笛吹の上司である刑事部長は、記者会見を前にしきりに鏡写りを気にしている。
ネクタイが曲がったといっては直し、吹き出物の痕が気になるといっては擦り、しまいには
部下の女性警察官からファンデーションを借りてパタパタとはたき始めた。
更にその横に座っているのは、同じく笛吹の上司の総監代理。
こちらは逆に、『事件の心労でやつれ切った警察官僚』を装い、記者たちの追及を逃れたいらしい。
同じ女性警察官からアイシャドウを拝借し、目の下に慌ただしくクマを描いている最中だ。
――まったくどいつもこいつも、自分の目先の利益にしか興味がない。
「笛吹さん、眉間に皺が寄っています」
「分かってる。機嫌が悪いから寄ってるんだ」
捜査一課長である笛吹も、この会見には参加することになっている。
開始まで残り三十分。既に堪忍袋の尾は断裂寸前だ。
「不安に怯える国民に情報を公開するのが重要なのは理解しているつもりだが……正直、これは茶番だな」
「お気持ちは自分もよく分かります」
この会見は、捜査の遅れを口々に糾弾するマスコミ勢に、苦し紛れの言い訳を提示するためのものだ。
『警察は何をしている』『一刻も早く詳細な情報を』。テレビも新聞も雑誌も、およそメディアと
名のつく存在は口を揃えてこう喚く。彼らの論調は彼らから情報を得る国民にも伝播し、組織のトップの
立場を劇的に悪化させる。
警察上層部のお偉方は、それを少しでも和らげたいのだ。
失われていく国民の命より何より、それこそが肝要。
「彼らも元は正義感と志を持って入庁した身のはずだが……ああはなりたくないものだな」
「そのお気持ちを忘れないでいてくださればそれで充分かと。自分も肝に銘じておこうと思います」
加熱しきった笛吹の頭に、あくまで物静かな筑紫の言葉は鎮静剤のごとく作用した。
熱気を帯びた吐息を体外に押し出し、笛吹は首を振る。筑紫の差し出した記者の想定問答集を
受け取り、ペンを片手に読み返し始める。
三十分。
夜が明けて光が差し、記者会見が始まるまで、残りあと三十分。
ネクタイが曲がったといっては直し、吹き出物の痕が気になるといっては擦り、しまいには
部下の女性警察官からファンデーションを借りてパタパタとはたき始めた。
更にその横に座っているのは、同じく笛吹の上司の総監代理。
こちらは逆に、『事件の心労でやつれ切った警察官僚』を装い、記者たちの追及を逃れたいらしい。
同じ女性警察官からアイシャドウを拝借し、目の下に慌ただしくクマを描いている最中だ。
――まったくどいつもこいつも、自分の目先の利益にしか興味がない。
「笛吹さん、眉間に皺が寄っています」
「分かってる。機嫌が悪いから寄ってるんだ」
捜査一課長である笛吹も、この会見には参加することになっている。
開始まで残り三十分。既に堪忍袋の尾は断裂寸前だ。
「不安に怯える国民に情報を公開するのが重要なのは理解しているつもりだが……正直、これは茶番だな」
「お気持ちは自分もよく分かります」
この会見は、捜査の遅れを口々に糾弾するマスコミ勢に、苦し紛れの言い訳を提示するためのものだ。
『警察は何をしている』『一刻も早く詳細な情報を』。テレビも新聞も雑誌も、およそメディアと
名のつく存在は口を揃えてこう喚く。彼らの論調は彼らから情報を得る国民にも伝播し、組織のトップの
立場を劇的に悪化させる。
警察上層部のお偉方は、それを少しでも和らげたいのだ。
失われていく国民の命より何より、それこそが肝要。
「彼らも元は正義感と志を持って入庁した身のはずだが……ああはなりたくないものだな」
「そのお気持ちを忘れないでいてくださればそれで充分かと。自分も肝に銘じておこうと思います」
加熱しきった笛吹の頭に、あくまで物静かな筑紫の言葉は鎮静剤のごとく作用した。
熱気を帯びた吐息を体外に押し出し、笛吹は首を振る。筑紫の差し出した記者の想定問答集を
受け取り、ペンを片手に読み返し始める。
三十分。
夜が明けて光が差し、記者会見が始まるまで、残りあと三十分。
白虎となったサイの牙が、黄金の虎の頚椎に食らいついた。
体躯はおよそ三メートル。アムール虎としては小柄な部類、ましてや≪我鬼≫とは比するべくもない。
内臓その他内側も人間そのまま、あくまで大雑把な形状を模しているのみ。
それでも、膂力や耐久性は大幅に向上している。
以前犯行目的で侵入したある家で、飼い犬のドーベルマンに化けたことがあった。その応用だ。
体躯はおよそ三メートル。アムール虎としては小柄な部類、ましてや≪我鬼≫とは比するべくもない。
内臓その他内側も人間そのまま、あくまで大雑把な形状を模しているのみ。
それでも、膂力や耐久性は大幅に向上している。
以前犯行目的で侵入したある家で、飼い犬のドーベルマンに化けたことがあった。その応用だ。
跳躍から落下に転じながら、太い首を半ばまで噛み砕く。
普通なら即死。
≪我鬼≫は普通ではない。
普通なら即死。
≪我鬼≫は普通ではない。
くわえ込んだ頭をサイは大きく振りかぶる。
落下の衝撃に更なる勢いを乗せ地に叩きつければ、与えるダメージは倍加する。
落下の衝撃に更なる勢いを乗せ地に叩きつければ、与えるダメージは倍加する。
だが≪我鬼≫はその手には乗らなかった。
風を灼くジュッという音が耳をなぶった。
異常を感じたときには遅かった。錐と化した≪我鬼≫の尾の先が伸び、サイの後頭部を貫いていた。
「………っ!」
≪我鬼≫の首が口から離れる。
風を灼くジュッという音が耳をなぶった。
異常を感じたときには遅かった。錐と化した≪我鬼≫の尾の先が伸び、サイの後頭部を貫いていた。
「………っ!」
≪我鬼≫の首が口から離れる。
痛みより先に熱が疾る。間脳と中脳が破損した。
ブラックアウトする視界。大脳への中継が遮断され、サイの世界は無音の闇に包まれた。
ブラックアウトする視界。大脳への中継が遮断され、サイの世界は無音の闇に包まれた。
――まずい!
