10:HELLION
水をテーマにしたレジャー施設として一九八〇年代に開園したその遊園地は、今年の夏の終わりとともに、
少子化と大型テーマパークの隆盛に押されて閉園となった。オーナーは夜逃げ同然に姿を消し、担保に
入っていた土地も他人の所有となったが、新しい地主がアトラクションの撤去費用を惜しんでいるがために
、数ヶ月が経過した今もそのまま放置されている。
「『ウォーターゲートパーク』ね」
血で汚れた応接間から離れた別室。新しく供されたマドレーヌを口に咥え、サイは短く唸った。
あの兄弟の姿はない。
「一応は東京都内ではありますが、ほぼ名ばかりと言ってよい寂れた場所です。面積は三十五ヘクタール、
周囲は柵や植木などで仕切られて内部を覗き見ることは難しくなっています。潜伏場所としては絶好の条件かと」
プール、ウォータースライダー、スパ、その他諸々。テーマが『水』というだけあって、設備やアトラクションも
全て水に関係したものになっている。
アムール虎は水を好む、≪我鬼≫もまた例外ではない。早坂久宜の報告を受けてアイが出してきた
資料を手に、サイはふとつい先日のブリーフィングを思い出す。捜し当てるのはあの兄弟のほうが早かったが、
この女の考え自体は当たっていたことになる。
そういえば、発見の報告から資料を渡されるまでずいぶんと早かった。まるであらかじめ用意してあったかのごとく。
向けられた視線の色の変化に、気づいたのかアイはすぐ言い添えた。
「≪我鬼≫が潜伏している可能性の高い場所をリストアップして絞り込んだ中の一つです。
実際の捜索に着手する前に、『笑顔』の二人が見つけてくださいましたが」
「へえ」
やはりこの女は有能だ。裏社会叩き上げの連中が独自の情報網で探り当てた事実と同等の内容に、
頭脳による分析をもって辿りついてしまうのだから。
「行動範囲千キロとかいってたから遠征は覚悟してたけど、意外に近いところに隠れてたもんだね。
助かったよ」
「……はい」
資料は数十枚にも及ぶ。施設内部の図面は基本として、プールの排水口の位置から植えられた
観葉植物の品種に至るまで、よくもまあと舌を巻くほど詳細に調べ上げられている。何を行うにも
決して手を抜かないこの女だからこそ可能なことだった。
指に唾をつけながら、サイは一枚数十秒のスピードで読んでいく。全てを把握しようとは思っていない。
一般人の域を出ない彼の知能でそこまでの芸当は不可能である。
「電気や水道は通ってないんだよね。配線図や配管図も載ってるけど」
「全て供給停止状態です。もっともサイ、あなたが望まれるのなら、『復旧』させることも不可能では
ありませんが」
さらりと言い放つ。大言壮語でもなんでもなく、この女ならその程度の技能は身につけている。
マドレーヌをふっくら柔らかく焼くのとさして次元の変わらぬ芸だ。
「ご入り用ですか?」
「準備はしておいて。もしかしたら使えるかもしれない」
かしこまりました、と従者は頭を下げる。
サイは資料を置き、肘をついて細い顎を指で支えた。あの忌々しい兄弟のせいで血で汚れてしまった
応接間のテーブルとは違い、場所を変えたこの部屋のそれは磨きぬかれて曇りひとつない。清潔をよしと
するこの女の嗜好によるものだ。
もっとも従者の努力いかんにかかわらず、清潔さなどサイの念頭になかった。
普段からそうではあるが――とりわけ今は。
「ねえ、アイ」
「は……」
置いた書類から顔を上げ、サイは言った。
「俺は人間だよ」
吐き出された声はかすかに震えていた。
一方で従者の表情は、あくまでも落ち着いて揺らがない。しゅっと細く弧を描く優雅な眉も、その下に
開かれた吸い込まれそうに黒い瞳も、主人の百分の一も情動をはらんではいない。
感情任せにサイは吐き捨てる。爆発しそうな胸の内を言葉に乗せて叩きつける。
「化物じゃない、人間なんだ。あいつは確かにそう言ってくれた。自分が誰だか分からない、世界で一人だけ
宙に浮いてるみたいだった俺を定義づけてくれたんだ。生まれつき正真正銘の『化物』のあいつが……」
少子化と大型テーマパークの隆盛に押されて閉園となった。オーナーは夜逃げ同然に姿を消し、担保に
入っていた土地も他人の所有となったが、新しい地主がアトラクションの撤去費用を惜しんでいるがために
、数ヶ月が経過した今もそのまま放置されている。
「『ウォーターゲートパーク』ね」
血で汚れた応接間から離れた別室。新しく供されたマドレーヌを口に咥え、サイは短く唸った。
あの兄弟の姿はない。
「一応は東京都内ではありますが、ほぼ名ばかりと言ってよい寂れた場所です。面積は三十五ヘクタール、
周囲は柵や植木などで仕切られて内部を覗き見ることは難しくなっています。潜伏場所としては絶好の条件かと」
プール、ウォータースライダー、スパ、その他諸々。テーマが『水』というだけあって、設備やアトラクションも
全て水に関係したものになっている。
アムール虎は水を好む、≪我鬼≫もまた例外ではない。早坂久宜の報告を受けてアイが出してきた
資料を手に、サイはふとつい先日のブリーフィングを思い出す。捜し当てるのはあの兄弟のほうが早かったが、
この女の考え自体は当たっていたことになる。
そういえば、発見の報告から資料を渡されるまでずいぶんと早かった。まるであらかじめ用意してあったかのごとく。
向けられた視線の色の変化に、気づいたのかアイはすぐ言い添えた。
「≪我鬼≫が潜伏している可能性の高い場所をリストアップして絞り込んだ中の一つです。
