シエルがジェルーサレムズ・ロットを訪れたのはこれが初めてだった。
にも関わらず教会への道案内はまったく必要が無かった。
そもそも肩に担いだキャラハンが案内役として何の役にも立たないのだが、どういう訳か彼に聞かずとも
“どの方角に向かえばよいのか”が自然にわかるからだ。
しばしの間、何かに導かれるように歩みを進めるシエル。
静寂と眠りに包まれた民家を何軒か通り過ぎ、幾つかの角を曲がり、ようやく教会らしき建物が
眼に入ったその時、シエルは理解した。
「すごい……」
教会そのものが眩ささえ錯覚させる神々しい力を発していたのだ。それもサン・ピエトロ大聖堂や
システィーナ礼拝堂に匹敵する、とてつもなく巨大な力だ。
町の住人には何の変哲も無いただの教会に見えるだろうが、聖職者や強い霊能力を持つ者ならば少し眼を凝らすだけで、
屋根に据えられた大十字架から大扉の蝶番に至るまで、建物全体を覆う青白い光が見て取れる筈である。
これならば化物や悪霊の類は教会どころか、町そのものに近づけないだろう。
教会に備わる元々の神聖な力に、更に上乗せして聖地レベルにまで引き上げてしまう。このような離れ業は
キャラハンの持つ桁外れの法力と信仰心の成せるものだ。
シエルは思わず顔を綻ばせる。
(うん、流石はキャラハン神父。まだまだ腕は落ちていないようですね)
“現役時代”と比べて少しも衰えを見せていないキャラハンの力が、まるで我事のように嬉しいらしい。
「ううん、着いたのかい?」
感心するシエルの横で突然、キャラハンが頭を振りながら彼女に預けていた身体を離した。
「ちょっと待っててくれ。今、鍵を開けるよ。鍵、鍵はと……」
右へ左へと揺れる頼りない歩調で正面の大扉に向かい、刑事コロンボを連想させる仕草で懐やポケットを
ゴソゴソ探る。
そして、扉を目前にしても足は止まらず、その様子を見ていたシエルの予想通り、前進の勢いそのままに
額の辺りを扉へ強くぶつけてしまった。
どうやら眼を開けていなかったらしい。
「痛たたた……」
その場に尻餅を突き、頭を押さえて顔をしかめるキャラハン。
シエルは溜息を吐いて、先程の彼に向けた感心を後悔したい気分に陥った。
(人としては堕ちるとこまで堕ちているようですが……)
にも関わらず教会への道案内はまったく必要が無かった。
そもそも肩に担いだキャラハンが案内役として何の役にも立たないのだが、どういう訳か彼に聞かずとも
“どの方角に向かえばよいのか”が自然にわかるからだ。
しばしの間、何かに導かれるように歩みを進めるシエル。
静寂と眠りに包まれた民家を何軒か通り過ぎ、幾つかの角を曲がり、ようやく教会らしき建物が
眼に入ったその時、シエルは理解した。
「すごい……」
教会そのものが眩ささえ錯覚させる神々しい力を発していたのだ。それもサン・ピエトロ大聖堂や
システィーナ礼拝堂に匹敵する、とてつもなく巨大な力だ。
町の住人には何の変哲も無いただの教会に見えるだろうが、聖職者や強い霊能力を持つ者ならば少し眼を凝らすだけで、
屋根に据えられた大十字架から大扉の蝶番に至るまで、建物全体を覆う青白い光が見て取れる筈である。
これならば化物や悪霊の類は教会どころか、町そのものに近づけないだろう。
教会に備わる元々の神聖な力に、更に上乗せして聖地レベルにまで引き上げてしまう。このような離れ業は
キャラハンの持つ桁外れの法力と信仰心の成せるものだ。
シエルは思わず顔を綻ばせる。
(うん、流石はキャラハン神父。まだまだ腕は落ちていないようですね)
“現役時代”と比べて少しも衰えを見せていないキャラハンの力が、まるで我事のように嬉しいらしい。
「ううん、着いたのかい?」
感心するシエルの横で突然、キャラハンが頭を振りながら彼女に預けていた身体を離した。
「ちょっと待っててくれ。今、鍵を開けるよ。鍵、鍵はと……」
