本編は明治初期の發刊に係り余が青年時代に、郷學に於て專ら愛讀せし書なり。當時此書に因りて訓育啓發せられたるもの、亦多からずとせず。余は本編を繕く毎に、其行文流暢にして、章句悉く金玉の言なるを稱讃して措かず、常に之を座右に置きて精神修養の資料となせり。今や我帝國は 皇運隆昌となり、既に世界的大發展を、なしつゝありと雖も、其生産的事業に至りては或は之に伴はざるの憾なくんばあらず。加之、文明の進むに随ひ、人心の遊惰に流るゝは、古今東西其軌を一にす。今にして之が覚醒の値を講ず喝るにあらずんば遂に或は救済の期なからんことを恐る。是に於て、余は以爲へらく、我産業を振作し我人心を感奮せしむるもの、本編を措いて、他に求むべきものなしと。乃ち博文館主大橋新太郎君に謀り、之を縮刷翻刻し、以て余と感を同じくするの青年諸子に頒たんと欲す、
諸子、冀くは、余が微衷の存する所を諒とし此書に因りて、感奮興起せらるゝあらば、啻に余に於て望外の欣幸たるのみならず、實に國家の慶福たるを信ずるなり。今茲に本編を頒つに臨み、一言以て卷首に識すと云爾。
東洋紡績株式會杜に於て
大正四年一月 伊藤傳七知周

 

天地のはじめ、潮の沫の凝りて成れる國〻、多なりけむを、荒潮の八鹽路たちヘだて、遠き境のことはしも、古き御史どもにもしるされず、そのくに%\の人ら一まゐ來しことも聞えず、大かた唐土天竺わたりを遠きかぎりとし、そが餘なるをば、なべて陸奥の蝦夷の千島のひとしなみになん思へりけらし、そも/\西洋人の御國に渡りこしことは、今より三百年餘むかしぞ初めなるべきを、いくほどもなくてとゞめられ、ひとり阿蘭陀の國人のみ、肥の國のかたほとりに来りて物易ふるわざをばゆるされにたり、されど、こととふ人しも多からす、まいてあだし國〻の有さまなど、聞も傳へざりしを、その天の下にありとある國〻の事ども、かつ%\も物にしるし傳へられしは、新井君美のぬしなん始めなりける、其後くさ%\の書ども、やう/\數そひにたれど、大かたの世の人は、心とむべきものとしも思ひたらずなむ、あまたのとしをばへにける、かくて近き十年あまりこのかた、外國人多くまうでき、御國人はたかなたにも往かふ道ひらりしより、今ははるけき異國ぶりも、よろづおぼろげならず成きつる物から、猶えみしとだにいへば、ひたふるに大は小をかね、強は弱をしのぎて、獣のくひあふか如きものとのみ、おもへる人しもぞ多かめる、こゝに中村大人のものせられし自助論といへる書を見るに、何某の大人のいひけむ、今のえみしは古へのえみしにあらずとの言の葉もしるく、げに其説すべて和漢のかしこき人〻にもおとらず、あはれあだし國人にも、かばかり誠實なる心のあれは有けるよと、打なけかるゝまで、めづらしともめづらしきふみになん有ける、
いでや此書世に行はれて、こを讀みむ人〻、其道〻につきて、おのかじゝ健く雄〻しき志をたて、事にあたりてたゆまずくづほれず、萬の事業一つの眞心もて、なしおほすべき日本魂、ふるひおこさむたよりともなりなましかば、大人のいたつきむなしからず、いみじき世のをしへぐさともなりなまし、おほよそ天地の間に人とあらんかぎり、たとひ國をへだて境をことにし、打見るすがたうち聞く詞は、さま%\なりとも、ひとしくみな産霊の紳の御靈によりて、生れつるものにしあれば、おのづから直く正しき眞の道は、一すぢならで有べしやは、そを思はで、わたくしの心せばく、あらぬ小みちに迷ひなんは、あぢきなきわざなりかし、されば掛まくもかしこき天津紳の大御こころのまに天の壁立かぎり、谷蟇のさわたる極み、天の下四方の國人睦み親しみ、船腹乾さず、柁楫干さず、渡りまうできつゝ、物多に満ち足らはせる大御國も、いよ/\ます/\榮え行なんものぞと、おのか心に思ふことを、大人にきこえしかば、さらばそのよしいかさまにも書しるして、此書のはしに添へよといはるゝが、いなみかたくて、拙き言の葉、くだ%\しくかいつけたるになむ、時は明治三とせといふとしの長月ばかり、三田葆光

自助論第一版序
この書を著す所以の原由は、如何にといふに、去ぬる十五年前の事なりし、
北方の村落[イナカ]に於て、有志の者、數輩相會ひ、夜中講談を聴かんとて、我を招き請ひし事あり、その詳は、次に叙するが如し、○極めて卑賎なる少年三二人、或年の冬の夜、相會し、互ひにその知るところを語り合ひ、學問を交易して、知識を開き、進益を得ばやと思ひ立ちたり、始めて曾合せし場所は、その結びし社中の一人の貧しき住家なりしが、幾程もなく、其外に、又同志の者加はり、その場所忽ち席を入るゝに足らねことゝなりたり、既にして、夏日炎暑の天となりしかば、同社の朋輩、この家の外なる廣庭に集まり、その朋輩は、園中にある小亭を圍み、露に暴されて座を占め、教師となれるものは、その小亭に在りて、算題などを出して、夜中の教課を授けたり、天色清朗なる夜は、更深るまで、かくして業を勤めしが、或時は、一陣の驟雨[ニハカアメ]俄かに降り灑ぎ、石版に書したる数目を洗ひ去り、已むを得ず、その夜は散會して、各、不興[オモシロナク]に思ひしことも間ありり)、冬天の時候近づき來たれば、いかにして庭中に寒夜を過ごすべき、且朋輩次第に増して、尋常の民家にては、其人数を容る能はざれば、何にもこれを庇蔭[オホフ]する居所を求めざるべからざることとなれり、この朋輩、孰れも貧しき少年にして、一週七日に、甚だ些少[スコシ]なる工銭を得ることなれども、一屋を賃し借らんと思ひ立ち、此よ彼よと、尋ねたれば、遂に一の汚穢[キタナキ]なる大屋を看出したり、この大屋は、コレラ〔霍乱〕流行せし時、これを病院に用ひしものなれば、なほ瘟疫その中に蔵れりと思ひ、人々これを嫌ひ避くるものから、この地の主も、誰やらん知るべからず、然れども、この朋輩の少年、これ等を恐れず、相議し、一週七目に幾程といへる賃銭にて、この大屋を借り、椅子及ぴ書机[ツクエ]を安置[オキナラベ]し、冬課[ケイコ]を始めしが、この場所、忽ち夜學紛繁[セワシク]にして、而も快楽なる景象[ケシキ]を顯はすこととなる、この教課は、甚だ粗陋にして完全ならざれども、堅志定力を以て爲したり、されば、朋輩中、少しく知る者は、己より知らざるものを教へ、自から修め善くする間に、他人を修め善くし、総べてその爲すところの事、一箇の勉作する儀範を立てたり、かくして、この少年相互ひに、讀書作文、算術地學を、或は教へ、或は學び、中には、數理化學、及び諸國の言語を教學するに至れり、同志の少年、大約百人に満ちしかば、その志願、益々大いになり、教師を招き、講談を聴かんと企つる折しも、我〔斯邁爾斯〕この事を聞くに與かれり、同志者中の人、我が家に來り、我が講説を為して彼等に與へんことを請ひ、今まで爲ししこと、この後爲さんと欲することどもを、備さに述ぶるその言辭、極めて謙遜なり、せめて我に叙引の小話にても、説き給へかしといふにぞ、我も彼等の自助くる精神あるに感動せられ、竊かに思ふには、通俗の言語を以て、講説することは、我の所長に非す、されど些少[スコシ]の言語にても、勤勉の意、忠直の意、眞實の意より發して、講説を與へなば、後來に至り、或はこれより善果を結ぶことも、あるべければ、未だ必ずしも稗益なくばあらすと、因りてその請ひを許せり、我この精神を以て屡自ら成就したりし諸人の遺範を講説し、人各々大小に限らず、自己[ジブン]に頼りて、萬事を做すべきことを語り聞かせ、及び後来の福祉安寧を望まば、各自一箇の人.たゞ自己にのみ依頼すべし、詳かにこれを言へば、自己の勤勉なる自修の力、及び自己の定むる規法、及び自ら検束する行事に依頼すべし、就中その最要なるものは、人たるもの、各々その職分を盡すに、正直誠實なるべし、これ實に男子品行の尊榮なるものなりと、これ等の事を諸人の例を引いて、指示したりき、
この教訓は、所羅門【古へ以色列の賢王の名】の箴言【バイブルノ中のプロバルプス】
と全く同じくして、少しも新らしきことなく、又別に造り出したるものなし、我が教誨、舊に仍るに過ぎすと雖も、甚だこの少年に悦ばれ、接受せられたり、さて、この少年、各各堅志勉力を以て、その生涯の道路を行き、大人となるに及び、各々種々の方向に進みしかば、この輩、多くは、有用の職事に任する人となりたり、この教訓を爲ししより以來、数年を経、その事、忘れたるが如くなりしに、或夜忽ち一人の客、鋳鐵場の工場より、新たに来るものと覺しきもの、訪ひ來り我に語つて、某は今工人を使ひ、富饒なる人となれり、抑も昔年、先生懇に我が輩を教誨し玉ひし事を憶ひ出し、感恩の情に堪へず、某生涯の路を行き利運を得たるは、實に先生の訓導の力に頼れり、先生の吾が輩を勧勉激励し玉ひし精神に負くまじと、常々志ざし、遂に利達を致したりと言へるを聞きしことのありにき、