実際の捜索に着手する前に、『笑顔』の二人が見つけてくださいましたが」
「へえ」
やはりこの女は有能だ。裏社会叩き上げの連中が独自の情報網で探り当てた事実と同等の内容に、
頭脳による分析をもって辿りついてしまうのだから。
「行動範囲千キロとかいってたから遠征は覚悟してたけど、意外に近いところに隠れてたもんだね。
助かったよ」
「……はい」
資料は数十枚にも及ぶ。施設内部の図面は基本として、プールの排水口の位置から植えられた
観葉植物の品種に至るまで、よくもまあと舌を巻くほど詳細に調べ上げられている。何を行うにも
決して手を抜かないこの女だからこそ可能なことだった。
指に唾をつけながら、サイは一枚数十秒のスピードで読んでいく。全てを把握しようとは思っていない。
一般人の域を出ない彼の知能でそこまでの芸当は不可能である。
「電気や水道は通ってないんだよね。配線図や配管図も載ってるけど」
「全て供給停止状態です。もっともサイ、あなたが望まれるのなら、『復旧』させることも不可能では
ありませんが」
さらりと言い放つ。大言壮語でもなんでもなく、この女ならその程度の技能は身につけている。
マドレーヌをふっくら柔らかく焼くのとさして次元の変わらぬ芸だ。
「ご入り用ですか?」
「準備はしておいて。もしかしたら使えるかもしれない」
かしこまりました、と従者は頭を下げる。
サイは資料を置き、肘をついて細い顎を指で支えた。あの忌々しい兄弟のせいで血で汚れてしまった
応接間のテーブルとは違い、場所を変えたこの部屋のそれは磨きぬかれて曇りひとつない。清潔をよしと
するこの女の嗜好によるものだ。
もっとも従者の努力いかんにかかわらず、清潔さなどサイの念頭になかった。
普段からそうではあるが――とりわけ今は。
「ねえ、アイ」
「は……」
置いた書類から顔を上げ、サイは言った。
「俺は人間だよ」
吐き出された声はかすかに震えていた。
一方で従者の表情は、あくまでも落ち着いて揺らがない。しゅっと細く弧を描く優雅な眉も、その下に
開かれた吸い込まれそうに黒い瞳も、主人の百分の一も情動をはらんではいない。
感情任せにサイは吐き捨てる。爆発しそうな胸の内を言葉に乗せて叩きつける。
「化物じゃない、人間なんだ。あいつは確かにそう言ってくれた。自分が誰だか分からない、世界で一人だけ
宙に浮いてるみたいだった俺を定義づけてくれたんだ。生まれつき正真正銘の『化物』のあいつが……」
自分の正体が分からない。
この血と肉がどこから来たのかも、常識の枠を踏み越えた細胞が何に由来するのかも。
殺して詰めて積み上げた箱の数は、とうの昔に百を超えた。千を超えたと報道される日も、そう遠い
未来ではないだろう。しかしそれだけの人間の中身を見てなお、自分に通じるルーツは見つからない。
メディアが仰々しく報じる犯行の数々は、そのまま無為に終わった観察の記録である。幾年にもわたって
当てどなく彷徨い続け、未だに手がかりひとつ掴めずにいることの、この上なく残酷な証左でもある。
自分の立ち位置が分からないということは、自分以外の何もかもが分からないのと同じことだ。二十四時間
絶え間なく続くその苦しみに耐えながら、サイはアイデンティティの欠落した人生を生き続けてきた。
そんな彼にある男がかけた言葉。
この血と肉がどこから来たのかも、常識の枠を踏み越えた細胞が何に由来するのかも。
殺して詰めて積み上げた箱の数は、とうの昔に百を超えた。千を超えたと報道される日も、そう遠い
未来ではないだろう。しかしそれだけの人間の中身を見てなお、自分に通じるルーツは見つからない。
メディアが仰々しく報じる犯行の数々は、そのまま無為に終わった観察の記録である。幾年にもわたって
当てどなく彷徨い続け、未だに手がかりひとつ掴めずにいることの、この上なく残酷な証左でもある。
自分の立ち位置が分からないということは、自分以外の何もかもが分からないのと同じことだ。二十四時間
絶え間なく続くその苦しみに耐えながら、サイはアイデンティティの欠落した人生を生き続けてきた。
そんな彼にある男がかけた言葉。
――人間に決まっている。
――その向上への姿勢こそ、貴様の正体が人間である証だ。
――その向上への姿勢こそ、貴様の正体が人間である証だ。
「今の俺には、あの言葉以外に縋れるものがないんだ」
濁流に呑まれゆく身に差し出された一本の藁。
掴むにはあまりに細く頼りない。だが掴まなければただ呑み込まれて溺れるしかない。
「俺は人間だって、少なくともこれだけは確かな真実だって、あれ以来ずっと自分に言い聞かせてる。
それだけで、すうっと心が楽になる気がする。終わりが見えなくて挫けそうでもまだ前に進める。
そんな風に思える。……だけど」
サイの瞳に巣食う、どす黒い色彩をアイは見たろうか。
「早坂久宜、あの男。……あの男」
彼の唯一の希望、たった一つの確固たるよすがを、あの兄弟の片割れは否定した。
『化物』という言葉で。
おとがいに指の爪が食い込んだ。血が流れ、手首をつたってしたたり落ちたが、噴き上げる殺気も
指先にこもる力も弱まらなかった。
「あの男、許さない。痛みにのたうち回らせて絶望の縁に突き落として殺してやる」
ぎぎぎ、と爪が顎を引っ掻く。指は皮を破り、深紅の蚯蚓が這ったような跡を残しながら首筋へと
下りていく。
濁流に呑まれゆく身に差し出された一本の藁。
掴むにはあまりに細く頼りない。だが掴まなければただ呑み込まれて溺れるしかない。
「俺は人間だって、少なくともこれだけは確かな真実だって、あれ以来ずっと自分に言い聞かせてる。
