倫敦は霧の街。
この世ならざる<怪異>が跋扈する魔界都市。
蒸気機関から絶え間なく吐き出される排煙の霧に紛れて、
複雑怪奇な事件が、今日もまた。
この世ならざる<怪異>が跋扈する魔界都市。
蒸気機関から絶え間なく吐き出される排煙の霧に紛れて、
複雑怪奇な事件が、今日もまた。
追われている。
追われている。
追われている。
何に? わからない。
自分を追う者が何かわからないまま逃げていく。
自分を追う者が何かわからないまま逃げていく。
どこまでも。
どこまでも。
どこまでも。
入り組んだ街路を駆け、霧の中を分け入るように進んでいく。
だが、どれだけ走っても、気配と声はどこまでも追ってくる。
そう、声――
「あははは! あははは!」
幼子の嬌声。理性の欠けたような狂った嬌声。
建物に反響し、鼓膜を刺激する。
姿は見えず、ただ声と気配だけが忍び寄ってくる。
焦燥が胸にこみ上げてくる。
あの声に追いつかれてしまえば、命は無い。それがわかる。
「あははは! あははは!」
声は次々に反響し、複数の人間が自分を追いかけているのではないか、と錯覚してしまう。
人間――しかも年端もいかない幼子の声であるのに。
もしかしたら声の主は――人間の形をした別の何かではないか?
そんな妄想をしてしまうほど、声は、不気味で、恐ろしかった。
そもそも今日は、何か悪いことが起きるという予感があった。
そういった厄介ごとに自分は勘が強かった。
貧民層の自分は、一日仕事を休むだけで生活がおぼつかなくなる。
だから今日も街角で春をひさいでいた。
たしかに娼婦という職業は誉められたものじゃない。
だけど。
どうして。
――わたしが、何をしたっていうの。
別に、誰かを騙したり、陥れたりするなんて真似、これまでしたことなんてない。
"血を啜る"のを我慢して、懸命に人間社会に溶け込もうとしていたのに……。
わたしはただ、生きようとしただけ。
それが間違っているとでもいうの?
「あははは! あははは!」
――笑い声が、彼女のすべてを否定する。
お前は間違っている。存在そのものが呪われている。生きていてはいけない存在なのだ。
そういわれている気がする。
だけど、だからって。
ここで殺されるわけにはいかない。まだ自分は生きていたい。
たとえ呪われた不死者であるとしても。
――だが運命は残酷だ。
懸命に生きようとする者の意志など無関係に、無慈悲な結末を突きつけてくる。
逃げ回る彼女の目の前に。
巨大な壁が出現していた。
「……うそ」
呆然と壁を見つめながら立ち尽くす。越えられる高さではない。
もと来た道は、戻れない。追跡者がいる。
気配が、すぐ傍まで来ている。近づいてくる。
くすくすという笑い声が聞こえる。
嘲笑している。
愚かな自分を嗤っている。
ごくりとつばを飲んで、彼女は、正体不明の追跡者の姿を、一目見ようとふり返った。
その姿は。
少女、だった。
カールした美しい金髪。透き通るような紅い瞳。良家のお嬢様が着るような純白のドレスに、赤いリボン。
だが、どれだけ走っても、気配と声はどこまでも追ってくる。
そう、声――
「あははは! あははは!」
幼子の嬌声。理性の欠けたような狂った嬌声。
建物に反響し、鼓膜を刺激する。
姿は見えず、ただ声と気配だけが忍び寄ってくる。
焦燥が胸にこみ上げてくる。
あの声に追いつかれてしまえば、命は無い。それがわかる。
「あははは! あははは!」
声は次々に反響し、複数の人間が自分を追いかけているのではないか、と錯覚してしまう。
人間――しかも年端もいかない幼子の声であるのに。
もしかしたら声の主は――人間の形をした別の何かではないか?
そんな妄想をしてしまうほど、声は、不気味で、恐ろしかった。
そもそも今日は、何か悪いことが起きるという予感があった。
そういった厄介ごとに自分は勘が強かった。
貧民層の自分は、一日仕事を休むだけで生活がおぼつかなくなる。
だから今日も街角で春をひさいでいた。
たしかに娼婦という職業は誉められたものじゃない。
だけど。
どうして。
――わたしが、何をしたっていうの。
別に、誰かを騙したり、陥れたりするなんて真似、これまでしたことなんてない。
"血を啜る"のを我慢して、懸命に人間社会に溶け込もうとしていたのに……。
わたしはただ、生きようとしただけ。
それが間違っているとでもいうの?
