part.10
少々ケレンが強すぎたか、とポセイドンは自省した。
あの場ではああ言って見たものの、その実、身体へのダメージが無かったわけではないのだ。
無論、戦闘不能になってしまうような領域ではなかったし、戦闘続行は可能だが。
本来の状態ならば、おそらく黄金聖闘士といえども鎧袖一触であっただろうし、
テンスセンシズに覚醒していない者の攻撃などまずもって攻撃にはならなかっただろう。
仮定に仮定を重ねても詮無きことであるが、歴代ソロ家の人間の中で、
破格のポテンシャルをもったジュリアン・ソロであったとしても、
過去のアテナとの聖戦によって喪われてしまった己の本来の肉体を思わずにはいられなかった。
いや、神としての力の八割を封じられた現状が痛いのだ。
本来ならば海皇の覚醒によって完成するはずの肉体変化が、四年もの歳月をかけてもまだ不十分であることが、
海皇の悩みの種の一つとなっていた。
海皇は肉体改造を得意としており、過去にも男になることを望んだ女性を男へと変えたこともある。
それくらいならば平然とこなすのだから、神の力を封じられていたとしても
己の肉体くらいはベストといえる状態へと持っていくことは可能であるはずだった。
しかし、ジュリアン・ソロと融合してしまったがためにどうも不具合を起こしたらしく、
思うように肉体の変質がいかないのだ。
ジュリアン・ソロという表の顔を維持せねばならぬし、裏も表も知悉するものは今やソレントしか居ない。
せめてあと、三人は欲しい。と、海皇は思う。
錬金術師協会などと嘯(うそぶ)いてみたところで、実体は低能オカルティストのサロンに過ぎず、
使えそうだと思ったホーエンハイムは、こちらのきな臭さを感じ取ったか、早々に協会を脱退。
おそらくはトゥーレ協会でも頼ったのか、こちらの探索は徒労に終った。
その息子をようやく引きこんだは良いが、直情径行に過ぎてどうにも組織の一端としての使い勝手は悪い。
曲がりなりにも敵は、聖域は組織だ、組織に挑むには組織を用いねば成らないし、
今から組織を編成しようにも正しく時間的猶予が無い。
歴代教皇の妄執とも言うべき聖域の年輪の打倒は、神をもってしても至難の業だ。
あたかも時が芳醇なワインを産むかの如く、対敵滅殺の意思はオリンポス十二神次席の海皇を阻むだろう。
たとえ現在存在するすべての聖闘士を殺しつくしたところで、機構は生き残る。
聖闘士候補生すら殺しつくすことは事実上不可能だ。
聖衣を打ち壊し、聖闘士を殺しつくし、聖域を侵したとしても、アテナが滅ばぬ限りは何度でも蘇るだろう。
その前提すら困難であるのだから、言わずもがな。
内心苦笑しつつ、海皇は懐中から時計を取り出す、それは先ほどの一撃で粉砕されていた。
お気に入りの一品だっただけに、少し惜しい。そう思うのはジュリアン・ソロの部分だろう。
彼らの融合は均一ではなく、大理石のようにまだらなのだ。
この空間、『nのフィールド』と呼ばれる異空間に人間が滞在できるのは約三十分が限度なのだという。
人形師ローゼンの前身は、錬金術師であったらしい。
調査結果とそれに基づく考察、そして金糸雀の証言からだが、物理的側面からではなく、精神的側面からの
アプローチによってこの異空間を『発見』したらしい。
仮定ばかりの話だし、もしかしたら長期滞在も可能なのかもしれない。