それだけで、すうっと心が楽になる気がする。終わりが見えなくて挫けそうでもまだ前に進める。
そんな風に思える。……だけど」
サイの瞳に巣食う、どす黒い色彩をアイは見たろうか。
「早坂久宜、あの男。……あの男」
彼の唯一の希望、たった一つの確固たるよすがを、あの兄弟の片割れは否定した。
『化物』という言葉で。
おとがいに指の爪が食い込んだ。血が流れ、手首をつたってしたたり落ちたが、噴き上げる殺気も
指先にこもる力も弱まらなかった。
「あの男、許さない。痛みにのたうち回らせて絶望の縁に突き落として殺してやる」
ぎぎぎ、と爪が顎を引っ掻く。指は皮を破り、深紅の蚯蚓が這ったような跡を残しながら首筋へと
下りていく。
「サイ」
首の皮膚すら引き毟ろうとする主人の手を、そっと包んで止めたのは従者だった。
見た目にははんなりと白く、エレガントにさえ感じられる彼女の手だが、触れてみるとその指先は
意外に荒れてごわついているのに気づく。炊事洗濯から血まみれの現場の処理に至るまで、ありとあらゆる
雑事を一手に引き受けているがゆえの瑕疵だ。
「自傷行為はそこまでに。浅いとはいえ回復にはエネルギーを要します」
「ハッ」
サイは鼻で笑った。従者に向けた瞳は荒野のようにすさんでいた。
「あんたはいいよな、アイ。自分の正体を知り尽くしてるんだから。知ったようなツラしていつも
俺の傍にいるけど、俺の苦痛なんて結局一パーセントも分かりゃしないんだ。羨ましいよ本当」
「はい。私には、あなたの苦痛は分かりません」
握り締めた主人の手。その指を一本一本折り込ませ、やわらかな拳の形に握らせていくアイ。
「私に限らず誰一人……蛭も、葛西も、もちろん『笑顔』の兄の方も、あなたの苦しみは理解できません。
それに限らず、人格、目的、存在そのもの、今の時点では何ひとつとして真の意味では理解できていない
のかもしれません」
「……何?」
手を包み込む力は柔らかく、その気になれば即座に突っぱねられる。サイのように人の領域を踏み越えて
おらずとも、平均的な成人男性程度の腕力があれば充分だろう。
ここでほんの少し力を込めて、この荒れ気味の手を振り払ってもよかった。しかしサイは観察を生業と
する者として、まずはこの女の言わんとするところを突き止めることを優先した。重ねられた手を拒むのは、
全てを話させてからでも遅くない。
「あなたの絶大な力は、他人を暴力と恐怖で屈服させることができますが、一方で他人に自分の認識を
理解させることは不可能です。前者は本能と感情が、後者は理性が支配する領域。理性を納得させるには、
力ではなく事実による証明が必要になります」
「証明?」
最近耳にした覚えのある言葉だった。
確か、この女自身が口にしていたのだったか。
「私はあなたのお手伝いをさせていただいてはいますが、この証明の過程ばかりは、私が手をお貸しできる
範囲ではありません。あなたが自らの手で成し遂げるべきものです」
「は? ちょっと、話がよく分かんなくなってきたよ」
「申し訳ありません。端的に申し上げるならば……」
サイの手のひらからアイの手が離れた。
「他人に『人間』として認識されたければ、単なる主張にとどまらず、現実の行為を以って自分が
『人間』であると証す必要があるということです。正体の分からない苦痛に関しても、その他の
あなたの内面における要素に関しても同様のことがいえます」
これっぽっちも端的ではない説明に、サイは口を尖らせる。
「証明証明って簡単に言うけどさ、じゃあ具体的には何すんのさ」
「それは場合によります。そう、例えば……」
アイは言う。
サイを人間と呼んだあの男は、その理由を彼の可能性を追い求める姿勢に見た。世の人々があの男と
同じ物差しで世界を見ているわけはないが、それでも一つの糸口にはなり得るだろうと。
「創意工夫と持てる力の限りをもって正体を求めること、それ自体があなたの可能性の証明となり、
人間としてのあなたを周囲に示すことに繋がる。――そのように考えることはできないでしょうか?」
「……………」
「何はともあれ、まずは≪我鬼≫を仕留めましょう。急がなければ移動してしまうかもしれません」
この女の話は小理屈ばかりで、一ミリたりとも理解できない。しかも今回はリアリストのこの女にしては
珍しく、妙な理想論とご都合主義まで混入しているような気がする。
だが≪我鬼≫の元へ向かうのが最優先ということにだけは同意だった。
「出るよ。装備一式まとめてあるよね? 持って行くから全部車に積み込んどいて」
「はい」
「葛西も連れて行くけど文句はないね?」
「……あなたがそれを望まれるのでしたら」
景気づけも兼ねて思い切り伸びをした。傷を再生したばかりの体は、バネのようにしなやかに
大脳の命令に応じた。
葛西を呼びつけるため、アイは部屋の出口へと向かう。
「アイ。あんたはどうするんだっけ?」
呼び止められた従者は振り向いて答えた。
「あの兄弟と共に現場へ向かいます」
見た目にははんなりと白く、エレガントにさえ感じられる彼女の手だが、触れてみるとその指先は
意外に荒れてごわついているのに気づく。炊事洗濯から血まみれの現場の処理に至るまで、ありとあらゆる
雑事を一手に引き受けているがゆえの瑕疵だ。
「自傷行為はそこまでに。浅いとはいえ回復にはエネルギーを要します」
「ハッ」
サイは鼻で笑った。従者に向けた瞳は荒野のようにすさんでいた。
「あんたはいいよな、アイ。自分の正体を知り尽くしてるんだから。知ったようなツラしていつも