自助論原序
此書は、既に英國并ぴに他國に博く行はるゝものを再校するものなり、亜米利加に数種の版ありて印行し、和蘭、法蘭西、日耳曼、領墨の人、各々その邦語を以て譯せり」、この書は、前人の行状を載せたれば、讀者必す前人の勞苦を経、試験を積み、難事に耐へて、大業を成就するを観て、奮發の意を生すベきなり、
此書、既にセルフ ヘルプ〔自ら助く〕と名づけて、世に行はれたれば、今又改むることを爲さす、然れども、一言を述べて、讀者の誤解を防がざるを得す何如にとなれば、もし人たゞ表題に由りて、セルフィシネス〔自ら私するの意〕と混淆し、自ら私する事を讃美するの書なり、と思ふときは、作者の意と、正に相背反[ウラガヘル]することなり、」蓋し作者、主として少年の人に、自ら勤めて當然の志業を做し、勤勞を惜ます、辛苦を厭はす、淡薄を以て自ら奉じ、【或は清廉の節を守ると譯す】遂にその志業を成就し、自己の功勞に倚仗して斯の世に自立し、偏に他人の扶助恩顧に倚頼すべからざることを勧めんが爲に、この書を作ると雖も、然れども、亦文人、學士、工藝の人、新術新器を發明する人、教育を掌る人、仁慈の事を行ふ人、傳道のために遠方に行旅する人、傳道の爲に身を殺して仁を爲す人、此等の人の遺せる標準[ノリ]典型[テホン]に由て観るときは、その自ら助くるの職分を盡すの中に、他人を助くるの意は、自ら包含すること明かなり、
或は難じて、この書自ら助くるの力によりて益を得たる人のみを多く擧げて、その敗れを取りたる者に及ばす、と言ふものあり、之に對へて曰く、た“敗れを取りたるのみの事は、言ふに足らす、然れども、次の書卷を讀むときは、失敗[シソコナヒ]の事は、真正[ホントウ]の勉強する人の爲に、極善の教訓となることを知るべし、
蓋し試み爲すの事、幾回となく敗るれば、その回ごとに、益々奮發して、精力自ら生じ、自ら己れを治めて、知識益々長ずることを得べきなり、之に由リて観るときは、失敗[シソコナヒ]の事は、〔苟も能く堅忍耐久[シンボウヅヨキ]の心を以て、これに勝ちたらんには、〕利益となり教訓となる事なり、故に我れかくの如き例を多く擧げて、この事を明にするを務めたり、
人或は功なくして敗るるものあり、然れども、善事を企てて成らざる者は、善人たることを失はす、故に敗るると雖も貴ぶべし、不善の事を爲して、一時或は成就するとも、た“に汚名を流すのみ、故に人の事を爲すは、善悪如何と問ふを要す、その跡の成敗のみを観るべからず、然りといへども、善事を志して成就したらんは、失敗したるには遙かに勝るべし、凡そ事の成就するは、人の定志あり、勉力あり、忍耐あり、勇気あることの結果效験なり、古人曰く、
人は、成敗得失を使令し、己れの意に從はしむるの権なし、然れども、勉強して已まざれば、天賞として、成就の賜を受くべし、
この書を作る主意は、約してこれを言へば、昔より言ひ傳ふる善教を、少年の人に申戒せんと企てたるものなり、曰く、「少年の時勞苦せば、暮年は安樂を享くべし、」曰く、「天下の事、勤勉學習せすして能く成就するものは、決してこれなし、」曰く、「學者爲し難きの事に逢ふと雖も、その志を折くべからす、忍耐恒久の心を以てこれに勝つべし、」就中[トリワケ]最要の教に曰く、「人たるものは、その品行を高尚にすべし、然らざれは、才能ありと雖も、観るに足らす、世間の利運を得るとも貴ぶに足ることなし、」我れこれ等の教を、世の少年に暁さんと志し、この書を作れり、もしこれに由りて、發奮勉強の人生じ來らざれば、我が著書は功無くして敗れたりと云ふべきのみ、

 

第一編 邦國及び人民の自(み ら)助くることを論ず、
彌爾(ミル)曰く一國の貴とまるゝところの位價[あたひ]は、その人民の貴とまるゝものゝ、合併[ひとつにまとまる]したる位價[あたひ]なり、
垤士禮立(ヂスレイリ)曰く、世人つ子に法度[おきて]を信ずることは、分外[あたりまへのほか]に多く、人民を信ずることは、分外[あたりまへのほか]に少なきことなり、
一 自(み ら)助くるの精神
天は自(み)ら助くるものを助くと云へる諺は.確然[しかと]經驗[ためしこゝろみ]したる格言なり.僅(わづか)に一句の中に.歴(あまね)く人事成敗の實驗[ためし]を包藏[こめてある]せり.自(み)ら助くと云ことは.能く自主自立して.他人の力に倚(よら)ざることなり.自(み)助くるの精神[たましひ]は.凡そ人たるものゝ才智の由て生ずるところの根原なり.推(おし)てこれを言へば.自(み)助くる人民多ければ.その邦國.必ず元氣充實し.精神強盛なることなり.○他人より助けを受て成就せるものは.その後.必ず衰ふることあり.しかるに.内自(み)ら助けて爲(なす)ところの事は.必ず生長して禦(ふせぐ)べからざるの勢あり.蓋し我もし他人の爲(ため)に助けを多く爲さんには.必ずその人をして自己勵(はげ)み勉(つと)むるの心を減ぜしむることなり.是故に師傅[かしづき]の過嚴[きびしすぎる]なるものは.その子弟の自立[ひとりだつ]の志を妨ぐることにして.政法[せいじ]の群下[しものもの]を壓抑(あつよく)[おしつける]するものは.人民をして扶助を失ひ勢力[いきほひ]に乏(とぼし)からしむることなり.

(二)人民は法度の本【士農工商を統て人民といふ、農のみにあらす、下これに倣へ、】
邦国にて立つるところの法度、たとひ美を盡くし善を盡くすと雖も、人民の爲に眞賓の助けどは成らざることなり、蓋し人民をして、その自己の爲るところに任せ、その志を伸ぶることを得せしめ、それをして自己に勉励進修せしむれば、すなはち人民の爲に眞実の利となることなり 然るに、何の世の人も、ひとへに誤つて、己等の幸福を受け、年安に日を度ることは、法度のある所以に由ること多くして、自己の所行に由ること少しと思へり、且つ人民の開化に進むことは、法度を立つることに由りて得らるゝものと思ふよりして、法度を立つる事を、分外に貴める通俗の論とは成りたるなり、」各府縣より三年或は五年の中に、一二人を薦挙L、立法院に入らしめ、國法百萬分の人を議立し或は議革すること、縦ひ十分に能く其職を盡すとも 人民の立身制行の上に於て、眞實の利益となることは甚だ少、」且つこれのみならす、昔より今に至り、日に益1顕然として證知したることは、政堂憲署は、陰虚にして陽實に非す、好を禁じ亂を遏むるの用多くして、善を勧め行を励ますの用少し、蓋し保護の用のみなり、人民の生命を保護し、人民自主の権を保護し、人民の産業を保護すろまでのことなり」。法律は、たとひ極善なるものと雖も、人民をして、その或は心を養し、或は力を盡して得たるところの果實を享用せしめんが爲に、これを安穏に保全するまでの功用のみ、」
律法は、たとひ極嚴なりと雖も、懶惰の人をして勉強ならしめ、奢侈の人をして倫節ならしめ、爛酔を好むものをして酒を禁ぜしむること能はす、かくの如きものは、特に人民各箇に身を修め、家を治め、又己私に克たんと欲すろ志、發生するに非ざれば、改化すること能はざるなり、且つ他の風俗の美善なるもの、その能く人民をして観感興起せしむることは、律法の権力に比すれば更に大なり、

