刑事の捜査の基本中の基本、それは地べたを這いずり回ることだ。
物的証拠の八割は足元にある。埃にまみれることを厭わずに、匂いを追う猟犬になったつもりで
辺りを探れ。一見どんなつまらないものであっても、状況を指し示す材料であるには違いない。
一つ余さず拾い上げ、事件当時の状況の全体像を描いていけ。
以前コンビを組んでいた男の教えだった。捜査のイロハを教えてくれた師匠のような存在。日ごろは
暖かく時に厳しい、非の打ち所のない上司だった。職務の裏で何人もの民間人を殺害し、遺族の表情を
見て愉しんでいたことを除いては。
かつて男に抱いていた尊敬や信頼は、もはやどこにも残っていない。ただ新米の頃その男が教えてくれた
ことだけは、理屈を通り越し本能となって今も笹塚の中に息づいている。
ペンライトを口に咥えアパートの床に手をついた笹塚は、他の調度品同様血に塗れたソファの下を覗き込んだ。
証拠集めは既に、鑑識課の人間が一通り行っている。メディアにはまだ公表していない事実だが、現場からは
動物のものとみられる足跡と毛が、遺体の傷口からは唾液が大量に検出され、人為的な犯行ではなくどこからか
逃げ出した猛獣によるものという見方が捜査本部では強まりつつある。
だが笹塚は不安を拭えずにいた。
明確な理由は特にない。ただ、まぶたの裏にくっきりと焼きついたある光景が、つい十数時間前ここで
くりひろげられた惨劇にオーバーラップする。
この事件は長引くのではないだろうか。
かつて彼自身が巻き込まれたあの事件のように――
「先輩」
声に笹塚は振り返る。
「ああ。お前か等々力」
面と向かっては『真面目でよろしい』と賞賛され、影では『お固くってねえ』とこぼされもするキリリとした
顔つき。警察学校出たての姿勢のよさで、後輩の等々力志津香が敬礼していた。
笹塚の班ではない。事件の規模の大きさを鑑みて送り込まれた増援だ。
「思ってたより平気そうだな。石垣なんて便所でゲーゲー吐いてたが。鑑識の連中にも、気分が悪くなった
奴が何人かいるって話だし」
「それは確かに気分のいいものではないですけど」
敬礼の腕を下ろし首を振る等々力。
「現場の人間が取り乱せば、それだけ捜査の進みが遅れるでしょう? そうこうしている間に次の犠牲者が
出るかもしれません」
「そいつは頼もしいな」
スーツの膝についた埃を払いながら、笹塚は立ち上がった。
「だが無理はすんなよ。適当なところで休憩入れてコーヒーでも飲んでこい。石垣みたいなのもどうかと
思うが、逆に気を張りすぎたってロクなことはねーよ」
「はい。ありがとうございます」
一見何事もないふうを装ってはいるが、よく観察してみるとその顔は血の気が引いたように青白い。
無理をしているのは明白だった。
かつては荒々しかったサイの犯行もめっきり大人しくなった今、これほど凄惨な現場は警視庁管内は
おろか、全国含めても年に一度あるかないかだ。新人のうちにこんな事件に遭遇するのは、経験を積む
という意味では無論プラスだが、心理的には相当の負担に違いない。
「ところで笹塚先輩、例の体毛や唾液の分析結果が出たそうなんですが」
「ああ、やっと出たのか。思ったより時間がかかったな。どうだった?」
「はい……」
正式な発表は捜査会議の場になるだろうが、こうした重要な情報を早めに得られるのはありがたい。
しかし等々力はここで煮え切らない顔を見せた。常に意志を込めて輝く瞳が曇り、凛々しささえ漂う
吊り気味の眉毛は、困惑をにじませて大きくたわんだ。
「おい、どうした? 何か……」
「先輩」
眉根を寄せたまま等々力が言った。
「こんなことって、本当にあり得るんでしょうか」
物的証拠の八割は足元にある。埃にまみれることを厭わずに、匂いを追う猟犬になったつもりで
辺りを探れ。一見どんなつまらないものであっても、状況を指し示す材料であるには違いない。
一つ余さず拾い上げ、事件当時の状況の全体像を描いていけ。
以前コンビを組んでいた男の教えだった。捜査のイロハを教えてくれた師匠のような存在。日ごろは
暖かく時に厳しい、非の打ち所のない上司だった。職務の裏で何人もの民間人を殺害し、遺族の表情を
見て愉しんでいたことを除いては。
かつて男に抱いていた尊敬や信頼は、もはやどこにも残っていない。ただ新米の頃その男が教えてくれた
ことだけは、理屈を通り越し本能となって今も笹塚の中に息づいている。
ペンライトを口に咥えアパートの床に手をついた笹塚は、他の調度品同様血に塗れたソファの下を覗き込んだ。
証拠集めは既に、鑑識課の人間が一通り行っている。メディアにはまだ公表していない事実だが、現場からは
動物のものとみられる足跡と毛が、遺体の傷口からは唾液が大量に検出され、人為的な犯行ではなくどこからか
逃げ出した猛獣によるものという見方が捜査本部では強まりつつある。
だが笹塚は不安を拭えずにいた。
明確な理由は特にない。ただ、まぶたの裏にくっきりと焼きついたある光景が、つい十数時間前ここで
くりひろげられた惨劇にオーバーラップする。
この事件は長引くのではないだろうか。
かつて彼自身が巻き込まれたあの事件のように――
「先輩」
声に笹塚は振り返る。
「ああ。お前か等々力」
面と向かっては『真面目でよろしい』と賞賛され、影では『お固くってねえ』とこぼされもするキリリとした
顔つき。警察学校出たての姿勢のよさで、後輩の等々力志津香が敬礼していた。
笹塚の班ではない。事件の規模の大きさを鑑みて送り込まれた増援だ。
「思ってたより平気そうだな。石垣なんて便所でゲーゲー吐いてたが。鑑識の連中にも、気分が悪くなった
奴が何人かいるって話だし」
「それは確かに気分のいいものではないですけど」
敬礼の腕を下ろし首を振る等々力。
「現場の人間が取り乱せば、それだけ捜査の進みが遅れるでしょう? そうこうしている間に次の犠牲者が
出るかもしれません」
「そいつは頼もしいな」
スーツの膝についた埃を払いながら、笹塚は立ち上がった。
「だが無理はすんなよ。適当なところで休憩入れてコーヒーでも飲んでこい。石垣みたいなのもどうかと
思うが、逆に気を張りすぎたってロクなことはねーよ」
「はい。ありがとうございます」
一見何事もないふうを装ってはいるが、よく観察してみるとその顔は血の気が引いたように青白い。
無理をしているのは明白だった。
かつては荒々しかったサイの犯行もめっきり大人しくなった今、これほど凄惨な現場は警視庁管内は
おろか、全国含めても年に一度あるかないかだ。新人のうちにこんな事件に遭遇するのは、経験を積む
という意味では無論プラスだが、心理的には相当の負担に違いない。
「ところで笹塚先輩、例の体毛や唾液の分析結果が出たそうなんですが」
「ああ、やっと出たのか。思ったより時間がかかったな。どうだった?」
「はい……」
正式な発表は捜査会議の場になるだろうが、こうした重要な情報を早めに得られるのはありがたい。
しかし等々力はここで煮え切らない顔を見せた。常に意志を込めて輝く瞳が曇り、凛々しささえ漂う
吊り気味の眉毛は、困惑をにじませて大きくたわんだ。
「おい、どうした? 何か……」
「先輩」
眉根を寄せたまま等々力が言った。
「こんなことって、本当にあり得るんでしょうか」
明け方近くにアジトに戻ってきたアイは、帰りが遅くなったことをまず詫びた。
「密輸業者と話をつけてきました。≪我鬼≫の捕獲にこころよく協力してくださるそうです」
「そう。それは良かった」
退屈しきったサイは自室のベッドで寝転がり、十八頭めの虎のぬいぐるみを解体し終えたところだった。
ひきちぎられ床に転がる頭部に、猛獣の凶悪さは毛筋ほどもない。素っ頓狂なまでにデフォルメされた顔に、
