"Eenie, Meenie, Minie, Moe
Catch a tiger by the toe
If he hollers let him go
Eenie, meenie, minie, moe."
Catch a tiger by the toe
If he hollers let him go
Eenie, meenie, minie, moe."
"My mother told me to pick the very best one
...And you are it!"
...And you are it!"
「イーニイ・ミーニイ・マイニイ・モウ
虎の足先をつかまえて
もしも吼えたら放しておやり
イーニイ・ミーニイ・マイニイ・モウ」
虎の足先をつかまえて
もしも吼えたら放しておやり
イーニイ・ミーニイ・マイニイ・モウ」
「一等いいのを選べとの母さまのお言いつけ
……あなたに、決ーめた!」
……あなたに、決ーめた!」
――Children's Counting Rhyme
"Eenie, Meenie, Minie, Moe"
"Eenie, Meenie, Minie, Moe"
スティックシュガー三本で味付けしたコーヒーを、笛吹直大は一口啜った。
ここ数日の睡眠時間は、合計で十時間を切っている。珍しいことではないし、特に辛いとも思わない。
凶悪事件発生後の過密スケジュールなど、多忙を極める警察官僚という職を選んだときから折込み済みだ。
弱音を吐いてはいられない。彼に限らず、犯罪と戦う道を選んだ者全てがそうなのだから。
「……笛吹さん、少し休まれてはいかがですか」
それでも心配してくれる部下がいる分だけ、自分は恵まれていると思う。
書類を睨みながら、コーヒーを一気に飲み干す。空になった紙コップを握り潰し、笛吹は部下を眺めやった。
「お前こそ休んだらどうだ筑紫。この三日間一度も帰宅してないだろう」
「いえ、自分は問題ありません。どうせ自宅に帰ったところで、トレーニングメニューをこなして
ヨーグルトを食べて眠るだけです。それに自分には柔道で培った体力がありますから」
身長一八五センチの長身。しかもただ背が高いだけでなく厚みがある。鍛え上げた体をダークスーツに
包み、超過勤務にも疲労ひとつ滲ませず背筋を伸ばした様は、警視庁のキャリア組というより政府要人の
SPのたたずまいだ。
しかし、全く疲れを感じていないはずはなかった。
自らも過酷なスケジュールの中にあって、なお向けてくれる純粋な気遣いはありがたい。意地と恥とに
阻まれて、未だ口に出して礼を言ったことはないが。
「しばらく仮眠をとられてはいかがです。その間のことは自分が責任を持って代行します」
「いや、今はいい」
笛吹にあっさり切り捨てられても、筑紫は引き下がらなかった。
「睡眠が不足すれば、緊急時の判断も鈍ります。長い目で見れば……」
「分かっている。切りのいいところで時間を見つけて眠るさ。だが少なくとも今のところは、やるべきことも
決定すべきことも山積みだからな」
処理中の書類の束の縁をトントンと叩いてみせる。
「それに、マスコミ連中にも目を光らせておかければならん。確証を得られていない情報を嗅ぎつけられて
バラ撒かれて、市民の不安を不必要に煽られてはたまらんからな」
書類のページをめくる笛吹。蟻のような字は裏面にもずらりと並んでいる。
しばらくお互い何も言わず、自分の仕事に没頭している。
処理中の書類に承認印を押すまで、十分近い時間がかかった。次の書類束に手をかける前に、笛吹は呟く
ように部下の名を呼んだ。
「筑紫」
「はい」
大学時代からの後輩は即座に答える。
「確かお前、通勤には車を使っていたな?」
「はい。交通状態にもよりますが三十分ほどかかります。それが何か……」
「私も車だ」
BMWのMINI。購入から数年が経つが、大きな傷がつくこともなくよく働いてくれている。
笛吹は書類から顔を上げない。わざわざ上げて見るまでもなく、筑紫の表情なら想像できた。こんな時に
何を言うのかという疑問と、この上司が無意味なことを口にするはずがないという信頼が複雑に入り混じった顔だ。
