早坂久宜のもとに一通のメールが届いたのは、今から二十九時間前のことである。
≪件名:虎の件
差出人:???
内容:
有限会社笑顔
代表取締役 早坂久宜様
先日より新聞紙上で報道されている連続大量虐殺について、お話したいことがございます。
○月×日AM2:00、△△埠頭十一番倉庫にてお待ちしております。≫
差出人:???
内容:
有限会社笑顔
代表取締役 早坂久宜様
先日より新聞紙上で報道されている連続大量虐殺について、お話したいことがございます。
○月×日AM2:00、△△埠頭十一番倉庫にてお待ちしております。≫
奇妙なメールだった。差出人名は文字化けしていて読めず、表題には虎の件とありながら、肝心の
文面には虎のトの字も出て来ない。アポイントを取ろうとするでもなく一方的に要求をつきつけ、
勝手に話を終わらせてしまっている。
通常なら迷惑メール、もしくは愉快犯的な悪戯メールとして即削除していただろう。
それを実行しなかったのは――
『ユキ』
組んだ手の上に顎を乗せながら、早坂は弟の愛称を呼んだ。
『例の逃げ出したあれの件、万が一にも外部に情報が漏れるような手抜かりはなかったはずだな』
『? いつもの通りだぜ兄貴』
十四歳年下の弟は、兄の反応を訝しむように振り返った。
『確かにイレギュラーな事故だったが、船員は全員死んじまったって話だし、まさか「あれ」が俺らのこと喋るわけもなし、
それとこれとは別の問題だろ。消えちまったままなかなか見つからないのには参るが……どうした、何かあったのか?』
『いや』
サングラスの縁を指の先で押し上げながら、呻く。
このごく短いメールには、早坂たち兄弟を除けば彼らの取引相手、そしてビジネスの過程で関わった
ごく少数の人間しか知りえないはずの情報が含まれていた。相手がそのどちらであったとしても、
こんな紛らわしいメールなど送っては来ないはずだった。
取引相手ではない。その他関係者でもない。ならこのメールの差出人はどのようにしてこの事実を知ったのか。
心臓を冷たいもので撫でられた気がした。煙草のヤニで味付けされた唾液を飲み込んだとき、メールに
ファイルが添付されていることに気がついた。
ファイル名は『無題』。拡張式はXLS。
逡巡は長かった。カーソルを合わせてクリックする、ただそれだけの作業に二十秒近い時間を要した。
『開く』と『保存』で『開く』を選択。ウィン、とパソコンが唸り、見慣れた格子模様の画面が現れる。
そこに記載された内容を目にした瞬間、早坂は自分がこのメールの要求に従わざるを得ないことを知った。
「お前かね? 私をここに呼び出したのは」
結果として彼は今、あのメールが指定した通りの場所に立っている。
最近冷え込んだ景気を受けてか、倉庫内にコンテナはほとんどなかった。輸出すればするほど赤字が
増えるこのご時勢では、まあ無理もない。天井に据え付けられた巨大なクレーンが、寂しそうにこちらを
見下ろしている。
四○×八×八フィートのコンテナは、ひい、ふう。二つ。
並べて置かれたコンテナの隙間から、細く長い影が伸びていた。
はっきりしない明かりに照らされて床に落ちる、うすぼんやりと幽かで不安定な影。
それに向かって早坂は呼びかける。
「ビジネスにはそれなりのマナーというものがあるんだよ。我々のような裏稼業であっても同じことだ。
困るね、それを無視してこのような真似をされては」
影はぴくりとも動かない。倉庫内の薄黄色の光を浴びてただ立っているだけだ。
言葉を紡ぎながら早坂は相手との距離、そして間に挟んだ障害物について考えていた。どこから
どうやって近づけば、この相手に対して優位に立てるだろう。愛用の銃でこめかみに銃弾を埋め込んで
やるには、どれほど距離を詰めるのが上策だろう。
「いつまでも隠れていないで出てきてはどうだね」
あくまで紳士的な口調でそう告げたとき、影が動いた。
「不躾な手段でお呼び立てしてしまったことを、まずはお詫び致します」
響いた声と現れた本体に、早坂は思わず息を呑んだ。頭の中に漠然とあったイメージと、あまりにも
かけ離れていたからだ。
女。それも、まだ若い。照明のほの暗さでつまびらかではないが、三十を越えているとはとても
思われない。無骨なコンテナに挟まれて立つ様など、いっそ不似合いに思えるほどだ。
いかにも狡猾な男を想像していた早坂は、ここで出鼻をくじかれた形になった。間髪入れずつきつける
つもりだった銃口を、相手に向けるタイミングを逸してしまった。
「私は『アイ』。訳あって名前はお出しできませんが、ある方にお仕えしております。本日は主人の代理
人として、あなたがたにお願いがあって参りました」
夜の色をした瞳に、怜悧な光が輝いていた。
暴力と狡知が支配する裏社会は、基本的には男の世界だ。全く例外がないとは言い切れないが、
根本部分がそのような構造になっている。その裏社会に身を置く早坂も当然、そんな殺伐とした男の
世界に生きており、女性と関わる機会は稀だ。たまに商品として扱うか、気が向いたときその手の店に
足を運ぶ、せいぜいその程度。
今早坂の目の前に立っているこの女は、早坂にはまるで馴染みのないタイプだった。プライベートで
彼が見慣れた、男に酒を飲ませるのが生業の女たちと違い、『崩れた』ところがどこにもなかった。
全身どこを見ても隙がなく、磨かれたナイフのような雰囲気を纏わせる。化粧は酒場の女たちより
よほど薄いのに、面立ちははるかに整っている。ぱっと目を惹く華やかさこそないものの、どこに
出しても一定の評価は得られるだろう美貌。そこに秘められているのは静謐な剣呑さだ。
「お願いだと?」
「はい。中国奥地で捕獲され、この国に密輸入されるはずだった虎――あなたが≪我鬼≫と名づけた存在について」
ぴりっと、空気に緊張が走った。
といっても、女の表情は変わらない。唇に貼りついた早坂の笑みが、小さく引きつったのが原因だった。
予想はついていたことだが、やはり体が強張るのは止められない。
「勝手ながら調べさせていただきました。あの虎の密輸を手引きしたのはあなたがたですね。船籍は