とぼけた味の両目が二つ嵌めこまれている。ぴんと伸びた透明なヒゲだけが唯一、地上最強のネコ科動物の
面影だった。
マットレスと床に散乱した綿に、アイは小さなため息をつく。普段ほとんど感情をたたえぬ瞳が、こんな
時ばかりは雄弁に語る。始末に負えないと。
「その連中を使うってあんたの判断は、俺も的確だと思うよ。情報の収集や操作には長けた連中みたいだし、
何より≪我鬼≫に関して俺らが持ってない情報も持ってるはずだ。警察への根回しだけじゃ、今回の
ケースはちょっと不安だからね」
今回の仕事における最大の問題点は、ターゲットの位置の捕捉だった。
アムール虎の行動圏は広く、雄なら千平方キロメートルに達することもある。ましてや普通の虎を
遥かにしのぐ身体能力を持つ≪我鬼≫のこと、これを大幅に超える長距離でも平気で行き来してしまう
可能性すらあった。
サイの能力は、姿を変えての潜入や大規模な殺人、破壊に特化しているが、こうした広範囲の捜索には
向いていない。できる限りの手段は講じておいたほうがいい。
ビリッと、生地が音を立てる。十九頭めの虎のぬいぐるみが、胴体を両断されてこの世に別れを告げる。
「……面白い男でした」
「? 誰が?」
「早坂久宜。『笑顔』は二人の兄弟により経営されていますが、その兄の方です」
淡々と、アイ。
「一貫したポリシー、それに反する者への容赦のなさ。純粋に創業以来の経営者としての実績だけを見ても、
抜きん出ているのは明らかです。あなたの正体を知る一助になるかもしれません」
「ふうん。珍しいね、あんたが誰かを誉めるなんて。自分にも他人にもやたらめったら点の辛いあんたが」
引きずり出した綿を床に撒き散らしながら、サイは鼻を鳴らした。
アイ。ありとあらゆる世界中の知識と、超一級の破壊工作技術を身につけた女。最高の資質を最高の教育により、
この上なく見事に花開かせた女。たいがいのことは涼しい顔でこなしてしまえる。
一見無愛想に見えるし実際愛想は全くないが、それでも他者と比較して己の優秀さを自覚する程度の
社会性はある。にも関わらず決して現状に満足せず、常に百パーセント以上の結果を求める向上心も
備えている。この女から見れば世の中の人間は、その九割九分九厘までが、愚かで鈍いうえに日々の
精進まで怠っている下等な生き物に見えるはずだ。そのアイが評価するほどの男。
サイの唇の端が持ち上がった。
「そう。あんたがそこまで言うならその男の中身も見てみようか。虎を箱に詰めたあとでゆっくりとね」
「はい」
黄と黒の縞々ということ以外原形をとどめなくなったぬいぐるみを、サイはあっさり床に放り捨てる。
そのまま二十頭めに手を伸ばそうとして、ふと何かに気づいたように眉根を寄せた。
寝そべっていたベッドから上半身を起こす。
「――アイ」
「はい」
「服を脱いで」
従者が目をしばたかせた。
「は……」
「服を脱げ、って言ってるんだよ。聞こえないの?」
理解できないという顔で、しかしアイは素直にハイネックの襟に手を伸ばした。
小さなボタンがひとつひとつ外される。厚手の長袖の下から現れたのは、意外にも可愛らしいノースリーブ。
なめらかな肌に、薄手の黒い生地がよく映えている。
「それも脱いで。スカートはいいから」
衣擦れとともに従者は生まれたままの姿に近づいていく。
ノースリーブの下に、アイは下着をつけていなかった。
代わりに左二の腕と肩口から脇腹にかけての二箇所に、白い包帯が巻かれていた。
「それも取って」
無感動に命じるサイ。
繊細な指先がわずかに戸惑った。だがそれも二秒ばかりのわずかな時間で、ほどなくシュルリと音を
立てて包帯は解かれた。
まだ若い、それでいて充分に成熟した女の体。
雌鹿を思わせる肢体に、やわらかな曲線を描くのは豊かな乳房。腹部は鍛え上げられた筋肉を、
ひっそりと内側に秘めてきゅっと引き締まっている。生唾を飲むような官能――というよりは、
完成された彫刻の美しさに近い。
その美しい体に真新しい傷跡が、肌を這う醜悪な蛇のように刻まれていた。
「これはどうしたの?」
抑えた声でサイが尋ねた。無慈悲なまでの冷静さがそこにあった。
「話し合いの際、少々コミュニケーションの行き違いがありまして」
「つけたのは誰? あんたが今言った兄貴の方?」
「二の腕は兄に。胸の傷は弟の方です。暗器使いというデータはあったのですが……不覚を取りました」
ふうん、とサイは鼻を鳴らす。
指の先だけで、もっと近くに来いと手招きした。腰から下を除けば生まれたままの姿のアイは、羞じらいを
見せることもなくそれに従った。
刻まれて間もない傷にサイの手が伸びる。二次性徴前の細い指が、白い乳房から腹にかけてすうっと
なぞっていく。
傷は縫い合わされたばかりだった。裂けて血をこぼす肉ほど痛々しくはなかったが、縫い目の跡の
くっきりと残るその様には、パックリ開いた傷口とは別種の生々しさがあった。
「……っ」
無遠慮な手つきに痛みを覚えたのか、アイが小さく息を吐いた。労わりともねぎらいとも程遠い、
反応を探るような撫ぜ方だった。
「結構、深いね」
「はい」
「完治までどれくらい?」
「二の腕は二週間、胸は一月もあれば塞がるかと。跡まで消すとなると年単位の時間を要しますが」
「へぇ」
サイの指の腹が、縫合の痕跡をくりかえしなぞった。
アイは目を閉じ、されるがまま主人の気まぐれに耐えている。よけいな口をはさまなければほどなく
終わる。黙って堪えるのが上策と、彼の従者としての長年の経験で悟っているのだ。
だが、そのアイにも予想できないことはあった。
小さく切り揃えられていたサイの爪が、突如獣の爪の鋭さを帯びた。蛍光灯の光を一瞬照り返したと
思うと、今の今までなぞっていたアイの素肌に力強く食い込んだ。
血の玉がルビーのように浮かび上がった。
爪による傷は、肌に這う肉色の蛇を引きちぎろうとするかのように、乳房とみぞおちの境に深く刻み込まれていた。
「んっ……」
予期しなかった痛みにアイが小さく呻く。
サイは意に介さず、指先に付着した彼女の血を舌で舐め取った。
「ようやく俺の正体のヒントが掴めるかもしれないって大事なときに、こんな傷つけて帰ってくるなんて
どういう了見なの?」
「申し訳ありません」
「謝って済んだら警察と裁判所はいらないんだよ」
指に絡む血の最後の一滴をサイは啜り、たった今舐めたその指先で従者を指す。
「アイ、俺があんたにずっと前から頼んでること覚えてる?」
アイは剥き出しの胸を脱いだ上着でそっと覆い、しかし視線は逸らさぬまま主人の問いに答えた。
「私を殺して、箱に詰めて、中身をご覧になりたいのでしょう」
「正解」
にこり、とサイは微笑んだ。見た目相応の邪気のない笑顔だった。
「あんたの体はあんただけのものじゃない。いずれ俺がバラバラのグチョグチョにする予定なんだから。
勝手に怪我したり殺されたりなんて、そんなの許さないよ」
「………………」
「返事は?」
長いまつげがゆっくりと上下した。
夜の色をした瞳。その奥に何が秘められているかはサイにも見えない。幼い頃から受けてきた工作員としての
訓練は、この女から自己主張のすべと意思を根こそぎ奪い去ってしまった。
しかし主張すべき『自分』を持っていないわけで決してはない。
この黒曜の瞳の奥底には、サイが暴きたいと願っている彼女の中身がある。
「……かしこまりました」
やや間を置いて帰ってきた返事に、ようやくサイは満足した。
腕と背中をいっぱいに伸ばし、まるで関係のない話題を口にする。
「今、何時?」
「五時半です。あと二十分ほどで朝日が昇るかと」
「えーまだそんな時間? まあいいや、腹減ってるから朝メシにしてよ。和食がいいな、卵かけご飯が」
