事件現場の床を汚しているのが、血と脳漿と糞便ばかりでないことに笹塚は気がついた。
無残に破壊されたテーブルから叩き落され、中身をひっくりかえして割れているのはビーフシチューの
深皿だ。できたての頃は白い湯気とともに、馥郁としたデミグラスの香りをダイニングに振りまいていたのだろう。
温かなとろみを帯びていたはずのソースは今やすっかり冷め、床を染める血と混ざり合ってとぐろを巻いている。
デジカメで撮影し、市販の画像加工ソフトでも使って色彩を入れ替えれば、ブラックコーヒーに溶け入ろうとして
いるフレッシュのように見えるかもしれない。
近辺にはスプーンが三本。うち一本は、何かとてつもない重さのものに踏みつけられたように不自然に
ねじれていた。
元は花型だったと思われるサラダの器も、前衛アートのような破片と化している。人気漫画『忠実! うらぎり君』が
描かれた飯茶碗は奇跡的に無事だったが、主人公の無駄にぎょろついた目は血痕で潰れていた。
蹂躙された食事風景のすぐ傍に、死体が三体転がっている。腹を噛み裂かれているのは成人男性。
首の骨があらぬ方向に曲がっているのは、小学校低学年とみられる女児。
そして――荒々しくむさぼり食われ、もはや原形すら留めていないものが一体。
「おい石垣」
カートンから煙草を一本引き出し、百円ライターで火をつけながら、笹塚はつとめて無愛想に言った。
「まだ生きてるか?」
「な、なんとか……でもそろそろ死にそうッス……うげ、うげぼおおぉぉ……」
ドアを一枚へだてた廊下の先には、トイレの個室。酸鼻をきわめるこの現場にあって、非道な襲撃者の
暴虐を免れた数少ない場所だ。その白い水洗便器に吐瀉物をぶちまけているのは、笹塚と同じ捜査一課の
刑事だった。
相棒であり後輩でもある、石垣筍。
「何やってんだお前。死体なんか飽きるほど見てんだろーが」
「そう、ですけど……ちょっとやそっとのモンなら今更どうってことないんッス、けどぉ……ガフッ!
ぐぇ、ぐぇほぉっ!」
胃液混じりの未消化物が逆流する、汚らしい音が辺りに響きわたった。
まあ無理もないか、笹塚は胸の奥でそう一人ごちる。
笹塚より七歳若いこの相棒は、勤務時間中にプラモデルを作ったり逃亡中の犯人と出くわすと一目散に
逃げ出したり、言ってしまえば怠惰と無能の塊だが、それはそれとして今回に限ってはこの行動も致し方ない。
食い荒らされた一体は、首から下がほとんど失われていた。かろうじてカスのような肉のこびりついた
骨と、内臓の切れ端らしい紫色の肉片が転がっているだけだ。
しかし首から上は中途半端に残っている。
頬肉を引き剥がされ顎の骨と歯並びをさらした口は、今にも断末魔の悲鳴を噴き上げそうに目一杯開かれ、
眼窩は眼球を失い空洞のまま天井を仰いでいた。
――大家および役所への確認によれば、この一家の構成は三十一歳の父親、二十八歳の母親、六歳の娘の三人。
父と娘は、それぞれ成人男性と女児と見当がつく。消去法によれば、これは母親の死体ということになる。
この一家に限った話ではない。
このブロック一帯の住人に全く同様の災禍が、たった一夜にして降りかかったのだ。
肺腑深くまで煙を吸い込んでから、笹塚は小さくひとりごちる。
「女の体だけ損壊してく無差別殺人か……」
それも二十歳すぎから三十前後までの女性に限られている。
普通なら異常性癖者の犯行と疑うところ。
しかし笹塚も、そして警視庁捜査本部も、今回に限ってはそうは考えていない。
理由は二つ。一つは、一変質者の犯行にしてはあまりに犯行の規模が大きいこと。これだけの真似が
可能なのは、かの有名な怪盗Xくらいだ。
そしてもう一つは――
「……何の冗談だ、こいつは」
煙を吐きながら、笹塚は額ににじむ汗をぬぐう。暑さではない、緊張による汗だ。
床一面に残されているのは、直径五十センチは優に越える、巨大な足跡だった。
無残に破壊されたテーブルから叩き落され、中身をひっくりかえして割れているのはビーフシチューの
深皿だ。できたての頃は白い湯気とともに、馥郁としたデミグラスの香りをダイニングに振りまいていたのだろう。
温かなとろみを帯びていたはずのソースは今やすっかり冷め、床を染める血と混ざり合ってとぐろを巻いている。
デジカメで撮影し、市販の画像加工ソフトでも使って色彩を入れ替えれば、ブラックコーヒーに溶け入ろうとして
いるフレッシュのように見えるかもしれない。
近辺にはスプーンが三本。うち一本は、何かとてつもない重さのものに踏みつけられたように不自然に
ねじれていた。
元は花型だったと思われるサラダの器も、前衛アートのような破片と化している。人気漫画『忠実! うらぎり君』が
描かれた飯茶碗は奇跡的に無事だったが、主人公の無駄にぎょろついた目は血痕で潰れていた。
蹂躙された食事風景のすぐ傍に、死体が三体転がっている。腹を噛み裂かれているのは成人男性。
首の骨があらぬ方向に曲がっているのは、小学校低学年とみられる女児。
そして――荒々しくむさぼり食われ、もはや原形すら留めていないものが一体。
「おい石垣」
カートンから煙草を一本引き出し、百円ライターで火をつけながら、笹塚はつとめて無愛想に言った。
「まだ生きてるか?」
「な、なんとか……でもそろそろ死にそうッス……うげ、うげぼおおぉぉ……」
ドアを一枚へだてた廊下の先には、トイレの個室。酸鼻をきわめるこの現場にあって、非道な襲撃者の
暴虐を免れた数少ない場所だ。その白い水洗便器に吐瀉物をぶちまけているのは、笹塚と同じ捜査一課の
刑事だった。
相棒であり後輩でもある、石垣筍。
「何やってんだお前。死体なんか飽きるほど見てんだろーが」
「そう、ですけど……ちょっとやそっとのモンなら今更どうってことないんッス、けどぉ……ガフッ!