俺の傍にいるけど、俺の苦痛なんて結局一パーセントも分かりゃしないんだ。羨ましいよ本当」
「はい。私には、あなたの苦痛は分かりません」
握り締めた主人の手。その指を一本一本折り込ませ、やわらかな拳の形に握らせていくアイ。
「私に限らず誰一人……蛭も、葛西も、もちろん『笑顔』の兄の方も、あなたの苦しみは理解できません。
それに限らず、人格、目的、存在そのもの、今の時点では何ひとつとして真の意味では理解できていない
のかもしれません」
「……何?」
手を包み込む力は柔らかく、その気になれば即座に突っぱねられる。サイのように人の領域を踏み越えて
おらずとも、平均的な成人男性程度の腕力があれば充分だろう。
ここでほんの少し力を込めて、この荒れ気味の手を振り払ってもよかった。しかしサイは観察を生業と
する者として、まずはこの女の言わんとするところを突き止めることを優先した。重ねられた手を拒むのは、
全てを話させてからでも遅くない。
「あなたの絶大な力は、他人を暴力と恐怖で屈服させることができますが、一方で他人に自分の認識を
理解させることは不可能です。前者は本能と感情が、後者は理性が支配する領域。理性を納得させるには、
力ではなく事実による証明が必要になります」
「証明?」
最近耳にした覚えのある言葉だった。
確か、この女自身が口にしていたのだったか。
「私はあなたのお手伝いをさせていただいてはいますが、この証明の過程ばかりは、私が手をお貸しできる
範囲ではありません。あなたが自らの手で成し遂げるべきものです」
「は? ちょっと、話がよく分かんなくなってきたよ」
「申し訳ありません。端的に申し上げるならば……」
サイの手のひらからアイの手が離れた。
「他人に『人間』として認識されたければ、単なる主張にとどまらず、現実の行為を以って自分が
『人間』であると証す必要があるということです。正体の分からない苦痛に関しても、その他の
あなたの内面における要素に関しても同様のことがいえます」
これっぽっちも端的ではない説明に、サイは口を尖らせる。
「証明証明って簡単に言うけどさ、じゃあ具体的には何すんのさ」
「それは場合によります。そう、例えば……」
アイは言う。
サイを人間と呼んだあの男は、その理由を彼の可能性を追い求める姿勢に見た。世の人々があの男と
同じ物差しで世界を見ているわけはないが、それでも一つの糸口にはなり得るだろうと。
「創意工夫と持てる力の限りをもって正体を求めること、それ自体があなたの可能性の証明となり、
人間としてのあなたを周囲に示すことに繋がる。――そのように考えることはできないでしょうか?」
「……………」
「何はともあれ、まずは≪我鬼≫を仕留めましょう。急がなければ移動してしまうかもしれません」
この女の話は小理屈ばかりで、一ミリたりとも理解できない。しかも今回はリアリストのこの女にしては
珍しく、妙な理想論とご都合主義まで混入しているような気がする。
だが≪我鬼≫の元へ向かうのが最優先ということにだけは同意だった。
「出るよ。装備一式まとめてあるよね? 持って行くから全部車に積み込んどいて」
「はい」
「葛西も連れて行くけど文句はないね?」
「……あなたがそれを望まれるのでしたら」
景気づけも兼ねて思い切り伸びをした。傷を再生したばかりの体は、バネのようにしなやかに
大脳の命令に応じた。
葛西を呼びつけるため、アイは部屋の出口へと向かう。
「アイ。あんたはどうするんだっけ?」
呼び止められた従者は振り向いて答えた。
「あの兄弟と共に現場へ向かいます」
「葛西を連れて行かれるんですか?」
唇をひん曲げ眉根を寄せ、不満を顔全体で表現した蛭は、ついでに声音にまで不本意さをにじませた。
いい顔をしないだろうことは分かっていたが、ここまで露骨に嫌そうにするとは予想外だった。
従者や放火魔にならともかく、主人であるサイに彼がこんな反応を見せることは稀だ。どんなに無茶な
注文をつけられようと、まずは『はい』と素直に従うのが蛭という男のはずだった。
「何、蛭。あいつが俺と組んで現場組なのはブリーフィングのときから分かってたでしょ。
今更そんな顔してどうすんの」
「いえ、その。決して、サイに逆らうとかそういうわけじゃないんですが」
だがたとえ滅多にないことであっても、部下の反抗を許容するわけにはいかない。傾きに傾いた機嫌も
手伝って、サイの声も自然尖ったものになった。
主人の不興を察して蛭が縮こまる。タートルネックのセーターに首が埋まる。
「だったらせめて、俺も連れて行ってください。こんな大事な局面であの男と二人だなんて……」
「駄目。あんたには解析の仕事があるでしょ。大体あんたがついて来て何になるの、高校のときの同級生
みたいに、消化液ポタポタ垂らしただけであの虎殺せるとでも思ってる?」
一蹴。
きつい言い方ではあるが、事実である。この青年は頭脳には優れるものの、戦闘に関して突出した能力や
技術は持っていない。連れて行ったところで生き餌になって終わるのがせいぜいだろう。
蛭はしばらく、まだ何か言いたげに口をぱくぱくさせていたが、そのうち諦めたのか下を向いて
黙り込んでしまった。
「納得した? 分かったら大人しく留守番しててよ。それじゃあね」
くるりと背を向けた。
玄関を出たところに車が止めてある。サポート兼運転手を命じた葛西が、先に運転席に座って待っているはずだった。
「……お気をつけて」
ドアを開けて歩き出したサイを、やや気落ちした蛭の声が追いかけてきた。主人が絶対に振り返らないのを