「あははは! あははは!」
――笑い声が、彼女のすべてを否定する。
お前は間違っている。存在そのものが呪われている。生きていてはいけない存在なのだ。
そういわれている気がする。
だけど、だからって。
ここで殺されるわけにはいかない。まだ自分は生きていたい。
たとえ呪われた不死者であるとしても。
――だが運命は残酷だ。
懸命に生きようとする者の意志など無関係に、無慈悲な結末を突きつけてくる。
逃げ回る彼女の目の前に。
巨大な壁が出現していた。
「……うそ」
呆然と壁を見つめながら立ち尽くす。越えられる高さではない。
もと来た道は、戻れない。追跡者がいる。
気配が、すぐ傍まで来ている。近づいてくる。
くすくすという笑い声が聞こえる。
嘲笑している。
愚かな自分を嗤っている。
ごくりとつばを飲んで、彼女は、正体不明の追跡者の姿を、一目見ようとふり返った。
その姿は。
少女、だった。
カールした美しい金髪。透き通るような紅い瞳。良家のお嬢様が着るような純白のドレスに、赤いリボン。
可憐な姿に、一瞬、彼女は見入っていた。
だが、両手に構える禍々しいナイフが可愛らしい少女の印象を裏切る。
一切の装飾を排した、無骨な刃物。
殺傷のみに特化した塊がそこにあった。
「鬼ごっこは、もうおしまい」
花のような笑みを浮かべて、少女はいう。
それは死刑宣告だった。ここでお前は殺されるという。
逃げられない。
背後には壁。目の前には追跡者。
だが、両手に構える禍々しいナイフが可愛らしい少女の印象を裏切る。
一切の装飾を排した、無骨な刃物。
殺傷のみに特化した塊がそこにあった。
「鬼ごっこは、もうおしまい」
花のような笑みを浮かべて、少女はいう。
それは死刑宣告だった。ここでお前は殺されるという。
逃げられない。
背後には壁。目の前には追跡者。
彼女は覚悟を決めて、一歩踏み出し。
――その<怪異>を、殴り飛ばした。
――その<怪異>を、殴り飛ばした。
少女の形をした何かは、女性の拳を受けて、派手に吹っ飛んだ。
街路をバウンドし、何度も頭を強打した。
ごろごろ転がり、全身を埃まみれにして、建物の壁にぶつかる事でようやく止った。
少女を一撃で殴り飛ばした力。それは人間の女性の細腕に宿るものではなかった。
女性は、人間ではなかった。
紅い瞳を爛々と輝かせながら、少女を睨みつける。
そして、その背中に、黒い翼が出現する。
――月の一族(モントリヒト)
夜を統べる、人間の血を啜る怪物。
伝承に出現する死を超越した不死者の名。
人間社会を闇から支配する種族。
それが、モントリヒト。
彼女もまた、同族と同じく人間にはあらざる超常の力を備えていた。
今見せた怪力もその一つだ。普段は隠しているが、命の危機にさらされたときは、その能力を駆使して
窮地から逃れてきた。
だが彼女はいつもそれを最小限度しか使わず、決して欲望の為に濫用することはなかった。
生命を維持するための吸血行為さえ、本当に危険な時にしか行わなかった。
女性は安堵と罪悪感がない交ぜになったような表情を浮かべた。
正体不明の怪人とはいえ、少女の形をしたものを殴るのは、良心が痛む。
だが、もう少しでこっちが殺されていた。
少女の形をした何かは、死んでいるのか、それとも気を失っているだけなのか。
どちらにしろこの隙に立ち去るべきだ、そう思ったとき。
街路をバウンドし、何度も頭を強打した。
ごろごろ転がり、全身を埃まみれにして、建物の壁にぶつかる事でようやく止った。
少女を一撃で殴り飛ばした力。それは人間の女性の細腕に宿るものではなかった。
女性は、人間ではなかった。
紅い瞳を爛々と輝かせながら、少女を睨みつける。
そして、その背中に、黒い翼が出現する。
――月の一族(モントリヒト)
夜を統べる、人間の血を啜る怪物。
伝承に出現する死を超越した不死者の名。
人間社会を闇から支配する種族。
それが、モントリヒト。
彼女もまた、同族と同じく人間にはあらざる超常の力を備えていた。
今見せた怪力もその一つだ。普段は隠しているが、命の危機にさらされたときは、その能力を駆使して
窮地から逃れてきた。
だが彼女はいつもそれを最小限度しか使わず、決して欲望の為に濫用することはなかった。