ぐぇ、ぐぇほぉっ!」
胃液混じりの未消化物が逆流する、汚らしい音が辺りに響きわたった。
まあ無理もないか、笹塚は胸の奥でそう一人ごちる。
笹塚より七歳若いこの相棒は、勤務時間中にプラモデルを作ったり逃亡中の犯人と出くわすと一目散に
逃げ出したり、言ってしまえば怠惰と無能の塊だが、それはそれとして今回に限ってはこの行動も致し方ない。
食い荒らされた一体は、首から下がほとんど失われていた。かろうじてカスのような肉のこびりついた
骨と、内臓の切れ端らしい紫色の肉片が転がっているだけだ。
しかし首から上は中途半端に残っている。
頬肉を引き剥がされ顎の骨と歯並びをさらした口は、今にも断末魔の悲鳴を噴き上げそうに目一杯開かれ、
眼窩は眼球を失い空洞のまま天井を仰いでいた。
――大家および役所への確認によれば、この一家の構成は三十一歳の父親、二十八歳の母親、六歳の娘の三人。
父と娘は、それぞれ成人男性と女児と見当がつく。消去法によれば、これは母親の死体ということになる。
この一家に限った話ではない。
このブロック一帯の住人に全く同様の災禍が、たった一夜にして降りかかったのだ。
肺腑深くまで煙を吸い込んでから、笹塚は小さくひとりごちる。
「女の体だけ損壊してく無差別殺人か……」
それも二十歳すぎから三十前後までの女性に限られている。
普通なら異常性癖者の犯行と疑うところ。
しかし笹塚も、そして警視庁捜査本部も、今回に限ってはそうは考えていない。
理由は二つ。一つは、一変質者の犯行にしてはあまりに犯行の規模が大きいこと。これだけの真似が
可能なのは、かの有名な怪盗Xくらいだ。
そしてもう一つは――
「……何の冗談だ、こいつは」
煙を吐きながら、笹塚は額ににじむ汗をぬぐう。暑さではない、緊張による汗だ。
床一面に残されているのは、直径五十センチは優に越える、巨大な足跡だった。
きっかけは深夜の繁華街の一角で、軽く肩と肩が触れ合ったことである。
「おいどこ見て歩いてんだ、オッサンよ」
似合いもしないくせに髪を真っ白に脱色し、肌を焼いて唇にピアスをしたその男は、『彼』の
ジャケットの襟を掴んで裏の狭い脇道に引きずり込んだ。
「ボーッとほっつき歩いてやがるから、ぶつかっちまったじゃねーかよ。おかげで左の肩が胃潰瘍に
なっちまった。あー痛ぇ痛ぇ、この落とし前はつけてくれんだろうな、ああ?」
ビルの壁に彼の背中を押しつけ、ピンク色の唇を突き出してまくしたてる男。
一瞬覗いた口の裏側で、口内炎が白っぽく膨れていた。
『彼』はひたすら黙っている。
目深にかぶったキャップの影に隠れて、表情までは判別できない。かろうじて見て取れる変化といえば、
皺の刻まれた口元が微妙に吊り上がったことだけだ。
その沈黙と笑みが、男の神経を逆撫でした。
薄汚れた『彼』のジャケットの襟を息が詰まるほど締め上げ、顔を近づけて声を荒げた。
「おい聞いてんのか!? 落とし前つけてくれんのかって言ってんだよ!」
激しい揺さぶりにキャップが落ちた。
隠されていた顔の上半分があらわになる。
酷薄な光をたたえた三白眼が男を見つめる。
その更に上の額にあるのは――
「ん……?」
視線が相絡んだとき、男は瞬きした。
「おいオッサン、あんたその火傷……」
瞬きした次の瞬間だった。
男の眼球が内側から火を噴いたのは。
「グァッ、アグ、ァアアァァアァァアアァァァァア」
ひとたまりもなかった。男の体はもんどりうってアスファルトの上に転がった。
火は口からも迸り、悲鳴を上げる舌すら焼き尽くした。眼窩と口腔から溢れた炎は脱色された髪に
燃え移り、灰のようだったその色合いを本物の灰と変えた。
ダンスを踊るように転がりまわる体が、炭素の塊と化すまでわずか数分。
その有り様を『彼』は顔色ひとつ変えず眺めていた。
男が、いやさっきまで男だった巨大な炭が、いよいよ全く動かなくなってしまうと、口元に浮かんだ
笑みが更に吊り上がった。
路地に落ちたキャップを拾い上げ、今度は落ちないようしっかりと被りなおす。
ジャケットのポケットに手を突っ込んで煙草を取り出し、大儀そうに身をかがめた。男を燃やし尽くして
なおかすかに燃え残っていた炎は、歓喜の声にも似たポッという音を立てて煙草に燃え移った。
焼けた人肉の匂いを残す煙を、美味そうに肺の奥まで吸い込み、そして吐く。
――涼しさそのもののような声が響いたのは、灰白色の細い流れが途切れたのと同時。
「お久しぶりです、葛西」
いつの間にその場にいたのか。
すらりと伸びた美しい影が、路地の奥の物陰にひそやかに佇んでいた。