右へ左へと揺れる頼りない歩調で正面の大扉に向かい、刑事コロンボを連想させる仕草で懐やポケットを
ゴソゴソ探る。
そして、扉を目前にしても足は止まらず、その様子を見ていたシエルの予想通り、前進の勢いそのままに
額の辺りを扉へ強くぶつけてしまった。
どうやら眼を開けていなかったらしい。
「痛たたた……」
その場に尻餅を突き、頭を押さえて顔をしかめるキャラハン。
シエルは溜息を吐いて、先程の彼に向けた感心を後悔したい気分に陥った。
(人としては堕ちるとこまで堕ちているようですが……)
千鳥足のキャラハンに先導され、さして広くないが小ぎれいな礼拝堂を通り過ぎ、シエルは居住スペースである
リビングとダイニングとキッチンがひとつになったような手狭な部屋に足を踏み入れた。
その途端、シエルは室内の見るも無残な光景に唖然としてしまった。
床にはジム・ビームの空き瓶が無数に転がり、向かい合わせるように置いてある二つのソファや
粗末なテーブルの上にはあらゆる書籍が山と積まれている。
それは礼拝堂からは想像もつかない汚れ具合、散らかり具合だ。おそらく礼拝堂の方は有志の信徒達が
掃除してくれているのだろう。そうでなければ説明がつかない。
「さあさあ、入ってくれ。今、コーヒーでも――」
「キャ、キャラハン神父は座っていて下さい!」
空き瓶を蹴散らし蹴散らしキッチンに向かおうとするキャラハンを、シエルは慌てて押し止めた。
こんな調子で火を扱われてはせっかくの素晴らしい教会を全焼させてしまう。よしんば何とか成功したとしても、
コーヒーであってコーヒーでない怪しげな液体が出てきそうだ。
「失礼かもしれませんが、キッチンをお借りしますね。私がコーヒーをお淹れしますから」
無理矢理ソファに座らされたものの、キャラハンは悪くない気分だ。
立場上は生涯独身を貫かねばならず、それでなくても女性に見向きもされないであろう大酒飲みの彼にとって、
“実年齢はどうあれ”若く美しい女性にキッチンを任せる機会などなかなか無いのだから。
キャラハンはいつもより幾分ゆったりとソファに掛け、キッチンに向かうシエルの背中を見つめる。
リビングとダイニングとキッチンがひとつになったような手狭な部屋に足を踏み入れた。
その途端、シエルは室内の見るも無残な光景に唖然としてしまった。
床にはジム・ビームの空き瓶が無数に転がり、向かい合わせるように置いてある二つのソファや
粗末なテーブルの上にはあらゆる書籍が山と積まれている。
それは礼拝堂からは想像もつかない汚れ具合、散らかり具合だ。おそらく礼拝堂の方は有志の信徒達が
掃除してくれているのだろう。そうでなければ説明がつかない。
「さあさあ、入ってくれ。今、コーヒーでも――」
「キャ、キャラハン神父は座っていて下さい!」
空き瓶を蹴散らし蹴散らしキッチンに向かおうとするキャラハンを、シエルは慌てて押し止めた。
こんな調子で火を扱われてはせっかくの素晴らしい教会を全焼させてしまう。よしんば何とか成功したとしても、
コーヒーであってコーヒーでない怪しげな液体が出てきそうだ。
「失礼かもしれませんが、キッチンをお借りしますね。私がコーヒーをお淹れしますから」
無理矢理ソファに座らされたものの、キャラハンは悪くない気分だ。
立場上は生涯独身を貫かねばならず、それでなくても女性に見向きもされないであろう大酒飲みの彼にとって、
“実年齢はどうあれ”若く美しい女性にキッチンを任せる機会などなかなか無いのだから。
キャラハンはいつもより幾分ゆったりとソファに掛け、キッチンに向かうシエルの背中を見つめる。
しかし、彼女は彼女でキッチンを前に途方に暮れていた。
何しろコーヒーカップはおろか、見渡す限りの食器が洗いもせず放置されている。
まずは洗い物から始めなくては。