「はい」
「蛭と葛西はどうしてる? 腹が膨れたらブリーフィング始めるから、もし寝てるようなら叩き起こしといて」
「かしこまりました」
まばゆいほどに白い背を見せてアイは一礼した。それから慎重に言葉を選びつつ、服を身につけて
いいか質問した。
「密輸業者と話をつけてきました。≪我鬼≫の捕獲にこころよく協力してくださるそうです」
「そう。それは良かった」
退屈しきったサイは自室のベッドで寝転がり、十八頭めの虎のぬいぐるみを解体し終えたところだった。
ひきちぎられ床に転がる頭部に、猛獣の凶悪さは毛筋ほどもない。素っ頓狂なまでにデフォルメされた顔に、
とぼけた味の両目が二つ嵌めこまれている。ぴんと伸びた透明なヒゲだけが唯一、地上最強のネコ科動物の
面影だった。
マットレスと床に散乱した綿に、アイは小さなため息をつく。普段ほとんど感情をたたえぬ瞳が、こんな
時ばかりは雄弁に語る。始末に負えないと。
「その連中を使うってあんたの判断は、俺も的確だと思うよ。情報の収集や操作には長けた連中みたいだし、
何より≪我鬼≫に関して俺らが持ってない情報も持ってるはずだ。警察への根回しだけじゃ、今回の
ケースはちょっと不安だからね」
今回の仕事における最大の問題点は、ターゲットの位置の捕捉だった。
アムール虎の行動圏は広く、雄なら千平方キロメートルに達することもある。ましてや普通の虎を
遥かにしのぐ身体能力を持つ≪我鬼≫のこと、これを大幅に超える長距離でも平気で行き来してしまう
可能性すらあった。
サイの能力は、姿を変えての潜入や大規模な殺人、破壊に特化しているが、こうした広範囲の捜索には
向いていない。できる限りの手段は講じておいたほうがいい。
ビリッと、生地が音を立てる。十九頭めの虎のぬいぐるみが、胴体を両断されてこの世に別れを告げる。
「……面白い男でした」
「? 誰が?」
「早坂久宜。『笑顔』は二人の兄弟により経営されていますが、その兄の方です」
淡々と、アイ。
「一貫したポリシー、それに反する者への容赦のなさ。純粋に創業以来の経営者としての実績だけを見ても、
抜きん出ているのは明らかです。あなたの正体を知る一助になるかもしれません」
「ふうん。珍しいね、あんたが誰かを誉めるなんて。自分にも他人にもやたらめったら点の辛いあんたが」
引きずり出した綿を床に撒き散らしながら、サイは鼻を鳴らした。
アイ。ありとあらゆる世界中の知識と、超一級の破壊工作技術を身につけた女。最高の資質を最高の教育により、
この上なく見事に花開かせた女。たいがいのことは涼しい顔でこなしてしまえる。
一見無愛想に見えるし実際愛想は全くないが、それでも他者と比較して己の優秀さを自覚する程度の
社会性はある。にも関わらず決して現状に満足せず、常に百パーセント以上の結果を求める向上心も
備えている。この女から見れば世の中の人間は、その九割九分九厘までが、愚かで鈍いうえに日々の
精進まで怠っている下等な生き物に見えるはずだ。そのアイが評価するほどの男。
サイの唇の端が持ち上がった。
「そう。あんたがそこまで言うならその男の中身も見てみようか。虎を箱に詰めたあとでゆっくりとね」
「はい」
黄と黒の縞々ということ以外原形をとどめなくなったぬいぐるみを、サイはあっさり床に放り捨てる。
そのまま二十頭めに手を伸ばそうとして、ふと何かに気づいたように眉根を寄せた。
寝そべっていたベッドから上半身を起こす。
「――アイ」
「はい」
「服を脱いで」
従者が目をしばたかせた。
「は……」
「服を脱げ、って言ってるんだよ。聞こえないの?」
理解できないという顔で、しかしアイは素直にハイネックの襟に手を伸ばした。
小さなボタンがひとつひとつ外される。厚手の長袖の下から現れたのは、意外にも可愛らしいノースリーブ。
なめらかな肌に、薄手の黒い生地がよく映えている。
「それも脱いで。スカートはいいから」
衣擦れとともに従者は生まれたままの姿に近づいていく。
ノースリーブの下に、アイは下着をつけていなかった。
代わりに左二の腕と肩口から脇腹にかけての二箇所に、白い包帯が巻かれていた。
「それも取って」
無感動に命じるサイ。
繊細な指先がわずかに戸惑った。だがそれも二秒ばかりのわずかな時間で、ほどなくシュルリと音を
立てて包帯は解かれた。
まだ若い、それでいて充分に成熟した女の体。
雌鹿を思わせる肢体に、やわらかな曲線を描くのは豊かな乳房。腹部は鍛え上げられた筋肉を、
ひっそりと内側に秘めてきゅっと引き締まっている。生唾を飲むような官能――というよりは、
完成された彫刻の美しさに近い。
その美しい体に真新しい傷跡が、肌を這う醜悪な蛇のように刻まれていた。
「これはどうしたの?」
抑えた声でサイが尋ねた。無慈悲なまでの冷静さがそこにあった。
「話し合いの際、少々コミュニケーションの行き違いがありまして」
「つけたのは誰? あんたが今言った兄貴の方?」
「二の腕は兄に。胸の傷は弟の方です。暗器使いというデータはあったのですが……不覚を取りました」
ふうん、とサイは鼻を鳴らす。
指の先だけで、もっと近くに来いと手招きした。腰から下を除けば生まれたままの姿のアイは、羞じらいを
見せることもなくそれに従った。
刻まれて間もない傷にサイの手が伸びる。二次性徴前の細い指が、白い乳房から腹にかけてすうっと
なぞっていく。
傷は縫い合わされたばかりだった。裂けて血をこぼす肉ほど痛々しくはなかったが、縫い目の跡の
くっきりと残るその様には、パックリ開いた傷口とは別種の生々しさがあった。
「……っ」
無遠慮な手つきに痛みを覚えたのか、アイが小さく息を吐いた。労わりともねぎらいとも程遠い、
反応を探るような撫ぜ方だった。
「結構、深いね」
「はい」
「完治までどれくらい?」
「二の腕は二週間、胸は一月もあれば塞がるかと。跡まで消すとなると年単位の時間を要しますが」
「へぇ」
サイの指の腹が、縫合の痕跡をくりかえしなぞった。
アイは目を閉じ、されるがまま主人の気まぐれに耐えている。よけいな口をはさまなければほどなく
終わる。黙って堪えるのが上策と、彼の従者としての長年の経験で悟っているのだ。
だが、そのアイにも予想できないことはあった。
小さく切り揃えられていたサイの爪が、突如獣の爪の鋭さを帯びた。蛍光灯の光を一瞬照り返したと
思うと、今の今までなぞっていたアイの素肌に力強く食い込んだ。
血の玉がルビーのように浮かび上がった。
爪による傷は、肌に這う肉色の蛇を引きちぎろうとするかのように、乳房とみぞおちの境に深く刻み込まれていた。
「んっ……」
予期しなかった痛みにアイが小さく呻く。
サイは意に介さず、指先に付着した彼女の血を舌で舐め取った。
「ようやく俺の正体のヒントが掴めるかもしれないって大事なときに、こんな傷つけて帰ってくるなんて
どういう了見なの?」
「申し訳ありません」
「謝って済んだら警察と裁判所はいらないんだよ」
指に絡む血の最後の一滴をサイは啜り、たった今舐めたその指先で従者を指す。
「アイ、俺があんたにずっと前から頼んでること覚えてる?」
アイは剥き出しの胸を脱いだ上着でそっと覆い、しかし視線は逸らさぬまま主人の問いに答えた。
「私を殺して、箱に詰めて、中身をご覧になりたいのでしょう」
「正解」
にこり、とサイは微笑んだ。見た目相応の邪気のない笑顔だった。
「あんたの体はあんただけのものじゃない。いずれ俺がバラバラのグチョグチョにする予定なんだから。
勝手に怪我したり殺されたりなんて、そんなの許さないよ」
「………………」
「返事は?」
長いまつげがゆっくりと上下した。
