『――今のお言葉は、どういう意味ですか笛吹警視?』
『そのままにお受け取りいただいて結構です』
レジャー施設から遠く離れたアジト。
テレビ画面の光だけがしらじらと灯る部屋で、蛭は唇を引き結んだまま液晶を睨んでいる。
映っているのは男が三人。いずれも警察上層部の錚々たるVIPたちだ。
『事件現場より、容疑者のものと思われる体毛と唾液を採取し、鑑識による分析を行いました。
それによって判明した事実です』
警察内の重鎮は勿論、有能な者のデータは全て頭に入れている。回答者は笛吹直大。
現刑事部長の無能を補ってあまりある逸材だ。
『前もって断っておきますが、これはDNA鑑定などとは異なります。より単純で、それ故に信頼性も
より高い。鑑識によれば、ほぼ百パーセント事実と断定可能と見てよい結果とのことです』
『随分と自信を持って言い切られるのですね』
明らかに悪意がこもった突っ込み。
『現場から発見された足跡の形から、虎などの大型ネコ科動物と見る向きもありましたが?』
『……虎の染色体は十九対、ヒトのそれは二十三対。地上の動物には、ヒトと同数の染色体を持つ
ものは存在しません』
しかし笛吹は揺らがない。
『採取された細胞を解析したところ、二十三対の染色体が確認されました。――それを踏まえて
先ほどの言葉を繰り返させていただきます。都内で連続して発生した大量虐殺事件は、紛れもなく
ホモ・サピエンスの……』
画面の中の笛吹はここで、集った報道陣を見渡した。
『人間の手による犯行です』
『そのままにお受け取りいただいて結構です』
レジャー施設から遠く離れたアジト。
テレビ画面の光だけがしらじらと灯る部屋で、蛭は唇を引き結んだまま液晶を睨んでいる。
映っているのは男が三人。いずれも警察上層部の錚々たるVIPたちだ。
『事件現場より、容疑者のものと思われる体毛と唾液を採取し、鑑識による分析を行いました。
それによって判明した事実です』
警察内の重鎮は勿論、有能な者のデータは全て頭に入れている。回答者は笛吹直大。
現刑事部長の無能を補ってあまりある逸材だ。
『前もって断っておきますが、これはDNA鑑定などとは異なります。より単純で、それ故に信頼性も
より高い。鑑識によれば、ほぼ百パーセント事実と断定可能と見てよい結果とのことです』
『随分と自信を持って言い切られるのですね』
明らかに悪意がこもった突っ込み。
『現場から発見された足跡の形から、虎などの大型ネコ科動物と見る向きもありましたが?』
『……虎の染色体は十九対、ヒトのそれは二十三対。地上の動物には、ヒトと同数の染色体を持つ
ものは存在しません』
しかし笛吹は揺らがない。
『採取された細胞を解析したところ、二十三対の染色体が確認されました。――それを踏まえて
先ほどの言葉を繰り返させていただきます。都内で連続して発生した大量虐殺事件は、紛れもなく
ホモ・サピエンスの……』
画面の中の笛吹はここで、集った報道陣を見渡した。
『人間の手による犯行です』
虎を象ってはいるが、かつて確かにヒトであった生きもの。『人虎伝』の、そして『山月記』の
李徴がそうであったように。
『姿形は虎そのもの。虎にそっくり。虎にしか見えない。でも奴の細胞は確かに人間のものだった。
変異をどれだけうまく調整したって、細胞そのものの性質まで根本からは変えられない。
……俺が前にドーベルマンになったときだって、さっき虎に化けたときだって、そうだった』
「そうでしょうね」
『つまり――』
熱に浮かされたような、サイの声。
『あいつは、俺と同じものだ』
李徴がそうであったように。
『姿形は虎そのもの。虎にそっくり。虎にしか見えない。でも奴の細胞は確かに人間のものだった。
変異をどれだけうまく調整したって、細胞そのものの性質まで根本からは変えられない。
……俺が前にドーベルマンになったときだって、さっき虎に化けたときだって、そうだった』
「そうでしょうね」
『つまり――』
熱に浮かされたような、サイの声。
『あいつは、俺と同じものだ』
変異する細胞を持つヒト科。
違いがあるとすればただひとつ、人間としての己を保っているか否か。
違いがあるとすればただひとつ、人間としての己を保っているか否か。