(三) 國政は人民の光の返照なり
邦國の政事は、特に人民各自一己のもの會集して放つところの回光返照なり、」蓋し人民は政事の實體にして、政事は人民の虚影なり、譬へばこゝに一國ありて、人民の品行劣悪なれば一時その政事優美なりとも、幾何もなくして、その政事必す退き下りて人民同等の位に至るべし、又一國あり、その人民の風俗優美なれば、一時その政事劣悪なりとも、幾何もなくしてその政事必す進み上り,人民同等の位に至るべし、」元來邦國は、人民によりて成り立ちたるものなれば、人民の性行の集まれるもの、結果成就して、律法となり、政事となることなり、さるからに、人民と政事とは、その善悪の位價は同等にして優劣なきことなり、譬へば水の如し、その昇降ともに、各iその自己の水平に至ることを求むるなり、品格尊き人民は、品格尊き政事を以て統治せざることを得す、〓愚にして壊悪なる人民は、自ら愚なる政事を以て管理せらる‘ことなり、歴く古今を察し、成跡を案ずるに,邦國の優劣強弱は、その人民の品行に關係すること多くして、その國政に關係すること少し、」何にとなれば、邦國は、特に人民各自一箇のもの!合併せる総名なれば、所謂、開化文明と云ふものは、他なし、その國の人民男女老少、各自に品行を正しくし、職業を勉め藝事を修め善くするもの、合集して開化文明となることなり、

(四) 邦國の盛衰
邦國の昌盛は、人民名自勉強の力と正直の行ひとの総合せるものなり、邦國の衰退は、人民各自懶惰にして自ら私し、及び穢悪の行ひの集合せるものなり、」是政に、邦國に於て最も大害となすべきものは、人の性行壊悪なるなり、此風漸く長ずれば、たとひ律法を以て一時これを〓除すとも、再びまた萌發長育することなり、これ人々自己に過ちを悔い、行を改むるに非ざれば、その弊風悪俗は、決して除き去ること能はす、然るにより、忠愛に厚く、仁恵
を好む人は、特に法度を變じ政事を修むるを事とせすして、専ら務めて民を勧励化導し、それをして、自ら能く樹立し、主張し、良心を崇うし、善行を修めしむるなり、
凡そ人、外より統治せらるゝことに由りて生するところの利害は、その関係するところ甚だ小なり 蓋し人間萬事、皆な人々内自ら治め自ら主ることの上に關係するものなり、是故に、君上権を擅にするの國の人民は、たとひ悪政を以て治めらるゝと雖も、これを稱して奴隷の最も尊き者といふべからす、人民の徳行を修むるを知らす、自ら私しするの心、及び邪悪の心に使役せらるゝものをこそ、眞成の奴隷と名づけて、當れりと云ふべけれ、かくの如く、人民の心中に私欲生じ、これが爲に奴隷とせらるゝものは、たとひ、如何様に法度を變じ執政の人を改むるとも、これ等の事のみにては、この奴隷を救うて、自主の人に化せしむること能はざるなり、ぞの國の政府にて、自由の権を專にし、人民を抑下するを以て善しとする不祥の謬説行はるゝ間は、官吏を換へ政事を變する等の事を爲し、いかほど力を竭すとも、さらにその益あるべからず、譬へば破璃鏡に顯はるゝ畫影の種々に變動流移するが如く、つひに著落せる實形となりて、永続する功效はあらざるなり、邦国に自主自立の権あることなれども、その自主の基礎は、人民の性行の上に在るなり、而してこの人民の性行は、實に衆志を合せ、保全を謀り、邦國百事をして上進せしむるの擔保なり、
彌爾曰く、覇政の國と雖も、その人民に箇々自立せるものある間は、極悪の徴候を生ぜす、且つ何の政體を論せす、凡そ人民の自立を壓壊するものは、これを覇政【又虐政と曰ふ】と云ふべきなり、

(五) シーザリズムの一派と自助の説と反対なることを論ず
人世を治むる道を論ずるに、古より謬説互に轉じて主となり、週りて復始まることなり、或はシーザルス【羅馬古代の帝にして、國権を己に専にするものなれば、権勢を人君に帰ぜんと欲する政學家の名となれリ、】を主とし、或は人民を主とし、或は英國君民協議して定むるところの律例を宗とせり、然れども、自立の根元を論ぜざれば、皆な迷謬を免かれす、シーザルスは、人民の己を認めて君主となして順從するものは、これをして福利を得せしむることを務む、この教派は、人民の爲に、百事を具へんと欲す、人民に由りて、一事を成すことを欲せす、この教派を師とせば、必ず衆民天良是非の心を強ひて、覇政に陷り入らんとするの患ひあり、」シーザリズムは、極劣の神像なり、そのこれを拜〓するものは、特にその勢力を怕るゝのみ、その甚だしきに至りては、特にその財貨を利するのみ、自ら助くるの説は、これに比すれば、遙に平穏にして弊害の生ぜざる教へなり、世人この説を能く理會したらんには、シーザリスムは、廢棄して再び興らざるべし、この兩説は、互に相容れさるの仇敵なり、維多爾、休哥筆と剣を論じて、彼れ此れを殺すに非ざれば、此れ必歩彼れを殺す、といへるは、轉用してこの二説の反對するものを論ずべきなり、

(六)維廉・大耳、自立の事を論ず
国政を論ずるもの、或は人民を主とし、或は君民協議の法を主とす、然れども自立の根源を論ぜざれば、皆な眞成の治道といふべからす、維廉・大亘は愛蘭の忠愛の心深かりし人なり、都伯林【愛蘭の都】において、百工藝業展覧會を開きたることありけるが、その收場の時、言たることを今こゝに引くべし、我いま眞實を語るべし、我毎に人のインデペンデンス〔自主自立〕といふ語を聞くごとに、吾が國と吾が人民の事を想ひ出さすといふことなし、夫れ自主自立の源、 吾が邦より生ずるものあり、又外國人の吾が國に來れるものより得るものあり、然れども、我深く吾が心に悟れるは、インダストリアル、インデペンデンス〔工事を勉強するよりして生する自主自立の権〕は、全く吾等自己の力に依頼すろことなり、」我思ふに、邦民の勉強して工藝を爲すに由って、今日の如き昌運に至り、光輝を發したるは、未曾有の事なるべし、然りといへども、こゝに止まるべからす、邦人既に一層級を進めたれば、これよりして、恒久堅忍を以ていよノ、成就の功を奏すべきなり、我思ふに、邦人鋭意に勉強せんには、今より後、久しからすして、邦人盡く同等の安寧を得、同等の福祉を享け「同等の自主自立の権を得べき地位に至り、又外國の人民と、同等にかくの如き福運を受くべき時、至りぬべし、これ予の深く望むところなり、

(七)貴賎に限らす、勉強忍耐の人、世に功ある事
凡そ諸邦國、今日の景象に至るものは、皆な幾世幾代を経て、諸人或は心思を勞し、或は肢體を苦しめて成就せしものなり、」忍耐恆久の心を以て、職事を勉強する人、尊卑貴賎の別なく、〔土地を耕墾する人、鉱山を検尋する人、新器新術を發明する人、工匠の人、品物を製造する人、詩人、理學者、政學家〕これ等の人、古より今に至るまで、次第に工夫を積めるもの、合湊して盛大の文化を開けるなり、」夫れ文藝の事、百工の業、これを勉強學習する人、常に相継ぎて絶えざるに由りて、その始め混沌出るものより頭緒を見出し、秩序を定め光るなり、故に今世の人は、租先の知識勤勞に由りて一學術の産業を傳はり受くるものなれば、これを補修闡明して、後人に遺るべきなり、

(八) 英人、自ら助くるの精神ある事
英國の人民は、自ら助くるの精神ありて、勢力を奮起し、百事を勉むること、昔より風俗を成したり、群衆の中に崛起して、其名を顯はし、元來貴顯なる人の上に出づるもの、何れの世にも常にあらざることなし、而して英国の勢力は、實にこれに由りて生することなり、」然れども、こゝに亦た著眼すべきことあり、我が邦の上進することは、獨り有名の人の功にあらず、微賎の民、その名も知られざるほどのものと雖も、衆力を合せ、邦國を助くること、その利益、また思はざるべからす、」史册の上に、大合戦を記するに、大將の名のみありて、歩卒の名あらず、然れども、歩卒箇々に英雄の気象ありて、善く戦ふに由りて、捷を奏することなり、」且つ人民の生涯も、また歩卒の戦闘に比すべし、その姓名傳はらざるものといへども、傳記に名を留むる大人豪傑と共に、世の開化文明の上進を助くること、甚だ多きなり、」至微至賎の民と雖ども、その職事に勉強し、平生の爲すところ、正直、忠厚、節廉にして、他人の儀表となれば、その國の治化を裨くること、獨り當世のみならす、後代にまでも及ぶべし、何にとなれば、一人たりとも、その行状良善なれば、自ら他人に傳染し、その模範を互に相師法とし、後代まで廣く行はるゝことなればなり、

