「ミスタ・ロング、これが今の状況です」
「ん」
「ん」
黒い長髪を流し、右目に眼帯をした東洋人――エドワード・ロングは、仕事仲間から書類を受け取った。
仕事仲間――ロングの向かいに座る表情の起伏が乏しい、目を離した次の瞬間には顔立ちを忘れてしまうような、
なんとも印象の薄い男であった。
仕事仲間――ロングの向かいに座る表情の起伏が乏しい、目を離した次の瞬間には顔立ちを忘れてしまうような、
なんとも印象の薄い男であった。
二人が居る場所はウィーンのカフェテラスだ。
市民の憩いの場所であり、まだ日の高い時間帯だったので、店内にいる客の数も多い。
二人とも仕立てのよいスーツ姿だったので、一般市民の中に違和感無く溶け込んでいた。
凶手として裏社会に名を轟かせるが故に、ロングの素性は多くの組織に割られていたが、
ここまで堂々としていると逆に誰も気がつかない。
市民の憩いの場所であり、まだ日の高い時間帯だったので、店内にいる客の数も多い。
二人とも仕立てのよいスーツ姿だったので、一般市民の中に違和感無く溶け込んでいた。
凶手として裏社会に名を轟かせるが故に、ロングの素性は多くの組織に割られていたが、
ここまで堂々としていると逆に誰も気がつかない。
「……」
ロングはカップを片手に、手渡された書類にすばやく目を通していた。印刷紙の上に整然と並ぶ文字の羅列は、
関係者にしてみれば蒼白ものの内容であった。そこには、現在のスプリガンの対鉤十字騎士団の活動計画が、
事細かに記されていた。本来ならば、憲兵隊とスプリガンしか知りえない情報まで記載されている。
いかに混乱の極みにあるとはいえ、憲兵隊の機密情報の管理は徹底している。
その堅牢なガードを掻い潜り、これほどの情報をもたらすには、並大抵の密偵では勤まらない。
関係者にしてみれば蒼白ものの内容であった。そこには、現在のスプリガンの対鉤十字騎士団の活動計画が、
事細かに記されていた。本来ならば、憲兵隊とスプリガンしか知りえない情報まで記載されている。
いかに混乱の極みにあるとはいえ、憲兵隊の機密情報の管理は徹底している。
その堅牢なガードを掻い潜り、これほどの情報をもたらすには、並大抵の密偵では勤まらない。
「申し分ないぜ、さすがはピンカートン」
「恐縮です」
「恐縮です」
――ピンカートン。かつてアメリカで悪名を馳せた秘密探偵組織だ。その起源は、アメリカ南北戦争にまでさかのぼる。
新大陸を二つに割った戦争において北軍に加担したこの組織は、多くの有益な情報をもたらし、北軍を勝利に導いた。
以後も幾度と無く歴史の暗部に登場し、策謀の一手を担ってきた。
シュリーマン暗殺を企てていただとか、イフの城、そして不死者秘儀団なる秘密結社と暗闘を繰り返してきただとか、
暗い噂が絶えない組織だ。
もっとも、正確に言えば、いまの彼の所属はピンカートンではない。
連邦捜査局の発足や警察組織の充実によって規模を大きく縮小した彼らは、非公式に米国政府の各部署に配置され、
長い歴史のうちに培ってきた辣腕を振るっている。
ロングの目の前の彼は、アメリカと結びついた<トライデント>へと配属を命じられたうちの一人だった。
新大陸を二つに割った戦争において北軍に加担したこの組織は、多くの有益な情報をもたらし、北軍を勝利に導いた。
以後も幾度と無く歴史の暗部に登場し、策謀の一手を担ってきた。
シュリーマン暗殺を企てていただとか、イフの城、そして不死者秘儀団なる秘密結社と暗闘を繰り返してきただとか、
暗い噂が絶えない組織だ。
もっとも、正確に言えば、いまの彼の所属はピンカートンではない。
連邦捜査局の発足や警察組織の充実によって規模を大きく縮小した彼らは、非公式に米国政府の各部署に配置され、
長い歴史のうちに培ってきた辣腕を振るっている。
ロングの目の前の彼は、アメリカと結びついた<トライデント>へと配属を命じられたうちの一人だった。
「にしても、まさかあんたらといっしょに仕事するなんてな。人生、何があるかわからねぇもんだな」
「私どもとしても、同じ気持ちですよ。あなたには酷い仕打ちをされたものです」