夜の色をした瞳。その奥に何が秘められているかはサイにも見えない。幼い頃から受けてきた工作員としての
訓練は、この女から自己主張のすべと意思を根こそぎ奪い去ってしまった。
しかし主張すべき『自分』を持っていないわけで決してはない。
この黒曜の瞳の奥底には、サイが暴きたいと願っている彼女の中身がある。
「……かしこまりました」
やや間を置いて帰ってきた返事に、ようやくサイは満足した。
腕と背中をいっぱいに伸ばし、まるで関係のない話題を口にする。
「今、何時?」
「五時半です。あと二十分ほどで朝日が昇るかと」
「えーまだそんな時間? まあいいや、腹減ってるから朝メシにしてよ。和食がいいな、卵かけご飯が」
「はい」
「蛭と葛西はどうしてる? 腹が膨れたらブリーフィング始めるから、もし寝てるようなら叩き起こしといて」
「かしこまりました」
まばゆいほどに白い背を見せてアイは一礼した。それから慎重に言葉を選びつつ、服を身につけて
いいか質問した。
高いびきをかいていた葛西を、アイは布団ごとベッドから引き剥がしてサイの元へと引っ張ってきた。
普段ならまだ夢の中にいる時間なのだろう。放火魔は目ヤニのこびりついた目元をこすりつつ、
生あくびを必死にこらえている。
「朝食はご入り用ですか」
「あー……いや。今は要らねえよ」
アイに茶碗を示され、一瞬迷ったかに見えた葛西だったが、結局は帽子の乗った頭を力なく横に振った。
「朝メシ食べないと力が出ないよ葛西。いいのスタミナ切れて虎に頭からバリバリ食われても?」
「いえ、何つうか……あなたの食いっぷり見てるだけで腹ぁいっぱいになりそうなんで……」
げっそりと呻く葛西の視線の先で、サイは卵をからめた米飯を頬張った。
卵かけご飯。良質なタンパク質と炭水化物が、睡眠により鈍化したエネルギー燃焼効率を高めてくれる。
日本の朝食としてはきわめてオーソドックスなメニューだ。
だがサイの食べ方はオーソドックスとは程遠かった。
左腕に抱え込むのは炊飯器。それも最高で十合まで炊ける大型のもの。ふっくらと炊き上がった大量の
白米には、それに見合うだけの量の生卵が絡まっている。真珠のような艶に鮮やかな黄、実に食欲をそそる
光景だ。その恐ろしいまでの量さえ無視できるなら。
テーブルの上には、人間の頭蓋骨ほどの白い物体が、無残に割り砕かれ中の空洞を晒している。それが
ダチョウの卵の殻だと気づくのは、起き抜けでぼやけた葛西の頭でもそう難しくはなかったようだった。
「せめて茶碗によそって食いましょうぜ」
「やだよ面倒くさい。どうせ同じ量食うんなら直接かっこんだ方が早いじゃん。それに俺、ダチョウの卵って
一回食ってみたかったんだよね」
卵黄とは、それ自体がひとつの巨大な細胞だ。つまり地上最大の卵の黄味とは、即ち地上最大の細胞ということになる。
炊飯器のへりに直接口をつけ、醤油とほどよく混ざった卵をサイは啜った。ずずっという品のない音。
「ニワトリよりちょっと水っぽい味だけど、わりといけるよ。葛西も食ってみればいいのに」
「結構です、俺ぁブロイラーで充分です、うっぷ、卵の匂いが……うえぇ」
顔をしかめると、皺の寄った面立ちになお皺が寄った。葛西は身震いをひとつすると、少しでも卵臭さを
払おうとするかのように鼻の下を指でこすった。
ジャケットのポケットに手を伸ばし、愛飲のジョーカーを引っ張り出す。しかしシガーマッチで火を
つけようとしたところで、アイの繊細な手が伸びてきた。やんわりと、しかし有無を言わせぬ口調で、
『食事中はご遠慮願います』と一言。煙草は奪われ、葛西はむせかえりそうな生卵の匂いに丸腰で耐えなければ
ならなくなった。
「前にお会いしたときは、そんなには食ってなかったと思うんですが……いつの間に大食漢になったんです?
どっかの女子高生探偵のリスペクトですか?」
「食い意地が張ってるだけのあの子と一緒にしないでよ。細胞の変異を調整するためにはエネルギーが
要るんだよ。特に体のパーツを再生させたり新しく作ったりするには、大量のタンパク質が不可欠だし。
今回みたいに使いまくるのが予想できるときには、事前に食えるだけ食っておくことにしてるんだ」
炊飯器をほぼ垂直に傾け中身をかき込む合間に、サイが答えた。
「魔法みたいに無から作り出してるわけじゃないからね。理屈はちょっと違うけど、イメージ的には
筋トレに近いかも。いくら激しくやっても食ってなければ効果なんて出ないでしょ。筋肉作ろうにも
その元になる材料がないんだから」
「はあ、なるほど」
消費エネルギーが摂取エネルギーをオーバーすれば、ガス欠を起こす。一般人でもしばらくの間は
飲まず食わずで動けるのと同様、即行動不能に陥るわけではないが、それでもどうしても無理は出る。
自分の体組織を分解してエネルギーに強制変換しなければならないからだ。
それすら不可能になったとき、サイの変異は打ち止めとなる。
特殊な細胞も万能ではない。超常の力なりに人体の法則に縛られている。サイが紛れもなく地上の
生き物である証左だろう。
普段ならまだ夢の中にいる時間なのだろう。放火魔は目ヤニのこびりついた目元をこすりつつ、
生あくびを必死にこらえている。
「朝食はご入り用ですか」
「あー……いや。今は要らねえよ」
アイに茶碗を示され、一瞬迷ったかに見えた葛西だったが、結局は帽子の乗った頭を力なく横に振った。
「朝メシ食べないと力が出ないよ葛西。いいのスタミナ切れて虎に頭からバリバリ食われても?」
「いえ、何つうか……あなたの食いっぷり見てるだけで腹ぁいっぱいになりそうなんで……」
げっそりと呻く葛西の視線の先で、サイは卵をからめた米飯を頬張った。
卵かけご飯。良質なタンパク質と炭水化物が、睡眠により鈍化したエネルギー燃焼効率を高めてくれる。
日本の朝食としてはきわめてオーソドックスなメニューだ。
だがサイの食べ方はオーソドックスとは程遠かった。
左腕に抱え込むのは炊飯器。それも最高で十合まで炊ける大型のもの。ふっくらと炊き上がった大量の
白米には、それに見合うだけの量の生卵が絡まっている。真珠のような艶に鮮やかな黄、実に食欲をそそる
光景だ。その恐ろしいまでの量さえ無視できるなら。
テーブルの上には、人間の頭蓋骨ほどの白い物体が、無残に割り砕かれ中の空洞を晒している。それが
ダチョウの卵の殻だと気づくのは、起き抜けでぼやけた葛西の頭でもそう難しくはなかったようだった。
「せめて茶碗によそって食いましょうぜ」
「やだよ面倒くさい。どうせ同じ量食うんなら直接かっこんだ方が早いじゃん。それに俺、ダチョウの卵って
一回食ってみたかったんだよね」
卵黄とは、それ自体がひとつの巨大な細胞だ。つまり地上最大の卵の黄味とは、即ち地上最大の細胞ということになる。
炊飯器のへりに直接口をつけ、醤油とほどよく混ざった卵をサイは啜った。ずずっという品のない音。
「ニワトリよりちょっと水っぽい味だけど、わりといけるよ。葛西も食ってみればいいのに」
「結構です、俺ぁブロイラーで充分です、うっぷ、卵の匂いが……うえぇ」
顔をしかめると、皺の寄った面立ちになお皺が寄った。葛西は身震いをひとつすると、少しでも卵臭さを
払おうとするかのように鼻の下を指でこすった。
ジャケットのポケットに手を伸ばし、愛飲のジョーカーを引っ張り出す。しかしシガーマッチで火を
つけようとしたところで、アイの繊細な手が伸びてきた。やんわりと、しかし有無を言わせぬ口調で、
『食事中はご遠慮願います』と一言。煙草は奪われ、葛西はむせかえりそうな生卵の匂いに丸腰で耐えなければ
ならなくなった。
「前にお会いしたときは、そんなには食ってなかったと思うんですが……いつの間に大食漢になったんです?