落ちていく。黒い闇に閉ざされたまま落下していく。
――このままじゃ……!
五感のうち、シャットダウンされたのは視覚と聴覚。
残るは触覚・味覚・嗅覚。
受容可能な情報の大半がカットされた形になる。
長年にわたる観察のキャリアによって、研鑽と強化を積み重ねてきた。感覚器の鋭敏さには自信が
あるが、果たしてそれだけで五感の主たる二感の機能喪失をカバーできるか否か。
残るは触覚・味覚・嗅覚。
受容可能な情報の大半がカットされた形になる。
長年にわたる観察のキャリアによって、研鑽と強化を積み重ねてきた。感覚器の鋭敏さには自信が
あるが、果たしてそれだけで五感の主たる二感の機能喪失をカバーできるか否か。
――いや!
――カバーするんだ、意地でも!
――カバーするんだ、意地でも!
体を覆う毛が逆立った。
全身の細胞を総動員する。毛筋一本をそよがす風の流れにまで意識を集中する。
炎の熱気を帯びた大気が鼻腔をくすぐった。
研ぎ澄まされた嗅覚が、焼け焦げていく肉の匂いをとらえた。
空気の動きが、≪我鬼≫の筋肉の動きを伝える。ダークアウトした視界にイメージで絵図を描く。
間近に迫る地上を前に、着地に備える姿。
全身の細胞を総動員する。毛筋一本をそよがす風の流れにまで意識を集中する。
炎の熱気を帯びた大気が鼻腔をくすぐった。
研ぎ澄まされた嗅覚が、焼け焦げていく肉の匂いをとらえた。
空気の動きが、≪我鬼≫の筋肉の動きを伝える。ダークアウトした視界にイメージで絵図を描く。
間近に迫る地上を前に、着地に備える姿。
退化した奥歯を食いしばり、サイは身を捻った。
重力に従い落ちていきながら、≪我鬼≫の首へとなおも食らいつく。
顎の間で骨が砕ける感覚。血と肉の生温かさ。
≪我鬼≫は吼え声を上げたかもしれない。
聴覚を失ったサイの耳には何も届かない。
重力に従い落ちていきながら、≪我鬼≫の首へとなおも食らいつく。
顎の間で骨が砕ける感覚。血と肉の生温かさ。
≪我鬼≫は吼え声を上げたかもしれない。
聴覚を失ったサイの耳には何も届かない。
絡まりあったまま二頭は地に叩きつけられた。
地上百フィート、メートル換算にして三○.四八メートル。ヘリの操縦席からも充分に、地上の
様子が観察できる高度。あかあかと燃える火が照明となり、深夜の暗黒を照らしてくれる。
操縦席から眼下を見下ろし、ユキはサングラスの奥の目をしばたかせた。
「何だ、ありゃあ」
虎が二頭に増えている。
金色の大きい方は無論のこと≪我鬼≫。一方で小振りな銀色の方は全くデータにない個体だ。
しかしデータの有無に関わらず、アイには一目でそれが誰なのか理解できた。
冷ややかな声で事実を口にする。
「主人です」
「は?」
兄弟の声が完璧な和音を奏でた。
「あれは主人です。姿形が少々異なりますので分かりにくいかもしれませんが」
「いや少々とかそういうレベルじゃねえだろあれ」
「とにかく、主人です」
サイの特殊な細胞について今ここで説明するわけにはいかない。たとえ説明したとしても、理解
できるとも思えない。抜きん出た能力を持つこと自体は認めるが、所詮は社会の掃き溜めで這い回る
だけの運び屋だ。
様子が観察できる高度。あかあかと燃える火が照明となり、深夜の暗黒を照らしてくれる。
操縦席から眼下を見下ろし、ユキはサングラスの奥の目をしばたかせた。
「何だ、ありゃあ」
虎が二頭に増えている。
金色の大きい方は無論のこと≪我鬼≫。一方で小振りな銀色の方は全くデータにない個体だ。
しかしデータの有無に関わらず、アイには一目でそれが誰なのか理解できた。
冷ややかな声で事実を口にする。
「主人です」
「は?」
兄弟の声が完璧な和音を奏でた。
「あれは主人です。姿形が少々異なりますので分かりにくいかもしれませんが」
「いや少々とかそういうレベルじゃねえだろあれ」
「とにかく、主人です」
サイの特殊な細胞について今ここで説明するわけにはいかない。たとえ説明したとしても、理解
できるとも思えない。抜きん出た能力を持つこと自体は認めるが、所詮は社会の掃き溜めで這い回る
だけの運び屋だ。
「そういうことか」
意味ありげに兄の方が唇を歪めた。
「本人がどう否定しようと現実は残酷だな。やはり化……」
「早坂久宜」
アイは絶対零度の瞳で早坂を射抜く。
「その先を口にすることは、私が許しません」
「事実だろう。目の前の光景から目を背けてどうする?」
「目を背けてなどいません」
眉一つ動かさない無表情。もしこの顔を写真に撮って、全くの他人に見せたとしても、そこに
怒りを見る者は一人もいまい。声音の方もまた同様に、熱気や上ずりは感じられないはずである。
人間らしい情動など、とうの昔に磨り潰した。怒りは特に、真っ先に削ぎ落とさなければならない
感情だった。冷静さを見失わせ、『仕事』の精度を低下させるからだ。
それでも、耐えられないことというのはあった。
今の早坂の言葉は彼女にとって、決して捨て置くことのできぬ侮辱なのだ。