知っているくせに、律儀に深々と頭を下げているのが気配で分かった。
唇をひん曲げ眉根を寄せ、不満を顔全体で表現した蛭は、ついでに声音にまで不本意さをにじませた。
いい顔をしないだろうことは分かっていたが、ここまで露骨に嫌そうにするとは予想外だった。
従者や放火魔にならともかく、主人であるサイに彼がこんな反応を見せることは稀だ。どんなに無茶な
注文をつけられようと、まずは『はい』と素直に従うのが蛭という男のはずだった。
「何、蛭。あいつが俺と組んで現場組なのはブリーフィングのときから分かってたでしょ。
今更そんな顔してどうすんの」
「いえ、その。決して、サイに逆らうとかそういうわけじゃないんですが」
だがたとえ滅多にないことであっても、部下の反抗を許容するわけにはいかない。傾きに傾いた機嫌も
手伝って、サイの声も自然尖ったものになった。
主人の不興を察して蛭が縮こまる。タートルネックのセーターに首が埋まる。
「だったらせめて、俺も連れて行ってください。こんな大事な局面であの男と二人だなんて……」
「駄目。あんたには解析の仕事があるでしょ。大体あんたがついて来て何になるの、高校のときの同級生
みたいに、消化液ポタポタ垂らしただけであの虎殺せるとでも思ってる?」
一蹴。
きつい言い方ではあるが、事実である。この青年は頭脳には優れるものの、戦闘に関して突出した能力や
技術は持っていない。連れて行ったところで生き餌になって終わるのがせいぜいだろう。
蛭はしばらく、まだ何か言いたげに口をぱくぱくさせていたが、そのうち諦めたのか下を向いて
黙り込んでしまった。
「納得した? 分かったら大人しく留守番しててよ。それじゃあね」
くるりと背を向けた。
玄関を出たところに車が止めてある。サポート兼運転手を命じた葛西が、先に運転席に座って待っているはずだった。
「……お気をつけて」
ドアを開けて歩き出したサイを、やや気落ちした蛭の声が追いかけてきた。主人が絶対に振り返らないのを
知っているくせに、律儀に深々と頭を下げているのが気配で分かった。
「葛西!」
放火魔は黒のセダンの運転席で一人、車内灯も点けず旨そうに紫煙を吐いていた。近づいてくるサイの
姿に気づくと、軽く会釈して助手席側のドアを開けた。
ランプが点灯する。サイは飛び乗って腰を落ち着け、膝を組む。
「思ったより時間がかかりましたね」
「うん、蛭がちょっとゴネてさ。あいつ最近ちょっと生意気なんだよね、帰ったらちょっと一回
しつけ直してやんないと」
葛西は火のついた煙草を口から放し、いつものあの特徴的な笑いを漏らした。
「まあまあ、そういちいち目くじら立てず大目に見てやっちゃどうです? 奴も奴なりに色々考えて
行動してんでしょうよ」
オレンジ色の車内灯を浴びた顔は、ただでさえ善良には見えない彼の顔をなおのこと悪人面に見せる。
顔はあかあかと照らされているのに、目元だけはキャップの鍔に隠れて伺えないのもその印象を更に強める。
差し込んだキーを軽くねじり、葛西はエンジンを作動させた。
るぉん、と足元から伝わる震え。
「シートベルトは締めないんで?」
「要らないよ。これって交通安全のためにあるものでしょ」
走行中の車が高速で横転し衝突・爆発炎上を経ようとも、サイならまずもって死ぬことはない。
体細胞を炎で焼き切られて再生不能に陥るおそれはあるが、それはベルトを着用していようといまいと
関係のない話だ。
へぇ、と、自分で聞いたわりには興味のなさそうな生返事とともに、葛西は自分のシートベルトを締めた。
「遊園地まで、普通に走ると二時間かかるそうですが。目一杯飛ばしてなんとか一時間半で……」
「一時間だよ」
サイは言い切った。
「一時間で行って。それ以上はビタ一分譲れない」
「い、一時間て、ンな出店で値切るみてぇに気軽に言われても」
「い・ち・じ・か・ん・で行くったら行くんだよ」
それが最後通告であると声の調子で悟ったらしい。
口から漏れた嘆息は、諦めの色を濃く帯びていた。葛西はアクセルを踏み、人っ子一人いない深夜の
路地からセダンを発進させた。
放火魔は黒のセダンの運転席で一人、車内灯も点けず旨そうに紫煙を吐いていた。近づいてくるサイの
姿に気づくと、軽く会釈して助手席側のドアを開けた。
ランプが点灯する。サイは飛び乗って腰を落ち着け、膝を組む。
「思ったより時間がかかりましたね」
「うん、蛭がちょっとゴネてさ。あいつ最近ちょっと生意気なんだよね、帰ったらちょっと一回
しつけ直してやんないと」
葛西は火のついた煙草を口から放し、いつものあの特徴的な笑いを漏らした。
「まあまあ、そういちいち目くじら立てず大目に見てやっちゃどうです? 奴も奴なりに色々考えて
行動してんでしょうよ」
オレンジ色の車内灯を浴びた顔は、ただでさえ善良には見えない彼の顔をなおのこと悪人面に見せる。
顔はあかあかと照らされているのに、目元だけはキャップの鍔に隠れて伺えないのもその印象を更に強める。
差し込んだキーを軽くねじり、葛西はエンジンを作動させた。
るぉん、と足元から伝わる震え。
「シートベルトは締めないんで?」
「要らないよ。これって交通安全のためにあるものでしょ」
走行中の車が高速で横転し衝突・爆発炎上を経ようとも、サイならまずもって死ぬことはない。
体細胞を炎で焼き切られて再生不能に陥るおそれはあるが、それはベルトを着用していようといまいと
関係のない話だ。
へぇ、と、自分で聞いたわりには興味のなさそうな生返事とともに、葛西は自分のシートベルトを締めた。