「距離はそうでもないんだが、駅から少し離れているんでな。草や木や花に優しくないとは分かっているが、
やはり便利な方に頼ってしまう」
「……………」
「それでもたまに、そうだな二、三ヶ月に一度程度は、駅まで歩いて電車を使うことにしているんだ」
言いながら、腰掛けた椅子に背を預けた。
「本庁と自宅を車で往復するだけの生活を続けていると、たまに自分が何のために働いているか分からなく
なる。笹塚のような現場の人間ならそんなこともないんだろうが、私たちは上から全体を見なければならん
立場だからな」
書類の上だけで事件が起こっているかのような錯覚を、振り払うために笛吹は駅まで歩く。切符を買って
満員電車に乗り、スーツや学生服の群れに揉みくちゃにされながら桜田門へと向かう。
「家を出てしばらく行くと、花壇にパンジーを植えている家があるんだ。七十過ぎくらいの老婦人が手入れ
をしていてな、私が通りかかると頭を下げて『おはようございます』と言ってくれる。運がよければ
小学生の孫が、『行ってきます』と声を張り上げているのに出くわすこともある。もっと行くと二十四時間
営業のスーパーがあって、警備員が眠そうな目をしょぼつかせながら立っている。挨拶すると慌てたように敬礼の
ポーズをとる。……たまに駅の構内で酔っ払いが寝ていたり、売店の店員が立ち読みする学生に小言を言っていたりもする」
これこそが、自分が守って生きていこうと志したものなのだと、気を引き締めるために自分で自分に課している儀式だった。
「この虐殺事件が起こってから、私もほとんど家には帰ってないが……こういう事件が立て続けに起こると、
あの風景に亀裂が入ってないかと不安になる」
いや、亀裂などとっくに入っているだろう。都内の住宅街から人が消えたと、マスコミはこぞって報道している。
家に篭もって息をひそめたところで生存率が上がるわけでもないが、自分が築いた砦にこもることで、少しでも心の平穏を得ようと
願うのは自然な感情と思われた。
往来を通る人影もまばら。いても足早に歩き最低限の用事だけを済ませて自宅に戻る。小中学校も休校になっている。
世間で何が起ころうと食い扶持を稼がなければならない人々は、皆一様に硬い面持ちで満員電車に身を預ける。
日常の薄皮一枚剥いだところに、血なまぐさい死が口を開けているかもしれないと怯えながら。
「そう思うと、焦りと憤りを感じずにはいられんのだ。多くの人命のみならず、平和な日常まで理不尽に奪っていく『奴』にな」
息をついて笛吹は額を押さえた。
「……すまんな。つまらんことを言った」
「いえ、警察官として忘れてはならない感情だと思います」
筑紫は首を振る。
「捕えましょう、奴を。必ず」
「ああ」
部下の力強い言葉に、笛吹は深い頷きを返した。
ここ数日の睡眠時間は、合計で十時間を切っている。珍しいことではないし、特に辛いとも思わない。
凶悪事件発生後の過密スケジュールなど、多忙を極める警察官僚という職を選んだときから折込み済みだ。
弱音を吐いてはいられない。彼に限らず、犯罪と戦う道を選んだ者全てがそうなのだから。
「……笛吹さん、少し休まれてはいかがですか」
それでも心配してくれる部下がいる分だけ、自分は恵まれていると思う。
書類を睨みながら、コーヒーを一気に飲み干す。空になった紙コップを握り潰し、笛吹は部下を眺めやった。
「お前こそ休んだらどうだ筑紫。この三日間一度も帰宅してないだろう」
「いえ、自分は問題ありません。どうせ自宅に帰ったところで、トレーニングメニューをこなして
ヨーグルトを食べて眠るだけです。それに自分には柔道で培った体力がありますから」
身長一八五センチの長身。しかもただ背が高いだけでなく厚みがある。鍛え上げた体をダークスーツに
包み、超過勤務にも疲労ひとつ滲ませず背筋を伸ばした様は、警視庁のキャリア組というより政府要人の
SPのたたずまいだ。
しかし、全く疲れを感じていないはずはなかった。
自らも過酷なスケジュールの中にあって、なお向けてくれる純粋な気遣いはありがたい。意地と恥とに
阻まれて、未だ口に出して礼を言ったことはないが。