生命を維持するための吸血行為さえ、本当に危険な時にしか行わなかった。
女性は安堵と罪悪感がない交ぜになったような表情を浮かべた。
正体不明の怪人とはいえ、少女の形をしたものを殴るのは、良心が痛む。
だが、もう少しでこっちが殺されていた。
少女の形をした何かは、死んでいるのか、それとも気を失っているだけなのか。
どちらにしろこの隙に立ち去るべきだ、そう思ったとき。
「いったーい!」
少女の形をした何かが、何のダメージも負っていないように、跳ね起きた。
普通の人間なら、死んでしまうほどの致命傷だったはずだ。
自分の怪力で殴られた人間は、例外なく死ぬ。
驚愕を隠せない。目の前のことが信じられない。
少女の形をした何かが、何のダメージも負っていないように、跳ね起きた。
普通の人間なら、死んでしまうほどの致命傷だったはずだ。
自分の怪力で殴られた人間は、例外なく死ぬ。
驚愕を隠せない。目の前のことが信じられない。
「そんな……何なの……あなたは……」
「わたし?」
にぃ、と口の端を吊り上げ、それはくるりと回ってみせる。
「愚かなモントリヒトに教えてあげましょう。聞いて驚け、わたしの名。
かつては気の狂った連続殺人犯(シリアルキラー)。
いまはつぎはぎだらけの動く死体。
ジャック・ザ・リッパーと人は言う。
F08(エフ・アハト)と怪物は言う。
死して蘇り、生命の法を無視した背徳者、フランケンシュタイン博士の走狗。
あなたたち月の一族(モントリヒト)を狩るもの――<装甲戦闘死体>よ」
<装甲戦闘死体(Die Panzerkampfleiche)>
それは、月の一族にとって忌まわしい存在であった。
人造人間。死体を基盤に創造されし、人の形をした人でなし。
彼らは150年前に、フランケンシュタイン博士が失踪した後も、その人造人間製造の秘術が記された二冊の禁書
を元に、生命を操る法に心を奪われた人間によって、何体も生み出されていた。
その有象無象の人造人間の中に、ただ一つの目的のために造られた者たちがいた。
それが<装甲戦闘死体>――月の一族を滅ぼすためだけに生み出された、動く死体達だ。
今でも彼女らは、欧州全土で月の一族を狩り続けているという。
噂程度には聞いたことがある。まさか自分が狙われるとは思ってもいなかった。
だが、こうなってしまった以上、身にかかる火の粉は自分で払わなければならない。
「!」
モントリヒトに宿る力を、女性はすべて解放した。人間の目にも留まらない速度で動いた。手刀が一直線に少女の喉下に迫る。
だが、少女はこともなげにそれを捌いた。そして、女性の指がバラバラに解体された。
「あ――あああああ!!」
勢いよく噴き出る血。激痛に手を押さえてうずくまる。
「面白みのない悲鳴ね。もっといい声で啼いてよね」
そういって、ナイフを女性の右の眼球に突き刺した。
「ああああああ!!!!」
「わたし?」
にぃ、と口の端を吊り上げ、それはくるりと回ってみせる。
「愚かなモントリヒトに教えてあげましょう。聞いて驚け、わたしの名。
かつては気の狂った連続殺人犯(シリアルキラー)。
いまはつぎはぎだらけの動く死体。
ジャック・ザ・リッパーと人は言う。
F08(エフ・アハト)と怪物は言う。
死して蘇り、生命の法を無視した背徳者、フランケンシュタイン博士の走狗。
あなたたち月の一族(モントリヒト)を狩るもの――<装甲戦闘死体>よ」
<装甲戦闘死体(Die Panzerkampfleiche)>
それは、月の一族にとって忌まわしい存在であった。
人造人間。死体を基盤に創造されし、人の形をした人でなし。
彼らは150年前に、フランケンシュタイン博士が失踪した後も、その人造人間製造の秘術が記された二冊の禁書
を元に、生命を操る法に心を奪われた人間によって、何体も生み出されていた。
その有象無象の人造人間の中に、ただ一つの目的のために造られた者たちがいた。
それが<装甲戦闘死体>――月の一族を滅ぼすためだけに生み出された、動く死体達だ。
今でも彼女らは、欧州全土で月の一族を狩り続けているという。
噂程度には聞いたことがある。まさか自分が狙われるとは思ってもいなかった。
