アライJrのベストショットに、グラウンド中が沸騰する。
接近から接触までの全動作が最高速で実行され、しかも美しい。F1カーに乗りながら
ライフルでピンポイント狙撃を行うようなものだ。偉大なる遺伝子を受け継いだ神の申し
子がついに到達したのだ。
なすすべなく沈むゲバル。受け身を取ることなく墜落し、沈黙する。
うつむくしけい荘の面々。勝てる戦いであった。土壇場でアライJrが完成さえしなけ
れば。
「ゲバル……ッ!」無念そうに唇を噛むシコルスキー。
四千年の歴史にはない一打に、コーポ海王サイドもどよめく。
「みごとな試合だった」烈は動じずに素直な感想をもらした。
終わった。だれもが決着を確信した。ところが、
「ヤイサホーッ!」
ゲバルのよく通る声がグラウンドに響き渡る。
全員が振り返ると、ゲバルはもう起き上がっていた。
「……すげぇパンチだったよ、ミスターアライJr。まァ~だ蟻が体中に食いついていや
がる。ガキの頃はよくつまんだりしたが、蟻酸のせいで酸っぱいんだこれが」
軽口を叩くゲバルだが、足はふらついている。
「雄弁な一撃だった。苦労や挫折などとは無縁な、およそ不自由ない生活を送ってきたと
誤解されがちであろう君が、どれだけ過酷な鍛錬を重ねてきたかがよく分かった。俺の誘
いに乗らず、己のスタイルを貫き通す君に敬意を表する。俺なんかが相手の時に、あんな
パンチを生み出してくれてありがとう」
ゲバルは心から礼を述べた。が、こうも続けた。
「だから俺も、俺のスタイルでヤる」
「オーケイ……」
すると、いきなりゲバルは自分から仰向けに寝転がった。
ドリアンが真っ先に気づく。
「ゲバルめ、あの試合を再現するつもりか?!」
「あの試合……?」
すかさず聞き返すシコルスキー。
「アライJrの父アライは、かつて日本のプロレスラーと異種格闘技戦を行った。終始寝
転がるレスラーに対し、アライはどうすることもできなかった。結局ほとんど動きがない
まま試合は引き分けに終わり、試合は世紀の凡戦とまで揶揄された。あれ以来、あのよう
に片方が立ち、片方が寝ている状態を──えぇと」
「猪狩アライ状態と呼ぶようになる、ですかな」
アントニオ猪狩を知っていた柳が付け加える。
いかに優れたボクサーであろうと、寝ている相手を攻撃することは難しい。下手に手を
出せば、絡み取られ寝技で一本を取られるためである。
しかし、アライJrは横たわったゲバルを目の当たりにしても余裕の表情だ。
「もし君がそうやって父のようにおろおろする私を見たいのなら、お気の毒だな」
アライJrはすでに打開策を編み出している。ずばり、対戦相手が寝ていようが気にし
ない、である。相手の足側にしゃがみ込み、相手の繰り出す蹴りをスウェーでかわし、必
殺のブローで寝ている相手を叩き潰す。全局面的ボクシングならではの“解”だ。
一歩一歩近づくアライJrに、ゲバルが笑う。
「俺は君からたった一つの自由を奪えればよかった」
「え……?」
「下以外を向く、という自由をね」
ゲバルが口を開けると、中は大量の唾液で溢れていた。
液体は波を描き、遥か上空に浮かぶ太陽の光をしたたかに反射する。
「ウッ!」
ほんの一瞬、反射光でアライJrの視界が塞がれた。溜めに溜めた唾液を吐き捨てると、
ゲバルは胴タックルに移行、即座にアライJrを抱え上げ、受け身を取れぬよう首から投
げ落とす。
首を曲げ、口から血を吐き出し、皮肉にもアライJrが横たわる結果となった。
接近から接触までの全動作が最高速で実行され、しかも美しい。F1カーに乗りながら
ライフルでピンポイント狙撃を行うようなものだ。偉大なる遺伝子を受け継いだ神の申し
子がついに到達したのだ。
なすすべなく沈むゲバル。受け身を取ることなく墜落し、沈黙する。
うつむくしけい荘の面々。勝てる戦いであった。土壇場でアライJrが完成さえしなけ
れば。
「ゲバル……ッ!」無念そうに唇を噛むシコルスキー。
四千年の歴史にはない一打に、コーポ海王サイドもどよめく。
「みごとな試合だった」烈は動じずに素直な感想をもらした。
終わった。だれもが決着を確信した。ところが、
「ヤイサホーッ!」
ゲバルのよく通る声がグラウンドに響き渡る。
全員が振り返ると、ゲバルはもう起き上がっていた。
「……すげぇパンチだったよ、ミスターアライJr。まァ~だ蟻が体中に食いついていや
がる。ガキの頃はよくつまんだりしたが、蟻酸のせいで酸っぱいんだこれが」
軽口を叩くゲバルだが、足はふらついている。
「雄弁な一撃だった。苦労や挫折などとは無縁な、およそ不自由ない生活を送ってきたと
誤解されがちであろう君が、どれだけ過酷な鍛錬を重ねてきたかがよく分かった。俺の誘
いに乗らず、己のスタイルを貫き通す君に敬意を表する。俺なんかが相手の時に、あんな
パンチを生み出してくれてありがとう」
ゲバルは心から礼を述べた。が、こうも続けた。
「だから俺も、俺のスタイルでヤる」
「オーケイ……」
