夜のどす黒い東京湾を静かに進むのは、雑貨船である。
ショベルカー、穀物、コイル、電気製品、大型プラント、エトセトラ、エトセトラ。扱う荷物の
大きさも種類もばらばら。しかもコンテナなどで分譲することなく一度に運ぶ小型の船だ。近年の
輸送合理化の流れには、あまり即していない。
小柄な船体にまったく似合わぬ、積み下ろしのためのクレーンが無骨な姿を海風にさらしていた。
「やれやれ……」
畸形のキリンのようなクレーンの足元で息をついたのは、五十を過ぎた年の船員である。
東南アジアの某国の出身。経済活動の半分が密輸や売春で支えられた国で人となった彼の顔には、
年齢よりはるかに多くの皺が刻まれていた。
体力勝負、危険と常に隣り合わせのの密輸船船員の仕事も、そろそろ厳しくなってきた。ここらで
大きくドカンと当てて、足を洗いたいというのが本音だった。そんな折に入ってきたこの仕事は絶好の
チャンスだった。
たったひとつの積荷を東京港まで運び、受け手に渡せばそれだけで一人頭一万ドル。
よくできた詐欺のような話だったが、男は同僚たちとともに喜んでこれに飛びついた。
何があっても絶対に成功させて、この腐った稼業から足を洗おうと心に誓ったのだ。
巨大なクレーンのシルエットの影で、男は祖国から持参したタバコを吸う。
海風で少し湿気ているのか、火はなかなか移ってくれなかった。ようやく上がった煙が風に沿って
流れていく。
着港は真夜中になると聞いた。もう四時間ほどはかかるだろうか。
――と。
ショベルカー、穀物、コイル、電気製品、大型プラント、エトセトラ、エトセトラ。扱う荷物の
大きさも種類もばらばら。しかもコンテナなどで分譲することなく一度に運ぶ小型の船だ。近年の
輸送合理化の流れには、あまり即していない。
小柄な船体にまったく似合わぬ、積み下ろしのためのクレーンが無骨な姿を海風にさらしていた。
「やれやれ……」
畸形のキリンのようなクレーンの足元で息をついたのは、五十を過ぎた年の船員である。
東南アジアの某国の出身。経済活動の半分が密輸や売春で支えられた国で人となった彼の顔には、
年齢よりはるかに多くの皺が刻まれていた。
体力勝負、危険と常に隣り合わせのの密輸船船員の仕事も、そろそろ厳しくなってきた。ここらで
大きくドカンと当てて、足を洗いたいというのが本音だった。そんな折に入ってきたこの仕事は絶好の
チャンスだった。
たったひとつの積荷を東京港まで運び、受け手に渡せばそれだけで一人頭一万ドル。
よくできた詐欺のような話だったが、男は同僚たちとともに喜んでこれに飛びついた。
何があっても絶対に成功させて、この腐った稼業から足を洗おうと心に誓ったのだ。
巨大なクレーンのシルエットの影で、男は祖国から持参したタバコを吸う。
海風で少し湿気ているのか、火はなかなか移ってくれなかった。ようやく上がった煙が風に沿って
流れていく。
着港は真夜中になると聞いた。もう四時間ほどはかかるだろうか。
――と。
ざぷり
煙を吸い込んだ男の耳に、波とは異質な水音が届いた。
何かが水中から這い上がるような。
「む?」
タバコを口から離し、眉をひそめて辺りを見回す。
何もない。誰もいない。
ようやく危険から足を洗えるという期待が、ありもしないものを男にとらえさせたのか。
「気のせいか……」
また咥え、鼻と口から細く白い煙を吐く。
何かが水中から這い上がるような。
「む?」
タバコを口から離し、眉をひそめて辺りを見回す。
何もない。誰もいない。
ようやく危険から足を洗えるという期待が、ありもしないものを男にとらえさせたのか。
「気のせいか……」
また咥え、鼻と口から細く白い煙を吐く。
ひちゃ
今度は濡れた薄布を引きずるような音がした。
男は息を止めて瞬きする。
男は息を止めて瞬きする。
ひちゃっ
音はまた響く。
さっきよりも、近い。
同僚の誰かが自分をからかっているのだろうか?
「おい、誰だ? 冗談はやめろ。これを吸い終わったらまた仕事に戻……」
顔をしかめて年配の船員は、再び周囲に視線を走らせる。
闇に覆われた夜の空。今夜は新月ではないはずだが、上空の雲のせいか星すらも見えない。
さっきよりも、近い。
同僚の誰かが自分をからかっているのだろうか?