数日前、船の上で、サイが最初に≪我鬼≫を解体しかけたとき、彼はこう漏らした。
――あんま人間と体内構造変わらないな、意外。
当たり前だ。≪我鬼≫はもともと人間だったのだから。
――あんま人間と体内構造変わらないな、意外。
当たり前だ。≪我鬼≫はもともと人間だったのだから。
また、つい数時間前サイはこうも呟いている。
――意外に近いところに隠れてたもんだね。助かったよ。
これも当たり前だ。
千キロという広大な行動範囲は、あくまでアムール虎の習性を前提としたもの。
≪我鬼≫が人間と判明した時点で、そんなものは根本から崩れていたのだ。
――意外に近いところに隠れてたもんだね。助かったよ。
これも当たり前だ。
千キロという広大な行動範囲は、あくまでアムール虎の習性を前提としたもの。
≪我鬼≫が人間と判明した時点で、そんなものは根本から崩れていたのだ。
サイは続ける。
『今はあんな姿だけど、元は俺と同じように人間の姿だったはずだ。人間の姿で、人間の心で、
人間として生活していたはずだ。でも年月の経過でそれを忘れた。脳細胞が変異して、自分が昔
人間だったことさえ忘れてしまった』
常に変異を続ける脳細胞。
名前も性別も年齢も忘れてしまった脳細胞。
自分の種さえも忘れてしまった脳細胞。
『今はあんな姿だけど、元は俺と同じように人間の姿だったはずだ。人間の姿で、人間の心で、
人間として生活していたはずだ。でも年月の経過でそれを忘れた。脳細胞が変異して、自分が昔
人間だったことさえ忘れてしまった』
常に変異を続ける脳細胞。
名前も性別も年齢も忘れてしまった脳細胞。
自分の種さえも忘れてしまった脳細胞。
『……俺もいつかあんな風になるのかもしれない』
「サイ、落ち着いてください。≪我鬼≫の事例があなたに当てはまるとは限りません」
『当てはまらないかどうかも分からないだろ!』
まずい。
恐れていた事態が生じてしまった。
それも考えられる限り最悪の形で。
『二本足で歩くのも忘れて四つん這いで動くようになって、言葉も分からなくなって唸ったり
吼えたりするしかできなくなって』
「サイ、」
『そのうちきっと考えることもできなくなる。自分が誰なのかもどうでもよくなって、腹が減ったとか
寒いだとかそんな単純な本能だけが残って』
「サイ!」
『人間じゃなくなるんだ。今のあいつみたいに……』
「サイ、落ち着いてください。≪我鬼≫の事例があなたに当てはまるとは限りません」
『当てはまらないかどうかも分からないだろ!』
まずい。
恐れていた事態が生じてしまった。
それも考えられる限り最悪の形で。
『二本足で歩くのも忘れて四つん這いで動くようになって、言葉も分からなくなって唸ったり
吼えたりするしかできなくなって』
「サイ、」
『そのうちきっと考えることもできなくなる。自分が誰なのかもどうでもよくなって、腹が減ったとか
寒いだとかそんな単純な本能だけが残って』
「サイ!」
『人間じゃなくなるんだ。今のあいつみたいに……』
東の空が白む。
長かった夜が明け始める。
長かった夜が明け始める。
≪我鬼≫は高い視力を有している。わずかに差し始めた朝日を頼りに、数十メートル上空のヘリの
中をうかがうなど、彼にとっては造作もない。
ヘリコプターという物体についての知識を、彼は持っていなかった。かつては持っていたのかも
しれないが、これまで忘れてきた多くのことがら同様、記憶の彼方に葬り去られてしまっていた。
今の彼の目にヘリは、天高く飛ぶ巨大な畸形の甲虫と映る。
その甲虫の内部に、彼はあるものを見た。
中をうかがうなど、彼にとっては造作もない。
ヘリコプターという物体についての知識を、彼は持っていなかった。かつては持っていたのかも
しれないが、これまで忘れてきた多くのことがら同様、記憶の彼方に葬り去られてしまっていた。
今の彼の目にヘリは、天高く飛ぶ巨大な畸形の甲虫と映る。
その甲虫の内部に、彼はあるものを見た。
おやおや……
甘みのある唾液がひろがっていくのを抑えられない。
歓喜の笑みに似た表情を浮かべて、≪我鬼≫は唇のない口をベロリと舐めずる。
歓喜の笑みに似た表情を浮かべて、≪我鬼≫は唇のない口をベロリと舐めずる。
あんなところに旨そうな雌。