だが、こうなってしまった以上、身にかかる火の粉は自分で払わなければならない。
「!」
モントリヒトに宿る力を、女性はすべて解放した。人間の目にも留まらない速度で動いた。手刀が一直線に少女の喉下に迫る。
だが、少女はこともなげにそれを捌いた。そして、女性の指がバラバラに解体された。
「あ――あああああ!!」
勢いよく噴き出る血。激痛に手を押さえてうずくまる。
「面白みのない悲鳴ね。もっといい声で啼いてよね」
そういって、ナイフを女性の右の眼球に突き刺した。
「ああああああ!!!!」
女性は無残に切り裂かれ続けた。
右腕を失い、腹部を引き裂かれ、顔をずたずたに切り刻まれた。
それでも女性は死ななかった。
虫の息であったが、まだ生きていた。
「どう、して……わたしは、血も、啜らない。人間を……襲いもしないのよ……どうして……」
「うっぜえんだよ害虫が」
少女の口調が、一変した。表情も、醜く歪んでいる。
少女の蹴りが顎に炸裂した。もんどりうって倒れ伏す。
「娼婦で月の一族? 生きてる価値なんかねぇだろその時点で。
ほら、地面に頭擦り付けて神様とわたしに懺悔するんだよ!」
ナイフを額に刺し、水平に頭を切り裂いた。
絶叫は続く。
髪を鷲掴みにし、力任せに引っ張った。ぶちぶちと嫌な音をたてて、切り裂かれた部分から頭の上半分が引き抜かれ、脳が露呈する。
絶叫は続く。
頭を踏みつけ、地面に顔面を押し付けた。その拍子に中身が街路にぶちまけられた。
絶叫は続く。
ぶよぶよした白い物体を踏みつけ、すりつぶし、真っ黒の汚らしい物体に変えた。
それでも女性は死ななかった。
モントリヒト――とどのつまり吸血鬼は、脳を破壊されただけでは死なない。
その核たる心臓が残ってれば、脳髄さえ再生することが可能だ。
無いはずの脳髄が激痛にあえいでいるのは、魂に激痛が刻まれているからだ。
右腕を失い、腹部を引き裂かれ、顔をずたずたに切り刻まれた。
それでも女性は死ななかった。
虫の息であったが、まだ生きていた。
「どう、して……わたしは、血も、啜らない。人間を……襲いもしないのよ……どうして……」
「うっぜえんだよ害虫が」
少女の口調が、一変した。表情も、醜く歪んでいる。
少女の蹴りが顎に炸裂した。もんどりうって倒れ伏す。
「娼婦で月の一族? 生きてる価値なんかねぇだろその時点で。
ほら、地面に頭擦り付けて神様とわたしに懺悔するんだよ!」
ナイフを額に刺し、水平に頭を切り裂いた。
絶叫は続く。
髪を鷲掴みにし、力任せに引っ張った。ぶちぶちと嫌な音をたてて、切り裂かれた部分から頭の上半分が引き抜かれ、脳が露呈する。
絶叫は続く。
頭を踏みつけ、地面に顔面を押し付けた。その拍子に中身が街路にぶちまけられた。
絶叫は続く。
ぶよぶよした白い物体を踏みつけ、すりつぶし、真っ黒の汚らしい物体に変えた。
それでも女性は死ななかった。
モントリヒト――とどのつまり吸血鬼は、脳を破壊されただけでは死なない。
その核たる心臓が残ってれば、脳髄さえ再生することが可能だ。
無いはずの脳髄が激痛にあえいでいるのは、魂に激痛が刻まれているからだ。
「うーん、やっぱりモントリヒト狩りは最高ね。これだけしてもまだ死なないなんて。
普通の人間は二三回切り刻むだけで死ぬっていうのに。これだからやめられないのよね!」
普通の人間は二三回切り刻むだけで死ぬっていうのに。これだからやめられないのよね!」
少女は、懐からナイフを取り出し、次々と女性の身体に突き刺した。
激痛に苦悶するモントリヒトをうっとりとした表情で見下ろしながら、急所である心臓を巧みに避けながら、
殺戮の喜悦に酔いしれていた。
激痛に苦悶するモントリヒトをうっとりとした表情で見下ろしながら、急所である心臓を巧みに避けながら、
殺戮の喜悦に酔いしれていた。
「夜はまだまだ続くわ。楽しませてちょうだい」
――翌朝、一人の娼婦が姿を消していたが、誰もそれに気づくことは無かった。
道行く人も、仲間の娼婦も、だれも気に留めなかった。
霧の街倫敦の朝は、とても穏やかに流れていった。
道行く人も、仲間の娼婦も、だれも気に留めなかった。
霧の街倫敦の朝は、とても穏やかに流れていった。