いきなりの出現に、しかし彼は動じもしない。たった今煙を吐ききった唇で、ヒュウッ、と小さく口笛を吹く。
「おまえの方からわざわざ来てくれるたぁ珍しいな。会えて嬉しいぜ……アイよ」
長衣に包まれたしなやかな肢体を、また煙草の煙を吸い込みながら嘗め回すように凝視した。
ともすればマネキンと見まごいそうな整い尽くした顔は、葛西にとって馴染みのあるものだった。
怪盗"X"の美しき従者は、一点の温もりもない事務的そのもののしぐさで頭を下げた。
「お変わりないようで何よりです」
「ああ、見ての通りさ。適度に穏当にたまに刺激的にやってるよ」
炭化した男の手首を踏みにじる『彼』。焦げくさい匂いがいっそう濃く辺りに広がる。
炎に抱かれて逝く寸前、男は『彼』の正体に気づいたろうか。
全国指名手配の放火魔、葛西善二郎。一都一道二府四十三県、およそこの国の都市で『彼』の手配写真の
出回っていない場所はない。
「また随分と派手な真似をなさいましたね」
「仕方ねえだろ。地味に火の手を上げるだなんて器用な芸、ハナッから俺にはねぇんだよ」
縒れたジャケットとズボンからは、生活に疲れたような倦怠感が匂う。だが襟から覗くシャツの
派手な色彩や、キャップのつばの影から覗くぎらついた両目が、一見どこにでもいそうなこの四十男に
危険な存在感を添えている。
彼が纏った剣呑な空気を、表通りで肩が触れ合った一瞬で感じ取れていれば、今アスファルトに
倒れ伏しているこの男は死なずに済んだはずだ。
「にしてもまったく珍しいこったな、アイ。やたら俺を目の仇にしてるおまえがよ」
葛西は更に、アイが立つ物陰の向こうへと目をやった。
そこにあるのは深い闇。
「おまえが個人的に俺に会いに来るなんてこたぁ天地がひっくり返ってもねえだろうから、どうせ
サイ絡みの呼び出しなんだろうが……それにしたって異例な話だよなあ」
煙草の先で闇の奥をまっすぐ指す。
「サイご自慢の従者に加えて、協力者きっての古株の忠臣までよこしてくれるなんざ。こいつぁ、
よっぽどあの人に高く評価してもらってんだと思っていいのかね?」
ざわっ、と闇が蠢いたのは、葛西がそう言い放った瞬間だった。
背筋を伸ばして立つアイの後ろから、ひたり、ともう一つ影が歩み出る。かろうじて街灯の明かりが
届くぎりぎり、アイの隣まで進み出て立ち止まる。
「うぬぼれるなよ放火魔。俺は別に、あんたを迎えにきたわけじゃない」
年の頃なら二十歳すぎ、アイより十センチばかり背の高いその青年は、憎々しげな口調でそう吐き捨てた。
「あんたみたいなひねた中年の相手、アイ一人に押しつけるのは可哀想だと思って付き合ってやってるだけだ。
妙な勘違いされると困るんだよな。だいたいあんたは、サイに逢ってまだ日も浅い新参者の分際で……」
「蛭」
アイが穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で青年をたしなめた。
「同じサイに与する者同士、争いや諍いはどうか程々に」
青年は一瞬不満そうに眉根を寄せ、しかし結局は素直に口をつぐんだ。
容姿は平凡の一語に尽きる。
よく見れば眉毛は意志の固さを思わせるしっかりとした太さだし、黒目がちな一重の目もそれなりに
印象が強い。なのに顔立ちそのものがあまり記憶に残らないのは彫りの浅さのせいだろう。
もっとも、この青年を見かけ通りの凡庸な男と舐めてかかると手痛いしっぺ返しを食らう。今は無地の
黒いセーターに隠れて判別できないが、ひとたびこれを脱ぎ捨てれば、第一印象よりはるかに逞しい体に
無数のヒルの刺青が彫られている。彼が殺した人数と同じ数の刺青が。
「火火火。お局様には敵わねえなあ小僧っ子よ。いや、『溶解仮面』って呼んだほうがいいか?」
葛西は独特の含み笑いを漏らす。
青年は陰湿な視線を投げつける。
「どっちの呼び方もやめろって前から言ってるだろ。今の俺は『蛭』だ。サイにいただいたこの名前を
粗末に扱ったら、」
「葛西。蛭」
二人の間で再び散りかけた火花に、アイの硬い声音が冷水を浴びせた。
「いい加減にしてください」
「……はい」
「……へえ」
グウの音も出ない二人。
男の悲鳴と立ちのぼる煙に、表通りを歩いていた人間が不審を抱いたらしい。ざわめきと複数の足音が
こちらに近づいてくる。
長居は無用だ。
「こちらへ」
最初に身をひるがえしたのはアイだ。
二つに結ばれた髪の先が、渓流の水のようにさらさらと流れる。
蛭が慌ててそれを追い、葛西がちびた煙草を踏みにじって彼らに続く。