「しばらく仮眠をとられてはいかがです。その間のことは自分が責任を持って代行します」
「いや、今はいい」
笛吹にあっさり切り捨てられても、筑紫は引き下がらなかった。
「睡眠が不足すれば、緊急時の判断も鈍ります。長い目で見れば……」
「分かっている。切りのいいところで時間を見つけて眠るさ。だが少なくとも今のところは、やるべきことも
決定すべきことも山積みだからな」
処理中の書類の束の縁をトントンと叩いてみせる。
「それに、マスコミ連中にも目を光らせておかければならん。確証を得られていない情報を嗅ぎつけられて
バラ撒かれて、市民の不安を不必要に煽られてはたまらんからな」
書類のページをめくる笛吹。蟻のような字は裏面にもずらりと並んでいる。
しばらくお互い何も言わず、自分の仕事に没頭している。
処理中の書類に承認印を押すまで、十分近い時間がかかった。次の書類束に手をかける前に、笛吹は呟く
ように部下の名を呼んだ。
「筑紫」
「はい」
大学時代からの後輩は即座に答える。
「確かお前、通勤には車を使っていたな?」
「はい。交通状態にもよりますが三十分ほどかかります。それが何か……」
「私も車だ」
BMWのMINI。購入から数年が経つが、大きな傷がつくこともなくよく働いてくれている。
笛吹は書類から顔を上げない。わざわざ上げて見るまでもなく、筑紫の表情なら想像できた。こんな時に
何を言うのかという疑問と、この上司が無意味なことを口にするはずがないという信頼が複雑に入り混じった顔だ。
「距離はそうでもないんだが、駅から少し離れているんでな。草や木や花に優しくないとは分かっているが、
やはり便利な方に頼ってしまう」
「……………」
「それでもたまに、そうだな二、三ヶ月に一度程度は、駅まで歩いて電車を使うことにしているんだ」
言いながら、腰掛けた椅子に背を預けた。
「本庁と自宅を車で往復するだけの生活を続けていると、たまに自分が何のために働いているか分からなく
なる。笹塚のような現場の人間ならそんなこともないんだろうが、私たちは上から全体を見なければならん
立場だからな」
書類の上だけで事件が起こっているかのような錯覚を、振り払うために笛吹は駅まで歩く。切符を買って
満員電車に乗り、スーツや学生服の群れに揉みくちゃにされながら桜田門へと向かう。
「家を出てしばらく行くと、花壇にパンジーを植えている家があるんだ。七十過ぎくらいの老婦人が手入れ
をしていてな、私が通りかかると頭を下げて『おはようございます』と言ってくれる。運がよければ
小学生の孫が、『行ってきます』と声を張り上げているのに出くわすこともある。もっと行くと二十四時間
営業のスーパーがあって、警備員が眠そうな目をしょぼつかせながら立っている。挨拶すると慌てたように敬礼の
ポーズをとる。……たまに駅の構内で酔っ払いが寝ていたり、売店の店員が立ち読みする学生に小言を言っていたりもする」
これこそが、自分が守って生きていこうと志したものなのだと、気を引き締めるために自分で自分に課している儀式だった。
「この虐殺事件が起こってから、私もほとんど家には帰ってないが……こういう事件が立て続けに起こると、
あの風景に亀裂が入ってないかと不安になる」
いや、亀裂などとっくに入っているだろう。都内の住宅街から人が消えたと、マスコミはこぞって報道している。
家に篭もって息をひそめたところで生存率が上がるわけでもないが、自分が築いた砦にこもることで、少しでも心の平穏を得ようと
願うのは自然な感情と思われた。
往来を通る人影もまばら。いても足早に歩き最低限の用事だけを済ませて自宅に戻る。小中学校も休校になっている。
世間で何が起ころうと食い扶持を稼がなければならない人々は、皆一様に硬い面持ちで満員電車に身を預ける。
日常の薄皮一枚剥いだところに、血なまぐさい死が口を開けているかもしれないと怯えながら。
「そう思うと、焦りと憤りを感じずにはいられんのだ。多くの人命のみならず、平和な日常まで理不尽に奪っていく『奴』にな」
息をついて笛吹は額を押さえた。
「……すまんな。つまらんことを言った」
