「やれ、やれい!」
ぶんぶんと拳を振り上げ、ブラウン管の中にいるヒーローを応援するのび太とドラえも
ん。
「あぁっ、まずい、がんばれっ!」
いつしか二人の声は美しく同調し、名門応援団にも匹敵するであろう旋律を奏でていた。
このような声援を受けては、たとえピンチだろうがヒーローが挽回しないわけにはいか
ない。傷ついた体に力がよみがえる。
「今だーっ!」
のび太とドラえもん、いや日本中の少年たちの心(ハート)がヒーローに乗り移る。
切り札の大技が炸裂し、大爆発とともに悪者は散った。
「やった、やったぁーっ!」
抱き合う二人。ヒーローの勝利は、すなわち彼らの勝利でもあるからだ。
テレビの前ではあれだけ息が合っていた二人だが、終わってしまえば冷めたものだ。
目をギラギラさせ、まだヒーローのつもりでいるのび太。
早くも熱が下がり、後先のことを考えているドラえもん。
こうなると、次に二人の間になにが起こるかは、神でなくとも容易に予想ができる。
部屋に戻り、のび太が口を開く。
「ねぇ、ドラえもん。頼みがあるんだけど……」
そら来た、とドラえもん。今に始まったことではないが、今に始まったことではないが
ゆえにうんざりする。
「ダメだよ。強くなる道具なんか出さないよ」
機先を制し、釘を刺すドラえもん。だが時として、のび太は二十二世紀を超える。
「いやいや、ぼくは強くなる道具なんか頼まないよ」
「へ?」
「もしもボックスを出して欲しいんだ」
いくら考えても、ドラえもんはのび太の狙いを測りかねた。
どうせろくでもないことを考えているに決まっているが、この少年がもしもボックスを
どう使うか少し興味がある。もし変な世界を作ったら、すぐに元に戻してしまえばいいだ
けの話だ。
しばらく悩んでから、ドラえもんはポケットに手を入れた。
「もしもボックス~!」
もしもボックス。パラレルワールドをいとも簡単に創造できる、まさしく究極の秘密道
具。一見するとただの電話ボックスだが、中身は我々では想像もつかないようなテクノロ
ジーで支えられている。
さっそくのび太は中に入ると、受話器に向かってこう叫んだ。
「もしも、強い人がえらい世界になったら!」
けたたましくベルが鳴り響き、世界は生まれ変わった。
もしもボックスから出たのび太に、首を傾げながらドラえもんが尋ねる。
「強い人がえらい……って、まずいんじゃないの? 君はますますいじめられるだろうし、
ジャイアン辺りがものすごいことになるんじゃ……」
「分かってないなぁ、ドラえもんは」
のび太は鼻高々に、持論を展開する。
「ぼくがこれまで弱虫だったのは、別に強さが必要ない世界だったからだよ。いくら喧嘩
が強くたって、先生やママに叱られるだけだしね。でもこういう世界になれば、ぼくだっ
てヒーローのように強くなれるはずさ」
唖然とするドラえもん。どうやらのび太は自分が弱かった原因は、社会のルールにあっ
たと考えたらしい。
「……まぁ、気の済むまでやってみたら」
「うん!」
すると、階下から玉子の声が飛んできた。
「のびちゃん、ご飯よ~!」
台所では、すでに父と母が椅子に座っていた。が、どうも様子がおかしい。
のび助も玉子も、体格がまるで記憶とちがう。首はずんぐりと太く、肩幅はがっしりと
広い。腕も足も、空気でも詰めたかのようにふくれ上がっている。
じろりと、二人をにらむのび助。
「のび太、ドラえもん、早く座りなさい」
「う、うん」
のび太とドラえもんがそれぞれ椅子を引く。ところが、まったく動かない。
「なにこれ、重すぎるよ!」
いくら引っぱってもびくともしない。百二十九馬力を誇るドラえもんで、かろうじて動
かせる重量だ。
「のびちゃん。あんたまだ、百キロも動かせないの? いつもトレーニングをさぼってば
かりいるからよ」
「まぁいいじゃないか。のび太、動かせないんなら立ったまま食べろ」
「はぁい……」
箸を取るのび太。これもやはり重く、一キロはある。そして、今日のメニューは以下の
通りだ。
粉(プロテイン)。
注射器(強化ステロイド)。
炭酸抜きコーラ。
梅干し。
熊の生肉。
どれもこれも、強くなるためには欠かせない献立ばかり。とはいえ、生肉は加工食品に
慣れ親しんだのび太の鼻には耐えがたい臭気を発していた。
「い、いやだぁ~!」
箸を投げ、逃げ出すのび太。ドラえもんが追う。玉子も追う。
「もういやだ、早く元に戻さなきゃ!」
だが、先にスタートしたにもかかわらず、のび太はあっさりと玉子に追い抜かれてしま
った。
部屋に置かれたもしもボックスに、玉子の髪がぞわりと逆立つ。
「マ、ママ……?」
「のびちゃん──だっしゃあァッ!」
玉子のたくましい脚が、水平に美しい孤を描く。
ミドルキック。もしもボックスは彼女の蹴りによってくの字にへし折れ、大きな音を立
てて畳に寝そべった。
「電話ボックスなどを持ち込みおって……恥を知れいッ!」
「ひ、ひぃぃっ!」
「罰として、今晩はメシ抜きだッ!」
失禁したのび太には目もくれず、部屋を出ていく玉子。遅れて入ってきたドラえもんが、
ひしゃげたもしもボックスを見て絶叫する。
「な、なんてことを!」
「ドラえもん! 早くもしもボックスを直して、元の世界に戻そうよ!」
「……ダメなんだ」
「えっ?!」
「もしもボックスはとても複雑な道具だから、ちゃんとした工場でないと機能まで元に戻
すことは難しいんだ」
「じゃあ、タイムふろしきは?」
「時間系の道具は全部メンテナンスに出しちゃってて……。ちょうど明日の今頃になった
ら戻ってくる予定だけど、つまりドラミやセワシ君に頼ることもできない」
突きつけられた八方塞がりという現実に、のび太は青ざめる。
「ってことは……」
「うん。明日の夜まで、ぼくたちはこの世界にいなきゃならない」
のび太は泣いた。ドラえもんも泣いた。泣き疲れて眠るまで、泣きわめいた。
──本当の地獄は、これからだ。
地球は変革を遂げた。金よりも家柄よりもなによりも、強さこそが尊ばれる社会。この
革命がたったひとりの少年によって引き起こされたという事実を、知る者はいない。
すっかり眠りこけていたのび太が、友の声で布団から身を起こす。
「おはよう、のび太君」
「ドラえもん! なんでもっと早く起こしてくれないんだよ、遅刻しちゃうじゃないか!」
大急ぎでパジャマから着替え、のび太はランドセルに持ち上げようとする。
「うっ!」
ゴキン、という音とともに肩の骨が抜けかけた。
「あぁ、やった」
「いたたたた……! な、なんでランドセルがこんなに……」
「のび太君、忘れたの? ここは君が生み出した世界じゃないか」
痛めた肩を押さえながら、ようやくのび太は思い出した。
「あっ、そうか! すっかり忘れてたよ」
「ぼくもさっき持ったけど、ランドセルは五十キロくらいあるよ。仕方ないから、学校に
は手ぶらで行こう。あと心配だから、ぼくもついて行くよ」
「ありがとう、ドラえもん」
グルメテーブルかけで普通の朝食を取り、玄関を出る二人。
「そういえば家にいなかったけど、パパとママは?」
「朝っぱらから庭で組み手して、パパは会社、ママはバーゲンに行ったよ」
「そ、そう……」
昨晩食卓に座っていた変わり果てた両親が目に浮かぶ。のび太は残すところ半日余りを
本当に生き残れるのか、少し不安になった。
案の定、異変はご近所にも蔓延していた。
道路には自動車はなく、代わりに車以上の速度と機敏性をもって人々が駆け回っている。
びゅんびゅんと人影が動く住宅街を、のび太たちはおそるおそる進んでいく。
また、至るところで血で血を洗う果し合いが演じられていた。
サラリーマン 対 大工。
中学生 対 老人。
八百屋 対 バンドマン。
野良犬 対 女子高生
主婦 対 本屋
理由などない。各々が力を誇示するため、己が全存在をぶつけ合っている。
むろん、だれもが並みの肉体ではない。たった一発のアッパーで人が電柱より高く打ち
上げられ、打ち上げられた方はぴんぴんして反撃に転じる。
こんな危険地帯にドラえもんとのび太が付き合えるはずもない。二人は進退を繰り返し
て登校するしかなかった。
どうにかやって来れた家と学校との中間地点。ここでドラえもんはある決断を下す。
「巻き込まれたら命はない。こうなったら、チータローションで学校まで一気に駆け抜け
るんだ!」
「あのさ、どこでもドア使わない?」
「あっ、そうか」
こうしてどこでもドアの力により、のび太たちは難なく学校にたどり着いた。
午前八時二十五分。
ホームルーム前、のび太のクラスで主役になっていたのはなんと──。
「あ、あばら谷君!」
あばら谷一郎であった。
机が四方に押しやられ、がらんとした教室。彼はその中心に立ち、対戦者を募っていた。
「さァ、次はだれが来る?」
昨日までは貧しい家庭に育った、ごく平凡な少年だった。だが、今の彼は著しい闘争心
を宿す一流ファイターだ。現に、足もとには彼に倒されたクラスメイトが三人も転がって
いる。
シャドーボクシングをしながら、周囲を挑発するあばら谷。
「どうしたんだい、みんな。ぼくのボクシングに恐れをなしてしまったかな?」
のび太たちの耳に、あるクラスメイトの会話が聞こえる。
「ざけやがって、所詮ボクシングは手技しかない不完全な格技だ。次は俺がやってやる!」
「よせよせ。あいつのは純粋なボクシングじゃなく、貧乏生活で培ったブースボクシング
だ。えげつない技ばかり使うから、たとえ勝っても怪我は免れないぜ」
「ちっ……一時間目には千年杉からの飛び降りもあるしな。今怪我してもつまらんか」
もう挑戦者は現れそうにない。切り上げようとするあばら谷だったが、そこへ名乗りを
上げる男があった。
「仕方ないなぁ、ぼくが相手してやるよ」
ボクサーあばら谷の前に立ったのは、骨川スネ夫。
互いにハリネズミの如く、針のような殺気を放射する。
のび太未満の体格しか持たなかったスネ夫も、ルール変更に従ってぶ厚い筋肉を鎧とし
ている。ただし、身長だけはなぜか変わっていない。
あばら谷がふっと笑う。この世界においても貨幣経済は健在だが、いくら金を持ってい
ても羨望の対象にはまったくならない。その逆もしかり。なので、彼には金持ちに対する
卑屈さは欠片もない。
「君みたいな坊っちゃんがぼくと戦うなんて、いいのかい? ぼくは無敗ではないが、対
戦相手を無事に済ませたことはないよ」
「構わないよ。むしろ、それくらいの方が試しがいがある」
「試すだと? ──後悔するなよッ!」
のび太、ドラえもんを含む十数名がギャラリーを務める中、両雄が構えた。
まず、あばら谷が動く。
スネ夫の鼻先に、軽くジャブが触れる。これは攻撃ではなく、合図。ジャブで体内のリ
ズムを整えたあばら谷が、息もつかせぬ猛連打に出た。
対するスネ夫も巧みに間合いを操作し、なかなか決定打を許さない。少なくとも、猛攻
に伴うスタミナ消費に見合ったダメージは与えられていない。
だが、あばら谷の狙いは別にあった。
「そろそろかな」パンチだけを打つはずだった拳から、にゅっと親指が飛び出した。「こ
れがブースボクシングだッ!」
スネ夫の目蓋に親指が引っかかる。
「親指を、目の中に突っ込んで、殴り抜け──」