「おい、誰だ? 冗談はやめろ。これを吸い終わったらまた仕事に戻……」
顔をしかめて年配の船員は、再び周囲に視線を走らせる。
闇に覆われた夜の空。今夜は新月ではないはずだが、上空の雲のせいか星すらも見えない。
ひちゃ
びちゃっ
ずるぅ
びちゃっ
ずるぅ
またも音――
「おい、いい加減にしろっ!」
男がもう少し鋭い感覚の持ち主なら、そこで振り向きはしなかったろう。
自分が今ここですべきことは、全身全霊でそこから逃れることだと、理性でなく本能で理解できたはずだ。
決して後ろを振り返らず夜の海に飛び込み、陸地にたどり着くなりほかの船に拾われるなりするまで
ひたすら水をかき分け泳いで逃げる。近づいてくるこの存在から数メートルでも広く距離を取る。ただ
それだけが彼に残された生き残るすべ。
だが残念ながら男は凡人だった。
単なる同僚の悪ふざけと判じ、首を動かして振り返ってしまった。
「おい、いい加減にしろっ!」
男がもう少し鋭い感覚の持ち主なら、そこで振り向きはしなかったろう。
自分が今ここですべきことは、全身全霊でそこから逃れることだと、理性でなく本能で理解できたはずだ。
決して後ろを振り返らず夜の海に飛び込み、陸地にたどり着くなりほかの船に拾われるなりするまで
ひたすら水をかき分け泳いで逃げる。近づいてくるこの存在から数メートルでも広く距離を取る。ただ
それだけが彼に残された生き残るすべ。
だが残念ながら男は凡人だった。
単なる同僚の悪ふざけと判じ、首を動かして振り返ってしまった。
「ねぇ、替わってよ」
振り向いた男の感覚器が受容したのは、愛らしく微笑む少年の顔。
そして自分の頚椎の折れる音。
そして自分の頚椎の折れる音。
海から上がってきた少年は、倒れ伏した男の服を脱がせ、手早く自分で身につけた。
汗くささ煙くささに眉をひそめつつ、袖を通してボタンを留める。
サイズに合わせてミシリ、と体を変化させた。
幼かった骨格が成熟した、強固な土台に支えられたものになる。少年の肌が張りを失って急速に
老いていく。
見る間に足元の男そのままの姿になった。
「……ふむ」
神経系のつながりを確認するため、掌を閉じたり開いたりする。
「あ、あー、あっ、あーっ」
声帯の模写。
転がったタバコの箱に気づき拾い上げようとしたとき、船橋のほうから声がかかった。
「おーい、いつまで一服してる! 交代の時間だぞ、さっさと戻ってこんかあ!」
船橋から誰かが呼ぶ声がした。
「ああ……すまなかった。今行くよ」
男の顔を奪った殺人鬼は、男そのものの声でそう答え、拾ったタバコをポケットにしまうと、
船橋のほうへとゆっくりと歩いていった。
汗くささ煙くささに眉をひそめつつ、袖を通してボタンを留める。
サイズに合わせてミシリ、と体を変化させた。
幼かった骨格が成熟した、強固な土台に支えられたものになる。少年の肌が張りを失って急速に
老いていく。
見る間に足元の男そのままの姿になった。
「……ふむ」
神経系のつながりを確認するため、掌を閉じたり開いたりする。
「あ、あー、あっ、あーっ」
声帯の模写。
転がったタバコの箱に気づき拾い上げようとしたとき、船橋のほうから声がかかった。
「おーい、いつまで一服してる! 交代の時間だぞ、さっさと戻ってこんかあ!」
船橋から誰かが呼ぶ声がした。
「ああ……すまなかった。今行くよ」
男の顔を奪った殺人鬼は、男そのものの声でそう答え、拾ったタバコをポケットにしまうと、
船橋のほうへとゆっくりと歩いていった。
怪盗"X(サイ)"。それがこの殺人鬼の通り名である。
高尚な美術品に目をつけては盗み出し、標的とともに夜の闇に姿を消す。
興味深い人間に目を留めては殺害し、粉々にした死体を箱に詰めては被害者遺族や警察に送りつける。
必要とあれば関係者を皆殺しにし、現場を廃墟のごとく荒らし尽くして去ることも厭わぬ暴力性。
それでいて不気味なまでに自分の痕跡だけは残さぬ手口。怪盗の名は、探偵小説における『怪盗』の
イメージに酷似したものであると同時に、皮肉なほどに矛盾したものでもあった。
日本語での呼び名は『怪盗X(サイ)』であるが、海外では彼はこう呼ばれている。
Monster Robber X.I。
未知(X)で不可視(Invisible)な怪物の強盗。
「とりあえず潜入には成功したよ。船員一人殺してそいつに化けて入れ替わった」