「あの方は人間です。『人間の限界を越える人間』なのです」
「理屈を捏ねてみても要は同じことだろう。獣に姿を変える人間を人間とは呼ばんよ。お前の言い分だと、
虎に身を堕とした隴西の李徴まで人間になってしまうぞ」
「いいえ。……いいえ」
アイは頑として首を振った。
「あの方は人間です。訂正してください。今すぐにです」
いささかの軟化も見られぬアイの態度に、早坂は肩をそびやかせた。明らかな辟易の見て取れるしぐさだった。
「分かった、分かった。ひとまずそういうことにしておいてやる。忠実な雌犬相手に水掛け論をしたところで、
無駄に時間を食うだけだ」
「ありがとうございます」
一ミリの心もこもらぬ礼の後、PCに視線を落とした。
外付のボックスからはコードが伸び、耳に装着したマイク付イヤホンに繋がっている。
キーを叩くと、ジジッという音とともに通信が繋がった。
マイクの向こうの相手に呼びかける。
「……サイ?」
意味ありげに兄の方が唇を歪めた。
「本人がどう否定しようと現実は残酷だな。やはり化……」
「早坂久宜」
アイは絶対零度の瞳で早坂を射抜く。
「その先を口にすることは、私が許しません」
「事実だろう。目の前の光景から目を背けてどうする?」
「目を背けてなどいません」
眉一つ動かさない無表情。もしこの顔を写真に撮って、全くの他人に見せたとしても、そこに
怒りを見る者は一人もいまい。声音の方もまた同様に、熱気や上ずりは感じられないはずである。
人間らしい情動など、とうの昔に磨り潰した。怒りは特に、真っ先に削ぎ落とさなければならない
感情だった。冷静さを見失わせ、『仕事』の精度を低下させるからだ。
それでも、耐えられないことというのはあった。
今の早坂の言葉は彼女にとって、決して捨て置くことのできぬ侮辱なのだ。
「あの方は人間です。『人間の限界を越える人間』なのです」
「理屈を捏ねてみても要は同じことだろう。獣に姿を変える人間を人間とは呼ばんよ。お前の言い分だと、
虎に身を堕とした隴西の李徴まで人間になってしまうぞ」
「いいえ。……いいえ」
アイは頑として首を振った。
「あの方は人間です。訂正してください。今すぐにです」
いささかの軟化も見られぬアイの態度に、早坂は肩をそびやかせた。明らかな辟易の見て取れるしぐさだった。
「分かった、分かった。ひとまずそういうことにしておいてやる。忠実な雌犬相手に水掛け論をしたところで、
無駄に時間を食うだけだ」
「ありがとうございます」
一ミリの心もこもらぬ礼の後、PCに視線を落とした。
外付のボックスからはコードが伸び、耳に装着したマイク付イヤホンに繋がっている。
キーを叩くと、ジジッという音とともに通信が繋がった。
マイクの向こうの相手に呼びかける。
「……サイ?」
破壊された間脳と中脳の再生が急務だった。
蓄積分のエネルギーが尽きた今、体組織を犠牲にして回復に費やすしかない。
筋肉と骨格は放棄できない以上、内臓を捨てる以外に選択肢はなかった。
ひとまず現在は不要な消化器官。
蓄積分のエネルギーが尽きた今、体組織を犠牲にして回復に費やすしかない。
筋肉と骨格は放棄できない以上、内臓を捨てる以外に選択肢はなかった。
ひとまず現在は不要な消化器官。
ボコン、と腹の中が蠢くのが分かった。
胃袋と腸が分解されていく感覚は、痛みというより嘔吐感に近い。
呼応するように後頭部の傷口が軋みを上げる。
胃袋と腸が分解されていく感覚は、痛みというより嘔吐感に近い。
呼応するように後頭部の傷口が軋みを上げる。
と――
『……サイ?』
耳の中に埋もれた通信機が、回復しはじめた聴覚を刺激した。
葛西か。いや。
「ア、イ?」
『はい。勝手ながら通信に割り込ませていただきました』
かろうじて発語の機能を残した声帯で、吐き気をこらえながらサイは答える。
もっとも口から漏れた声は、普段の少年のそれとは程遠い低く太くひび割れたものに変じている。
加えて虎の口は人語を喋るのに適していない。電子化の過程を経てから彼女の耳へと届く言葉は、
さぞかし聞き取りにくいくぐもったものになっているだろう。
『それから葛西。まだ死んではいないようですね』
『何か色々引っかかる言い方だな……まあ一応な』
葛西か。いや。
「ア、イ?」
『はい。勝手ながら通信に割り込ませていただきました』
かろうじて発語の機能を残した声帯で、吐き気をこらえながらサイは答える。
もっとも口から漏れた声は、普段の少年のそれとは程遠い低く太くひび割れたものに変じている。
加えて虎の口は人語を喋るのに適していない。電子化の過程を経てから彼女の耳へと届く言葉は、
さぞかし聞き取りにくいくぐもったものになっているだろう。
『それから葛西。まだ死んではいないようですね』
『何か色々引っかかる言い方だな……まあ一応な』
――通信で生じた一瞬の隙を、≪我鬼≫は迷わず突いてきた。
重量級の前脚の一撃を、硬く変異させた尾で受け止める。