巨大な手が、ガシッとあばら谷の手首を捕えた。
「るッ?!」
「ふぅ……どんな技が出るかと期待したけど、大した工夫もないサミングか。ま、君みた
いな貧民にはお似合いな技だね」
親指を目に入れてから、殴り抜ける間に生じるコンマ単位のタイムラグ。スネ夫ほどの
達人ならば、十分に隙だらけと評することのできる致命的な空白だった。
次の瞬間、あばら谷は胸に深手を負った。素手ではなく、武器によるもの。
「グアッ! き、凶器……ッ?!」
「バグ・ナク……直訳すると“虎の爪”。ぼくのパパにはインド人暗殺者の友だちがいて
ね。昨日、パパから古いのを分けてもらったんだ」
右手に仕込んだ暗器をさらりと自慢すると、スネ夫はハイキックで勝敗を決した。
「あばら谷君! スネ夫、なんてことを!」
持ち前の正義感から、ついつい倒れた友人に駆け寄ってしまうのび太。これは、スネ夫
にしてみれば果たし状を渡されるに等しい行為だった。
「よう、のび太。次はおまえがぼくの相手をしてくれるのか」
「ス、スネ夫……!」
「おまえにはドラえもんがついてるんだったな。じゃ、こんなオモチャじゃ失礼だよな」
スネ夫はバグ・ナクを、惜しげもなく黒板の横にあるゴミ箱に投げ入れた。
「ぼくのパパには刀匠の友だちがいてね。昨日、新作をもらったんだ。一人用だからおま
えには貸さないけど、ぜひ切れ味を試したい……!」
どこからか取り出した日本刀に、舌をなすりつけるスネ夫。もはや、彼はのび太の知っ
ている腰巾着ではない。
「遊んでもらうよ」
上段に刀を構え、スネ夫が踏み込む。ドラえもんも道具を取り出そうとするが、わずか
に間に合わない。振り下ろされる白刃。
「うっ、うわ──!」
刹那、風が吹いた。風はスネ夫の手から日本刀を消し、のび太を救った。こんな神技を
できる者といえば、このクラスでも彼一人しかいない──出木杉英才である。
相変わらずの二枚目だが、体つきはボディビルダーさながらだ。
「──出木杉ッ! なんのつもりだッ!」
「骨川君、刃物はよくない。学校内での闘争は徒手が原則だよ」
「ふん、下らないフェア精神で勝利を遠ざけるのがお好きか」
「フェア精神? 勝利を遠ざける? なにをいってるんだね、君は」
出木杉は奪い取った日本刀を横に持つと、腕を上下にすばやく動かした。すると、なん
とこれだけの動作で丈夫な刀身が波打つように折れ曲がってしまった。のび太とドラえも
んはもちろん、原住民であるスネ夫までもが驚いている。
「グニャグニャだァ……」
「ヒッ!」
「骨川君、ぼくが素手にこだわるのはもっとも信頼できるからさ。これからは素手の時代
だ。今後、人類は進化を続け、近い将来核兵器にさえ耐えうる肉体を手に入れるだろう」
そういうと、出木杉はスクラップと成り果てた刀を持ち主に投げ渡した。
刀とともに心を折られたボンボンはその場に泣き崩れた。
「ヒィッ! ヒイイィィィィッ!」
混乱しながらも、とにかく命を助けられたのび太は礼をいう。
「あ、ありがとう出木杉……助かったよ」
「いや、礼には及ばないよ」
「やっぱりこっちの世界でも君はすごいな。このクラスじゃ一番強いんでしょ?」
「………」
この質問を浴びせた途端、出木杉の気配が変わった。迫力が増した。
「残念ながらぼくはナンバーワンじゃない。巨凶、剛田の血……。曰く、ガキ大将。曰く、
歩く公害。学校最強の生物“ジャイアン”こと、剛田武がまちがいなくナンバーワンだろ
う」
のび太ははっとした。強さの価値が跳ね上がって、あの男が得をしないはずがない。今
朝から非常識を休みなしに叩きつけられてきたので、彼の存在がすっかり抜け落ちていた。
「でも……今日はいないみたいだけど、休み?」
「もうすぐ来るさ」
「え、なんで分かるの?」
「地を踏みしめる足音、拳に染みついた血の臭い──そしてなにより肉体から発せられる
凶悪なまでの覇気。全てが彼を示している!」
ファイターのみが持ちえる感覚で、出木杉はジャイアンがまもなく登校してくることを
知っていた。
出木杉に遅れて察知したらしく、皆もざわつき始める。
突如、窓ガラスが砕けた。
それと同時に、教室に侵入する巨漢。
──剛田武、降臨。
ずん、と空気が重くなる。
前の世界でもしばしばゴリラと形容されていた彼だが、この世界ではどうしようもない
ほどにゴリラだった。にもかかわらず、二階にある教室にジャンプして入ってきたように、
瞬発力は抜群だ。
とてつもない威圧感。クラスは凍りつき、あれだけ強い出木杉も面差しを固くする。の
び太とドラえもんに至っては、かろうじて気を失わずに済んでいるという始末。
「ど、ど、ど、どうしようドラえもん」
「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくにいわれても……」
ジャイアンに目をつけられぬよう、二人はそっと背を屈めた。だが、かえって彼の注目
を呼んでしまう。
「おはよう、のび太。お、ドラえもんも来てんのか」
「お、おはよう、ジャイアン」
「さっそくだが……買ったばかりのバットの殴り具合を試させろッ!」
どういう仕組みなのか、背中から金属バットを抜き取るジャイアン。目にはとても数セ
ンチの球体には収まりきらぬほどの殺気が宿っている。
だが、今度はドラえもんの対応が一歩早かった。
「空気砲~! ──ドカンッ!」
空気の弾丸は一直線にジャイアンに向かい、みごと命中した。
「ド、ドラえもん!?」
「先手必勝だよ。もう学校はいいから、どこでもドアで家に帰ろう。あとは夜まで部屋で
じっと待つんだ」
教室から逃げようと、のび太の手をひっぱるドラえもん。ところが予想に反してジャイ
アンは無傷で笑っていた。
「空気砲じゃ私を獲れんよ。残念ながら、ね」
ダメージはないとはいえ、抵抗されたことには変わりない。それも不意打ち。みるみる
うちに、ジャイアンの顔が赤々と染まっていく。とばっちりを受け、握り潰されるバット。
「やってくれたな。二人まとめて、メタメタのギタギタにしてくれるわッ!」
圧力をさらに増幅させるジャイアン。もう二人は声ひとつ出せない。声が出せないとい
うことは、空気砲は撃てない。すなわち、絶体絶命。
ガキ大将、突進。
ジャイアンの異名に相応しい巨大な拳が迫る。
のび太もドラえもんも本能的に死を覚悟した。──だが。
拳は掌によって阻まれた。パンチを受け止めてくれたのは、出木杉であった。
「くっ……すごいパンチだ……!」
「ドガア! おまえも俺に歯向かうか、出木杉ッ!」
またも出木杉に助けられた。仮に出木杉が元々ジャイアンに挑む予定であったとしても、
今のタイミングは決してベストとはいえない。のび太が問う。
「出木杉っ! ど、どうして……?」
「さっき君は“こっちの世界”といったよね。あれでピンときたんだ。君たちはドラえも
ん君の力で、もっと平和な世界からこっちに来てしまった。……ちがうかい?」
驚くことに、さしてドラえもんと交流がなかった出木杉が、二人の境遇をほぼ完璧に読
み取っていた。
「すごい、当たってる……」
「分かるさ。どう考えても、君の肉体はこの世界で十年間を過ごしたものじゃない──」
名推理はジャイアンのボディブローで中断される。
「──ぐえぇッ!」
「なにをゴチャゴチャいってやがる!」
吐しゃ物をまき散らしながら、出木杉は二人を促した。
「……行くんだ! 剛田君はぼくがなんとかするッ!」
「う、うん!」
命を拾い、教室を飛び出すのび太とドラえもん。ジャイアンも追わない。
「俺にさえ逆らわなければナンバーツーとして天下を満喫できたのにな……。失敗したな、
出木杉」
「あいにく、ぼくは一番じゃないと気が済まない性分でね。……それに」
「それに?」
「これは予感だけど、今日ナンバーワンは君でなくなるような気がする」
「……面白ぇ」
するとジャイアンは両拳を腰に据え、全身を硬直させた。
「さっきの分だ。まずは一発ぶち込んできやがれッ!」
王者としての誇りか、あえて初弾を受けると宣言するジャイアン。もっとも、完全に防
御に回った彼にダメージを通せる者など小学生ではまずいない。出木杉は技巧や戦術には
秀でているが、打撃力に関しては特筆すべきものは持たぬはず。
「じゃあ、甘えさせてもらおうかな」
出木杉は軽いステップから、一気に加速した。勢いを利用して拳を打ち込む算段だ。
「ハァッ!」
鋼鉄の腹筋に、お手本のようなまっすぐなストレートが突き刺さった。だれもが「効い
ていない」と直感した。ところがジャイアンは、
「ごっ?! ……ガッハァッ!」
と、胃液を吐き散らし、よろめく。どよめきがクラス中に広がる。
これにて貸し借りなし。出木杉は当然のように追撃に出る。どれもこれも平凡なパンチ
のはずが、どれもこれもが効いている。
「これがぼくの研究成果さ。どうだい、効くだろう?」
たまらず、逃げるように間合いを空けるジャイアン。
「てめぇ、出木杉……! ど、どんな技をッ……!」
出木杉はこの問いには答えず、近くにあった机に黙って拳を落とす。そして拳が触れた
瞬間、机は粉末と化した。
このパフォーマンスに、野次馬たちも大穴だった出木杉に傾く。
「スッゲェッ!」
「あんなこと、ジャイアンでもできねぇぞッ!」
「天才だッ!」
粉になった机を手ですくい上げ、出木杉が誇らしげに語る。
「これが、ぼくが半年をかけて編み出した破壊の極意“二重の極み”だ」
「ふたえ……きわみ……?」
「これは物理学の基礎だけど、どんな物質にも必ず抵抗というものが存在する。そして抵
抗がある限り、どんな攻撃も技が持つ百パーセントの威力を与えることはできない」
いつの間にか、皆が彼のレクチャーに聞き入っていた。
「でも研究によって、拳を刹那の拍子で二度ぶつけることによって、二撃目は抵抗を受け
ずに対象に伝わることが明らかになった。……あとは練習あるのみだったよ」
すくった粉をさらさらと床に落とす。
「そしてついに、昨晩──二重の極みは完成した。悪いけど剛田君、沈んでもらうよ」
レクチャー終了。出木杉が駆ける。
ジャイアンも拳にだけは当たるまいとするが、悪あがきに過ぎない。
「残念。さっきは拳といったけど、別に拳でなくとも二重の極みはできる」
左ハイ炸裂。やはり、衝撃は一片たりとも削がれていない。こうなればもう、ジャイア
ンに打つ手はない。ただ打たれるのみ。
陥落しゆく王座というシチュエーションに何らかの快感を覚えたのか、狂喜するクラス
メイト。
「出木杉の勝ちだッ!」
「ワッショイッ! ワッショイッ!」
「とうとう世代交代かッ?!」
どう戦況を判断しても、もう逆転はない。出木杉でさえ上手く立ち回れたことに内心安
堵していた。
だが、不運にも彼は知らなかった。
剛田武をガキ大将にまで押し上げた、あの絶技を──。
のび太とドラえもんは昇降口にいた。
学校中で勃発している争いから逃げ回ったためだ。
「さすがに下駄箱で戦ってる子はいないようだね。さぁのび太君、どこでもドアで帰ろう」
「でも……」
「どうしたの?」
「出木杉がジャイアンと戦ってるのに、ぼくだけ逃げるなんて……」
ため息をつくドラえもん。
「なにいってるんだよ。手助けできるような相手じゃないんだよ?」