「いえ、警察官として忘れてはならない感情だと思います」
筑紫は首を振る。
「捕えましょう、奴を。必ず」
「ああ」
部下の力強い言葉に、笛吹は深い頷きを返した。
「東京都民が何百何千人喰い殺されようが、ブッちゃけ俺どうでもいいんだけどさあ」
三十七インチのディスプレイにニュース映像が映る。
ここ数日、決まってトップは『謎の連続大量虐殺事件』。ほぼ一日二日に一度の割合で新たな被害が
生じ、壊滅した地区は既に五つを数えている。
手入れ中の散弾銃を弄ぶ手を止め、サイは画面を横目で見やった。
「ここまでド派手にやられると、追っかけてるこっちとしてはやりにくいよね。変に世間の注目が集まっちゃってさ」
画面では、ガリ版刷りの文集の文面が大写しになっていた。犠牲者の一人である女子中学生の作文だ。
『エステティシャンになりたい』という少女の初々しい夢は、≪我鬼≫の凶悪な顎で喰いちぎられて
終わりを告げた。
報道は被害の深刻さを切々と訴え、警察による捜査の遅れを糾弾する。それ以外に視聴者を引きつける
ネタがないからだ。しかしそれもこう連日連夜続くとマンネリ感が否めなくなってくる。通り一遍の
番組構成から、制作陣の焦れが伝わってくるかのようだった。
「物証は嫌ってほど残ってるから、虎の仕業だってことくらいとっくに分かってるだろうだけど……
確証がとれるまで伏せておくことにしたのかな。あとあと不祥事とかそんな話になって叩かれたら
笑えるよね」
「警察にはもう、手を回してあるんじゃなかったんですか?」
問いかけたのは葛西である。
こちらの手の中には火炎放射器。袖に仕込んで火を生み出し操る、彼にとっては己の分身のごとき得物だ。
「捜査の情報だって入ってくるでしょうに……相変わらずその辺はあの女任せですか」
言葉の後半にちらつく揶揄するような響きに、サイは唇を尖らせた。
「適材適所って奴だよ。アイのほうがそういう面倒臭いの得意だから全面的に任せてるだけさ。必要なことなら
俺に報告してくるし、不要なことばっかりなら何も言わない。今までそうやってやってきたんだ。何か
文句でもあるの?」
「いえ滅相もない」
肩のあたりまで両手を上げ、『お手上げ』のジェスチャーを示してみせる葛西。
「把握できることはご自分で把握しておいたほうがいいんじゃないかって、ご注進申し上げてるだけですよ。
アイは確かに何でもできる女ですが、だからってあの女一人になんもかんも投げっぱなしにするのは
いただけませんぜって話をしてるんです」
ふん、とサイは鼻を鳴らした。
その目元には、自分のルールに踏み込まれた不快感が色濃く滲んでいる。
「ご注進ね、そりゃまたどうも。ありがた過ぎて涙が出るよ。お礼に至近距離からのショットガン、
ドドンと一発お見舞いしてあげようか?」
うげっ、と葛西の口から悲鳴が漏れた。
「け、結構です。すいません黙ります、黙りますから俺に向けるのは勘弁して下さい」
脂汗を垂れ流す放火魔の脳天から狙いを外し、サイは散弾銃を膝の上に置いた。
加藤清正は槍一本で虎に立ち向かったというが、ここで安土桃山の武将を気取る趣味は彼にはない。
弾丸一発で二十二口径数十発分に匹敵するこの兵器は、槍の代わりというには凶悪すぎる代物だ。
「……随分とアイを信頼してる様子ですが」
黙ると確かに誓ったはずが、銃口が逸れるや否や葛西はまた口を開いた。
「これに限らず、あの女に任せっきりにしすぎるとロクなことはねえと思いますよ」
「うるさいよ葛西」
低い声での警告に、しかし今度の葛西は怯まなかった。声音の調子を変えずに続ける。
「あの女が常にあなたの思い通りに動いてくれるとは限らねぇでしょう。抜きん出てはいたって所詮は人間、
判断違いや心得違いだってないたぁ言い切れない。それに……」
「うるさいって言ってるだろ」
睨む目つきに単に鬱陶しがる以上の色が加わったことに、小利口なこの男が気づかなかったはずはない。
だが両端に皺の寄った口は、自己保身よりも言論の自由を選んだ。いつもの皮肉めいた口調で葛西は付け加えた。
「忠義ヅラしちゃいますがあの女だって、裏で何考えてるか分かったもんじゃありませんぜ?