先ほどの≪我鬼≫の芸をそっくりそのまま真似た形だが、この際オリジナリティなど気にしては
いられない。
重量級の前脚の一撃を、硬く変異させた尾で受け止める。
先ほどの≪我鬼≫の芸をそっくりそのまま真似た形だが、この際オリジナリティなど気にしては
いられない。
「何!? 今……忙しいん、だ、けど!」
ぐじゅっと嫌な音が腹腔内部で響いた。柔らかい体毛に包まれた腹は、明らかにさっきより凹んでいた。
中がどうなっているのかは想像したくもなかった。
今の攻撃は跳んで避けるべきだったと、今更ながら苦い後悔が襲う。体組織の分解を要するのは
再生だけではない。変身であろうと何であろうと、およそ変異細胞に影響を及ぼす行為は今後全て
代償を必要とする。
フックを防がれた≪我鬼≫は、また牙を剥いてサイに襲い掛かった。
今度の狙いは――
ぐじゅっと嫌な音が腹腔内部で響いた。柔らかい体毛に包まれた腹は、明らかにさっきより凹んでいた。
中がどうなっているのかは想像したくもなかった。
今の攻撃は跳んで避けるべきだったと、今更ながら苦い後悔が襲う。体組織の分解を要するのは
再生だけではない。変身であろうと何であろうと、およそ変異細胞に影響を及ぼす行為は今後全て
代償を必要とする。
フックを防がれた≪我鬼≫は、また牙を剥いてサイに襲い掛かった。
今度の狙いは――
『サイ。葛西。お取り込み中申し訳ございませんが、お二人にお願いがあります』
「……! なん、だよっ!」
「……! なん、だよっ!」
今にも耳まで裂けそうな口、そこにずらりと並ぶ牙が狙ってくるのは、たった今内臓を失った腹。
野獣の原始的な知性でも、そこを庇っているのが分かるのか。あるいは野生の獣だからこそ、本能で
敏感に察したのか。
後ろに跳び退って回避する。
高いパワーと耐久性がこの姿の長所だが、人型のときと違って両腕が自由に使えないのはネックだった。
変異をほしいままに扱えるならいくらでもカバーのしようがあるが、体を作り変えるたびに別の
どこかを犠牲にせざるを得ないこの状況では、そうもいかない。
防御面が心許なくなるのは当然の帰結である。
野獣の原始的な知性でも、そこを庇っているのが分かるのか。あるいは野生の獣だからこそ、本能で
敏感に察したのか。
後ろに跳び退って回避する。
高いパワーと耐久性がこの姿の長所だが、人型のときと違って両腕が自由に使えないのはネックだった。
変異をほしいままに扱えるならいくらでもカバーのしようがあるが、体を作り変えるたびに別の
どこかを犠牲にせざるを得ないこの状況では、そうもいかない。
防御面が心許なくなるのは当然の帰結である。
『私が今から申し上げる通りになさって下さい。よろしいですか、……………』
退いて距離をとったところを、葛西の青い火炎がまた襲う。
通常火を嫌うとされる野生動物だが、≪我鬼≫には当てはまらないらしい。躊躇なく火の中へと
突っ込んでいく。身を焼きながらの突撃もサイは跳躍で避ける。
アイの淡々とした声を耳に聞きながら地を蹴り、尖った牙の先を閃かせた。
通常火を嫌うとされる野生動物だが、≪我鬼≫には当てはまらないらしい。躊躇なく火の中へと
突っ込んでいく。身を焼きながらの突撃もサイは跳躍で避ける。
アイの淡々とした声を耳に聞きながら地を蹴り、尖った牙の先を閃かせた。
≪我鬼≫は焦り出していた。
かつて棲家としていた深い森では、彼は無敵の存在だった。天を舞うものも地を這うものも例外なく、
顎のひと噛みであえなく息絶え、彼の血肉を形成するための贄となった。彼を取り巻く世界のすべてが、
彼を生かすために在ったと言い換えてもよかった。
つまり、である。
≪我鬼≫には、追い詰められた経験がなかったのだ。
全てがイレギュラーだった。抉られる肉も潰される骨も折れて妙な方向に曲がった首も、嫌な匂いを
撒き散らしながら身を焼き焦がしていく熱も、断続的に傷つけられることで少しずつ再生速度の鈍って
いく体も、未だかつて味わったことのない感覚を彼の胸に呼び起こした。
"敗北"の恐怖。
"死"のイマジネーション。
食らうことで生を紡いできた彼が、食らわれることで終焉を迎える――
それは、永く玉座に君臨せし王者が臣下の反乱に戸惑うのに似ていた。
戸惑いは憤怒となり、憤怒は衝動となり、衝動は破壊を目指して力そのものと化す。
かつて棲家としていた深い森では、彼は無敵の存在だった。天を舞うものも地を這うものも例外なく、
顎のひと噛みであえなく息絶え、彼の血肉を形成するための贄となった。彼を取り巻く世界のすべてが、
彼を生かすために在ったと言い換えてもよかった。
つまり、である。
≪我鬼≫には、追い詰められた経験がなかったのだ。
全てがイレギュラーだった。抉られる肉も潰される骨も折れて妙な方向に曲がった首も、嫌な匂いを
撒き散らしながら身を焼き焦がしていく熱も、断続的に傷つけられることで少しずつ再生速度の鈍って