フィリピン、船員もほぼ全て向こうの人間でしたが、事実上のあの船の所有者は早坂久宜、あなたです。
虎は逃亡し、他の積荷は全て海の底。なお計算させていただきましたが損失は……」
「ああ、そうだよ」
今更否定しても仕方があるまい。現在都内に人知れず潜伏し、夜ごとに甚大な被害をもたらしている
あの虎は、早坂たちが依頼人の求めで日本国内に持ち込もうとしたものだ。
ジャキン、と音が響いた。
セーフティを外した銃を、その黒々とした銃口を、早坂は女につきつけていた。
「あの事件のあと、クライアントが怯えて連絡してきてね。取引は急遽ご破算になってしまったよ。
やれやれ、せっかく苦労して手に入れてきたというのに」
「そう。取引は完全に白紙に戻った」
と、また女が言った。怯えた様子ひとつなく。
「にも関わらずあなたがたは未だに、逃げた虎の捜索を続けている。なぜです?」
たぁん、と銃声が響いた。
弾は一〇〇メートルに迫る弾速で、女の顔の脇をかすめた。長い髪が数本はらはらと散った。
もう数センチ弾が脇に逸れていたら、整った顔に穴が空いていたはずだ。しかし女は眉ひとつ動かさず、
そよ風にでも吹かれたかのごとく問いの続きを口にした。
「続けたところで一文の得にもなりはしない捜索を、なぜ? よろしければ教えてはいただけませんか」
「それがさっき言った『お願い』とやらかね?」
「厳密には違いますが」
さらりと、女。
「お答えによっては、私の主人があなたに興味を持たれるかもしれません」
「興味、か」
早坂はクックッと声を立てて笑った。
「あんな脅迫めいたメールを送りつけてきて『興味』とは笑わせる」
「脅迫と取れる文言を書いた覚えはありませんが」
「そらっとぼけるな。――あの添付ファイルの話だよ」
ファイル名は無題、拡張式はXLSのあのファイル。
中身は帳簿だった。有限会社笑顔創業から今現在まで、表裏を問わず全ての顧客を記したものだった。
扱った商品やその価格に至るまで、微に入り細に渡った内容。表沙汰になれば比喩でなしに早坂の首が危ういものも含めて。
それが脅迫でないとは言わせない。
「解釈は人それぞれですね」
図々しいまでの無表情で、女は答えた。
「それよりまだ回答はいただけないのですか。あなたがたが虎の行方を追っている理由は」
「どうしても今ここで言う必要があることかね? お嬢さん」
責任を感じた、と言ってしまえば大仰になる。
社会の裏で扱うべき商品が誤って表に流出し、好き勝手に暴れて世界のバランスを崩している。
あの虎一頭が撒き散らす破壊は、表社会に未曾有の混乱と破綻を産むだろう。一連のカオスは当然、
表があってこそ存在しえている裏側にも及ぶ。
いわゆる浪花節でいうところの『落とし前をつける』という感覚。それを七割増しばかり打算的に
すれば、今の早坂の心理になる。
どこの回し者とも知れぬこの女にそんな内面を吐露するほど、彼は無防備ではない。
にべもない早坂の反応に、女は素早く見切りをつけたらしかった。
「ではこの質問はまたのちほど改めてお尋ねします。ビジネスの話に戻りましょう」
白く細い手がひらめいた。
何を――?
身を固くしたその瞬間、きらりと、女の手のひらの中できらめくものがあった。
スイッチ。ごく小さな。
ガコンという鈍い音が耳に響く。一つではない、複数の重たい何かが動き、軋む音が。
とっさに周囲に視線を走らせ、早坂は息を呑んだ。
「早坂久宜。私はあなたがたに、≪我鬼≫の捕捉を依頼します」
巨大なコンテナが二つとも開いていた。
中に隙間なく詰められていたのは、頼りない光の下で燦然と輝く、金塊の山だった。
文面には虎のトの字も出て来ない。アポイントを取ろうとするでもなく一方的に要求をつきつけ、
勝手に話を終わらせてしまっている。
通常なら迷惑メール、もしくは愉快犯的な悪戯メールとして即削除していただろう。
それを実行しなかったのは――
『ユキ』
組んだ手の上に顎を乗せながら、早坂は弟の愛称を呼んだ。
『例の逃げ出したあれの件、万が一にも外部に情報が漏れるような手抜かりはなかったはずだな』
『? いつもの通りだぜ兄貴』
十四歳年下の弟は、兄の反応を訝しむように振り返った。
『確かにイレギュラーな事故だったが、船員は全員死んじまったって話だし、まさか「あれ」が俺らのこと喋るわけもなし、
それとこれとは別の問題だろ。消えちまったままなかなか見つからないのには参るが……どうした、何かあったのか?』
『いや』
サングラスの縁を指の先で押し上げながら、呻く。
このごく短いメールには、早坂たち兄弟を除けば彼らの取引相手、そしてビジネスの過程で関わった
ごく少数の人間しか知りえないはずの情報が含まれていた。相手がそのどちらであったとしても、
こんな紛らわしいメールなど送っては来ないはずだった。
取引相手ではない。その他関係者でもない。ならこのメールの差出人はどのようにしてこの事実を知ったのか。
心臓を冷たいもので撫でられた気がした。煙草のヤニで味付けされた唾液を飲み込んだとき、メールに
ファイルが添付されていることに気がついた。
ファイル名は『無題』。拡張式はXLS。
逡巡は長かった。カーソルを合わせてクリックする、ただそれだけの作業に二十秒近い時間を要した。
『開く』と『保存』で『開く』を選択。ウィン、とパソコンが唸り、見慣れた格子模様の画面が現れる。
そこに記載された内容を目にした瞬間、早坂は自分がこのメールの要求に従わざるを得ないことを知った。
「お前かね? 私をここに呼び出したのは」
結果として彼は今、あのメールが指定した通りの場所に立っている。
最近冷え込んだ景気を受けてか、倉庫内にコンテナはほとんどなかった。輸出すればするほど赤字が
増えるこのご時勢では、まあ無理もない。天井に据え付けられた巨大なクレーンが、寂しそうにこちらを
見下ろしている。
四○×八×八フィートのコンテナは、ひい、ふう。二つ。
並べて置かれたコンテナの隙間から、細く長い影が伸びていた。
はっきりしない明かりに照らされて床に落ちる、うすぼんやりと幽かで不安定な影。
