「卑怯とはいうまいね」
ヤカンで意識を逸らし、しなやかな鞭打を以って、毒手を喰らわせる。空道という武術
において考えうる最大効果の奇襲が、ゲバルをクリーンヒットした。
「ゲバルさん。すまんが、どうしても敗けるわけにはいかなかった」
武とは小細工ありき、とはいえ柳としても不本意な一撃だった。本当は柳とて、武術家
としてゲバルという強敵と正々堂々と立ち合いたかった。
しかし、勝負ありとなるはずの打撃を受けながら、ゲバルは意外な反応を示す。
「へぇ……。このねっとりとした気色悪さ、これは“陰手”だな」
「──し、知っているのか!」
狼狽する柳に、ゲバルは昔話を語るような口調で理由(わけ)を明らかにする。
「俺の爺さんは無隠流忍術のマスターでね。ガキの時分、よォくしごかれたもんだ。マイ
ナーではあるが、日本じゃ忍の間では無敗を誇ったといわれる一派だったらしい。
爺さんは笑ってたよ。かの今川義元が配下の忍にのみ使用を許可し、猛威を振るったと
される陰手……。それとて、幼少より毒に対する鍛錬を欠かさなければ、赤子の手にも等
しいとね」
ゲバルの脇腹は鞭打で肌を抉られているが、毒による侵食は認められない。
幼少時、自然毒を絶妙な分量で服用し続け、毒への耐性を身に染みさせたゲバルにとっ
て、柳の毒手は全く無意味な代物であった。
ゲバルの右アッパー。これが少なからず動揺していた柳の顎を、もろに打ち抜く。
「ガハァッ!」
浮き上がろうとする柳の水月めがけ、ゲバルは強烈なミドルキックを浴びせる。胃液を
吐き散らし、柳は背中から地面に叩きつけられる。
「ぐ……ごふっ!」
「毒が効かないことでショックを受けたアンタは、不自由そのものだったな」
大ダメージを与えてなお、ゲバルは拳を固める。終わらせるつもりだ。
顎と水月への痛打。脳震盪と呼吸困難が柳に絡みつき、「立つ」というごく単純な一動
作さえ妨げる。
立てなければ──敗ける。すり減り、歯肉に埋もれた奥歯を噛み締め、柳が吼える。
「しぇいぃぃイッ!」
地面が爆発した。柳は仰向けの状態から凄まじい踏み込みで立ち上がり、ゲバルの人中
に渾身の右一本拳を叩き込んだ。勢いのまま左ハイを放ち、これもゲバルのこめかみを深
く貫く。
ゲバルはダメージ以上に驚愕した。
これが柳龍光──。
毒手などではない。日常を鍛錬とする常軌を逸した人生こそが、柳最大の武器。
「毒が効かぬとあらば、これは不要だな」
柳が右手を振ると、装着されていた毒手グローブが地面に落ちた。柳のような古い武術
家にとって、手首足首から先の部位は凶器と同義。本気でやるからには、手袋は邪魔なだ
けだ。
ゲバルが放つ左ストレートを右手甲で捌き、柳は腹部に掌底を捻り込む。体格では上を
ゆくゲバルが、三メートルは宙に浮いた。
「おごォ……!」
致命傷ではない。が、柳の本当の狙いはここからだった。
どうしても足先に神経を払わねばならぬ着地際こそ、もっとも攻守ともに甘くなる瞬間
である。ゲバルのつま先が地面に触れようとする──柳が動いた。
ぱんっ。
地上最強の毒ガスを含んだ、柳の右手がゲバルの口と鼻を塞いだ。あとは文字通り一息
つく間に、ゲバルの敗北が決定的となる。
しかし、ゲバルは柳の右手首を掴むと、強引に口から引き剥がした。
「なんという力だ……!」
「知っているさ。息さえ止めれば、アンタの空掌は通用しない……。同じしけい荘に住ん