いく体も、未だかつて味わったことのない感覚を彼の胸に呼び起こした。
"敗北"の恐怖。
"死"のイマジネーション。
食らうことで生を紡いできた彼が、食らわれることで終焉を迎える――
それは、永く玉座に君臨せし王者が臣下の反乱に戸惑うのに似ていた。
戸惑いは憤怒となり、憤怒は衝動となり、衝動は破壊を目指して力そのものと化す。
ゴトンッと心臓が音を立てた。
生命維持の根幹たるこの内臓は、肉体に燃料を送るいわばポンプだ。体が大きければ大きいほど、
より強力なものが必要となる。
全長五メートル超の≪我鬼≫の心臓が、更なる力を得て肥大化した。肺も肋骨も、そしてそれを
取り巻く筋肉郡も、勢いを増す血流に応え細胞変異の軋みを上げた。
自らの肉体の構造を≪我鬼≫は知らない。知りたいとも思わない。そんなことはどうでも良いのだ。
今この瞬間にこの形でこの場に在る。その事実をただ受け入れ活用するだけ。
生命維持の根幹たるこの内臓は、肉体に燃料を送るいわばポンプだ。体が大きければ大きいほど、
より強力なものが必要となる。
全長五メートル超の≪我鬼≫の心臓が、更なる力を得て肥大化した。肺も肋骨も、そしてそれを
取り巻く筋肉郡も、勢いを増す血流に応え細胞変異の軋みを上げた。
自らの肉体の構造を≪我鬼≫は知らない。知りたいとも思わない。そんなことはどうでも良いのだ。
今この瞬間にこの形でこの場に在る。その事実をただ受け入れ活用するだけ。
肋骨が毛皮を突き破る。
肩、前脚、後ろ脚。肉が弾け、太さと長さを増した骨が露出していく。一拍遅れて、生々しい
ピンク色の筋肉がそれを追いかける。
毛皮はあえて再生しない。表皮の役割は防寒と、外部からの異物の遮断による感染や化膿の抑止。
目の前の天敵の排除が最優先である今、削ぎ落としても止むを得ない機能だ。
肉を剥き出しにしたまま≪我鬼≫は巨大化していく。
肩、前脚、後ろ脚。肉が弾け、太さと長さを増した骨が露出していく。一拍遅れて、生々しい
ピンク色の筋肉がそれを追いかける。
毛皮はあえて再生しない。表皮の役割は防寒と、外部からの異物の遮断による感染や化膿の抑止。
目の前の天敵の排除が最優先である今、削ぎ落としても止むを得ない機能だ。
肉を剥き出しにしたまま≪我鬼≫は巨大化していく。
十メートル超。
全長だけならスミソニアンのフェニコビ・エレファントをも凌ぐ、地上最大級の哺乳類が
プールサイドに出現した。
「ふん。デカけりゃいいってもんじゃないよ」
二本足が――ついさっきまで二本足だった、彼の天敵が鼻を鳴らした。
大人と子供以上の体格差は、外観上同じ獣をなぞっているぶん余計に強調される。さっきより遥かに
高くなった視座から、≪我鬼≫は天敵を見下ろした。
高らかに≪奴≫が吼えた。
「葛西、頼んだよ!」
「合点で」
跳躍ひとつ。
また馬鹿の一つ覚えで首への攻撃か。
逞しさを増した前脚で薙ぎ倒す。もんどり打って倒れ込む≪奴≫は、それでもなお地から身を
引き剥がし向かってくる。
全長だけならスミソニアンのフェニコビ・エレファントをも凌ぐ、地上最大級の哺乳類が
プールサイドに出現した。
「ふん。デカけりゃいいってもんじゃないよ」
二本足が――ついさっきまで二本足だった、彼の天敵が鼻を鳴らした。
大人と子供以上の体格差は、外観上同じ獣をなぞっているぶん余計に強調される。さっきより遥かに
高くなった視座から、≪我鬼≫は天敵を見下ろした。
高らかに≪奴≫が吼えた。
「葛西、頼んだよ!」
「合点で」
跳躍ひとつ。
また馬鹿の一つ覚えで首への攻撃か。
逞しさを増した前脚で薙ぎ倒す。もんどり打って倒れ込む≪奴≫は、それでもなお地から身を
引き剥がし向かってくる。
王に反旗を翻そうという、その度胸は買おう。
だが身の程知らずの末路など決まっている。
だが身の程知らずの末路など決まっている。
翻した前脚を地についた瞬間、足元が光とともに破裂した。
エクスプロージョン、外部志向性の爆発が右半身を嬲る。
特注の火薬を配合・調整し、衝撃によって炸裂させるいわば簡易地雷。そのからくりを見抜く
だけの知恵は≪我鬼≫にはない。
だがサイズと膂力を増した巨体は、大気に走る断裂をものともしなかった。直径数ミリのボール・
ベアリングが無数に体に突き刺さってもどうということはなかった。厚みを増した脂肪、そして
筋肉が全てを受け止めたからだ。
ただ爆発のほんの一瞬、わずかに目の前の≪奴≫から意識が逸れた。
エクスプロージョン、外部志向性の爆発が右半身を嬲る。
特注の火薬を配合・調整し、衝撃によって炸裂させるいわば簡易地雷。そのからくりを見抜く
だけの知恵は≪我鬼≫にはない。
だがサイズと膂力を増した巨体は、大気に走る断裂をものともしなかった。直径数ミリのボール・
ベアリングが無数に体に突き刺さってもどうということはなかった。厚みを増した脂肪、そして
筋肉が全てを受け止めたからだ。