どっかの女子高生探偵のリスペクトですか?」
「食い意地が張ってるだけのあの子と一緒にしないでよ。細胞の変異を調整するためにはエネルギーが
要るんだよ。特に体のパーツを再生させたり新しく作ったりするには、大量のタンパク質が不可欠だし。
今回みたいに使いまくるのが予想できるときには、事前に食えるだけ食っておくことにしてるんだ」
炊飯器をほぼ垂直に傾け中身をかき込む合間に、サイが答えた。
「魔法みたいに無から作り出してるわけじゃないからね。理屈はちょっと違うけど、イメージ的には
筋トレに近いかも。いくら激しくやっても食ってなければ効果なんて出ないでしょ。筋肉作ろうにも
その元になる材料がないんだから」
「はあ、なるほど」
消費エネルギーが摂取エネルギーをオーバーすれば、ガス欠を起こす。一般人でもしばらくの間は
飲まず食わずで動けるのと同様、即行動不能に陥るわけではないが、それでもどうしても無理は出る。
自分の体組織を分解してエネルギーに強制変換しなければならないからだ。
それすら不可能になったとき、サイの変異は打ち止めとなる。
特殊な細胞も万能ではない。超常の力なりに人体の法則に縛られている。サイが紛れもなく地上の
生き物である証左だろう。
「アイ、ちょっと相談したいことが……あ、おはようございますサイ」
和やかとは程遠い朝食の場に割り込んできたのは、蛭だった。
葛西と違いこちらは一睡もせず、無菌室にこもって細胞の解析を続けていたらしい。精密作業を通しで
続けたとき特有の、痙攣に近い疲労が顔の上半分に滲んでいる。
無菌衣はさすがに脱いでいた。清潔そうな白いシャツにジーンズという学生然とした服装だ。
「律儀だね蛭。徹夜でやれとまでは言わなかったと思うけど」
「ええ、少し気になることがあって」
首肯した蛭は、主人の脇に控えたアイへと視線を投げた。
サイの口の周りを汚す卵液を、いつも通りの事務的な手つきで拭うアイ。『おかわり』と突き出された
空の炊飯ジャーを受け取り、あらかじめ炊いてあった二つ目の蓋を開けて代わりに渡す。
ダチョウの卵も二個目が手渡された。受け取った特大の卵をサイは嬉しげに両手に抱え込み、しかし
蛭の言葉にふと我に返ったように首をかしげてみせた。
「気になること?」
「あ、いや。今はいいんです。また後でゆっくりアイと話します」
葛西をちらりと眺めやってから、蛭は首を横に振る。
意味ありげに向けられすぐ逸らされた目に、葛西は苦笑とも嘲笑ともつかぬ笑みを口元に浮かべた。
「随分と嫌われてる様子だが、俺と肩並べて仕事すんのがそんなに嫌かい、坊主」
「坊主じゃない、蛭だ」
「失敬。まあ心配すんな。お前の役目は後方支援、サイと一緒に虎退治担当の俺と直接絡むことは少ねえだろうよ。
あるとしたって間にこの女を介してだろうさ」
と、葛西はアイを指す。
会話も食事も男性陣に任せ、自身は慎ましく沈黙していた彼女は、無感動な目で冷たく男を撫でた。
氷片のようなその目つきは、しかし喩えようもなく美しかった。
口笛を吹く葛西。
「いいねぇアイ、その目。ゾクゾクすんな。お前はそういう顔してるときが一番べっぴんだぜ」
蛭のこめかみに青筋が浮く。
「サイは真面目にやってるんだ、真面目にやれよ。ふざけた態度で臨んだら――」
「俺は別にいいよ? ふざけた態度でも」
ばきゃっ、と何かが壊れる響きに、蛭と葛西は主人を振り向いた。
薔薇色の頬には無邪気な笑くぼ。整然と並んだ皓歯は真珠めいて白く輝き、少年の顔に華やかさを
添えている。何ひとつとして普段と変わりはない。
変化はその手に抱えられた卵の方に現れた。
サイズに比例して厚い殻に守られた、大型鳥類の有精卵。一般人なら金槌でも使わなければ、
とても割ることはできない代物。素手で砕くには、それこそ人間の骨格を一撃で粉砕するほどの力が必要だろう。
その固く分厚い卵の殻に、放射状のヒビが入っていた。
とろりとした白身が内側からにじみ、細い糸を引いてきらめきながらしたたり落ちていく。
口をつぐんだ部下たちの顔を見渡し、怪物の強盗は宣言した。
「結果さえちゃんと出してくれるんならね。――さ、内輪のいがみ合いはこの辺にしてそろそろ始めようか。
虎退治の作戦会議を」
和やかとは程遠い朝食の場に割り込んできたのは、蛭だった。
葛西と違いこちらは一睡もせず、無菌室にこもって細胞の解析を続けていたらしい。精密作業を通しで
続けたとき特有の、痙攣に近い疲労が顔の上半分に滲んでいる。
無菌衣はさすがに脱いでいた。清潔そうな白いシャツにジーンズという学生然とした服装だ。
「律儀だね蛭。徹夜でやれとまでは言わなかったと思うけど」
「ええ、少し気になることがあって」
首肯した蛭は、主人の脇に控えたアイへと視線を投げた。
サイの口の周りを汚す卵液を、いつも通りの事務的な手つきで拭うアイ。『おかわり』と突き出された
空の炊飯ジャーを受け取り、あらかじめ炊いてあった二つ目の蓋を開けて代わりに渡す。
ダチョウの卵も二個目が手渡された。受け取った特大の卵をサイは嬉しげに両手に抱え込み、しかし
蛭の言葉にふと我に返ったように首をかしげてみせた。
「気になること?」
「あ、いや。今はいいんです。また後でゆっくりアイと話します」
葛西をちらりと眺めやってから、蛭は首を横に振る。
意味ありげに向けられすぐ逸らされた目に、葛西は苦笑とも嘲笑ともつかぬ笑みを口元に浮かべた。
「随分と嫌われてる様子だが、俺と肩並べて仕事すんのがそんなに嫌かい、坊主」
「坊主じゃない、蛭だ」
「失敬。まあ心配すんな。お前の役目は後方支援、サイと一緒に虎退治担当の俺と直接絡むことは少ねえだろうよ。
あるとしたって間にこの女を介してだろうさ」
と、葛西はアイを指す。
会話も食事も男性陣に任せ、自身は慎ましく沈黙していた彼女は、無感動な目で冷たく男を撫でた。
氷片のようなその目つきは、しかし喩えようもなく美しかった。
口笛を吹く葛西。
「いいねぇアイ、その目。ゾクゾクすんな。お前はそういう顔してるときが一番べっぴんだぜ」
蛭のこめかみに青筋が浮く。
「サイは真面目にやってるんだ、真面目にやれよ。ふざけた態度で臨んだら――」
「俺は別にいいよ? ふざけた態度でも」
ばきゃっ、と何かが壊れる響きに、蛭と葛西は主人を振り向いた。
薔薇色の頬には無邪気な笑くぼ。整然と並んだ皓歯は真珠めいて白く輝き、少年の顔に華やかさを
添えている。何ひとつとして普段と変わりはない。
変化はその手に抱えられた卵の方に現れた。
サイズに比例して厚い殻に守られた、大型鳥類の有精卵。一般人なら金槌でも使わなければ、
とても割ることはできない代物。素手で砕くには、それこそ人間の骨格を一撃で粉砕するほどの力が必要だろう。
その固く分厚い卵の殻に、放射状のヒビが入っていた。
とろりとした白身が内側からにじみ、細い糸を引いてきらめきながらしたたり落ちていく。
口をつぐんだ部下たちの顔を見渡し、怪物の強盗は宣言した。
「結果さえちゃんと出してくれるんならね。――さ、内輪のいがみ合いはこの辺にしてそろそろ始めようか。
虎退治の作戦会議を」
「今回のターゲットの突出した身体能力については、事前にご説明した通りですが」