シエルは心を無にすると、ひとまず一番の大物である既に虫の湧いている食べ残しのミートソース・スパゲティが
乗せられた皿を片付け始めた。
残飯を袋詰めしてゴミ箱に放り込み、ありったけの洗剤で食器を擦りながら、背でキャラハンに話しかける。
「でも、安心しましたよ。全然お変わり無いのですもの。ホント、あ・い・か・わ・ら・ず」
“相変わらず”が何を指しているかは言うに及ばない。飲酒という彼の悪癖は昨日や今日に
始まった訳ではないのだ。
あくまで背を向けたまま、悪戯っぽく笑うシエル。
キャラハンはお返しとばかりに、ひどく真面目くさった声色で彼女に囁きかけた。
「君も変わらず美しいよ。いや、少し変わったかな? 雰囲気が明るくなったようだね。前にも増して魅力的だ」
「そ、そうですか……?」
途端にシエルの声は小さくなり、背中は丸くなってしまった。ツヤのあるショートヘアから覗く耳を見れば、
今の彼女の顔色は容易に想像が出来る。
この時、キャラハンは「六十歳を過ぎたら聖職を投げうってハリウッドに行き、端役のひとつにでもありつこうか」
などという馬鹿げた事を少しばかり本気で考えていた。
何しろコーヒーカップはおろか、見渡す限りの食器が洗いもせず放置されている。
まずは洗い物から始めなくては。
シエルは心を無にすると、ひとまず一番の大物である既に虫の湧いている食べ残しのミートソース・スパゲティが
乗せられた皿を片付け始めた。
残飯を袋詰めしてゴミ箱に放り込み、ありったけの洗剤で食器を擦りながら、背でキャラハンに話しかける。
「でも、安心しましたよ。全然お変わり無いのですもの。ホント、あ・い・か・わ・ら・ず」
“相変わらず”が何を指しているかは言うに及ばない。飲酒という彼の悪癖は昨日や今日に
始まった訳ではないのだ。
あくまで背を向けたまま、悪戯っぽく笑うシエル。
キャラハンはお返しとばかりに、ひどく真面目くさった声色で彼女に囁きかけた。
「君も変わらず美しいよ。いや、少し変わったかな? 雰囲気が明るくなったようだね。前にも増して魅力的だ」
「そ、そうですか……?」
途端にシエルの声は小さくなり、背中は丸くなってしまった。ツヤのあるショートヘアから覗く耳を見れば、
今の彼女の顔色は容易に想像が出来る。
この時、キャラハンは「六十歳を過ぎたら聖職を投げうってハリウッドに行き、端役のひとつにでもありつこうか」
などという馬鹿げた事を少しばかり本気で考えていた。
テーブルの上にはコーヒーの入ったカップが二つ。
シエルはもののついでとばかりに乱雑に積まれた書籍類を整理しており、ソファのキャラハンは
カップに“右手”を伸ばす。
取っ手部分に指を入れようとするも、関節が強張ってなかなか入らない。
ようやく持てたかと思えば握る力が足りないのか、カップは簡単に傾き、中身はテーブルにこぼれ落ちる。
いつもこうだ。忌々しい古き利き手め。いちいち逆らうな。
「クソッ!」
いい歳をして不良少年のような悪態を吐くキャラハンを、シエルは分厚い神学書を抱えながら
まじまじと見直す。
シエルはもののついでとばかりに乱雑に積まれた書籍類を整理しており、ソファのキャラハンは
カップに“右手”を伸ばす。
取っ手部分に指を入れようとするも、関節が強張ってなかなか入らない。
ようやく持てたかと思えば握る力が足りないのか、カップは簡単に傾き、中身はテーブルにこぼれ落ちる。
いつもこうだ。忌々しい古き利き手め。いちいち逆らうな。
「クソッ!」
いい歳をして不良少年のような悪態を吐くキャラハンを、シエルは分厚い神学書を抱えながら
まじまじと見直す。
そういえば、さっきから行動のひとつひとつが不自然だ。
足は酔いとは無関係な動きで引きずっていたし、ただのコーヒーカップを持つのにも手間取っている。
いや、手間取るというよりも“まったく持てていない”。