「出木杉……ごめん……」
「仕方ないよ、ぼくらじゃどうしようもないんだ……」
残念そうに、ドラえもんは四次元ポケットから桃色のドアを取り出す。彼らは“強さ”
の支配下ではあまりにも無力なのだ。
「さ、行くよ」
ドラえもんはドアノブに丸い手をかける。のび太もうなずく。
すると突然、背後からあの憧れの声が飛んできた。
「逃げるのね……。のび太さんのいくじなし!」
冴え渡る二重の極み。
剛田武と出木杉英才の頂上決戦は、下馬評に反して一方的な展開を迎えていた。
出木杉は直突きを鼻先にめり込ませると、怯んだジャイアンにアッパーを打つ。浮かび
上がった巨体へ、さらに全体重を乗せたチョップブロー。むろん、全て二重の極みによる
恩恵を受けている。
背中から黒板にふっ飛んだジャイアンに、壁にかけてあった時計が落ちて当たった。
これには多くのクラスメイトが失笑する。
「プッ、ダッセェ~ッ!」
「……カッコワル」
「いいぞ、出木杉ィ!」
中には笑わず、じっと出木杉の技を研究するグループもいる。早くも出木杉攻略を目論
む者たちだ。ナンバーワンになりたいという野心を抱くのは、なにも出木杉ひとりではな
い。
どちらにせよ、ジャイアンの防衛という可能性はクラス中から消え去っていた。
──だが、ここに来てジャイアンの一発がようやくヒットする。
「ぐっ……!」
右フック命中。テレフォン気味で、かつ相手はディフェンス技術にも長けた天才。クリ
ーンヒットではない。にもかかわらず、出木杉がぐらつく。
「さすがだね、剛田君。技術を粉砕するパワー、二重の極みにも耐えるタフネス──とて
つもない肉体だ。もし君が、ぼくくらいの頭脳を持っていたら地上最強だって夢じゃない」
この賛辞に、大きく首を振るジャイアン。
「逆だぜ、出木杉。おまえに俺ぐらいの肉体があったら、だ」
似て非なる、平行線を描く理論。微笑む両雄。まるで愛し合う男女のように。ただし、
互いにあるのは相手を叩きのめしてナンバーワンになるという欲求のみ。
二人に挟まれた空間が軋み、歪む。
「邪ッ!」力任せにジャイアンが突進する。
「乗らないよ」出木杉は丁寧に、拳をひとつひとつ当てていく。
結局、再びめった打ちとなるジャイアン。天才は一撃喰らった程度で流れを渡したりは
しない。
激しい攻防に、大量の砂ぼこりが立つ。
「ケホッ。早く終わらせないと、あとで掃除するのが大変そうだ」出木杉が両拳を脇に回
す。「これで決めるッ!」
正中線四連突き。かつて出木杉が空手を研究中に開発した大技だが、二重の極みの力に
よってより高みに達した。
人中、喉、水月、股間。これらに机を粉砕する拳を入れられて、いくら恵まれた筋肉に
守られているとはいえ無事で済むはずがない。
とうとうジャイアンが動きを止めた。ガクッと膝から落ちる。
「普段ならここで終わりにするところだけど……君は怪物(モンスター)だ。ダメ押しさ
せてもらうよ」
「……し、け……い……」
「え?」
「逆らう者は……死刑ィッ!」
ジャイアンが拳を床に振り落とした。轟音とともに、ブワッと砂ぼこりが舞い上がる。
ギャラリーはもちろん、出木杉にも意図が読めない。
しかし、ジャイアンをもっともよく知る人間。出木杉に敗北し、クラスメイトに混じっ
て観戦していたスネ夫にだけは答えが分かっていた。
「こ、殺す気か……ッ!」
砂ぼこりは一気に量を増し、煙と呼ぶに相応しい濃度になった。が、出木杉は冷静さを
崩さない。
「これが君のとっておきかい? でも、ぼくだって悪条件下での闘争術は勉強して──」
「関係ねェよ」
「なんだって……?」
「こうなった以上、おまえは絶対にメタメタのギタギタだ」
劣勢にあるジャイアンがうそぶく。
一方、煙がひどくなる中、不安を抑えきれぬ者がいた。わずかに心に潜む良心がうずき、
スネ夫は叫ばずにはいられなかった。
「出木杉、逃げろォッ!」
それでも、出木杉は退かない。意地などではない。彼はバカではないので、勝てぬと判
断したら必ず逃げる。逃げないのは、勝てると信じているからだ。
「行くよ……剛田君!」
「哀れだな、出木杉!」
砂煙が器用に二人だけを包み込むと、惨劇が幕を上げた。
──殺戮のドームと化す砂煙。
煙からは、ジャイアンの咆哮と打撃音しか聞こえない。
時折手や足が中から姿を出すが、攻防の詳細を知る手がかりにはなりえない。
潰れる音、砕ける音、折れる音──大小さまざまな音がオーケストラを奏で、たった十
秒足らずで演奏は停止された。
どちらがどうなったのか、ギャラリーには及びもつかない。
そして、程なくして煙が晴れる。勝敗が明らかになる瞬間だ。
まず目に映ったのが、仁王立ちするジャイアン。次いで、足もとで無残な肢体を晒して
動かない出木杉。あちこちから出血し、あらゆる骨を砕かれている。
分かりきっていた結果を悔やみ、うなだれるスネ夫。
「砂煙に包まれながら、規格外の腕力で対戦相手をがむしゃらに殴打! ──これをやら
れたら、いかに出木杉がテクニシャンだろうと勝てる道理はない! ……こうなることは
分かっていたんだッ!」
しん、と静まり返る一同。
しかも地獄はこれだけでは終わらない。
学校のアイドル、源静香。
可愛らしさは健在だが、首から下にはスネ夫や出木杉にも匹敵する肉体が当然のように
備わっている。
しかし、いくら屈強になっていようと愛する女性には変わりない。どことなく後ろめた
そうに、のび太が声をかける。
「し、しずちゃん……」
「武さんを出木杉さんたちに任せて、あなたは逃げるというの?」
「だって、どうしようもないじゃないか! 相手はジャイアンだよ、殺されちゃうよ!」
「拳を合わせてもいないうちに、なにをいうの! 私には分かるの、あなたは武さんより
もずっと強いはずよ!」
「で、でも……無理だよ……」
煮え切らない少年に、静香はあっさり愛想を尽かす。ぷいと背を向けてしまう。
「失望したわ、あなたがこれほどにチキンだとは思わなかった。武さんは私が止めてみせ
るわ」
昇降口から立ち去ろうとする背中。
このとき、のび太の中でなにかが弾けた。
今さらいわれるまでもなく、のび太は人一倍いくじなしだ。だが、戦場に向かおうとす
る未来の妻を黙って見送れるほど無神経でもない。
勇気を振り絞るべきは、今──。
「待って、しずちゃんっ!」
ぴたり、と静香が足を止めた。
「ぼくが……ぼくが戦うっ! ぼくがジャイアンと戦うよっ!」
静香は振り返らない。が、笑っていた。唇から歯をむき出し、いかにも「計算通り」と
いいたげな黒いスマイルを顔面に張りつけていた。
そして、将来夫婦となる男女は手を取り合う。
「じゃあ、教室に戻りましょう。のび太さん」
「うん」
さて、ひとり取り残されたドラえもん。口を挟むことすらかなわなかった。
もはや秘密道具などでは太刀打ちできない領域へと、戦国時代は動いていく。
その頃、教室には地獄絵図が広がっていた。
机や椅子はひとつとして原型を保っていない。掲示されていたプリント類も、全てはが
れ落ちている。
とてつもない台風だった。
教室中に、巻き込まれたクラスメイトが男女の区別なく散らばっている。ある者は床に
沈み、ある者は天井や壁に刺さり、ある者は窓から放り投げられた。先生でさえ餌食だ。
これほどの大災害を演じたのは──今さら明かすまでもなく、剛田武。
出木杉を破壊した彼は、猛った矛先をギャラリーに向けていた。むろん、生徒たちも勇
んで抵抗する。大天才に手こずり、消耗したガキ大将を多人数で叩けるチャンスなどめっ
たにない。学校史上においても、まれな大乱戦となった。
だが、それでも差は埋まらなかった。
次から次へとドミノ倒しのようにチャレンジャーは撃砕され──。
今や残されたのは、骨川スネ夫のみ。
「こんな雑魚どもをいくら喰らってもつまらんが……おまえは別だ、スネ夫」
「くっ……!」
「財力は強さにはならんが、強さを得る手段にはなる。今日も持ってきてるんだろう。い
いオモチャを期待してるぜ」
すでに日本刀は出木杉によってガラクタにされている。だが、まだスネ夫には切り札が
あった。
「分かったよ、ジャイアン」
ナンバーワンと立ち合うというピンチと、ナンバーワンに挑めるというチャンス。ふた
つを眼前にして、複雑な笑みを浮かべるスネ夫。
「これが……ぼくの」スネ夫はポケットから注射器を取ると、ためらいなく前腕に針を刺
した。「リーサルウェポンだッ!」
筒の中にある濁った液体が注入される。
「ふ、ふふふ……ふっふっふ……来たぞ来たぞ来たぞ」
急激に、スネ夫の上半身が二倍、いや三倍以上にパンプアップしていく。
「ぼくのパパには一流シェフの友人がいてね……。少しゆずってもらったのさ、このドー
ピングコンソメスープをッ!」
ステロイドなど比べものにならない即効性と膨張率。
「期待以上だよ……。これこそ、至高にして究極のボディだッ!」
通常、料理においてもっとも重視される要素といえば味だ。とはいえ、味覚は人によっ
て千差万別であり、いかに極めようと万人に認められることは難しい。
だが、強さはちがう。好みや地域差など一切存在しない。
事実、子ども同士の喧嘩から戦争に至るまで──強さを比べるための野蛮なゲームは地
球上いつでもどこでも繰り広げられているではないか。
こんな危険極まりない分野(ジャンル)に、果敢にも挑んだメニューがこれである。
──ドーピングコンソメスープ。
手始めに、スネ夫は壁にデコピンをぶつける。あっさり一メートルほどの穴が空いた。
「ジャイアン、君にひとつ面白い方程式を教えてあげよう」
次に、右手に拳を作るスネ夫。
「財力×コネ×ルックス=破壊力!」瞳孔が開ききった目で、スネ夫が吼える。「今日か
らは、ぼくが学校最強の生物だァッ!」
丸太ほどもある豪腕。これが決まれば、いかにジャイアンといえどひとたまりもないは
ず──であったが。
「おまえにちょっとでも期待した俺がバカだったようだな」
スネ夫のパンチは、蚊に刺されたほどのダメージも与えてはいなかった。
一転、弱々しく口を開くスネ夫。
「ゆ、許して……」
「決して許してあげない」
命乞いも効力はなく、ジャイアンは拳を固める。
「消え失せいッ!」
返しはアッパー。二百キロ以上を推測されるスネ夫が、天井を突き抜け、三階を通り越
し、屋上まで届けられてしまった。
クラスメイトを全滅させ、さすがのジャイアンも一息つく。
「どいつもこいつも冷や飯にも値しねェ……。ま、出木杉を喰えただけでもよしとするか」
驚くことに、彼はまだ満ち足りてはいなかった。
まさに帝王、まさにガキ大将、まさにナンバーワン。
そして今、ひとりの戦士がもっとも無謀な戦いを挑もうとしている。
「ジャイアン、ぼくが相手だっ!」
──野比のび太、帰還。
異常なまでの静けさ。フルネームまで知っている友人たちが、まるで石ころのようにご
ろごろと転がっている。
これが毎日のように授業を受けていた教室だとは、のび太にはとても信じられなかった。
「よう、のび太。まさか戻ってきてくれるとはな」
予想だにしなかったチャレンジャーに、ジャイアンは舌なめずりで応える。
この時点で、のび太は完全に呑まれていた。