淀みのない口調で口を切ったのは、アイだった。
目の前にはノートパソコン。市販品ではなく彼女が一から部品を集め組み上げたもの。照明を落とし、
カーテンを引いて闇に閉ざした部屋の中で、ほっそりとした顔に青白い光を落としている。
しなやかな指がキーボードの上を躍ると、暗いアジトの壁一面に画像が映った。
壁に新たに映し出されたのは、先日サイが≪我鬼≫を逃した東京湾を中心とする地図である。
アイの親指がスペースキーを叩くと、地図上に赤い光が点々と灯っていく。
「判明している限りの、≪我鬼≫が出現したと思われる地点です。現時点では世間に発表されていないものも
含まれています」
サイが≪我鬼≫を捕らえんとし失敗したのは、東京港沖数十キロの地点。そこから港区のマンション、
○○区の住宅街と、徐々に首都中心部近くへと食い込んでいく。
「これほど各所で大規模な殺戮を行っているにも関わらず、その姿は一度として目撃されていません。
細胞変異の能力を活用しているとも考えられます。何にしろ、身を隠して行動するだけの知能は
あるものと考えるべきでしょう」
頬杖をついていたサイがぴんと背筋を伸ばした。その双眸は滅多に見られない真剣さを帯びていた。
「それって、俺と同じく変身能力があるかもしれないってこと?」
「可能性としてありえるという程度のことです。先日入手した細胞の解析を終えるにはまだ時間がかかりますし、
今の時点で断定はできません。それに、たとえ能力的に可能であったとしても、それを使いこなすことが
できるかどうかはまた別次元の問題ですから。ただ確実に言い切れることが現時点で一つ」
珍しくアイはいったん言葉を切った。
スペースキーがまた押される。カタという音とともに映像が切り替わる。折れ線グラフだ。
「≪我鬼≫は……少なくとも再生能力に関しては、サイ、あなたをわずかに凌いでいます」
「!」
サイの表情が硬くなる。
「常に全身で進行している突然変異。その方向を任意に調整するという意味では、再生も変身もメカニズムは
共通です。とすれば、再生能力においてあなたを凌ぐ≪我鬼≫は、同様に、変身能力においてもあなたに
匹敵するかそれ以上である可能性が高い」
広大な範囲を捜索し、巧妙に隠れたたった一頭の獣を見つけ出すこと。口で言うのは容易だが、これが
どれだけ困難であることか。しかも変身まで可能だとすれば、捜索という行為自体がほとんど無意味になって
しまうおそれさえある。
「しくじったな。やっぱりあの場で中身見ておくべきだった」
親指の先にサイは歯を立てる。爪の先の肉は無残に潰れ、傷口から赤黒い血が溢れた。
感覚の鋭い指先には痛点が集中している。常人なら悶絶必至の激痛が走るが、お構いなしにサイは幾度も
指を噛む。どんどん親指は原形から離れ、口の周りが血で汚れていく。
「終わったことを嘆いたところで、それで何か変わるわけでもねえでしょうよ」
鼻を鳴らしたのは葛西だった。
「逃がしちまった、ここまではもう仕方ねえ。それはそれとして考えるべきなのはこの先のことでしょう?」
アイから取り返した煙草を旨そうに吸いながら、一言。
テーブルに頬杖をついたまま、サイが軽く片眉をはね上げる。
しかし彼が言葉を紡ぐより、蛭がきつい目で睨むほうが早かった。
「そんな幼稚園児にでも言うようなこと、サイはとっくに分かってるよ。サイって人間をろくに理解しても
いないくせに知ったような口叩くなよ、新参者の分際で」
負の感情を隠しもしない黒い瞳を、葛西は紫煙をくゆらせながら見やった。血気盛んな若者を前にした表情は、
どこか愉しげですらあった。
「ほお? その口ぶりだと、まるでお前は理解してるってふうに聞こえるが」
「……少なくとも、あんたに比べれば分かってる部類だろうさ」
青年の上唇と下唇、その隙間から白い歯が覗いた。歯列矯正が一般的でないこの国の男性としては
珍しい、整った歯並び。だが敵意をあらわに歯を剥き出すと、その犬歯の先は意外にも鋭い。狼や野犬と
いうよりは、狐やハイエナを思わせる尖り方だ。
しかし葛西は臆した様子もなく、ただ肩をすくめただけだった。
「名前も出自も、性別だってろくすっぽ分かっちゃいねえんだ。そんな相手に、軽々しく『理解』だなんて
言葉使うこと自体ちゃんちゃらおかしいと、俺ぁ思うがねえ。だいたい脳細胞だってどんどん変異して
くんだから、性格や考え方だって一定じゃあねえだろう。勝手に分かったつもりになってるだけじゃねえのか?」
「っ!」
蛭の凡庸な顔に動揺が走る。
尖った犬歯が唇に突き刺さった。
「確かに変異はしてるけど、変わらない芯だってちゃんと持ってる。出逢って一月かそこらのあんたに
何が分かるって言うんだよ」
「火火火、さぁな。何ひとつ分かっちゃいねえかもしれねえし、ひょっとするとお前が一生『理解』なんて
できっこねえこと知ってたりするかもしれねえぜ?」
「…………っ、言わせておけば」
殺人鬼と放火魔の争いに、サイは深々とため息をつく。いちいち割り込むのは面倒だったし、それ以上に
馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
含みを込めてアイを見た。聡明な従者が彼の意図を汲み取るには、そのたった一瞥で充分だった。
「お二人とも、大変興味深い話題ではありますが――今はブリーフィングの最中です。お静かに」
凛冽とした声が二人を遮る。
何の感情も乗せていないにも関わらず、聞く者の耳をとらえずにはいられない響き。
中年の顔と青年の顔が、いっせいに彼女を向いた。注意を自分に引きつけたところで、ここぞとばかりに
アイは畳み掛けた。
「蛭。あなたはもう少し落ち着きを持ってください。サイを崇拝するのは大いに結構ですが、
憧れに振り回されて周りが見えなくなるようでは困ります」
「………………」
不本意そうに黙り込む蛭。
「それから葛西」
声音にひそむ寒気がいっそう厳しさを帯びた。
「ずいぶんと、掻き回すのがお好きなようですね」
「悪ぃ悪ぃ。すぐ熱くなって火がつく若造ってのは見てて面白えもんでよ」
「いえ、謝る必要などありません。あなたは既に精神的に成熟した人間であり、同時に完成された
犯罪者でもある。私どもが横から口を挟んだところで、今更何かが変えられるわけでもないでしょう。
振る舞いも発言もどうぞご自由に。ですが」
肩をすくめる葛西に、あくまで冷徹にアイは告げた。
「そんなあなたをこちらがどう評価するか、それはこちらの『自由』だということだけは、
心に留めておいていただきましょう」
すぅ、っと、帽子の鍔に隠れた三白眼が細くなる。火火火、という声が唇から漏れる。
「ご忠告どうも。以降気をつけるよ」
「いえ。こちらこそ差し出がましいことを申しました」
一見ごく穏やかに締めくくられる対話。
だが人物観察に長けたサイの目には、全く違う光景が見えていた。
――女狐め。
葛西の双眸に炎が灯る。
淀みのない口調で口を切ったのは、アイだった。
目の前にはノートパソコン。市販品ではなく彼女が一から部品を集め組み上げたもの。照明を落とし、