足は酔いとは無関係な動きで引きずっていたし、ただのコーヒーカップを持つのにも手間取っている。
いや、手間取るというよりも“まったく持てていない”。
シエルは本を床に置き、ソファに掛けてキャラハンと向かい合った。
「あの、どこか具合でも……?」
キャラハンは苛立ちのあまり左手でカップを掴み、コーヒーを啜っていた。
「去年のちょうど今頃かな? 脳梗塞をやってしまってね。片麻痺というヤツさ」
自嘲的な色合いの濃い笑いが、口周りの皺を深くする。
「最初は手足がまったく動かなかったし、言葉も思うように喋られなかったな。何ヶ月もリハビリを重ねて、
ようやくこの様だ。フフフ……」
「まあ……」
それ以上言葉の続かないシエルは何を語りかけていいのかわからないまま、キャラハンの顔を見つめていた。
奇妙に歪めた口元(シエルにはどうしても笑っているようには見えなかった)の少し上に光る二つの眼。
透明感のあるブルーの虹彩とは対照的に、白目は黄色い濁りが生じている。
シエルは専門的な医療知識を有している訳ではないが、それでもその黄疸症状は肝臓に重大な異常を
きたしている兆候だという事くらいはわかった。
脳梗塞、重度のアルコール依存症、それにおそらく肝硬変か何か。
ヴァチカンでもトップクラスの実力者が、こんな辺境の田舎町に追いやられ、鬱々とした余生を過ごし、
酒に殺されようとしている。それがシエルには口惜しくて堪らない。
無意味とは知りつつも、彼女はお決まりの言葉を口にする。
「あの、どこか具合でも……?」
キャラハンは苛立ちのあまり左手でカップを掴み、コーヒーを啜っていた。
「去年のちょうど今頃かな? 脳梗塞をやってしまってね。片麻痺というヤツさ」
自嘲的な色合いの濃い笑いが、口周りの皺を深くする。
「最初は手足がまったく動かなかったし、言葉も思うように喋られなかったな。何ヶ月もリハビリを重ねて、
ようやくこの様だ。フフフ……」
「まあ……」
それ以上言葉の続かないシエルは何を語りかけていいのかわからないまま、キャラハンの顔を見つめていた。
奇妙に歪めた口元(シエルにはどうしても笑っているようには見えなかった)の少し上に光る二つの眼。
透明感のあるブルーの虹彩とは対照的に、白目は黄色い濁りが生じている。
シエルは専門的な医療知識を有している訳ではないが、それでもその黄疸症状は肝臓に重大な異常を
きたしている兆候だという事くらいはわかった。
脳梗塞、重度のアルコール依存症、それにおそらく肝硬変か何か。
ヴァチカンでもトップクラスの実力者が、こんな辺境の田舎町に追いやられ、鬱々とした余生を過ごし、
酒に殺されようとしている。それがシエルには口惜しくて堪らない。
無意味とは知りつつも、彼女はお決まりの言葉を口にする。
「もう、お酒はお止しになられた方が――」
「そうだ、アレックスは? 彼は元気でやってるか? もう十年近く会ってないが」
善意と好意の忠告はキャラハンのわざとらしい話題の転換で遮られた。
若かりし頃に読んだ日本文学の翻訳版の一節が、彼の脳裏を渦巻いている。
“知っていながらその告白を強いる。何という陰険な刑罰であろう”
そして、シエルもこの健康談議を続ける気を既に失っていた。
腹を立ててはいないと言えば嘘になるが、この方がお互い気は楽なのかもしれない。
こちらの想いが相手の重荷になるのなら、放っておくのもひとつの想いだ。
(別にいいですよ。触れられたくないのだったら触れません。私だってあなたの健康診断に来た訳では
ないのですから……)
努めてそう思う事にして、コーヒーに口をつけた。
若かりし頃に読んだ日本文学の翻訳版の一節が、彼の脳裏を渦巻いている。
“知っていながらその告白を強いる。何という陰険な刑罰であろう”
そして、シエルもこの健康談議を続ける気を既に失っていた。