「私どもとしても、同じ気持ちですよ。あなたには酷い仕打ちをされたものです」
マフィアの食客の経験もあるロングと、要人警護を主な仕事としているピンカートンは、これまで幾度となく矛を交えていた。
両者の関係は、仇敵同士といっていい。今回は利害の一致ということで、こうして手を組んでいるに過ぎない。
両者の関係は、仇敵同士といっていい。今回は利害の一致ということで、こうして手を組んでいるに過ぎない。
「敵となれば恐ろしい貴方ですが、味方となればこれほど頼もしい存在はありませんよ、ミスタ・ロング。
私どもはみな、あなたの活躍に期待しているのですよ」
私どもはみな、あなたの活躍に期待しているのですよ」
実際、ロングの力は恐るべきものだ。彼の操る八卦五行は、東洋の神秘の結晶であり、その破壊力には特筆すべきものがある。
彼を相手取るには、おそらくサイボーグの一個師団を用意しなくてはなるまい。スプリガンと比べても遜色ない、怪物だ。
かつての仇敵の賞賛に、ロングは肩をすくめて見せる。
彼を相手取るには、おそらくサイボーグの一個師団を用意しなくてはなるまい。スプリガンと比べても遜色ない、怪物だ。
かつての仇敵の賞賛に、ロングは肩をすくめて見せる。
「それは置いておくにしても、だ。ナチのねぐらは、わかったのかい?」
「……申し訳ありません。私どもとしても、魔術師といった手合いの相手は、何分苦労するものでして」
「ま、グルマルキンっていやあ、こっちの業界じゃあ超有名人だ。あんたら普通人じゃあ、手間取るのも無理なかろ」
「ですが、現在のスプリガンと鉤十字騎士団の交戦状況については掴むことができました。これを」
「……申し訳ありません。私どもとしても、魔術師といった手合いの相手は、何分苦労するものでして」
「ま、グルマルキンっていやあ、こっちの業界じゃあ超有名人だ。あんたら普通人じゃあ、手間取るのも無理なかろ」
「ですが、現在のスプリガンと鉤十字騎士団の交戦状況については掴むことができました。これを」
また新たに書類を取り出す。それを受け取り、眺めながら、ロングはただ一言。
「なかなか愉快なことになってるなァ」
にやりと、不敵に笑う。
ロングの感想はそれだけである。緊張感のない言葉だが、それだけ彼には余裕があるのだろう。
敵地に侵入した今でも、気負うどころかむしろ泰然として構えている。本当は、性格が大雑把なだけなのだが。
「それで、どうします。ミスタ・ロング」
ロングの感想はそれだけである。緊張感のない言葉だが、それだけ彼には余裕があるのだろう。
敵地に侵入した今でも、気負うどころかむしろ泰然として構えている。本当は、性格が大雑把なだけなのだが。
「それで、どうします。ミスタ・ロング」
魔術師なる存在を前にすれば、いかに優秀とはいえ、人間の捜査には限界がある。後はオカルト的な手段に頼るしかない。
幸い、ロングは八卦を修めている。魔女の居場所を特定することも出来るはずだ。
幸い、ロングは八卦を修めている。魔女の居場所を特定することも出来るはずだ。
「ま、陰陽の気が乱れてる方角を特定することが出来りゃ、ナチどもの居場所もつかめるんだろうが、
俺はそういう精密作業はどうにも苦手でね。とりあえず、連中の出方を待つことにしようや」
俺はそういう精密作業はどうにも苦手でね。とりあえず、連中の出方を待つことにしようや」
しかし、帰ってきた返事は、なんとも頼り甲斐のないもの。
「はあ」
思わず溜め息が出るというものだ。
「そんな顔すんなよ。ま、嫌でも状況は動くだろうさ。スプリガンと鉤十字騎士団がぶつかる事でな。
それに、あんたらの機械化歩兵部隊もかなりのもんだが、スプリガンや鉤十字騎士団に通用するか怪しいな。
<COSMOS>を失った今となっちゃあ、満足に奴らに対抗できるのは俺だけなんだろ?
切札は最後まで伏せとかにゃ、いかんよなあ」
それに、あんたらの機械化歩兵部隊もかなりのもんだが、スプリガンや鉤十字騎士団に通用するか怪しいな。
<COSMOS>を失った今となっちゃあ、満足に奴らに対抗できるのは俺だけなんだろ?