それに向かって早坂は呼びかける。
「ビジネスにはそれなりのマナーというものがあるんだよ。我々のような裏稼業であっても同じことだ。
困るね、それを無視してこのような真似をされては」
影はぴくりとも動かない。倉庫内の薄黄色の光を浴びてただ立っているだけだ。
言葉を紡ぎながら早坂は相手との距離、そして間に挟んだ障害物について考えていた。どこから
どうやって近づけば、この相手に対して優位に立てるだろう。愛用の銃でこめかみに銃弾を埋め込んで
やるには、どれほど距離を詰めるのが上策だろう。
「いつまでも隠れていないで出てきてはどうだね」
あくまで紳士的な口調でそう告げたとき、影が動いた。
「不躾な手段でお呼び立てしてしまったことを、まずはお詫び致します」
響いた声と現れた本体に、早坂は思わず息を呑んだ。頭の中に漠然とあったイメージと、あまりにも
かけ離れていたからだ。
女。それも、まだ若い。照明のほの暗さでつまびらかではないが、三十を越えているとはとても
思われない。無骨なコンテナに挟まれて立つ様など、いっそ不似合いに思えるほどだ。
いかにも狡猾な男を想像していた早坂は、ここで出鼻をくじかれた形になった。間髪入れずつきつける
つもりだった銃口を、相手に向けるタイミングを逸してしまった。
「私は『アイ』。訳あって名前はお出しできませんが、ある方にお仕えしております。本日は主人の代理
人として、あなたがたにお願いがあって参りました」
夜の色をした瞳に、怜悧な光が輝いていた。
暴力と狡知が支配する裏社会は、基本的には男の世界だ。全く例外がないとは言い切れないが、
根本部分がそのような構造になっている。その裏社会に身を置く早坂も当然、そんな殺伐とした男の
世界に生きており、女性と関わる機会は稀だ。たまに商品として扱うか、気が向いたときその手の店に
足を運ぶ、せいぜいその程度。
今早坂の目の前に立っているこの女は、早坂にはまるで馴染みのないタイプだった。プライベートで
彼が見慣れた、男に酒を飲ませるのが生業の女たちと違い、『崩れた』ところがどこにもなかった。
全身どこを見ても隙がなく、磨かれたナイフのような雰囲気を纏わせる。化粧は酒場の女たちより
よほど薄いのに、面立ちははるかに整っている。ぱっと目を惹く華やかさこそないものの、どこに
出しても一定の評価は得られるだろう美貌。そこに秘められているのは静謐な剣呑さだ。
「お願いだと?」
「はい。中国奥地で捕獲され、この国に密輸入されるはずだった虎――あなたが≪我鬼≫と名づけた存在について」
ぴりっと、空気に緊張が走った。
といっても、女の表情は変わらない。唇に貼りついた早坂の笑みが、小さく引きつったのが原因だった。
予想はついていたことだが、やはり体が強張るのは止められない。
「勝手ながら調べさせていただきました。あの虎の密輸を手引きしたのはあなたがたですね。船籍は
フィリピン、船員もほぼ全て向こうの人間でしたが、事実上のあの船の所有者は早坂久宜、あなたです。
虎は逃亡し、他の積荷は全て海の底。なお計算させていただきましたが損失は……」
「ああ、そうだよ」
今更否定しても仕方があるまい。現在都内に人知れず潜伏し、夜ごとに甚大な被害をもたらしている
あの虎は、早坂たちが依頼人の求めで日本国内に持ち込もうとしたものだ。
ジャキン、と音が響いた。
セーフティを外した銃を、その黒々とした銃口を、早坂は女につきつけていた。
「あの事件のあと、クライアントが怯えて連絡してきてね。取引は急遽ご破算になってしまったよ。
やれやれ、せっかく苦労して手に入れてきたというのに」
「そう。取引は完全に白紙に戻った」
と、また女が言った。怯えた様子ひとつなく。
「にも関わらずあなたがたは未だに、逃げた虎の捜索を続けている。なぜです?」
たぁん、と銃声が響いた。
弾は一〇〇メートルに迫る弾速で、女の顔の脇をかすめた。長い髪が数本はらはらと散った。
もう数センチ弾が脇に逸れていたら、整った顔に穴が空いていたはずだ。しかし女は眉ひとつ動かさず、
そよ風にでも吹かれたかのごとく問いの続きを口にした。
「続けたところで一文の得にもなりはしない捜索を、なぜ? よろしければ教えてはいただけませんか」
「それがさっき言った『お願い』とやらかね?」
「厳密には違いますが」
さらりと、女。
「お答えによっては、私の主人があなたに興味を持たれるかもしれません」
「興味、か」
早坂はクックッと声を立てて笑った。
「あんな脅迫めいたメールを送りつけてきて『興味』とは笑わせる」
「脅迫と取れる文言を書いた覚えはありませんが」
「そらっとぼけるな。――あの添付ファイルの話だよ」
ファイル名は無題、拡張式はXLSのあのファイル。
中身は帳簿だった。有限会社笑顔創業から今現在まで、表裏を問わず全ての顧客を記したものだった。
扱った商品やその価格に至るまで、微に入り細に渡った内容。表沙汰になれば比喩でなしに早坂の首が危ういものも含めて。
それが脅迫でないとは言わせない。
「解釈は人それぞれですね」
図々しいまでの無表情で、女は答えた。
「それよりまだ回答はいただけないのですか。あなたがたが虎の行方を追っている理由は」
「どうしても今ここで言う必要があることかね? お嬢さん」
責任を感じた、と言ってしまえば大仰になる。
社会の裏で扱うべき商品が誤って表に流出し、好き勝手に暴れて世界のバランスを崩している。
あの虎一頭が撒き散らす破壊は、表社会に未曾有の混乱と破綻を産むだろう。一連のカオスは当然、
表があってこそ存在しえている裏側にも及ぶ。
いわゆる浪花節でいうところの『落とし前をつける』という感覚。それを七割増しばかり打算的に
すれば、今の早坂の心理になる。
どこの回し者とも知れぬこの女にそんな内面を吐露するほど、彼は無防備ではない。
にべもない早坂の反応に、女は素早く見切りをつけたらしかった。
「ではこの質問はまたのちほど改めてお尋ねします。ビジネスの話に戻りましょう」
白く細い手がひらめいた。
何を――?