ヘリのスティックを握るユキは、まだ状況を把握しきれていない。
≪我鬼≫が一度倒れたのは理解できた。それがまた立ち上がって動き出したことも分かった。
先の戦いの影響か体は大幅に小振りになっているが、まだ充分な体力を残しているように見える。
しかしあの子供がそれを追わず、それどころか女と揉めているらしいのが解せなかった。
「成る程な」
兄はおぼろげながら状況を掴んだらしい。
「あの女、主人には伝えずにいたと見える」
「伝えずにって……」
「奴に会いに行く前に報告を受けたろう、細胞解析の結果の件さ」
『化物』と呼ばれただけであれだけ激昂するのだ。自分と≪我鬼≫の間にさして差がないことを
知ればどれだけ取り乱すか、ろくろく事情も知らぬ彼らでも想像に難くない。
ユキは舌打ちした。
「クソッ、肝心なときに役に立たねぇ!」
≪我鬼≫が逃げる。
凄まじい速度で駆ける≪我鬼≫に追いすがるべく、ユキは握り締めたスティックに力を込めた。
女と子供がどうであろうが関係ない。彼ら兄弟は彼らの意志で、あの化物と化した人のなれのはてを
追うだけだ。
しかし加速をかけようとしたとき、≪我鬼≫は予想外の行動を見せた。
疾駆する巨体が目指すのは、園内に高くそびえるウォータースライダー。
天に向かって伸びたそれを、≪我鬼≫は駆け上がった。
目玉アトラクションというと大層だが、所詮は滑り台。あくまで人間が滑るのを前提として
造られている。
メリメリという不吉な響きとともにヒビが走る。
崩壊はあっけないほど簡単に始まり、そして連鎖する。
≪我鬼≫が一度倒れたのは理解できた。それがまた立ち上がって動き出したことも分かった。
先の戦いの影響か体は大幅に小振りになっているが、まだ充分な体力を残しているように見える。
しかしあの子供がそれを追わず、それどころか女と揉めているらしいのが解せなかった。
「成る程な」
兄はおぼろげながら状況を掴んだらしい。
「あの女、主人には伝えずにいたと見える」
「伝えずにって……」
「奴に会いに行く前に報告を受けたろう、細胞解析の結果の件さ」
『化物』と呼ばれただけであれだけ激昂するのだ。自分と≪我鬼≫の間にさして差がないことを
知ればどれだけ取り乱すか、ろくろく事情も知らぬ彼らでも想像に難くない。
ユキは舌打ちした。
「クソッ、肝心なときに役に立たねぇ!」
≪我鬼≫が逃げる。
凄まじい速度で駆ける≪我鬼≫に追いすがるべく、ユキは握り締めたスティックに力を込めた。
女と子供がどうであろうが関係ない。彼ら兄弟は彼らの意志で、あの化物と化した人のなれのはてを
追うだけだ。
しかし加速をかけようとしたとき、≪我鬼≫は予想外の行動を見せた。
疾駆する巨体が目指すのは、園内に高くそびえるウォータースライダー。
天に向かって伸びたそれを、≪我鬼≫は駆け上がった。
目玉アトラクションというと大層だが、所詮は滑り台。あくまで人間が滑るのを前提として
造られている。
メリメリという不吉な響きとともにヒビが走る。
崩壊はあっけないほど簡単に始まり、そして連鎖する。
スライダーが崩れ落ちるより早く、≪我鬼≫は跳んだ。
崩落する滑り台を蹴り、ユキ達の乗るヘリめがけて飛びかかった。
崩落する滑り台を蹴り、ユキ達の乗るヘリめがけて飛びかかった。
「ユキッ!」
スティックを倒させたのは、兄の叫びではなくユキ自身の本能だった。
スティックを倒させたのは、兄の叫びではなくユキ自身の本能だった。
フロントウィンドウに火花が散る。
一瞬の浮遊感の直後、衝撃が襲ってきた。
一瞬の浮遊感の直後、衝撃が襲ってきた。
轟音とともにヘリが揺れた。
機体の左半分が盛大にひしゃげた。歪んだドアの隙間から、隙間風というには凶悪すぎる風が吹き込んだ。
直前に後退したおかげで、致命的なダメージまでは免れた。だがまともにバランスを崩した機体は、
浮力の大半を失い傾きながら失速していく。
前脚と顎で取り付いた≪我鬼≫の重量に耐え切れずに。
「くっ……!」
薄れかける意識。歯を食いしばってそれに耐える。
操縦者の自分が倒れれば何もかも終わってしまう――
手から離れかけたスティックを再び握り締めた。
「アニキ、頼んだっ!」
機体の左半分が盛大にひしゃげた。歪んだドアの隙間から、隙間風というには凶悪すぎる風が吹き込んだ。