切札は最後まで伏せとかにゃ、いかんよなあ」
痛いところを突かれた――と、ピンカートンの男の顔に、初めて表情らしいものが浮かんだ。
ロングの言葉は、確かに事実だった。
スプリガンへの対抗手段だった<COSMOS>は、先日鉤十字騎士団によって壊滅に追い込まれた。従順な彼らを失ったのは痛い。
<COSMOS>はどんなに理不尽であっても、自我が欠落しているが故に、一切の疑問を持たず命令に従う。
ロングの言葉は、確かに事実だった。
スプリガンへの対抗手段だった<COSMOS>は、先日鉤十字騎士団によって壊滅に追い込まれた。従順な彼らを失ったのは痛い。
<COSMOS>はどんなに理不尽であっても、自我が欠落しているが故に、一切の疑問を持たず命令に従う。
だがこの男は違う。契約を結んでいるとはいえ、そして強大な力を持つとはいえ、所詮は雇われ者。過度の信頼は禁物だ。
"遺産"が絡んでいる以上、裏切りの可能性は否定できない。
ロンギヌスほどの"遺産"なら、どこの組織も色目をつけず高額で買い取るだろう。
"遺産"が絡んでいる以上、裏切りの可能性は否定できない。
ロンギヌスほどの"遺産"なら、どこの組織も色目をつけず高額で買い取るだろう。
ジョーカーの如き特性を持つが、その使用には不安が付きまとう。しかし、彼の協力がなければ、ロンギヌスは奪取できない。
このような奇妙な緊張が、ロングと<トライデント>の間に存在した。
「そんな怖い顔すんなよ。あんたらから"遺産"を掠め取ろうなんざ微塵も思ってねーから。俺は俺の仕事をやるだけさ」
「それを聞いて安心しました。では、もう少し様子を見るということで、よろしいですか」
「そんな感じだ。しかし、ヴァチカンの狂信者どもがどう動いてくるかが気になるな」
「――埋葬機関、そして、イスカリオテですか」
「ああ」
このような奇妙な緊張が、ロングと<トライデント>の間に存在した。
「そんな怖い顔すんなよ。あんたらから"遺産"を掠め取ろうなんざ微塵も思ってねーから。俺は俺の仕事をやるだけさ」
「それを聞いて安心しました。では、もう少し様子を見るということで、よろしいですか」
「そんな感じだ。しかし、ヴァチカンの狂信者どもがどう動いてくるかが気になるな」
「――埋葬機関、そして、イスカリオテですか」
「ああ」
そういってロングは空を見上げた。
澄み渡る蒼穹からは、永遠に続くかと思われる平和が読み取れる。
しかし、平穏な日常の裏では、血で血を洗う闘争が繰り広げられている。
この平和な世界も、薄皮一枚剥げば、残酷な真実が姿をあらわす。
世界最大宗教の暗部、ヴァチカンの異端排斥機関――埋葬機関とイスカリオテも、その残酷な真実の一つだ。
澄み渡る蒼穹からは、永遠に続くかと思われる平和が読み取れる。
しかし、平穏な日常の裏では、血で血を洗う闘争が繰り広げられている。
この平和な世界も、薄皮一枚剥げば、残酷な真実が姿をあらわす。
世界最大宗教の暗部、ヴァチカンの異端排斥機関――埋葬機関とイスカリオテも、その残酷な真実の一つだ。
「神様なんて得体の知れない存在を狂信してる奴らなら、聖人に縁のある品を、何が何でも奪い取ろうとするもんだが……。
――案外、もうここ(ウィーン)に来てるのかもしれないな」
――案外、もうここ(ウィーン)に来てるのかもしれないな」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
スキンヘッドの男は生まれたことを死ぬほど後悔していた。
どうして、こんなことになったのか。どうして、こんな目にあっているのか。
――どうして俺は拷問を受けているのか。
しかし、いくら考えをめぐらせても、その答えは出ない。
……天井から逆さまに吊り下げられ、血が上りすぎて鬱血し始めている彼の頭では、その答えに辿りつく事は不可能だ。
どうして、こんなことになったのか。どうして、こんな目にあっているのか。
――どうして俺は拷問を受けているのか。
しかし、いくら考えをめぐらせても、その答えは出ない。
……天井から逆さまに吊り下げられ、血が上りすぎて鬱血し始めている彼の頭では、その答えに辿りつく事は不可能だ。
「なあ、はやく話してくれよ。私だって、こんなことはしたくないんだ。全部、あんたが協力的な態度をとってくれないからだぜ」