「遊園地まで、普通に走ると二時間かかるそうですが。目一杯飛ばしてなんとか一時間半で……」
「一時間だよ」
サイは言い切った。
「一時間で行って。それ以上はビタ一分譲れない」
「い、一時間て、ンな出店で値切るみてぇに気軽に言われても」
「い・ち・じ・か・ん・で行くったら行くんだよ」
それが最後通告であると声の調子で悟ったらしい。
口から漏れた嘆息は、諦めの色を濃く帯びていた。葛西はアクセルを踏み、人っ子一人いない深夜の
路地からセダンを発進させた。
兄の報告を聞き、主人とともに部屋を出て行った女は、体を汚す返り血を洗い落とし、服を清潔なものに
取り替えてほどなく戻ってきた。そして主人の非礼を簡単に詫びたのち、事前の打ち合わせどおりに
事を進めるよう要請した。
「自分の上司を血みどろにした連中を信用するつもりかよ。本当にいいのか?」
敵意すらこめた声でユキがそう言うと、絶対零度の瞳で顔を一撫でしてきた。
「仮にあなた方が再び造反を企てたとしても、先ほどと同じことです。無意味に終わるのは目に見えています。
もちろん、素直にこちらの要求に応えていただくに越したことはありませんが」
ユキは唇の端を片方だけ持ち上げた。相手に余裕を見せつけようとするときの彼の癖だった。
「根拠のない自信は寒いぜ、イミナ、だったか? あのガキはともかくあんた一人なら、俺ら二人で
かかればどうにでもなるんだぜ」
「本当にそう思われるなら一度、試してごらんになればよろしいでしょう。それと、今の私は『アイ』と
名乗っています」
女の双眸の奥に何があるのか、うかがい知ることはユキの知覚では不可能だった。
只者ではない、それは分かる。あの主人にしてこの部下あり、醸す気配といい身のこなしといい、
断じて凡人のそれではない。テロリストとしての華々しい犯歴も、にも関わらず未だ当局に捕らえられずに
いる事実も、これなら成る程と頷くに足る。
しかし、そこまでだった。
目は口ほどに物を言うと俗にいわれる。だがこの女の目は何ひとつ語っていなかった。腹の奥底の企みは
おろか、人間なら当然備えているはずの感情の動きまで、ヴェールに覆い隠されたように全く見えなかった。
この女の頭の中身はどうなっているのだろう。
取り替えてほどなく戻ってきた。そして主人の非礼を簡単に詫びたのち、事前の打ち合わせどおりに
事を進めるよう要請した。
「自分の上司を血みどろにした連中を信用するつもりかよ。本当にいいのか?」
敵意すらこめた声でユキがそう言うと、絶対零度の瞳で顔を一撫でしてきた。
「仮にあなた方が再び造反を企てたとしても、先ほどと同じことです。無意味に終わるのは目に見えています。
もちろん、素直にこちらの要求に応えていただくに越したことはありませんが」
ユキは唇の端を片方だけ持ち上げた。相手に余裕を見せつけようとするときの彼の癖だった。
「根拠のない自信は寒いぜ、イミナ、だったか? あのガキはともかくあんた一人なら、俺ら二人で
かかればどうにでもなるんだぜ」
「本当にそう思われるなら一度、試してごらんになればよろしいでしょう。それと、今の私は『アイ』と
名乗っています」
女の双眸の奥に何があるのか、うかがい知ることはユキの知覚では不可能だった。
只者ではない、それは分かる。あの主人にしてこの部下あり、醸す気配といい身のこなしといい、
断じて凡人のそれではない。テロリストとしての華々しい犯歴も、にも関わらず未だ当局に捕らえられずに
いる事実も、これなら成る程と頷くに足る。
しかし、そこまでだった。
目は口ほどに物を言うと俗にいわれる。だがこの女の目は何ひとつ語っていなかった。腹の奥底の企みは
おろか、人間なら当然備えているはずの感情の動きまで、ヴェールに覆い隠されたように全く見えなかった。
この女の頭の中身はどうなっているのだろう。
そんな疑問を覚えたのは、つい三十分ほど前の話。
ヘリのコックピットで、ふぅっとユキは息を吐いた。
首を動かし辺りを見回す。
出発までに済ませておくべき連絡事項があるらしく、兄はついさっきこの場から出て行ったところだった。
ユキの目の前のウィンドウ越しに、携帯で会話している兄の姿が見える。部外者である女には聞かせたくない
話でもしているのかもしれない。
兄の頭部には包帯が巻かれている。さっき女の主人に頭を壁に叩きつけられたときの傷だ。巻いたのは
女だった。再三の拒絶にもお構いなく処置を進める手つきは、本職もかくやというほどに迷いがなく板に
ついていた。
兄の視線がこちらに向いていないのを確認して、ユキは女の方を見やった。
背筋を伸ばし、足の先は揃え、両手のひらは膝の上。感心を通り越していっそ苦笑を禁じえない、
理想的な座り方で腰掛けている。細身のわりに女らしく丸みを帯びた腰は、狭いシートにきっちりと
おさまっていた。
傷を負った兄を支えて一緒に外に出なかったのは、この女から目を離すわけにいかなかったためだが、
それ以外にもう一つ別の理由もある。
いささか血色の薄い顔にユキは話しかけた。
「おい、イミナ」
「アイです」
すかさず入る訂正。
「……どうでもいいだろ、名前なんざ」
「そうでもありません」
外国人ということを忘れそうになるほどの、流暢な日本語。無表情と口調の抑揚のなささえ何とか
すれば、充分にテレビ局の女子アナウンサーが務まるだろう。
「先刻私の主人も言っていましたが、名前とは対象の中身、即ち本質を示すものです。あなた方が思って
いるほど粗末に扱うべきではありません」
「『イミナ』じゃお前の本質は表せねえってか」