警官を伴い通行人数名が到着したときには、炭と化した男の死体が転がっているばかりだった。
「おいどこ見て歩いてんだ、オッサンよ」
似合いもしないくせに髪を真っ白に脱色し、肌を焼いて唇にピアスをしたその男は、『彼』の
ジャケットの襟を掴んで裏の狭い脇道に引きずり込んだ。
「ボーッとほっつき歩いてやがるから、ぶつかっちまったじゃねーかよ。おかげで左の肩が胃潰瘍に
なっちまった。あー痛ぇ痛ぇ、この落とし前はつけてくれんだろうな、ああ?」
ビルの壁に彼の背中を押しつけ、ピンク色の唇を突き出してまくしたてる男。
一瞬覗いた口の裏側で、口内炎が白っぽく膨れていた。
『彼』はひたすら黙っている。
目深にかぶったキャップの影に隠れて、表情までは判別できない。かろうじて見て取れる変化といえば、
皺の刻まれた口元が微妙に吊り上がったことだけだ。
その沈黙と笑みが、男の神経を逆撫でした。
薄汚れた『彼』のジャケットの襟を息が詰まるほど締め上げ、顔を近づけて声を荒げた。
「おい聞いてんのか!? 落とし前つけてくれんのかって言ってんだよ!」
激しい揺さぶりにキャップが落ちた。
隠されていた顔の上半分があらわになる。
酷薄な光をたたえた三白眼が男を見つめる。
その更に上の額にあるのは――
「ん……?」
視線が相絡んだとき、男は瞬きした。
「おいオッサン、あんたその火傷……」
瞬きした次の瞬間だった。
男の眼球が内側から火を噴いたのは。
「グァッ、アグ、ァアアァァアァァアアァァァァア」
ひとたまりもなかった。男の体はもんどりうってアスファルトの上に転がった。
火は口からも迸り、悲鳴を上げる舌すら焼き尽くした。眼窩と口腔から溢れた炎は脱色された髪に
燃え移り、灰のようだったその色合いを本物の灰と変えた。
ダンスを踊るように転がりまわる体が、炭素の塊と化すまでわずか数分。
その有り様を『彼』は顔色ひとつ変えず眺めていた。
男が、いやさっきまで男だった巨大な炭が、いよいよ全く動かなくなってしまうと、口元に浮かんだ
笑みが更に吊り上がった。
路地に落ちたキャップを拾い上げ、今度は落ちないようしっかりと被りなおす。
ジャケットのポケットに手を突っ込んで煙草を取り出し、大儀そうに身をかがめた。男を燃やし尽くして
なおかすかに燃え残っていた炎は、歓喜の声にも似たポッという音を立てて煙草に燃え移った。
焼けた人肉の匂いを残す煙を、美味そうに肺の奥まで吸い込み、そして吐く。
――涼しさそのもののような声が響いたのは、灰白色の細い流れが途切れたのと同時。
「お久しぶりです、葛西」
いつの間にその場にいたのか。
すらりと伸びた美しい影が、路地の奥の物陰にひそやかに佇んでいた。
いきなりの出現に、しかし彼は動じもしない。たった今煙を吐ききった唇で、ヒュウッ、と小さく口笛を吹く。
「おまえの方からわざわざ来てくれるたぁ珍しいな。会えて嬉しいぜ……アイよ」
長衣に包まれたしなやかな肢体を、また煙草の煙を吸い込みながら嘗め回すように凝視した。
ともすればマネキンと見まごいそうな整い尽くした顔は、葛西にとって馴染みのあるものだった。
怪盗"X"の美しき従者は、一点の温もりもない事務的そのもののしぐさで頭を下げた。
「お変わりないようで何よりです」
「ああ、見ての通りさ。適度に穏当にたまに刺激的にやってるよ」
炭化した男の手首を踏みにじる『彼』。焦げくさい匂いがいっそう濃く辺りに広がる。
炎に抱かれて逝く寸前、男は『彼』の正体に気づいたろうか。
全国指名手配の放火魔、葛西善二郎。一都一道二府四十三県、およそこの国の都市で『彼』の手配写真の
出回っていない場所はない。
「また随分と派手な真似をなさいましたね」
「仕方ねえだろ。地味に火の手を上げるだなんて器用な芸、ハナッから俺にはねぇんだよ」
縒れたジャケットとズボンからは、生活に疲れたような倦怠感が匂う。だが襟から覗くシャツの
派手な色彩や、キャップのつばの影から覗くぎらついた両目が、一見どこにでもいそうなこの四十男に
危険な存在感を添えている。
彼が纏った剣呑な空気を、表通りで肩が触れ合った一瞬で感じ取れていれば、今アスファルトに
倒れ伏しているこの男は死なずに済んだはずだ。
「にしてもまったく珍しいこったな、アイ。やたら俺を目の仇にしてるおまえがよ」
葛西は更に、アイが立つ物陰の向こうへと目をやった。
そこにあるのは深い闇。
「おまえが個人的に俺に会いに来るなんてこたぁ天地がひっくり返ってもねえだろうから、どうせ
サイ絡みの呼び出しなんだろうが……それにしたって異例な話だよなあ」