直前に後退したおかげで、致命的なダメージまでは免れた。だがまともにバランスを崩した機体は、
浮力の大半を失い傾きながら失速していく。
前脚と顎で取り付いた≪我鬼≫の重量に耐え切れずに。
「くっ……!」
薄れかける意識。歯を食いしばってそれに耐える。
操縦者の自分が倒れれば何もかも終わってしまう――
手から離れかけたスティックを再び握り締めた。
「アニキ、頼んだっ!」
衝撃で口の中を切った早坂は、錆と塩の味を同時に味わいながらシートベルトを外した。
通常とはまるで見当違いな方向にかかる重力。中年にさしかからんとする体には拷問に等しい。
だが耐えられなければ死ぬしかない。
通常とはまるで見当違いな方向にかかる重力。中年にさしかからんとする体には拷問に等しい。
だが耐えられなければ死ぬしかない。
取り上げるのはマシンガン。
できればロケットランチャー辺りを使いたいところだが、下手な武器を使えば奴ごと心中になる。
威力と自衛の中間点をとれば、とるべき選択肢はこれしかない。
できればロケットランチャー辺りを使いたいところだが、下手な武器を使えば奴ごと心中になる。
威力と自衛の中間点をとれば、とるべき選択肢はこれしかない。
ユキは確かに『頼んだ』と言った。
彼が自分を信頼してそう言った以上、責任を持ってそれを全うするのが義務というものだ。
彼の兄としての。
それ以上に彼の上司としての。
彼が自分を信頼してそう言った以上、責任を持ってそれを全うするのが義務というものだ。
彼の兄としての。
それ以上に彼の上司としての。
足元の傾斜は数十度。しかも落下のせいで安定しない。
しかしその安定しない足元に、早坂はしっかと二本の脚で立った。
よろめきながら、バランスを失いながら、暴風吹き込む歪んだドアへと近づいていく。
しかしその安定しない足元に、早坂はしっかと二本の脚で立った。
よろめきながら、バランスを失いながら、暴風吹き込む歪んだドアへと近づいていく。
ようやくドアに手が届いた。
車同様、事故防止のためそう簡単には開かない構造。そのうえ≪我鬼≫の突撃でひしゃげ、よけいに
開きにくくなっている。
渾身の力を込め、早坂はドアにタックルした。
車同様、事故防止のためそう簡単には開かない構造。そのうえ≪我鬼≫の突撃でひしゃげ、よけいに
開きにくくなっている。
渾身の力を込め、早坂はドアにタックルした。
機体ごと激しく揺さぶられたアイの耳から、通信機が転がり落ちた。
手を伸ばしたが間に合わない。単体だと玩具のようにチャチなそれは、機体の傾きに沿って滑るように
転がっていく。
三半規管の攪拌される感覚に喘いだ瞬間、フロントウィンドウから覗く金色の瞳と目が合う。
満月のような真円を描いてきらめく目は、確かに獣ではなく人間のそれだった。
かつては理性の光を宿していたろう瞳に、灯っているのは剥き出しの欲望。
その欲望は今、明らかに自分に向けられている。
手を伸ばしたが間に合わない。単体だと玩具のようにチャチなそれは、機体の傾きに沿って滑るように
転がっていく。
三半規管の攪拌される感覚に喘いだ瞬間、フロントウィンドウから覗く金色の瞳と目が合う。
満月のような真円を描いてきらめく目は、確かに獣ではなく人間のそれだった。
かつては理性の光を宿していたろう瞳に、灯っているのは剥き出しの欲望。
その欲望は今、明らかに自分に向けられている。
ぞくり、と背筋に寒気が駆け抜けた。
ぽたりぽたりと歯の隙間から涎が落ちる。
裂けた口から息が吐かれ、ウィンドウを白く曇らせていく。
裂けた口から息が吐かれ、ウィンドウを白く曇らせていく。
素晴らしい。
食欲の権化と化した脳で≪我鬼≫は狂喜した。
これほど素晴らしい雌は見たことがない。
柔らかそうな皮は白く滑らかで、それでいて内部の健康的な血色を透かしている。乳房は適度に
脂肪をたたえてふっくらと稜線を描き、それでいて腹や腿など締まるべきところは締まって噛みごたえも
充分。流れる黒髪は長く艶やかで、これも健康状態の良好さを示す材料。
小造りな顔にはこれまた黒い、冷たく輝く二つの目が嵌まっている。これをくり抜いて食すのも
一興だろう。
間違いない。この雌は、今まで彼が食らってきた中でも最上級の獲物だ。
