──顕界から遠く離れた冥界には、おぞましいほどに美しい桜の大樹がある。
その桜の名は『西行妖』。
梶井基次郎の言の通り、その桜の美しさは根元に死体が埋まっていることに由来していた。
しかも、その死体はただの死体ではない。
ある高名な歌人の娘であり、『死を操る程度の能力』を持ち、その能力のために生を儚んで自害した悲運の少女の死体である。
少女は自らの命を絶つ際に、輪廻の苦しみをも逃れることを望んで死体そのものを結界と化し、西行妖の魔性を封印した。
巡りめく『死』というサイクルを封じた桜は、花を咲かせることなく、にも関わらずこの世のものとは思えぬ美を振り撒く。
決して『完全さ』を得ることのない、ゆえに永遠であり続ける、完結した小さな世界。
そして、輪廻を逃れたことで御霊の行き場を亡くした少女は、永遠に彷徨える亡霊と為り果てた。
その桜の名は『西行妖』。
梶井基次郎の言の通り、その桜の美しさは根元に死体が埋まっていることに由来していた。
しかも、その死体はただの死体ではない。
ある高名な歌人の娘であり、『死を操る程度の能力』を持ち、その能力のために生を儚んで自害した悲運の少女の死体である。
少女は自らの命を絶つ際に、輪廻の苦しみをも逃れることを望んで死体そのものを結界と化し、西行妖の魔性を封印した。
巡りめく『死』というサイクルを封じた桜は、花を咲かせることなく、にも関わらずこの世のものとは思えぬ美を振り撒く。
決して『完全さ』を得ることのない、ゆえに永遠であり続ける、完結した小さな世界。
そして、輪廻を逃れたことで御霊の行き場を亡くした少女は、永遠に彷徨える亡霊と為り果てた。
──それは遥か、千年よりも昔の出来事。
そして、今──。
「……妖夢(ようむ)」
死装束に身を包み、死相を顔に浮かべる少女の、幽冥の色を滲ませる声。
「はい、なんでしょう幽々子(ゆゆこ)さま」
「ひとつ歌を創ったの。聞いてくれるかしら?」
「はい、喜んで」
「詠むわよ。良く聴きなさい。──『はるがきて ごはんがおいしい うれしいな』」
「素晴らしいです、幽々子さま。なんてお深くてお美しい調べなのでしょうか」
「あら、そう? うふふ、自分で言うのもなんだけど、久々のスマッシュヒットだわ、これ」
「そうでしょうとも。まるで心が洗われるようです。季語はなんでしょうか?」
「あら、そんなことも分からないの? 季語は『春』よ」
「なるほど、ひとつ勉強になりました」
「もう、妖夢ったらホントお馬鹿さんねえ。でもそこが可愛いっ」
死装束に身を包み、死相を顔に浮かべる少女の、幽冥の色を滲ませる声。
「はい、なんでしょう幽々子(ゆゆこ)さま」
「ひとつ歌を創ったの。聞いてくれるかしら?」
「はい、喜んで」
「詠むわよ。良く聴きなさい。──『はるがきて ごはんがおいしい うれしいな』」
「素晴らしいです、幽々子さま。なんてお深くてお美しい調べなのでしょうか」
「あら、そう? うふふ、自分で言うのもなんだけど、久々のスマッシュヒットだわ、これ」
「そうでしょうとも。まるで心が洗われるようです。季語はなんでしょうか?」
「あら、そんなことも分からないの? 季語は『春』よ」
「なるほど、ひとつ勉強になりました」
「もう、妖夢ったらホントお馬鹿さんねえ。でもそこが可愛いっ」
そして、今──少女は亡霊として、萌えアニメばりのゆるい日常を送っている!
