102号室──。
珍しく空道の道着を着用し、片足立ちで不気味な沈黙を保つ柳。右手につまんだ和紙を
解放し、重力に委ねる。ひらりひらりと木の葉の如く、頼りなく和紙が落ちる。
浮いている右足裏を和紙に近づける。これがもし「右手」だったなら、和紙は吸い込ま
れるように掌に張り付くことだろう。
穏やかな瞳が、突如見開かれる。
酸素濃度6%未満──真空の発現。
和紙は足裏に引き込まれ、くっついたものの、一秒と経たぬうちに剥がれ落ちてしまっ
た。
失敗。しかし落胆も失望も省略し、すぐに柳は修業を再開した。
片足立ちとなり、和紙を空中に落とす。
常軌を逸した執念。歴史の闇を暗躍していた空道の歴史にあって、だれもが不可能と断
じ、試行錯誤すらしなかった。足による空掌。
柳は必ず完成できると信じていた。
「大家さん、いい機会を与えてくれた……。必ずや我が四肢に真空を作り出すッ!」
珍しく空道の道着を着用し、片足立ちで不気味な沈黙を保つ柳。右手につまんだ和紙を
解放し、重力に委ねる。ひらりひらりと木の葉の如く、頼りなく和紙が落ちる。
浮いている右足裏を和紙に近づける。これがもし「右手」だったなら、和紙は吸い込ま
れるように掌に張り付くことだろう。
穏やかな瞳が、突如見開かれる。
酸素濃度6%未満──真空の発現。
和紙は足裏に引き込まれ、くっついたものの、一秒と経たぬうちに剥がれ落ちてしまっ
た。
失敗。しかし落胆も失望も省略し、すぐに柳は修業を再開した。
片足立ちとなり、和紙を空中に落とす。
常軌を逸した執念。歴史の闇を暗躍していた空道の歴史にあって、だれもが不可能と断
じ、試行錯誤すらしなかった。足による空掌。
柳は必ず完成できると信じていた。
「大家さん、いい機会を与えてくれた……。必ずや我が四肢に真空を作り出すッ!」
ドリアンはコーポ海王を訪ねていた。
アパート内にある鍛錬場にて、站椿のまま向き合うドリアンと烈。
持続時間はまもなく六時間にもなろうとしていた。なのに、まるで微動だにしていない。
二人の足元には夥しい汗が落ち、水たまりが形成され、乾いた箇所にはうっすらと塩が浮
かび上がっている。
──六時間経過。
二人は全く同じタイミングで構えを取った。
「始めましょう」
「烈君、年長者から攻めさせる気かね? まずは君から来たま──」
床を足指で抉るような踏み込みで、突如間合いを詰めるドリアン。
強烈な中段突き。が、烈もきっちり防御を決めた。
「さすがだ。残り十日間、君という天才から学ばせてもらおう! ──噴ッ!」
「いいでしょう。海王がいながら大統領が殺されては冗談にもならない。──破ッ!」
気合を発露させ、白林寺の兄弟弟子、激突す。
アパート内にある鍛錬場にて、站椿のまま向き合うドリアンと烈。
持続時間はまもなく六時間にもなろうとしていた。なのに、まるで微動だにしていない。
二人の足元には夥しい汗が落ち、水たまりが形成され、乾いた箇所にはうっすらと塩が浮
かび上がっている。
──六時間経過。
二人は全く同じタイミングで構えを取った。
「始めましょう」
「烈君、年長者から攻めさせる気かね? まずは君から来たま──」
床を足指で抉るような踏み込みで、突如間合いを詰めるドリアン。
強烈な中段突き。が、烈もきっちり防御を決めた。
「さすがだ。残り十日間、君という天才から学ばせてもらおう! ──噴ッ!」
「いいでしょう。海王がいながら大統領が殺されては冗談にもならない。──破ッ!」
気合を発露させ、白林寺の兄弟弟子、激突す。
体内に仕込んだ武器(タネ)による手品で、大勢の客を沸かせるドイル。
手品師としての仕事をこなしつつ、彼は迷っていた。
十日間、己をどう磨くべきか。外科手術に頼るべきか、格闘士のように肉体を鍛え上げ
るべきか。
ドイルは同業である鎬昂昇と龍書文に、苦しい胸の内を打ち明けた。
「難しいな……。私ならば迷わず徒手を選択するが、君とは土俵が違うからな……」
親身になって悩んでくれる昂昇だが、親身ゆえに結論が出せない。
一方、龍書文は即答だった。
「簡単なことだ」
「えっ?」きょとんとするドイルと昂昇。
「両方やればいい」
「不可拘束」の異名がもたらした結論は実に明快だった。武器も肉体も、ドイルにとっ
ては重要な構成物質だ。ならば、どちらも進化させればいいだけのこと。
ドイルの心に一筋の光が差し込んだ。
手品師としての仕事をこなしつつ、彼は迷っていた。
十日間、己をどう磨くべきか。外科手術に頼るべきか、格闘士のように肉体を鍛え上げ
るべきか。
ドイルは同業である鎬昂昇と龍書文に、苦しい胸の内を打ち明けた。
「難しいな……。私ならば迷わず徒手を選択するが、君とは土俵が違うからな……」
親身になって悩んでくれる昂昇だが、親身ゆえに結論が出せない。
一方、龍書文は即答だった。
「簡単なことだ」
「えっ?」きょとんとするドイルと昂昇。
「両方やればいい」