煙草の先で闇の奥をまっすぐ指す。
「サイご自慢の従者に加えて、協力者きっての古株の忠臣までよこしてくれるなんざ。こいつぁ、
よっぽどあの人に高く評価してもらってんだと思っていいのかね?」
ざわっ、と闇が蠢いたのは、葛西がそう言い放った瞬間だった。
背筋を伸ばして立つアイの後ろから、ひたり、ともう一つ影が歩み出る。かろうじて街灯の明かりが
届くぎりぎり、アイの隣まで進み出て立ち止まる。
「うぬぼれるなよ放火魔。俺は別に、あんたを迎えにきたわけじゃない」
年の頃なら二十歳すぎ、アイより十センチばかり背の高いその青年は、憎々しげな口調でそう吐き捨てた。
「あんたみたいなひねた中年の相手、アイ一人に押しつけるのは可哀想だと思って付き合ってやってるだけだ。
妙な勘違いされると困るんだよな。だいたいあんたは、サイに逢ってまだ日も浅い新参者の分際で……」
「蛭」
アイが穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で青年をたしなめた。
「同じサイに与する者同士、争いや諍いはどうか程々に」
青年は一瞬不満そうに眉根を寄せ、しかし結局は素直に口をつぐんだ。
容姿は平凡の一語に尽きる。
よく見れば眉毛は意志の固さを思わせるしっかりとした太さだし、黒目がちな一重の目もそれなりに
印象が強い。なのに顔立ちそのものがあまり記憶に残らないのは彫りの浅さのせいだろう。
もっとも、この青年を見かけ通りの凡庸な男と舐めてかかると手痛いしっぺ返しを食らう。今は無地の
黒いセーターに隠れて判別できないが、ひとたびこれを脱ぎ捨てれば、第一印象よりはるかに逞しい体に
無数のヒルの刺青が彫られている。彼が殺した人数と同じ数の刺青が。
「火火火。お局様には敵わねえなあ小僧っ子よ。いや、『溶解仮面』って呼んだほうがいいか?」
葛西は独特の含み笑いを漏らす。
青年は陰湿な視線を投げつける。
「どっちの呼び方もやめろって前から言ってるだろ。今の俺は『蛭』だ。サイにいただいたこの名前を
粗末に扱ったら、」
「葛西。蛭」
二人の間で再び散りかけた火花に、アイの硬い声音が冷水を浴びせた。
「いい加減にしてください」
「……はい」
「……へえ」
グウの音も出ない二人。
男の悲鳴と立ちのぼる煙に、表通りを歩いていた人間が不審を抱いたらしい。ざわめきと複数の足音が
こちらに近づいてくる。
長居は無用だ。
「こちらへ」
最初に身をひるがえしたのはアイだ。
二つに結ばれた髪の先が、渓流の水のようにさらさらと流れる。
蛭が慌ててそれを追い、葛西がちびた煙草を踏みにじって彼らに続く。
警官を伴い通行人数名が到着したときには、炭と化した男の死体が転がっているばかりだった。
真っ暗な部屋に目を閉じて座っていると、まぶたの裏を様々なものがよぎっていく。
解体し箱に詰め、中身を見てきた人間の人生の断片である。
己の立ち位置を突き止めるには、社会を生きる他人との比較が必須。そう考えた結果サイは殺人という
手段を選んだ。中身を開いて覗き込み、細胞の隅々まで観察することで、対象の組成と成り立ちを把握するのだ。
感覚のままに行ってきたことではあったが、アイに言わせると社会心理学的にもなかなか理に適った行為らしい。
講釈が難解で一〇〇パーセント理解はできなかったが、何でも幼児が成長の過程で経ていくメカニズムにおいて、
他人と自分の比較は必要不可欠なのだそうだ。闇雲にただ一人自己分析を続けているより、よほど得るものは多いという。
幼児と一緒にされたのは少々癪に障ったが、聡明なあの女に自分の選択を保証されるのは悪い気分ではなかった。
そんなわけで今も昔も変わらず彼は、殺人・解体・観察のルーティンワークを繰り返し続けている。
正体探しの過程で研ぎ澄まされたサイの感覚は、対象の全身をすり潰して観察することで、通常人の
目には映らない様々なものを抉り出す。体の性格、心の性格、仕草や得意不得意、精神の奥底の病巣に
至るまで完璧に。
――どうしてあたしばかり責めるの。あの人もお義母さんも全部全部あたしのせいみたいに。どうして。
家庭内で孤立し追い詰められていく主婦。
――身を粉にして働いてきたはずが、年を取ってみれば生ゴミ扱い。もう生きるのにほとほと疲れた。
戦後を生き抜き燃え尽きてしまった老人。
――受からなきゃ。受からなきゃ受からなきゃ受からなきゃ。
親の期待に押しつぶされ視野狭窄に陥っていく受験生。
違う。どれも自分ではない。
こんな平凡でどこにでもありそうな人間像は。
「蛭です、サイ。失礼します」