冥界における幽霊の来し方行きし方を司るは、かの西行妖を庭園に囲う屋敷、西行寺(さいぎょうじ)家の白玉楼。
その現当主である『幽冥楼閣の亡霊少女』こと西行寺幽々子(さいぎょうじ ゆゆこ)に仕えるのが、
西行寺家の庭師であり剣術指南役でもある、世にも珍しい人間と霊のハーフ、
『半人半霊の半人前』の二つ名を持つ二刀流の帯刀少女、魂魄妖夢(こんぱく ようむ)である。
その妖夢に課せられた主な任務は二つある。
「ところで幽々子さま、今夜の夕食はなににしましょうか?」
「えーっとねえ……そんなことより今なにか食べたいな」
「さっきおやつ食べたばっかりじゃないですか」
「そうよ。だから今度は、なにかしょっぱいものが食べたいの。口の中が甘くなりすぎちゃって」
「幽々子さまったら……それでは、いつぞやのように河童のところで魚を分けてもらいましょうか、百匹ほど」
「ううん。二百匹くらいがいいわ」
「そんなに食べたら、次はまた甘いものが食べたくなるんじゃないんですか?」
「あら、それなら甘いものを食べればいいじゃない。なにもおかしいところはないわ。そうでしょう?」
「では今のうちに、ご希望を承っておきましょう」
「魚二百匹」
「ではなくて、甘いものです」
「甘いもの、ねえ。……じゃあ妖夢」
「はい、なんでしょう」
「なにを言っているのよ妖夢。『はい、なんでしょう』なんて間抜けな答えがありますか。私は甘いものとして妖夢をいただくわ、と言っているの」
「……私を、お召し上がりに?」
「ええ、貴女をお召し上がりに。言っておくけどカニバリズムではなくってよ。そういう天然ボケは許しません」
「そんな、幽々子さま、お戯れを……」
「そりゃ生真面目にこんなことを言ったら馬鹿だわ。これはただの戯れ。でも半分本気よ? 戯れというのは本気を織り交ぜてこその戯れなのだから」
「でも、まだ日も高いのに」
「甘いものは別腹よ」
「うう、なんか会話が噛み合っていませんよう……」
その現当主である『幽冥楼閣の亡霊少女』こと西行寺幽々子(さいぎょうじ ゆゆこ)に仕えるのが、
西行寺家の庭師であり剣術指南役でもある、世にも珍しい人間と霊のハーフ、
『半人半霊の半人前』の二つ名を持つ二刀流の帯刀少女、魂魄妖夢(こんぱく ようむ)である。
その妖夢に課せられた主な任務は二つある。
「ところで幽々子さま、今夜の夕食はなににしましょうか?」
「えーっとねえ……そんなことより今なにか食べたいな」
「さっきおやつ食べたばっかりじゃないですか」
「そうよ。だから今度は、なにかしょっぱいものが食べたいの。口の中が甘くなりすぎちゃって」
「幽々子さまったら……それでは、いつぞやのように河童のところで魚を分けてもらいましょうか、百匹ほど」
「ううん。二百匹くらいがいいわ」
「そんなに食べたら、次はまた甘いものが食べたくなるんじゃないんですか?」
「あら、それなら甘いものを食べればいいじゃない。なにもおかしいところはないわ。そうでしょう?」
「では今のうちに、ご希望を承っておきましょう」
「魚二百匹」
「ではなくて、甘いものです」
「甘いもの、ねえ。……じゃあ妖夢」
「はい、なんでしょう」
「なにを言っているのよ妖夢。『はい、なんでしょう』なんて間抜けな答えがありますか。私は甘いものとして妖夢をいただくわ、と言っているの」
「……私を、お召し上がりに?」
「ええ、貴女をお召し上がりに。言っておくけどカニバリズムではなくってよ。そういう天然ボケは許しません」
「そんな、幽々子さま、お戯れを……」
「そりゃ生真面目にこんなことを言ったら馬鹿だわ。これはただの戯れ。でも半分本気よ? 戯れというのは本気を織り交ぜてこその戯れなのだから」
「でも、まだ日も高いのに」
「甘いものは別腹よ」
「うう、なんか会話が噛み合っていませんよう……」
二つある任務のひとつは、主人である幽々子に全力でデレることである。
そして、もう一つの任務は……、
「──妖夢」
「……? はい、なんでしょう。お布団ですか」
「馬鹿なことを言ってないで良く聞き分けなさい。命令よ。今すぐ目の前の虚空を斬りなさい」
「──御意」
腰に差した二振りの刀──人の迷いを断つ宝剣、『白楼剣』、