身を固くしたその瞬間、きらりと、女の手のひらの中できらめくものがあった。
スイッチ。ごく小さな。
ガコンという鈍い音が耳に響く。一つではない、複数の重たい何かが動き、軋む音が。
とっさに周囲に視線を走らせ、早坂は息を呑んだ。
「早坂久宜。私はあなたがたに、≪我鬼≫の捕捉を依頼します」
巨大なコンテナが二つとも開いていた。
中に隙間なく詰められていたのは、頼りない光の下で燦然と輝く、金塊の山だった。
透き通ったアクリルのシャッターの向こう側で、殺菌灯がほの青い光を放っている。
クリーンベンチ。組織培養における無菌操作のための装置だ。やや横長の台がひとつに、それをカバー
する屋根。前方・左右には三面の壁。机の向こう側に空気の噴出し口とフィルターがついており、そこから
精密濾過膜を通した清浄な空気を、作業スペースに向けて噴きつけるという構造である。
水色の無菌衣に身を包んだ蛭は、シャッターを持ち上げ、台の上のシャーレに手を伸ばした。
健康的に日焼けした指は、半透明の無菌手袋に包まれている。取り上げたシャーレを殺菌灯に透かす。
まつげの短い彼のまぶたがライトの紫外線に瞬くのを、サイは無菌室の窓越しに眺めた。
十メートル以上の距離がある。ましてや今の蛭は頭まで包み込む無菌衣を身にまとい、白いマスクと
ゴーグルでで顔を覆っていた。この条件で彼を彼と判別するのは、恐らく近しい知り合いでも不可能に近い。
長年にわたり観察を続け、その力を強化してきたサイだからこそできることだった。
「解析担当ですか、奴ぁ」
「うん。≪我鬼≫の細胞のね。警察が現場から回収した奴をくすねてきてもらったんだ。さすがに俺でも、
断片だけじゃ中身は分からないからね」
葛西の言葉にサイは頷いた。
「普段ならアイにやってもらうんだけど、今回あの女には色々他に任せたいことがあるんだよね。
いくら有能でも体は一つしかないんだし全部こなすのは無理でしょ。だから蛭に来てもらったって訳」
「意外ですね、あの若造にそんな芸があったとは。あいつの本分は確かコロシじゃありませんでしたっけ?」
今のサイが煙草を吸わないため、この部屋には灰皿が置かれていない。携帯用アッシュトレイなどと
いう時流に合ったものは持ち合わせていないらしく、葛西はオレンジ色に燃える煙草の先を壁に
押しつけた。蛍火のような火はジジッと耳障りな音を立て、黒く円い焦げ痕を残して消えた。
「田舎から出てきていじめられて、堪忍袋の尾が切れていじめっ子連中を片っ端から殺って回ったって
聞いてますが。『溶解仮面』なんてご大層な名前までついてましたね。あれはアリクイの仮面かぶって
たせいでしたっけ?」
「アリクイじゃなくて狐だって本人は言い張ってたよ。――そうだね蛭のことよく知らないとちょっと
意外かもね。あいつ結構ケミとかバイオとか得意なんだよ。アイもその手の仕事で手が足りないときは、
よくあいつを助手として使ってるくらい」
殺人鬼『溶解仮面』。
かつて教育現場崩壊の象徴として世間を騒がせた事件の犯人は、結局証拠不充分で逮捕には至らなかった。
週刊誌やワイドショーに『残虐無比』と評されたその殺害方法とは、相手を動けなくしておいて、顔面に
強力な消化液をひたすら垂らすというものだった。
当時高校生だった蛭は、凶器である消化液を全て自分で精製していた。化学・生物方面でのその才能は今、
たゆまぬ努力で培った高い知能とともに、主であるサイのために捧げられている。数多いる協力者たちの
中でも指折りの厚い忠義を以って。
「図画工作のセンスはゼロに等しいけど、それはそれとしてなかなか役に立ってくれる可愛い奴だよ。
サイ、サイ、サイって何かと慕われるのはそんなに悪い気分じゃないし、アイと違って喜怒哀楽が
ちゃんとあるから、弄って遊んでもそこそこ楽しいしね」
くすり、とサイは笑みを漏らした。
「葛西、あんたとはまるで違うタイプの人間さ」
「何でそこでわざわざ俺と比較するんです?」
「別にぃー。単なる気まぐれだよ……深い意味なんてない」
肩をすくめるサイに放火魔は、皺の寄った口元を吊り上げる。
それは苦笑のようでもあり、皮肉を込めた笑いのようでもあった。
放火は俗に臆病者の犯罪とされるが、この男の目元には、罪状から連想される卑小なイメージは微塵もない。
ベースボールキャップの鍔の影でぎらつく瞳は、観察に長けたサイの眼力をもってしても読みきれぬ深さと闇を秘めている。
「……あんたには現場のほうで、実働部隊として俺のサポートをやってもらおうと思ってる」
サイは胸の前で腕を組んだ。
「あんたの火を扱う技術は卓越してる。いっそ人間離れしてるって言い替えてもいい。その知識と経験、
俺のために存分に役に立ててもらうよ」
「言われなくてもそのつもりですよ」
ニヤついた笑みを浮かべたまま、葛西は火の消えた煙草を指でもてあそぶ。茶色い中身をはみ出させて
煙草は潰れ、繊維の切れ端がはらはらと舞い落ちる。
「専門は人間と建物で、虎は一度も燃やしたことないだろうけど、まあ大して違いがあるもんでもない
でしょ。頑張ってよ」
「ええまあ、できる範囲で期待には応えますよ」
「よろしく。あっでも全部燃やしちゃ駄目だよ。目的は中身を見ることなんだから、焼き加減はせいぜい
レアぐらいに留めといてもらわないと」
「そいつぁなかなか難しい注文ですぜ。でもまあ……」
努力はしますよ。
付け加えられた言葉には、控えめな台詞とは裏腹に確かな自信が感じられた。
一歩間違えば慢心となりかねない自信。紙一重のところでそのバランスを取っているのは、本人が
閲してきた年月の重みと、驚異的なまでに理性に満ちた悪意である。
己が脳の力を知り尽くし、長きに渡り積み重ねた経験でそれを補強し、犯罪者として悪逆の限りを
尽くしてきた男がここにいる。
――そう、それでいい。
サイは胸中で呟いた。
――だからこそ、俺はあんたを仲間に引き入れた。
クリーンベンチ。組織培養における無菌操作のための装置だ。やや横長の台がひとつに、それをカバー
する屋根。前方・左右には三面の壁。机の向こう側に空気の噴出し口とフィルターがついており、そこから