無理もない。彼が向き合っている相手は、あまりに大きく、あまりに太く、あまりに厚
く、あまりに重く、あまりにも強すぎる。
「どうしたのび太。しずちゃんにいいところを見せようとやって来たはいいが、びびっち
まったか?」
廊下でセコンドを務める静香に、横目をちらりと向けるジャイアン。
若干事実とは異なるが、のび太は図星を突かれたも同然だった。静香に出会わなければ、
今頃は家でぬくぬくしていたにちがいないからだ。
「色を知る年齢(とし)か。だが、この俺を恋愛の踏み台にしようなどと──たわけたこ
とをッ!」
「ひいっ!」
ジャイアンが、持てる全殺気をのび太にぶつける。もはや立っているだけで、今朝食べ
たトーストが胃から持ち上がってくる。
ここでようやくドラえもんがのび太たちに追いついた。
「あら、ドラちゃん。血相変えてどうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ! しずちゃん、君はどういうつもりでのび太君をジャイアン
と戦わせたりなんかしたんだよっ!」
怒りをあらわにして問い詰めるドラえもん。これに対して静香は悪びれることもなく、
「いじめられっ子をガキ大将と戦わせる美少女……。そのくらいの毒気があっていいのよ、
アイドルなんて……」
と、平然と告げてみせた。
少女の中に住まう鬼に戦慄し、絶句するドラえもん。
そうこうするうち、教室で動きが起こる。
きっとドラえもんが助けてくれる、と安易な希望に身を投じたのび太が駆け出した。
「うおおおおっ!」
「いい気迫だ、のび太ァッ!」
待ち受けるは絶望、とも知らずに。
のび太にしてみれば、活火山に挑むような心境であったろう。
天と地、などという生半可な例えでは済まされない戦力差。いくらのび太が鈍感で、ド
ラえもんというバックボーンがあるにしても、生身で立ち向かうには荷が重すぎる相手だ。
もうすでに、のび太の中にある危険を察知する感覚は麻痺していたのかもしれない。
結果はあっけなかった。
あっさりとヘッドロックに捕えられてしまうのび太。厚い胸板と太い前腕に挟まれ、身
動きひとつできない。
「じわじわ喰ってやるよ、のびちゃん」
少しずつ、少しずつ、力を加えていくジャイアン。
ミシミシ、と頼りなく骨が軋む。
たまらず、ドラえもんが大声で訴える。
「やめてよジャイアン! のび太君を殺す気か!」
「いつ殺すといった? 永久に起きなくするだけだぞ!」
めちゃくちゃな理屈をお返しするジャイアン。話し合いが通じる相手ではない。さらに
力が込められる。
「ド、ラえ……助け……うぎゃああぁぁぁっ!」
「のび太君っ!」
悲痛な叫び。平和な時代に生まれた小学四年生が発するには、あまりにも不釣り合いだ。
「空気砲~!」せめてヘッドロックを解かねば、とドラえもんが実力行使に出る。「ドカ
ンッ! ドカンッ! ドカンッ! ドカンッ! ドカンッ!」
全弾クリーンヒット。が、ジャイアンを怯ませることすらかなわない。
「そう慌てるなよドラえもん……。のび太のあとでたっぷりと遊んでやるって!」
「のび太君……。ご、ごめん……!」
がっくりと、力を落とすドラえもん。もう打つ手はない。
秘密道具は通じない。出木杉もいない。のび太が自力で脱出できるわけがない。
あとほんの少しジャイアンが力むだけで、頭蓋骨はひび割れて砕け散る。
「さァ、のび太。フィニッシュだッ!」
額に血管を浮かべ、ジャイアンが豪快に笑う。
──が、寸前。
脳が発令した「力を加える」という信号が、腕に送り込まれる寸前。彼の後頭部に拳を
叩き込む少女があった。
「武ィィィッ! あたしが相手だッ!」
予期せぬ乱入に、ヘッドロックが外れる。どさりと倒れ込むのび太。
「ほう、しずちゃん。のび太如きをかばうなんて、ずいぶん甘くなったじゃないか」
静香はかまわず左ハイ、立て続けにボディを連打。締めは噴火のような勢いで突き上げ
るアッパー。が、打ち抜けない。
攻め手を失い、仕方なく間合いから抜ける静香。
「さすがね、武さん。出木杉さんを倒しただけのことはあるわ」
「しずちゃんこそ、出し惜しみはよくないぜ」
「……なんのことかしら」
「超人体技“六式”……。君はその使い手だと聞き及んでいる」
静香の目つきが変わった。
──源家秘伝、六式。
鍛え抜いた指で人体を貫く、指銃(しがん)。
真空を発生されるキック、嵐脚(らんきゃく)。
宙を蹴り自在な空中移動をこなす、月歩(げっぽう)。
まるで消えたように大地を駆ける、剃(そる)。
体を硬直させ銃弾さえはね返す、鉄塊(てっかい)。
紙のように脱力しあらゆる打撃をかわす、紙絵(かみえ)。
以上六つの絶技をもって、六式。
鎌倉時代より代々源家に伝わる門外不出の拳であったが、戦後より広く一般に公開され
るようになった。なお現在、日本のセキュリティポリス、米国のシークレットサービスを
初め、各国のボディガードたちには六式習得が義務づけられている。
ただし、体得には並々ならぬ努力と才能が不可欠であり、六つある技のうちひとつを覚
えるだけでも三年を要するといわれている。
ところが、わずか十才の静香が六式の使い手とはどういうことか。
「ストーカーが趣味かしら、武さん」
「以前スネ夫の奴にちょっと、ね。それにしても、すばらしい才能だ」
「バレているのなら、温存は必要なさそうね」
二メートル近くあった間合いを、さらに広げる静香。ジャイアンは困惑する。
「おいおい、キャッチボールでもするつもりかい?」
「嵐脚ッ!」
突如、静香が高速で足を振るう。それに伴い、鋭い真空波が飛び出し──。
──ジャイアンを切り裂く。
疾風という名の凶器が踊る。刃が次々にジャイアンへ向かっていく。
「あなたの射程(エリア)でやり合うつもりはないわ。卑怯も武のうちよ」
嵐脚によってできたカマイタチは、コンクリートをも切断する。とうに常人ならばみじ
ん切りとなっているはず。
だが、ジャイアンという男はとうてい常人の域に収まるような器ではなかった。
「しずちゃん、そんなに俺をヌードにしたいのかい?」
切り裂けたのは、なんと服だけ。肉体には出血はおろか、かすり傷ひとつついていない。
「野球拳には便利な技だが、あいにくまだ宴会を開く時間じゃないぜ」
「た、大したものだわ……武さん。いえジャイアン」
穴だらけとなったシャツを引き裂き、半裸となるジャイアン。
壮絶な上半身であった。骨格に岩を乗せたかのような筋肉には、至るところに深い古傷
が染みついている。
女としての本能を刺激され、口の中を生唾で一杯にする静香。
「ビューティフル……」
「生後まもなく、俺は母ちゃんにコンクリートに叩きつけられた。走ってる電車にぶつけ
られ、東京タワーから突き落とされ──そうやって身につけた耐久力だ。接近戦でなきゃ、
まず俺は倒せねェ」
「えぇ……私は未熟を恥じるわ。ジャイアンという怪物から、危険を冒すことなく勝利を
得ようとしたのだから」
殺す覚悟に加え、殺される覚悟。対をなすふたつの覚悟を持たねば、ジャイアンの上を
ゆくのは不可能だ。
「ようやく地に足がついたようだな」にたりと笑うジャイアン。
「剃ッ!」
六式、剃。音でさえ追いつけぬ速力を発揮する静香。
ほとんどのケースで、剃は背後を取るために使われる。が、今回はちがった。
正面から、堂々と。
後ろ向きな戦法では通用しないことを、静香にはよく分かっていた。
標的は──心臓か、眼球か、金的か。否、どれでもない。
心臓を守る胸筋を貫くのは難しい、眼球は身長差が大きいため狙いにくい、金的は致命
打にはならない。
静香が的を絞ったのは、喉。鍛えられぬ部位、しかも呼吸器。
「指銃ッ!」
ライフル弾にも匹敵する指が、喉を射抜いた。──が。
「お、折れ……ッ!」
根本から折れ曲がる人差し指。
呆然とする静香に、哀れむようにジャイアンが話しかける。
「君がどれほど指を鍛え込んだかは知らんが、喉を狙ったのは失策だったな」
「な、なんですって……!」
「俺がめざすのは地上最強の歌手。それゆえ、特に喉は重点を置いて鍛えてある。この程
度の威力では喉を破壊するなど、とてもとても……」
「……くっ!」
剃で離れようとする静香だったが、ジャイアンの手が伸びる方が速かった。がっちりと
頭を掴まれてしまう。
「──て、鉄塊ッ!」
とっさの判断で、ひとまず静香は防御を固める。甘んじて一撃を受ける覚悟だ。
頭突き、一撃目。整った鼻が大きく歪んだ。鉄塊で守られているにもかかわらず。
しかし、闘争心は一ミリたりとも揺るがない。
「なァんだ、大したことないじゃん」
鼻血まみれの笑顔で、少女はジャイアンをにらみつける。
「お風呂温かきは……」骨折した指を、ひたすらに突き出す静香。「無敵なりッ!」
この世にバスタブがある限り、指が折れても心は折れぬ。
「なんてスマートな女なんだ……」
ジャイアンもまた、心底嬉しそうな笑みで応える。──そして。
頭突き、二撃目。鼻を完全に陥没させられ、信念とともに静香は崩れ落ちた。
下克上、ならず。
天才も、財力も、多勢も、秘密道具も、アイドルも、どれも巨凶を倒すには至らなかっ
た。やはり、強さが全ての世界においてはジャイアンがナンバーワンなのか。
その時、最後のチャレンジャーが息を吹き返す。
「よ、く、も……しず、ちゃ……んを……」
ジャイアンが振り返ると、いつの間にかヘッドロックで瀕死となっていたのび太が立ち
上がっていた。
「てめぇ、またやる気か!」
「ぼ、くが……あい、てだ……ジャイアンっ!」
幽霊のような風体で、一歩一歩ジャイアンに近づいていくのび太。
「ダメだ、のび太君! 今度こそ本当に殺されちゃうよっ!」
親友の声も、今は耳に入らない。
守りたい。敬愛する祖母が存命だった時期から恋焦がれ、将来結ばれると約束された最
愛の存在。守らねばならない女性。だからこそ、歩く。
「行く……ぞ……」
「く、来るなァッ!」
後ずさりするジャイアン。一発で絶命できる相手のはずが、なぜかその一発が出ない。
強さとはなにも、筋力や技術のみで競われるものではない。今、のび太は心でジャイア
ンを圧倒していた。
愛する人を守る。たとえ自らが滅びても、守るべき人さえ生き延びてくれればそれでよ
い。勝利の先にある栄光など一切度外視した、純粋な想い。これに比べれば、ヒーローに
なりたい、力を誇示したい、武器を自慢したい、ナンバーワンに君臨したい、などという
動機は不純物まみれに過ぎず。いわば──。
邪念。
弱虫が一歩進むと、帝王が一歩退く。なんと滑稽な光景だろう。
「かかっ……てこ、い……」
「来るんじゃねェッ!」
ジャイアンの背が壁にぶつかる。さまざまな威嚇を試みるも、のび太は全てを受け流す。
どうしようもない。手をこまねくうち、ついに二人の距離がゼロとなった。
全身を預けるように、のび太がジャイアンにしがみつく。
「ぼくだけの力で君に勝たないと……」
半死人は、
「しずちゃんが安心して……」
弱き心を振り絞り、
「お風呂に入れないんだっ!」
生命を燃やし尽くした。
「悪かったァァァッ! 俺の敗けだァァァァッ! 許せェェェェェッ!」
肉親以外から初めて受け入れる、敗北。
唾、汗、涙、尿。あらん限りの体液をほとばしらせ、剛田武は陥落した。