(九) 實事習験の學問
凡そ人の精力を出だし、職事を務むることは、最も善き實事習験の學問なり、而して又大に他人をして、奮發興起せしむるの益あることなり、」彼の大小學校郷塾にて教ふるところのものゝ如きは、この實事習験の學問に比すれば、特に入門の初歩に過ぎざるのみ、」我等、毎日の閲歴よりして、得るところの實益は、遙に学校の教への上に出でたり、されば、我が家の中にも、街街の間にも、帳櫃の後にも、店舗の中にも、織機の上にも、犁鋤の下にも「寫字房の中にも、工場の中にも、凡そ大衆熟閙、事務紛繁なる處、みな親歴實験の學問の在るところにあらすと云ふことなし、」かくの如く學問するを、昔爾列爾、名づけて人類の教道といへり、即ち日用の品行擧動の上にて、自ら身を修め、自ら己れに克つことに力を用ふるなり、
かくの如く眞實に學ぶときは、人々一生の間、各々その當然の職務を盡し、事務に應することを做し得べし、彼の特に書册より學び、文字より得たろものとは、霄壌の差なり、」倍根曰く、尋常書冊上の學問は、人をして、これを眞實の用に供せしむること能はす、又學ばざれども、才智ある人あり、然れども、眞實有用の學は、獨りオブセルヴエィシヨン〔實事實物に就て熟観審察する〕によりて、贏得せらるゝことなり」この説、人生實學の要領を握るのみならす、又心靈を修養する道も、これに外なることなし、故に断じて曰く、人の自らその身を成就するは、作勞より得ること 讀書より多く 閲歴より得ること、藝文より多く、行事より得ること、學習より多く、人品を観るより得ること、言行録より多きなり、」

(十) 言行録の、人に益ある事
然りと雖も、豪傑の言行録、就中、善人君子の言行録、最も他人を補助し、倡導し、勧勵することなれば、その教訓となり、裨益となること、甚だ多し、その極善なる人の言行は、殆ど福音書に均しく、その高潔の生涯、高潔の志念、并びにその己れを善くし又天下を善くせんと欲して爲るところの邁往剛烈の行状は、みな世の教となることなり、」言行録の中に載せたる前人の模範〔即ちその自ら助くるの力、耐久の志、堅忍の作業、信實の行ひ〕を観るときは、人々自己の體面を存するの力、并びに自己に依頼することの力は、能く極卑微の人をして、自ら該得の富貴を造り出し、不泯の名聲を建立せしむることを知るべきなり、

(十一)大人豪傑は、貴賎貧富に拘らざる事
學術文藝の大家、大志を抱ける傳法教師、及び寛仁大度の爵位ある人は、固より定まりたる地位より出づるにあらす、又限りたる種族より出づるにあらす、これ皆な或は學校より、或は工場より、或は農家より、或は貧民の陋屋より、或は貴人の大館より出づることにして、差別あらぬことなり、」有名の傳法教師となれるものにして、歩卒より出でたるものあり、」蓋し貧苦艱難の二者は、決して人の進路を妨ぐるものにあらす、何にとなれば、極貧の人、時としては、極高の地位を占むることあり、又踰越すべからざるが如き艱難ありと雖も、終にはその障礙するものを除き去りて、必ず亨通の路を得るなり、且つ此れのみならす、艱難の事は、毎に人をして勞苦忍耐の力を惹き起し、非常の才能を發生せしむることなれば、補助の最も善き者と稱して可なり、古より障礙を踰越し、奇勲を捷得するもの、その例甚だ多きを観るときは、「人、一志を以て萬事を爲し得べし、」といへる諺の謬らざるを知るに足れり、」
その著しき例を擧げて、これを證すべし、上帝道學士にして詩人なる惹列迷・泰洛爾、紡糸機器を創造し、製棉工場の元租たる力査・阿克來、司法官の有名なる典的兒田、山水畫工の絶技なる篤爾涅児、以上数人は、皆な始めは剃頭業を爲せしものなり、

(十二) 舌克斯畢の事
英國詞曲の名家なる舌克斯畢は、元来何なる種族より出でしや、その説種々にして定まらす、然れども、卑賎より發達したるごとは疑ひなし、その父は、屠者及び牧人にして、舌克斯畢、幼時、獣毛を擁するを業とせり、或は曰く、舌氏、始め郷塾に在りて助教たり、後に或人家の書弁となれり、舌氏は、凡そ所有人類の事を知りたれば、「人間萬類の撮要録」【人間萬類の事を一身に蔵したるゆゑ、かく比象していふ】と名づくるも可なり その舟人の諺語を用ふること切當にして謬らざるがゆゑに、或は舌氏は必ず水手たりしことあるべしといへり、その著書中に傳法教師の事の委曲を盡くしたれば、舌氏は必ず牧師の書班たりしことあるべしと考論するものあり、又その馬の皮肉を能く分別定断したれば、或は馬商なりしとも云へり、」然るに、舌氏は切に優人なりしなり、その年時を送る間、平生、試験観察に由りて得たる學識を、盡く戯曲に顯はせり、蓋し舌氏は深沈なる書生にして、勉強して業を做せる人なることは疑ひなし、その著はすところの書、人心を感ぜしめ、我が英人の品行を造り成すの盆あり、今日に至りて、盛んに世に重ぜらる

古克、安永八年生、文政十一年没、

(十三)貧賎より出でたる豪傑の人
日工よりして起れるものは、量地官たる伯倫徳例、航海に長ぜる古克、詩人薄爾尼斯等なり、
汚者磚人より出づるものゝ中に、便.戎孫は、手に鏝を持し、懐中に書を納れて、操作せしといへり、その他、量地官たる義徳瓦圖及ぴ的爾福徳、地學博士たる休.彌爾列爾、著書家及び彫像匠たる亞蘭・勘寧含 みな汚人磚人より出でたる人なり 木匠より出でたる卓犖の人には、建造工人たる意尼額・若涅士、時辰標の有名の工人赫利孫、人物の體質を察する學者潤・翰他、畫家洛模尼、及び窩比、東洋の學に通する李、彫像匠たる戎.奇伯孫等なり、織工よりして起れるものは、算學家西模孫、彫像工倍根、上帝道學士米爾納兄弟二人、亞坦・話兒客兒、上帝道學土戎・福士的爾、禽學者維爾孫、傳法教師律賓士敦、詩人丹納喜爾等なり、鞋工よりして起れるものは、有名の水師提督古労垤士禮・叔夫爾、電気博士斯打戎、文章家撒母耳・徳留、「クヲートルレイレビユー」書名 を著せる吉福徳、詩人伯路模非爾徳、傳法教師維廉・加禮等なり、勉強刻苦せる傳法教師馬禮孫は、履法を作る工人なりしなり、

Admiral Hobson
Andrew Johnson

近き數年以來、蘇葛欄に托馬士・義徳瓦匹圖といへる草木鳥獣を究むる深奥なる學者、また鞋匠より起れり、その職業を爲せる餘暇を以て、この學科に心を盡くしけるが、小蟹の類を査究して、新に一種を看出したり、學士家因りてこの蟲をフラニザエドワルジァイと名づけたり、
裁縫匠より、亦卓犖の才を顯はせる人出でたり、史家戎・斯到、畫家若孫、嘗てこの業をなせり、好古斯呉徳は、波都の戦に、功名を顕し、義徳瓦第三より恩賞として、奈的の爵を賜はりしが、少年の時は、倫敦の裁縫匠の徒弟なりしなり、」水師提督河伯孫は、一千七百二年、士班牙未額港の戦に、水間を破りし勇將なりしが、亦この業を爲ししなり、」河伯孫、少時、懐的の裁縫匠の家にありける時、英國一〓の軍艦、此島より出帆すべき新聞をきゝて、急に海岸に走り往き、その光景を見たりしが、この小童、忽ち大志を生じ、水軍の人とならんと思ひ、一小舟に跳り入り、軍艦の處まで漕ぎ往き、船將に乞ひて、義兵となりたり、」数年の後、功名を荷ひて、故郷に歸り、普し賎業を爲しし小舎に來りて飲食せしとなり、」然れども、栽縫匠の大豪傑は、安徳留・戎孫に如くものなかるべし、即ち當今合衆国の大頭領に

