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 ドアを開けた途端、湿った空気が内から流れ出す。
林田は思わず鍵を握った手を口元に当てた。咳き込みそうになるのを抑えて、
家の中を覗くと、そこには仄暗い闇が広がっている。
「香織……?」
 余りにも小さい声が、闇の中で静かに響いて消えた。
 玄関の壁に指を這わせ、手探りで電気を点ける。廊下へと一歩踏み出すと、
何か酸っぱいような苦いような臭いがした。今度ばかりは咳き込むのを抑えられない。
暫く廊下で咳き込んだ後、彼はリビングへと足を踏み入れる。
リビングへと続くドアを開けると、臭いは一層強まった。
 電気を点ける、なるべくゆっくりと。ゆっくりと。
 部屋が明るくなり、林田は電球のほうを見上げた。そして思わず腰を抜かした。
「う、わああぁあっ」
 林田の目線の先には、青白い足がぶら下がっていた。目線を動かすと、
青いワンピースが目に映る。さらにその先には、ぽってりとして、それでいて乾いた唇、
すっと伸びた鼻筋、閉じられた目を覆う長い睫毛……。それは林田郁夫の妻、香織だった。
彼女の足元に広がる黄色い染みを林田は呆然と眺めていた。
 30分もの間、林田の体は――たまに何かを思い出したかのようにぴくりと足が震える
以外は――微動だにしなかった。何回目かの足の震えの後、彼の足は不意に
電話台の方へと向かった。受話器を手に取り、番号をプッシュする。……1、1、0……。
「……もしもし、もしもし……、妻が……妻が大変なんです」