男――に化けたサイは、課せられた仕事の合間を縫って、陸の上にいる相棒にそう呼びかけた。
『了解しました、サイ』
響いてくるのは、淡々と感情のない若い女の声。奥歯の横に取り付けてある、骨伝導式の通信機器を
使っての会話である。
『今回は、変異に伴う体の不調などはありませんか?』
「問題ないよ、平気平気。いつもながらほんと心配性だね、アイ」
『念には念をです。サイ、あなたの体調管理も私の仕事の一つですから』
はたから見れば、口の中を少々モゴモゴしているようにしか見えないはずの光景である。
しかし船橋で働く同僚の一人は、目ざとくそれを見咎めたらしい。
「何をブツブツ言ってるんだ、お前は」
「主への祈りを唱えていたんだよ。初めのように今もいつも、世々に至るまで、アメン、とね」
この船の船員は全員カトリック教徒であるという、事前に得ていた情報にもとづき彼は答えた。
「祈るのはいいが当直が終わってからにしろ。気が散る」
「ああ。すまなかったな」
同僚に見えないよう舌を出しながらサイは謝った。
サイの犯罪を芸術的と評する者たちがいる。
だがサイ本人にしてみれば、そんな評価は心の底からどうでもいいものだ。
理由は二つ。一つは彼の犯行には目的があり、それさえ達成できれば彼としては何を言われようと
構わないということ。
そしてもう一つは。
「祈ってたフリしてごまかすってのは、演技としては微妙だったかな?」
『結果的にはごまかされてくれたのですから今回は構わないでしょう。次回以降磨きをかければ済むことです』
同僚をごまかしながら当直を終え、船橋を出たところでサイは呟いた。
通信機器の向こう側にいる相棒が涼やかな声を返す。
「最近、たまに思うんだけどさ。世間にバレたら俺って絶対ガッカリされるだろうねー」
『何がですか?』
「俺の能力のことさ。だって俺が世界的殺人鬼とか犯罪者のカリスマとか言われてんの、俺の努力の
結果じゃないんだもん。俺の細胞にそういう犯行が可能なだけでさ。今回だって見た目は完璧に化け
てたから気づかれなかっただけで、能力使わずフツーに変装とかだったら怪しまれてバレてたような
気がするよ」
『サイ』
相棒の声がたしなめるような響きを帯びた。
『"たら"や"れば"のお話は無事に犯行を終えた後にでも、改めてゆっくりと致しましょう。今は今の
あなたが為すべきことにご集中を。東京港への着港まで残り数時間、それまでに例のものを盗み出さなければ』
「……はいはい」
彼の『芸術的な犯行』は、彼自身の特異な能力によって立っている。すなわち、常に突然変異を
続ける不可思議な全身の細胞に。彼の犯行を芸術的と崇めるのは、言ってしまえばウサギの俊足を
誉めること、カメの甲羅の硬さを讃えることに等しい。
『潜入前にチェックしていただいた船の内部の構造は、まだ覚えていらっしゃいますか?』
「あ、ゴメン、微妙。最近特に忘れっぽいんだよねー」
サイは壮年男性の白髪混じりの頭を掻いた。
「脳細胞まで変異しまくってるからなあ。どさくさに紛れて記憶がどっかにトンじゃったかな……」
『かしこまりました。では通信を通して私がナビを致します。ただ電波状態が悪くなるとお助け
できなくなりますのでご了承を』
サイは頷き、アイの指示に従って歩き出した。
「……じゃあ、例のものは船底の倉庫に格納されてるんだね」
『はい。特徴のある品ですから特定は容易でした』
「まー、ある意味あれだけ分かりやすいもんもそうそうないよなあ」
狭い船の中を移動する途中で何度か、今『なっている』男の同僚たちとすれ違った。
男は生前なかなか人望のあるベテラン船員だったらしい。『これが終われば仕事収めだな』
『お疲れさまです』などと、口々に声をかけられる。そのたび適当に受け流しながら、まっすぐに
船底貨物倉へと向かった。
高尚な美術品に目をつけては盗み出し、標的とともに夜の闇に姿を消す。
興味深い人間に目を留めては殺害し、粉々にした死体を箱に詰めては被害者遺族や警察に送りつける。
必要とあれば関係者を皆殺しにし、現場を廃墟のごとく荒らし尽くして去ることも厭わぬ暴力性。
それでいて不気味なまでに自分の痕跡だけは残さぬ手口。怪盗の名は、探偵小説における『怪盗』の
イメージに酷似したものであると同時に、皮肉なほどに矛盾したものでもあった。
日本語での呼び名は『怪盗X(サイ)』であるが、海外では彼はこう呼ばれている。