馬禮遜、住支那二十五年
天明二年生、天保五年歿、

して、卓絶の行、心思の力ある人なり、邑中の長老たる時、大會の中に於て、立法の事を辯論しけるが、衆中に呼はるものありて曰く、彼は裁縫匠より起れりと、戎孫、この譏刺の言に答へて曰く、「誰やらん相公、予を裁縫匠なりと云はるゝこと、予に於ては 少しも妨げとは思はぬことなり、何にとなれば、余この職業を爲せる時、良工の名を得たり、又主顧の客に約したる期限を違へすして、善くその衣を製成したり、」と言ひしとなり、、
ウルセイヂフー アケレサイド ガルク ワイト
カルヂナル 烏爾西、垤夫、亜堅犀徳、客爾古・懐的は、皆な屠家の子なり、伴陽は、補
ジョーセフ ランカステル
鍋匠なり、淑瑟弗・蘭加斯徳は、籃匠なり、蒸気機器を創造し、大名を顯はせる牛國民、瓦徳、士提反孫は、その始め牛は打鐵匠、瓦は算具を造る工人、士は火器を運用する人なりしなり、」説法者翰丁同は、煤炭を擔ふ人、木版に畫を雕ることを始めたる伯維格は、煤炭を掘る者なりしなり、」獨徳士禮は、歩兵より、河爾克洛弗的は、圉人より起れり、航海者抜欣は、その始めは、船檣の前に供事する人なり、古勞垤士禮・叔夫爾は、船房の小厮なりし、花設爾は、軍隊の中にて、オボウ を吹く人なりし、長托禮は、旅行する雕工こなりし、壱逮は、旅行する印書匠なりし、托馬士・老連士は、酒家の子なりしなり、」彌開爾.發拉第は、打鐵匠の子にして、廿二歳に至るまで、釘書匠の徒弟となり、その業を爲せり、今は上等の理學者となりて、窮理科の深奥にして解しがたきものを、明かに辨析することは、その師翰弗禮・大未と雖も、これに及ぶこと能はすと云へり、

(十四) 有名なる天學者
天學を以て名を顯せるものゝ中に、哥白爾尼加士は、波蘭の麺包を焼く者の子なり、客不列爾は、日耳曼酒家の子にして、その身は給事しける小厮たりしなり、亞連白爾土は、冬夜に巴里のセン ジョン、ルロンドの寺院の石階に棄てられし孩兒なりしを、〓玻黎工の婦、拾ひ取りて養ひしなり、牛董は額蘭覃の小農の子にして、拉不禮士は、紅弗留爾の貧民の子なり、これ等の卓越なる人、いづれも、幼少の時、甚しき患難に逢ひたれども、その英才を以て力學せしにより、普く天下の財貨を以ても、買ひがたき程の不朽の大名を得たり、」貨財に富めるものは、却ってこれが爲に、進修を障礙せらるゝものなれば、その害たる、貧賎より大なることなり、拉額蘭日は、天學及び算数に明かなる人なり、その父、株林【以太利地】の武庫の官たりしが、億りし事中らすして、産業を敗り、極貧に至れり、拉額蘭日、常にその後來名聲及び幸福を得たることを、少き時貧困なりし事に歸して、「予をして、若し富人ならしめば、算學者となることは得ざりしならん、」と曰へり、


(十五)クレヂーメン【牧師と譯す、法官なり】の子より、名を顯はす人
クレヂーメンの子より、史冊上に名を顯はせるもの、特に著しとす、徳勒克、納爾森は、海上に於て功名を立てたる人なり、售拉斯敦は、上帝道博士なり、雍は、農學の書を著はせる大家なり、普禮揮爾は、算學の名家なり、白爾は蒸氣船を創造せし人なり、烏連は、建屋の名工なり、禮諾爾圖、緯爾孫、維爾啓は、いづれも、有名の畫工なり、索兒婁、堪不白爾は、みな律學の大家なり、閼垤孫、托模孫、哥獨徳斯密士、格列立地、典涅孫は、詩人文士の最も著しきものなり、」勞爾徳 哈爾定日、参將義徳瓦垤士、守備何徳孫、みな印度の戦に功名を顯はせる人なるが、亦クレチーメンの子なり、印度の英領は、實に中等種族の人に頼りて、勝ち得られたるなり、即ち屈來武、瓦爾連・哈斯丁士及び其他これに繼ぐ者、みな久しく商家舖店にありて、職事を作せしものなり、


(十六) アットルネース【状帥の卑き者】等、その他、卑賎の人の子にて名を顯はす人
アツトルネースの子より、卓越して名を成せるものは、以徳門・抜爾古、斯彌敦、斯格的.窩圖窩士、索末爾士、哈徳維克、段寧等なり、以上三人は、勞爾徳の爵に上れり、」維廉・伯拉克士敦は、賣絲商の子なり、勞爾徳吉福徳は、徳夫爾の雑貨商の子なり、勞爾徳田曼は、醫者の子なり、按祭司答爾福爾徳は、醸酒家の子なり、勞爾徳波爾洛克は、鞍匠の子なり、禮亜徳は、尼尼微の故跡を捜出せる人なりしが、倫敦状師館の書弁の子なり、維廉・亞爾模斯倫は、水力機器及ぴ新製の大砲を發明せるものなるが、また嘗て法律を學び、アツトルネーの事を爲せり、彌爾敦は、倫敦の呈状を代寫する者の子なり、波伯及び掃謝は、麻賣商の子なり、學師維爾孫は、沛士禮に住する製造工の子なり、勞爾徳馬高禮は、亞弗利加に旅する商人の子なり、基子は、賣薬商の子なり、翰弗禮・大未は、始めは薬舗家の徒弟たりしなり、大未嘗て云く、「予の今日の遭際は、予の自己を造り成したるものなり、これ虚飾の言に非す、心中の實を語るものなり、」と云へり、力査・窩蘊は、金石草木鳥獣の學に明かなる名家なりしが、少き時は、軍艦中給事の人にして、中年以後に至りて、始めてその業を修めたり、十年の間、醫科學校にありて、潤・翰他の集めたる、宇宙萬物及び術藝器物の目録を編著せるに由りて、その博學の基を造りしといへり、

(十七)卑賎より起りて大名を得たる外國人の事
自己の勉強と才能とによりて、貧賎より崛起して大名を世に揚けしもの、外國人に於てその例もまた少なからず、畫家口勞徳は、麺包を作る者の子なり、彫像工奇弗士は、麺包を焼くものゝ子なり、畫家留波爾徳・羅伯は、時辰標匠の子なり、樂歌を作れる有名の海同は車匠の子なり、始めて影相を金版に留むることを發明せし達礙爾は、戯臺に用ふる風景を畫ける者なりしなり、」羅馬法王となりし額列鄂禮第七は、木匠の子なり、希臘の理學家瑟克斯〓斯は、牧人の子なり、羅馬法王亞獨利安第六は、和蘭の船を漕ぐ者の子なり、亞獨利安、童子の時に、學問する爲に、蝋燭を買ふこと能はざるが故に、寺門或は街中の燈ある處に就きて課業を爲せり、かくの如く忍耐勉強なるに由りて、後来卓絶の人となりたり、」金石學者荷壱は、織工の子なり、器學家荷的弗列は、阿連士の焼麺者の子なり、算學者約瑟弗.夫理爾は、窩吉士耶の裁縫匠の子なり、建屋工〓蘭徳は、巴理の鞋工の子なり、金石草木鳥獣學者なる惹士納爾は、時立克の皮工の子にして、その學業に從事する間、貧苦疾病及びその他の災難に遇ひたれども、これがために、その勇気を失ひ、追修を怠ることなかりき、古諺に曰く、「許多の做すべき事ありて、これを勉め做さんと欲する人は。必ず許多の光陰を尋ね出すべし、」と、惹氏の平生を観るときは、此言の眞確なることを知るべきなり、」法國理學算學の名家なる比爾列拉繆士は、必加爾第の貧人の子にして、童子の時、牧羊を業とせしが、これを爲すことを屑しとせすして、巴里に逃れ往き、許多の艱苦に耐へ勝ちて後に、拿華列の學校に入り、奴僕どなることを得しが、それより幾時もなく、當時有名の人とはなりにけり、


(十八)製煉家卯格林の事
製煉家卯格林は、加爾華徳士【法国地名】の農民の子なり、郷學にありて、學童となりし時に、衣服襤褸なりしが、その聡敏の才を顯はせり、その師の讀書作文を教ふる者、卯格林の勉學を譽めて、童子努力學習せよ、他日、汝、聖會保長の如き衣服を著くるに至るべし、」と云へり、
一の薬舗主人、この學院に至り、この童子の身體牡強なるを嘆美し、その己れの店舗に至り、薬材を秤量せんことを勸めければ、卯格林これを承允しけり、然るに、その家に移る後、学問を爲るの暇あらざるを以て、遂にこゝを去りて巴理に赴き、薬舗家に給事せんと欲し、これを覓めしが、尋ね得ざりければ、卯格林、大に勞憊失望して病を發し、病院に入れられ、命を失ふべしと思ひし程なり、然るに幸にして快復し、後つひに、夫爾克雷と云へる有名の製煉家に知られ、私室の書弁となりしが、多年の後、夫爾克雷歿して、卯絡林これに継ぎて、製煉學の学師となりたり、千八百二十九年に、加爾華徳士に於で、民委官を選ぴける時卯格林その選擧に當り、その職を盡して後、榮名を荷ひ、昔し貧賎なりし時、離れしところの故郷に歸りしとぞ、