ぶんぶんと拳を振り上げ、ブラウン管の中にいるヒーローを応援するのび太とドラえも
ん。
「あぁっ、まずい、がんばれっ!」
いつしか二人の声は美しく同調し、名門応援団にも匹敵するであろう旋律を奏でていた。
このような声援を受けては、たとえピンチだろうがヒーローが挽回しないわけにはいか
ない。傷ついた体に力がよみがえる。
「今だーっ!」
のび太とドラえもん、いや日本中の少年たちの心(ハート)がヒーローに乗り移る。
切り札の大技が炸裂し、大爆発とともに悪者は散った。
「やった、やったぁーっ!」
抱き合う二人。ヒーローの勝利は、すなわち彼らの勝利でもあるからだ。
テレビの前ではあれだけ息が合っていた二人だが、終わってしまえば冷めたものだ。
目をギラギラさせ、まだヒーローのつもりでいるのび太。
早くも熱が下がり、後先のことを考えているドラえもん。
こうなると、次に二人の間になにが起こるかは、神でなくとも容易に予想ができる。
部屋に戻り、のび太が口を開く。
「ねぇ、ドラえもん。頼みがあるんだけど……」
そら来た、とドラえもん。今に始まったことではないが、今に始まったことではないが
ゆえにうんざりする。
「ダメだよ。強くなる道具なんか出さないよ」
機先を制し、釘を刺すドラえもん。だが時として、のび太は二十二世紀を超える。
「いやいや、ぼくは強くなる道具なんか頼まないよ」
「へ?」
「もしもボックスを出して欲しいんだ」
いくら考えても、ドラえもんはのび太の狙いを測りかねた。
どうせろくでもないことを考えているに決まっているが、この少年がもしもボックスを
どう使うか少し興味がある。もし変な世界を作ったら、すぐに元に戻してしまえばいいだ
けの話だ。
しばらく悩んでから、ドラえもんはポケットに手を入れた。
「もしもボックス~!」
もしもボックス。パラレルワールドをいとも簡単に創造できる、まさしく究極の秘密道
具。一見するとただの電話ボックスだが、中身は我々では想像もつかないようなテクノロ
ジーで支えられている。
さっそくのび太は中に入ると、受話器に向かってこう叫んだ。
「もしも、強い人がえらい世界になったら!」
けたたましくベルが鳴り響き、世界は生まれ変わった。
もしもボックスから出たのび太に、首を傾げながらドラえもんが尋ねる。
「強い人がえらい……って、まずいんじゃないの? 君はますますいじめられるだろうし、
ジャイアン辺りがものすごいことになるんじゃ……」
「分かってないなぁ、ドラえもんは」
のび太は鼻高々に、持論を展開する。
「ぼくがこれまで弱虫だったのは、別に強さが必要ない世界だったからだよ。いくら喧嘩
が強くたって、先生やママに叱られるだけだしね。でもこういう世界になれば、ぼくだっ
てヒーローのように強くなれるはずさ」
唖然とするドラえもん。どうやらのび太は自分が弱かった原因は、社会のルールにあっ
たと考えたらしい。
「……まぁ、気の済むまでやってみたら」
「うん!」
すると、階下から玉子の声が飛んできた。
「のびちゃん、ご飯よ~!」
台所では、すでに父と母が椅子に座っていた。が、どうも様子がおかしい。
のび助も玉子も、体格がまるで記憶とちがう。首はずんぐりと太く、肩幅はがっしりと
広い。腕も足も、空気でも詰めたかのようにふくれ上がっている。
じろりと、二人をにらむのび助。
「のび太、ドラえもん、早く座りなさい」
「う、うん」
のび太とドラえもんがそれぞれ椅子を引く。ところが、まったく動かない。
「なにこれ、重すぎるよ!」
いくら引っぱってもびくともしない。百二十九馬力を誇るドラえもんで、かろうじて動
かせる重量だ。
「のびちゃん。あんたまだ、百キロも動かせないの? いつもトレーニングをさぼってば
かりいるからよ」
「まぁいいじゃないか。のび太、動かせないんなら立ったまま食べろ」
「はぁい……」
箸を取るのび太。これもやはり重く、一キロはある。そして、今日のメニューは以下の
通りだ。
粉(プロテイン)。
注射器(強化ステロイド)。
炭酸抜きコーラ。
梅干し。
熊の生肉。
どれもこれも、強くなるためには欠かせない献立ばかり。とはいえ、生肉は加工食品に
慣れ親しんだのび太の鼻には耐えがたい臭気を発していた。
「い、いやだぁ~!」
箸を投げ、逃げ出すのび太。ドラえもんが追う。玉子も追う。
「もういやだ、早く元に戻さなきゃ!」
だが、先にスタートしたにもかかわらず、のび太はあっさりと玉子に追い抜かれてしま
った。
部屋に置かれたもしもボックスに、玉子の髪がぞわりと逆立つ。
「マ、ママ……?」
「のびちゃん──だっしゃあァッ!」
玉子のたくましい脚が、水平に美しい孤を描く。
ミドルキック。もしもボックスは彼女の蹴りによってくの字にへし折れ、大きな音を立
てて畳に寝そべった。
「電話ボックスなどを持ち込みおって……恥を知れいッ!」
「ひ、ひぃぃっ!」
「罰として、今晩はメシ抜きだッ!」
失禁したのび太には目もくれず、部屋を出ていく玉子。遅れて入ってきたドラえもんが、
ひしゃげたもしもボックスを見て絶叫する。
「な、なんてことを!」
「ドラえもん! 早くもしもボックスを直して、元の世界に戻そうよ!」
「……ダメなんだ」
「えっ?!」
「もしもボックスはとても複雑な道具だから、ちゃんとした工場でないと機能まで元に戻
すことは難しいんだ」
「じゃあ、タイムふろしきは?」
「時間系の道具は全部メンテナンスに出しちゃってて……。ちょうど明日の今頃になった
ら戻ってくる予定だけど、つまりドラミやセワシ君に頼ることもできない」
突きつけられた八方塞がりという現実に、のび太は青ざめる。
「ってことは……」
「うん。明日の夜まで、ぼくたちはこの世界にいなきゃならない」
のび太は泣いた。ドラえもんも泣いた。泣き疲れて眠るまで、泣きわめいた。
──本当の地獄は、これからだ。
地球は変革を遂げた。金よりも家柄よりもなによりも、強さこそが尊ばれる社会。この
革命がたったひとりの少年によって引き起こされたという事実を、知る者はいない。
すっかり眠りこけていたのび太が、友の声で布団から身を起こす。
「おはよう、のび太君」
「ドラえもん! なんでもっと早く起こしてくれないんだよ、遅刻しちゃうじゃないか!」
大急ぎでパジャマから着替え、のび太はランドセルに持ち上げようとする。
「うっ!」
ゴキン、という音とともに肩の骨が抜けかけた。
「あぁ、やった」
「いたたたた……! な、なんでランドセルがこんなに……」
「のび太君、忘れたの? ここは君が生み出した世界じゃないか」
痛めた肩を押さえながら、ようやくのび太は思い出した。
「あっ、そうか! すっかり忘れてたよ」
「ぼくもさっき持ったけど、ランドセルは五十キロくらいあるよ。仕方ないから、学校に
は手ぶらで行こう。あと心配だから、ぼくもついて行くよ」
「ありがとう、ドラえもん」
グルメテーブルかけで普通の朝食を取り、玄関を出る二人。
「そういえば家にいなかったけど、パパとママは?」
「朝っぱらから庭で組み手して、パパは会社、ママはバーゲンに行ったよ」
「そ、そう……」
昨晩食卓に座っていた変わり果てた両親が目に浮かぶ。のび太は残すところ半日余りを
本当に生き残れるのか、少し不安になった。
案の定、異変はご近所にも蔓延していた。
道路には自動車はなく、代わりに車以上の速度と機敏性をもって人々が駆け回っている。
びゅんびゅんと人影が動く住宅街を、のび太たちはおそるおそる進んでいく。
また、至るところで血で血を洗う果し合いが演じられていた。
サラリーマン 対 大工。
中学生 対 老人。
八百屋 対 バンドマン。
野良犬 対 女子高生
主婦 対 本屋
理由などない。各々が力を誇示するため、己が全存在をぶつけ合っている。
むろん、だれもが並みの肉体ではない。たった一発のアッパーで人が電柱より高く打ち
上げられ、打ち上げられた方はぴんぴんして反撃に転じる。
こんな危険地帯にドラえもんとのび太が付き合えるはずもない。二人は進退を繰り返し
て登校するしかなかった。
どうにかやって来れた家と学校との中間地点。ここでドラえもんはある決断を下す。
「巻き込まれたら命はない。こうなったら、チータローションで学校まで一気に駆け抜け
るんだ!」
「あのさ、どこでもドア使わない?」
「あっ、そうか」
こうしてどこでもドアの力により、のび太たちは難なく学校にたどり着いた。
午前八時二十五分。
ホームルーム前、のび太のクラスで主役になっていたのはなんと──。
「あ、あばら谷君!」
あばら谷一郎であった。
机が四方に押しやられ、がらんとした教室。彼はその中心に立ち、対戦者を募っていた。
「さァ、次はだれが来る?」
昨日までは貧しい家庭に育った、ごく平凡な少年だった。だが、今の彼は著しい闘争心
を宿す一流ファイターだ。現に、足もとには彼に倒されたクラスメイトが三人も転がって
いる。
シャドーボクシングをしながら、周囲を挑発するあばら谷。
「どうしたんだい、みんな。ぼくのボクシングに恐れをなしてしまったかな?」
のび太たちの耳に、あるクラスメイトの会話が聞こえる。
「ざけやがって、所詮ボクシングは手技しかない不完全な格技だ。次は俺がやってやる!」
「よせよせ。あいつのは純粋なボクシングじゃなく、貧乏生活で培ったブースボクシング
だ。えげつない技ばかり使うから、たとえ勝っても怪我は免れないぜ」
「ちっ……一時間目には千年杉からの飛び降りもあるしな。今怪我してもつまらんか」
もう挑戦者は現れそうにない。切り上げようとするあばら谷だったが、そこへ名乗りを
上げる男があった。
「仕方ないなぁ、ぼくが相手してやるよ」
ボクサーあばら谷の前に立ったのは、骨川スネ夫。
互いにハリネズミの如く、針のような殺気を放射する。
のび太未満の体格しか持たなかったスネ夫も、ルール変更に従ってぶ厚い筋肉を鎧とし
ている。ただし、身長だけはなぜか変わっていない。
あばら谷がふっと笑う。この世界においても貨幣経済は健在だが、いくら金を持ってい
ても羨望の対象にはまったくならない。その逆もしかり。なので、彼には金持ちに対する
卑屈さは欠片もない。
「君みたいな坊っちゃんがぼくと戦うなんて、いいのかい? ぼくは無敗ではないが、対
戦相手を無事に済ませたことはないよ」
「構わないよ。むしろ、それくらいの方が試しがいがある」
「試すだと? ──後悔するなよッ!」
のび太、ドラえもんを含む十数名がギャラリーを務める中、両雄が構えた。
まず、あばら谷が動く。
スネ夫の鼻先に、軽くジャブが触れる。これは攻撃ではなく、合図。ジャブで体内のリ
ズムを整えたあばら谷が、息もつかせぬ猛連打に出た。
対するスネ夫も巧みに間合いを操作し、なかなか決定打を許さない。少なくとも、猛攻
に伴うスタミナ消費に見合ったダメージは与えられていない。
だが、あばら谷の狙いは別にあった。
「そろそろかな」パンチだけを打つはずだった拳から、にゅっと親指が飛び出した。「こ
れがブースボクシングだッ!」
スネ夫の目蓋に親指が引っかかる。
「親指を、目の中に突っ込んで、殴り抜け──」