だが、今の海皇が冒険心を起こすには、人的にも時間的にも猶予が足りないのだ。
「ピチカート、道案内を頼むよ」
いつの間にか彼の傍には明滅する光の玉が浮かんでいた。
ローゼンメイデンには人口精霊が付き添っている、その外見は光の玉であり、人格すらも有するという。
その人工精霊の一体であるピチカートは、ローゼンメイデンの第二ドール・金糸雀(かなりあ)の随伴である。
ポセイドンはエドワード・エルリックが蝶野爆爵探索の為に出立した直後に彼女を得ていた。
実に間の抜けた話になるが、彼の大叔母の遺品の中に「あった」のだ。
地中海に名をはせる名家であるソロ家の人間は、必ず収集癖を持つのだ。ロスチャイルド一族の如く。
実際、ジュリアン・ソロの父は数多くの妾を囲っていた、城戸光政ほどではないにしろ。
その結果、血みどろの後継者闘争を生み、彼の幼い妹をはじめとして多くの命が散ったのだが…。
その叔母はそんな苛烈な性を持たず、もっぱら洋の東西を問わぬアンティーク・ドールの収集家として有名であった。
正確な数は現在目録と合わせて調査中だが、日本の市松人形からロシアのマトリョーシカ、
そしてビスクドールに至るまでコレクションは達しており、その数は万を越していたらしい。
例の大洪水の後、体調を崩し床に臥せっていたのだが、つい数日前眠るように逝ったのだ。
「ジュリアン」の名づけ親でもあった彼女とジュリアン・ソロは懇意にしており、
それは海皇となっても続いていた事もあってか、彼女の遺言によって海皇は遺品群の受け取り手と成ったのだ。
ポセイドンもジュリアンも、幸か不幸かドールの収集癖は無く、亡き彼女の意を汲んで博物館でも作ろうかと思っていた所、
遺品目録と共に、ジュリアン・ソロに届けられた大叔母名義の手紙があったことが、金糸雀を得る由となった。
「まきますか?まきませんか?」
簡素な一文のみな、否、生前の彼女を良く知る人間からも、ソロ家ほどの水準の家柄の人間としてみても
ジュリアン・ソロからしてみても異常というほか無い手紙。
怪しい、以外の何物でもなかったが、即断即決をジュリアン・ソロ時代からの美徳としている彼にとって、
「まく」以外の選択肢は存在しなかった。
「まく」の側を丸く囲み、封筒に収め、デスクの上に置き、食事の為に一時退席した後、執務室に戻ると、
古めかしいが堅牢で頑丈なつくりの鞄がぽつんと置いてあったのだった。
なるほど、と彼は思った。
これが伝説にすらなった人形師の傑作のひとつかと
29(水) 23:42:34 ID:ZNaZaexX0
これが伝説にすらなった人形師の傑作のひとつかと。
はやる気持ちを抑え、彼は鞄を開けると、一人の少女が眠っていた。
カナリアイエローを基調とした楽士風の装いと、大きな額が愛らしい。
彼女の背の部分に巧妙にかくされた螺旋穴へと螺旋巻きを巻く。
これが先ほどの問いの正体なのだろう。
眠っていた刻が、人の手を介して動き出す。
もはやローゼンという人形師は、人でも神でも魔でもない何かへと変質しているに違いなかった。
人の手で作り出せる領域ではなく、まるでピュグマリオンの象牙人形の如き精緻さをもってあるこの人形は、
恐るべき事に人間のようにあくびをし、人間のように伸びをし、人間のように目じりに涙をため、
人間のように慌てふためいて、人間のように顔を真っ赤にして、己の名をあげたのだった。
「カナは金糸雀!