(十九)、法國に於て、歩卒より登用せられし人
法國始めの變亂以來、軍中の卒伍より貴顯の武官に障ること尋常の事となれり、英國に於て、これに比すべき例あらす、諺に曰く、「功名の路は才能の人の爲に開く」と、實にこの言の如く、若し登庸の路の開けたるものあらんには、我が英人も、また必ず彼に雙ぶべきなり、
何西、含白爾土、比斯額魯は、皆な歩卒よりして、その閲歴の路を始めたり、河西は、王の三軍の中にありしとき、常に短衣を刺綉し、これに因りて金銭を得て、兵書を買ひたり、含白爾土は、幼年の時に放逸なりしが、十六歳に及んで、家を出で、南西の商家又立翁士の工人の家に奴隷となり、又は兎皮を販する人に給事しけるが、二十二歳の時、義兵の籍に入り、一年を過ぎざる中に、營將に至れり、古禮倍爾、路費伯爾、蘇哂、維克土爾、蘭納士、瑣爾的、馬土色納、仙・細爾、徳亞倫、謨拉的、窩熱羅.白西列士、内、以上の將帥、みな卒伍より起れり、然るに、或は速かに超抜せられ、或は擧擢せらるゝこと遅くして一様ならす、仙・細爾は、多爾の皮匠の子にて、始め戯子となりしが、後に輕騎の兵籍に入り、一年の内に、甲比丹の職に上れり、白爾諾の公、維克土爾は、一千七百八十一年に、銃隊に入りしが、法國變亂の事、未だ起らざる以前に、その籍を脱せられたり、既にして、戦事起りければ再び兵籍に入り、數月の間に、その才略勇気に由りて、アジュタント メージョァ〔副都統〕及びバタリヨン(一旅 〕の長となれり、謨拉的は、百律臥徳の酒家の子なり、
始め輕騎隊に入りしが、〓〓にして、人に服せざるが故に、その職を罷められけり、然るに、再び兵籍に入り、幾何もなく、参將に至れり、」内は十八歳の時、軽騎兵營に入り、次第に位級進めり、古禮倍爾、忽ち内の軍功を看出し、ゼ インデファテイゲブル〔疲倦を知らざる人〕と名づけて、これを副將に擢でたり、時に僅に二十五歳といふ、」以上の諸人は、かくの如く、登進甚だ速かなりしなり、然るに、瑣爾的は、始めて兵籍に入りしょり、六年を経て、纔にサアジャント〔軍吏〕と爲れり、その後、次第に登推し、コロネル〔参將〕、ゼネラル、オフ、チヴイシヨン〔一隊提督〕、マーシャル(総兵官〕に至れり、瑣爾的曰く、予、軍吏の職を得たることは、多少の勞苦を積めり、その後得たる他の位級に比すれば、尤も難かりしなりと、」法國に於て、卒伍より將領に登進ずること、今日に至るまで、相踵けり、商額爾尼は、拿破崙(ナポレオン)第三の對手なる大將なり、一千八百十五年に、王の侍衛兵の籍に入りしと、いふ、」マアシヤル葡紹は、四年の間、歩兵を爲せし後、一官を得たり、」マアシヤル闌同は、當今法國軍務のミニストルなり、その掌鼓卒より起りし故に、閉爾西の集畫閣にあるところの畫像は、その手を鼓上に置けり、これ闌同の需めに應じて、かく畫きたるなり、」これ等の例に因りて、法國の歩卒は、元帥の持てる杖を、衣糧袋に帯ぶべき望みを以て、戦鬪に勇志を奮ふことなり、

(二十)伯洛沙敦の事、○以下四章、専心強力に由りて、卑賎より高位顕職に至りし人を擧ぐ
英國并びに外國に於て、専心強力、久しうして倦まざるに由りて、卑賎の業を爲せるものより、高位顯職に至り、國家を裨益する者甚だ多くして、世人の耳目に珍らしからぬことになりたり、」かぐの如く卓絶なる人の平生を観るときは、その早年に艱難と戦ひ、災禍に敵することは、後來の享通利達の爲には、必用にして少くべからざることを知るべし、英國百姓議院には、常に自己の力に頼りて發達したる人、甚だ多し、元来職業に勉強する人民に由りて、選挙せられ、議士となることなれば、然あるべき道理なり、英國人民、立法の権あることの信證と爲して、この議院に於て、各部落より薦擧せる民委官を歓接し尊敬することなり、」近き比、約瑟弗・伯洛沙敦は、薩爾福徳(サルフォード)の民官委なりしが、十時議單の事に因りて議論せるときに、嘗て自ら棉磨の工場に在りて小僮たりしとき、勞苦困難を受けしことを委曲に述べて、予この時よりして、他日もし運會を得たらんには、務めて此情勢を改め好くすべしと志したりきと、その眞情を云ひければ、惹迷土・額拉含、直ちに座より起ち、闔院喜色を形せるの中に於て、次の言を出して、「伯洛沙敦君は、かく卑賎より起られしにや、余は、今日まで知らざりけり、そもノ、新起の人にして、世襲の紳董と、肩を比べ、位を同じうせらるゝことは、元來議院に在る者よりは、榮光遙かに勝れることなり、」とぞ言ひける

 (二十一) 福克斯、林徳西の事
福克斯は阿爾譚の民委官なりしが、昔年の事を憶ひ出して、常の習ひに、「余、諾維古に在りて、織匠の小僮たりしときに云云、」と云へり、其他、今日巴力門議士に、かくの如く卑賎なりし人、尚ほ生存せるものあり、」林徳西は、舟を有てる有名の人にして、近頃まで、散垤爾蘭の民委官なりしが、嘗て政論對敵の黨より林徳西を誹謗しける時、衛毛士の民委官を選ぶ人に向って、その生平の事を朴實に語りけり、」十四歳の時、父母に別れ、額拉士哥より、立抜普爾に赴かんとて、蒸気船に入りけるが、船賃を償ふこと能はざるが故に、その代りに煤炭を積み入れんこどを船主と約し、この勞事を爲したり、既に立抜普爾に著して後、四十九日の間、職業を求め得ずして、辛うじて雨露を凌ぎ、時日を過せり、後に船中の小厮と爲ることを得たりしが、その堅固なる善行に由りて、十九歳の時、船主となりたり、」年二十三に及んで、洋海の職を休めて、海濱に居住を定めたるが、其後、、その身顯達すること速かなりき、自ら曰く、「予は著實に勉強し、常に勞作して怠ることな<、又人より施されんことを欲する事は、我れこれを他人に施すべきの大道理を、常に目存したるに由りて、福運を得たりしなり、」と云へり、

(二十二)維廉・若克孫の事
維廉・若克孫は、當今北達比杜の民委官なり、その遭際甚だ林徳西に似たり、その父は、蘭加斯徳の醫士にして、子十一人を遺して死したるが、若克孫は、その第七子なり、その子の既に長ぜるものは、父の生存の時に、教育を受けたりしが、その幼なるものは、父死して後、各々離散して、自己に衣食を圖ることゝはなれり、若克孫この時十二歳にて、郷校に在りけるが、こゝに居ること能はすして、一舟の傍に於て、暁六時より、夜九時に至るまで、勞事を爲しけり、既にして、その主人病に臥しければ、若克孫に命じて、その寫字房に在りて、事を司らしめたり、こゝに於て、頗る餘暇を得て、英國博物韻府の卷帙浩瀚なるものを、嘗めより終りに至るまで通覧せり、晝間にも讀みたれども、大抵は、夜中の業なりしなり、」其後貿易の業を爲しけるが、その勤勉に因って、贏利を得たり、」今は若克孫の帆船、四方の洋海に駛せ、地球上の萬國と、互市を通ぜり、