疲労感に息をついたとき、慣れ親しんだ気配が戸口に湧いた。
目を開ける。開いたドアから、闇を長方形に切り取ったように光が漏れている。
それを背にして立つ青年のシルエットは影絵に似ていた。
「ああ、何だもう来たのかあんたたち」
体ごと顔を彼に向けると、腰掛けたパイプ椅子がキキィッと音を立てる。
「ずいぶん早いね。アイに連絡取れって言ってからまだ三時間経ってないよ」
「いつどこにいても、あなたの呼び出しがあれば馳せ参じるのが俺たち協力者の義務ですから。それに」
サイの数年来の忠臣は、マナー読本にでも出てきそうなしぐさで頭を下げ、部屋に踏み入って
明かりのスイッチを探した。ドアの脇にあったそれをパチンとオンにすると、ほの白い蛍光灯の光が
微弱な唸りをあげて灯った。
「『サイがあなたを連れて来いと仰っています。大層不機嫌そうなご様子で、今すぐにでも行かなければ
箱にされるかもしれません』なんて彼女に言われたら、どこで何をやってようと放り出してこっちに
駆けつけますよ」
「いちいち大げさだな、あの女。……葛西、あんたもあいつに同じこと言われてここに来たの?」
「いえ」
問いに答えたのは、蛭に続いて部屋に入ってきた放火魔だ。
目深にかぶったキャップの鍔をくいっと下げながら、
「わざわざそんなこと言われねえでも、俺にとっちゃあサイの命令が最優先ですから」
「へえ、言うね葛西。ご大層な台詞吐くからには、それに見合うだけの働き期待しちゃっていいんだろうね?」
「勿論ですよ」
新参の協力者の安請け合いに、サイは唇の片方を吊り上げた。
「まあ、二人ともすぐ来てくれて良かったよ。他にも協力者はいるけど、今回の仕事が任せられそう
なのはあんたらくらいだ。あんたたちなら俺のサポートができる。俺の細胞が百パーセント力を発揮
する条件を整えることがね」
誰にでもなれる能力も、全てのものを破壊する怪力も、適切な状況で発揮されなければ何の意味もない。
頭脳労働や地道な仕事が不得手なサイは、その適切な状況を作り出すために優秀なサポーターを必要とする。
彼の傍らに常時アイが控えているのはそのためだ。
蛭や葛西は彼女と違い、常にサイの指示を受けて動いているわけではない。通常時はそれぞれの手段で
社会に溶け込み、必要なときのみ呼び出され命令に従う、いわば非常勤の立場である。今回は、無数に
いるそうした協力者たちの中から、特に能力を買われて選ばれたということになる。
「立ち話も何だし適当にその辺に座って。事情はどこまで聞いてる?」
「ターゲットの虎が泳いで逃げて、都民を手当たり次第に食い殺して回ってるって辺りまでです」
今度答えたのは蛭だった。壁に立てかけられていたパイプ椅子の組み立てを、いったん止めて背筋を
伸ばして答える。
内容的にはそれなりにおぞましい事実のはずだが、俗に醤油顔と呼ばれるたぐいのその顔からは、
怯えも気遅れした様子も見て取れない。サイに仕えてはや数年、一般的な感覚などとうに擦り切れて
しまっているのだ。
平凡な青年の皮をかぶった犯罪者は、自分の椅子だけを組み立て、さっさと腰を下ろしてしまった。
葛西のぶんまで席を用意してやろうという思いやりは微塵もないらしい。やれやれと放火魔は肩を
すくめ、彼に倣って自分の椅子を自分で用意する。
「そう、その程度か。急いで来たんだし仕方ないね。もっと詳しい話はアイから……あれ、アイはどこ?」
ここで初めて従者の不在に気づき、サイは大きな目を瞬かせた。
ガチャンと音を立てて椅子を作りながら、葛西が彼の疑問に答えた。
「アイとなら、ここに来る途中で別れましたよ。先にアジトに向かっててくれって言われたもんで」
「何で?」
「さあ。詳しいことは俺らにゃ何も。ただ、」
年月の浮いた首を軽くかしげながら、葛西。
「何でも、会っておかねぇとならねぇ連中がいるんだそうで――」
解体し箱に詰め、中身を見てきた人間の人生の断片である。
己の立ち位置を突き止めるには、社会を生きる他人との比較が必須。そう考えた結果サイは殺人という
手段を選んだ。中身を開いて覗き込み、細胞の隅々まで観察することで、対象の組成と成り立ちを把握するのだ。
感覚のままに行ってきたことではあったが、アイに言わせると社会心理学的にもなかなか理に適った行為らしい。
講釈が難解で一〇〇パーセント理解はできなかったが、何でも幼児が成長の過程で経ていくメカニズムにおいて、
他人と自分の比較は必要不可欠なのだそうだ。闇雲にただ一人自己分析を続けているより、よほど得るものは多いという。