でいなかったら、今ので決まっていたかもな」
猛攻の始まり。柳の脇腹を穿つボディブロー、左手刀がこめかみを打ち、右ストレート
が鼻にめり込む。眉間に刺さる一本拳、喉仏を抉る平拳、決め技であるアッパーがまたも
ヒット。柳をとことん打ちのめし、返り血を浴びまくるゲバル。
やはり身体能力では分が悪い。が、空掌を破られることは、柳にとっては計算の内だっ
た。滅多打ちになりながら、柳は考える。
しけい荘の仲間だからこそ、かわせる技がある。
しけい荘の仲間だからこそ、絶対にかわせない技もある。
「──シイィッ!」
起死回生、柳の右ハイキック。とはいえ万全ではなく、ゲバルからすれば余裕で回避で
きるスピードだった。
──が、ハイキックは徐々に速度を落とし、ゆらりとゲバルの口もとに近づく。
ぺたり。
足の裏が、ゲバルの顔にくっついた。怪訝そうに顔をしかめるゲバル。
「………?」
同時に、ゲバルの鼻が呼吸をしようとぴくりと動いた。──瞬間だった。
ヤカンで意識を逸らし、しなやかな鞭打を以って、毒手を喰らわせる。空道という武術
において考えうる最大効果の奇襲が、ゲバルをクリーンヒットした。
「ゲバルさん。すまんが、どうしても敗けるわけにはいかなかった」
武とは小細工ありき、とはいえ柳としても不本意な一撃だった。本当は柳とて、武術家
としてゲバルという強敵と正々堂々と立ち合いたかった。
しかし、勝負ありとなるはずの打撃を受けながら、ゲバルは意外な反応を示す。
「へぇ……。このねっとりとした気色悪さ、これは“陰手”だな」
「──し、知っているのか!」
狼狽する柳に、ゲバルは昔話を語るような口調で理由(わけ)を明らかにする。
「俺の爺さんは無隠流忍術のマスターでね。ガキの時分、よォくしごかれたもんだ。マイ
ナーではあるが、日本じゃ忍の間では無敗を誇ったといわれる一派だったらしい。
爺さんは笑ってたよ。かの今川義元が配下の忍にのみ使用を許可し、猛威を振るったと
される陰手……。それとて、幼少より毒に対する鍛錬を欠かさなければ、赤子の手にも等
しいとね」
ゲバルの脇腹は鞭打で肌を抉られているが、毒による侵食は認められない。
幼少時、自然毒を絶妙な分量で服用し続け、毒への耐性を身に染みさせたゲバルにとっ
て、柳の毒手は全く無意味な代物であった。
ゲバルの右アッパー。これが少なからず動揺していた柳の顎を、もろに打ち抜く。
「ガハァッ!」
浮き上がろうとする柳の水月めがけ、ゲバルは強烈なミドルキックを浴びせる。胃液を
吐き散らし、柳は背中から地面に叩きつけられる。
「ぐ……ごふっ!」
「毒が効かないことでショックを受けたアンタは、不自由そのものだったな」
大ダメージを与えてなお、ゲバルは拳を固める。終わらせるつもりだ。
顎と水月への痛打。脳震盪と呼吸困難が柳に絡みつき、「立つ」というごく単純な一動
作さえ妨げる。
立てなければ──敗ける。すり減り、歯肉に埋もれた奥歯を噛み締め、柳が吼える。
「しぇいぃぃイッ!」
地面が爆発した。柳は仰向けの状態から凄まじい踏み込みで立ち上がり、ゲバルの人中
に渾身の右一本拳を叩き込んだ。勢いのまま左ハイを放ち、これもゲバルのこめかみを深
く貫く。
ゲバルはダメージ以上に驚愕した。
これが柳龍光──。
毒手などではない。日常を鍛錬とする常軌を逸した人生こそが、柳最大の武器。
「毒が効かぬとあらば、これは不要だな」