(二十三)力査・格伯田の事
力査.格伯田、また卑賎より起りし人なり、索塞の小農の子にして、幼年の時に、倫敦のシテイ【交易繁盛の市街】に送られ、貨物桟房の小厮となれり、格伯田、勤敏にしてその行ひ正しく、又甚だ見聞を廣むることを好みけり、その主人は、昔し郷校に在りて學びたる人なりし故、格伯田の書を讀むことの過度なるを見て、これを戒めけるが、この童子己れの嗜好に任せ、書中に遇ふところの寶貨を、その心に貯ふることを勉めたり、」これより次第に發達し、後に満遮士打に住し、白布に花を印することを業とせり、格伯田、常に公衆の疑問に心を用ひ、就中民衆の教育たるべき事に意を注ぎたり、抑も古より英國に於て、穀物入口の税を収むること、立てゝ法制となりしが、格伯田この法の公益ならざることを熟知し、これを廢せんと欲して、銭財を費し、心力を竭したり、既にして巴力門公議協同して、この法を廢せしは、實に格伯田の力なり、」格伯田始めて公會に於て宣説せしときには、言辞拙くして、敗れを取りりたれば、發憤して言辞を學習し、久しうして怠らす、後遂に談説勢力ありて人を勧誘する宣論者と稱せられ、羅伯・比爾【比爾は、始め穀税法を廢する説を駁せるものなりしが、後には格伯田の説に同じけり】と雖も、これを稱譽するに至れり、」法蘭西の國使徳路温・徳・路維士、巧みに格伯田を評して、「彼の人は、凡そ人の耐久勞苦に由りて事業を成就することを得べき生存せる明證なり、彼の人は、自己の賢能功力に由りて、極卑賎よりして、至高の地位に至る者の中に於て、最も善き模範を具へし人なり、彼の人は、英人に賦する堅實の性の最も著れたる表様なり、」と云へり、

(二十四)勤勉に非ざれば、百事、工妙に至る能はざる事
何等の情事に限らす、専精にして勤勉なれば、必ず卓然たる大名を以て、價銀となしてこれに償還せらるゝことなり、何等の藝業に限らす、その絶妙極美の地位は、懶惰なる人の能く達する所に非す、人をして富饒ならしむるしのは他なし、勤勉の手、勤勉の心のみ、人をして才智を長じ、事務に當らしむるものも、また此の二者のみ、」たとひ富貴の家に生るゝ人と雖も、凡そ眞實の聲名は、心を専らにし、力を用ふるに非ざれば、贏ち得ること能はす、何にとなれば、田畝の産業は、先租より傳はり受くることを得べけれども、學問及び才智の産業は傳はり受けらるベからす、貨財に富める人は、己れの作業を他人に爲さして、之を償ふことを做し得べし、然れども他人より思慮の力を己れに得て、これを償ふこと能はす、又自ら修養すべきの事を買ひ得ること能はざるなり、」故に「凡百の事業の絶妙極美に至ることは、特に専心勉力に由りて贏得せらるべし、」と云へる教語は、貧富に通じて皆な用ふべし、蓋し徳留及び吉福徳は、補鞋工の藁店を以て學校と為し、休・彌爾列爾は、古格馬底の採石礦を以て學校と爲せり、かくの如く苦學せざれば、富人と雖も、百事その妙處に至ること能はざるなり、

(二十五)富貴の人、、また自助の力を要す
富貴安逸は、人の才徳を修養する爲の必須のものには非す、故に古より今に至るまで、天下の利、邦國の盆は、極卑賎より起れる人の力に頼ること甚だ多し、」蓋し安逸驕侈に生長する人は、艱難の事と、爭賽すること能はす、又人生に缺くベからざる奮勉剛猛の力を生じ出だすこと能はざるなり、故に貧苦に逢はざるは、人の不幸なり、然れども、能く自ら助くるの勢力を發し、安逸の事と戦ひて、これに勝ちたらんには、不幸を轉じて幸福と爲すべし、蓋し安佚と才徳とは、兩立せざるものなり、故に人往々己れの才徳を貶して安佚を買ふものあり 然れども、正直誠實なる人は、安佚驕侈と戦ふて、自己の勢力を生じ、自己に信仗して遂に凱勝を奏することなり、倍根曰く、世人、富と力と二つの者を能く理會するもの少し、故に富を以て力より重きものと思へり、其實は然らす、自己の力に依頼し、自ら澹泊を守る【又自ら倹節を守ると譯す】 この二者、實に人をして自己の井水を呑み、自己の麺包を喫せしめ、又人をして職事を學習し、勞作し、及びその當に爲すべきの善事を行ひ遂けしむることなり、

(二十六) 富貴に生れて征陣の苦を甘んずる人
富みて財多きは、人を心て安逸に誘かしめ、自暴自棄に惑はしむるものなり、故に大産厚資の家に生れて、遊楽を蔑視し、勤勞の事を務めて時日を送る人は、その榮名、最も大なることなり、英國に於て、富饒の人にして、國家の事に勤勞し、危難の任に當るものは、甚だ世に崇敬せらるゝことなり、ペニンシュラの戦に、加比丹の次官なる人、その隊伍の傍にあり、
深泥の中に、艱難行歩するを見て、或人これを稱賛し、「彼に一年の産一萬五千金の人歩行せり、」と云ひけり、今時に在りて、色抜斯土卜兒の寒地、及び印度の熱土に於て、爵位あり資産ある人、己れの國の爲に戦鬪に勇み、生命を抛ちたるもの、多く芳名を不朽に傳へたり、

(二十七) 富貴に生れて有名の學士と写れる人
富貴の人にて、理學或は工藝に從事し、卓絶の名を得たるもの、少からず、」その例を擧ぐれば、理學の父と稱せらるゝ倍根の如き、藝術の士に於ては、鳥斯徳、倍爾、加便垤西、答爾僕、洛斯の如きもの是れなり、」洛斯は爵位ある家に生れたる器學の大家と稱すべし、然れども洛斯もし爵位の家に生れされば、必ず上等の創造者と稱せらるゝに至るべし、」嘗て一の大なる工場に於て、衆人操作せることあり、一の工人、洛斯の爵位ある人なることを知らすして、強ひて洛斯に請ひて、その頭人となせしことありき、かく迄工事に明かなりしなり、」洛斯の自ら製する望遠鏡は、古来より比類なきものなり、

(二十八)名門右族に生れて政學文章に長ずる人、附羅伯・比爾
政學家文章家に、名門右族より出づる人少からず、この學科に於ても、また勉強學習の功を積まざれば、成就に至ること能はす、故に巴力門の頭位に在るものは、必ず皆な勉強勞苦を極めたる人なり、巴麦斯敦、大伯 拉設爾、垤士禮立、額拉特斯頓の如き、皆な是れなり、」
以上諸人は、巴力門の繁劇なる時に當りて、晝夜ともに勉勞を作せり、羅伯・比爾は、今世の最も勉強なる入なり、比爾、精力常人に絶れ、常に心思を用ひて、吝惜することなし、その履歴を観るときは、中等の資性を具ふる人と雖も、勉強して心を用ひ、勞力して倦むことなければ、許多の事業を成就すべきことを證知すべきなり、」比爾、四十年の間、巴力門の議士に列し、その功勞甚だ大なり、」常に良心に從ひて諸事を行ひ、必ず貫徹するまでに為したり、」凡そその論辯するもの、必ず豫め詳かに學習して、然る後に或は言に發し、或は文に書せり つひに倉卒に出つるものなし、」その自ら心力を勞すること、殊に過甚にして、人に接見するにも各々その人の器量に随ひて、これに體貼將就して、餘力を惜ます」且つ又實事習験の智と、志向堅定の力と、及ひ両目両手を著實に運用するの才あり、就中一事尤も他人に超絶するものは、その持論、歳月を閲するに随ひ開拓擴充せり、」年已に老いると雖も、その気象たゞ衰縮せざるのみならす、益々粋美純熟に至れり、」死に至るまで、新見異論を聴納することを爲せり、人多く思へらく、「比爾は謹愼に過ぎたり」と、然れども、比爾、實に從前の見識を以て、自ら善しとするの心なし、蓋し自ら善しとするの心は學問の〓瘋にして、老年の人をして、また進境あらざらしむるものなり、

