無闇に殺したは、島津三郎の従者と云ふことは判然致して居るから、其の下手人を出せ。其の殺された者の妻子養育料を出せ。又三十万弗の償金を出せと云ふ請求であったさうです。若し下手人を出すことが出来ねば島津三郎の首を見たいと云ふことでござりましたそうです。夫れから役人共が其書面を携へ帰って反訳を致しましたところが、果して其通りの文意で、夫れから役人を軍艦に遣しまして、此答弁は重大なことであるから二十四時間内に答弁することは出来ぬ。只今国主──即ち今の忠義でござります、霧島山の温泉に行って居るから、其の往復と云ふも一週間も掛らねば答弁する訳には行かぬと斯ふいふ答を致しました。さうすると夫れは以ての外のことである。霧島山は我々も地図で以て知って居る。一週間抔掛ることはないと──、色々と嘘を吐きましたものであるから喧しく言出したさうです。其時は今の重野安繹を、乗組て居る支那人と文章筆談の為めに連れて参りました。寺島宗則は洋学者の事であるから、これも連れて行ったでござります。さういふことはどうしても鹿児島の方では当時攘夷流行の砌でござりますから、あちらの請求に応じては済まない。兎に角戦ふより外はないと云ふことになりました。尤も前以てよりの覚悟でござりまして、夫れで準備も致してありました。斯く島津三郎の首を出せと云ふ様な申し立てでござりますから、勝敗利鈍を顧みず、戦ふより他はないと始めより決してござります。さういふ訳でござりますから、最早や此方には戦端を開くの準備をなしました。然れども先づ一つの策謀を設けやうと云ふことになって、それは大久保一蔵、小松帯刀、中山中左衛門等の議であったそうです。兎角戦はねばならぬけれども七艘の大小軍艦を装ふて参ったものであるから、中々容易なことでないから、謀を以て彼の軍艦を奪ひ、船長の首も取ろふと云ふことに議決しました。夫れから刺客を用ゆるの策が起ったであります。其計画と云ふものは城下に客屋がござります。其所は高貴の方が来たられた時御接待申す所でござります。其所に、船長始め呼出して途中でやって仕舞ふか、又は宴会を開いて其場でやって仕舞はふと云ふ計画であったさうです。夫れから伊地知貞馨等が軍艦に参りまして、