ローゼンメイデン第二ドールかしら!」
金糸雀のような高く美しい声色は、彼に何故か喪った妹を想起させていた。
外見相応にローティーンの少女らしさをもった彼女の言葉はとりとめもなく、
判断に難儀したが、ようするにこう言う事だ。
一つ、自分が活動するにはねじを巻き、かつローゼンメイデンとしての活動する為にエネルギーを提供パートナーが必要である。
二つ、ローゼンメイデンは至高の少女「アリス」になることを宿命付けられており、
そのためには他のローゼンメイデンと戦ってローザミスティカを奪わなければならない。
アリスゲームという宿命は、半ば本能としてこの小さな頭脳に刻まれているのだと言う。
それを聞いて彼は失望を禁じえなかった。
ローゼンは己の欲深さ故に己を見失ってしまったのだと、ジュリアン・ソロの部分は失望したのだ。
「はじめまして、金糸雀。
私の名はジュリアン・ソロ。気軽にお兄様と呼んでくれると嬉しい。」
何を口走っているのだ、ジュリアン・ソロ。
自制する海皇をジュリアンは凌駕した。
代償行為だとは分かっている、人形に肉親のような愛情を向けるのも異常だと理解している。
情を移してしまったら、賢者の石(ローザミスティカ)を手に入れづらくなることも重々承知だ。
だがそれでも、ジュリアン・ソロの中にあった肉親への愛情は、対象を求めていたのだ。
愛(アガペ)など知らなかったジュリアンにとって、僅か三月しか共に過ごさなかった妹の存在は大きかった。
その小さな妹が、愚かな後継者闘争によって死んでしまった事も大きかった。
今まで望んだこと、望んだものは全て手にしてきた、だが、死んだ人間はもう二度と微笑まない。
はしゃぎ回って服を汚すことも、転んで泣きじゃくることも、むくれることも、二度と出来ない。
喪った。という感情を自覚したのは、城戸沙織と出合った頃、後継者闘争に勝利を収めた頃だった。
あの時の自分は、まさしく狂っていた。
権力欲に狂った有象無象を廃し、ソロ家を、ソロ財団を掌握し、
天上天下に己の意思の及ばぬところは無いと自惚れ、権勢に狂っていた。
蛇蝎の如く嫌悪した親族連中と同じ、愚物に成り果てていたとは気が付かずに。
故に、城戸沙織の危険性にも気が付かず、うかうかと求婚までしたのだ。
あの狡猾なアテナに対してなんと迂闊であったことか。
最初の聖戦の戦端を切ったのはポセイドンであったが、それを誘発したのは他ならぬアテナだ。
ポセイドンの愛妾の一人を化け物に変えた上で殺した、つまりは完全なる挑発だったのだ。
アテナとしては、なにより己の正当性を得る為に「ポセイドンの側からの侵略戦争」でなければならず、
トロイア戦争で広まってしまった悪名を拭う為にも、アテナが戦うからには聖戦でなければならなかったのだ。
ポセイドンの愛妾一人の命など、アテナの前では毛ほどの意味も持たない。
こうしてポセイドンの猛威から地上を守った守護戦闘神という肩書きを得た女神は、
己こそが正義とばかりに、地上に君臨してきた。
戦の女神が大地を収めるのだから、自然、この地上に争いの絶えた時は無かった。
しかも、性質の悪い事に争う双方が互いに正義を主張して止まないのだ。
これがアレスの闘争ならば、ただ本能に従って争うだけだからまだ納得はいくのだが…。
そして、人が歴史を紡ぐ度、大地はすこしずつ荒廃していった。
神話の昔、あの暴龍神との戦いで神去った(かむさった※死んだこと)大地の女神が愛したこの大地が荒廃して行く。
彼女を愛した海皇に、冥王に、それが我慢できるはずも無かった。
おそらく、その力さえあれば天主といえども静観はしなかったろう。
ポセイドンの戦いは、全て女と己の意地の為の戦いだった。
聖戦もまた、例外ではない。
今回もまた、例外ではない。
「おにーさまー!