巨大な手が、ガシッとあばら谷の手首を捕えた。
「るッ?!」
「ふぅ……どんな技が出るかと期待したけど、大した工夫もないサミングか。ま、君みた
いな貧民にはお似合いな技だね」
親指を目に入れてから、殴り抜ける間に生じるコンマ単位のタイムラグ。スネ夫ほどの
達人ならば、十分に隙だらけと評することのできる致命的な空白だった。
次の瞬間、あばら谷は胸に深手を負った。素手ではなく、武器によるもの。
「グアッ! き、凶器……ッ?!」
「バグ・ナク……直訳すると“虎の爪”。ぼくのパパにはインド人暗殺者の友だちがいて
ね。昨日、パパから古いのを分けてもらったんだ」
右手に仕込んだ暗器をさらりと自慢すると、スネ夫はハイキックで勝敗を決した。
「あばら谷君! スネ夫、なんてことを!」
持ち前の正義感から、ついつい倒れた友人に駆け寄ってしまうのび太。これは、スネ夫
にしてみれば果たし状を渡されるに等しい行為だった。
「よう、のび太。次はおまえがぼくの相手をしてくれるのか」
「ス、スネ夫……!」
「おまえにはドラえもんがついてるんだったな。じゃ、こんなオモチャじゃ失礼だよな」
スネ夫はバグ・ナクを、惜しげもなく黒板の横にあるゴミ箱に投げ入れた。
「ぼくのパパには刀匠の友だちがいてね。昨日、新作をもらったんだ。一人用だからおま
えには貸さないけど、ぜひ切れ味を試したい……!」
どこからか取り出した日本刀に、舌をなすりつけるスネ夫。もはや、彼はのび太の知っ
ている腰巾着ではない。
「遊んでもらうよ」
上段に刀を構え、スネ夫が踏み込む。ドラえもんも道具を取り出そうとするが、わずか
に間に合わない。振り下ろされる白刃。
「うっ、うわ──!」
刹那、風が吹いた。風はスネ夫の手から日本刀を消し、のび太を救った。こんな神技を
できる者といえば、このクラスでも彼一人しかいない──出木杉英才である。
相変わらずの二枚目だが、体つきはボディビルダーさながらだ。
「──出木杉ッ! なんのつもりだッ!」
「骨川君、刃物はよくない。学校内での闘争は徒手が原則だよ」
「ふん、下らないフェア精神で勝利を遠ざけるのがお好きか」
「フェア精神? 勝利を遠ざける? なにをいってるんだね、君は」
出木杉は奪い取った日本刀を横に持つと、腕を上下にすばやく動かした。すると、なん
とこれだけの動作で丈夫な刀身が波打つように折れ曲がってしまった。のび太とドラえも
んはもちろん、原住民であるスネ夫までもが驚いている。
「グニャグニャだァ……」
「ヒッ!」
「骨川君、ぼくが素手にこだわるのはもっとも信頼できるからさ。これからは素手の時代
だ。今後、人類は進化を続け、近い将来核兵器にさえ耐えうる肉体を手に入れるだろう」
そういうと、出木杉はスクラップと成り果てた刀を持ち主に投げ渡した。
刀とともに心を折られたボンボンはその場に泣き崩れた。
「ヒィッ! ヒイイィィィィッ!」
混乱しながらも、とにかく命を助けられたのび太は礼をいう。
「あ、ありがとう出木杉……助かったよ」
「いや、礼には及ばないよ」
「やっぱりこっちの世界でも君はすごいな。このクラスじゃ一番強いんでしょ?」
「………」
この質問を浴びせた途端、出木杉の気配が変わった。迫力が増した。
「残念ながらぼくはナンバーワンじゃない。巨凶、剛田の血……。曰く、ガキ大将。曰く、
歩く公害。学校最強の生物“ジャイアン”こと、剛田武がまちがいなくナンバーワンだろ
う」
のび太ははっとした。強さの価値が跳ね上がって、あの男が得をしないはずがない。今
朝から非常識を休みなしに叩きつけられてきたので、彼の存在がすっかり抜け落ちていた。
「でも……今日はいないみたいだけど、休み?」
「もうすぐ来るさ」
「え、なんで分かるの?」
「地を踏みしめる足音、拳に染みついた血の臭い──そしてなにより肉体から発せられる
凶悪なまでの覇気。全てが彼を示している!」
ファイターのみが持ちえる感覚で、出木杉はジャイアンがまもなく登校してくることを
知っていた。
出木杉に遅れて察知したらしく、皆もざわつき始める。
突如、窓ガラスが砕けた。
それと同時に、教室に侵入する巨漢。
──剛田武、降臨。
ずん、と空気が重くなる。
前の世界でもしばしばゴリラと形容されていた彼だが、この世界ではどうしようもない
ほどにゴリラだった。にもかかわらず、二階にある教室にジャンプして入ってきたように、
瞬発力は抜群だ。
とてつもない威圧感。クラスは凍りつき、あれだけ強い出木杉も面差しを固くする。の
び太とドラえもんに至っては、かろうじて気を失わずに済んでいるという始末。
「ど、ど、ど、どうしようドラえもん」
「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくにいわれても……」
ジャイアンに目をつけられぬよう、二人はそっと背を屈めた。だが、かえって彼の注目
を呼んでしまう。
「おはよう、のび太。お、ドラえもんも来てんのか」
「お、おはよう、ジャイアン」
「さっそくだが……買ったばかりのバットの殴り具合を試させろッ!」
どういう仕組みなのか、背中から金属バットを抜き取るジャイアン。目にはとても数セ
ンチの球体には収まりきらぬほどの殺気が宿っている。
だが、今度はドラえもんの対応が一歩早かった。
「空気砲~! ──ドカンッ!」
空気の弾丸は一直線にジャイアンに向かい、みごと命中した。
「ド、ドラえもん!?」
「先手必勝だよ。もう学校はいいから、どこでもドアで家に帰ろう。あとは夜まで部屋で
じっと待つんだ」
教室から逃げようと、のび太の手をひっぱるドラえもん。ところが予想に反してジャイ
アンは無傷で笑っていた。
「空気砲じゃ私を獲れんよ。残念ながら、ね」
ダメージはないとはいえ、抵抗されたことには変わりない。それも不意打ち。みるみる
うちに、ジャイアンの顔が赤々と染まっていく。とばっちりを受け、握り潰されるバット。
「やってくれたな。二人まとめて、メタメタのギタギタにしてくれるわッ!」
圧力をさらに増幅させるジャイアン。もう二人は声ひとつ出せない。声が出せないとい
うことは、空気砲は撃てない。すなわち、絶体絶命。
ガキ大将、突進。
ジャイアンの異名に相応しい巨大な拳が迫る。
のび太もドラえもんも本能的に死を覚悟した。──だが。
拳は掌によって阻まれた。パンチを受け止めてくれたのは、出木杉であった。
「くっ……すごいパンチだ……!」
「ドガア! おまえも俺に歯向かうか、出木杉ッ!」
またも出木杉に助けられた。仮に出木杉が元々ジャイアンに挑む予定であったとしても、
今のタイミングは決してベストとはいえない。のび太が問う。
「出木杉っ! ど、どうして……?」
「さっき君は“こっちの世界”といったよね。あれでピンときたんだ。君たちはドラえも
ん君の力で、もっと平和な世界からこっちに来てしまった。……ちがうかい?」
驚くことに、さしてドラえもんと交流がなかった出木杉が、二人の境遇をほぼ完璧に読
み取っていた。
「すごい、当たってる……」
「分かるさ。どう考えても、君の肉体はこの世界で十年間を過ごしたものじゃない──」
名推理はジャイアンのボディブローで中断される。
「──ぐえぇッ!」
「なにをゴチャゴチャいってやがる!」
吐しゃ物をまき散らしながら、出木杉は二人を促した。
「……行くんだ! 剛田君はぼくがなんとかするッ!」
「う、うん!」
命を拾い、教室を飛び出すのび太とドラえもん。ジャイアンも追わない。
「俺にさえ逆らわなければナンバーツーとして天下を満喫できたのにな……。失敗したな、
出木杉」
「あいにく、ぼくは一番じゃないと気が済まない性分でね。……それに」
「それに?」
「これは予感だけど、今日ナンバーワンは君でなくなるような気がする」
「……面白ぇ」
するとジャイアンは両拳を腰に据え、全身を硬直させた。
「さっきの分だ。まずは一発ぶち込んできやがれッ!」
王者としての誇りか、あえて初弾を受けると宣言するジャイアン。もっとも、完全に防
御に回った彼にダメージを通せる者など小学生ではまずいない。出木杉は技巧や戦術には
秀でているが、打撃力に関しては特筆すべきものは持たぬはず。
「じゃあ、甘えさせてもらおうかな」
出木杉は軽いステップから、一気に加速した。勢いを利用して拳を打ち込む算段だ。
「ハァッ!」
鋼鉄の腹筋に、お手本のようなまっすぐなストレートが突き刺さった。だれもが「効い
ていない」と直感した。ところがジャイアンは、
「ごっ?! ……ガッハァッ!」
と、胃液を吐き散らし、よろめく。どよめきがクラス中に広がる。
これにて貸し借りなし。出木杉は当然のように追撃に出る。どれもこれも平凡なパンチ
のはずが、どれもこれもが効いている。
「これがぼくの研究成果さ。どうだい、効くだろう?」
たまらず、逃げるように間合いを空けるジャイアン。
「てめぇ、出木杉……! ど、どんな技をッ……!」
出木杉はこの問いには答えず、近くにあった机に黙って拳を落とす。そして拳が触れた
瞬間、机は粉末と化した。
このパフォーマンスに、野次馬たちも大穴だった出木杉に傾く。
「スッゲェッ!」
「あんなこと、ジャイアンでもできねぇぞッ!」
「天才だッ!」
粉になった机を手ですくい上げ、出木杉が誇らしげに語る。
「これが、ぼくが半年をかけて編み出した破壊の極意“二重の極み”だ」
「ふたえ……きわみ……?」
「これは物理学の基礎だけど、どんな物質にも必ず抵抗というものが存在する。そして抵
抗がある限り、どんな攻撃も技が持つ百パーセントの威力を与えることはできない」
いつの間にか、皆が彼のレクチャーに聞き入っていた。
「でも研究によって、拳を刹那の拍子で二度ぶつけることによって、二撃目は抵抗を受け
ずに対象に伝わることが明らかになった。……あとは練習あるのみだったよ」
すくった粉をさらさらと床に落とす。
「そしてついに、昨晩──二重の極みは完成した。悪いけど剛田君、沈んでもらうよ」
レクチャー終了。出木杉が駆ける。
ジャイアンも拳にだけは当たるまいとするが、悪あがきに過ぎない。
「残念。さっきは拳といったけど、別に拳でなくとも二重の極みはできる」
左ハイ炸裂。やはり、衝撃は一片たりとも削がれていない。こうなればもう、ジャイア
ンに打つ手はない。ただ打たれるのみ。
陥落しゆく王座というシチュエーションに何らかの快感を覚えたのか、狂喜するクラス
メイト。
「出木杉の勝ちだッ!」
「ワッショイッ! ワッショイッ!」
「とうとう世代交代かッ?!」
どう戦況を判断しても、もう逆転はない。出木杉でさえ上手く立ち回れたことに内心安
堵していた。
だが、不運にも彼は知らなかった。
剛田武をガキ大将にまで押し上げた、あの絶技を──。
のび太とドラえもんは昇降口にいた。
学校中で勃発している争いから逃げ回ったためだ。
「さすがに下駄箱で戦ってる子はいないようだね。さぁのび太君、どこでもドアで帰ろう」
「でも……」
「どうしたの?」
「出木杉がジャイアンと戦ってるのに、ぼくだけ逃げるなんて……」
ため息をつくドラえもん。
「なにいってるんだよ。手助けできるような相手じゃないんだよ?」