腹を立ててはいないと言えば嘘になるが、この方がお互い気は楽なのかもしれない。
こちらの想いが相手の重荷になるのなら、放っておくのもひとつの想いだ。
(別にいいですよ。触れられたくないのだったら触れません。私だってあなたの健康診断に来た訳では
ないのですから……)
努めてそう思う事にして、コーヒーに口をつけた。
ちなみにキャラハンの言う“アレックス(Alex)”とは、言わずと知れた“アレクサンド・アンデルセン神父
(Father Alexander Anderson)”その人だ。
だが、彼を愛称で呼ぶなど他の誰にも出来やしない。
同格と言われているシエルにも、上司であるエンリコ・マクスウェル機関長にも。
そう呼ぶのはキャラハンくらいのものだ。
(Father Alexander Anderson)”その人だ。
だが、彼を愛称で呼ぶなど他の誰にも出来やしない。
同格と言われているシエルにも、上司であるエンリコ・マクスウェル機関長にも。
そう呼ぶのはキャラハンくらいのものだ。
それはさておき。
内心はどうあれ、シエルはにこやかにアンデルセンの近況を伝える。
「アンデルセン神父ならあなたと同じで相変わらずです。元気で殺ってますよ。
今は“ユダの福音書”を追って、スイスのジュネーヴに飛んでいます。1978年にエジプトで発見され、
ジュネーヴ大学で極秘裏に復元・分析されていた文書がつい先頃、本物と断定されました」
「ほほう。千八百年前から存在が噂され、流布されている内容も口伝の形だったが……」
僻地の司祭には初耳の情報だ。ABCやディスカバリーチャンネルを観ていても、そんなセンセーショナルで
ホットな最新ニュースは流れていない。
どうせ情報管理局第2課“ヨハネ”の仕事(スパイ)なのだろう。そうだとすればキャラハンには
今後のヴァチカンの方針が手に取るようにわかる。
まだ酔いの残る頭で“暗殺”“焚書”の光景を漫然と空想するキャラハンに構わず、シエルは話を続ける。
「その内容が問題です。それは過去に発見された死海文書やナグ・ハマディ文書の比ではありません」
表情が真剣味を帯びていく。やはり彼女も“第13課(イスカリオテ)”なのだ。
「主イエスを売り渡した裏切りの重罪人がその実、主に最も忠実な弟子であり、なおかつ主が奥義を授けられた
唯一の人間だった……――それが示された文書が公の眼に触れ、世に広まれば、反教会派やグノーシス主義者達を
勢いづかせる格好の餌になるでしょう」
「なるほどね。それを見た者は誰もいない。いや、そんな物は初めから存在していなかった、か……。
アレックスにピッタリの任務だな」
多少、嫌味な言い方だが本質を突いている。
アンデルセンの投入を必要とする任務で、最も優先されるべき事項は“殺す”だ。
それはシエルも心得ているらしく、キャラハンの発した皮肉めいた言葉には苦笑いを返すしかない。
更には苦笑いを続けたまま、彼の下を訪れた本来の目的へと少しずつ話題をスライドさせていく。
内心はどうあれ、シエルはにこやかにアンデルセンの近況を伝える。
「アンデルセン神父ならあなたと同じで相変わらずです。元気で殺ってますよ。
今は“ユダの福音書”を追って、スイスのジュネーヴに飛んでいます。1978年にエジプトで発見され、
ジュネーヴ大学で極秘裏に復元・分析されていた文書がつい先頃、本物と断定されました」
「ほほう。千八百年前から存在が噂され、流布されている内容も口伝の形だったが……」
僻地の司祭には初耳の情報だ。ABCやディスカバリーチャンネルを観ていても、そんなセンセーショナルで
ホットな最新ニュースは流れていない。
どうせ情報管理局第2課“ヨハネ”の仕事(スパイ)なのだろう。そうだとすればキャラハンには
今後のヴァチカンの方針が手に取るようにわかる。
まだ酔いの残る頭で“暗殺”“焚書”の光景を漫然と空想するキャラハンに構わず、シエルは話を続ける。