柳が右手を振ると、装着されていた毒手グローブが地面に落ちた。柳のような古い武術
家にとって、手首足首から先の部位は凶器と同義。本気でやるからには、手袋は邪魔なだ
けだ。
ゲバルが放つ左ストレートを右手甲で捌き、柳は腹部に掌底を捻り込む。体格では上を
ゆくゲバルが、三メートルは宙に浮いた。
「おごォ……!」
致命傷ではない。が、柳の本当の狙いはここからだった。
どうしても足先に神経を払わねばならぬ着地際こそ、もっとも攻守ともに甘くなる瞬間
である。ゲバルのつま先が地面に触れようとする──柳が動いた。
ぱんっ。
地上最強の毒ガスを含んだ、柳の右手がゲバルの口と鼻を塞いだ。あとは文字通り一息
つく間に、ゲバルの敗北が決定的となる。
しかし、ゲバルは柳の右手首を掴むと、強引に口から引き剥がした。
「なんという力だ……!」
「知っているさ。息さえ止めれば、アンタの空掌は通用しない……。同じしけい荘に住ん
でいなかったら、今ので決まっていたかもな」
猛攻の始まり。柳の脇腹を穿つボディブロー、左手刀がこめかみを打ち、右ストレート
が鼻にめり込む。眉間に刺さる一本拳、喉仏を抉る平拳、決め技であるアッパーがまたも
ヒット。柳をとことん打ちのめし、返り血を浴びまくるゲバル。
やはり身体能力では分が悪い。が、空掌を破られることは、柳にとっては計算の内だっ
た。滅多打ちになりながら、柳は考える。
しけい荘の仲間だからこそ、かわせる技がある。
しけい荘の仲間だからこそ、絶対にかわせない技もある。
「──シイィッ!」
起死回生、柳の右ハイキック。とはいえ万全ではなく、ゲバルからすれば余裕で回避で
きるスピードだった。
──が、ハイキックは徐々に速度を落とし、ゆらりとゲバルの口もとに近づく。
ぺたり。
足の裏が、ゲバルの顔にくっついた。怪訝そうに顔をしかめるゲバル。
「………?」
同時に、ゲバルの鼻が呼吸をしようとぴくりと動いた。──瞬間だった。
沸き上がる脳細胞。
風をこよなく愛するゲバルだからこそ、分かった。危険を知らせるアラームが最大音量
にて鳴り響く。今吸入した大気(かぜ)は、危険すぎる。
危険、危険、危険、危険、危険、危険、危険、危険、危険、危険。
──柳は足による空掌を完成させていた。
本人以外、しけい荘でもだれ一人知らない事実を、ゲバルは一番に知ることになった。
拳を握るゲバル。
己の胸を、全身全霊の力を込め、叩く。
「ボ、ボスッ?!」事情を知らぬレッセンには、奇行にしか映らなかったことだろう。
「ごぼァッ……ッ!」
自殺にもなりえるほど本気で叩いた。ゲバルの身体機能を奪わんとしていた低酸素が、
衝撃で血とともに一気に吐き出される。生半可な衝撃であれば、今頃ゲバルは酸欠で気を
失っていたにちがいない。
激しく咳込みつつ、ゲバルが笑いかける。
「さ、さすがだ……。こう、しなきゃ……やられ……てい、たな」
「クゥッ!」
攻めを再開する柳より疾(はや)く、ゲバルの平手打ちが柳の左耳に叩きつけられた。
鼓膜が破られた。
さらにゲバルは自らの髪の毛を複数本捻りながら抜き取り、手製のこよりを完成させた。
柳の耳穴に挿入されたこよりは、主人の手によって緩められ、細い毛が耳内の器官に絡み
つく。
「……ゲームオーバーだ。柳、これを俺に引かせないでくれ」
「ゲバルさん……失望したよ。大統領ってのは、とろけそうなほど甘くても務まるのかね」
かまわず鞭打を放とうとする柳。ゲバルは好敵手の覚悟に応え、瞬時に柳の耳から髪を