シスター服をまとったブロンドの女が話しかけてくる。サングラスをかけている為、その瞳にどんな感情が宿っているのか窺えない。
だがきっと、その瞳の中には嗜虐の炎が燃えているのだろう。弾む声の調子から、この拷問を、心底楽しんでいることが分かる。
不意に大きな笑い声が響いた。壁にもたれかかったシスター服の黒髪の女が発したものだ。
「なんだよ、由美江」
「欠片もそんなこと思ってないくせに、よくそんな台詞が吐けるなって思ったのさ」
「ああ、あんたもわかってくれないのかい? 我が愛しの相棒よ。まったく、ひどい誤解だよ。なあ――」
だがきっと、その瞳の中には嗜虐の炎が燃えているのだろう。弾む声の調子から、この拷問を、心底楽しんでいることが分かる。
不意に大きな笑い声が響いた。壁にもたれかかったシスター服の黒髪の女が発したものだ。
「なんだよ、由美江」
「欠片もそんなこと思ってないくせに、よくそんな台詞が吐けるなって思ったのさ」
「ああ、あんたもわかってくれないのかい? 我が愛しの相棒よ。まったく、ひどい誤解だよ。なあ――」
――あまりの激痛で、悲鳴をあげたのかも定かではなかった。
錆びたナイフがゆっくりと自分の足の指に刺し入り、引き裂いていく。
勢いよく血が噴出した様子は、まるで真っ赤な華が咲いたかのようだ。
錆びたナイフがゆっくりと自分の足の指に刺し入り、引き裂いていく。
勢いよく血が噴出した様子は、まるで真っ赤な華が咲いたかのようだ。
「――こんなこと、したくないに決まってるじゃないか」
とてもそういう風には見えない、嗜虐に快感を見出す表情であった。
スキンヘッドの男は、その顔を見る余裕は無い。激痛が、正常な思考を妨げている。
スキンヘッドの男は、その顔を見る余裕は無い。激痛が、正常な思考を妨げている。
末端神経が密集している足先というのは、わずかな痛みも敏感に感覚する。
家具に小指をぶつけたときの痛みが、そのわかりやすい例だろう。
それがナイフで切り刻まれるとなると――想像するのもためらうような激痛が、彼を苛めていることがわかるはずだ。
そして、逆さまに吊るされ、頭に血が溜まっている状態ならば、足指の傷口から大量の出血が起こる事はなく、
多少の無茶もできる。なおかつ意識が次第に朦朧となり、口を割りやすくなるというわけだ。
家具に小指をぶつけたときの痛みが、そのわかりやすい例だろう。
それがナイフで切り刻まれるとなると――想像するのもためらうような激痛が、彼を苛めていることがわかるはずだ。
そして、逆さまに吊るされ、頭に血が溜まっている状態ならば、足指の傷口から大量の出血が起こる事はなく、
多少の無茶もできる。なおかつ意識が次第に朦朧となり、口を割りやすくなるというわけだ。
「ほら、さっさと話さないと、また指を失くすことになるぜ?」
ブロンドの女は、スキンヘッドの男の耳に唇を寄せ、囁く。
「死にたくないだろう? いまなら、日常生活にちょっと支障が出るくらいで済むぜ。だから――」
ナイフの切っ先が、まるで品定めするかのように、男の足の指に向けられる。怯えたスキンヘッドの男は、たまらず叫ぶ。
「止めろ、止めてくれ! 俺は何も知らない、本当だ!」
「またそんなことを言って」
再び、悲鳴。紅い華が、もう一輪咲いた。
「なあ、さっさと話してくれよ。
――お前らネオナチが、このウィーンでなにをしているのか、ってことをさ」
ブロンドの女は、スキンヘッドの男の耳に唇を寄せ、囁く。
「死にたくないだろう? いまなら、日常生活にちょっと支障が出るくらいで済むぜ。だから――」
ナイフの切っ先が、まるで品定めするかのように、男の足の指に向けられる。怯えたスキンヘッドの男は、たまらず叫ぶ。
「止めろ、止めてくれ! 俺は何も知らない、本当だ!」
「またそんなことを言って」
再び、悲鳴。紅い華が、もう一輪咲いた。
「なあ、さっさと話してくれよ。
――お前らネオナチが、このウィーンでなにをしているのか、ってことをさ」
と、口の端を吊り上げて、ブロンドの女――ハインケル・ウーフーは笑った。
「はあ……」
力なく溜め息をつきながら、シエルは物憂げな表情で歩いていた。
またしても、連絡員から満足な調査結果を得ることができなかった。何時になったら、鉤十字騎士団の動向がつかめるのやら。
またしても、連絡員から満足な調査結果を得ることができなかった。何時になったら、鉤十字騎士団の動向がつかめるのやら。