「その内容が問題です。それは過去に発見された死海文書やナグ・ハマディ文書の比ではありません」
表情が真剣味を帯びていく。やはり彼女も“第13課(イスカリオテ)”なのだ。
「主イエスを売り渡した裏切りの重罪人がその実、主に最も忠実な弟子であり、なおかつ主が奥義を授けられた
唯一の人間だった……――それが示された文書が公の眼に触れ、世に広まれば、反教会派やグノーシス主義者達を
勢いづかせる格好の餌になるでしょう」
「なるほどね。それを見た者は誰もいない。いや、そんな物は初めから存在していなかった、か……。
アレックスにピッタリの任務だな」
多少、嫌味な言い方だが本質を突いている。
アンデルセンの投入を必要とする任務で、最も優先されるべき事項は“殺す”だ。
それはシエルも心得ているらしく、キャラハンの発した皮肉めいた言葉には苦笑いを返すしかない。
更には苦笑いを続けたまま、彼の下を訪れた本来の目的へと少しずつ話題をスライドさせていく。
「それと……私も近く日本へ派遣されると思います。吸血鬼討伐の為に」
キャラハンはさして驚く事も無く、肩をすくめて口を芝居がかったへの字に曲げた。
最早、“日本で兇悪な吸血鬼で暴れまわっている”など“イギリスのプレミアリーグでフーリガンが
暴れまわっている”くらいの価値でしかない。つまり日常茶飯事と同義だ。
「やれやれ。ネロ・カオス、アカシャの蛇、ワラキアの夜。日本はよほど吸血鬼に縁があるようだ。
大して信心深くもない人間ばかりだというのに。いや、だからこそか……。
それで? プランは立てているのかい? “ジャックの血統(J-bleed)”が一筋縄ではいかないのは
経験済みだとは思うが」
己の標的とする吸血鬼の二つ名がキャラハンの口から飛び出した瞬間、シエルの顔色がサッと変わった。
テーブルを挟んで向かい合う両者の表情は実に対照的だ。
知る者と知らざる者。否、“知り得る者”と“知り得ない者”と言った方が適切だろう。
何故、左遷半分逐電半分の隠遁神父が第13課の機密命令を知り得るのか。
その理由はひとつしかない。それならばシエルも知っている。
最早、“日本で兇悪な吸血鬼で暴れまわっている”など“イギリスのプレミアリーグでフーリガンが
暴れまわっている”くらいの価値でしかない。つまり日常茶飯事と同義だ。
「やれやれ。ネロ・カオス、アカシャの蛇、ワラキアの夜。日本はよほど吸血鬼に縁があるようだ。
大して信心深くもない人間ばかりだというのに。いや、だからこそか……。
それで? プランは立てているのかい? “ジャックの血統(J-bleed)”が一筋縄ではいかないのは
経験済みだとは思うが」
己の標的とする吸血鬼の二つ名がキャラハンの口から飛び出した瞬間、シエルの顔色がサッと変わった。
テーブルを挟んで向かい合う両者の表情は実に対照的だ。
知る者と知らざる者。否、“知り得る者”と“知り得ない者”と言った方が適切だろう。
何故、左遷半分逐電半分の隠遁神父が第13課の機密命令を知り得るのか。
その理由はひとつしかない。それならばシエルも知っている。
「“視た”のですね……? あなたの能力で……」
その言葉に、キャラハンはひどくバツの悪そうな顔で横を向き、ボソボソと答える。
「ああ、テッド・“ジェイブリード”・ダーマーが日本に出現する“展開(ルート)”は幾つも視たよ。
かなりの高確率だ。残念ながらそれに至る経緯まではわからないけれどね」
まるで母親に叱られる子供のようにふくれっ面で話す彼と、彼の話の内容に、シエルは心の昂ぶりを覚える。
しかし、それは怒りを感じているのではない。それに先程の言葉も決して責め立てる意味で言った訳ではなかった。
むしろ喜ばしいのだ。
彼の能力があの吸血鬼を捉えているのなら話は早い、と。