お帰りなのかしらー!」
さえずりのような金糸雀の声が聞こえる。
仮初(かりそめ)の人形に過ぎないが、今のジュリアン・ソロにはかけがえの無い妹だ。
海皇はそんな己を、すこし面白いと思っている。それを少々危険と感じないでもないが、これもまた余興だと割り切る事にした。
死なず、老いない海皇は、余興を求めるのだ。
「お迎えありがとう。
金糸雀はお利口さんだね」
そう、割り切ることにしたのだ。
妹を愛でる兄、というよりは、娘を愛でる父のように、彼は金糸雀の頭を撫でる。
彼女を喪いたくないという気持ちと同時に、海皇の力を完全なものとしたいという欲望が鎌首をもたげるのも感じる。
俺は欲深い。
ジュリアン・ソロは胸中で毒づくが、金糸雀は勿論気が付かない。
少々ケレンが強すぎたか、とポセイドンは自省した。
あの場ではああ言って見たものの、その実、身体へのダメージが無かったわけではないのだ。
無論、戦闘不能になってしまうような領域ではなかったし、戦闘続行は可能だが。
本来の状態ならば、おそらく黄金聖闘士といえども鎧袖一触であっただろうし、
テンスセンシズに覚醒していない者の攻撃などまずもって攻撃にはならなかっただろう。
仮定に仮定を重ねても詮無きことであるが、歴代ソロ家の人間の中で、
破格のポテンシャルをもったジュリアン・ソロであったとしても、
過去のアテナとの聖戦によって喪われてしまった己の本来の肉体を思わずにはいられなかった。
いや、神としての力の八割を封じられた現状が痛いのだ。
本来ならば海皇の覚醒によって完成するはずの肉体変化が、四年もの歳月をかけてもまだ不十分であることが、
海皇の悩みの種の一つとなっていた。
海皇は肉体改造を得意としており、過去にも男になることを望んだ女性を男へと変えたこともある。
それくらいならば平然とこなすのだから、神の力を封じられていたとしても
己の肉体くらいはベストといえる状態へと持っていくことは可能であるはずだった。
しかし、ジュリアン・ソロと融合してしまったがためにどうも不具合を起こしたらしく、
思うように肉体の変質がいかないのだ。
ジュリアン・ソロという表の顔を維持せねばならぬし、裏も表も知悉するものは今やソレントしか居ない。
せめてあと、三人は欲しい。と、海皇は思う。
錬金術師協会などと嘯(うそぶ)いてみたところで、実体は低能オカルティストのサロンに過ぎず、
使えそうだと思ったホーエンハイムは、こちらのきな臭さを感じ取ったか、早々に協会を脱退。
おそらくはトゥーレ協会でも頼ったのか、こちらの探索は徒労に終った。
その息子をようやく引きこんだは良いが、直情径行に過ぎてどうにも組織の一端としての使い勝手は悪い。
曲がりなりにも敵は、聖域は組織だ、組織に挑むには組織を用いねば成らないし、
今から組織を編成しようにも正しく時間的猶予が無い。
歴代教皇の妄執とも言うべき聖域の年輪の打倒は、神をもってしても至難の業だ。
あたかも時が芳醇なワインを産むかの如く、対敵滅殺の意思はオリンポス十二神次席の海皇を阻むだろう。
たとえ現在存在するすべての聖闘士を殺しつくしたところで、機構は生き残る。
聖闘士候補生すら殺しつくすことは事実上不可能だ。
聖衣を打ち壊し、聖闘士を殺しつくし、聖域を侵したとしても、アテナが滅ばぬ限りは何度でも蘇るだろう。
その前提すら困難であるのだから、言わずもがな。
内心苦笑しつつ、海皇は懐中から時計を取り出す、それは先ほどの一撃で粉砕されていた。
お気に入りの一品だっただけに、少し惜しい。そう思うのはジュリアン・ソロの部分だろう。
彼らの融合は均一ではなく、大理石のようにまだらなのだ。
この空間、『nのフィールド』と呼ばれる異空間に人間が滞在できるのは約三十分が限度なのだという。