あまり気を許しすぎるのもどうかと思いますがね――」
そこまでだった。
銃ではなく、サイ自身の手が風を切った。
中年男の張りを失いはじめた頬が、パックリと割けて血のしずくをしたたらせた。
葛西が口をつぐむのを待ち、サイは法廷に立つ裁判官のように宣告した。
「次は顔じゃなく頚動脈を狙うよ」
効果は覿面だった。
帽子と頬に開いた傷とを押さえ、葛西は小さく頭を下げた。
顔をそむけたサイは、視線のやり場を求めてニュース画面に目を向ける。虐殺事件への言及は終わり、
話題は十代の母親が娘を折檻死させた事件に移っている。
顔をモザイクで覆われた近所の人間が、『まさかあの人が(略)』などとコメントしている様子は、
サイの頭にはまるで入ってこないどうでもいい情報だった。
三十七インチのディスプレイにニュース映像が映る。
ここ数日、決まってトップは『謎の連続大量虐殺事件』。ほぼ一日二日に一度の割合で新たな被害が
生じ、壊滅した地区は既に五つを数えている。
手入れ中の散弾銃を弄ぶ手を止め、サイは画面を横目で見やった。
「ここまでド派手にやられると、追っかけてるこっちとしてはやりにくいよね。変に世間の注目が集まっちゃってさ」
画面では、ガリ版刷りの文集の文面が大写しになっていた。犠牲者の一人である女子中学生の作文だ。
『エステティシャンになりたい』という少女の初々しい夢は、≪我鬼≫の凶悪な顎で喰いちぎられて
終わりを告げた。
報道は被害の深刻さを切々と訴え、警察による捜査の遅れを糾弾する。それ以外に視聴者を引きつける
ネタがないからだ。しかしそれもこう連日連夜続くとマンネリ感が否めなくなってくる。通り一遍の
番組構成から、制作陣の焦れが伝わってくるかのようだった。
「物証は嫌ってほど残ってるから、虎の仕業だってことくらいとっくに分かってるだろうだけど……
確証がとれるまで伏せておくことにしたのかな。あとあと不祥事とかそんな話になって叩かれたら
笑えるよね」
「警察にはもう、手を回してあるんじゃなかったんですか?」
問いかけたのは葛西である。
こちらの手の中には火炎放射器。袖に仕込んで火を生み出し操る、彼にとっては己の分身のごとき得物だ。
「捜査の情報だって入ってくるでしょうに……相変わらずその辺はあの女任せですか」
言葉の後半にちらつく揶揄するような響きに、サイは唇を尖らせた。
「適材適所って奴だよ。アイのほうがそういう面倒臭いの得意だから全面的に任せてるだけさ。必要なことなら
俺に報告してくるし、不要なことばっかりなら何も言わない。今までそうやってやってきたんだ。何か
文句でもあるの?」
「いえ滅相もない」
肩のあたりまで両手を上げ、『お手上げ』のジェスチャーを示してみせる葛西。
「把握できることはご自分で把握しておいたほうがいいんじゃないかって、ご注進申し上げてるだけですよ。
アイは確かに何でもできる女ですが、だからってあの女一人になんもかんも投げっぱなしにするのは
いただけませんぜって話をしてるんです」
ふん、とサイは鼻を鳴らした。
その目元には、自分のルールに踏み込まれた不快感が色濃く滲んでいる。
「ご注進ね、そりゃまたどうも。ありがた過ぎて涙が出るよ。お礼に至近距離からのショットガン、
ドドンと一発お見舞いしてあげようか?」
うげっ、と葛西の口から悲鳴が漏れた。
「け、結構です。すいません黙ります、黙りますから俺に向けるのは勘弁して下さい」
脂汗を垂れ流す放火魔の脳天から狙いを外し、サイは散弾銃を膝の上に置いた。
加藤清正は槍一本で虎に立ち向かったというが、ここで安土桃山の武将を気取る趣味は彼にはない。
弾丸一発で二十二口径数十発分に匹敵するこの兵器は、槍の代わりというには凶悪すぎる代物だ。
「……随分とアイを信頼してる様子ですが」
黙ると確かに誓ったはずが、銃口が逸れるや否や葛西はまた口を開いた。
「これに限らず、あの女に任せっきりにしすぎるとロクなことはねえと思いますよ」
「うるさいよ葛西」
低い声での警告に、しかし今度の葛西は怯まなかった。声音の調子を変えずに続ける。
「あの女が常にあなたの思い通りに動いてくれるとは限らねぇでしょう。抜きん出てはいたって所詮は人間、
判断違いや心得違いだってないたぁ言い切れない。それに……」
「うるさいって言ってるだろ」
睨む目つきに単に鬱陶しがる以上の色が加わったことに、小利口なこの男が気づかなかったはずはない。
だが両端に皺の寄った口は、自己保身よりも言論の自由を選んだ。いつもの皮肉めいた口調で葛西は付け加えた。
「忠義ヅラしちゃいますがあの女だって、裏で何考えてるか分かったもんじゃありませんぜ?