これで目的の核心を切り出すのが簡単になった、と。
その反面、罪悪感もまた同じくらいに湧き出してくる。
(私は自分の任務を成功させる為に彼を巻き込もうとしている。人の好い彼を。イスカリオテとの
関わり合いを望んでいない彼を。病人の彼を……)
複雑な内心はおくびにも出さず、シエルはキャラハンが言うところの“それに至る経緯”を話した。
「七年前、シチリア島で私とアンデルセン神父があと一歩のところまで奴を追い詰めたのですが……。
私の不注意で取り逃がしてしまいました」
奥歯を噛み締め、拳を握るシエル。
この抑えられない悔しさは演技ではない。その時の無念は七年経った今でも鮮明に甦るくらいである。
「それからは、おそらく我々の手が及びづらい中東やアフリカに身を潜めていたかと。
ですが、今年になってアメリカと、直後に日本でそれぞれ姿が確認されているのです。最近はアメリカにも
日本の吸血鬼組織が進出していますから、帰国したジェイブリードと何らかの形で手を結んだのでしょう」
「“闇のヤクザ”か。まあ、彼らも食っていく為なのだろうがね」
随分と呑気な、どちらかと言えば吸血鬼を擁護するかのようにも聞こえる物言いだが、今のキャラハンでは
仕様が無い。
シエルも立場上、同意はしかねるが、その辺りの事情が何となくは理解出来る。
多少古い例えになるが人間世界に当てはめれば、日本の暴力団がアメリカを拠点とするイタリアンマフィアの
シノギの為に“スバル”の密輸入をしてやるようなものだ。
だが、キャラハンもシエルも決して認識は誤らない。
キャラハンは短く溜息を吐くと、表情を幾分真面目なものに戻す。
「とは言っても、ジェイブリードの方は厄介だな。実力は“死徒二十七祖”の足元にも及ばないが、
人間社会に及ぼす危険度はある意味、奴ら以上だ。バラバラに斬り刻まれて臓物を引きずり出された
無数の屍体に、爆発的に広がる異常な暴動……。ペスト以来の大病原菌だよ、アレは」
“死徒”とは一種の分類であり、吸血される事によって人間から吸血鬼となったものを指す。
その中でも特に強大な力を持ったものを“死徒二十七祖”と呼ぶ。
先程のキャラハンの話にあった吸血鬼達もそれぞれ死徒二十七祖であり、ネロ・カオスは第十位、
“ワラキアの夜”タタリは第十三位、“アカシャの蛇”ミハイル・ロア・バルダムヨォンは番外位となっている。
その彼ら以上の危険性をジェイブリードが有しているのは、一度戦ったシエルも承知している。
シエルは頷き、話を続けた。
「現在、同じ第13課機関員のハインケル・ウーフーと高木由美江が調査中の“吸血鬼の人身売買”とも
何か関係があるのかもしれません。ロシアや東南アジア、それに欧州の一部の女吸血鬼(ドラキュリーナ)が捕獲され、
各国の金持ちの人間に売り渡されるという事例が頻発しているのです。それも仕切っているのは
日本の吸血鬼のようですし……――」
「シエル」
キャラハンが突如、遮った。
あの人の心を見通すような瞳がシエルを見据えている。思いの外、柔和な表情で。
「ああ、テッド・“ジェイブリード”・ダーマーが日本に出現する“展開(ルート)”は幾つも視たよ。
かなりの高確率だ。残念ながらそれに至る経緯まではわからないけれどね」
まるで母親に叱られる子供のようにふくれっ面で話す彼と、彼の話の内容に、シエルは心の昂ぶりを覚える。
しかし、それは怒りを感じているのではない。それに先程の言葉も決して責め立てる意味で言った訳ではなかった。
むしろ喜ばしいのだ。
彼の能力があの吸血鬼を捉えているのなら話は早い、と。
これで目的の核心を切り出すのが簡単になった、と。
その反面、罪悪感もまた同じくらいに湧き出してくる。
(私は自分の任務を成功させる為に彼を巻き込もうとしている。人の好い彼を。イスカリオテとの
関わり合いを望んでいない彼を。病人の彼を……)