Monster Robber X.I。
未知(X)で不可視(Invisible)な怪物の強盗。
「とりあえず潜入には成功したよ。船員一人殺してそいつに化けて入れ替わった」
男――に化けたサイは、課せられた仕事の合間を縫って、陸の上にいる相棒にそう呼びかけた。
『了解しました、サイ』
響いてくるのは、淡々と感情のない若い女の声。奥歯の横に取り付けてある、骨伝導式の通信機器を
使っての会話である。
『今回は、変異に伴う体の不調などはありませんか?』
「問題ないよ、平気平気。いつもながらほんと心配性だね、アイ」
『念には念をです。サイ、あなたの体調管理も私の仕事の一つですから』
はたから見れば、口の中を少々モゴモゴしているようにしか見えないはずの光景である。
しかし船橋で働く同僚の一人は、目ざとくそれを見咎めたらしい。
「何をブツブツ言ってるんだ、お前は」
「主への祈りを唱えていたんだよ。初めのように今もいつも、世々に至るまで、アメン、とね」
この船の船員は全員カトリック教徒であるという、事前に得ていた情報にもとづき彼は答えた。
「祈るのはいいが当直が終わってからにしろ。気が散る」
「ああ。すまなかったな」
同僚に見えないよう舌を出しながらサイは謝った。
サイの犯罪を芸術的と評する者たちがいる。
だがサイ本人にしてみれば、そんな評価は心の底からどうでもいいものだ。
理由は二つ。一つは彼の犯行には目的があり、それさえ達成できれば彼としては何を言われようと
構わないということ。
そしてもう一つは。
「祈ってたフリしてごまかすってのは、演技としては微妙だったかな?」
『結果的にはごまかされてくれたのですから今回は構わないでしょう。次回以降磨きをかければ済むことです』
同僚をごまかしながら当直を終え、船橋を出たところでサイは呟いた。
通信機器の向こう側にいる相棒が涼やかな声を返す。
「最近、たまに思うんだけどさ。世間にバレたら俺って絶対ガッカリされるだろうねー」
『何がですか?』
「俺の能力のことさ。だって俺が世界的殺人鬼とか犯罪者のカリスマとか言われてんの、俺の努力の
結果じゃないんだもん。俺の細胞にそういう犯行が可能なだけでさ。今回だって見た目は完璧に化け
てたから気づかれなかっただけで、能力使わずフツーに変装とかだったら怪しまれてバレてたような
気がするよ」
『サイ』
相棒の声がたしなめるような響きを帯びた。
『"たら"や"れば"のお話は無事に犯行を終えた後にでも、改めてゆっくりと致しましょう。今は今の
あなたが為すべきことにご集中を。東京港への着港まで残り数時間、それまでに例のものを盗み出さなければ』
「……はいはい」
彼の『芸術的な犯行』は、彼自身の特異な能力によって立っている。すなわち、常に突然変異を
続ける不可思議な全身の細胞に。彼の犯行を芸術的と崇めるのは、言ってしまえばウサギの俊足を
誉めること、カメの甲羅の硬さを讃えることに等しい。
『潜入前にチェックしていただいた船の内部の構造は、まだ覚えていらっしゃいますか?』
「あ、ゴメン、微妙。最近特に忘れっぽいんだよねー」
サイは壮年男性の白髪混じりの頭を掻いた。
「脳細胞まで変異しまくってるからなあ。どさくさに紛れて記憶がどっかにトンじゃったかな……」
『かしこまりました。では通信を通して私がナビを致します。ただ電波状態が悪くなるとお助け
できなくなりますのでご了承を』
サイは頷き、アイの指示に従って歩き出した。
「……じゃあ、例のものは船底の倉庫に格納されてるんだね」
『はい。特徴のある品ですから特定は容易でした』
「まー、ある意味あれだけ分かりやすいもんもそうそうないよなあ」
狭い船の中を移動する途中で何度か、今『なっている』男の同僚たちとすれ違った。
男は生前なかなか人望のあるベテラン船員だったらしい。『これが終われば仕事収めだな』
『お疲れさまです』などと、口々に声をかけられる。そのたび適当に受け流しながら、まっすぐに
船底貨物倉へと向かった。
『虎?』
『はい』
事の発端は一週間前に遡る。
そもそものきっかけは、昼食のラーメンをすすりこむサイに、相棒のアイが言ったことだ。
『中国吉林省の奥地で生け捕りにされたアムール虎の雄が、来週頭に日本に密輸されるという情報が
入りました。サイが興味を示されるかどうか分かりませんが、ひとまずはお耳に入れておこうかと』