ナルバレックからロンギヌス回収の任務が与えられてからすぐ、シエルはウィーンに向かい、現地で鉤十字騎士団が
ロンギヌスをどこに持ち去ったのか調べていた。しかし、その調査状況はあまり芳しくない。
ロンギヌスをどこに持ち去ったのか調べていた。しかし、その調査状況はあまり芳しくない。
先ほどの連絡員との接触で、鉤十字騎士団がウィーンで戦闘を行っている、スプリガンがそれを止めようとしている、
というところまでは判明したのだが、肝心のロンギヌスの行方はいまだ不明のまま。
というところまでは判明したのだが、肝心のロンギヌスの行方はいまだ不明のまま。
活動家を通じてスプリガンがナチ残党の本拠地を把握したとの連絡も入っているが、真偽はまだ定かではない。
連絡員には調査の続行を、とお願いしてみたものの、どれほど時間が掛かるか知れたものではなかった。
今回の事件において教会は、ロンギヌスに絡む勢力の中で一歩出遅れている。どうしても後手に回らざるを得ない。
連絡員には調査の続行を、とお願いしてみたものの、どれほど時間が掛かるか知れたものではなかった。
今回の事件において教会は、ロンギヌスに絡む勢力の中で一歩出遅れている。どうしても後手に回らざるを得ない。
「はあ……」
またしても、溜め息。
ウィーンではカソック姿の人間は珍しいのか、それとも憂いに沈む彼女の端整な顔立ちに心を奪われたのか、
街路を行く人々からの視線がシエルに集まる。
だが、彼女は突きつけられた難題に頭を抱えているため、自分に向けられる好奇の視線に気づかない。
彼女は、誰も彼もを釘付けにしてしまう自分の美貌を自覚していなかった。それが彼女の罪であるのかは、さておき。
ウィーンではカソック姿の人間は珍しいのか、それとも憂いに沈む彼女の端整な顔立ちに心を奪われたのか、
街路を行く人々からの視線がシエルに集まる。
だが、彼女は突きつけられた難題に頭を抱えているため、自分に向けられる好奇の視線に気づかない。
彼女は、誰も彼もを釘付けにしてしまう自分の美貌を自覚していなかった。それが彼女の罪であるのかは、さておき。
「はあ……」
三度目の溜め息。
幸せが逃げてしまうから、出来るだけしないように心がけているものの、止められない。
幸せが逃げてしまうから、出来るだけしないように心がけているものの、止められない。
時間を無為にすればするほど、ロンギヌスを手中にしている鉤十字騎士団に利を与えることになる。
手段を選んでいる段階は、とうに過ぎているのかもしれない。
スプリガンと鉤十字騎士団、両者の抗争に割り込み、強引にでも情報を得るべきか。
だが、どちらも並の相手ではない。両者を敵に回すのは、避けるべきだ――とシエルは結論付けていた。
最善はスプリガンに協力を仰ぐことだったが――しかし、
手段を選んでいる段階は、とうに過ぎているのかもしれない。
スプリガンと鉤十字騎士団、両者の抗争に割り込み、強引にでも情報を得るべきか。
だが、どちらも並の相手ではない。両者を敵に回すのは、避けるべきだ――とシエルは結論付けていた。
最善はスプリガンに協力を仰ぐことだったが――しかし、
「問題は、あの二人ですね……」
あまり敬虔とはいえない自分に比べて、狂信ともとれるほどの信仰心を持つあの二人が、異教徒との協力を
快諾してくれるだろうか……。それがシエルの悩みの種だった。
快諾してくれるだろうか……。それがシエルの悩みの種だった。
「はあ……」
四度目の溜め息。今度のは、さらにさらに深く。
四度目の溜め息。今度のは、さらにさらに深く。
イスカリオテの理念は、異端の絶対根絶。あのアンデルセン神父のように、敵と定めたものに対する容赦は存在しない。
それに、スプリガンには魔女、そして人狼までもが在籍しているのだという。
イスカリオテが敵視する異端そのものではないか、とシエルは頭を抱える。
それに、スプリガンには魔女、そして人狼までもが在籍しているのだという。
イスカリオテが敵視する異端そのものではないか、とシエルは頭を抱える。
「ああ……どうやって説得したら……」
自分は、異教徒と共同戦線を結ぶのにそれほど抵抗はない。
熱心に教義を信仰しているわけではなかったし、彼女が戦う理由は異教徒の排斥ではなかった。
だから異教徒が相手でも柔軟な考えを持つことが出来たし、スプリガンと手を結ぶことで任務が
果たせるなら、その手段をとりたい。