何としても仕留めて食らって味わわなければ。
食欲の権化と化した脳で≪我鬼≫は狂喜した。
これほど素晴らしい雌は見たことがない。
柔らかそうな皮は白く滑らかで、それでいて内部の健康的な血色を透かしている。乳房は適度に
脂肪をたたえてふっくらと稜線を描き、それでいて腹や腿など締まるべきところは締まって噛みごたえも
充分。流れる黒髪は長く艶やかで、これも健康状態の良好さを示す材料。
小造りな顔にはこれまた黒い、冷たく輝く二つの目が嵌まっている。これをくり抜いて食すのも
一興だろう。
間違いない。この雌は、今まで彼が食らってきた中でも最上級の獲物だ。
何としても仕留めて食らって味わわなければ。
≪我鬼≫は歯を剥き出す。
原始的な頭の中は既に、噛みちぎった肉から溢れる肉汁のイメージで満たされている。
鋼鉄のごとき頭蓋をフロントウィンドウに叩きつけた。
轟音とともにウィンドウに走る蜘蛛の巣。
一瞬気圧されたアイを我に返らせたのは、耳によみがえったサイの言葉だった。
原始的な頭の中は既に、噛みちぎった肉から溢れる肉汁のイメージで満たされている。
鋼鉄のごとき頭蓋をフロントウィンドウに叩きつけた。
轟音とともにウィンドウに走る蜘蛛の巣。
一瞬気圧されたアイを我に返らせたのは、耳によみがえったサイの言葉だった。
『人間じゃなくなるんだ』
『今のあいつみたいに』
『今のあいつみたいに』
いけない。
アイは声を上げなかった。
心臓すら押し潰すような叫びは、彼女の胸の中だけで大きくこだまし反響した。
心臓すら押し潰すような叫びは、彼女の胸の中だけで大きくこだまし反響した。
あなたはそこで止まってはいけない。
立ち止まって膝をついてもいけない。
高みを目指すことを放棄したらそこで、あなたはあなたでなくなってしまう。
立ち止まって膝をついてもいけない。
高みを目指すことを放棄したらそこで、あなたはあなたでなくなってしまう。
シートベルトを引きむしった。落下時の危険など瑣末なことだった。
赤子のように這いつくばり、転がりながら落ちていく通信機に手を伸ばす。身を突っ張らせ、
肩を、肘を、手首を、指先をいっぱいに伸ばして拾い上げんとする。
関節がびりびりと痙攣する。
指先も震えて定まらない。
あと数センチ。あとほんの数センチで手が届く。
赤子のように這いつくばり、転がりながら落ちていく通信機に手を伸ばす。身を突っ張らせ、
肩を、肘を、手首を、指先をいっぱいに伸ばして拾い上げんとする。
関節がびりびりと痙攣する。
指先も震えて定まらない。
あと数センチ。あとほんの数センチで手が届く。
だが――
轟音が耳をつんざいた。
またヘリが激しく揺さぶられた。
「っ!」
通信機は床を滑り、アイが手を伸ばせぬコックピットの隙間へと転がり込む。
届かない。
またヘリが激しく揺さぶられた。
「っ!」
通信機は床を滑り、アイが手を伸ばせぬコックピットの隙間へと転がり込む。
届かない。
早坂は体重を乗せてドアに体当たりした。ガコン! とようやく隙間が広がり、白みはじめた
空の色が覗いた。
サングラスの奥から睨んだ先に、ヘリに取りついた黄金色の巨体。
太い喉から漏れるのは、唸りかはたまた咆哮か。空気を切り裂きながら落ちていく機体の上では、
それを知ることもままならない。
吹き荒ぶ突風への怯えは皆無だった。
マシンガンを肩に構え、衝撃に耐えながら狙いを定める。
無数の弾丸が吐き出された。
空の色が覗いた。
サングラスの奥から睨んだ先に、ヘリに取りついた黄金色の巨体。
太い喉から漏れるのは、唸りかはたまた咆哮か。空気を切り裂きながら落ちていく機体の上では、
それを知ることもままならない。
吹き荒ぶ突風への怯えは皆無だった。
マシンガンを肩に構え、衝撃に耐えながら狙いを定める。
無数の弾丸が吐き出された。
トリガーを引き続けるだけで屍山血河を築けるこの武器はかつて、『悪魔の兵器』と呼ばれ恐れられた。
時代が流れ、悪魔の称号はクラスター爆弾や核兵器に奪われても、その威力は変わらない。
一発一発が一撃必殺の魔弾を、標的めがけて雨あられと降りそそがせる。
むろん普通の人間に向ければこその『必殺』。≪我鬼≫に対しての決定打となりはしない。
