全力あるのみ──中指を突出させた一本拳を両手に備え、シコルスキーは猛スピードで
間合いを詰める。
異常な指の力を誇るシコルスキーだからこそ可能な、切り裂く拳。打つための軌道では
なく斬るための軌道を描くので、非常に読みにくい。ボクシングを基礎とするアライJr
にとっては相性の悪い技といえる。
なのに、かすりもしない。
空しく大気ばかりを切り裂く中高一本拳。
逆にカウンターの右ストレートをもらい、続く左フックはわずかに外れたが、シコルス
キーの右頬を鮮やかに切り裂いた。
「こっちが切られるとはな……」
舌打ちし、右頬の傷を拭うシコルスキー。
攻防再開。
来ると分かっていても、打たれると分かっていても、かわせない、防御できない。ヒト
の反射神経の介入を許さぬ高速ラッシュが、シコルスキーの全身を刺す。まるで凶悪なス
ズメバチのように──。
打撃戦では勝てぬと、シコルスキーは敵の射程から背を向け退散する。
「さすがドリアンをやっただけのことはある……打ち合いは自殺行為だな……」
「ならばどうするんだい」
「作戦を変える」
旧ソ連発祥の格技、サンボ。シコルスキーも祖国ロシアにてかじったことがある。組み
合えば充分に勝機はある。
クラウチングスタートのような体勢から、シコルスキーが弾丸タックルを仕掛ける。
迫るシコルスキー。ところがいくら走っても、アライJrとの距離が一向に縮まらない。
やがてタックルの勢いが衰えていく。
今この瞬間のみ、二人を挟む空間がねじ曲がったとしか解釈しようがない現象だった。
しかしタネは実に単純(シンプル)だった。アライJrはドリアンにやったように、タ
ックルの速度に合わせて後退していたのだ。
左アッパーがシコルスキーの顎を垂直に打ち抜いた。
先のドリアン戦ではこれ以上の追い打ちはしなかったが、今のアライJrは一味ちがう。
「君の人生がどうなろうと、私の知ったことではない」
竜巻にも似たコークススクリューブローがテンプルにねじ込まれる。顎とこめかみを通
じて痛打を受けた脳は、頭蓋の中を踊り狂う。
意識と無意識の境界線。命が危険に晒された時のみ体感できる境地である。
──が、この男にとっては『日常』に過ぎない。
「ガアァッ!」
失神寸前で放たれる、チョップブロー。さすがに虚を突かれたアライJr、これをブロ
ックし、かろうじて難を逃れる。
ブロックに使用した両腕が痺れる──アライJrは強いショックを受けていた。
間合いを詰める。
異常な指の力を誇るシコルスキーだからこそ可能な、切り裂く拳。打つための軌道では
なく斬るための軌道を描くので、非常に読みにくい。ボクシングを基礎とするアライJr
にとっては相性の悪い技といえる。
なのに、かすりもしない。
空しく大気ばかりを切り裂く中高一本拳。
逆にカウンターの右ストレートをもらい、続く左フックはわずかに外れたが、シコルス
キーの右頬を鮮やかに切り裂いた。
「こっちが切られるとはな……」
舌打ちし、右頬の傷を拭うシコルスキー。
攻防再開。
来ると分かっていても、打たれると分かっていても、かわせない、防御できない。ヒト
の反射神経の介入を許さぬ高速ラッシュが、シコルスキーの全身を刺す。まるで凶悪なス
ズメバチのように──。
打撃戦では勝てぬと、シコルスキーは敵の射程から背を向け退散する。
「さすがドリアンをやっただけのことはある……打ち合いは自殺行為だな……」
「ならばどうするんだい」
「作戦を変える」
旧ソ連発祥の格技、サンボ。シコルスキーも祖国ロシアにてかじったことがある。組み
合えば充分に勝機はある。
クラウチングスタートのような体勢から、シコルスキーが弾丸タックルを仕掛ける。
迫るシコルスキー。ところがいくら走っても、アライJrとの距離が一向に縮まらない。
やがてタックルの勢いが衰えていく。
今この瞬間のみ、二人を挟む空間がねじ曲がったとしか解釈しようがない現象だった。
しかしタネは実に単純(シンプル)だった。アライJrはドリアンにやったように、タ
ックルの速度に合わせて後退していたのだ。
左アッパーがシコルスキーの顎を垂直に打ち抜いた。