カーテンを引いて闇に閉ざした部屋の中で、ほっそりとした顔に青白い光を落としている。
しなやかな指がキーボードの上を躍ると、暗いアジトの壁一面に画像が映った。
壁に新たに映し出されたのは、先日サイが≪我鬼≫を逃した東京湾を中心とする地図である。
アイの親指がスペースキーを叩くと、地図上に赤い光が点々と灯っていく。
「判明している限りの、≪我鬼≫が出現したと思われる地点です。現時点では世間に発表されていないものも
含まれています」
サイが≪我鬼≫を捕らえんとし失敗したのは、東京港沖数十キロの地点。そこから港区のマンション、
○○区の住宅街と、徐々に首都中心部近くへと食い込んでいく。
「これほど各所で大規模な殺戮を行っているにも関わらず、その姿は一度として目撃されていません。
細胞変異の能力を活用しているとも考えられます。何にしろ、身を隠して行動するだけの知能は
あるものと考えるべきでしょう」
頬杖をついていたサイがぴんと背筋を伸ばした。その双眸は滅多に見られない真剣さを帯びていた。
「それって、俺と同じく変身能力があるかもしれないってこと?」
「可能性としてありえるという程度のことです。先日入手した細胞の解析を終えるにはまだ時間がかかりますし、
今の時点で断定はできません。それに、たとえ能力的に可能であったとしても、それを使いこなすことが
できるかどうかはまた別次元の問題ですから。ただ確実に言い切れることが現時点で一つ」
珍しくアイはいったん言葉を切った。
スペースキーがまた押される。カタという音とともに映像が切り替わる。折れ線グラフだ。
「≪我鬼≫は……少なくとも再生能力に関しては、サイ、あなたをわずかに凌いでいます」
「!」
サイの表情が硬くなる。
「常に全身で進行している突然変異。その方向を任意に調整するという意味では、再生も変身もメカニズムは
共通です。とすれば、再生能力においてあなたを凌ぐ≪我鬼≫は、同様に、変身能力においてもあなたに
匹敵するかそれ以上である可能性が高い」
広大な範囲を捜索し、巧妙に隠れたたった一頭の獣を見つけ出すこと。口で言うのは容易だが、これが
どれだけ困難であることか。しかも変身まで可能だとすれば、捜索という行為自体がほとんど無意味になって
しまうおそれさえある。
「しくじったな。やっぱりあの場で中身見ておくべきだった」
親指の先にサイは歯を立てる。爪の先の肉は無残に潰れ、傷口から赤黒い血が溢れた。
感覚の鋭い指先には痛点が集中している。常人なら悶絶必至の激痛が走るが、お構いなしにサイは幾度も
指を噛む。どんどん親指は原形から離れ、口の周りが血で汚れていく。
「終わったことを嘆いたところで、それで何か変わるわけでもねえでしょうよ」
鼻を鳴らしたのは葛西だった。
「逃がしちまった、ここまではもう仕方ねえ。それはそれとして考えるべきなのはこの先のことでしょう?」
アイから取り返した煙草を旨そうに吸いながら、一言。
テーブルに頬杖をついたまま、サイが軽く片眉をはね上げる。
しかし彼が言葉を紡ぐより、蛭がきつい目で睨むほうが早かった。
「そんな幼稚園児にでも言うようなこと、サイはとっくに分かってるよ。サイって人間をろくに理解しても
いないくせに知ったような口叩くなよ、新参者の分際で」
負の感情を隠しもしない黒い瞳を、葛西は紫煙をくゆらせながら見やった。血気盛んな若者を前にした表情は、
どこか愉しげですらあった。
「ほお? その口ぶりだと、まるでお前は理解してるってふうに聞こえるが」
「……少なくとも、あんたに比べれば分かってる部類だろうさ」
青年の上唇と下唇、その隙間から白い歯が覗いた。歯列矯正が一般的でないこの国の男性としては
珍しい、整った歯並び。だが敵意をあらわに歯を剥き出すと、その犬歯の先は意外にも鋭い。狼や野犬と
いうよりは、狐やハイエナを思わせる尖り方だ。
しかし葛西は臆した様子もなく、ただ肩をすくめただけだった。
「名前も出自も、性別だってろくすっぽ分かっちゃいねえんだ。そんな相手に、軽々しく『理解』だなんて
言葉使うこと自体ちゃんちゃらおかしいと、俺ぁ思うがねえ。だいたい脳細胞だってどんどん変異して
くんだから、性格や考え方だって一定じゃあねえだろう。勝手に分かったつもりになってるだけじゃねえのか?」
「っ!」
蛭の凡庸な顔に動揺が走る。
尖った犬歯が唇に突き刺さった。
「確かに変異はしてるけど、変わらない芯だってちゃんと持ってる。出逢って一月かそこらのあんたに
何が分かるって言うんだよ」
「火火火、さぁな。何ひとつ分かっちゃいねえかもしれねえし、ひょっとするとお前が一生『理解』なんて
できっこねえこと知ってたりするかもしれねえぜ?」
「…………っ、言わせておけば」
殺人鬼と放火魔の争いに、サイは深々とため息をつく。いちいち割り込むのは面倒だったし、それ以上に
馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
含みを込めてアイを見た。聡明な従者が彼の意図を汲み取るには、そのたった一瞥で充分だった。
「お二人とも、大変興味深い話題ではありますが――今はブリーフィングの最中です。お静かに」
凛冽とした声が二人を遮る。
何の感情も乗せていないにも関わらず、聞く者の耳をとらえずにはいられない響き。
中年の顔と青年の顔が、いっせいに彼女を向いた。注意を自分に引きつけたところで、ここぞとばかりに
アイは畳み掛けた。
「蛭。あなたはもう少し落ち着きを持ってください。サイを崇拝するのは大いに結構ですが、
憧れに振り回されて周りが見えなくなるようでは困ります」
「………………」
不本意そうに黙り込む蛭。
「それから葛西」
声音にひそむ寒気がいっそう厳しさを帯びた。
「ずいぶんと、掻き回すのがお好きなようですね」
「悪ぃ悪ぃ。すぐ熱くなって火がつく若造ってのは見てて面白えもんでよ」
「いえ、謝る必要などありません。あなたは既に精神的に成熟した人間であり、同時に完成された
犯罪者でもある。私どもが横から口を挟んだところで、今更何かが変えられるわけでもないでしょう。
振る舞いも発言もどうぞご自由に。ですが」
肩をすくめる葛西に、あくまで冷徹にアイは告げた。
「そんなあなたをこちらがどう評価するか、それはこちらの『自由』だということだけは、
心に留めておいていただきましょう」
すぅ、っと、帽子の鍔に隠れた三白眼が細くなる。火火火、という声が唇から漏れる。
「ご忠告どうも。以降気をつけるよ」
「いえ。こちらこそ差し出がましいことを申しました」
一見ごく穏やかに締めくくられる対話。
だが人物観察に長けたサイの目には、全く違う光景が見えていた。
――女狐め。
葛西の双眸に炎が灯る。
――狸が。
アイの無表情に、ミクロン単位の強張りがちらつく。
アイの無表情に、ミクロン単位の強張りがちらつく。
やれやれとサイは内心息をつく。
部下をまとめて従わせるとは、何と面倒であることか。
部下をまとめて従わせるとは、何と面倒であることか。
「話が逸れてしまいましたね。続けましょう」
硬化した空気を振り払うように、アイが告げた。