あまり気を許しすぎるのもどうかと思いますがね――」
そこまでだった。
銃ではなく、サイ自身の手が風を切った。
中年男の張りを失いはじめた頬が、パックリと割けて血のしずくをしたたらせた。
葛西が口をつぐむのを待ち、サイは法廷に立つ裁判官のように宣告した。
「次は顔じゃなく頚動脈を狙うよ」
効果は覿面だった。
帽子と頬に開いた傷とを押さえ、葛西は小さく頭を下げた。
顔をそむけたサイは、視線のやり場を求めてニュース画面に目を向ける。虐殺事件への言及は終わり、
話題は十代の母親が娘を折檻死させた事件に移っている。
顔をモザイクで覆われた近所の人間が、『まさかあの人が(略)』などとコメントしている様子は、
サイの頭にはまるで入ってこないどうでもいい情報だった。
『なあアイ、本当にこれでよかったのか?』
携帯電話の通話口から漏れた蛭の声は、ひどく自信なさげで頼りなかった。
珍しい。そう思った次の瞬間、今は使われなくなった彼のかつての渾名を思い出す。字は本名の『依』の
ままで、読み方のみ『よる』。理由は大人しく従順で印象が暗いため。
サイに仕えていると目にする機会はあまりないが、そちらも確かに彼の本質ではあるのだろう。かつての
いじめられっ子、田舎育ちの気弱で純朴な青年。それらは犯罪者としての彼の傾向とは決して矛盾せず、
奇妙な共存関係を築いている。
「何を今更。サイに報告する前に私に相談してきたのはあなたではありませんか」
『それはそうなんだけど』
ふうっと細い息を吐くのが聞こえる。
『わざわざ隠しておく必要までは、別にないと俺は思うんだよ。伝えるの自体は慎重にするべきだと思ったから、
最初にあんたに報告したけど……あの人なら最初は動揺しても、最終的には何とか乗り越えられると思う。
だから……』
「それについては私も同感ですが」
と、アイの返答。
「この件に関しては話が別です。今この局面で≪我鬼≫を捕らえられなければ意味がありません」
『いや、でもさ』
「責任は全て私が負います」
蛭の迷いをアイはあっさり切り捨てた。
「あなたが気にする必要などありません。それより今は与えられた仕事に専念してください。思索なら
また後でいくらでも可能です。私がそちらを空けている間、葛西が妙な真似をしないよう目を光らせて
いただかなければなりませんし」
『……相変わらず何があっても揺れないよな』
蛭が苦笑する気配。
『俺にはとても無理だよ。何食って育ったらあんたみたいな女ができあがるんだろうな。誓ってもいいけどあんた、
サイよりよっぽど人間離れしてるよ』
「蛭、ですからそのようないつでもできる話は」
『分かってる、分かってるったら。いい加減もう仕事に戻る。画像解析の出力待ちがいくつか残ってるんだ。
じゃあな、切るよ』
通話が途切れても、アイは耳に押し当てた携帯を離さなかった。靴の底をアスファルトの地面にぴたりと
つけて、微動だにせず夕闇の中に立ったままでいた。冬の冷たい風が頬を叩いても、長い髪の先が浚われて
相絡んでも、そのままの姿勢でいた。
携帯電話の通話口から漏れた蛭の声は、ひどく自信なさげで頼りなかった。
珍しい。そう思った次の瞬間、今は使われなくなった彼のかつての渾名を思い出す。字は本名の『依』の
ままで、読み方のみ『よる』。理由は大人しく従順で印象が暗いため。
サイに仕えていると目にする機会はあまりないが、そちらも確かに彼の本質ではあるのだろう。かつての
いじめられっ子、田舎育ちの気弱で純朴な青年。それらは犯罪者としての彼の傾向とは決して矛盾せず、
奇妙な共存関係を築いている。
「何を今更。サイに報告する前に私に相談してきたのはあなたではありませんか」
『それはそうなんだけど』
ふうっと細い息を吐くのが聞こえる。
『わざわざ隠しておく必要までは、別にないと俺は思うんだよ。伝えるの自体は慎重にするべきだと思ったから、
最初にあんたに報告したけど……あの人なら最初は動揺しても、最終的には何とか乗り越えられると思う。
だから……』
「それについては私も同感ですが」
と、アイの返答。
「この件に関しては話が別です。今この局面で≪我鬼≫を捕らえられなければ意味がありません」
『いや、でもさ』
「責任は全て私が負います」
蛭の迷いをアイはあっさり切り捨てた。
「あなたが気にする必要などありません。それより今は与えられた仕事に専念してください。思索なら
また後でいくらでも可能です。私がそちらを空けている間、葛西が妙な真似をしないよう目を光らせて