先のドリアン戦ではこれ以上の追い打ちはしなかったが、今のアライJrは一味ちがう。
「君の人生がどうなろうと、私の知ったことではない」
竜巻にも似たコークススクリューブローがテンプルにねじ込まれる。顎とこめかみを通
じて痛打を受けた脳は、頭蓋の中を踊り狂う。
意識と無意識の境界線。命が危険に晒された時のみ体感できる境地である。
──が、この男にとっては『日常』に過ぎない。
「ガアァッ!」
失神寸前で放たれる、チョップブロー。さすがに虚を突かれたアライJr、これをブロ
ックし、かろうじて難を逃れる。
ブロックに使用した両腕が痺れる──アライJrは強いショックを受けていた。
ガードを上げてしまった。
五年前──とある父子のスパーリング中、悲劇が起こった。息子の放った右ストレート
が父をクリーンヒットし、ノックダウンを奪った。深刻なダメージは、父を満足に歩けぬ
身体にしてしまった。
この父子とはむろん、マホメド・アライ親子である。
あの日以来、アライJrは決してガードを上げぬことを誓った。父の技と夢を受け継ぎ、
自らが地球上で最強になることによって、父もまた最強であったことを証明する。これこ
そがアライJrの人生の全てとなるはずであった。
しかしたった今、アクシデントとはいえ、誓いは破られた。対峙するロシア人によって。
「……許さん」
おぞましい修羅が、アライJrの目に宿る。
理不尽な憎しみがアライJrを蝕み、眠れる力を呼び覚ます。
「今度はこっちの番だッ!」
無意識から回復したシコルスキーがサムワンの分だとばかりに、アライJrの顔面にハ
イキックをぶつける。整った鼻が一撃で真っ赤に染まった。左でのロシアンフック、これ
も右頬をまとも捉える。
シコルスキーが跳ぶ。今こそ得意技、ドロップキックを決める好機(とき)。
高速で発射された両足は、惜しくも──否、絶妙なスウェーバックによって数ミリの差
で到達できなかった。
地面に落下したシコルスキーに、アライJrは恐るべき速度で乗りかかる。
近代格闘技における万能技術、マウントポジション。
膝に両手を封じられ、もはやシコルスキーに防御手段はない。神の子の辞書にはボクシ
ング以外の知識も、びっしり網羅されていた。
「初めてやるけど……これでいいのかな。マウントポジションって」
「くっ……!」
「昨日までの私ならばこうなった時点で君に降参(ギブアップ)を促していただろう。だ
が残念ながら昨日はすでに過ぎ去っている。これから私は君を殴り続ける。君が失神しよ
うが、許しを乞おうが、私は君を決して許さない。殴り続ける」
冷酷なほど淡々と、顔面に振り下ろされる神の拳。
めり込む拳。
めり込む拳。
めり込む拳。
パウンド地獄が開始された。寝ている相手へのパンチは不得手のようだが、センスは抜
群である。命を削り取るには十分すぎる威力であった。シコルスキーの頭部が、拳とアス
ファルトの間をダース単位で往復する。
失神と蘇生を繰り返しながら、シコルスキーの命の灯は着実に消滅に近づいていた。
ところが突如アライJrの首筋に、鋭利な物体が刺さった。
「つ、爪……ッ!?」
ようやく生まれた一瞬の隙。シコルスキーはブリッジで、気を抜いたアライJrを腹で
持ち上げると、一気にマウントポジションから脱出した。
「今の攻撃はいったい……?」
「……これさ」
シコルスキーの右人差し指の爪が剥がれていた。彼は自らの爪を剥がし、それを指の力
で弾き飛ばすことにより、起死回生の飛び道具と成したのだ。
マウントポジションを破られたにもかかわらず、アライJrは笑っていた。ステップの
拍子(リズム)も早くなっている。テンションが高まっている証拠だ。
「君はすばらしい戦士(ファイター)だ。私の拳は君の命を生贄に、さらなる進化を遂げ
ることができるッ!」
アライJrの身体能力は桁外れだ。おそらくボクシングを志さなくとも、生来の才能だ
けで空手、柔道、レスリング、あらゆる格闘技でトップに立つことができただろう。
しかし、アライJrの強さの秘密はそこではない。父への、ボクシングへの、信仰とさ