人形師ローゼンの前身は、錬金術師であったらしい。
調査結果とそれに基づく考察、そして金糸雀の証言からだが、物理的側面からではなく、精神的側面からの
アプローチによってこの異空間を『発見』したらしい。
仮定ばかりの話だし、もしかしたら長期滞在も可能なのかもしれない。
だが、今の海皇が冒険心を起こすには、人的にも時間的にも猶予が足りないのだ。
「ピチカート、道案内を頼むよ」
いつの間にか彼の傍には明滅する光の玉が浮かんでいた。
ローゼンメイデンには人口精霊が付き添っている、その外見は光の玉であり、人格すらも有するという。
その人工精霊の一体であるピチカートは、ローゼンメイデンの第二ドール・金糸雀(かなりあ)の随伴である。
ポセイドンはエドワード・エルリックが蝶野爆爵探索の為に出立した直後に彼女を得ていた。
実に間の抜けた話になるが、彼の大叔母の遺品の中に「あった」のだ。
地中海に名をはせる名家であるソロ家の人間は、必ず収集癖を持つのだ。ロスチャイルド一族の如く。
実際、ジュリアン・ソロの父は数多くの妾を囲っていた、城戸光政ほどではないにしろ。
その結果、血みどろの後継者闘争を生み、彼の幼い妹をはじめとして多くの命が散ったのだが…。
その叔母はそんな苛烈な性を持たず、もっぱら洋の東西を問わぬアンティーク・ドールの収集家として有名であった。
正確な数は現在目録と合わせて調査中だが、日本の市松人形からロシアのマトリョーシカ、
そしてビスクドールに至るまでコレクションは達しており、その数は万を越していたらしい。
例の大洪水の後、体調を崩し床に臥せっていたのだが、つい数日前眠るように逝ったのだ。
「ジュリアン」の名づけ親でもあった彼女とジュリアン・ソロは懇意にしており、
それは海皇となっても続いていた事もあってか、彼女の遺言によって海皇は遺品群の受け取り手と成ったのだ。
ポセイドンもジュリアンも、幸か不幸かドールの収集癖は無く、亡き彼女の意を汲んで博物館でも作ろうかと思っていた所、
遺品目録と共に、ジュリアン・ソロに届けられた大叔母名義の手紙があったことが、金糸雀を得る由となった。
「まきますか?まきませんか?」
簡素な一文のみな、否、生前の彼女を良く知る人間からも、ソロ家ほどの水準の家柄の人間としてみても
ジュリアン・ソロからしてみても異常というほか無い手紙。
怪しい、以外の何物でもなかったが、即断即決をジュリアン・ソロ時代からの美徳としている彼にとって、
「まく」以外の選択肢は存在しなかった。
「まく」の側を丸く囲み、封筒に収め、デスクの上に置き、食事の為に一時退席した後、執務室に戻ると、
古めかしいが堅牢で頑丈なつくりの鞄がぽつんと置いてあったのだった。
なるほど、と彼は思った。
これが伝説にすらなった人形師の傑作のひとつかと
29(水) 23:42:34 ID:ZNaZaexX0
これが伝説にすらなった人形師の傑作のひとつかと。
はやる気持ちを抑え、彼は鞄を開けると、一人の少女が眠っていた。
カナリアイエローを基調とした楽士風の装いと、大きな額が愛らしい。
彼女の背の部分に巧妙にかくされた螺旋穴へと螺旋巻きを巻く。
これが先ほどの問いの正体なのだろう。
眠っていた刻が、人の手を介して動き出す。
もはやローゼンという人形師は、人でも神でも魔でもない何かへと変質しているに違いなかった。
人の手で作り出せる領域ではなく、まるでピュグマリオンの象牙人形の如き精緻さをもってあるこの人形は、
恐るべき事に人間のようにあくびをし、人間のように伸びをし、人間のように目じりに涙をため、
人間のように慌てふためいて、人間のように顔を真っ赤にして、己の名をあげたのだった。
「カナは金糸雀!