「少なくとも現在の私に関しては」
こんなことを話したいわけではなかった。
いつ兄が通話を切り上げ、こちらに戻ってくるか分からない。まどろっこしい前置きで時間を食うより、
多少無粋でも単刀直入な切り出し方をユキは選んだ。
「その……さっきのこと、一応礼は言っとくぜ」
「? 何のことですか?」
とぼけているのではなく本心から理解できなかったらしい。
小ぶりな頭を傾けてみせる彼女に、ユキは舌打ちした。この女の聡明さはここに至るまでのやりとりで
証明済みだが、こういう方向には長けていないとみえる。
面倒だった。それ以上に屈辱だった。
だが一度言いかけてしまった以上後戻りはきかない。
「……兄貴を助けてくれただろ、さっき。お前のイカレた上司がキレて襲ってきたときだ」
あの女が発砲しなければ、兄は今頃どうなっていたか。想像するだに恐ろしい。
ああ、と女は小さく首を振った。
「そういう意味でしたか」
「別に感謝なんかしちゃいないが、一応は借りができたことになるからな。この借りはそのうち――」
「いえ、気にすることはありません」
ユキの言葉は途中で遮られた。
「私はあなたの兄を守ったのではなく、あなたの兄の死により引き起こされる予定外の事態を防いだのです。
もしそのような事情がなければ、あなたの兄が主人に捻り潰されるのを黙って見ていたことでしょう」
「!」
「あなたが私に借りを感じる必要などないのです」
両の目は相変わらず黒々と、虚無をたたえてユキを見ている。
その奥にあるものは相変わらず読めないが、言葉が本心であることだけは充分すぎるほど伝わった。
もし兄が彼女とあの少年にとって不要な存在だったなら、この女は今と変わらぬ冷淡な瞳で、兄が
肉片になるのを最後まで見届けていたはずだ。
傷に処置を施したのも陳謝の意の表現などではなく、ましてやナイチンゲール的な慈愛の発露とは
程遠い。今後組んで行うミッションを踏まえ、関係の極端な悪化を防ごうとしたにすぎないのだろう。
だが、それでも。
「……借りは借りだ。そのうち必ず返す。覚えとけ」
マネキンめいた面立ちから顔をそむけて言い捨てた。
動機はどうあれ、この女は兄の命を救ったのだ。それは無視すべきではない事実だった。
女が言う。
「意外ですね、早坂幸宜。あなたがそこまで義理がたい男だというデータはありませんでしたが」
「うるせえ黙れ、寒いこと言ってんじゃねーよ」
自分でも意外だった。少なくとも兄と『笑顔』を設立する前、調査会社で裏の業務を請け負っていた頃なら、
借りだの貸しだのは意にも介さなかったはずだ。
それを気にかけるようになったのは他人の影響だろうか。
たとえば前職を辞めるきっかけの一つになった、ヤクザ崩れのあの男――
と、一瞬過去に飛びかけたユキの意識を、女の言葉が引き戻した。
「それがあなたの個人的なこだわりだというのなら、そこにあえて踏み込もうとは思いません。
ただ、一つだけ申し上げておきたいことがあります」
「何だ、そいつは」
窓の外の兄を確認する。携帯を折りたたみ、こちらに向かって歩き出そうとしているところだった。
あまり時間はない。この女とこうして一対一で仕事とは無関係な会話を交わすのを、兄は歓迎するまい。
女も同じことを考えたようだった。口から飛び出したのは、オブラートも何もない直球の言葉だった。
「今回のことで私は、あなたの兄に少なからず憎悪を覚えました」
「ぞう……?」
理性そのもので動いているようなこの女に、そんな感覚的な言葉は似合わない。
「憎悪は憎悪です。早急にこの件の処理を終え、今後一切の関わりを絶たせていただきたいと考えます」
「そいつは、」
問い詰めようと身を乗り出しかけた瞬間、兄がヘリに乗り込んできた。
慌てて口をつぐむユキ。何事もなかったかのように済ました顔のままの女。
「ア、アニキ、電話は終わったのか?」
「ああ、少し別件でな」
ユキに向けて頷いて見せ、次に兄は女の方を睨んだ。
「今のところは利害も一致しているし、お前たちの言う通りに動いてやる。だが最後まで思い通りに運ぶと思うな」
「承知しております。宜しくお願い致します」
しれっと、女。
あからさまな敵意の視線をものともせずに受け流す。言動自体は控えめなはずなのに、鉄仮面ぶりも
ここまでくると奇妙なふてぶてしささえ感じられる。
兄が鼻を鳴らす。
シートに腰を下ろし、ベルトを締める。怪我人とは思えぬ力に満ちた声で命じた。
「ユキ、ヘリを出せ。目標地点はさっき教えた通りだ」
「……了解」
スティックを上に引き、ペダルを踏み込む。
ドリフトの発生。左に滑って逃げていく機体を、別のスティックを倒して抑える。
重力のくびきから解き放たれ、ヘリが空高く舞い上がった。
ヘリのコックピットで、ふぅっとユキは息を吐いた。
首を動かし辺りを見回す。
出発までに済ませておくべき連絡事項があるらしく、兄はついさっきこの場から出て行ったところだった。
ユキの目の前のウィンドウ越しに、携帯で会話している兄の姿が見える。部外者である女には聞かせたくない
話でもしているのかもしれない。
兄の頭部には包帯が巻かれている。さっき女の主人に頭を壁に叩きつけられたときの傷だ。巻いたのは
女だった。再三の拒絶にもお構いなく処置を進める手つきは、本職もかくやというほどに迷いがなく板に
ついていた。
兄の視線がこちらに向いていないのを確認して、ユキは女の方を見やった。
背筋を伸ばし、足の先は揃え、両手のひらは膝の上。感心を通り越していっそ苦笑を禁じえない、