引き抜いた。
自殺にもなりえるほど本気で叩いた。ゲバルの身体機能を奪わんとしていた低酸素が、
衝撃で血とともに一気に吐き出される。生半可な衝撃であれば、今頃ゲバルは酸欠で気を
失っていたにちがいない。
激しく咳込みつつ、ゲバルが笑いかける。
「さ、さすがだ……。こう、しなきゃ……やられ……てい、たな」
「クゥッ!」
攻めを再開する柳より疾(はや)く、ゲバルの平手打ちが柳の左耳に叩きつけられた。
鼓膜が破られた。
さらにゲバルは自らの髪の毛を複数本捻りながら抜き取り、手製のこよりを完成させた。
柳の耳穴に挿入されたこよりは、主人の手によって緩められ、細い毛が耳内の器官に絡み
つく。
「……ゲームオーバーだ。柳、これを俺に引かせないでくれ」
「ゲバルさん……失望したよ。大統領ってのは、とろけそうなほど甘くても務まるのかね」
かまわず鞭打を放とうとする柳。ゲバルは好敵手の覚悟に応え、瞬時に柳の耳から髪を
引き抜いた。
にて鳴り響く。今吸入した大気(かぜ)は、危険すぎる。
危険、危険、危険、危険、危険、危険、危険、危険、危険、危険。
──柳は足による空掌を完成させていた。
本人以外、しけい荘でもだれ一人知らない事実を、ゲバルは一番に知ることになった。
拳を握るゲバル。
己の胸を、全身全霊の力を込め、叩く。
「ボ、ボスッ?!」事情を知らぬレッセンには、奇行にしか映らなかったことだろう。
「ごぼァッ……ッ!」
自殺にもなりえるほど本気で叩いた。ゲバルの身体機能を奪わんとしていた低酸素が、
衝撃で血とともに一気に吐き出される。生半可な衝撃であれば、今頃ゲバルは酸欠で気を
失っていたにちがいない。
激しく咳込みつつ、ゲバルが笑いかける。
「さ、さすがだ……。こう、しなきゃ……やられ……てい、たな」
「クゥッ!」
攻めを再開する柳より疾(はや)く、ゲバルの平手打ちが柳の左耳に叩きつけられた。
鼓膜が破られた。
さらにゲバルは自らの髪の毛を複数本捻りながら抜き取り、手製のこよりを完成させた。
柳の耳穴に挿入されたこよりは、主人の手によって緩められ、細い毛が耳内の器官に絡み
つく。
「……ゲームオーバーだ。柳、これを俺に引かせないでくれ」
「ゲバルさん……失望したよ。大統領ってのは、とろけそうなほど甘くても務まるのかね」
かまわず鞭打を放とうとする柳。ゲバルは好敵手の覚悟に応え、瞬時に柳の耳から髪を
引き抜いた。
自殺にもなりえるほど本気で叩いた。ゲバルの身体機能を奪わんとしていた低酸素が、
衝撃で血とともに一気に吐き出される。生半可な衝撃であれば、今頃ゲバルは酸欠で気を
失っていたにちがいない。
激しく咳込みつつ、ゲバルが笑いかける。
「さ、さすがだ……。こう、しなきゃ……やられ……てい、たな」
「クゥッ!」
攻めを再開する柳より疾(はや)く、ゲバルの平手打ちが柳の左耳に叩きつけられた。
鼓膜が破られた。
さらにゲバルは自らの髪の毛を複数本捻りながら抜き取り、手製のこよりを完成させた。
柳の耳穴に挿入されたこよりは、主人の手によって緩められ、細い毛が耳内の器官に絡み
つく。
「……ゲームオーバーだ。柳、これを俺に引かせないでくれ」
「ゲバルさん……失望したよ。大統領ってのは、とろけそうなほど甘くても務まるのかね」
かまわず鞭打を放とうとする柳。ゲバルは好敵手の覚悟に応え、瞬時に柳の耳から髪を
引き抜いた。