「不可拘束」の異名がもたらした結論は実に明快だった。武器も肉体も、ドイルにとっ
ては重要な構成物質だ。ならば、どちらも進化させればいいだけのこと。
ドイルの心に一筋の光が差し込んだ。
「止メダ、止メダ、ヤッテラレネェヤッ!」
特訓を放り出し、スペックは渋川流道場から走り去ってしまった。
呆れる老人会のメンバーたち。Sirと中国拳法が大好きな老人が不満をこぼす。
「やれやれ、まったく我慢が足りん。自分から特訓を申し出ておいて、勝手な奴だ」
「この世でもっとも我慢ができない生物でございますか。赤ん坊、反抗期の少年、色々ご
ざいますなァ。ただ、たった一つだけというならやはり……スペックでございます」
渋川は何を今さら、といった風に笑う。
「カッカッカ、まぁいいセンはいっていたんですがな。わしの合気、消力(シャオリー)、
軍隊格闘術、中国拳法──どれもスペックさんはお気に召さなかったようで」
車椅子に座る郭が口をへの字に曲げる。
「じゃが、分からんぞ」
「……え?」
「あの年齢であの体躯、才能も並大抵ではない。あやつが限界を迎えた時、わしらの教え
がぱあっと開花するやもしれぬ……」
意味深な郭の言葉に、だれもが真意をはかりかねた。
特訓を放り出し、スペックは渋川流道場から走り去ってしまった。
呆れる老人会のメンバーたち。Sirと中国拳法が大好きな老人が不満をこぼす。
「やれやれ、まったく我慢が足りん。自分から特訓を申し出ておいて、勝手な奴だ」
「この世でもっとも我慢ができない生物でございますか。赤ん坊、反抗期の少年、色々ご
ざいますなァ。ただ、たった一つだけというならやはり……スペックでございます」
渋川は何を今さら、といった風に笑う。
「カッカッカ、まぁいいセンはいっていたんですがな。わしの合気、消力(シャオリー)、
軍隊格闘術、中国拳法──どれもスペックさんはお気に召さなかったようで」
車椅子に座る郭が口をへの字に曲げる。
「じゃが、分からんぞ」
「……え?」
「あの年齢であの体躯、才能も並大抵ではない。あやつが限界を迎えた時、わしらの教え
がぱあっと開花するやもしれぬ……」
意味深な郭の言葉に、だれもが真意をはかりかねた。
親指逆立ちでの町内ジョギング。シコルスキーはひたすら指を鍛えていた。
「シコルスキーさんっ!」
話しかけてきたのはかつてのいじめられっ子、鮎川ルミナだった。ランドセルを背負っ
ていることから、学校帰りのようだ。
「久しぶりだな、ルミナ。元気そうじゃないか」
「うん。あいつらとも仲直りできたし、今日もランドセルを置いたらすぐにサッカーに行
くんです。これもシコルスキーさんがマウスを倒してくれたおかげです」
いじめを克服し、充実した小学生ライフを送るルミナに、安堵と幾分かの嫉妬を覚える
シコルスキー。いい歳をして、己の小ささが恥ずかしくなった。
「ところで、シコルスキーさんは? 特訓してるんですか?」
「今度アメリカの大統領が日本に来るだろ? 色々あってしけい荘が警護を任されること
になってな。これが終わったら空拳道の道場でトレーニングだ」
「すごいじゃないですか!」
「すごい? ……なにが?」
「アメリカの大統領っていったら、すごい偉い人でしょ? そんな人の警護をやるなんて
すごいことじゃないですか」
「……下らん男さ」
ゲバルがいっていた台詞を盗み、逆立ちのまま格好つけるシコルスキー。
「じゃあ、頑張って下さいね! 僕、みんなに自慢しますから!」
「あぁ、武勇伝を聞かせてやるよ」
小さな親友(とも)と約束を交わし、シコルスキーは闘志を燃やす。
「シコルスキーさんっ!」
話しかけてきたのはかつてのいじめられっ子、鮎川ルミナだった。ランドセルを背負っ
ていることから、学校帰りのようだ。
「久しぶりだな、ルミナ。元気そうじゃないか」
「うん。あいつらとも仲直りできたし、今日もランドセルを置いたらすぐにサッカーに行
くんです。これもシコルスキーさんがマウスを倒してくれたおかげです」
いじめを克服し、充実した小学生ライフを送るルミナに、安堵と幾分かの嫉妬を覚える
シコルスキー。いい歳をして、己の小ささが恥ずかしくなった。
「ところで、シコルスキーさんは? 特訓してるんですか?」
「今度アメリカの大統領が日本に来るだろ? 色々あってしけい荘が警護を任されること
になってな。これが終わったら空拳道の道場でトレーニングだ」
「すごいじゃないですか!」
「すごい? ……なにが?」
「アメリカの大統領っていったら、すごい偉い人でしょ? そんな人の警護をやるなんて
すごいことじゃないですか」
「……下らん男さ」
ゲバルがいっていた台詞を盗み、逆立ちのまま格好つけるシコルスキー。
「じゃあ、頑張って下さいね! 僕、みんなに自慢しますから!」
「あぁ、武勇伝を聞かせてやるよ」
小さな親友(とも)と約束を交わし、シコルスキーは闘志を燃やす。
──そして当日!