幼児と一緒にされたのは少々癪に障ったが、聡明なあの女に自分の選択を保証されるのは悪い気分ではなかった。
そんなわけで今も昔も変わらず彼は、殺人・解体・観察のルーティンワークを繰り返し続けている。
正体探しの過程で研ぎ澄まされたサイの感覚は、対象の全身をすり潰して観察することで、通常人の
目には映らない様々なものを抉り出す。体の性格、心の性格、仕草や得意不得意、精神の奥底の病巣に
至るまで完璧に。
――どうしてあたしばかり責めるの。あの人もお義母さんも全部全部あたしのせいみたいに。どうして。
家庭内で孤立し追い詰められていく主婦。
――身を粉にして働いてきたはずが、年を取ってみれば生ゴミ扱い。もう生きるのにほとほと疲れた。
戦後を生き抜き燃え尽きてしまった老人。
――受からなきゃ。受からなきゃ受からなきゃ受からなきゃ。
親の期待に押しつぶされ視野狭窄に陥っていく受験生。
違う。どれも自分ではない。
こんな平凡でどこにでもありそうな人間像は。
「蛭です、サイ。失礼します」
疲労感に息をついたとき、慣れ親しんだ気配が戸口に湧いた。
目を開ける。開いたドアから、闇を長方形に切り取ったように光が漏れている。
それを背にして立つ青年のシルエットは影絵に似ていた。
「ああ、何だもう来たのかあんたたち」
体ごと顔を彼に向けると、腰掛けたパイプ椅子がキキィッと音を立てる。
「ずいぶん早いね。アイに連絡取れって言ってからまだ三時間経ってないよ」
「いつどこにいても、あなたの呼び出しがあれば馳せ参じるのが俺たち協力者の義務ですから。それに」
サイの数年来の忠臣は、マナー読本にでも出てきそうなしぐさで頭を下げ、部屋に踏み入って
明かりのスイッチを探した。ドアの脇にあったそれをパチンとオンにすると、ほの白い蛍光灯の光が
微弱な唸りをあげて灯った。
「『サイがあなたを連れて来いと仰っています。大層不機嫌そうなご様子で、今すぐにでも行かなければ
箱にされるかもしれません』なんて彼女に言われたら、どこで何をやってようと放り出してこっちに
駆けつけますよ」
「いちいち大げさだな、あの女。……葛西、あんたもあいつに同じこと言われてここに来たの?」
「いえ」
問いに答えたのは、蛭に続いて部屋に入ってきた放火魔だ。
目深にかぶったキャップの鍔をくいっと下げながら、
「わざわざそんなこと言われねえでも、俺にとっちゃあサイの命令が最優先ですから」
「へえ、言うね葛西。ご大層な台詞吐くからには、それに見合うだけの働き期待しちゃっていいんだろうね?」
「勿論ですよ」
新参の協力者の安請け合いに、サイは唇の片方を吊り上げた。
「まあ、二人ともすぐ来てくれて良かったよ。他にも協力者はいるけど、今回の仕事が任せられそう
なのはあんたらくらいだ。あんたたちなら俺のサポートができる。俺の細胞が百パーセント力を発揮
する条件を整えることがね」
誰にでもなれる能力も、全てのものを破壊する怪力も、適切な状況で発揮されなければ何の意味もない。
頭脳労働や地道な仕事が不得手なサイは、その適切な状況を作り出すために優秀なサポーターを必要とする。
彼の傍らに常時アイが控えているのはそのためだ。
蛭や葛西は彼女と違い、常にサイの指示を受けて動いているわけではない。通常時はそれぞれの手段で
社会に溶け込み、必要なときのみ呼び出され命令に従う、いわば非常勤の立場である。今回は、無数に
いるそうした協力者たちの中から、特に能力を買われて選ばれたということになる。
「立ち話も何だし適当にその辺に座って。事情はどこまで聞いてる?」
「ターゲットの虎が泳いで逃げて、都民を手当たり次第に食い殺して回ってるって辺りまでです」
今度答えたのは蛭だった。壁に立てかけられていたパイプ椅子の組み立てを、いったん止めて背筋を
伸ばして答える。
内容的にはそれなりにおぞましい事実のはずだが、俗に醤油顔と呼ばれるたぐいのその顔からは、
怯えも気遅れした様子も見て取れない。サイに仕えてはや数年、一般的な感覚などとうに擦り切れて
しまっているのだ。
平凡な青年の皮をかぶった犯罪者は、自分の椅子だけを組み立て、さっさと腰を下ろしてしまった。
葛西のぶんまで席を用意してやろうという思いやりは微塵もないらしい。やれやれと放火魔は肩を
すくめ、彼に倣って自分の椅子を自分で用意する。
「そう、その程度か。急いで来たんだし仕方ないね。もっと詳しい話はアイから……あれ、アイはどこ?」
ここで初めて従者の不在に気づき、サイは大きな目を瞬かせた。
ガチャンと音を立てて椅子を作りながら、葛西が彼の疑問に答えた。