『うーん……』
このときのサイは少年の姿をしていた。実在する特定の人間ではなく、誰にでもなれるこの殺人鬼が
日常生活のため取っている仮の姿だ。
二次性徴の直前といった年の頃。『少年』の上に『美』の一文字を冠すに遜色ない容姿だが、整った
顔立ちを間近でよくよく眺めてみれば、美しさの中にどこか虚ろな無個性さが潜んでいることに気づく
はずだ。
その無個性な美少年がずるるるるっ、と麺をすすると、唐辛子の赤みの浮いた汁が辺りに飛び散る。
すらりとした容姿を飾り気のないツーピースに包んだアイは、慣れた様子で布巾を手にし、はねた汁
の跡を拭い取った。
こちらは清廉そうな面立ちの女。顔のつくりは整っているが、地味ないでたちと人形めいた無表情の
ため、手放しに『美女』と賞賛するには憚られるものがある。
『虎ねえ……基本俺、人間以外の生き物にはキョーミないんだよね。野生のどーぶつなんて盗んだって、
俺に役立つことなんてほとんど分かんないし』
『はい』
ずるずるずるり。サイの口の中に吸い込まれていく縮れた麺。
見る間に器の中身はその量を減らしていく。
次にサイが口を開いたのは、どんぶりをすっかり空にしてしまってからのことだった。
『だってあんな連中、明らかに何ひとつ俺の正体に関係ないんだからね。いくら名前も年も性別も
覚えてないっていっても、自分の正体はネコ科じゃなかったろうって程度の見当ならちゃんとあるもの』
『はい』
サイの目的は、脳細胞の変異で記憶を失い忘れてしまった、自分の"正体"を探すことである。
失われた自分と関連性のあるもの以外は一切、彼にとって不要かつ無価値なものだ。
『ねえアイ。あんたは馬鹿じゃないよね』
サイは尋ね、アイがそれに答える。
『愚かではないつもりです』
『俺にとって明らかに価値のないものについて、わざわざ調べて俺に報告するほど無能でもないよね?』
『あなたに失望されるような仕事をした覚えは、少なくとも私にはありません』
汚れたサイの口元を、清潔なナプキンで拭いながらアイは返答した。誇張も慢心もない、ただ事実のみ
を述べる口調だった。
口元の汁はねがすっかり取れ、サイは満足げに深く頷く。
『そのあんたがわざわざ言うからには……ただの虎じゃないね? その虎』
『はい』
頷くアイ。
『現地の組織に潜入させた協力者の報告では――あなたと同じ"突然変異種"であると』
『はい』
事の発端は一週間前に遡る。
そもそものきっかけは、昼食のラーメンをすすりこむサイに、相棒のアイが言ったことだ。
『中国吉林省の奥地で生け捕りにされたアムール虎の雄が、来週頭に日本に密輸されるという情報が
入りました。サイが興味を示されるかどうか分かりませんが、ひとまずはお耳に入れておこうかと』
『うーん……』
このときのサイは少年の姿をしていた。実在する特定の人間ではなく、誰にでもなれるこの殺人鬼が
日常生活のため取っている仮の姿だ。
二次性徴の直前といった年の頃。『少年』の上に『美』の一文字を冠すに遜色ない容姿だが、整った
顔立ちを間近でよくよく眺めてみれば、美しさの中にどこか虚ろな無個性さが潜んでいることに気づく
はずだ。
その無個性な美少年がずるるるるっ、と麺をすすると、唐辛子の赤みの浮いた汁が辺りに飛び散る。
すらりとした容姿を飾り気のないツーピースに包んだアイは、慣れた様子で布巾を手にし、はねた汁
の跡を拭い取った。
こちらは清廉そうな面立ちの女。顔のつくりは整っているが、地味ないでたちと人形めいた無表情の
ため、手放しに『美女』と賞賛するには憚られるものがある。
『虎ねえ……基本俺、人間以外の生き物にはキョーミないんだよね。野生のどーぶつなんて盗んだって、
俺に役立つことなんてほとんど分かんないし』
『はい』
ずるずるずるり。サイの口の中に吸い込まれていく縮れた麺。
見る間に器の中身はその量を減らしていく。
次にサイが口を開いたのは、どんぶりをすっかり空にしてしまってからのことだった。
『だってあんな連中、明らかに何ひとつ俺の正体に関係ないんだからね。いくら名前も年も性別も
覚えてないっていっても、自分の正体はネコ科じゃなかったろうって程度の見当ならちゃんとあるもの』
『はい』
サイの目的は、脳細胞の変異で記憶を失い忘れてしまった、自分の"正体"を探すことである。
失われた自分と関連性のあるもの以外は一切、彼にとって不要かつ無価値なものだ。