熱心に教義を信仰しているわけではなかったし、彼女が戦う理由は異教徒の排斥ではなかった。
だから異教徒が相手でも柔軟な考えを持つことが出来たし、スプリガンと手を結ぶことで任務が
果たせるなら、その手段をとりたい。
などと考えに耽っていると、いつの間にか潜伏先の建物に辿り着いていた。
二階建てのややぼろい階段をのぼり、仲間の待つ部屋の前に立つ。
二階建てのややぼろい階段をのぼり、仲間の待つ部屋の前に立つ。
「まあ、きちんと話すしかないですよね。だめだったらだめで、他の方法を考えればいいだけのことですし」
そう思いながら開けた扉の先には、彼女の悩みを一気に吹き飛ばす光景が広がっていた。
――見知らぬスキンヘッドの男が天井から吊るされていた。
血が床に滴り、赤い水溜りを作っている。息は無い。すでに絶命しているようだ。
その死体を見たシエルが、表情を強張らせてから、一秒、二秒、三秒……
――見知らぬスキンヘッドの男が天井から吊るされていた。
血が床に滴り、赤い水溜りを作っている。息は無い。すでに絶命しているようだ。
その死体を見たシエルが、表情を強張らせてから、一秒、二秒、三秒……
「……なんですかこれはああああああ!?」
建物全体を揺るがす大音声が、シエルの口から迸った。
わけがわからない。この死体はなんだ。どうしてここにある。しかも逆さに吊るされて。
いったい、自分が留守にしていた間に何が起こったのか――
と、固まっているシエルに、なんとものんびりとした声がかけられた。
わけがわからない。この死体はなんだ。どうしてここにある。しかも逆さに吊るされて。
いったい、自分が留守にしていた間に何が起こったのか――
と、固まっているシエルに、なんとものんびりとした声がかけられた。
「あ。おかえりー、シエル」
サングラスをかけ、シスター服を着た、美しいブロンドの女性。椅子に腰掛けながら、銃の手入れをしている。
テーブルの上には、血が付着したナイフが置かれてある。
シエルはそれを見てすべてを悟った。なんとも余計なことをしてくれたものだ、この戦友は。
テーブルの上には、血が付着したナイフが置かれてある。
シエルはそれを見てすべてを悟った。なんとも余計なことをしてくれたものだ、この戦友は。
「おかえりじゃありません、ハインケル! 説明してください、これ!」
ずかずかと部屋に踏み入り、憤然とした様子でシエルは死体を指差す。
「どうしてネオナチの構成員が、こんなところで死んでるんですか!」
ずかずかと部屋に踏み入り、憤然とした様子でシエルは死体を指差す。
「どうしてネオナチの構成員が、こんなところで死んでるんですか!」
スキンヘッド――その特徴的な容姿で、男が鉤十字の信徒というのはわかった。
だが、ここで死体になっている理由にはならない。
肩をすくめて、ハインケルと呼ばれたシスターが答える。
だが、ここで死体になっている理由にはならない。
肩をすくめて、ハインケルと呼ばれたシスターが答える。
「見たまんまじゃないか。情報が欲しくて、ナチ野郎を拷問にかけたのさ」
なにか悪いのかよ、とハインケルは鼻を鳴らす。
「かけたのさ、じゃありません!
いいですか、教会は各国と秘密協定を結んで、ロンギヌスには徹底した不干渉の立場を貫いてきたんです。
でも、その継承者は世界を支配するなんて伝説が残っているくらいですから、どの国でも内心ロンギヌスを
手に入れたいと思っていて、そんな緊張状態の中で鉤十字騎士団がロンギヌスを奪ってしまって、各国上層部は
殺気立ってて、今にもロンギヌスを巡って奪い合いが始まりそうで……。
ああ、もう! だからいま迂闊に動いて、教会がロンギヌスを手に入れようとしているのがばれたら大変なんです!
それなのに……いきなり拷問とか……」
「かけたのさ、じゃありません!
いいですか、教会は各国と秘密協定を結んで、ロンギヌスには徹底した不干渉の立場を貫いてきたんです。
でも、その継承者は世界を支配するなんて伝説が残っているくらいですから、どの国でも内心ロンギヌスを
手に入れたいと思っていて、そんな緊張状態の中で鉤十字騎士団がロンギヌスを奪ってしまって、各国上層部は
殺気立ってて、今にもロンギヌスを巡って奪い合いが始まりそうで……。
ああ、もう! だからいま迂闊に動いて、教会がロンギヌスを手に入れようとしているのがばれたら大変なんです!