精密濾過膜を通した清浄な空気を、作業スペースに向けて噴きつけるという構造である。
水色の無菌衣に身を包んだ蛭は、シャッターを持ち上げ、台の上のシャーレに手を伸ばした。
健康的に日焼けした指は、半透明の無菌手袋に包まれている。取り上げたシャーレを殺菌灯に透かす。
まつげの短い彼のまぶたがライトの紫外線に瞬くのを、サイは無菌室の窓越しに眺めた。
十メートル以上の距離がある。ましてや今の蛭は頭まで包み込む無菌衣を身にまとい、白いマスクと
ゴーグルでで顔を覆っていた。この条件で彼を彼と判別するのは、恐らく近しい知り合いでも不可能に近い。
長年にわたり観察を続け、その力を強化してきたサイだからこそできることだった。
「解析担当ですか、奴ぁ」
「うん。≪我鬼≫の細胞のね。警察が現場から回収した奴をくすねてきてもらったんだ。さすがに俺でも、
断片だけじゃ中身は分からないからね」
葛西の言葉にサイは頷いた。
「普段ならアイにやってもらうんだけど、今回あの女には色々他に任せたいことがあるんだよね。
いくら有能でも体は一つしかないんだし全部こなすのは無理でしょ。だから蛭に来てもらったって訳」
「意外ですね、あの若造にそんな芸があったとは。あいつの本分は確かコロシじゃありませんでしたっけ?」
今のサイが煙草を吸わないため、この部屋には灰皿が置かれていない。携帯用アッシュトレイなどと
いう時流に合ったものは持ち合わせていないらしく、葛西はオレンジ色に燃える煙草の先を壁に
押しつけた。蛍火のような火はジジッと耳障りな音を立て、黒く円い焦げ痕を残して消えた。
「田舎から出てきていじめられて、堪忍袋の尾が切れていじめっ子連中を片っ端から殺って回ったって
聞いてますが。『溶解仮面』なんてご大層な名前までついてましたね。あれはアリクイの仮面かぶって
たせいでしたっけ?」
「アリクイじゃなくて狐だって本人は言い張ってたよ。――そうだね蛭のことよく知らないとちょっと
意外かもね。あいつ結構ケミとかバイオとか得意なんだよ。アイもその手の仕事で手が足りないときは、
よくあいつを助手として使ってるくらい」
殺人鬼『溶解仮面』。
かつて教育現場崩壊の象徴として世間を騒がせた事件の犯人は、結局証拠不充分で逮捕には至らなかった。
週刊誌やワイドショーに『残虐無比』と評されたその殺害方法とは、相手を動けなくしておいて、顔面に
強力な消化液をひたすら垂らすというものだった。
当時高校生だった蛭は、凶器である消化液を全て自分で精製していた。化学・生物方面でのその才能は今、
たゆまぬ努力で培った高い知能とともに、主であるサイのために捧げられている。数多いる協力者たちの
中でも指折りの厚い忠義を以って。
「図画工作のセンスはゼロに等しいけど、それはそれとしてなかなか役に立ってくれる可愛い奴だよ。
サイ、サイ、サイって何かと慕われるのはそんなに悪い気分じゃないし、アイと違って喜怒哀楽が
ちゃんとあるから、弄って遊んでもそこそこ楽しいしね」
くすり、とサイは笑みを漏らした。
「葛西、あんたとはまるで違うタイプの人間さ」
「何でそこでわざわざ俺と比較するんです?」
「別にぃー。単なる気まぐれだよ……深い意味なんてない」
肩をすくめるサイに放火魔は、皺の寄った口元を吊り上げる。
それは苦笑のようでもあり、皮肉を込めた笑いのようでもあった。
放火は俗に臆病者の犯罪とされるが、この男の目元には、罪状から連想される卑小なイメージは微塵もない。
ベースボールキャップの鍔の影でぎらつく瞳は、観察に長けたサイの眼力をもってしても読みきれぬ深さと闇を秘めている。
「……あんたには現場のほうで、実働部隊として俺のサポートをやってもらおうと思ってる」
サイは胸の前で腕を組んだ。
「あんたの火を扱う技術は卓越してる。いっそ人間離れしてるって言い替えてもいい。その知識と経験、
俺のために存分に役に立ててもらうよ」
「言われなくてもそのつもりですよ」
ニヤついた笑みを浮かべたまま、葛西は火の消えた煙草を指でもてあそぶ。茶色い中身をはみ出させて
煙草は潰れ、繊維の切れ端がはらはらと舞い落ちる。
「専門は人間と建物で、虎は一度も燃やしたことないだろうけど、まあ大して違いがあるもんでもない
でしょ。頑張ってよ」
「ええまあ、できる範囲で期待には応えますよ」
「よろしく。あっでも全部燃やしちゃ駄目だよ。目的は中身を見ることなんだから、焼き加減はせいぜい
レアぐらいに留めといてもらわないと」
「そいつぁなかなか難しい注文ですぜ。でもまあ……」
努力はしますよ。
付け加えられた言葉には、控えめな台詞とは裏腹に確かな自信が感じられた。
一歩間違えば慢心となりかねない自信。紙一重のところでそのバランスを取っているのは、本人が
閲してきた年月の重みと、驚異的なまでに理性に満ちた悪意である。
己が脳の力を知り尽くし、長きに渡り積み重ねた経験でそれを補強し、犯罪者として悪逆の限りを
尽くしてきた男がここにいる。
――そう、それでいい。
サイは胸中で呟いた。
――だからこそ、俺はあんたを仲間に引き入れた。
『葛西善二郎には不審な点が多くあります』
つい先月。この男を一味に誘うとき、サイに意見したのはアイだった。
『全国指名手配犯であることを差し引いたとしても、彼の経歴には穴が多すぎます。出入国も容易では
ないはずなのに、国内外での目撃情報が相当数、かつ一定の法則性をもって存在するのも解せません。
あなたに近づいた目的は不明ですが、背後になにがしかの組織が存在すると考えるのが妥当かと……』
彼女の注進を、サイは一笑にふした。
『心配しすぎなんだよ、あんたは』
『ですが』
『うるさいなあ、それとも何』
過保護な母親を見る目で答えた。
『この俺が、その程度のことでどうにかされるとでも思ってるの?』
『……………』
従者は黙ったまま返答を避けた。
つい先月。この男を一味に誘うとき、サイに意見したのはアイだった。
『全国指名手配犯であることを差し引いたとしても、彼の経歴には穴が多すぎます。出入国も容易では
ないはずなのに、国内外での目撃情報が相当数、かつ一定の法則性をもって存在するのも解せません。