『ねえアイ。あんたは馬鹿じゃないよね』
サイは尋ね、アイがそれに答える。
『愚かではないつもりです』
『俺にとって明らかに価値のないものについて、わざわざ調べて俺に報告するほど無能でもないよね?』
『あなたに失望されるような仕事をした覚えは、少なくとも私にはありません』
汚れたサイの口元を、清潔なナプキンで拭いながらアイは返答した。誇張も慢心もない、ただ事実のみ
を述べる口調だった。
口元の汁はねがすっかり取れ、サイは満足げに深く頷く。
『そのあんたがわざわざ言うからには……ただの虎じゃないね? その虎』
『はい』
頷くアイ。
『現地の組織に潜入させた協力者の報告では――あなたと同じ"突然変異種"であると』
現存する最大のネコ科動物であるアムール虎の平均全長は、三.三メートルといわれている。
しかし捕らえられたその虎は四メートル、いや五メートル近い体躯をしていた。
これだけでも生物学的には充分驚異的な事実。しかもその虎の異質はそれだけではなく。
『再生能力?』
『はい。一〇番口径の散弾銃が数十発命中。いずれも瞬く間に傷が治癒したそうです』
一〇番は直径十九.五ミリの実包を使用する、現在製造されているなかでは最大の威力を持つ散弾銃
だ。細胞変異の特殊能力を応用し、多少の傷は数秒で治癒できるサイでさえ、これで連続で撃ち抜かれ
れば受けるダメージはそれなりだろう。
『捕獲のため駆り出された三十人のハンターのうち、十八人が死亡し五人が重傷を負ったとの報告も
受けました。映像もありますが、ご覧になりますか?』
『観る』
即答するサイ。
その答えを予想していたかのように、アイは手にしたディスクをパソコンに飲み込ませた。
鈍い起動音とともに画面が緑色になる。乾いた空気に満ち満ちた、中国奥地の森林を映し出す。
響いてくる低い唸り声。
金色と黒の肢体が、緑の背景から浮き上がるように現れた。
『これ?』
『はい』
画面の中で虎が吼える。金色と黒の弾丸となって跳ぶ。
宙を舞うその巨大な体躯に、無数の弾丸が浴びせかけられた。
悲痛な吼え声とともに血が噴き出し――
『アイ、ここスロー』
『かしこまりました』
サイの求めに合わせて操作するアイ。再生速度が三分の一になる。
血は激しく辺りに飛び散った。木々の幹を黒く湿らせ、緑の葉や下草を赤く染めた。
虎が地に伏す。半トン近いだろう体が倒れ込むと、カメラの固定された地面がドウッと揺れる。
画面がブレる。
血は溢れ続け、虎の見事な縞を見る間に斑に染め上げていく。
訛りのある中国語で歓声が上がる。
『………………』
サイが画面を見る目が険しくなった。眉間に深い皺を寄せ、全神経を画面に集中させる。
アイはといえば、そのサイの様子のほうを注視している。
ディスプレイの光を浴びて白く輝く彼の顔を。主の要求さえあればいつでも反応できるように。
虎の体からミシッ、と軋みにも似た音が響いた。
年月を経た橋が朽ち落ちていくときのようなその響きは、ミシミシ、ミシッ、と繰り返し続く。
厚い毛皮に覆われているために、何が起こっているか傍目には分かりにくい。
だがこの映像を観ているサイには分かっているはずだった。
これは打ち砕かれた骨を再構成し、新たに生成した細胞で血と肉を練り上げていくときの音だ。
数発の銃弾を受け、ちぎれかけていた右前足が完治した。
頚動脈を撃ち貫いていた首の傷もふさがった。
吹き飛ばされていた耳も眼球ごと破壊された頭蓋骨も、時の流れを逆回しにしたように元に戻っていく。
虎は立ち上がった。
四本の足で地を踏みしめて雄たけびを上げた。
しかし捕らえられたその虎は四メートル、いや五メートル近い体躯をしていた。
これだけでも生物学的には充分驚異的な事実。しかもその虎の異質はそれだけではなく。
『再生能力?』
『はい。一〇番口径の散弾銃が数十発命中。いずれも瞬く間に傷が治癒したそうです』
一〇番は直径十九.五ミリの実包を使用する、現在製造されているなかでは最大の威力を持つ散弾銃
だ。細胞変異の特殊能力を応用し、多少の傷は数秒で治癒できるサイでさえ、これで連続で撃ち抜かれ
れば受けるダメージはそれなりだろう。
『捕獲のため駆り出された三十人のハンターのうち、十八人が死亡し五人が重傷を負ったとの報告も
受けました。映像もありますが、ご覧になりますか?』
『観る』
即答するサイ。