(二十九)勞爾徳 伯路寒
伯路寒の強勉にして倦むことなきは、世人の遍く知るところなり、」その公務に勤労すること、六十年に過ぎたり、その間、或は法律、或は政事、或は藝術に從事し、何れも卓然衆に超えすといふことなし、何なる工夫を用ひて、かくの如く、許多の事を成就し得たるや、定めて秘密の方あるべし、と疑はるゝ程なり、」或人、嘗て撒母耳・羅彌爾禮に向って、一の新功を企て爲さんことを請ひければ、羅彌爾禮推辭して、「我れは、これを為すの暇あらす、然れども伯路寒なちば、暇あるべし、彼の人は、何事を為しても、暇あらすといふことなし、」所謂秘密の方は他にあらす、伯路寒、ミニユートの暇といへども、空しく過ごすことなし、并ぴにその身體剛強にして鐵の如し、」老年に至り、尋常の人ならば、世間労苦の事を辞して、安逸を消受し、床榻に凭りて〓睡して、時日を送るべきに、伯路寒は、この時より、 光線の法を始めて考究し、心力を勞し、終にその功夫を成就し、倫敦、巴理の碩學名家をして、集會論定せしむるに至れり、」且つ此の時またその著はせる「若爾日第三の時代文藝學術の人」といへる書を印行し、又公侯議院に於て、律法及ぴ政事の議論ある時には、必ずこれに預かりしなり、」細徳尼・斯密士、嘗て伯路寒に勧めて、「精強なる人三人の為して成就すべき事功を以て限りと爲して、それよりは過ごし給ふべからず、」と云ひけれども、伯路寒は、勉強することを好み、久しく習ひて癖をなせり、故に何ほど專精に心を用ふとも、これにて大過なりとすることなし、」その爲るところ、何事に限らす、極善極妙に至ることを務めとせり、故に世人評して、「もし伯路寒をしてシューブレツキ〔鞋を擦く人〕ならしめば、英国第一のシューブレツキとなることを得ざるうちは、勉強して止まざるべし、」といへり、

(三十)律敦の事
伯爾〓・律敦は、また貴族に生れて、彊志勉學の人なり、その著すところの書に、小説あり、詩あり、戯曲あり、史類あり、文章あり、盡く世に稱せらる、又辯論に長じ、政學を善くせり、律敦、安逸を嫌ひ、熱心勉強して、妙處に至ることを務めとせり、」故に常時、英國著書家の中に、律敦の如く著書に富み、盛譽を得たるものはあらす、抑も、射獵を好み、安逸を事とし、屡々宴會に赴き、演劇を樂み、倫敦千百の歓娯を極め、或は遠く巴理、維也納、羅馬に遊ぶことは、大産を擁し、楽事を嗜む人の通常の習ひなるに、獨り律敦は、一意に藝文の事に努力し、更にその他の嗜好あらさりけり、」その始めに著せる書は、歌詩の體にして、ウィーヅ エンド ウァイルド フラワース〔野草野花〕と云へるものなりしが、世人に毀られたり、」次に作れるものは、小説にして、フアルクランド なりしが、また敗れを取れり、弱志の人ならば、必ず著述の業を抛廢すべきに、律敦は、勇敢にして進み、堅忍にして撓ます、益々博く書を讀み、務めて工夫を下し、終に敗れを轉じて功となしたり、フアルクランドを著せし後、一年に満たすして、ペルハム 、世に出で、その後三十年の間、陸續として書を著し、文場に名を震ひたり、

(三十一)垤士禮立の事、
垤士禮立、また勉強學習の力に由りて、盛名を世に得たる人なり、その首先は律敦と同じく、文場に馳騁せしが、また屡々敗北したる後に、功績を奏せり、」その著せるウオンドラフス、ティルォファルロィ及びレヴォルショナレィ エピック、倶に世人の誹笑を受け、文辞の顛狂と稱せられたり、然れども、垤士禮立廢沮せすして、功夫を續ぎたり、其後に著せる、コニンクスベィ.ザィ.ヒル タンクレットは、果して妙絶にして世を驚かせり、」垤士禮立また辯論に長ぜる士なり、始め百姓議院に於て、大聲壮語を以て宣説せしが、一句ごとに大衆に笑はれたり、然るに収場の一語、後日の譏を爲したり、「予、平生幾度も、許多の事を爲し始めたりしが、終に至りて必ず功績を成就せり「予、今この席を退くべし、然れども、諸君、吾れの議論を聴かれん時は、必ず來るべし、」と云ひけるが、果してその時来りて、垤士禮立、公會の中に於て、大に衆人の視聴を驚かしたり、」垤士禮立は、尋常少年の一度敗績すれば、輒ち退縮して氣を喪ひ、歎息して悶を發するが如くならす、却って益々艱苦して功を用ひたり、」常に心を留めて、己れの短所を改め、聚聴の時の儀観を學び、言語の方を習練し、又務めて巴力門の典故事實を記憶す、かくの如く積久の勉力を経て、方に始めて其の志を達しけり、嚢昔敗績したる痕跡、盡く抹し去りて、巴力門論辯家の最も完全にして最も效能あるものと、一世に許さるゝに至れり、

(三十二)窩圖窩士の論、并ぴに多克未爾の事
上に記するところ、及びこの下に録する所の古今人の例を観るときは、人たるもの、自己發奮勉勵の力に由りて、許多の事業を成し得べきことを理會すべし、然れども、一生の間、他人より輔助の益を得ることも亦大なれば、こゝに著眼せざるべからす、詩人窩圖窩士曰く、
こゝに二事あり、互に相背反するもの、如くにして、相並んで行かざるべからざるものあり、即ち堅く人に倚頼すると、堅く自己に倚頼するとの二事なり、」凡そ人、幼年より、老年に至るまで、身體の養育と、徳性の修養と、皆な共に他人より裨益を受くること、少なからす、故に最も良善なる人、及び最も剛強なる人、常に他人より助けを得たることを最も速かに招認することなり、亜歴西士・徳・多克未爾の履歴を引いて、これを證すべし、多克未爾の父は、法國の爵位ある人にして、その母は有名の馬爾士海伯の孫なり、その家世隆赫なる故に由りて、僅に二十一歳に及んで、華瑟爾士の聴訟官に任ぜられたり、然るに自ら思ふは、予この職任を受り得たることは、吾が身の功労あるに由るに非す、故にこれを辞し去りて、今よりは自己の力に由りて、後來の栄達を取るべしと、遂に毅然としてその任を罷めて、合衆國に遊びけり、その有名の書デモツクラシィ イン アメリカと云へるものは、これに由りて成就したるなり、その友哥士體復・徳・菩門的は、多克未爾と偕に旅行せるものなるが、多克未爾の、旅中勉強にして倦まさることを記して曰く、「その性質、酷だ懶惰なることを嫌へり、行旅する時と休歇する時とを論ぜす、その心は、つねに工夫を用ひたり、
亞歴西士と談話せるものゝ中に、その最も愉快なるものは、乃ちその最も緊要なるものなり、
曰く、「凶日は、失ひし日なり、即ち悪しく費せし日なり、分毫も光陰を失へば、懊悵に堪へす」、多克未爾嘗て一友に書を與へて曰く、「人、一生の間、全く作用を止むることを得る光陰はあらざることなり、蓋し自己の外より得たる力と、及び自己の内より生する力とは、共に缺くべからざるものなり、余嘗て斯の世の人を沍寒の地に行旅するものに比喩したり、寒氣愈々甚だしき地に至れば、行歩愈々速かにせざるを得す、人心の最も大なる病害は、寒気の如し、故にこの怕るべき病害に抵抗せんと欲せば、人まさに心思を運用し、又朋友と共に職事を勉め、暫くも間断なかるべし、」と云へり、


(三十三)多克未爾、他人より助けを得たることを招認する事
多克未爾は、自己勉強の力を出し、自己に憑頼することを、最要の目的と為せし人なり、然れども、また他人の賛助及ぴ扶掖を重んじ、これを招認すること、最も深かりしなり、蓋し天下の人、全く他人の助けを受けざるものなし、特に多少の異なるあるのみ、」多克未爾、その友徳・客兒臥禮及び斯士弗爾士より裨益を受けたることを招認し、その恩恵に感ぜり、これその神志の助けを、客氏より得、その徳行の助けを、斯氏より得たればなり、その客氏に與ふる書に曰く、余の信任するところ、獨り足下の心あるのみ、足下の余を感化すること、實に深しといふべし、零細の行事に於ては、他人より裨補を得たるもの多しと雖も、志意の基礎を創め、品行の根本を立つるに至りては、獨り足下の力に頼れり、」多克未爾、またその妻馬利よりして、己れの志意を保存し、學問を成就することの助けを得たることを招認せり、その説に思へらく、心志高潔なる婦人は、その夫の品行をして、自ら貴からしめ、性質卑汚なるものは、必ずその夫を化して、自ら賎しからしむるものなり、

(三十四)人は自己の身を以て第一の幇手となすべし
人の品行は、無数の精美なる事物に由りて、感化甄陶せらるゝことなり、即ち或は古人の儀範及び格言により、或は吾が身の遭際により、或は文字に由り、或は朋友に由り他人に由り或は今日の世上により、或は租宗の遺すところの嘉言善行に由りて、甄陶養成せらるゝことなり、」蓋しこれ等の感化の力、誠に大なりと雖も、然れども、人々自己の福祉、及び自己の徳行は、皆な身自ら主宰となり、勤めて做すことによりて得ることなり、故に智者仁人となれるもの、他人の助けを得たること多しと雖も、その主要は、その自己の身、即ち絶好の幇手たるべきこと、是れまた實に疑ひを容るべからす、


改正西國立志編第一編終