すると、いきなりゲバルは自分から仰向けに寝転がった。
ドリアンが真っ先に気づく。
「ゲバルめ、あの試合を再現するつもりか?!」
「あの試合……?」
すかさず聞き返すシコルスキー。
「アライJrの父アライは、かつて日本のプロレスラーと異種格闘技戦を行った。終始寝
転がるレスラーに対し、アライはどうすることもできなかった。結局ほとんど動きがない
まま試合は引き分けに終わり、試合は世紀の凡戦とまで揶揄された。あれ以来、あのよう
に片方が立ち、片方が寝ている状態を──えぇと」
「猪狩アライ状態と呼ぶようになる、ですかな」
アントニオ猪狩を知っていた柳が付け加える。
いかに優れたボクサーであろうと、寝ている相手を攻撃することは難しい。下手に手を
出せば、絡み取られ寝技で一本を取られるためである。
しかし、アライJrは横たわったゲバルを目の当たりにしても余裕の表情だ。
「もし君がそうやって父のようにおろおろする私を見たいのなら、お気の毒だな」
アライJrはすでに打開策を編み出している。ずばり、対戦相手が寝ていようが気にし
ない、である。相手の足側にしゃがみ込み、相手の繰り出す蹴りをスウェーでかわし、必
殺のブローで寝ている相手を叩き潰す。全局面的ボクシングならではの“解”だ。
一歩一歩近づくアライJrに、ゲバルが笑う。
「俺は君からたった一つの自由を奪えればよかった」
「え……?」
「下以外を向く、という自由をね」
ゲバルが口を開けると、中は大量の唾液で溢れていた。
液体は波を描き、遥か上空に浮かぶ太陽の光をしたたかに反射する。
「ウッ!」
ほんの一瞬、反射光でアライJrの視界が塞がれた。溜めに溜めた唾液を吐き捨てると、
ゲバルは胴タックルに移行、即座にアライJrを抱え上げ、受け身を取れぬよう首から投
げ落とす。
首を曲げ、口から血を吐き出し、皮肉にもアライJrが横たわる結果となった。
しん、と静まり返る草野球場。
危険な角度で落とされたアライJrだったが、首を押さえかろうじて立ち上がる。
「惜しかった……君の足が万全だったなら、決まっていた」
致命傷になってもおかしくなかったが、足の踏んばりが利かず、威力は半減されていた。
ゲバルも水面下に多大なダメージを潜ませている。人間離れした技の応酬だが、決着はも
う間近だ。
アライJrが突っかける。
もうパンチは喰わぬと後ずさるゲバルだが、アライJrのスピードはめざましかった。
今一度顎に突き刺さる神の拳。
「ガハ……ッ!」
折れ曲がるゲバルの膝。
絶好の勝機が訪れた。次で決める。アライJrが歯を食いしばり、渾身の右ストレート
を放ろうとする。
──が。
ついさっき吐き捨てられた大量の唾液がシューズを滑らせる。
「ホワット?!」
ゲバル最後の罠がアライJrを捕える。揺さぶられる脳と戦いながらゲバルは、
「教えといてやろう。しけい荘203号室の名物は──」
親指を喉に押し込んだ。
「これだァッ!」
ルームメイトと鍛えた指が、槍となって急所を刺す。
首を痛めているアライJrにとっては、これ以上ない痛打。アライJrは呼吸不能にな
り、ついで戦闘不能になろうとするも、吼えた。
「Stand and Fight!」
豪速の拳(ボックス)が解き放たれる。
無我夢中の一打は惜しくも的を外れ空を切るも、足腰が限界に達していたゲバルを転倒
させるほどの迫力であった。
アライJrは動きを止めた。が、なおも立っていた。
──失神しながら。
「勝負ありッ!」
危険な角度で落とされたアライJrだったが、首を押さえかろうじて立ち上がる。
「惜しかった……君の足が万全だったなら、決まっていた」
致命傷になってもおかしくなかったが、足の踏んばりが利かず、威力は半減されていた。
ゲバルも水面下に多大なダメージを潜ませている。人間離れした技の応酬だが、決着はも
う間近だ。
アライJrが突っかける。
もうパンチは喰わぬと後ずさるゲバルだが、アライJrのスピードはめざましかった。
今一度顎に突き刺さる神の拳。
「ガハ……ッ!」
折れ曲がるゲバルの膝。
絶好の勝機が訪れた。次で決める。アライJrが歯を食いしばり、渾身の右ストレート
を放ろうとする。
──が。
ついさっき吐き捨てられた大量の唾液がシューズを滑らせる。
「ホワット?!」
ゲバル最後の罠がアライJrを捕える。揺さぶられる脳と戦いながらゲバルは、
「教えといてやろう。しけい荘203号室の名物は──」
親指を喉に押し込んだ。
「これだァッ!」
ルームメイトと鍛えた指が、槍となって急所を刺す。
首を痛めているアライJrにとっては、これ以上ない痛打。アライJrは呼吸不能にな
り、ついで戦闘不能になろうとするも、吼えた。
「Stand and Fight!」
豪速の拳(ボックス)が解き放たれる。
無我夢中の一打は惜しくも的を外れ空を切るも、足腰が限界に達していたゲバルを転倒
させるほどの迫力であった。
アライJrは動きを止めた。が、なおも立っていた。
──失神しながら。
「勝負ありッ!」