その答えを予想していたかのように、アイは手にしたディスクをパソコンに飲み込ませた。
鈍い起動音とともに画面が緑色になる。乾いた空気に満ち満ちた、中国奥地の森林を映し出す。
響いてくる低い唸り声。
金色と黒の肢体が、緑の背景から浮き上がるように現れた。
『これ?』
『はい』
画面の中で虎が吼える。金色と黒の弾丸となって跳ぶ。
宙を舞うその巨大な体躯に、無数の弾丸が浴びせかけられた。
悲痛な吼え声とともに血が噴き出し――
『アイ、ここスロー』
『かしこまりました』
サイの求めに合わせて操作するアイ。再生速度が三分の一になる。
血は激しく辺りに飛び散った。木々の幹を黒く湿らせ、緑の葉や下草を赤く染めた。
虎が地に伏す。半トン近いだろう体が倒れ込むと、カメラの固定された地面がドウッと揺れる。
画面がブレる。
血は溢れ続け、虎の見事な縞を見る間に斑に染め上げていく。
訛りのある中国語で歓声が上がる。
『………………』
サイが画面を見る目が険しくなった。眉間に深い皺を寄せ、全神経を画面に集中させる。
アイはといえば、そのサイの様子のほうを注視している。
ディスプレイの光を浴びて白く輝く彼の顔を。主の要求さえあればいつでも反応できるように。
虎の体からミシッ、と軋みにも似た音が響いた。
年月を経た橋が朽ち落ちていくときのようなその響きは、ミシミシ、ミシッ、と繰り返し続く。
厚い毛皮に覆われているために、何が起こっているか傍目には分かりにくい。
だがこの映像を観ているサイには分かっているはずだった。
これは打ち砕かれた骨を再構成し、新たに生成した細胞で血と肉を練り上げていくときの音だ。
数発の銃弾を受け、ちぎれかけていた右前足が完治した。
頚動脈を撃ち貫いていた首の傷もふさがった。
吹き飛ばされていた耳も眼球ごと破壊された頭蓋骨も、時の流れを逆回しにしたように元に戻っていく。
虎は立ち上がった。
四本の足で地を踏みしめて雄たけびを上げた。
サイは一部始終を観察していた。
虎が大地を蹴りハンターたちに迫るのも、上がっては途切れる断末魔の悲鳴も、噛みちぎられ
飛び散った内臓が木々の枝にオーナメントのように引っかかるのも、カメラのレンズに血しぶきと
肉塊が貼りつき画面をさえぎるのも。何もかも。
ひときわ大きな悲鳴が上がり、画面が激しく揺れ、最後には横倒しになって画像そのものが途切れる
まで、冷徹な観察者の目で見つめ続けていた。
『アイ』
『はい、サイ』
『次はこれを盗みに行こうか』
ピンクの舌で唇を嘗めながら、"怪盗"の顔で彼はそう告げた。
虎が大地を蹴りハンターたちに迫るのも、上がっては途切れる断末魔の悲鳴も、噛みちぎられ
飛び散った内臓が木々の枝にオーナメントのように引っかかるのも、カメラのレンズに血しぶきと
肉塊が貼りつき画面をさえぎるのも。何もかも。
ひときわ大きな悲鳴が上がり、画面が激しく揺れ、最後には横倒しになって画像そのものが途切れる
まで、冷徹な観察者の目で見つめ続けていた。
『アイ』
『はい、サイ』
『次はこれを盗みに行こうか』
ピンクの舌で唇を嘗めながら、"怪盗"の顔で彼はそう告げた。
捕らえられた虎の名は"我鬼(ウォ・クィィ)"。現地人ではなく密輸を手配した日本人がつけた名らしい。
「えっと、それって確か中国語で……」
『自我、あるいはエゴを意味する言葉ですね。日本では"ガキ"の読みのほうで、坂口安吾の作品名や
芥川龍之介の俳号として知られていますが』
船底貨物倉の扉は機械で操作するようになっており、人間の手では開けることができないように
造られている。こうした貨物船の船員の中には、輸送物をくすねて裏に流すような不届き者も少なく
ない。当然、警備は強固なものとなる。
アイと通信で会話をかわしながら、サイは固く閉じられた扉に近づいた。
「突然変異の虎が、なんで"エゴ"なんて名づけられたわけ?」
『由来についての報告は受けていません』
「ふーん、まーどーでもいいや。ねえそういやウォ・クィィっていう読み方言いにくいよ。ガキで良いよね?」
喋りながら、サイは扉に向けてひょいと右腕を伸ばす。肉体労働に従事してきた五十代男性の矍鑠と
した腕だが、金属製のこの重い扉をこじ開けるのに不充分なのは間違いない。そこでサイは筋肉の細胞に意識を集中させた。
腕が怒張し膨れ上がった。
ポパイの醜悪なデフォルメのように異様に盛り上がった筋肉は、鋼の扉に一撃で巨大な穴を穿つ。