そして幽霊十匹分くらいなら一太刀で殺傷し得る、物干し竿代わりにもなる優れものの長刀、『楼観剣』。
妖夢がガチャリと腰を揺すった刹那、その長いほうがずらり抜かれ、神速のきらめきを放って前方の空間を薙ぎ払った。
「切り捨て御免!」
なにもない空を斬ったのならば、なにも斬れるはずはない。
だが、まるで刀に斬られでもしたかのように、不意に空間に生じた裂け目が、ぼうと白く浮かび上がる。
──否、その裂け目は妖夢の手によるものではなかった。
剣を鞘に収めながら、妖夢は敵視の眼光を宿し、三寸先に浮かぶ空間の裂け目をじっと睨め上げる。
「我が楼観剣に……斬れぬものなどあんまりない!」
かちん。
鍔が鞘を打ち、その音に合わせるように、眩く鋭い太刀筋が奔り、白く淡い裂け目に交差する。
すると裂け目に無数の引き攣れた罅が拡がり、ほの白い輝きの奥からどす黒い瘴気が漏れる。
……その刃が裂いたのは、まさに『裂け目』そのものだった。
「見事よ、妖夢。貴女はまさしく虚空を斬ったわ。『なにもない』のが空なれば、その空に出でるものこそ虚ろなり。
貴女が斬ったもの、それは──虚と実の境界を歪ませる、すなわち──『スキマ』に他ならないわ」
「御上意に従ったまでのこと、私は貴女の剣です。これは貴女が斬ったものです、幽々子さま」
「ふふ、自我(エゴ)が弱いのね。そういうことろが貴女の良いところであり、悪いところでもある。
どちらにせよ──そういう半人前の貴女が好きよ、私は」
「もったないお言葉です」
「──妖夢」
「……? はい、なんでしょう。お布団ですか」
「馬鹿なことを言ってないで良く聞き分けなさい。命令よ。今すぐ目の前の虚空を斬りなさい」
「──御意」
腰に差した二振りの刀──人の迷いを断つ宝剣、『白楼剣』、
そして幽霊十匹分くらいなら一太刀で殺傷し得る、物干し竿代わりにもなる優れものの長刀、『楼観剣』。
妖夢がガチャリと腰を揺すった刹那、その長いほうがずらり抜かれ、神速のきらめきを放って前方の空間を薙ぎ払った。
「切り捨て御免!」
なにもない空を斬ったのならば、なにも斬れるはずはない。
だが、まるで刀に斬られでもしたかのように、不意に空間に生じた裂け目が、ぼうと白く浮かび上がる。
──否、その裂け目は妖夢の手によるものではなかった。
剣を鞘に収めながら、妖夢は敵視の眼光を宿し、三寸先に浮かぶ空間の裂け目をじっと睨め上げる。
「我が楼観剣に……斬れぬものなどあんまりない!」
かちん。
鍔が鞘を打ち、その音に合わせるように、眩く鋭い太刀筋が奔り、白く淡い裂け目に交差する。
すると裂け目に無数の引き攣れた罅が拡がり、ほの白い輝きの奥からどす黒い瘴気が漏れる。
……その刃が裂いたのは、まさに『裂け目』そのものだった。
「見事よ、妖夢。貴女はまさしく虚空を斬ったわ。『なにもない』のが空なれば、その空に出でるものこそ虚ろなり。
貴女が斬ったもの、それは──虚と実の境界を歪ませる、すなわち──『スキマ』に他ならないわ」
「御上意に従ったまでのこと、私は貴女の剣です。これは貴女が斬ったものです、幽々子さま」
「ふふ、自我(エゴ)が弱いのね。そういうことろが貴女の良いところであり、悪いところでもある。
どちらにせよ──そういう半人前の貴女が好きよ、私は」
「もったないお言葉です」
──二つあるうちの、もう一つの任務、それは……
己の持つ『剣術を扱う程度の能力』を行使して、幽々子の命じたあらゆるものを斬って捨てることだった。
己の持つ『剣術を扱う程度の能力』を行使して、幽々子の命じたあらゆるものを斬って捨てることだった。
「だけど幽々子さま、私はいったいなにを斬ったのでしょうか」
「今説明したじゃないの」
「え、しましたっけ? 幽々子がなんか意味は分からないけど素晴らしい歌をお詠みになったのはしかと耳にしましたけど」
「はあ、妖夢ってホントお馬鹿さんねえ……」
「面目ない」
雨に打たれた子犬のようにしゅんとうなだれる妖夢の肩を、幽々子は子犬を拾った独身OLのようにきゃーとか言って抱き締める。
「んもう、可愛いっ! 可愛いな妖夢はっ!」
「えへへ、ありがとうございます……って違う! 話を変な方向に持っていかないでください」
「いきなりツッコまないでよ。天然キャラかツッコミキャラかはっきりさせなさい」