理想的な座り方で腰掛けている。細身のわりに女らしく丸みを帯びた腰は、狭いシートにきっちりと
おさまっていた。
傷を負った兄を支えて一緒に外に出なかったのは、この女から目を離すわけにいかなかったためだが、
それ以外にもう一つ別の理由もある。
いささか血色の薄い顔にユキは話しかけた。
「おい、イミナ」
「アイです」
すかさず入る訂正。
「……どうでもいいだろ、名前なんざ」
「そうでもありません」
外国人ということを忘れそうになるほどの、流暢な日本語。無表情と口調の抑揚のなささえ何とか
すれば、充分にテレビ局の女子アナウンサーが務まるだろう。
「先刻私の主人も言っていましたが、名前とは対象の中身、即ち本質を示すものです。あなた方が思って
いるほど粗末に扱うべきではありません」
「『イミナ』じゃお前の本質は表せねえってか」
「少なくとも現在の私に関しては」
こんなことを話したいわけではなかった。
いつ兄が通話を切り上げ、こちらに戻ってくるか分からない。まどろっこしい前置きで時間を食うより、
多少無粋でも単刀直入な切り出し方をユキは選んだ。
「その……さっきのこと、一応礼は言っとくぜ」
「? 何のことですか?」
とぼけているのではなく本心から理解できなかったらしい。
小ぶりな頭を傾けてみせる彼女に、ユキは舌打ちした。この女の聡明さはここに至るまでのやりとりで
証明済みだが、こういう方向には長けていないとみえる。
面倒だった。それ以上に屈辱だった。
だが一度言いかけてしまった以上後戻りはきかない。
「……兄貴を助けてくれただろ、さっき。お前のイカレた上司がキレて襲ってきたときだ」
あの女が発砲しなければ、兄は今頃どうなっていたか。想像するだに恐ろしい。
ああ、と女は小さく首を振った。
「そういう意味でしたか」
「別に感謝なんかしちゃいないが、一応は借りができたことになるからな。この借りはそのうち――」
「いえ、気にすることはありません」
ユキの言葉は途中で遮られた。
「私はあなたの兄を守ったのではなく、あなたの兄の死により引き起こされる予定外の事態を防いだのです。
もしそのような事情がなければ、あなたの兄が主人に捻り潰されるのを黙って見ていたことでしょう」
「!」
「あなたが私に借りを感じる必要などないのです」
両の目は相変わらず黒々と、虚無をたたえてユキを見ている。
その奥にあるものは相変わらず読めないが、言葉が本心であることだけは充分すぎるほど伝わった。
もし兄が彼女とあの少年にとって不要な存在だったなら、この女は今と変わらぬ冷淡な瞳で、兄が
肉片になるのを最後まで見届けていたはずだ。
傷に処置を施したのも陳謝の意の表現などではなく、ましてやナイチンゲール的な慈愛の発露とは
程遠い。今後組んで行うミッションを踏まえ、関係の極端な悪化を防ごうとしたにすぎないのだろう。
だが、それでも。
「……借りは借りだ。そのうち必ず返す。覚えとけ」
マネキンめいた面立ちから顔をそむけて言い捨てた。
動機はどうあれ、この女は兄の命を救ったのだ。それは無視すべきではない事実だった。
女が言う。
「意外ですね、早坂幸宜。あなたがそこまで義理がたい男だというデータはありませんでしたが」
「うるせえ黙れ、寒いこと言ってんじゃねーよ」
自分でも意外だった。少なくとも兄と『笑顔』を設立する前、調査会社で裏の業務を請け負っていた頃なら、
借りだの貸しだのは意にも介さなかったはずだ。
それを気にかけるようになったのは他人の影響だろうか。
たとえば前職を辞めるきっかけの一つになった、ヤクザ崩れのあの男――
と、一瞬過去に飛びかけたユキの意識を、女の言葉が引き戻した。
「それがあなたの個人的なこだわりだというのなら、そこにあえて踏み込もうとは思いません。
ただ、一つだけ申し上げておきたいことがあります」
「何だ、そいつは」
窓の外の兄を確認する。携帯を折りたたみ、こちらに向かって歩き出そうとしているところだった。
あまり時間はない。この女とこうして一対一で仕事とは無関係な会話を交わすのを、兄は歓迎するまい。
女も同じことを考えたようだった。口から飛び出したのは、オブラートも何もない直球の言葉だった。
「今回のことで私は、あなたの兄に少なからず憎悪を覚えました」
「ぞう……?」
理性そのもので動いているようなこの女に、そんな感覚的な言葉は似合わない。
「憎悪は憎悪です。早急にこの件の処理を終え、今後一切の関わりを絶たせていただきたいと考えます」
「そいつは、」
問い詰めようと身を乗り出しかけた瞬間、兄がヘリに乗り込んできた。
慌てて口をつぐむユキ。何事もなかったかのように済ました顔のままの女。
「ア、アニキ、電話は終わったのか?」
「ああ、少し別件でな」
ユキに向けて頷いて見せ、次に兄は女の方を睨んだ。
「今のところは利害も一致しているし、お前たちの言う通りに動いてやる。だが最後まで思い通りに運ぶと思うな」
「承知しております。宜しくお願い致します」
しれっと、女。
あからさまな敵意の視線をものともせずに受け流す。言動自体は控えめなはずなのに、鉄仮面ぶりも
ここまでくると奇妙なふてぶてしささえ感じられる。
兄が鼻を鳴らす。
シートに腰を下ろし、ベルトを締める。怪我人とは思えぬ力に満ちた声で命じた。
「ユキ、ヘリを出せ。目標地点はさっき教えた通りだ」
「……了解」
スティックを上に引き、ペダルを踏み込む。
ドリフトの発生。左に滑って逃げていく機体を、別のスティックを倒して抑える。
重力のくびきから解き放たれ、ヘリが空高く舞い上がった。