楠木正成率いる河内悪党が、赤坂城にて幕府軍を苦しめていた頃。
彼らほど派手ではないが、護良親王もまた激戦を繰り広げていた。比叡山の僧兵たちを
取りまとめ、自身も積極的に最前線に出て、遠征してきた幕府軍をズタズタに切り崩し、
さんざんに翻弄していたのだ。
幕府軍はそのせいで赤坂城への増援もままならず、ますます苦境に立たされていく。
比叡山延暦寺。平安時代、最澄が天台宗を開いたことで有名な寺だが、いまやここは
護良親王軍の総本部となっていた。
月が雲に隠れ、星も僅かしか見当たらず、墨を流したような闇夜。だが延暦寺周辺は
一晩中篝火が灯され、伝説の猛者・弁慶もかくやと思われる武装した僧兵たちが、
あちらこちらで油断なく警備している。
そんな彼らに守られた寺の最深部、広い寝室にて護良親王は静かに目を開けた。そして、
「……む」
腕の中にいたはずの女がいないことに気付く。彼が目を覚ましたのは、
それとは違う理由なのだが、しかし女がいない理由はそれだろう。
そう思った親王は、傷だらけの熊のような巨躯をむくりと起こして立ち上がった。寝巻き姿
のまま寝室を出て、警備の僧兵たちに声をかけつつ寺からも出て、山の中へと歩いていく。
やがて篝火の明かりが全く届かぬほど寺から離れた頃。突然山の奥から、
「ぅりゃいえぎぇああああああああぁぁぁぁっ!」
刀を手にした黒装束の男が、奇声を発して跳びだしてきた。その装束から幕府軍の
暗殺者だと親王が判断したのと、男の方が親王の存在に気付いて何か言おうとした
のと、親王の横殴りの拳が男の首を百八十度回転させて頚骨を粉砕したのと、
三つがほぼ同時だった。
白く濁った泡を吹いて、男が最期のうめき声を搾り出しながら親王の足元に
倒れ伏す。それを見て、改めて親王は思った。
『この男、幕府が余を殺す為に放った刺客だな。性懲りもなく。だが今の動き、余を
狙ったものではなかったな。むしろ何かから必死に逃げてきたような……やはり、か』
楠木正成のところにいるという少年のように戦の前線に立ってはいないが、その
少年に勝るとも劣らぬであろう凄腕の戦士がいる。親王の身辺警護と敵将の暗殺
において、非常に優秀……というか、少々やり過ぎなほどの蛮勇を奮う戦士が。
おそらく、そいつの仕業であろう。寺の寝室で目を覚ました理由、異様異常な殺気の
正体に確信を得て、親王は更に歩いた。
夜風に雲が流され切れて、月光が山中に降り注ぐ。それを待っていたかのように、
「あら。起こしてしまったようですね」
朝、台所で食事の用意をしていたら子供が起きて来たから振り向いたような。ごく
自然な女の声がした。
白い月の光に溶け込むような白い肌。裾の短い真紅の衣に、新鮮な血を
たっぷりと吸わせて。両手の爪から滴る白濁液は、どの臓物の汁だろうか。
長い紅い髪の少女、勇がそこに立っていた。血まみれで。但し本人は全くの
無傷なので、辺りに転がる惨殺死体たちの返り血だろう。数は十二、三人か。
全員、先ほどの男と同じく、黒装束を身に着けている。肉や骨ごと派手に
裂かれてるので、色の判別は難しいが。
「おそらく、元山賊か何かでしょう。貴方を殺すことで一攫千金を狙ったつもりの。
こんな輩まで拾って使わざるを得ないとは、つくづく鎌倉幕府も堕ちたもの」
勇は、つまらなさそうに言いながら両手を振って血とその他の液体を振り払った。
そして溜息をついてから、親王を見つめる。
「こんな食べ残しのような方々をいくら喰らっても、お腹の足しにはなりません。が、
貴方は別です。此度の戦で僧兵たちの先頭に立ち、幕府軍の兵を虫けらのように
叩き潰す姿を見て以来……そそられていました」
返り血まみれの勇が、笑みを浮かべて屍を踏みしめ、親王に向かって歩き出した。
反射的に親王が、身構えながら後ずさる。すると勇は、
「ふふっ。喰らう、といってもそういうことではありませんよ。寺に戻って身を清めて、