だが、傾きながら落ちていく不安定なヘリの上でなら話は違ってくる。
時代が流れ、悪魔の称号はクラスター爆弾や核兵器に奪われても、その威力は変わらない。
一発一発が一撃必殺の魔弾を、標的めがけて雨あられと降りそそがせる。
むろん普通の人間に向ければこその『必殺』。≪我鬼≫に対しての決定打となりはしない。
だが、傾きながら落ちていく不安定なヘリの上でなら話は違ってくる。
≪我鬼≫の上半身から血が噴き、フロントウィンドウに深紅の模様が滲んだ。
李徴のごとく虎と化した人の子は、果たして苦痛の唸りを上げたろうか。
渦巻く風が起こす音は、それを確かめることすら許さなかった。
機体にしがみついていた前脚が、血痕をなすりつけながらずり落ちはじめた。
李徴のごとく虎と化した人の子は、果たして苦痛の唸りを上げたろうか。
渦巻く風が起こす音は、それを確かめることすら許さなかった。
機体にしがみついていた前脚が、血痕をなすりつけながらずり落ちはじめた。
傷は再生する。しかし、傷をつけること自体が不可能なわけではない。
破壊するのは一瞬でいい。ほんの一瞬、機体に取り付く支えを奪いさえすればそれで充分。
破壊するのは一瞬でいい。ほんの一瞬、機体に取り付く支えを奪いさえすればそれで充分。
何だこれは。
一度は去ったはずの焦燥が、≪我鬼≫の胸に再び戻ってきた。先ほど感じた切実な死の恐怖より、
はるかに軽度でささやかなものではあったが、根源は間違いなく同じところにあった。
一粒一粒は小石のように小さく弱い。彼にとっては大した威力ではない。
ただいかんせん数が多すぎる。崖上から垂れる水滴が土を穿つように、着実に彼の体を抉っていく。
前脚から力が抜けた。鋭敏きわまる聴覚を、血のぬめりが混じったズズッという響きが刺激した。
爪を立てようにも力が入らない。筋肉繊維そのものが引きちぎられてしまっている。
それでも≪我鬼≫は諦めなかった。
一度は去ったはずの焦燥が、≪我鬼≫の胸に再び戻ってきた。先ほど感じた切実な死の恐怖より、
はるかに軽度でささやかなものではあったが、根源は間違いなく同じところにあった。
一粒一粒は小石のように小さく弱い。彼にとっては大した威力ではない。
ただいかんせん数が多すぎる。崖上から垂れる水滴が土を穿つように、着実に彼の体を抉っていく。
前脚から力が抜けた。鋭敏きわまる聴覚を、血のぬめりが混じったズズッという響きが刺激した。
爪を立てようにも力が入らない。筋肉繊維そのものが引きちぎられてしまっている。
それでも≪我鬼≫は諦めなかった。
振り落とされてなるものか。
あの雌を味わうまでは。
あの雌を味わうまでは。
≪我鬼≫は高らかに咆哮した。
狂気すらたたえた吼え声とともに、フロントウィンドウに頭突きを見舞った。
狂気すらたたえた吼え声とともに、フロントウィンドウに頭突きを見舞った。
スティックを操作し浮上をはかっていたユキは、視界一杯に虎の巨大な口が広がるのを見た。
「なっ……!」
ウィンドウが激しく割り砕かれた。
≪我鬼≫の頭がヘリに突っ込んできた。
「なっ……!」
ウィンドウが激しく割り砕かれた。
≪我鬼≫の頭がヘリに突っ込んできた。
ここまでか。
苦い唾を飲み込んだ。
きつく目を閉じ、力一杯にスティックを倒した。
きつく目を閉じ、力一杯にスティックを倒した。
せめて兄だけは。
たとえこの身は死しても。
たとえこの身は死しても。
寒風に入り混じる、生温かい息が顔にかかった。獣の唾液の匂いが肺腑いっぱいにひろがった。
「アニキ、すまねぇっ!」
スティックを倒しきれない。
間に合わない。
自分の頭が脳漿を撒き散らすのを覚悟した。
「アニキ、すまねぇっ!」
スティックを倒しきれない。
間に合わない。
自分の頭が脳漿を撒き散らすのを覚悟した。
だがそのとき、スティックを掴む手に柔らかい別の手が重なった。
手は感触に似合わぬ強い力で、半ばで止まったスティックをぎりぎりまで倒しきった。
見えない力でぐわんと持ち上げられる感覚。
ヘリの急速な浮上。
手は感触に似合わぬ強い力で、半ばで止まったスティックをぎりぎりまで倒しきった。
見えない力でぐわんと持ち上げられる感覚。
ヘリの急速な浮上。
開いた目に情景が流れ込んできた。