「はあ。で、なにを斬ったんですか私」
「足元を見てみなさい」
言われた通りに視線を落とした妖夢はすぐさま硬直する。
「ニャーン……」
そこには弱々しく鳴く猫がいた。
「ね、猫ちゃん!? な、ななななにを斬らせてるんですか貴女は!」
「さっきの『貴女の剣です』うんぬんはどうしたのよ」
「そ、そういう問題ですか!? だって猫ちゃんですよ猫ちゃん!」
「いや、普通にそういう問題だと思うけどね。
まあ取りあえず落ち着きなさい。貴女が斬ったのはその猫ではなく、その猫をここまで連れてきたモノよ」
「つまり猫ちゃんの脚ですかっ!? あああ、ごめんね猫ちゃん! 今すぐ救急箱持ってきて斬った脚くっつけるから!」
「蟹じゃあるまいしくっつかないわよ」
「蟹だってくっつきませんよ」
「いきなりツッコミに転じるなってば」
「すみません」
「ええと、どこまで話したっけ? ……ああ、そうそう。なにを斬ったかって話ね。
貴女が斬ったものは、この猫ではなく、毒ガス密室よろしく猫の存在確率の境界をいじったことで不可避的不可逆的に発生した、
この世界におけるニッチ、この世界に沸いたトマソン空間よ」
「あの、幽々子さま。それはどういう歌ですか」
「……分かりやすく言うとスキマ妖怪の作ったスキマよ。この猫はそのスキマを通ることでどこからともなく現れたわけ。
だけど、そのスキマの淵に猫がすっぽりハマって抜け出せくなっていたから、貴女に斬らせてスキマを拡げたの。お分かり?」
まったくもってこれっぽちもお分かりでないことは、眉間に皺を寄せて脂汗流しながらうんうん唸る妖夢を見れば瞭然だった。
「はい、幽々子さま質問!」
立派な小学生にも引けを取らない元気な挙手。
「なあに、妖夢」
「今、スキマ妖怪と仰られましたが……」
「幻想郷広しと言えど、スキマ妖怪は一体しか存在しないわ。貴女の想像通りよ」
「すると、この猫ちゃんは……」
「それも貴女の想像通り。『スキマ妖怪の式の式』──」
そう言いながら、幽々子は胸元から扇子を取り出し、妖夢の腕の中の猫の額をピシリと叩いた。
するとたちどころに猫はその姿を変え、見るも可憐なネコ耳少女のかたちに変ずる。
「橙(チェン)!」
自分の腕の中の少女を見て、妖夢は驚愕の声を上げる。
「だ、大丈夫か、橙! ああ、私はなんてことを……それとは知らず、よりにもよって橙の脚をぶった斬ってしまうとは!」
「だから斬ってないってば。脚もちゃんとついてるでしょう?」
「そんなことがなんの慰めになるんです!? 幽々子さまだって亡霊のくせに脚ついてるじゃないですかっ!」
「ちょっとお黙りなさい。貴女と漫才するのは楽しいけど、これじゃキリがないわ」
ネコ耳をぴくぴくさせながら目を回している橙の懐へ、幽々子は無遠慮に手を突っ込んでもぞもぞやりはじめた。
「あわわ、幽々子さま、なんて猥褻な……気絶してるのをいいことにこんないたいけな幼女を手籠めになさるお積りですか!?
この私というものがありながら──」
「お黙り」
べし、と空いてるほうの手で妖夢にチョップを入れ、さらにもぞもぞ。
ややあって引き抜いた手には、一通の手紙が握られていた。
「ふうん……そういうこと」
その折りたたまれた和紙の束をちらと見た幽々子は、くすりと艶やかに、そして甘い死の匂いを振りまいて笑う。
そして、無駄に一生懸命に橙の介抱に努めて心臓マッサージ&人工呼吸3セットを開始しようとしている妖夢の背中に下命した。
「──妖夢。夕食の予定は決まったわ。出かける準備をなさい」
「はい幽々子さま。ですが、そのお手紙はお読みにならなくてよろしいのですか?」
「読まなくても分かるわ、そのくらい」
さらりとそんなことを言ってのける、己の主から滲み出る静かな威厳に、妖夢の胸は痺れるように震えだす。
「かしこまりました。して、どちらへ?」
扇子を喉元にあてがい、薄く笑うその風情は、まるで斬首台に乗せられた首のよう。
「今説明したじゃないの」
「え、しましたっけ? 幽々子がなんか意味は分からないけど素晴らしい歌をお詠みになったのはしかと耳にしましたけど」
「はあ、妖夢ってホントお馬鹿さんねえ……」
「面目ない」
雨に打たれた子犬のようにしゅんとうなだれる妖夢の肩を、幽々子は子犬を拾った独身OLのようにきゃーとか言って抱き締める。