あなたに近づいた目的は不明ですが、背後になにがしかの組織が存在すると考えるのが妥当かと……』
彼女の注進を、サイは一笑にふした。
『心配しすぎなんだよ、あんたは』
『ですが』
『うるさいなあ、それとも何』
過保護な母親を見る目で答えた。
『この俺が、その程度のことでどうにかされるとでも思ってるの?』
『……………』
従者は黙ったまま返答を避けた。
思考から現実に戻ってサイは葛西を見つめる。新しい煙草を取り出して咥え、シガーマッチで火を
つけながら解析中の蛭を見物する横顔は、それだけ見ればどこにでもいそうな四十過ぎの中年だ。
不審な点。
そんなものはどうでも良い。アイがどれほどこの男を警戒していようと、彼が実際腹の底で何を考えて
いようと、最終的に己の目的のためにプラスに働いてくれるならそれで構わない。
背後の、組織。
それもまたどうでも良いことだ。
どんな強大な集団が相手でも、一切問題にしない自信がサイにはあった。変異を続ける脳細胞は
記憶障害と引き換えに、ほぼ万能に等しい力を彼に与えてくれる。相手になりえるのはあの虎と、
例の謎喰いの魔人くらいなものだ。
――使いこなしてみせる、この男を。
――俺になら、俺の細胞になら、それが可能だ。
サイは唇の端を舐めた。
無菌室の窓の向こうでは蛭が、覗き込んだ顕微鏡を前にわずかに眉をひそめたところだった。
つけながら解析中の蛭を見物する横顔は、それだけ見ればどこにでもいそうな四十過ぎの中年だ。
不審な点。
そんなものはどうでも良い。アイがどれほどこの男を警戒していようと、彼が実際腹の底で何を考えて
いようと、最終的に己の目的のためにプラスに働いてくれるならそれで構わない。
背後の、組織。
それもまたどうでも良いことだ。
どんな強大な集団が相手でも、一切問題にしない自信がサイにはあった。変異を続ける脳細胞は
記憶障害と引き換えに、ほぼ万能に等しい力を彼に与えてくれる。相手になりえるのはあの虎と、
例の謎喰いの魔人くらいなものだ。
――使いこなしてみせる、この男を。
――俺になら、俺の細胞になら、それが可能だ。
サイは唇の端を舐めた。
無菌室の窓の向こうでは蛭が、覗き込んだ顕微鏡を前にわずかに眉をひそめたところだった。
サングラスの向こうで早坂の目が見開かれたのに、女は気づいたろうか。
国際規格のコンテナ二つに、びっちりと詰められた金塊。明かりが充分でないため判然としないが、
これが全て本物ならばまず数億円はくだらない。
「……思い出した。お前の顔には見覚えがある」
闇の色をした女の目には、いささかの変化もない。呼吸の有無さえ怪しく感じられるほどの無表情さだ。
早坂は呻いた。
「ICPOの国際手配書で見た顔だ。高額の懸賞金がおまえの首にかかっている。確か……五万ドルだったか」
「何のことでしょう。こんな平凡な顔の女などどこにでもいると思いますが」
しれっと、女。
白い顔に品よく並んだその目鼻立ちは、確かに早坂が記憶する賞金首のそれにぴたりと重なる。
ただし手配写真は数年前のもので、年月分のギャップは厳然と存在している。活動的なショートカットは
胸まで伸び、毛先を揃えられ二つ結びに。感情の見えない顔は昔も今も共通だが、手配写真の少女に
あった全てを拒むような両目の光は、彼の前に立つこの女にはない。もっと静謐で穏やかで、安定した
ものへと置き換わっていた。
「私がその賞金首だったと仮定して、一種の思考遊びを楽しんでみるのもあるいは一興かも知れませんが、
それで何がどうなるというものでもないでしょう。あなた自身、当局に叩かれればいくらでも埃が出る
ご身分のはず」
長袖から伸びた細い手が、コンテナからこぼれ出る黄金を指し示した。
「たかだか五万ドルのはした金と、これと。どちらが得か、わざわざ考えるまでもない分かりきった話では?」
「フン、生憎だな。前職の関係で警察には多少コネが残っていてね、おまえを通報した程度で捕まる心配はない。それに」
「それに?」
「おまえの態度が気に食わん」
これ以上ないほど率直に早坂は言い切った。
「目の前にエサをぶら下げておけば釣れると思っているようだが、我々の行動原理はそこまで単純では
ない。保身や好き嫌いや矜持が加わる。おまえたちが考えているより、裏の住人というのはそういった
要素を重要視するものでね」
引き金にかけた指に力がこもる。
女は自分を向く銃口を、興味のないCMを見るような顔で見つめる。
「おまえからは破壊者の匂いがする。悪党は悪党でも我々とは違う、表と裏で保たれている世界の
バランスを……いや世界そのものを叩き壊す悪党だ」
「非論理的で理解しがたいですが、どうやら失敬なことを言われているようですね」
「敬意は安売りしないことにしているんだよ。ここぞというときに安っぽく感じるだろう?」
国際規格のコンテナ二つに、びっちりと詰められた金塊。明かりが充分でないため判然としないが、
これが全て本物ならばまず数億円はくだらない。
「……思い出した。お前の顔には見覚えがある」
闇の色をした女の目には、いささかの変化もない。呼吸の有無さえ怪しく感じられるほどの無表情さだ。
早坂は呻いた。
「ICPOの国際手配書で見た顔だ。高額の懸賞金がおまえの首にかかっている。確か……五万ドルだったか」
「何のことでしょう。こんな平凡な顔の女などどこにでもいると思いますが」
しれっと、女。
白い顔に品よく並んだその目鼻立ちは、確かに早坂が記憶する賞金首のそれにぴたりと重なる。
ただし手配写真は数年前のもので、年月分のギャップは厳然と存在している。活動的なショートカットは
胸まで伸び、毛先を揃えられ二つ結びに。感情の見えない顔は昔も今も共通だが、手配写真の少女に
あった全てを拒むような両目の光は、彼の前に立つこの女にはない。もっと静謐で穏やかで、安定した
ものへと置き換わっていた。
「私がその賞金首だったと仮定して、一種の思考遊びを楽しんでみるのもあるいは一興かも知れませんが、
それで何がどうなるというものでもないでしょう。あなた自身、当局に叩かれればいくらでも埃が出る
ご身分のはず」
長袖から伸びた細い手が、コンテナからこぼれ出る黄金を指し示した。