ユキの頭蓋を屠らんと迫った牙は、しかし結局は届かなかった。
突如として襲った上方向への力に、≪我鬼≫の前脚が機体からずり落ちた。
落下していく。
目を見開いたままユキは首を動かす。自分の命を紙一重で救った人間の顔を見つめる。
「お前……」
女がそこにいた。
片方の手で取り落とした通信機を、もう片方の手でユキの手のひらごとスティックを掴んでいた。
「退却しましょう」
抑揚のない声で言葉を紡ぐ、その頬は心なしか青白い。
「これ以上は無意味です」
ユキの頭蓋を屠らんと迫った牙は、しかし結局は届かなかった。
突如として襲った上方向への力に、≪我鬼≫の前脚が機体からずり落ちた。
落下していく。
目を見開いたままユキは首を動かす。自分の命を紙一重で救った人間の顔を見つめる。
「お前……」
女がそこにいた。
片方の手で取り落とした通信機を、もう片方の手でユキの手のひらごとスティックを掴んでいた。
「退却しましょう」
抑揚のない声で言葉を紡ぐ、その頬は心なしか青白い。
「これ以上は無意味です」
落ちていく≪我鬼≫とは逆にぐんぐん舞い上がっていくヘリ。
呆気にとられたのは一瞬だった。浮力を取り戻した機体をすぐさま加速。
三十フィート、五十フィート、八十フィート。≪我鬼≫の跳躍力でもとうてい届かぬ高みを目指して。
グシャリと肉と骨が潰れる音が風音に混じった気がした。
どうでもいい。
上へ。ただひたすらに上へ。
呆気にとられたのは一瞬だった。浮力を取り戻した機体をすぐさま加速。
三十フィート、五十フィート、八十フィート。≪我鬼≫の跳躍力でもとうてい届かぬ高みを目指して。
グシャリと肉と骨が潰れる音が風音に混じった気がした。
どうでもいい。
上へ。ただひたすらに上へ。
地上の葛西は唇の端を歪め、憔悴しきったサイを見つめていた。
少年の姿をした彼の仮初めの主は、地に膝をついたままブツブツと呟き続けている。普段は
意志の輝きに満ちた瞳は、今やどんよりと澱んでいた。
そこにはもはや、さっきまでの覇気の欠片さえ残っていない。
葛西はマッチを擦る。夜明けの光に包まれ始めた世界で、肺腑の奥まで煙を吸い込んで一服する。
一つには、欠乏しはじめたニコチンを補給するためだった。また戦闘の緊張に強張った体を
解きほぐすためでもあり、更には口元にひろがる嘲笑を隠すためでもあった。
少年の姿をした彼の仮初めの主は、地に膝をついたままブツブツと呟き続けている。普段は
意志の輝きに満ちた瞳は、今やどんよりと澱んでいた。
そこにはもはや、さっきまでの覇気の欠片さえ残っていない。
葛西はマッチを擦る。夜明けの光に包まれ始めた世界で、肺腑の奥まで煙を吸い込んで一服する。
一つには、欠乏しはじめたニコチンを補給するためだった。また戦闘の緊張に強張った体を
解きほぐすためでもあり、更には口元にひろがる嘲笑を隠すためでもあった。
ぐわん、と、ひときわ大きな音が耳に響いた。
視線を投げると、傾き落下しかけていたヘリが浮上したところだった。
地に叩きつけられるギリギリで持ち直したか。
悪運の強い連中だ。
視線を投げると、傾き落下しかけていたヘリが浮上したところだった。
地に叩きつけられるギリギリで持ち直したか。
悪運の強い連中だ。
吸った煙を吐くだけ吐いて、葛西はまたサイに視線を戻す。
力の抜けた体は、糸一本が支えかのような危うさでそこに存在している。喘ぎに似た呼吸を
くりかえしながら、薄く白い胸が上下していた。肌と肉と骨のすぐ下では、小さな心臓が早鐘を
打っているに違いなかった。
力の抜けた体は、糸一本が支えかのような危うさでそこに存在している。喘ぎに似た呼吸を
くりかえしながら、薄く白い胸が上下していた。肌と肉と骨のすぐ下では、小さな心臓が早鐘を
打っているに違いなかった。
葛西は一部始終を聞いていた。
サイとの交信のために装着した通信機は、怪盗と従者とのやりとりを一語一句余すところなく彼に伝えた。
この場で一杯ひっかけられないのが残念だった。全てを知っている彼にとって、サイの慟哭は
極上の肴だった。細胞の超常の力に胡坐をかき、ふんぞり返っていたこの少年が別人のように苦悶する様。
これだけで、何杯でも旨い酒が楽しめただろう。
サイとの交信のために装着した通信機は、怪盗と従者とのやりとりを一語一句余すところなく彼に伝えた。