書面の趣き何分藩主が遠方に行って居るから答弁も速かには出来ない。其中に此れまでの差しもつれを御談判にも及びましゃうから、或は長の間の船中で退屈でもありませうから、客屋に御出で下されと云ふ請求を致したさうです。其の時の使は伊地知貞馨等であります。其事を申入れましたところが英艦の方では言下に、御馳走抔に呼ばるゝ時節ではない。我が国辱になって居ることであるから、是非曲直を糺す為めであると云って、上陸を受合はなかったさうです。そこで第一策は毀はれました。酒肴の用意も充分あった様子で無駄になったさうです。夫れから第二の案は船に乗込んで刺客を用ゆることになりて、奈良原喜左衛門此輩の策でござります。最早や呼び下ろしてやって仕舞ふことは出来ないから、軍艦に乗込んで頭立ちたる者を悉く斬って仕舞ひ、さうして船中の者も撫で斬りにして、軍艦をも奪ふと云ふ大胆なる計画になったそうです。其通りにやろふと云ふことになって、重もに海江田、奈良原兄弟が主張策であったそふです。英人を殺したは奈良原即ち奈良原繁が兄、奈良原喜左衛門が始め手を下したので、夫れから弟も一緒に居りまして手助け致したそうです。海江田信義も其一列に居って手を下した面々でござります。さういふ所からして刺客のことを案じ出したものと見へます。そこで大久保や小松抔も異論はなくて面白い策と云ふ様なことであった様子でござります。さうして久光に其事を云ったところが、それはいけない、夫れは血気の処分と云ふもので、到底行はれぬ。上陸を促しても来ぬから敵愾の軍艦だからと申されたさうです。けれども、大久保抔は攘夷家で、外国人と見れば何事も悪いと云ふ人であるから強いて願ふた様子で、是れが御免なければ彼等は固より身を棄てゝ居ることでありますから、過激な事を為すに相違ないと云ふところから、久光も、さういふ訳ならば勝手にせよ。兎に角戦端は開けるに違ひない。若し云ふことを聞かねば仕やうがないと云ふ様なことになって、夫れから大久保抔は、撃剣家の輩を九十八人、皆な奈良原、海江田抔が人撰したさうです。そこで命令を下したであります。夫れには不服な者もあれども命令となっては仕方がないから各々決死したでござります。其出立ちは小さい船にて当地で言へば五太力船位なものでありました。外国人の好む西瓜或は桃抔を売る姿にて出立ちましたので、今日は話にもならぬ可笑しい話でござります。其小さい船が十六盃になって居ります。それに各々刺客の面々乗り込んで、西瓜や桃の類を積んで売りに出掛けたが六七人つゝのでござります。始めの程は買はうとした様子でござります。大艦には奈良原兄弟、其他一列の者が、あれには大将が乗って居るから、是れから先きにやって仕舞はねばならぬと云ふところから、頭立ちたる輩が乗込んださうでござります。向ふでも余程殺気を含みて居るのを見て取った様子で、甲板までは乗せたけれども、長次官の居る所には通さなかったさうです。そこで乗込みは乗込んだが、水夫其他に対しては無益なことと奈良原抔も考へたと見えて、手を下すことも出来ぬで空しく引き取りましたさうです。初めの申合せは船長の首を取らば相図をするから、其時各艦一緒にやれ、或は又小さな船に大砲一門宛載せつけて、自由に砲撃の出来る様に設けあり、此の舟が十余隻ありて、夫れも直ちに砲発する様に申し合せてありました。けれども大軍艦でも撃ち沈める様なことは万々出来ないのです。今日より見れば児戯に等しい話である。さういふ仕掛けでありましたが、何分甲板まで乗込みても事を挙げる都合がなかったから空しく引取ったさうです。適々の計画も水泡になりました。夫れから向ふの者も其の挙動を見て取ったと見へて、始めは戦端を開くの景気も無かったが、余程挙動が違って参りましたさうです。夫れは二十九日までの事でござります。其間に可笑なことが多ふござります。さうすると七月朔日の朝になりて、七隻の軍艦が一里ばかりの桜島と云ふ所の地方に碇泊場を変えました。其の時は随分天気の模様も大風の兆では無いかと云ふ天気でござりました。外国人も大風の模様を見て碇泊の位置を変へたかと思ひました。けれども薩摩の方では今の様な馬鹿な挙動がござりますから、アチラも見て取ったと見へて碇泊の位置を変へたであらうと思ひます。朔日の朝になりますして琉球の船が三隻ほど碇泊して居りました。是れは支那風の船で──、戦争となる積りであるから此の船々は半里ばかりの所に逃げさせました。其時此方の蒸気船は三隻碇泊して居りました。一隻には寺島宗則が船長で一隻は五代友厚が乗り頭で、もう一隻は本田彦次郎と申す者が乗りて居りました。最早や戦端を開く勢いが現はれて参りました。此方には始めより戦ふ積りであったから、寺島、五代は、甚だ憂へまして、此れで戦端を開く場合でないと云ふことは前以てより申したけれども、用ひらるゝことでなく、そんな臆病なことを言ふかなどといって軽蔑せられたさうです。其の三隻を焼かるゝか取らるゝかに相違ないと感じましたから、此の軍艦を近い所に置いては宜くないからと寺島、五代は申立て、夜中に外づすが宜い。然らざれば彼れの有になると云ふことを殊更寺島が忠告致したさうです。夫れ丈けは採用せられて、さうして城下より三里ばかりの所の大隅の国の重富と云ふがあります、そこの海まで寺島抔は乗込んで外づしたのでござります。少し港の様な所であります。さういうことで英国船の方でも蒸気船は外づし、琉球船も外づし、又日本の親船が数十雙居ったけれども外づし、砲台には警衛の兵も多く見へたから、向ふでも余程其の辺を見て取ったと見えまして、桜島の方に碇泊したと見えます。さうして七月二日の朝になって私共も現在見て居りますが、其三隻の蒸気船を英船が挽ひて彼の大軍艦の碇泊場の方に向って行きます。