「出木杉……ごめん……」
「仕方ないよ、ぼくらじゃどうしようもないんだ……」
残念そうに、ドラえもんは四次元ポケットから桃色のドアを取り出す。彼らは“強さ”
の支配下ではあまりにも無力なのだ。
「さ、行くよ」
ドラえもんはドアノブに丸い手をかける。のび太もうなずく。
すると突然、背後からあの憧れの声が飛んできた。
「逃げるのね……。のび太さんのいくじなし!」
冴え渡る二重の極み。
剛田武と出木杉英才の頂上決戦は、下馬評に反して一方的な展開を迎えていた。
出木杉は直突きを鼻先にめり込ませると、怯んだジャイアンにアッパーを打つ。浮かび
上がった巨体へ、さらに全体重を乗せたチョップブロー。むろん、全て二重の極みによる
恩恵を受けている。
背中から黒板にふっ飛んだジャイアンに、壁にかけてあった時計が落ちて当たった。
これには多くのクラスメイトが失笑する。
「プッ、ダッセェ~ッ!」
「……カッコワル」
「いいぞ、出木杉ィ!」
中には笑わず、じっと出木杉の技を研究するグループもいる。早くも出木杉攻略を目論
む者たちだ。ナンバーワンになりたいという野心を抱くのは、なにも出木杉ひとりではな
い。
どちらにせよ、ジャイアンの防衛という可能性はクラス中から消え去っていた。
──だが、ここに来てジャイアンの一発がようやくヒットする。
「ぐっ……!」
右フック命中。テレフォン気味で、かつ相手はディフェンス技術にも長けた天才。クリ
ーンヒットではない。にもかかわらず、出木杉がぐらつく。
「さすがだね、剛田君。技術を粉砕するパワー、二重の極みにも耐えるタフネス──とて
つもない肉体だ。もし君が、ぼくくらいの頭脳を持っていたら地上最強だって夢じゃない」
この賛辞に、大きく首を振るジャイアン。
「逆だぜ、出木杉。おまえに俺ぐらいの肉体があったら、だ」
似て非なる、平行線を描く理論。微笑む両雄。まるで愛し合う男女のように。ただし、
互いにあるのは相手を叩きのめしてナンバーワンになるという欲求のみ。
二人に挟まれた空間が軋み、歪む。
「邪ッ!」力任せにジャイアンが突進する。
「乗らないよ」出木杉は丁寧に、拳をひとつひとつ当てていく。
結局、再びめった打ちとなるジャイアン。天才は一撃喰らった程度で流れを渡したりは
しない。
激しい攻防に、大量の砂ぼこりが立つ。
「ケホッ。早く終わらせないと、あとで掃除するのが大変そうだ」出木杉が両拳を脇に回
す。「これで決めるッ!」
正中線四連突き。かつて出木杉が空手を研究中に開発した大技だが、二重の極みの力に
よってより高みに達した。
人中、喉、水月、股間。これらに机を粉砕する拳を入れられて、いくら恵まれた筋肉に
守られているとはいえ無事で済むはずがない。
とうとうジャイアンが動きを止めた。ガクッと膝から落ちる。
「普段ならここで終わりにするところだけど……君は怪物(モンスター)だ。ダメ押しさ
せてもらうよ」
「……し、け……い……」
「え?」
「逆らう者は……死刑ィッ!」
ジャイアンが拳を床に振り落とした。轟音とともに、ブワッと砂ぼこりが舞い上がる。
ギャラリーはもちろん、出木杉にも意図が読めない。
しかし、ジャイアンをもっともよく知る人間。出木杉に敗北し、クラスメイトに混じっ
て観戦していたスネ夫にだけは答えが分かっていた。
「こ、殺す気か……ッ!」
砂ぼこりは一気に量を増し、煙と呼ぶに相応しい濃度になった。が、出木杉は冷静さを
崩さない。
「これが君のとっておきかい? でも、ぼくだって悪条件下での闘争術は勉強して──」
「関係ねェよ」
「なんだって……?」
「こうなった以上、おまえは絶対にメタメタのギタギタだ」
劣勢にあるジャイアンがうそぶく。
一方、煙がひどくなる中、不安を抑えきれぬ者がいた。わずかに心に潜む良心がうずき、
スネ夫は叫ばずにはいられなかった。
「出木杉、逃げろォッ!」
それでも、出木杉は退かない。意地などではない。彼はバカではないので、勝てぬと判
断したら必ず逃げる。逃げないのは、勝てると信じているからだ。
「行くよ……剛田君!」
「哀れだな、出木杉!」
砂煙が器用に二人だけを包み込むと、惨劇が幕を上げた。
──殺戮のドームと化す砂煙。
煙からは、ジャイアンの咆哮と打撃音しか聞こえない。
時折手や足が中から姿を出すが、攻防の詳細を知る手がかりにはなりえない。
潰れる音、砕ける音、折れる音──大小さまざまな音がオーケストラを奏で、たった十
秒足らずで演奏は停止された。
どちらがどうなったのか、ギャラリーには及びもつかない。
そして、程なくして煙が晴れる。勝敗が明らかになる瞬間だ。
まず目に映ったのが、仁王立ちするジャイアン。次いで、足もとで無残な肢体を晒して
動かない出木杉。あちこちから出血し、あらゆる骨を砕かれている。
分かりきっていた結果を悔やみ、うなだれるスネ夫。
「砂煙に包まれながら、規格外の腕力で対戦相手をがむしゃらに殴打! ──これをやら
れたら、いかに出木杉がテクニシャンだろうと勝てる道理はない! ……こうなることは
分かっていたんだッ!」
しん、と静まり返る一同。
しかも地獄はこれだけでは終わらない。
学校のアイドル、源静香。
可愛らしさは健在だが、首から下にはスネ夫や出木杉にも匹敵する肉体が当然のように
備わっている。
しかし、いくら屈強になっていようと愛する女性には変わりない。どことなく後ろめた
そうに、のび太が声をかける。
「し、しずちゃん……」
「武さんを出木杉さんたちに任せて、あなたは逃げるというの?」
「だって、どうしようもないじゃないか! 相手はジャイアンだよ、殺されちゃうよ!」
「拳を合わせてもいないうちに、なにをいうの! 私には分かるの、あなたは武さんより
もずっと強いはずよ!」
「で、でも……無理だよ……」
煮え切らない少年に、静香はあっさり愛想を尽かす。ぷいと背を向けてしまう。
「失望したわ、あなたがこれほどにチキンだとは思わなかった。武さんは私が止めてみせ
るわ」
昇降口から立ち去ろうとする背中。
このとき、のび太の中でなにかが弾けた。
今さらいわれるまでもなく、のび太は人一倍いくじなしだ。だが、戦場に向かおうとす
る未来の妻を黙って見送れるほど無神経でもない。
勇気を振り絞るべきは、今──。
「待って、しずちゃんっ!」
ぴたり、と静香が足を止めた。
「ぼくが……ぼくが戦うっ! ぼくがジャイアンと戦うよっ!」
静香は振り返らない。が、笑っていた。唇から歯をむき出し、いかにも「計算通り」と
いいたげな黒いスマイルを顔面に張りつけていた。
そして、将来夫婦となる男女は手を取り合う。
「じゃあ、教室に戻りましょう。のび太さん」
「うん」
さて、ひとり取り残されたドラえもん。口を挟むことすらかなわなかった。
もはや秘密道具などでは太刀打ちできない領域へと、戦国時代は動いていく。
その頃、教室には地獄絵図が広がっていた。
机や椅子はひとつとして原型を保っていない。掲示されていたプリント類も、全てはが
れ落ちている。
とてつもない台風だった。
教室中に、巻き込まれたクラスメイトが男女の区別なく散らばっている。ある者は床に
沈み、ある者は天井や壁に刺さり、ある者は窓から放り投げられた。先生でさえ餌食だ。
これほどの大災害を演じたのは──今さら明かすまでもなく、剛田武。
出木杉を破壊した彼は、猛った矛先をギャラリーに向けていた。むろん、生徒たちも勇
んで抵抗する。大天才に手こずり、消耗したガキ大将を多人数で叩けるチャンスなどめっ
たにない。学校史上においても、まれな大乱戦となった。
だが、それでも差は埋まらなかった。
次から次へとドミノ倒しのようにチャレンジャーは撃砕され──。
今や残されたのは、骨川スネ夫のみ。
「こんな雑魚どもをいくら喰らってもつまらんが……おまえは別だ、スネ夫」
「くっ……!」
「財力は強さにはならんが、強さを得る手段にはなる。今日も持ってきてるんだろう。い
いオモチャを期待してるぜ」
すでに日本刀は出木杉によってガラクタにされている。だが、まだスネ夫には切り札が
あった。
「分かったよ、ジャイアン」
ナンバーワンと立ち合うというピンチと、ナンバーワンに挑めるというチャンス。ふた
つを眼前にして、複雑な笑みを浮かべるスネ夫。
「これが……ぼくの」スネ夫はポケットから注射器を取ると、ためらいなく前腕に針を刺
した。「リーサルウェポンだッ!」
筒の中にある濁った液体が注入される。
「ふ、ふふふ……ふっふっふ……来たぞ来たぞ来たぞ」
急激に、スネ夫の上半身が二倍、いや三倍以上にパンプアップしていく。
「ぼくのパパには一流シェフの友人がいてね……。少しゆずってもらったのさ、このドー
ピングコンソメスープをッ!」
ステロイドなど比べものにならない即効性と膨張率。
「期待以上だよ……。これこそ、至高にして究極のボディだッ!」
通常、料理においてもっとも重視される要素といえば味だ。とはいえ、味覚は人によっ
て千差万別であり、いかに極めようと万人に認められることは難しい。
だが、強さはちがう。好みや地域差など一切存在しない。
事実、子ども同士の喧嘩から戦争に至るまで──強さを比べるための野蛮なゲームは地
球上いつでもどこでも繰り広げられているではないか。
こんな危険極まりない分野(ジャンル)に、果敢にも挑んだメニューがこれである。
──ドーピングコンソメスープ。
手始めに、スネ夫は壁にデコピンをぶつける。あっさり一メートルほどの穴が空いた。
「ジャイアン、君にひとつ面白い方程式を教えてあげよう」
次に、右手に拳を作るスネ夫。
「財力×コネ×ルックス=破壊力!」瞳孔が開ききった目で、スネ夫が吼える。「今日か
らは、ぼくが学校最強の生物だァッ!」
丸太ほどもある豪腕。これが決まれば、いかにジャイアンといえどひとたまりもないは
ず──であったが。
「おまえにちょっとでも期待した俺がバカだったようだな」
スネ夫のパンチは、蚊に刺されたほどのダメージも与えてはいなかった。
一転、弱々しく口を開くスネ夫。
「ゆ、許して……」
「決して許してあげない」
命乞いも効力はなく、ジャイアンは拳を固める。
「消え失せいッ!」
返しはアッパー。二百キロ以上を推測されるスネ夫が、天井を突き抜け、三階を通り越
し、屋上まで届けられてしまった。
クラスメイトを全滅させ、さすがのジャイアンも一息つく。
「どいつもこいつも冷や飯にも値しねェ……。ま、出木杉を喰えただけでもよしとするか」
驚くことに、彼はまだ満ち足りてはいなかった。
まさに帝王、まさにガキ大将、まさにナンバーワン。
そして今、ひとりの戦士がもっとも無謀な戦いを挑もうとしている。
「ジャイアン、ぼくが相手だっ!」
──野比のび太、帰還。
異常なまでの静けさ。フルネームまで知っている友人たちが、まるで石ころのようにご
ろごろと転がっている。
これが毎日のように授業を受けていた教室だとは、のび太にはとても信じられなかった。
「よう、のび太。まさか戻ってきてくれるとはな」
予想だにしなかったチャレンジャーに、ジャイアンは舌なめずりで応える。
この時点で、のび太は完全に呑まれていた。
無理もない。彼が向き合っている相手は、あまりに大きく、あまりに太く、あまりに厚
