二人で暗い道を歩いた。
切れ切れに瞬く電灯に頼りなく照らされて、風の吹くほうへ。
レッドもセピアも互いに言葉を交わさず、ただ前を目指して。
歩幅の広いレッドがときおりセピアより先に行ってしまうこともあったが、そういうときは足を止めて彼女を待った。
急かすような素振りは少しもなく、セピアが追い付くまでその場で静かに佇んでいた。
そして、また歩きだす。
それはまったくのんびりした歩調で、もしかしたら遠足かなにかに赴いてるようにも見える。
遠足――。
或いは本当に、それそのものなのかも知れない。
ニューヨークの地下トンネルの無人の道の、施設された線路の上を歩く。
日々の喧騒から遠く、世界から切り離された、孤独な、ゆえに自由な空間がそこにあった。
地上のいかなる悩みも、苦しみも、苛立ちも、今の二人の間には微塵も存在していない。
前に進むという行為それ自体と、そこに付随する景色の変化だけが、今の彼等にとって価値のある事柄だった。
壁面にのたくるケーブルの描く不可思議模様、冷却パイプから滴る結露が刻むリズム、近くに遠くにこだまする足音、
普段ならまるで気にもとめないノイズみたいなものたちが、この地の底では瑞々しい意味を伴って目の前に顕れていた。
それは日常という薄皮一枚隔てた裏側に潜む、世界の脈動だった。
この道に渦巻く神秘と秘密を、レッドとセピアは共有していた。
光も音も微かなるために、互いの息遣いや姿はいっそう確かに浮かび上がっている。
それだけで十分だった。
会話も目配せもないままに、二人は相手を認識し交感しあっている。
言葉による行き違いもなく、触れ合うことによる衝突もなく、想いによる裏切りもなく。
沈黙と暗澹の名の元に、二人の存在は静かに寄り添っていた。
――だがそれすらも、決して永遠のものではない。
この道が、この歩みが『遠足』だというなら、これは終わりに向かう道であり、歩みであった。
『不思議の国のアリス』をこの世に誕生せしめた、リデル家三姉妹の『テムズ川の遠足』にすらも『終わり』があったのだから。
二人は前に進んでいる――地中深くの不思議の国(ワンダーランド)から、夢などどこにもない無慈悲な現実へ向かって。
これは『家に帰るまでが遠足』の、その帰る道に他ならなかった。
この先になにが待ち受けているのか、二人は知っている。
それでも、歩みが滞ることはなかった。
遠足の終わるときを引き延ばすような卑屈さもなく、先を急ぐような焦りもなく、粛々と足を進める。
この二人きりの道の先――現実へと続く道――いつか必ず死に至る道へと向かって。
風の吹くほうへ。
――そして、闇に慣れきった二人の視界に、鮮烈な光点が飛び込む。
この道の突き当たりに、丸く切り取られた直射光が壁となって立ち塞がっている。
それは外界の――地表から降り注ぐ太陽の光だった。
トンネルの出口に辿り着いたのだ。
そこで二人の足が、はたと止まる。
視線の先には『そいつ』がいた。
この遠足の終着にして、回帰すべき現実の具象、二人に死をもたらすだろう黒づくめの男の影。
その姿は――まるで現代版ニンジャ。
「やあ、待っていたよ。だが……思っていたよりは早かったな。キース・レッドくん」
レッドもセピアも互いに言葉を交わさず、ただ前を目指して。
歩幅の広いレッドがときおりセピアより先に行ってしまうこともあったが、そういうときは足を止めて彼女を待った。
急かすような素振りは少しもなく、セピアが追い付くまでその場で静かに佇んでいた。
そして、また歩きだす。
それはまったくのんびりした歩調で、もしかしたら遠足かなにかに赴いてるようにも見える。
遠足――。
或いは本当に、それそのものなのかも知れない。
ニューヨークの地下トンネルの無人の道の、施設された線路の上を歩く。