今で申すと巳の刻比でござりました。皆な英船が我が蒸気船を奪って大軍艦の居る所に向って引出しましてござります。是れは奪はれたと云ふことを感じました。然るに天保山と申す所の砲台より直ちに発砲し始めました。始めの程は距離が遠いでありました。横から見て居りましたが、弾丸は敵の船には達せず、皆な途中に落ちて仕舞ふ様でござりました。そこで向ふでも大に狼狽したと見えて、抜錨して運動したるは余程間が取れました。けれども砲台より届かうと届くまいと各所の砲台は無暗にポン〳〵やって居ります。側から見て居れば可笑いのでござりました。夫れから凡そ一時間余にもなりまして、奪ふた三隻の蒸気船に煙が立ちました。さうすると七隻の軍艦も程なく運動を始めました。幾回も運動して──砲台に向って撃ち込む様になりました。其の距離は近ふなりまして、雙方撃ち合ひまして、遂に城下市中に火を掛けました。遙かに見て居りましたが忽ち燃へ上りました。同日は朝から東風強く午前十一時比より雨も甚だしく大風雨となりました。城下の砲台は東に向って居りますから丸で風を受けて居ります。向ふの船はさういふ大風雨にも運動して居りますから、砲台の方に吹きつけらるゝ様に見へました。夫れには余程困難な様子でありました。さうすると酉の刻時分でありましたか──、第一の砲台の前は川口になつて、潮の干満に依りて砂洲が出きる所でござります。夫れに第二の軍艦が乗り掛けました。其の時は船が傾きて困難な様子に見えました。砲台のつい四五丁の所に横はりました。けれども其の砲台は始めより構造が宜しうござりませぬ所から、敵丸の為めに大砲も稍々用立たぬ様に打こわされました。大小八門程備へてありましたが、みな敵弾の為めに打こわれました。他の砲台から撃ちましたけれども、何分距離が遠いので格別の効能は無かったでござります。其の時向ふの軍艦の方でも、帆柱の上から小銃を以て目前の砲台の中を余程撃ちました。小銃は霰の様に撃ったさうです。さうすると程なく他の軍艦が来て綱を附けて漸く引出しました。横はって居りましたは一時問に余りました。其小銃の弾丸は砲台其他に沢山落ちて居りました。其の弾丸は皆な椎の実の様で長玉でありました。鹿児島で小銃の玉の長いのを見た始めでござります。大砲も長玉でござります。近頃の英国の歴史を見ればアルムストンの発明で此の時の報告書が載ってあります。随分自分勝手な報告でござります。此の時砲台の兵士が一人敵丸の為めに死にました。其他、所々で流れ玉で傷を負ふたものは六七人ござりましたけれども、現に戦死は此外に二人でござります。其他商人などが逃げ迷ふて居るものが流れ玉に方って死んだものが四人あります。其他負傷者は僅かでござります。そこで戦争中に鹿児島の方より撃れた敵艦に後日乗りて見ましたが、相応に傷めて居ります。第三の軍艦は五十ポウンドの臼砲を以て能くも撃当てたもので一弾で十余人打ち殺しました。後日彼れが新聞に記してござりますを見ました。其一弾で船長と兵士を殺して居ります。夫れは彼国の歴史にも其通りあります。其他彼此れ五十九名の死傷でござります。味方の方は僅かの死傷でござりました。実に意外なものでござります。夫れで五十斤の臼砲のことは後日寺島の話に同人の乗って居った船であったさうです。此朝寺島が乗って居る船を奪ひに来たのは、蒸気船四隻で夜明け方に四隻の軍艦が来て、横から乗りつけて直ちに綱を以て結ひつけたさうです。其辺は鍛練したものであったさうです。乗組の者はそこで切り合って死んだものもござります。是は二人死にました。其他は悉く船に乗組みながら船を引出して、軍艦の方に引ひて参ったのです。其の時寺島抔は船の牢に入れたさうです。夫れから本艦に送られて其の長官と一所に丁寧にして置いたさうです。其の時砲台より大砲の弾力の大小種類などを問ふたさうです。寺島抔は程善く言って五十斤の臼砲が有ると云ふことを云ったところが、折り返して聞き、将校を集めて運動の方法を変へたさうです。後から聞くと五十斤の臼砲があると云ふに付て、砲台の距離近く乗り込ませたさうです。砲台より凡そ五六町の所を運動致したと見えて居りました。夫れは寺島の砲術上に就ての後日の話でござりました。果して夫れが盲ら当りと云ふものでもござりませう、艦長一人に士官水夫の輩、其の弾丸の為めに二十余人死んで居ります。さういふことは後日の話であります。さうして其の日は大風雨でありましたから、砲台を守った兵士は大はだ抜きになって終日砲台の上に現はれて発砲致したでござります。さうして申の上刻比には向ふから砲撃を止めて昨夜碇泊の所に引取りました。当夜は定めて夜戦を仕掛るであらうと其の準備をなした。私共も夜討をするであらう、引退くは奇体なことであると云って、夜中其の備へを致して居りました。私は其の時分天保銭の製造方を持ちて居りました。製造所は海岸に接した所で、上陸の備に兵士百人もおりました。ところが暮時分より小軍艦が一隻製造所の前海に乗り来りて、頻りに製造所を攻撃しました。近地に大小砲の製造所がござります。夫れをも頻りに砲撃致しました。其の隣りに旧藩主の別荘がござりました。是れも砲撃しました。焼玉の様なものを打込まれて夫れが為めに私の製造所と、大砲製造所は燃へ上りました。私共は僅かの人数でござりましたから、そこを引き上げて、弾丸の直樣来らぬ所に扣へて居りました。ところが製造所は悉く燃へて仕舞ひました。旧藩主の別荘は燃上らぬで済みました。之れが七月二日の戦争の始末でござります。其の時城下の海岸に硫黄商人が居りまして、硫黄を沢山土蔵に詰め込で居るところに弾丸を打込みましたから、夫れから出火になって、市街及び士族の邸宅三百戸位も焼けました。此れが初日の戦の景況でござります。