「たかだか五万ドルのはした金と、これと。どちらが得か、わざわざ考えるまでもない分かりきった話では?」
「フン、生憎だな。前職の関係で警察には多少コネが残っていてね、おまえを通報した程度で捕まる心配はない。それに」
「それに?」
「おまえの態度が気に食わん」
これ以上ないほど率直に早坂は言い切った。
「目の前にエサをぶら下げておけば釣れると思っているようだが、我々の行動原理はそこまで単純では
ない。保身や好き嫌いや矜持が加わる。おまえたちが考えているより、裏の住人というのはそういった
要素を重要視するものでね」
引き金にかけた指に力がこもる。
女は自分を向く銃口を、興味のないCMを見るような顔で見つめる。
「おまえからは破壊者の匂いがする。悪党は悪党でも我々とは違う、表と裏で保たれている世界の
バランスを……いや世界そのものを叩き壊す悪党だ」
「非論理的で理解しがたいですが、どうやら失敬なことを言われているようですね」
「敬意は安売りしないことにしているんだよ。ここぞというときに安っぽく感じるだろう?」
銃声は言い終えるより早く響いた。
閃光のように疾る銃弾を、数センチの際どさで女は避けた。鋼鉄の箱が弾丸を跳ね返し、ピンボールの
効果音のような音を立てた。
「ユキッ!」
早坂は弟の名を呼んだ。
閃光のように疾る銃弾を、数センチの際どさで女は避けた。鋼鉄の箱が弾丸を跳ね返し、ピンボールの
効果音のような音を立てた。
「ユキッ!」
早坂は弟の名を呼んだ。
倉庫の窓が割り砕かれた。
きらめきながら迸る破片。外で待機していたユキが飛び込んでくる。
間髪入れず早坂は撃った。女の細い喉をめがけ、弾丸を雹のように降りそそがせる。
身を低めて銃撃をやりすごし、女はスカートに手を伸ばした。
一瞬覗く眩しい太腿。
引き抜かれるのは二挺の拳銃。
セーフティは既に外されている。
銃口が火を噴いた。
熱が一閃、早坂の頬をかすめた。
にじむ血を確認する暇はない。直感と本能で狙いを定め、一気にトリガーを引き絞る。
連射とともに壁に穴が空いていく。
きらめきながら迸る破片。外で待機していたユキが飛び込んでくる。
間髪入れず早坂は撃った。女の細い喉をめがけ、弾丸を雹のように降りそそがせる。
身を低めて銃撃をやりすごし、女はスカートに手を伸ばした。
一瞬覗く眩しい太腿。
引き抜かれるのは二挺の拳銃。
セーフティは既に外されている。
銃口が火を噴いた。
熱が一閃、早坂の頬をかすめた。
にじむ血を確認する暇はない。直感と本能で狙いを定め、一気にトリガーを引き絞る。
連射とともに壁に穴が空いていく。
「アニキ!」
二挺拳銃のもう一方は、吼えながら突進する弟に向けられる。
女の狙撃に揺るぎはない。華奢な肩から銃身の先まで、一体となってひとつの生き物のようだった。
訓練を受けた人間の無駄のない動きだ。
ユキの脇腹から血がしぶく。顔を歪めた弟は、しかし速度を落とさない。
距離を詰める。確実に仕留められる間合いに入るまで。
二挺拳銃のもう一方は、吼えながら突進する弟に向けられる。
女の狙撃に揺るぎはない。華奢な肩から銃身の先まで、一体となってひとつの生き物のようだった。
訓練を受けた人間の無駄のない動きだ。
ユキの脇腹から血がしぶく。顔を歪めた弟は、しかし速度を落とさない。
距離を詰める。確実に仕留められる間合いに入るまで。
何発目かの銃弾が、女の左二の腕を抉った。
肉がこそげ、血が噴きこぼれる。弾丸は骨に弾かれたが、秒速百メートルの衝撃は白い手から得物を
はたき落とした。
転げ落ちる対テロ用ハンドガン。スライドが床に当たる硬い音。
肉がこそげ、血が噴きこぼれる。弾丸は骨に弾かれたが、秒速百メートルの衝撃は白い手から得物を
はたき落とした。
転げ落ちる対テロ用ハンドガン。スライドが床に当たる硬い音。
わずかに生まれた一瞬の隙、それを見逃す早坂の弟ではない。
女の位置まであと数メートル。彼の天分たる暗器の間合い。
手袋に包まれた手が捻られ――
女の位置まであと数メートル。彼の天分たる暗器の間合い。
手袋に包まれた手が捻られ――
「……っ!」
暗い倉庫に、ひときわ大きな赤い花が咲く。
女の右肩から左腰にかけて、ざっくりと服が裂けていた。
裂け目から覗く白い肌を鮮血が染める。
悲鳴はなかった。ただ美しい顔がわずかに歪んだ。
暗い倉庫に、ひときわ大きな赤い花が咲く。
女の右肩から左腰にかけて、ざっくりと服が裂けていた。
裂け目から覗く白い肌を鮮血が染める。
悲鳴はなかった。ただ美しい顔がわずかに歪んだ。
「とっさに避けたか、大したもんだな」
体を折る女にユキが告げた。
「本来ならこんなもんじゃ済まないんだが。ミンチにならずに済んでラッキーだったな」
ボタボタと血が床にしたたる。
さすがに呼吸が荒い。布地の上から傷を押さえ出血を抑制してはいるが、二の腕のほうの負傷に加え、
これだけの血を一度に失えば酸素の供給に差し障りが出ないはずはない。
「大人しくしてもらうぜ」
弟の口にサディスティックな笑みが浮かぶ。
「警察に売るか殺して埋めるか、他のもっと金になりそうなことに使うか。その辺はアニキの考え次第だが」
「………………」
「せいぜいマシな死に方ができるよう祈るんだな」
ざ、とユキが歩を進めると、女が後ずさった。
黒いヒールが床を蹴る。
倉庫の出口に向けて一目散に走り出した。
体を折る女にユキが告げた。
「本来ならこんなもんじゃ済まないんだが。ミンチにならずに済んでラッキーだったな」
ボタボタと血が床にしたたる。
さすがに呼吸が荒い。布地の上から傷を押さえ出血を抑制してはいるが、二の腕のほうの負傷に加え、
これだけの血を一度に失えば酸素の供給に差し障りが出ないはずはない。
「大人しくしてもらうぜ」
弟の口にサディスティックな笑みが浮かぶ。
「警察に売るか殺して埋めるか、他のもっと金になりそうなことに使うか。その辺はアニキの考え次第だが」
「………………」
「せいぜいマシな死に方ができるよう祈るんだな」
ざ、とユキが歩を進めると、女が後ずさった。
黒いヒールが床を蹴る。
倉庫の出口に向けて一目散に走り出した。