え形容可能な愛情が、彼を完全無欠のファイターに育て上げたのだ。
ならばシコルスキーの強さとは、信仰とは何だろうか。
あれしかない。
「父さん、僕は今からこいつを殺すッ! 殺られずに……殺るッ!」
アライJrの右による全力ストレート。これに対抗するには、
「俺にとっては指──」
しかない。
轟音を発しぶつかり合う、アライJrの右拳とシコルスキーの右親指。
が父をクリーンヒットし、ノックダウンを奪った。深刻なダメージは、父を満足に歩けぬ
身体にしてしまった。
この父子とはむろん、マホメド・アライ親子である。
あの日以来、アライJrは決してガードを上げぬことを誓った。父の技と夢を受け継ぎ、
自らが地球上で最強になることによって、父もまた最強であったことを証明する。これこ
そがアライJrの人生の全てとなるはずであった。
しかしたった今、アクシデントとはいえ、誓いは破られた。対峙するロシア人によって。
「……許さん」
おぞましい修羅が、アライJrの目に宿る。
理不尽な憎しみがアライJrを蝕み、眠れる力を呼び覚ます。
「今度はこっちの番だッ!」
無意識から回復したシコルスキーがサムワンの分だとばかりに、アライJrの顔面にハ
イキックをぶつける。整った鼻が一撃で真っ赤に染まった。左でのロシアンフック、これ
も右頬をまとも捉える。
シコルスキーが跳ぶ。今こそ得意技、ドロップキックを決める好機(とき)。
高速で発射された両足は、惜しくも──否、絶妙なスウェーバックによって数ミリの差
で到達できなかった。
地面に落下したシコルスキーに、アライJrは恐るべき速度で乗りかかる。
近代格闘技における万能技術、マウントポジション。
膝に両手を封じられ、もはやシコルスキーに防御手段はない。神の子の辞書にはボクシ
ング以外の知識も、びっしり網羅されていた。
「初めてやるけど……これでいいのかな。マウントポジションって」
「くっ……!」
「昨日までの私ならばこうなった時点で君に降参(ギブアップ)を促していただろう。だ
が残念ながら昨日はすでに過ぎ去っている。これから私は君を殴り続ける。君が失神しよ
うが、許しを乞おうが、私は君を決して許さない。殴り続ける」
冷酷なほど淡々と、顔面に振り下ろされる神の拳。
めり込む拳。
めり込む拳。
めり込む拳。
パウンド地獄が開始された。寝ている相手へのパンチは不得手のようだが、センスは抜
群である。命を削り取るには十分すぎる威力であった。シコルスキーの頭部が、拳とアス
ファルトの間をダース単位で往復する。
失神と蘇生を繰り返しながら、シコルスキーの命の灯は着実に消滅に近づいていた。
ところが突如アライJrの首筋に、鋭利な物体が刺さった。
「つ、爪……ッ!?」
ようやく生まれた一瞬の隙。シコルスキーはブリッジで、気を抜いたアライJrを腹で
持ち上げると、一気にマウントポジションから脱出した。
「今の攻撃はいったい……?」
「……これさ」
シコルスキーの右人差し指の爪が剥がれていた。彼は自らの爪を剥がし、それを指の力
で弾き飛ばすことにより、起死回生の飛び道具と成したのだ。
マウントポジションを破られたにもかかわらず、アライJrは笑っていた。ステップの
拍子(リズム)も早くなっている。テンションが高まっている証拠だ。
「君はすばらしい戦士(ファイター)だ。私の拳は君の命を生贄に、さらなる進化を遂げ
ることができるッ!」
アライJrの身体能力は桁外れだ。おそらくボクシングを志さなくとも、生来の才能だ
けで空手、柔道、レスリング、あらゆる格闘技でトップに立つことができただろう。
しかし、アライJrの強さの秘密はそこではない。父への、ボクシングへの、信仰とさ
え形容可能な愛情が、彼を完全無欠のファイターに育て上げたのだ。
ならばシコルスキーの強さとは、信仰とは何だろうか。
あれしかない。
「父さん、僕は今からこいつを殺すッ! 殺られずに……殺るッ!」
アライJrの右による全力ストレート。これに対抗するには、
「俺にとっては指──」
しかない。
轟音を発しぶつかり合う、アライJrの右拳とシコルスキーの右親指。
めきっ。