日々の喧騒から遠く、世界から切り離された、孤独な、ゆえに自由な空間がそこにあった。
地上のいかなる悩みも、苦しみも、苛立ちも、今の二人の間には微塵も存在していない。
前に進むという行為それ自体と、そこに付随する景色の変化だけが、今の彼等にとって価値のある事柄だった。
壁面にのたくるケーブルの描く不可思議模様、冷却パイプから滴る結露が刻むリズム、近くに遠くにこだまする足音、
普段ならまるで気にもとめないノイズみたいなものたちが、この地の底では瑞々しい意味を伴って目の前に顕れていた。
それは日常という薄皮一枚隔てた裏側に潜む、世界の脈動だった。
この道に渦巻く神秘と秘密を、レッドとセピアは共有していた。
光も音も微かなるために、互いの息遣いや姿はいっそう確かに浮かび上がっている。
それだけで十分だった。
会話も目配せもないままに、二人は相手を認識し交感しあっている。
言葉による行き違いもなく、触れ合うことによる衝突もなく、想いによる裏切りもなく。
沈黙と暗澹の名の元に、二人の存在は静かに寄り添っていた。
――だがそれすらも、決して永遠のものではない。
この道が、この歩みが『遠足』だというなら、これは終わりに向かう道であり、歩みであった。
『不思議の国のアリス』をこの世に誕生せしめた、リデル家三姉妹の『テムズ川の遠足』にすらも『終わり』があったのだから。
二人は前に進んでいる――地中深くの不思議の国(ワンダーランド)から、夢などどこにもない無慈悲な現実へ向かって。
これは『家に帰るまでが遠足』の、その帰る道に他ならなかった。
この先になにが待ち受けているのか、二人は知っている。
それでも、歩みが滞ることはなかった。
遠足の終わるときを引き延ばすような卑屈さもなく、先を急ぐような焦りもなく、粛々と足を進める。
この二人きりの道の先――現実へと続く道――いつか必ず死に至る道へと向かって。
風の吹くほうへ。
――そして、闇に慣れきった二人の視界に、鮮烈な光点が飛び込む。
この道の突き当たりに、丸く切り取られた直射光が壁となって立ち塞がっている。
それは外界の――地表から降り注ぐ太陽の光だった。
トンネルの出口に辿り着いたのだ。
そこで二人の足が、はたと止まる。
視線の先には『そいつ』がいた。
この遠足の終着にして、回帰すべき現実の具象、二人に死をもたらすだろう黒づくめの男の影。
その姿は――まるで現代版ニンジャ。
「やあ、待っていたよ。だが……思っていたよりは早かったな。キース・レッドくん」
「どういうことだい、バイオレット姉さん!?
『タイ・マスク文書』をセピアとレッドだけで運ばせるなんて無謀すぎるよ!」
「落ち着きなさい、グリーン」
「落ち着いていられるわけないだろ!
そりゃ僕だって文書の内容についてまでは知らない――だけど、あれを執拗に狙っているのが、
かの悪名高い『静かなる狼(サイレント・ウルフ)』だってこと、姉さんだって知っているはずだろう!?」
「……これは、ブラック兄さん直々の指令よ。わたしたちが彼のオーダーに容喙する権限はないの」
「だからって、そんな――現に、二人は消息を絶ったままじゃないか!」
「信じなさい、と言うしかないわね。あなたの兄弟たちを、彼等に宿るARMSを」
「……ブラック兄さんはどこにいるんだい? 兄さんに掛け合って僕が支援に向かう許可を取り付けなきゃ。
レッドだけじゃセピアを守り抜けるはずがないんだ。そこのところは兄さんだって分かってくれるはずだよ。
姉さんもそう思うだろう?」
「……グリーン坊や。残念だけど、ブラック兄さんの居場所については教えられないわ。
兄さんは今、エグリゴリが実施する極めて重要な秘密作戦の指揮を取っている」
「……作戦? 作戦だって? よりにもよって今? ――まさか、セピアとレッドは『陽動』なのかい?