先刻も申しました通り、必ず夜討をするに相違ないと皆人思ひまして、其の準備怠らず各々上陸したら討たうとか、昔流義の槍薙刀等をも手当致して居りましたが、上陸はせず、軍艦は夜もすがら楽を奏して楽しんで居ると云ふ様に聞えました。翌三日の朝天気も晴朗になって、昨日の天気とは打って換りましたから、今日は定めて上陸するであらうと其の準備で居りました處が、正午時までも一向上陸の形が見へない。けれども蒸気の煙は七隻ながら立ちて居りました。程なく抜錨した様子に見えましたから、程なく上陸するだろうとか、昨日の如く砲撃をするかと思ったところが、湾口の方に向って走せ出しました。各所に砲台がござりますから、遠撃致して出る様でござります。城下にも遠方から討込み、砲台にも討込んだけれども人も何も少しも損ぜぬ。其の儘退いて初め碇泊した七ッ島まで参りて碇泊致しました。さうして一夜そこに居りました。其の船を砲台の方から討ち傷めたと見えて夜中修覆する様な音も聞えて、鍛冶屋或は大工の立騒ぐのを望遠鏡で見掛ける位の距離でござりました。又其の所に一夜碇泊して翌四日の朝湾口に向って出て仕舞ひました。其の時は侵入の時よりは速度が緩い様でござりました。十四五里の所まで航し、中形の軍艦一隻は残して他の六隻は出て仕舞ひました。是れは何故に一隻残したかと皆な怪しみました。そこで陸上は警備怠らず致して居りました。後で聞きますると機関が損じて航海が出来なかったから残したさうです。七日ばかり経て引船が来て引いて出ましたさうです。其の後英国新聞を見ても或はアルムストンの報告を見ても、機械を損じた為めに残して置いて、他日引取ったとござります。戦の次第は大略さういふことでござります。又英船は錨を棄て置いて出帆致しました。先刻お話し申しました通り蒸気船を奪ふて引いて参りますから、砲台よりは無暗に砲発を始めました。向ふも狼狽の形でござりました。錨を上げる間がなかったと見えて、其錨は後日発見致しました。さういふことを以て見れば、無暗に砲台より討立てたから狼狽したと見へます。向ふは直ちに戦ふ積りでもなかった様に思はれます。そこで錨を上げる間が無くて其儘に切って運動を始め砲発を始めたらうと思ひます。錨は其後御承知の通り岩下方平等が横浜に於て和睦を致しましたから、懇意を結ぶと云ふ積りからして、此方より長崎まで送り返しました。其時英人は大に喜んだ様子、其後段々聞きますると、大切な錨を捨てたは、軍艦の一大恥辱だと云ふことを聞いて後と以て遺憾なことで、此錨を引っぱって置けば相応な金も取れると云ふことでありました。さういふことでござりました。軍さの景況は第一の砲台と第二の砲台と云へば、其景況は変りますけれども極概要の所は夫れ位なものでござりました。さうすると四五日も致して英人の死骸が漂ひ上りました。帆木綿の様な布袋に入れたものもあり、けっとの様な物に包んだものもありました。そこで此方では二人の兵士が死んだのみで手負が六七人あったばかりでござりましたから、勝軍と唱へて大に威張りました。英人の死骸は城下の市街広小路と申す所に曝して縦覧させまして、さうして後ち其の死骸は城下外れの牛掛灘と申す所の刑場に埋めました。其後私は長崎に出まして、戦争に参った軍艦二隻に乗って見ました。相応に砲丸の痕がござりました。其の時我が砲丸が是れ程用に立ったかと思ひました。機械も相応に傷んでおりました。長官の住居部屋の甲板を討ち抜きたもあり、砲丸、大小船中に留まったのを観物に置いてありました。それで我が砲丸も用を為したと思ひました。