ただ爆発のほんの一瞬、わずかに目の前の≪奴≫から意識が逸れた。
気配が背後に膨れ上がるのを感じた瞬間、同種の牙が後ろから首を襲う。
深い一撃。さっきまでなら確実に、頚動脈が損傷し血が噴き出していた。だが固い肉は鎧となって
牙を弾き返し、≪奴≫の牙をへし折ったのみに終わった。
無造作に首を振ると、≪奴≫の体が吹っ飛んだ。
三メートル弱の肢体は、園内の建物に激突する。≪我鬼≫の目には四角い巨大な岩のごとく映って
いたそれは、岩よりは軽いメリメリッという音とともに大きく揺れる。
≪我鬼≫は倒れ込んだ≪奴≫に襲い掛かった。
狙うのは腹。さっきから≪奴≫が庇い続けている部分。
深い一撃。さっきまでなら確実に、頚動脈が損傷し血が噴き出していた。だが固い肉は鎧となって
牙を弾き返し、≪奴≫の牙をへし折ったのみに終わった。
無造作に首を振ると、≪奴≫の体が吹っ飛んだ。
三メートル弱の肢体は、園内の建物に激突する。≪我鬼≫の目には四角い巨大な岩のごとく映って
いたそれは、岩よりは軽いメリメリッという音とともに大きく揺れる。
≪我鬼≫は倒れ込んだ≪奴≫に襲い掛かった。
狙うのは腹。さっきから≪奴≫が庇い続けている部分。
時計のないここでも確実に時は進む。刻一刻と夜明けが迫っていく。
≪我鬼≫は気づかない。
自分がある一点に誘い出されていくことに。
気づいたとしても、彼にはそれが何を意味するか理解するだけの材料もない。
≪奴≫と共にいたはずのもう一匹の二本足が、いつの間にか見えなくなっていることにも考えが
至らない。
≪我鬼≫は気づかない。
自分がある一点に誘い出されていくことに。
気づいたとしても、彼にはそれが何を意味するか理解するだけの材料もない。
≪奴≫と共にいたはずのもう一匹の二本足が、いつの間にか見えなくなっていることにも考えが
至らない。
突進しながら≪我鬼≫は咆哮する。乾いた空気を震わせて吼え声は響く。
彼らの攻防はまだまだ終わらない。
彼らの攻防はまだまだ終わらない。
「……さっきからチマチマと何をやっている」
「そのうち分かります。今は少し黙っていてください」
早坂久宜の問いを軽く流して、アイはPCの操作を続ける。
画面には、さっきまでとは明らかに異なるウインドウ。
見る者が見れば、彼女が何をしようとしているか一目瞭然だ。もっともこの兄弟の本分は情報を
扱う裏稼業、彼らにこれが理解できるかどうかは定かでない。
全ての完了まで、あと五分程度といったところか。
いや、三分だ。
この作業は時間が勝負。万に一つもタイミングを逃すわけにはいかない。
「そのうち分かります。今は少し黙っていてください」
早坂久宜の問いを軽く流して、アイはPCの操作を続ける。
画面には、さっきまでとは明らかに異なるウインドウ。
見る者が見れば、彼女が何をしようとしているか一目瞭然だ。もっともこの兄弟の本分は情報を
扱う裏稼業、彼らにこれが理解できるかどうかは定かでない。
全ての完了まで、あと五分程度といったところか。
いや、三分だ。
この作業は時間が勝負。万に一つもタイミングを逃すわけにはいかない。
――Caution Security Area――
――警告・この端末からではアクセスできません――
――警告・この端末からではアクセスできません――
ファイヤーウォール。耳ざわりなビープ音とともにメッセージが吐き出される。
この程度の防御機構は予想済み。あらゆる分野の工作技術をその身に叩き込まれたアイにしてみれば、
幼児の手になる砂の砦に等しい。
この程度の防御機構は予想済み。あらゆる分野の工作技術をその身に叩き込まれたアイにしてみれば、
幼児の手になる砂の砦に等しい。
――Caution Security Area――
――Caution
――WARNING
――WARNING
――KEEP OUT
――KEEP OUT
――KEEP OUT!
――KEEP OUT!!
――Caution
――WARNING
――WARNING
――KEEP OUT
――KEEP OUT
――KEEP OUT!
――KEEP OUT!!
画面を埋め尽くしていくメッセージに、アイは慌ても騒ぎもしなかった。
眉の端すら震わせることなく、前もって構築しておいたプログラムを起動させた。
厳密には、構築という言葉は不適当である。このプログラムは、アイが一から構想し組み上げた
ものではないからだ。
手本となったオリジナルが存在する。彼女はそのごく一部をなぞり、ウイルスプログラムとして
多少アレンジを加えて仕上げたにすぎない。
眉の端すら震わせることなく、前もって構築しておいたプログラムを起動させた。
厳密には、構築という言葉は不適当である。このプログラムは、アイが一から構想し組み上げた
ものではないからだ。
手本となったオリジナルが存在する。彼女はそのごく一部をなぞり、ウイルスプログラムとして
多少アレンジを加えて仕上げたにすぎない。
――KEEP OUT!!