「んもう、可愛いっ! 可愛いな妖夢はっ!」
「えへへ、ありがとうございます……って違う! 話を変な方向に持っていかないでください」
「いきなりツッコまないでよ。天然キャラかツッコミキャラかはっきりさせなさい」
「はあ。で、なにを斬ったんですか私」
「足元を見てみなさい」
言われた通りに視線を落とした妖夢はすぐさま硬直する。
「ニャーン……」
そこには弱々しく鳴く猫がいた。
「ね、猫ちゃん!? な、ななななにを斬らせてるんですか貴女は!」
「さっきの『貴女の剣です』うんぬんはどうしたのよ」
「そ、そういう問題ですか!? だって猫ちゃんですよ猫ちゃん!」
「いや、普通にそういう問題だと思うけどね。
まあ取りあえず落ち着きなさい。貴女が斬ったのはその猫ではなく、その猫をここまで連れてきたモノよ」
「つまり猫ちゃんの脚ですかっ!? あああ、ごめんね猫ちゃん! 今すぐ救急箱持ってきて斬った脚くっつけるから!」
「蟹じゃあるまいしくっつかないわよ」
「蟹だってくっつきませんよ」
「いきなりツッコミに転じるなってば」
「すみません」
「ええと、どこまで話したっけ? ……ああ、そうそう。なにを斬ったかって話ね。
貴女が斬ったものは、この猫ではなく、毒ガス密室よろしく猫の存在確率の境界をいじったことで不可避的不可逆的に発生した、
この世界におけるニッチ、この世界に沸いたトマソン空間よ」
「あの、幽々子さま。それはどういう歌ですか」
「……分かりやすく言うとスキマ妖怪の作ったスキマよ。この猫はそのスキマを通ることでどこからともなく現れたわけ。
だけど、そのスキマの淵に猫がすっぽりハマって抜け出せくなっていたから、貴女に斬らせてスキマを拡げたの。お分かり?」
まったくもってこれっぽちもお分かりでないことは、眉間に皺を寄せて脂汗流しながらうんうん唸る妖夢を見れば瞭然だった。
「はい、幽々子さま質問!」
立派な小学生にも引けを取らない元気な挙手。
「なあに、妖夢」
「今、スキマ妖怪と仰られましたが……」
「幻想郷広しと言えど、スキマ妖怪は一体しか存在しないわ。貴女の想像通りよ」
「すると、この猫ちゃんは……」
「それも貴女の想像通り。『スキマ妖怪の式の式』──」
そう言いながら、幽々子は胸元から扇子を取り出し、妖夢の腕の中の猫の額をピシリと叩いた。
するとたちどころに猫はその姿を変え、見るも可憐なネコ耳少女のかたちに変ずる。
「橙(チェン)!」
自分の腕の中の少女を見て、妖夢は驚愕の声を上げる。
「だ、大丈夫か、橙! ああ、私はなんてことを……それとは知らず、よりにもよって橙の脚をぶった斬ってしまうとは!」
「だから斬ってないってば。脚もちゃんとついてるでしょう?」
「そんなことがなんの慰めになるんです!? 幽々子さまだって亡霊のくせに脚ついてるじゃないですかっ!」
「ちょっとお黙りなさい。貴女と漫才するのは楽しいけど、これじゃキリがないわ」
ネコ耳をぴくぴくさせながら目を回している橙の懐へ、幽々子は無遠慮に手を突っ込んでもぞもぞやりはじめた。
「あわわ、幽々子さま、なんて猥褻な……気絶してるのをいいことにこんないたいけな幼女を手籠めになさるお積りですか!?
この私というものがありながら──」
「お黙り」
べし、と空いてるほうの手で妖夢にチョップを入れ、さらにもぞもぞ。
ややあって引き抜いた手には、一通の手紙が握られていた。
「ふうん……そういうこと」
その折りたたまれた和紙の束をちらと見た幽々子は、くすりと艶やかに、そして甘い死の匂いを振りまいて笑う。
そして、無駄に一生懸命に橙の介抱に努めて心臓マッサージ&人工呼吸3セットを開始しようとしている妖夢の背中に下命した。
「──妖夢。夕食の予定は決まったわ。出かける準備をなさい」
「はい幽々子さま。ですが、そのお手紙はお読みにならなくてよろしいのですか?」
「読まなくても分かるわ、そのくらい」
さらりとそんなことを言ってのける、己の主から滲み出る静かな威厳に、妖夢の胸は痺れるように震えだす。
「かしこまりました。して、どちらへ?」
扇子を喉元にあてがい、薄く笑うその風情は、まるで斬首台に乗せられた首のよう。
「──妖怪の山」