蒲君(義質) 英人の死骸は幾つ上りましたか。

寺師君(宗徳) 七つ──、艦長の死骸も上りました。袋に入れて玉を附けて沈めたものでありましたが、風波の為めに打上げました。七ッ島沖にて音楽をやったは水葬の式であったであらふと申します。

市来君 水葬の楽とも思はず、一里半ばかりの所で楽を奏したので、ひどい奴等だ、軍さするのに、夜中は音楽をして楽んで居ると拳を握ったことでありました。

寺師君 当時鹿児島の台場は旧式が交りて、中にも古式の青山流と云ふのは手に持って居て撃つので、夫れは青山と申す一派の師範家がござります。此れは沖ノ小島と云ふ所が桜島の側にござりますが、小さい島で、其絶頂に砲台がござります。そこに青山は一派の門弟を率ひて守って、英船が引く時に、まさか其所に砲台があるとは思はなかったか、其近海を通ると頭の上から不意に鉛丸の大砲を撃った。けれども鉛丸であるから船の側などに食い附いて、玉は這入らなかったが大変驚いた様子。若し七隻で此の小島を囲んだら大変なであるが、其事もなく引きました。之れなぞは全く自分の力をも量らず無暗にやったから打てた事であります。

市来君 此の戦争は今にして考へると、大損亡は無論、馬鹿な戦争と人は見もしませう。私も一寸はさう思ひますけれども、此の事は大変開明の刺戟薬だと考へます。夫れからして一般の思想が進んだでござります。斉彬は開明を主とした人で、大小砲は固より砲台等も西洋風に築造しました。けれども死後には頓着も致さず、のみならず大久保、中山などは攘夷家の親玉で、西洋風はいかぬと云ふもので、古風な荻野流の砲術を持ち出して、ゲベル銃は長いとか云って短うなしまするとか、或は槍薙刀を以て伐り込まなくてはいけんとかいって、全く古風に引き戻しました。けれども、大砲は西洋風でなければならぬと云ふことで備へてあったのは斉彬の御蔭でござりました。若し全く古風の武器ならば見苦しき敗を取るでありましたろうと考へます。小銃丸の長いものを用ゆるは奇体と皆な人が唱へました。其他各々思想発達の途となりました。之を以て考へまするに全く馬鹿な軍さで無益などゝは申されませぬ。

寺師君 城下近辺其他各所に松が植てござります。其松を大砲玉で打ち抜いたのが沢山でござりました。是なんどを見て人々皆驚ひたので夢が醒めました。

市来君 そこで可笑い一話がござります。奈良原の宅は私の宅より直径二町位もある所であります。海上軍艦の通航する辺よりは二十丁計の距離でありませう。英艦より放った一弾丸が奈良原が邸に飛び来りて、小坐敷の軒を打ち毀はしました。隣りに質屋がござりましたが、其蔵も毀はしました。其時分婦女子の口に生麦で英人を殺した人だから、其崇りでそこに丸が来たのであらうと云ったことがござりました。偶然に当るも可笑な話であります。

寺師君 私は児供の時でハキとは覚へませぬが、軍艦の来到せし際に海岸より眺めて黒い大きな船が居りしはた微かに覚へて居ります。又戦が初りて雨を犯し、母に負はれて逃げたる時の苦みは忘れられぬ様でござります。又夜中に戸を明け市街の焼ける火光空に映りて物すごかりしは今も僅かに覚へて居ります。