――KEEP OUT!!
――KEEP OUT!
――KEEP OUT
――KEEP OUT
――KEEP OUT!!
――KEEP OUT!
――KEEP OUT
――KEEP OUT
かつてこの国に、春川英輔と呼ばれた男がいた。
各分野、ことに脳科学とコンピュータサイエンスにおいて天才の名をほしいままにした学者。
このまま斯界の道を究めれば、間違いなく歴史に名を残すといわれた男。
しかしその男は皮肉にも、学術史ではなく犯罪史の方に名を刻むこととなった。
彼が己自身の脳をコピーし、産み出したプログラム人格≪電人HAL≫。クラークの名作に登場する
コンピュータと酷似した名を持つその人工知能は、その作品の展開をなぞるかのごとく、オリジナルの
意思を無視して暴走した。
ネットを介した一般市民の洗脳、当時この国に停泊中だった原子力空母オズワルドの占拠。
一般に≪HAL事件≫と呼ばれるこれら一連の事件は、史上初の人工知能による犯罪として、
全世界の人間が記憶するところである。
アイが注目したのは、このHALの構造だった。
無論、HALそのものを造ることはできない。あらゆる分野において相当の知識技術経験を持つ
アイだが、彼女はあくまでゼネラリスト、斯界のスペシャリストであった春川英輔には敵うべくもない。
だが。
各分野、ことに脳科学とコンピュータサイエンスにおいて天才の名をほしいままにした学者。
このまま斯界の道を究めれば、間違いなく歴史に名を残すといわれた男。
しかしその男は皮肉にも、学術史ではなく犯罪史の方に名を刻むこととなった。
彼が己自身の脳をコピーし、産み出したプログラム人格≪電人HAL≫。クラークの名作に登場する
コンピュータと酷似した名を持つその人工知能は、その作品の展開をなぞるかのごとく、オリジナルの
意思を無視して暴走した。
ネットを介した一般市民の洗脳、当時この国に停泊中だった原子力空母オズワルドの占拠。
一般に≪HAL事件≫と呼ばれるこれら一連の事件は、史上初の人工知能による犯罪として、
全世界の人間が記憶するところである。
アイが注目したのは、このHALの構造だった。
無論、HALそのものを造ることはできない。あらゆる分野において相当の知識技術経験を持つ
アイだが、彼女はあくまでゼネラリスト、斯界のスペシャリストであった春川英輔には敵うべくもない。
だが。
――KEEP OUT
――KEEP OUT
――WARNING
――WARNING
――WARNING
――WARNING
――KEEP OUT
――WARNING
――WARNING
――WARNING
――WARNING
散逸した開発資料を収集し、個々は単なる断片でしかないそれらをつなぎ合わせ、足りない部分を
必要最低限自分の知識で補い、≪劣化コピー≫程度のものであれば造ることができる。
HALのように、独立した人格を持つレベルには至らない。モデルに選んだ人間の行動様式を
大雑把になぞらせ、機械では読み取れない漠然とした一貫性を再現しただけだ。
モデルは怪盗"X"。今まさに、はるか眼下で死闘を繰り広げる彼女の主人。
必要最低限自分の知識で補い、≪劣化コピー≫程度のものであれば造ることができる。
HALのように、独立した人格を持つレベルには至らない。モデルに選んだ人間の行動様式を
大雑把になぞらせ、機械では読み取れない漠然とした一貫性を再現しただけだ。
モデルは怪盗"X"。今まさに、はるか眼下で死闘を繰り広げる彼女の主人。
――WARNING
――WARNING
――WARNING
――WARNING
――WARNING
――WARNING
――WARNING
――WARNING
――WARNING
わがまま放題気まぐれ三昧、いつ何をしでかすか分からないサイの行動様式は、1と0の演算で
全てを処理するコンピュータ・システムにとってはイレギュラーの塊である。いっそ爆弾と言い換えて
しまってもいい。
このプログラムを流し込まれるだけで、大概のセキュリティシステムはダウンする。そして防衛
機構を手当たり次第に蹂躙され、ものの数十秒で完全に再起不能に陥る。
決して定まらぬが故に無敵のウイルスプログラム。
全てを処理するコンピュータ・システムにとってはイレギュラーの塊である。いっそ爆弾と言い換えて
しまってもいい。
このプログラムを流し込まれるだけで、大概のセキュリティシステムはダウンする。そして防衛
機構を手当たり次第に蹂躙され、ものの数十秒で完全に再起不能に陥る。
決して定まらぬが故に無敵のウイルスプログラム。
――WARNING
――WARNING
――Caution
――Caution
――Caution
――Ca
………………
――WARNING
――Caution
――Caution
――Caution
――Ca
………………
ディスプレイが完全に沈黙した。
アイは休まない。すかさずキーボードを叩き、目当てのデータベースに潜り込む。
ここに至るまで三十秒。残り二分三十秒でデータを改竄し、修復プログラムを流し込んで離脱
しなければならない。
地上の戦闘とはまた別の、もうひとつの戦いがここにあった。
アイは休まない。すかさずキーボードを叩き、目当てのデータベースに潜り込む。