「アイとなら、ここに来る途中で別れましたよ。先にアジトに向かっててくれって言われたもんで」
「何で?」
「さあ。詳しいことは俺らにゃ何も。ただ、」
年月の浮いた首を軽くかしげながら、葛西。
「何でも、会っておかねぇとならねぇ連中がいるんだそうで――」
発見して間もない新しい美味に、≪我鬼≫は酔いしれていた。
牙を立てると面白いようにすすっと裂け、同時にかぐわしい芳香が立つ。溢れる肉の汁と血からは
何ともいえない甘味が溢れ、噛めば噛むほど口の中に広がっていく。とりわけ柔らかく盛り上がった
乳房の肉は、彼がこれまで一度も味わったことのない最高級の滋味だった。
≪二本足≫の雌がこれほど美味いとは。不味い獲物とばかり思っていたが、今まで雄ばかり食らって
きたせいで誤解していたようだ。同じ生物でも雌雄でこうも違うものか。
捕食に特化した頭脳で彼は、これからは雌を重点的に食おうと決意していた。どうせ食事をするなら
愉しいほうがいい。不味い雄など噛み裂くだけで充分、味を見てみる必要もない。
更に何匹か食してみて、≪我鬼≫はより美味い雌の選び方を学んだ。
子供の肉は旨みが足りない。ぷりぷりとした弾力が楽しめるぶん、風味の点で物足りなさを感じる。
かといってあまり老いていてもいけない。適度な噛みごたえが失われるし、何より肉に染みこんだ年月の
臭みが鼻をつく。
瑞々しさを残しつつもほどよく成熟した個体、乳房と尻にたっぷり脂肪を乗せた若い雌こそ、
彼が求める美食の頂点。
≪我鬼≫は夢中でむさぼり食らった。骨に残った肉まで牙でこそげ取った。絶大なカロリーを消費する
特殊な細胞が、彼の食事の勢いに拍車をかけた。
――獲物が流した血に身を染めながら、それにしても、と≪我鬼≫は思う。
気になるのは甲板の上で向かってきた、あの子供の≪二本足≫の存在である。
極限まで研ぎ澄まされた本能によって≪我鬼≫は確信していた。自分とあの≪二本足≫は同じものだ。
全く同じとまではいえないにしても、極めて近しいルーツを持つものだ。
そう遠くないうちに再びぶつかり合うことになるだろう。
雄の虎同士がテリトリーを賭けて争わずにいられないのと同様、避けては通れない道。
それまでせいぜい充分に食事を摂って、来るべき対決に備えておかなくては。
キッチンの床の上で白目を剥いた女の乳房を、≪我鬼≫は丹念に味わった。血しぶきに染まった
カーテンの隙間から、青白い月が晩餐の場を照らしていた。
牙を立てると面白いようにすすっと裂け、同時にかぐわしい芳香が立つ。溢れる肉の汁と血からは
何ともいえない甘味が溢れ、噛めば噛むほど口の中に広がっていく。とりわけ柔らかく盛り上がった
乳房の肉は、彼がこれまで一度も味わったことのない最高級の滋味だった。
≪二本足≫の雌がこれほど美味いとは。不味い獲物とばかり思っていたが、今まで雄ばかり食らって
きたせいで誤解していたようだ。同じ生物でも雌雄でこうも違うものか。
捕食に特化した頭脳で彼は、これからは雌を重点的に食おうと決意していた。どうせ食事をするなら
愉しいほうがいい。不味い雄など噛み裂くだけで充分、味を見てみる必要もない。
更に何匹か食してみて、≪我鬼≫はより美味い雌の選び方を学んだ。
子供の肉は旨みが足りない。ぷりぷりとした弾力が楽しめるぶん、風味の点で物足りなさを感じる。
かといってあまり老いていてもいけない。適度な噛みごたえが失われるし、何より肉に染みこんだ年月の
臭みが鼻をつく。
瑞々しさを残しつつもほどよく成熟した個体、乳房と尻にたっぷり脂肪を乗せた若い雌こそ、
彼が求める美食の頂点。
≪我鬼≫は夢中でむさぼり食らった。骨に残った肉まで牙でこそげ取った。絶大なカロリーを消費する
特殊な細胞が、彼の食事の勢いに拍車をかけた。
――獲物が流した血に身を染めながら、それにしても、と≪我鬼≫は思う。
気になるのは甲板の上で向かってきた、あの子供の≪二本足≫の存在である。
極限まで研ぎ澄まされた本能によって≪我鬼≫は確信していた。自分とあの≪二本足≫は同じものだ。
全く同じとまではいえないにしても、極めて近しいルーツを持つものだ。
そう遠くないうちに再びぶつかり合うことになるだろう。
雄の虎同士がテリトリーを賭けて争わずにいられないのと同様、避けては通れない道。
それまでせいぜい充分に食事を摂って、来るべき対決に備えておかなくては。
キッチンの床の上で白目を剥いた女の乳房を、≪我鬼≫は丹念に味わった。血しぶきに染まった
カーテンの隙間から、青白い月が晩餐の場を照らしていた。