轟音とともに船が大きく揺れた。
「駄目だよねぇやっぱりボロい船は。セキュリティもうちょっとしっかりしとかないと悪い奴らに
付け入られちゃうよ?」
『無理と分かっていて無茶な要求をするのは酷というものですよ、サイ』
ミシリと腕を元に戻しサイは笑う。
警報のアラーム音が船内に鳴り渡るが、気にせず扉に空いた穴をくぐって、倉庫の中へ。
虎以外に何を運んでいるかも確認済みである。薬物、臓物、銃器、レアメタル。およそ一般的に
『密輸』という言葉で連想されるほとんどの品が揃っていたが、くだんの虎以外に動物はいない。
「あったあった」
サイは発見する。
毛皮の匂い。体毛の間でうごめく蚤の匂い。汗の匂いに糞尿の匂い。
そして、耳を澄まして初めて分かるかすかな呼吸音。
白い布のかけられた巨大な物体から、それら全てが漏れてきていた。
『ど……です……か……イ』
船倉内は電波が悪いのか、アイの声が遠く雑音の混じったものになる。
「まだ現物は見てないから檻だけだけど……でかいね。イメージしてたより圧迫感あるよ。やべぇ
今俺すげぇワクワクしてる。早く殺してこいつの細胞(なかみ)が見たいや」
サイは檻を覆っている白い布に手を触れ、そのまま破り捨てようとした。
「えっと、それって確か中国語で……」
『自我、あるいはエゴを意味する言葉ですね。日本では"ガキ"の読みのほうで、坂口安吾の作品名や
芥川龍之介の俳号として知られていますが』
船底貨物倉の扉は機械で操作するようになっており、人間の手では開けることができないように
造られている。こうした貨物船の船員の中には、輸送物をくすねて裏に流すような不届き者も少なく
ない。当然、警備は強固なものとなる。
アイと通信で会話をかわしながら、サイは固く閉じられた扉に近づいた。
「突然変異の虎が、なんで"エゴ"なんて名づけられたわけ?」
『由来についての報告は受けていません』
「ふーん、まーどーでもいいや。ねえそういやウォ・クィィっていう読み方言いにくいよ。ガキで良いよね?」
喋りながら、サイは扉に向けてひょいと右腕を伸ばす。肉体労働に従事してきた五十代男性の矍鑠と
した腕だが、金属製のこの重い扉をこじ開けるのに不充分なのは間違いない。そこでサイは筋肉の細胞に意識を集中させた。
腕が怒張し膨れ上がった。
ポパイの醜悪なデフォルメのように異様に盛り上がった筋肉は、鋼の扉に一撃で巨大な穴を穿つ。
轟音とともに船が大きく揺れた。
「駄目だよねぇやっぱりボロい船は。セキュリティもうちょっとしっかりしとかないと悪い奴らに
付け入られちゃうよ?」
『無理と分かっていて無茶な要求をするのは酷というものですよ、サイ』
ミシリと腕を元に戻しサイは笑う。
警報のアラーム音が船内に鳴り渡るが、気にせず扉に空いた穴をくぐって、倉庫の中へ。
虎以外に何を運んでいるかも確認済みである。薬物、臓物、銃器、レアメタル。およそ一般的に
『密輸』という言葉で連想されるほとんどの品が揃っていたが、くだんの虎以外に動物はいない。
「あったあった」
サイは発見する。
毛皮の匂い。体毛の間でうごめく蚤の匂い。汗の匂いに糞尿の匂い。
そして、耳を澄まして初めて分かるかすかな呼吸音。
白い布のかけられた巨大な物体から、それら全てが漏れてきていた。
『ど……です……か……イ』
船倉内は電波が悪いのか、アイの声が遠く雑音の混じったものになる。
「まだ現物は見てないから檻だけだけど……でかいね。イメージしてたより圧迫感あるよ。やべぇ
今俺すげぇワクワクしてる。早く殺してこいつの細胞(なかみ)が見たいや」
サイは檻を覆っている白い布に手を触れ、そのまま破り捨てようとした。
そのとき。
ミシ、とサイにとっては聞き慣れた音が耳朶をなぶった。
「え――」
ミシミシ、ミシミシ。ミシミシミシミシミシッ。
『サ……どう……ました?』
「何、これ?」
檻から漏れてくる細胞変異の軋み。
「え――」
ミシミシ、ミシミシ。ミシミシミシミシミシッ。
『サ……どう……ました?』
「何、これ?」
檻から漏れてくる細胞変異の軋み。
「やばっ……!」
本能で跳び退いた瞬間。
檻を包む白い布が膨れ上がり――
ぶち破られた檻の中から、金と黒の巨獣がサイめがけて躍りかかった。
本能で跳び退いた瞬間。
檻を包む白い布が膨れ上がり――
ぶち破られた檻の中から、金と黒の巨獣がサイめがけて躍りかかった。