それなのに……いきなり拷問とか……」
一気にまくしたてたあと、シエルは今にも泣きそうな表情で言った。
「由美子、あなたがついていながら――」
「まあ、けっこうおもしろかったから、いいんじゃねーのー?」
「まあ、けっこうおもしろかったから、いいんじゃねーのー?」
――違う。これは由美"江"か。トレードマークの丸眼鏡をかけていないかわりに、腰のあたりに日本刀をさげている。
普段のおどおどした雰囲気はなりを潜め、かわりに野獣のようなぎらついた光が瞳に宿っている。
彼女はいわゆる二重人格者だった。普段は心優しい由美子が人格の表層に現れているが、彼女のまわりで血が流される時、
好戦的な人格である由美江が出現する。
普段のおどおどした雰囲気はなりを潜め、かわりに野獣のようなぎらついた光が瞳に宿っている。
彼女はいわゆる二重人格者だった。普段は心優しい由美子が人格の表層に現れているが、彼女のまわりで血が流される時、
好戦的な人格である由美江が出現する。
無理もない。虫一匹殺せそうにない由美子が、この凄惨な状況で意識を保っていられるはずがない。
拷問の途中で気を失って、由美江が入れ替わったのだろう。
拷問の途中で気を失って、由美江が入れ替わったのだろう。
「ま、そんな怒るなって。シエルは考えすぎだな」
ははは、とハインケルと由美江は笑う。シエルの心配などどこ吹く風だ。
「まあ、ナチ野郎が一人くらい行方不明になったって誰も気にしないよ」
「そうだよ。もうちょっと気楽に構えろって」
「そうだよ。もうちょっと気楽に構えろって」
ぱんぱんと、二人はシエルの肩を叩いた。
何か言いたげに口を開くシエルではあったが、脱力したように溜め息をつく。
この二人はいつも好き放題やりまくる。各機関への根回しが大変なことを、二人は知っているのだろうか。
何か言いたげに口を開くシエルではあったが、脱力したように溜め息をつく。
この二人はいつも好き放題やりまくる。各機関への根回しが大変なことを、二人は知っているのだろうか。
「……それで、成果はあったんですか?」
と聞くシエルに対して、ハインケルは得意げに答えた。
「いやー外れだった。下っ端っぽい顔してたし。あ、やっぱりかって感じだった。まあ、ただの八つ当たりだったし、問題ないよ」
「八つ当たりだったんですか!?」
と聞くシエルに対して、ハインケルは得意げに答えた。
「いやー外れだった。下っ端っぽい顔してたし。あ、やっぱりかって感じだった。まあ、ただの八つ当たりだったし、問題ないよ」
「八つ当たりだったんですか!?」
シエルの怒りが頂点に達した。火山が大噴火したようなその剣幕に、さすがのハインケルもたじろぐ。
「し、しょうがないだろ! ウィーンに来てからこっち、ずっとここに閉じ込められてたんだ。そりゃあストレスも溜まるさ!」
「あなたたちが外に出たら一般市民の被害が大変なことになりますからね! 現にこうして問題を起こして!」
「な、なんだよ、そんなふうに言うことねーじゃん! それに、ナチ野郎が一人くたばってよかったじゃねーか!
神の国が少しでも近づいて!」
「そのまえに作戦がばれて、私達が神の国に逝くことになりかねませんよ!
もし作戦が失敗したら、ナルバレックやマクスウェル局長にどんな処分を下されるか、わからないわけじゃないでしょう!?」
「あなたたちが外に出たら一般市民の被害が大変なことになりますからね! 現にこうして問題を起こして!」
「な、なんだよ、そんなふうに言うことねーじゃん! それに、ナチ野郎が一人くたばってよかったじゃねーか!
神の国が少しでも近づいて!」
「そのまえに作戦がばれて、私達が神の国に逝くことになりかねませんよ!