ここに至るまで三十秒。残り二分三十秒でデータを改竄し、修復プログラムを流し込んで離脱
しなければならない。
地上の戦闘とはまた別の、もうひとつの戦いがここにあった。
いっそう巨大となった顎が、サイの前脚を食いちぎる。
たたらを踏んだところにフックが迫った。四足歩行に慣れない体が重心を失い、くずれ落ちかける
のを地に爪を立てて踏みとどまる。
変異のエネルギーに費やされ、内臓は一つまた一つと用をなさなくなっていく。
消化器官に続き肝臓、腎臓。腹が凹んで軽くなるのと引き換えに、強烈な吐き気と眩暈が襲う。
生命維持に即影響するわけではなくても、生物のシステム上重要な機能を切り捨てれば当然負担は
かかる。そして長時間その負担が続けば、積もり積もってそのうち限界を迎える。
その前に……
サイは歯を食いしばった。
その前に。
たたらを踏んだところにフックが迫った。四足歩行に慣れない体が重心を失い、くずれ落ちかける
のを地に爪を立てて踏みとどまる。
変異のエネルギーに費やされ、内臓は一つまた一つと用をなさなくなっていく。
消化器官に続き肝臓、腎臓。腹が凹んで軽くなるのと引き換えに、強烈な吐き気と眩暈が襲う。
生命維持に即影響するわけではなくても、生物のシステム上重要な機能を切り捨てれば当然負担は
かかる。そして長時間その負担が続けば、積もり積もってそのうち限界を迎える。
その前に……
サイは歯を食いしばった。
その前に。
渾身の力を後脚に込めて跳んだ。前脚の傷から血が溢れ、辺りに独創的な模様を描いた。
ここが仕留める好機と取ったか、三本脚で駆けるサイを≪我鬼≫が追う。
酸素不足に喘ぎながら駆ける先は……
ここが仕留める好機と取ったか、三本脚で駆けるサイを≪我鬼≫が追う。
酸素不足に喘ぎながら駆ける先は……
「アイ! まだ!?」
『残り二分、いえ一分三十秒です。それまでどうか』
「遅い! 一分でやって!」
『かしこまりました』
『残り二分、いえ一分三十秒です。それまでどうか』
「遅い! 一分でやって!」
『かしこまりました』
建物の壁を体当たりで破壊する。虎としては小振りな体格でも、人間仕様の出入り口を通るには
無理がある。
舞い散るコンクリートの粉塵に、むせている時間はこの際ない。
狭い通路をひた走る。頭の中でカウントダウンが鳴り響く。
無理がある。
舞い散るコンクリートの粉塵に、むせている時間はこの際ない。
狭い通路をひた走る。頭の中でカウントダウンが鳴り響く。
――五十、四十九、四十八……
追いすがってくる≪我鬼≫の体は、この通路の幅には明らかにサイズオーバーだ。
だが怪物じみた膂力と強靭な体躯は、行く手を阻むかに見えた壁をやすやすと破壊する。
壁を崩し、柱をへし折り、天井すらも崩落させながら巨獣は追って来る。
だが怪物じみた膂力と強靭な体躯は、行く手を阻むかに見えた壁をやすやすと破壊する。
壁を崩し、柱をへし折り、天井すらも崩落させながら巨獣は追って来る。
――四十、三十九、三十八……
――三十、二十九、二十八……
――三十、二十九、二十八……
「葛西! そっちはどう!?」
『いつでも結構でさァ』
「オッケー」
顔に当たるコンクリートの破片を感じながら、サイは虎の顔のままで笑った。
『いつでも結構でさァ』
「オッケー」
顔に当たるコンクリートの破片を感じながら、サイは虎の顔のままで笑った。
――二十、十九、十八、十七。
――十六、十五、十四、十三。
――十六、十五、十四、十三。
『そんじゃ、俺ァ避難させていただきますよ。巻き込まれちゃあたまらねえ』
葛西からの通信が途切れる。
葛西からの通信が途切れる。
――十、九、八。
――七、六、五。
――七、六、五。
廊下の突き当たりにドアが見えた。
かすれた文字で書かれた表示は、『関係者以外立入禁止』。
サイは速度を上げる。引きちぎられた前脚も再生させ、全速力で疾走する。
かすれた文字で書かれた表示は、『関係者以外立入禁止』。
サイは速度を上げる。引きちぎられた前脚も再生させ、全速力で疾走する。
――四。
――三。
――二。一。
――三。
――二。一。
『サイ! 今です!』
アイの声とともにサイは床を蹴った。
白銀の体は全力疾走の勢いを乗せて跳び、脆い天井を破壊して夜明け前の空に舞った。
しかし≪我鬼≫の勢いは止まらない。
全長十メートル体重十一トン超。列車がすぐには止まれないのと同様、充分にスピードのついた
この巨体にブレーキをかけるには、相応の時間を要する。
≪我鬼≫が廊下の突き当たりに突っ込んだ。
轟音とともにぶち破られるドア。
白銀の体は全力疾走の勢いを乗せて跳び、脆い天井を破壊して夜明け前の空に舞った。
しかし≪我鬼≫の勢いは止まらない。
全長十メートル体重十一トン超。列車がすぐには止まれないのと同様、充分にスピードのついた
この巨体にブレーキをかけるには、相応の時間を要する。
≪我鬼≫が廊下の突き当たりに突っ込んだ。
轟音とともにぶち破られるドア。
――ゼロ。
金の閃光がほとばしった。嵐の夜、空に轟く遠雷と同じ色をした光だった。
絶叫に似た吼え声が上がった。
内側から肉を黒焦げにする、高圧の電流が≪我鬼≫の体を走り抜けた。
絶叫に似た吼え声が上がった。
内側から肉を黒焦げにする、高圧の電流が≪我鬼≫の体を走り抜けた。