ローゼンメイデン第二ドールかしら!」
金糸雀のような高く美しい声色は、彼に何故か喪った妹を想起させていた。
外見相応にローティーンの少女らしさをもった彼女の言葉はとりとめもなく、
判断に難儀したが、ようするにこう言う事だ。
一つ、自分が活動するにはねじを巻き、かつローゼンメイデンとしての活動する為にエネルギーを提供パートナーが必要である。
二つ、ローゼンメイデンは至高の少女「アリス」になることを宿命付けられており、
そのためには他のローゼンメイデンと戦ってローザミスティカを奪わなければならない。
アリスゲームという宿命は、半ば本能としてこの小さな頭脳に刻まれているのだと言う。
それを聞いて彼は失望を禁じえなかった。
ローゼンは己の欲深さ故に己を見失ってしまったのだと、ジュリアン・ソロの部分は失望したのだ。
「はじめまして、金糸雀。
私の名はジュリアン・ソロ。気軽にお兄様と呼んでくれると嬉しい。」
何を口走っているのだ、ジュリアン・ソロ。
自制する海皇をジュリアンは凌駕した。
代償行為だとは分かっている、人形に肉親のような愛情を向けるのも異常だと理解している。
情を移してしまったら、賢者の石(ローザミスティカ)を手に入れづらくなることも重々承知だ。
だがそれでも、ジュリアン・ソロの中にあった肉親への愛情は、対象を求めていたのだ。
愛(アガペ)など知らなかったジュリアンにとって、僅か三月しか共に過ごさなかった妹の存在は大きかった。
その小さな妹が、愚かな後継者闘争によって死んでしまった事も大きかった。
今まで望んだこと、望んだものは全て手にしてきた、だが、死んだ人間はもう二度と微笑まない。
はしゃぎ回って服を汚すことも、転んで泣きじゃくることも、むくれることも、二度と出来ない。
喪った。という感情を自覚したのは、城戸沙織と出合った頃、後継者闘争に勝利を収めた頃だった。
あの時の自分は、まさしく狂っていた。
権力欲に狂った有象無象を廃し、ソロ家を、ソロ財団を掌握し、
天上天下に己の意思の及ばぬところは無いと自惚れ、権勢に狂っていた。
蛇蝎の如く嫌悪した親族連中と同じ、愚物に成り果てていたとは気が付かずに。
故に、城戸沙織の危険性にも気が付かず、うかうかと求婚までしたのだ。
あの狡猾なアテナに対してなんと迂闊であったことか。
最初の聖戦の戦端を切ったのはポセイドンであったが、それを誘発したのは他ならぬアテナだ。
ポセイドンの愛妾の一人を化け物に変えた上で殺した、つまりは完全なる挑発だったのだ。
アテナとしては、なにより己の正当性を得る為に「ポセイドンの側からの侵略戦争」でなければならず、
トロイア戦争で広まってしまった悪名を拭う為にも、アテナが戦うからには聖戦でなければならなかったのだ。
ポセイドンの愛妾一人の命など、アテナの前では毛ほどの意味も持たない。
こうしてポセイドンの猛威から地上を守った守護戦闘神という肩書きを得た女神は、
己こそが正義とばかりに、地上に君臨してきた。
戦の女神が大地を収めるのだから、自然、この地上に争いの絶えた時は無かった。
しかも、性質の悪い事に争う双方が互いに正義を主張して止まないのだ。
これがアレスの闘争ならば、ただ本能に従って争うだけだからまだ納得はいくのだが…。
そして、人が歴史を紡ぐ度、大地はすこしずつ荒廃していった。
神話の昔、あの暴龍神との戦いで神去った(かむさった※死んだこと)大地の女神が愛したこの大地が荒廃して行く。
彼女を愛した海皇に、冥王に、それが我慢できるはずも無かった。
おそらく、その力さえあれば天主といえども静観はしなかったろう。
ポセイドンの戦いは、全て女と己の意地の為の戦いだった。
聖戦もまた、例外ではない。
今回もまた、例外ではない。
「おにーさまー!
お帰りなのかしらー!」
さえずりのような金糸雀の声が聞こえる。
仮初(かりそめ)の人形に過ぎないが、今のジュリアン・ソロにはかけがえの無い妹だ。
海皇はそんな己を、すこし面白いと思っている。それを少々危険と感じないでもないが、これもまた余興だと割り切る事にした。
死なず、老いない海皇は、余興を求めるのだ。
「お迎えありがとう。
金糸雀はお利口さんだね」
そう、割り切ることにしたのだ。
妹を愛でる兄、というよりは、娘を愛でる父のように、彼は金糸雀の頭を撫でる。
彼女を喪いたくないという気持ちと同時に、海皇の力を完全なものとしたいという欲望が鎌首をもたげるのも感じる。
俺は欲深い。
ジュリアン・ソロは胸中で毒づくが、金糸雀は勿論気が付かない。