いただかなければなりませんし」
『……相変わらず何があっても揺れないよな』
蛭が苦笑する気配。
『俺にはとても無理だよ。何食って育ったらあんたみたいな女ができあがるんだろうな。誓ってもいいけどあんた、
サイよりよっぽど人間離れしてるよ』
「蛭、ですからそのようないつでもできる話は」
『分かってる、分かってるったら。いい加減もう仕事に戻る。画像解析の出力待ちがいくつか残ってるんだ。
じゃあな、切るよ』
通話が途切れても、アイは耳に押し当てた携帯を離さなかった。靴の底をアスファルトの地面にぴたりと
つけて、微動だにせず夕闇の中に立ったままでいた。冬の冷たい風が頬を叩いても、長い髪の先が浚われて
相絡んでも、そのままの姿勢でいた。
冷徹さを皮肉られるのは慣れている。人形のような無表情も、悔悟も慙愧も忘れた氷のごとき心も、
手足の伸びきらぬ少女の頃から時に揶揄され時に恐れられてきた。
蛭に今更何を言われたところでどうということもない。そうなのか、と思うだけだ。
生まれ持った天性の素質なのか、幼少期に受けた歪んだ教育によるのかは不明である。ただ自我を確立し
己を客観的に見るようになる頃にはもう、波ひとつ立たぬ凝固しきった心が胸に巣食っていた。
人によっては、それに気づいた時点で悩み、煩悶し、自分自身を変えていこうと試みたかもしれない。
だがアイはそうしなかった。むしろ好都合と感じ率先して利用した。
かぐわしい香りの紅茶を一杯飲んでも、何百もの罪なき人々を死に追いやるスイッチを押しても
同じように揺らぎを見せぬ精神は、腐った祖国の急先鋒としてテロルを行う身にはひとつの財産だった。
他ならぬその財産が、殺人機械としての彼女の名を比類ないものへと押し上げたのだ。
手足の伸びきらぬ少女の頃から時に揶揄され時に恐れられてきた。
蛭に今更何を言われたところでどうということもない。そうなのか、と思うだけだ。
生まれ持った天性の素質なのか、幼少期に受けた歪んだ教育によるのかは不明である。ただ自我を確立し
己を客観的に見るようになる頃にはもう、波ひとつ立たぬ凝固しきった心が胸に巣食っていた。
人によっては、それに気づいた時点で悩み、煩悶し、自分自身を変えていこうと試みたかもしれない。
だがアイはそうしなかった。むしろ好都合と感じ率先して利用した。
かぐわしい香りの紅茶を一杯飲んでも、何百もの罪なき人々を死に追いやるスイッチを押しても
同じように揺らぎを見せぬ精神は、腐った祖国の急先鋒としてテロルを行う身にはひとつの財産だった。
他ならぬその財産が、殺人機械としての彼女の名を比類ないものへと押し上げたのだ。
祖国を捨て、名を捨て、サイの元で彼に仕えることになった今でも、その財産は大いに役立っている。
罪悪感など覚えない。
殺戮を運ぶ怪盗を侵入させる手口を考案し、最も効率的に破壊を撒き散らす計画を練り、全てが終われば
屍折り重なる現場から自分たちの痕跡だけを消しつくす。何もかも全て、呼吸するのと同じくらい自然にこなせる。
己の正体を知るというサイの目的のために。
彼を通して人間の可能性と限界を確かめるという、アイ自身の目的のために。
それらを達するために必要なら、どんなことでも厭わないつもりだった。
罪悪感など覚えない。
殺戮を運ぶ怪盗を侵入させる手口を考案し、最も効率的に破壊を撒き散らす計画を練り、全てが終われば
屍折り重なる現場から自分たちの痕跡だけを消しつくす。何もかも全て、呼吸するのと同じくらい自然にこなせる。
己の正体を知るというサイの目的のために。
彼を通して人間の可能性と限界を確かめるという、アイ自身の目的のために。
それらを達するために必要なら、どんなことでも厭わないつもりだった。
『人間離れしてるよ』
蛭の目から見てそう映っているのなら、そうなのだろう。
それでもいい。
人間の可能性を求める過程で人間から離れていくというのも、考えようによっては一つの因果だ。
甘んじて受け入れよう。欲する答えを手に入れるために、それが欠けてはならないものだというのなら。
アイは思考をそこで中断した。
耳から離した携帯を折り畳み、細い首を動かして背後を振り返る。
現れた待ち人に労いの言葉をかけた。
「二度目のお呼び立てに応じてくださり、ありがとうございます」
並んで立つのは長身の影二つ。
葛西より少々若い程度のスーツ姿の男と、繁華街にでもいそうなカジュアルな風体の若者。