改めて閨で……のことです。妙な想像はなされませぬよう」
心の中を冷たい手で撫で回すような、勇の声。親王は首を降って意識を固め、
動揺を隠すように言った。
「ごほんっ。そ、その、やはりお主、何か存念があるのではないか。でなくばこんな、」
親王は、勇の凄絶なまでに妖艶な視線に射抜かれてうまく声が出せない。
勇はそんな親王の目の前まで歩いてきて、
「わたしは幕府に恨みはなく、また民のことなども考えておりませぬ。ただ、天下の
幕府軍を向こうに回し、お父上の為に戦う貴方の『勇』を、お助けしたいだけです」
勇はその細い腕を、親王の逞しい首に絡める。操られるように、親王も勇を抱きしめた。
勇の美しさと強さ、そして彼女の秘める底知れぬ何かに、恐れつつも縋っているのだ。
天皇の実子という天下随一の血統、並外れた膂力に武術の才能、そして忠実勇壮
な僧兵たち、と三拍子どころか何拍子も揃っている親王。が、源頼朝が立てた鎌倉幕府
という大樹は未だ健在、強大だ。楠木正成と共に引っ掻き回してはいるが、まだまだ
局地的勝利の域を出てはいない。
いつ鎌倉の本軍が来襲して、その圧倒的な兵力でもって押し潰されるか。その恐怖を、
父・後醍醐天皇の為にという思いで押さえ込んで戦っているのだ。怖くないわけがない。
「……大丈夫。わたしが、いつまでもここにおりますわ」
親王の半分以下の体躯の勇が、親王の腕の中で言う。親王はその腕に力を込め、
「大願成就の暁には……父上が天下を取ったその時には、余は晴れて皇太子となる。
すなわち次期天皇だ。勇よ、お前にも相応のことはしてやるからな」
「何もいりません。わたしは、貴方の『勇』をおそばで見届けられればそれで充分」
勇は、背伸びをして親王の首筋に口づけをした。そして軽く歯を立てる。
『そう……貴方の『勇』を、最後の最期まで……』
勇の歯が当てられたところ。その肌の下、肉の中には、温くて弾力のある
頚動脈が通っていた。
彼らほど派手ではないが、護良親王もまた激戦を繰り広げていた。比叡山の僧兵たちを
取りまとめ、自身も積極的に最前線に出て、遠征してきた幕府軍をズタズタに切り崩し、
さんざんに翻弄していたのだ。
幕府軍はそのせいで赤坂城への増援もままならず、ますます苦境に立たされていく。
比叡山延暦寺。平安時代、最澄が天台宗を開いたことで有名な寺だが、いまやここは
護良親王軍の総本部となっていた。
月が雲に隠れ、星も僅かしか見当たらず、墨を流したような闇夜。だが延暦寺周辺は
一晩中篝火が灯され、伝説の猛者・弁慶もかくやと思われる武装した僧兵たちが、
あちらこちらで油断なく警備している。
そんな彼らに守られた寺の最深部、広い寝室にて護良親王は静かに目を開けた。そして、
「……む」
腕の中にいたはずの女がいないことに気付く。彼が目を覚ましたのは、
それとは違う理由なのだが、しかし女がいない理由はそれだろう。
そう思った親王は、傷だらけの熊のような巨躯をむくりと起こして立ち上がった。寝巻き姿
のまま寝室を出て、警備の僧兵たちに声をかけつつ寺からも出て、山の中へと歩いていく。
やがて篝火の明かりが全く届かぬほど寺から離れた頃。突然山の奥から、
「ぅりゃいえぎぇああああああああぁぁぁぁっ!」
刀を手にした黒装束の男が、奇声を発して跳びだしてきた。その装束から幕府軍の
暗殺者だと親王が判断したのと、男の方が親王の存在に気付いて何か言おうとした
のと、親王の横殴りの拳が男の首を百八十度回転させて頚骨を粉砕したのと、
三つがほぼ同時だった。
白く濁った泡を吹いて、男が最期のうめき声を搾り出しながら親王の足元に
倒れ伏す。それを見て、改めて親王は思った。
『この男、幕府が余を殺す為に放った刺客だな。性懲りもなく。だが今の動き、余を
狙ったものではなかったな。むしろ何かから必死に逃げてきたような……やはり、か』