「! あの女まだ」
「ユキ」
また手首をかざす弟を、早坂が押し留めた。移動する対象を仕留めるのに、彼の暗器は向いていない。
「良い。私がやる」
たぁん、たん、たたたぁん。リズミカルに銃声が響いた。弾丸はことごとくが外れ、一発のみが女の肩口を
かすった。だがそれも逃走を止めるには足りず、女は傷のわりには迅速な動きで、倉庫の搬入口まで辿りつく。
搬入口は巨大なシャッター。パネル操作で上げ下ろしによる開閉と、クレーンでの貨物の移動が可能なつくりになっている。
女の指がパネルに伸びた。
ゴゥンと鈍い音が響く。
シャッターが開く――
「……?」
と思いきや。
何も起こらなかった。
パネルの接触が悪いのか、それとも。
訳が分からないままにまたトリガーを絞ろうとしたとき、地を揺るがすような轟音が耳をなぶった。
「な……」
とっさに天井を見上げた早坂が見たものは、大気を震わせながらこちらに迫るクレーンだった。
目と鼻の先に、荷物を巻き上げる巨大なフックブロック。
息を呑んで固まる早坂。
女の指がパネルの上を躍ると、ゴゥンとまたクレーンが鳴った。
「アニキッ!」
弟の声。
我に返り、とっさに身を翻そうとしたときには何もかもが遅かった。
首が絞まった。呼吸を押さえ込まれた瞬間、足の裏が床から浮いた。
数トンの重量を支えるクレーンのケーブルが、早坂の首に絡まった。
上昇が始まる。ユキが駆けつけるのも間に合わない。瞬く間に足は床から離れていく。
一メートル、二メートル、三メートル。
ついには十メートルはある天井ぎりぎりで宙ぶらりんにされてしまった。
体重による頚動脈への圧迫。
咳き込むこともできず早坂は悶えた。
息ができない。
「お前っ!」
ユキの叫びに、女は反応を見せなかった。代わりに右手の得物を構え直し、たった今操作したパネルに
銃口を向けた。
引き金に指が絡む。
「この状況でこれを破壊した場合、あなたの上司がどうなるかお分かりですね」
「…………っ」
クレーンの操作手段が失われれば、吊るされた早坂をこの位置から下ろすことが不可能になる。
他の手段で彼を解放することは、あるいは可能かもしれないが、まず間違いなく、それを実行するより
早坂が窒息死するほうが早い。
視界がかすみ、聞こえる音が別世界のそれのように遠ざかる。酸素の供給を絶たれた脳が、早くも
悲鳴を上げはじめていた。
「このっ……」
「虚仮脅しのつもりなら無駄です、早坂幸宜」
手をかざすユキに女が告げた。
「あなたの手品の種は、先ほどの一撃で理解しました。この距離では届かないでしょう」
ユキがすっと息を呑む。
「――そう色めき立たず、まずは私の話をお聞きください。あなたがたと我が主人の利害は今のところ
一致しています。暴力ではなく話し合いをもって私の申し出に応じてくださるなら、あなたの上司を
そこから下ろすのにやぶさかではありませんが……」
女が早坂を見上げた。十メートルの距離にかすんでいく視界を加味しても、不思議とそれだけははっきり見えた気がした。
女の両目は、凶兆を示す彗星めいてひそやかに輝いていた。
「ユキ」
また手首をかざす弟を、早坂が押し留めた。移動する対象を仕留めるのに、彼の暗器は向いていない。
「良い。私がやる」
たぁん、たん、たたたぁん。リズミカルに銃声が響いた。弾丸はことごとくが外れ、一発のみが女の肩口を
かすった。だがそれも逃走を止めるには足りず、女は傷のわりには迅速な動きで、倉庫の搬入口まで辿りつく。
搬入口は巨大なシャッター。パネル操作で上げ下ろしによる開閉と、クレーンでの貨物の移動が可能なつくりになっている。
女の指がパネルに伸びた。
ゴゥンと鈍い音が響く。
シャッターが開く――
「……?」
と思いきや。
何も起こらなかった。
パネルの接触が悪いのか、それとも。
訳が分からないままにまたトリガーを絞ろうとしたとき、地を揺るがすような轟音が耳をなぶった。
「な……」
とっさに天井を見上げた早坂が見たものは、大気を震わせながらこちらに迫るクレーンだった。
目と鼻の先に、荷物を巻き上げる巨大なフックブロック。
息を呑んで固まる早坂。
女の指がパネルの上を躍ると、ゴゥンとまたクレーンが鳴った。
「アニキッ!」
弟の声。
我に返り、とっさに身を翻そうとしたときには何もかもが遅かった。
首が絞まった。呼吸を押さえ込まれた瞬間、足の裏が床から浮いた。
数トンの重量を支えるクレーンのケーブルが、早坂の首に絡まった。
上昇が始まる。ユキが駆けつけるのも間に合わない。瞬く間に足は床から離れていく。
一メートル、二メートル、三メートル。
ついには十メートルはある天井ぎりぎりで宙ぶらりんにされてしまった。
体重による頚動脈への圧迫。
咳き込むこともできず早坂は悶えた。
息ができない。
「お前っ!」
ユキの叫びに、女は反応を見せなかった。代わりに右手の得物を構え直し、たった今操作したパネルに
銃口を向けた。
引き金に指が絡む。
「この状況でこれを破壊した場合、あなたの上司がどうなるかお分かりですね」
「…………っ」
クレーンの操作手段が失われれば、吊るされた早坂をこの位置から下ろすことが不可能になる。
他の手段で彼を解放することは、あるいは可能かもしれないが、まず間違いなく、それを実行するより
早坂が窒息死するほうが早い。
視界がかすみ、聞こえる音が別世界のそれのように遠ざかる。酸素の供給を絶たれた脳が、早くも
悲鳴を上げはじめていた。
「このっ……」
「虚仮脅しのつもりなら無駄です、早坂幸宜」
手をかざすユキに女が告げた。
「あなたの手品の種は、先ほどの一撃で理解しました。この距離では届かないでしょう」
ユキがすっと息を呑む。
「――そう色めき立たず、まずは私の話をお聞きください。あなたがたと我が主人の利害は今のところ
一致しています。暴力ではなく話し合いをもって私の申し出に応じてくださるなら、あなたの上司を
そこから下ろすのにやぶさかではありませんが……」
女が早坂を見上げた。十メートルの距離にかすんでいく視界を加味しても、不思議とそれだけははっきり見えた気がした。
女の両目は、凶兆を示す彗星めいてひそやかに輝いていた。