もし作戦が失敗したら、ナルバレックやマクスウェル局長にどんな処分を下されるか、わからないわけじゃないでしょう!?」
ナルバレック、マクスウェル局長。二人とも、泣く子も黙る教会の殲滅機関の長で、三人の上司だ。
その彼らの怒りを買えば、死よりも恐ろしい生き地獄が待っているだろう……。
その光景を想像したのか、ハインケルと由美江の表情が、見る見るうちに蒼白になった。
その彼らの怒りを買えば、死よりも恐ろしい生き地獄が待っているだろう……。
その光景を想像したのか、ハインケルと由美江の表情が、見る見るうちに蒼白になった。
「ああ、そりゃ怖い。怖すぎる」
「しょんべんちびりそう」
「じゃあこれからはおとなしくしててください、いいですね!」
「しょんべんちびりそう」
「じゃあこれからはおとなしくしててください、いいですね!」
連絡を受けて駆けつけた教会の死体処理係に深く深く頭をさげて(シエルは必死にハインケルと由美江の頭を押さえていた)、
やっと落ち着きを取り戻した頃。ハインケルがシエルに問い掛けた。
やっと落ち着きを取り戻した頃。ハインケルがシエルに問い掛けた。
「で、そっちはどうだったんだよ」
「ええ、そのことなんですが……」
シエルは現在の状況を語った。調査が行き詰りつつあること。これ以上の調査の遅延が鉤十字騎士団を有利にさせてしまうこと。
スプリガンと鉤十字騎士団、この二つの勢力を敵に回すのは避けたいということ。
そして、異端が在籍するスプリガンと手を組むほかないということ――
シエルは静かに二人の返答を待った。おちゃらけた性格をしている彼女らも、イスカリオテを代表する根っからの狂信者だ。
異端と組むことには賛成できない、そんな答えを予想していた。でも――
「ええ、そのことなんですが……」
シエルは現在の状況を語った。調査が行き詰りつつあること。これ以上の調査の遅延が鉤十字騎士団を有利にさせてしまうこと。
スプリガンと鉤十字騎士団、この二つの勢力を敵に回すのは避けたいということ。
そして、異端が在籍するスプリガンと手を組むほかないということ――
シエルは静かに二人の返答を待った。おちゃらけた性格をしている彼女らも、イスカリオテを代表する根っからの狂信者だ。
異端と組むことには賛成できない、そんな答えを予想していた。でも――
「うん、いいよー」
「はあ、やっぱり……じゃあ他の手を考えないと……え?」
シエルは、信じられない、といった顔で聞き返す。
「いま、なんて?」
「だから、スプリガンと手を組むんだろ? あいつらにはちょっと借りがあるし。オミナエユウ、だっけ?
あいつには結構助けられたことがあるんだ。ま、その借りを返すってことで、協力してやってもいいぜ」
「魔女はちょっと願い下げだけどなー。同じ空気吸ってるって思うと、死にたくなるね」
「はあ、やっぱり……じゃあ他の手を考えないと……え?」
シエルは、信じられない、といった顔で聞き返す。
「いま、なんて?」
「だから、スプリガンと手を組むんだろ? あいつらにはちょっと借りがあるし。オミナエユウ、だっけ?
あいつには結構助けられたことがあるんだ。ま、その借りを返すってことで、協力してやってもいいぜ」
「魔女はちょっと願い下げだけどなー。同じ空気吸ってるって思うと、死にたくなるね」
その二人の言葉に、シエルは大いに安堵した。二人の賛同が得られたのならば、任務の成功率はぐんと上がる。
問題はどうスプリガンと接触するかだが――
問題はどうスプリガンと接触するかだが――
「それは大丈夫だろ。奴ら、ウィーンでどんぱちやってるようだし、そこに私達が颯爽と駆けつけて、スプリガン助けたらよくね?」
「そうそう」
「まあ、それが最善ですかね……」
「そうそう」
「まあ、それが最善ですかね……」
ともかく話はまとまった。しかし、もしいまウィーンに来ているスプリガンの中に、魔女や人狼がいれば、話がこじれる可能性が高い。
彼女らの狂信は、もはや業の域に達している。後先考えず、銃弾をぶち込み、斬り殺そうとするかもしれない。だから、
彼女らの狂信は、もはや業の域に達している。後先考えず、銃弾をぶち込み、斬り殺そうとするかもしれない。だから、
「交渉はわたしが行いますから、二人は黙っていてくださいね!」
「はいはい」
「わかったって」
こう注意をうながしたのだが、さて、本当に上手くいくのだろうか――
「はあ……どうにも不安です」
シエルはもう、自分の溜め息を数えるのを止めていた。
「はいはい」
「わかったって」
こう注意をうながしたのだが、さて、本当に上手くいくのだろうか――
「はあ……どうにも不安です」
シエルはもう、自分の溜め息を数えるのを止めていた。