楠木正成のところにいるという少年のように戦の前線に立ってはいないが、その
少年に勝るとも劣らぬであろう凄腕の戦士がいる。親王の身辺警護と敵将の暗殺
において、非常に優秀……というか、少々やり過ぎなほどの蛮勇を奮う戦士が。
おそらく、そいつの仕業であろう。寺の寝室で目を覚ました理由、異様異常な殺気の
正体に確信を得て、親王は更に歩いた。
夜風に雲が流され切れて、月光が山中に降り注ぐ。それを待っていたかのように、
「あら。起こしてしまったようですね」
朝、台所で食事の用意をしていたら子供が起きて来たから振り向いたような。ごく
自然な女の声がした。
白い月の光に溶け込むような白い肌。裾の短い真紅の衣に、新鮮な血を
たっぷりと吸わせて。両手の爪から滴る白濁液は、どの臓物の汁だろうか。
長い紅い髪の少女、勇がそこに立っていた。血まみれで。但し本人は全くの
無傷なので、辺りに転がる惨殺死体たちの返り血だろう。数は十二、三人か。
全員、先ほどの男と同じく、黒装束を身に着けている。肉や骨ごと派手に
裂かれてるので、色の判別は難しいが。
「おそらく、元山賊か何かでしょう。貴方を殺すことで一攫千金を狙ったつもりの。
こんな輩まで拾って使わざるを得ないとは、つくづく鎌倉幕府も堕ちたもの」
勇は、つまらなさそうに言いながら両手を振って血とその他の液体を振り払った。
そして溜息をついてから、親王を見つめる。
「こんな食べ残しのような方々をいくら喰らっても、お腹の足しにはなりません。が、
貴方は別です。此度の戦で僧兵たちの先頭に立ち、幕府軍の兵を虫けらのように
叩き潰す姿を見て以来……そそられていました」
返り血まみれの勇が、笑みを浮かべて屍を踏みしめ、親王に向かって歩き出した。
反射的に親王が、身構えながら後ずさる。すると勇は、
「ふふっ。喰らう、といってもそういうことではありませんよ。寺に戻って身を清めて、
改めて閨で……のことです。妙な想像はなされませぬよう」
心の中を冷たい手で撫で回すような、勇の声。親王は首を降って意識を固め、
動揺を隠すように言った。
「ごほんっ。そ、その、やはりお主、何か存念があるのではないか。でなくばこんな、」
親王は、勇の凄絶なまでに妖艶な視線に射抜かれてうまく声が出せない。
勇はそんな親王の目の前まで歩いてきて、
「わたしは幕府に恨みはなく、また民のことなども考えておりませぬ。ただ、天下の
幕府軍を向こうに回し、お父上の為に戦う貴方の『勇』を、お助けしたいだけです」
勇はその細い腕を、親王の逞しい首に絡める。操られるように、親王も勇を抱きしめた。
勇の美しさと強さ、そして彼女の秘める底知れぬ何かに、恐れつつも縋っているのだ。
天皇の実子という天下随一の血統、並外れた膂力に武術の才能、そして忠実勇壮
な僧兵たち、と三拍子どころか何拍子も揃っている親王。が、源頼朝が立てた鎌倉幕府
という大樹は未だ健在、強大だ。楠木正成と共に引っ掻き回してはいるが、まだまだ
局地的勝利の域を出てはいない。
いつ鎌倉の本軍が来襲して、その圧倒的な兵力でもって押し潰されるか。その恐怖を、
父・後醍醐天皇の為にという思いで押さえ込んで戦っているのだ。怖くないわけがない。
「……大丈夫。わたしが、いつまでもここにおりますわ」
親王の半分以下の体躯の勇が、親王の腕の中で言う。親王はその腕に力を込め、
「大願成就の暁には……父上が天下を取ったその時には、余は晴れて皇太子となる。
すなわち次期天皇だ。勇よ、お前にも相応のことはしてやるからな」
「何もいりません。わたしは、貴方の『勇』をおそばで見届けられればそれで充分」
勇は、背伸びをして親王の首筋に口づけをした。そして軽く歯を立てる。
『そう……貴方の『勇』を、最後の最期まで……』
勇の歯が当てられたところ。その肌の下、肉の中には、温くて弾力のある
頚動脈が通っていた。