く、あまりに重く、あまりにも強すぎる。
「どうしたのび太。しずちゃんにいいところを見せようとやって来たはいいが、びびっち
まったか?」
廊下でセコンドを務める静香に、横目をちらりと向けるジャイアン。
若干事実とは異なるが、のび太は図星を突かれたも同然だった。静香に出会わなければ、
今頃は家でぬくぬくしていたにちがいないからだ。
「色を知る年齢(とし)か。だが、この俺を恋愛の踏み台にしようなどと──たわけたこ
とをッ!」
「ひいっ!」
ジャイアンが、持てる全殺気をのび太にぶつける。もはや立っているだけで、今朝食べ
たトーストが胃から持ち上がってくる。
ここでようやくドラえもんがのび太たちに追いついた。
「あら、ドラちゃん。血相変えてどうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ! しずちゃん、君はどういうつもりでのび太君をジャイアン
と戦わせたりなんかしたんだよっ!」
怒りをあらわにして問い詰めるドラえもん。これに対して静香は悪びれることもなく、
「いじめられっ子をガキ大将と戦わせる美少女……。そのくらいの毒気があっていいのよ、
アイドルなんて……」
と、平然と告げてみせた。
少女の中に住まう鬼に戦慄し、絶句するドラえもん。
そうこうするうち、教室で動きが起こる。
きっとドラえもんが助けてくれる、と安易な希望に身を投じたのび太が駆け出した。
「うおおおおっ!」
「いい気迫だ、のび太ァッ!」
待ち受けるは絶望、とも知らずに。
のび太にしてみれば、活火山に挑むような心境であったろう。
天と地、などという生半可な例えでは済まされない戦力差。いくらのび太が鈍感で、ド
ラえもんというバックボーンがあるにしても、生身で立ち向かうには荷が重すぎる相手だ。
もうすでに、のび太の中にある危険を察知する感覚は麻痺していたのかもしれない。
結果はあっけなかった。
あっさりとヘッドロックに捕えられてしまうのび太。厚い胸板と太い前腕に挟まれ、身
動きひとつできない。
「じわじわ喰ってやるよ、のびちゃん」
少しずつ、少しずつ、力を加えていくジャイアン。
ミシミシ、と頼りなく骨が軋む。
たまらず、ドラえもんが大声で訴える。
「やめてよジャイアン! のび太君を殺す気か!」
「いつ殺すといった? 永久に起きなくするだけだぞ!」
めちゃくちゃな理屈をお返しするジャイアン。話し合いが通じる相手ではない。さらに
力が込められる。
「ド、ラえ……助け……うぎゃああぁぁぁっ!」
「のび太君っ!」
悲痛な叫び。平和な時代に生まれた小学四年生が発するには、あまりにも不釣り合いだ。
「空気砲~!」せめてヘッドロックを解かねば、とドラえもんが実力行使に出る。「ドカ
ンッ! ドカンッ! ドカンッ! ドカンッ! ドカンッ!」
全弾クリーンヒット。が、ジャイアンを怯ませることすらかなわない。
「そう慌てるなよドラえもん……。のび太のあとでたっぷりと遊んでやるって!」
「のび太君……。ご、ごめん……!」
がっくりと、力を落とすドラえもん。もう打つ手はない。
秘密道具は通じない。出木杉もいない。のび太が自力で脱出できるわけがない。
あとほんの少しジャイアンが力むだけで、頭蓋骨はひび割れて砕け散る。
「さァ、のび太。フィニッシュだッ!」
額に血管を浮かべ、ジャイアンが豪快に笑う。
──が、寸前。
脳が発令した「力を加える」という信号が、腕に送り込まれる寸前。彼の後頭部に拳を
叩き込む少女があった。
「武ィィィッ! あたしが相手だッ!」
予期せぬ乱入に、ヘッドロックが外れる。どさりと倒れ込むのび太。
「ほう、しずちゃん。のび太如きをかばうなんて、ずいぶん甘くなったじゃないか」
静香はかまわず左ハイ、立て続けにボディを連打。締めは噴火のような勢いで突き上げ
るアッパー。が、打ち抜けない。
攻め手を失い、仕方なく間合いから抜ける静香。
「さすがね、武さん。出木杉さんを倒しただけのことはあるわ」
「しずちゃんこそ、出し惜しみはよくないぜ」
「……なんのことかしら」
「超人体技“六式”……。君はその使い手だと聞き及んでいる」
静香の目つきが変わった。
──源家秘伝、六式。
鍛え抜いた指で人体を貫く、指銃(しがん)。
真空を発生されるキック、嵐脚(らんきゃく)。
宙を蹴り自在な空中移動をこなす、月歩(げっぽう)。
まるで消えたように大地を駆ける、剃(そる)。
体を硬直させ銃弾さえはね返す、鉄塊(てっかい)。
紙のように脱力しあらゆる打撃をかわす、紙絵(かみえ)。
以上六つの絶技をもって、六式。
鎌倉時代より代々源家に伝わる門外不出の拳であったが、戦後より広く一般に公開され
るようになった。なお現在、日本のセキュリティポリス、米国のシークレットサービスを
初め、各国のボディガードたちには六式習得が義務づけられている。
ただし、体得には並々ならぬ努力と才能が不可欠であり、六つある技のうちひとつを覚
えるだけでも三年を要するといわれている。
ところが、わずか十才の静香が六式の使い手とはどういうことか。
「ストーカーが趣味かしら、武さん」
「以前スネ夫の奴にちょっと、ね。それにしても、すばらしい才能だ」
「バレているのなら、温存は必要なさそうね」
二メートル近くあった間合いを、さらに広げる静香。ジャイアンは困惑する。
「おいおい、キャッチボールでもするつもりかい?」
「嵐脚ッ!」
突如、静香が高速で足を振るう。それに伴い、鋭い真空波が飛び出し──。
──ジャイアンを切り裂く。
疾風という名の凶器が踊る。刃が次々にジャイアンへ向かっていく。
「あなたの射程(エリア)でやり合うつもりはないわ。卑怯も武のうちよ」
嵐脚によってできたカマイタチは、コンクリートをも切断する。とうに常人ならばみじ
ん切りとなっているはず。
だが、ジャイアンという男はとうてい常人の域に収まるような器ではなかった。
「しずちゃん、そんなに俺をヌードにしたいのかい?」
切り裂けたのは、なんと服だけ。肉体には出血はおろか、かすり傷ひとつついていない。
「野球拳には便利な技だが、あいにくまだ宴会を開く時間じゃないぜ」
「た、大したものだわ……武さん。いえジャイアン」
穴だらけとなったシャツを引き裂き、半裸となるジャイアン。
壮絶な上半身であった。骨格に岩を乗せたかのような筋肉には、至るところに深い古傷
が染みついている。
女としての本能を刺激され、口の中を生唾で一杯にする静香。
「ビューティフル……」
「生後まもなく、俺は母ちゃんにコンクリートに叩きつけられた。走ってる電車にぶつけ
られ、東京タワーから突き落とされ──そうやって身につけた耐久力だ。接近戦でなきゃ、
まず俺は倒せねェ」
「えぇ……私は未熟を恥じるわ。ジャイアンという怪物から、危険を冒すことなく勝利を
得ようとしたのだから」
殺す覚悟に加え、殺される覚悟。対をなすふたつの覚悟を持たねば、ジャイアンの上を
ゆくのは不可能だ。
「ようやく地に足がついたようだな」にたりと笑うジャイアン。
「剃ッ!」
六式、剃。音でさえ追いつけぬ速力を発揮する静香。
ほとんどのケースで、剃は背後を取るために使われる。が、今回はちがった。
正面から、堂々と。
後ろ向きな戦法では通用しないことを、静香にはよく分かっていた。
標的は──心臓か、眼球か、金的か。否、どれでもない。
心臓を守る胸筋を貫くのは難しい、眼球は身長差が大きいため狙いにくい、金的は致命
打にはならない。
静香が的を絞ったのは、喉。鍛えられぬ部位、しかも呼吸器。
「指銃ッ!」
ライフル弾にも匹敵する指が、喉を射抜いた。──が。
「お、折れ……ッ!」
根本から折れ曲がる人差し指。
呆然とする静香に、哀れむようにジャイアンが話しかける。
「君がどれほど指を鍛え込んだかは知らんが、喉を狙ったのは失策だったな」
「な、なんですって……!」
「俺がめざすのは地上最強の歌手。それゆえ、特に喉は重点を置いて鍛えてある。この程
度の威力では喉を破壊するなど、とてもとても……」
「……くっ!」
剃で離れようとする静香だったが、ジャイアンの手が伸びる方が速かった。がっちりと
頭を掴まれてしまう。
「──て、鉄塊ッ!」
とっさの判断で、ひとまず静香は防御を固める。甘んじて一撃を受ける覚悟だ。
頭突き、一撃目。整った鼻が大きく歪んだ。鉄塊で守られているにもかかわらず。
しかし、闘争心は一ミリたりとも揺るがない。
「なァんだ、大したことないじゃん」
鼻血まみれの笑顔で、少女はジャイアンをにらみつける。
「お風呂温かきは……」骨折した指を、ひたすらに突き出す静香。「無敵なりッ!」
この世にバスタブがある限り、指が折れても心は折れぬ。
「なんてスマートな女なんだ……」
ジャイアンもまた、心底嬉しそうな笑みで応える。──そして。
頭突き、二撃目。鼻を完全に陥没させられ、信念とともに静香は崩れ落ちた。
下克上、ならず。
天才も、財力も、多勢も、秘密道具も、アイドルも、どれも巨凶を倒すには至らなかっ
た。やはり、強さが全ての世界においてはジャイアンがナンバーワンなのか。
その時、最後のチャレンジャーが息を吹き返す。
「よ、く、も……しず、ちゃ……んを……」
ジャイアンが振り返ると、いつの間にかヘッドロックで瀕死となっていたのび太が立ち
上がっていた。
「てめぇ、またやる気か!」
「ぼ、くが……あい、てだ……ジャイアンっ!」
幽霊のような風体で、一歩一歩ジャイアンに近づいていくのび太。
「ダメだ、のび太君! 今度こそ本当に殺されちゃうよっ!」
親友の声も、今は耳に入らない。
守りたい。敬愛する祖母が存命だった時期から恋焦がれ、将来結ばれると約束された最
愛の存在。守らねばならない女性。だからこそ、歩く。
「行く……ぞ……」
「く、来るなァッ!」
後ずさりするジャイアン。一発で絶命できる相手のはずが、なぜかその一発が出ない。
強さとはなにも、筋力や技術のみで競われるものではない。今、のび太は心でジャイア
ンを圧倒していた。
愛する人を守る。たとえ自らが滅びても、守るべき人さえ生き延びてくれればそれでよ
い。勝利の先にある栄光など一切度外視した、純粋な想い。これに比べれば、ヒーローに
なりたい、力を誇示したい、武器を自慢したい、ナンバーワンに君臨したい、などという
動機は不純物まみれに過ぎず。いわば──。
邪念。
弱虫が一歩進むと、帝王が一歩退く。なんと滑稽な光景だろう。
「かかっ……てこ、い……」
「来るんじゃねェッ!」
ジャイアンの背が壁にぶつかる。さまざまな威嚇を試みるも、のび太は全てを受け流す。
どうしようもない。手をこまねくうち、ついに二人の距離がゼロとなった。
全身を預けるように、のび太がジャイアンにしがみつく。
「ぼくだけの力で君に勝たないと……」
半死人は、
「しずちゃんが安心して……」
弱き心を振り絞り、
「お風呂に入れないんだっ!」
生命を燃やし尽くした。
「悪かったァァァッ! 俺の敗けだァァァァッ! 許せェェェェェッ!」
肉親以外から初めて受け入れる、敗北。
唾、汗、涙、尿。あらん限りの体液をほとばしらせ、剛田武は陥落した。