複雑な内心はおくびにも出さず、シエルはキャラハンが言うところの“それに至る経緯”を話した。
「七年前、シチリア島で私とアンデルセン神父があと一歩のところまで奴を追い詰めたのですが……。
私の不注意で取り逃がしてしまいました」
奥歯を噛み締め、拳を握るシエル。
この抑えられない悔しさは演技ではない。その時の無念は七年経った今でも鮮明に甦るくらいである。
「それからは、おそらく我々の手が及びづらい中東やアフリカに身を潜めていたかと。
ですが、今年になってアメリカと、直後に日本でそれぞれ姿が確認されているのです。最近はアメリカにも
日本の吸血鬼組織が進出していますから、帰国したジェイブリードと何らかの形で手を結んだのでしょう」
「“闇のヤクザ”か。まあ、彼らも食っていく為なのだろうがね」
随分と呑気な、どちらかと言えば吸血鬼を擁護するかのようにも聞こえる物言いだが、今のキャラハンでは
仕様が無い。
シエルも立場上、同意はしかねるが、その辺りの事情が何となくは理解出来る。
多少古い例えになるが人間世界に当てはめれば、日本の暴力団がアメリカを拠点とするイタリアンマフィアの
シノギの為に“スバル”の密輸入をしてやるようなものだ。
だが、キャラハンもシエルも決して認識は誤らない。
キャラハンは短く溜息を吐くと、表情を幾分真面目なものに戻す。
「とは言っても、ジェイブリードの方は厄介だな。実力は“死徒二十七祖”の足元にも及ばないが、
人間社会に及ぼす危険度はある意味、奴ら以上だ。バラバラに斬り刻まれて臓物を引きずり出された
無数の屍体に、爆発的に広がる異常な暴動……。ペスト以来の大病原菌だよ、アレは」
“死徒”とは一種の分類であり、吸血される事によって人間から吸血鬼となったものを指す。
その中でも特に強大な力を持ったものを“死徒二十七祖”と呼ぶ。
先程のキャラハンの話にあった吸血鬼達もそれぞれ死徒二十七祖であり、ネロ・カオスは第十位、
“ワラキアの夜”タタリは第十三位、“アカシャの蛇”ミハイル・ロア・バルダムヨォンは番外位となっている。
その彼ら以上の危険性をジェイブリードが有しているのは、一度戦ったシエルも承知している。
シエルは頷き、話を続けた。
「現在、同じ第13課機関員のハインケル・ウーフーと高木由美江が調査中の“吸血鬼の人身売買”とも
何か関係があるのかもしれません。ロシアや東南アジア、それに欧州の一部の女吸血鬼(ドラキュリーナ)が捕獲され、
各国の金持ちの人間に売り渡されるという事例が頻発しているのです。それも仕切っているのは
日本の吸血鬼のようですし……――」
「シエル」
キャラハンが突如、遮った。
あの人の心を見通すような瞳がシエルを見据えている。思いの外、柔和な表情で。
「もうそろそろ、お芝居は止めにしたまえ。年長者を不誠実に欺いてはいけないね。君が私を訪ねてきたのは
近況報告の為ではないのだろう?」
近況報告の為ではないのだろう?」
「……」
シエルは“彼から眼を逸らしたい衝動”と“心の底から何もかも白状して謝りたい衝動”に駆られていた。
あの眼。世界を“視る”あの眼。
知っているのではないか。いや、おそらく知っている筈だ。彼は私がこうして訪ねて来る事すらも
既に“視ていた”のだ。そうに違いない。
彼の能力“世界視”は私の心を見通せなくとも、私が何をするかは見通せる。
話さなきゃ。キャラハン神父に話さなきゃ。
あの眼。世界を“視る”あの眼。
知っているのではないか。いや、おそらく知っている筈だ。彼は私がこうして訪ねて来る事すらも
既に“視ていた”のだ。そうに違いない。
彼の能力“世界視”は私の心を見通せなくとも、私が何をするかは見通せる。
話さなきゃ。キャラハン神父に話さなきゃ。
キャラハンは待っている。良い子のシエルがすべてを正直に話してくれるのを。