「……複数のルートから捕捉を試みてはいますが、やはり目撃情報が一切ない現状、不安は拭えません。
手を回した各方面とはまた別に、こちらでも捜索を行います」
人海戦術を得意とする国家権力には、勿論それなりの強みがあるが、≪我鬼≫に関する前提情報の欠落は、
多かれ少なかれ捜査に遅延をもたらすことが予想される。あえてある程度の『エサ』を撒いて早期の捕捉を
うながすことも考えたが、あまりに情報を与えすぎるのも困り者だ。いざ虎を箱にしようという段で
横槍が入る事態は避けたかった。
アイが昨晩会ってきた密輸業者の兄弟も含めて、社会の『裏』の方面でも数ルート確保しているが、
こちらもこちらで色々と限界はある。
念には念を。いかなる事態においても保険をかけておくことは忘れない。この女のこうした慎重さは、
何かにつけて粗雑なサイとは好対称をなしていた。
「捜索って、具体的にはどうやんの?」
「ここに至るまでの≪我鬼≫の行動パターンを分析し、それに事前の調査で入手した情報、更には
『笑顔』の早坂久宜から得られた情報を加味して、≪我鬼≫が向かう可能性が高いと思われる場所を
集中的に洗っていきます。たとえば」
スペースキーを押すアイの指。
壁に映し出された巨大な地図。そこに点滅する赤い点に、濃いブルーの色彩が十数個加わった。
「河や貯水池、プールなど、一定水量以上の水場をピックアップしたものです。なお基準とした水量は――」
「細かい数字はどうでもいいからパス。それより何で水場?」
言葉を中途で遮られても、不快な様子ひとつ見せずアイは答えた。
「アムール虎は一般的には水を好む習性があると言われています。泳ぎも達者ですし、水中でも
狩りを行います。そもそもこの亜種の名前自体、アムール川流域に棲息することからつけられた
ものですから」
「……ふうん?」
「≪我鬼≫はあらゆる意味で一般的なアムール虎の枠をはみ出た個体です。何から何までこの亜種の
習性が当てはまるわけではないでしょう。ですが、分析のさい一要素として加味する分には充分に
有用かと。現に今までの≪我鬼≫の出現ポイントから半径三キロメートル圏内には、必ず大量の水が
存在しています」
赤い光の傍らに、伴侶のように寄り添う青い点。
偶然と一笑にふすのは簡単である。だが、それがどんなものであろうと、僅かでも可能性があるなら
手段を問わず迷わず求めるのがアイという女だ。
「もちろん、これだけでは漠然としすぎていますが……他に判明している要素を加えて絞り込んでいけば、
出現可能性の高いポイントを割り出すことは不可能ではないでしょう」
へえ、と声を上げてサイは腕を組んだ。
決して派手ではないが、地道で精密なアイの分析。これに警察による数にものを言わせた捜査と、
社会の裏を這いずり回る者たちの違法な情報の力を合わせれば、超常の力を持つあの虎の捜索も、
決して難しくはないに違いない。
「いいねいいね、だんだんテンション上がってきたよ。やっぱり俺あんたの中身が見たいな」
「お褒めいただき恐縮の至りですが、それはあなたの正体が見つかってからです」
どさくさに紛れて伸びてきたサイの手を、アイは礼を失しないぎりぎりの冷淡さで振り払った。
サイは幼児のようにむくれ、椅子に腰かけたまま両手足をばたつかせる。葛西が注ぐ迷惑そうな
視線も気にせず、テーブルを叩き床を蹴って見たい見たい見たいと繰り返す。
硬化した空気を振り払うように、アイが告げた。
「……複数のルートから捕捉を試みてはいますが、やはり目撃情報が一切ない現状、不安は拭えません。
手を回した各方面とはまた別に、こちらでも捜索を行います」
人海戦術を得意とする国家権力には、勿論それなりの強みがあるが、≪我鬼≫に関する前提情報の欠落は、
多かれ少なかれ捜査に遅延をもたらすことが予想される。あえてある程度の『エサ』を撒いて早期の捕捉を
うながすことも考えたが、あまりに情報を与えすぎるのも困り者だ。いざ虎を箱にしようという段で
横槍が入る事態は避けたかった。
アイが昨晩会ってきた密輸業者の兄弟も含めて、社会の『裏』の方面でも数ルート確保しているが、
こちらもこちらで色々と限界はある。
念には念を。いかなる事態においても保険をかけておくことは忘れない。この女のこうした慎重さは、
何かにつけて粗雑なサイとは好対称をなしていた。
「捜索って、具体的にはどうやんの?」
「ここに至るまでの≪我鬼≫の行動パターンを分析し、それに事前の調査で入手した情報、更には
『笑顔』の早坂久宜から得られた情報を加味して、≪我鬼≫が向かう可能性が高いと思われる場所を
集中的に洗っていきます。たとえば」
スペースキーを押すアイの指。
壁に映し出された巨大な地図。そこに点滅する赤い点に、濃いブルーの色彩が十数個加わった。
「河や貯水池、プールなど、一定水量以上の水場をピックアップしたものです。なお基準とした水量は――」
「細かい数字はどうでもいいからパス。それより何で水場?」
言葉を中途で遮られても、不快な様子ひとつ見せずアイは答えた。
「アムール虎は一般的には水を好む習性があると言われています。泳ぎも達者ですし、水中でも
狩りを行います。そもそもこの亜種の名前自体、アムール川流域に棲息することからつけられた
ものですから」
「……ふうん?」
「≪我鬼≫はあらゆる意味で一般的なアムール虎の枠をはみ出た個体です。何から何までこの亜種の
習性が当てはまるわけではないでしょう。ですが、分析のさい一要素として加味する分には充分に
有用かと。現に今までの≪我鬼≫の出現ポイントから半径三キロメートル圏内には、必ず大量の水が
存在しています」
赤い光の傍らに、伴侶のように寄り添う青い点。
偶然と一笑にふすのは簡単である。だが、それがどんなものであろうと、僅かでも可能性があるなら
手段を問わず迷わず求めるのがアイという女だ。
「もちろん、これだけでは漠然としすぎていますが……他に判明している要素を加えて絞り込んでいけば、
出現可能性の高いポイントを割り出すことは不可能ではないでしょう」
へえ、と声を上げてサイは腕を組んだ。
決して派手ではないが、地道で精密なアイの分析。これに警察による数にものを言わせた捜査と、
社会の裏を這いずり回る者たちの違法な情報の力を合わせれば、超常の力を持つあの虎の捜索も、
決して難しくはないに違いない。
「いいねいいね、だんだんテンション上がってきたよ。やっぱり俺あんたの中身が見たいな」
「お褒めいただき恐縮の至りですが、それはあなたの正体が見つかってからです」
どさくさに紛れて伸びてきたサイの手を、アイは礼を失しないぎりぎりの冷淡さで振り払った。
サイは幼児のようにむくれ、椅子に腰かけたまま両手足をばたつかせる。葛西が注ぐ迷惑そうな
視線も気にせず、テーブルを叩き床を蹴って見たい見たい見たいと繰り返す。
「………………」
作戦会議という雰囲気からは程遠くなった場で、蛭だけが一人眉をひそめていた。
広い眉間には、戸惑いを示す深い皺が寄っていた。
作戦会議という雰囲気からは程遠くなった場で、蛭だけが一人眉をひそめていた。
広い眉間には、戸惑いを示す深い皺が寄っていた。