市来君 奈良原と私の宅は二町も距りて、軍さの前々晩、私は製造所より帰って、其時母が申しまするに、軍さになるうから迯げなければならぬ。隣家なんぞは皆な迯げたと申しますから、私は、決して外づすに及ばぬ。どんな大砲でもこゝまで来る気遣はないと能く云ひ聞せました。然るに奈良原の所へ玉が来ましたから、母からいぢめられて謝まったことがござりました。其の後英国の新聞紙を見れば、鹿児島戦争の時用ひたる大砲はアルムストングでござりましたを知りました。アルムストングの実験表の報告もござりました。其実験表中に破裂弾は好結果を得たと云ふことが表に出して、一発も破裂せぬはなかったと書いてござります。夫れは誤りでござります。私が海軍省の者に云ったことがある。英国の歴史も当てにならぬ、大小砲の丸の発せぬのが幾らもあるが、夫れが発せぬのは無いと云ふことを書いてある。其書を久光に見せました。久光申されまするには、城下に撃込んだ弾丸大小三つ持って来て見せた。皆な破裂せぬのであった。直に池に填めさせたことであると申されました。彼等が書にも事実を誤ったこともござります。

寺師君 未発の弾丸を弄んで死んだ人があります。

市来君 英艦より砲台其の他に向って打出した玉数は沢山でござりました。後日掘って沢山持って参りました。商売人が取出したものを鍋屋で焼ひて破裂して死んだものもあります。

寺師 船と台場の違いは今日もあると云ふことであるが、船の方が死人は多いものだと云ふことですが、鹿児島前ノ浜の戦争で見れば、船では五十何人の死傷、鹿児島の方では兵士で斃れた者は二人、町家には三四人、他は人民が不慮流れ玉に中ったのでござります。又祗園洲と云ふ台場は一番激戦したので、能くも撃ったことは撃ったもので、皆な大砲を撃って居ります。大砲の孔は大概割れました。或は車架も打毀はれて居りました。夫れ故に軍艦が浅瀬に掛りしときには用立たゝずして打つことは出来なかったと申します。

早川君(勇) 亜米利加船を馬関で撃った時、私も参って居りました。ところがコチラのは始終丸が船を越しました。アチラのは、丸が岸の方に直下に来ました。砲台の下の方に多く来ました。

市来君 鹿児島下町の海岸に斉彬が見込みを以て、高い堤を築きました。さうして市街は二階造りを禁じました。家根の海上より見えぬ様に塁を高く築きました。其時は殿様が、見立てに過ぎる。此高堤を築てから、海が見へないとか何とか申しました。此高堤は支那学者に万里の長城の高さをしらべさせて、家根の見えぬ様に築かせましたさうです。戦争の時効能があって、弾丸が夫れに当って市街は焼けぬのみならず、弾丸は人家に多くは来ませなんだから此時に皆感心したことであります。廃藩後除けて仕舞ひました。又生麦に於て英人を殺した次第からして、戦争になる迄のことは、種々百端の事実がござりますけれども、是は後日の御話しに致しましょう。

寺師君 船が参った時、鹿児島の軍備の模様の一班を申しますが、誠に抱腹絶倒に堪へぬことが多うござります。或る策士の言ふにはあの船を引っくり返へす方略があらう。それはどうすると云ふと、大なる樽に水を入れて出す。さうすると彼れがそれを取るであらう。桶が浮くから上の船が引っくり返へるであらうと云ふ様なこともありました。(笑声起る)

早川君 船を奪ふた時疵がつく。上陸をさせた時に切り尽くさうと云ふ策もあったではありませんか。

市来君 大久保抔は真の攘夷家で、外人といえば唾を吐く様でありました。先刻も申上げましたが、菓物売の謀は鹿児島では西瓜売の謀と云って居る。夫れは大久保と中山仲左衛門が策であったさうです。人間と云ふものは一日々々進歩するもので、其時は夫れ位な大久保さんであったのです。夫れから後は懲り〳〵して和睦せねばならぬと云ふことになって居ります。其位置に腹の変ったところも一の歴史でござりませう。其の辺の事もあんな高名な人であったから、当時の所論挙動も一の歴史話になりますから、夫れも後日の御話に致しませう。个様御話申すことは、極、大略で、其大道筋の事実でござります。其御心得を願います。細かなことは国事鞅掌史に記してあります。追て御覧に入れます。(一同立禮)