この場で一杯ひっかけられないのが残念だった。全てを知っている彼にとって、サイの慟哭は
極上の肴だった。細胞の超常の力に胡坐をかき、ふんぞり返っていたこの少年が別人のように苦悶する様。
これだけで、何杯でも旨い酒が楽しめただろう。
――ざまあ見やがれ怪盗"X"。
キャップの鍔の影で葛西は嘲笑した。
――お前はただの、彷徨える化物(モンスター)に過ぎないんだ。
キャップの鍔の影で葛西は嘲笑した。
――お前はただの、彷徨える化物(モンスター)に過ぎないんだ。
葛西は見た目のわりに思慮深い。侮蔑の感情をわざわざ表に出すような、百害あって一利なしな
真似とは無縁だった。口元にひろがる笑みを必死におさえ、精一杯気遣わしげな顔を作って、サイの
肩を背後からトンと叩いた。
「よく分かりませんが、とにかく一度ズラかりましょう。これ以上ここにいてもどうにもなりやしません」
「……………」
「ほら、上の連中も退くつもりみてぇですよ。それに……」
葛西は耳朶に手を当てた。
聴き慣れたサイレンの音。ドップラー効果により変質したファンファンという響きが、微弱ながら
確かに接近してきていた。
「行きましょう。長居は無用です」
サイは答えなかった。
ただゆっくりと首を動かし葛西を見た。
その顔からは、一切の表情が消え去っていた。
真似とは無縁だった。口元にひろがる笑みを必死におさえ、精一杯気遣わしげな顔を作って、サイの
肩を背後からトンと叩いた。
「よく分かりませんが、とにかく一度ズラかりましょう。これ以上ここにいてもどうにもなりやしません」
「……………」
「ほら、上の連中も退くつもりみてぇですよ。それに……」
葛西は耳朶に手を当てた。
聴き慣れたサイレンの音。ドップラー効果により変質したファンファンという響きが、微弱ながら
確かに接近してきていた。
「行きましょう。長居は無用です」
サイは答えなかった。
ただゆっくりと首を動かし葛西を見た。
その顔からは、一切の表情が消え去っていた。
地に叩きつけられた≪我鬼≫を尻目に、巨大な甲虫は空へと昇っていく。
落下の衝撃で四肢が潰れた。動くこと自体はまだ何とか可能だが、己の体長の百倍近いあの高さまで
跳ぶとなるとさすがに別問題だ。
見る間に小さくなる雌を乗せた甲虫。
≪我鬼≫は声にならない唸り声を上げる。
これは敗北だった。
彼は記憶している限りで一度も、獲物に逃げられたことがなかった。どんなに逃げ足の速い獲物でも
確実に狙いを定めて屠ってきたからこそ、故郷の密林で王者として君臨していられたのだ。
由々しき事態だ。
グルリと≪我鬼≫は喉を鳴らす。
はるか昔に人間をやめた彼にも、彼なりのプライドというものがあった。それを踏みにじり
蹂躙した存在を、そのまま捨て置くことはできなかった。
それに――
落下の衝撃で四肢が潰れた。動くこと自体はまだ何とか可能だが、己の体長の百倍近いあの高さまで
跳ぶとなるとさすがに別問題だ。
見る間に小さくなる雌を乗せた甲虫。
≪我鬼≫は声にならない唸り声を上げる。
これは敗北だった。
彼は記憶している限りで一度も、獲物に逃げられたことがなかった。どんなに逃げ足の速い獲物でも
確実に狙いを定めて屠ってきたからこそ、故郷の密林で王者として君臨していられたのだ。
由々しき事態だ。
グルリと≪我鬼≫は喉を鳴らす。
はるか昔に人間をやめた彼にも、彼なりのプライドというものがあった。それを踏みにじり
蹂躙した存在を、そのまま捨て置くことはできなかった。
それに――
あの雌。
≪我鬼≫は彼女の肢体をまぶたの裏に刻み込んだ。
しなやかな体。それでいてまろやかなラインを描く稜線。芳香さえ醸すような若く柔らかい肉。
次は逃がすものか。
必ずその肉を食らってやる。骨の髄まで舌の上で味わってやる。
≪我鬼≫は彼女の肢体をまぶたの裏に刻み込んだ。
しなやかな体。それでいてまろやかなラインを描く稜線。芳香さえ醸すような若く柔らかい肉。
次は逃がすものか。
必ずその肉を食らってやる。骨の髄まで舌の上で味わってやる。
焼け野原と化した園内に響く吼え声一声。
迫り来るサイレンの音と入り混じって、そして消えた。
迫り来るサイレンの音と入り混じって、そして消えた。