服装だけを見れば同じ場所で見るのに違和感を覚えるはずの組み合わせ。だが何故だかしっくり来てしまうのは、
そこはかとなく似通った独特の匂いのためだろう。
律儀に頭を下げるアイにスーツの男が――早坂久宜が鼻を鳴らした。
「随分と礼儀正しいことだな。おまえの主人の流儀か、それともあの国の犬だった頃に仕込まれたのか?」
「自前です」
静けさそのもののような声でアイは答える。
長話をする気はなかった。やらねばならないことは山ほどあるのだ。これにばかり時間を費やしてはいられない。
「お二人に、例の『虎』の一件について新たにお願いしたいことと……ご報告申し上げたいことがございます」
硬質な声音は、どこか合成音声に似ていた。
それでもいい。
人間の可能性を求める過程で人間から離れていくというのも、考えようによっては一つの因果だ。
甘んじて受け入れよう。欲する答えを手に入れるために、それが欠けてはならないものだというのなら。
アイは思考をそこで中断した。
耳から離した携帯を折り畳み、細い首を動かして背後を振り返る。
現れた待ち人に労いの言葉をかけた。
「二度目のお呼び立てに応じてくださり、ありがとうございます」
並んで立つのは長身の影二つ。
葛西より少々若い程度のスーツ姿の男と、繁華街にでもいそうなカジュアルな風体の若者。
服装だけを見れば同じ場所で見るのに違和感を覚えるはずの組み合わせ。だが何故だかしっくり来てしまうのは、
そこはかとなく似通った独特の匂いのためだろう。
律儀に頭を下げるアイにスーツの男が――早坂久宜が鼻を鳴らした。
「随分と礼儀正しいことだな。おまえの主人の流儀か、それともあの国の犬だった頃に仕込まれたのか?」
「自前です」
静けさそのもののような声でアイは答える。
長話をする気はなかった。やらねばならないことは山ほどあるのだ。これにばかり時間を費やしてはいられない。
「お二人に、例の『虎』の一件について新たにお願いしたいことと……ご報告申し上げたいことがございます」
硬質な声音は、どこか合成音声に似ていた。
すばらしく居心地のいい環境だ。
≪我鬼≫は喜びの唸り声をあげた。
生い茂る木々。彼の巨大な肢体を浸すに足るだけの、大量の冷たい水。少々狭苦しいのが気に食わないが、
伸び放題の草木が生み出す濃い翳りは、彼が長い年月を過ごした故郷を思わせた。
彼は水浴びが好きだった。他のどんな生き物にも邪魔されず、ゆったりとたたえられた水面に身を任せる
時間を愛していた。とりわけ獲物で腹を満たしたあと、何もかもを忘れて水中でまどろむ時間は何ものにも換えがたかった。
腹を満たすのに長い長い距離を移動しなければならなかった彼の故郷とは違い、海をわたって連れて来られた
この地には獲物がそこら中に溢れている。襲おうと思えばいくらでも襲える。しかも獲物たちの反応速度は
鈍く、狙えば百発百中で頚椎を砕き、完全に息の根を止めることができる。しかし一方でどこに行っても
騒がしく、身を落ち着ける場所が見つからないことに辟易してもいた。
ここなら煩わされる心配はあるまい。
風が木々を鳴らす音に耳を傾けつつ、日がな一日水浴びをして過ごし、空腹を覚えたときだけ
狩りに出て行けばいいのだ。
飼われた猫のように≪我鬼≫は喉を鳴らした。葉の枯れ落ちた枝々の隙間を風が吹き抜けていった。
≪我鬼≫は喜びの唸り声をあげた。
生い茂る木々。彼の巨大な肢体を浸すに足るだけの、大量の冷たい水。少々狭苦しいのが気に食わないが、
伸び放題の草木が生み出す濃い翳りは、彼が長い年月を過ごした故郷を思わせた。
彼は水浴びが好きだった。他のどんな生き物にも邪魔されず、ゆったりとたたえられた水面に身を任せる
時間を愛していた。とりわけ獲物で腹を満たしたあと、何もかもを忘れて水中でまどろむ時間は何ものにも換えがたかった。
腹を満たすのに長い長い距離を移動しなければならなかった彼の故郷とは違い、海をわたって連れて来られた
この地には獲物がそこら中に溢れている。襲おうと思えばいくらでも襲える。しかも獲物たちの反応速度は
鈍く、狙えば百発百中で頚椎を砕き、完全に息の根を止めることができる。しかし一方でどこに行っても
騒がしく、身を落ち着ける場所が見つからないことに辟易してもいた。
ここなら煩わされる心配はあるまい。
風が木々を鳴らす音に耳を傾けつつ、日がな一日水浴びをして過ごし、空腹を覚えたときだけ
狩りに出て行けばいいのだ。
飼われた猫のように≪我鬼≫は喉を鳴らした。葉の枯れ落ちた枝々の隙間を風が吹き抜けていった。