その『作戦』とやらの戦場から、『静かなる狼』を遠ざけるための?」
「そうかも知れない、違うかも知れない。ただ――これだけははっきりしているわ。
ブラック兄さんの『作戦』は『プログラム・ジャバウォック』の成否を左右する重要な局面であり、
他方、レッドの『任務』も『エクスペリメンテーション・グリフォン』を進捗させる上では不可避のものだということ。
そしてそのどちらも、エグリゴリの中心命題『ARMS計画(プロジェクト・アームズ)』に深く根差している――」
「…………」
「レッドは今、紛れも無い死地にいるでしょう。或いは、そこで死ぬのが彼にとっての幸せなのかも知れない。
だけど……おそらくそうはならない。
ある種の事柄は死ぬことより恐ろしい――彼がキース・レッドである以上、
『エクスペリメンテーション・グリフォン』によって選ばれた実験体(ヴィクティム)である以上、
彼を定義する運命(プログラム)は彼に死ぬことを許さない。
――今は、まだ」
『タイ・マスク文書』をセピアとレッドだけで運ばせるなんて無謀すぎるよ!」
「落ち着きなさい、グリーン」
「落ち着いていられるわけないだろ!
そりゃ僕だって文書の内容についてまでは知らない――だけど、あれを執拗に狙っているのが、
かの悪名高い『静かなる狼(サイレント・ウルフ)』だってこと、姉さんだって知っているはずだろう!?」
「……これは、ブラック兄さん直々の指令よ。わたしたちが彼のオーダーに容喙する権限はないの」
「だからって、そんな――現に、二人は消息を絶ったままじゃないか!」
「信じなさい、と言うしかないわね。あなたの兄弟たちを、彼等に宿るARMSを」
「……ブラック兄さんはどこにいるんだい? 兄さんに掛け合って僕が支援に向かう許可を取り付けなきゃ。
レッドだけじゃセピアを守り抜けるはずがないんだ。そこのところは兄さんだって分かってくれるはずだよ。
姉さんもそう思うだろう?」
「……グリーン坊や。残念だけど、ブラック兄さんの居場所については教えられないわ。
兄さんは今、エグリゴリが実施する極めて重要な秘密作戦の指揮を取っている」
「……作戦? 作戦だって? よりにもよって今? ――まさか、セピアとレッドは『陽動』なのかい?
その『作戦』とやらの戦場から、『静かなる狼』を遠ざけるための?」
「そうかも知れない、違うかも知れない。ただ――これだけははっきりしているわ。
ブラック兄さんの『作戦』は『プログラム・ジャバウォック』の成否を左右する重要な局面であり、
他方、レッドの『任務』も『エクスペリメンテーション・グリフォン』を進捗させる上では不可避のものだということ。
そしてそのどちらも、エグリゴリの中心命題『ARMS計画(プロジェクト・アームズ)』に深く根差している――」
「…………」
「レッドは今、紛れも無い死地にいるでしょう。或いは、そこで死ぬのが彼にとっての幸せなのかも知れない。
だけど……おそらくそうはならない。
ある種の事柄は死ぬことより恐ろしい――彼がキース・レッドである以上、
『エクスペリメンテーション・グリフォン』によって選ばれた実験体(ヴィクティム)である以上、
彼を定義する運命(プログラム)は彼に死ぬことを許さない。
――今は、まだ」
レッドと男は、一触即発の空気を孕んで対峙していた。
先に口を開いたのはレッドのほうだった。
「……よく、あの落盤から脱出できたな」
「なに……忍術を少々、ね」
事もなげに肩を竦める仕草に、レッドは「へっ」と頬を歪ませて応える。
「どうだろう、今からでも遅くはない――もう一度だけ考え直してみないか?
……『タイ・マスク文書』を私に引き渡してくれないかな?」
「考えることなんかなにもねーよ」
それは即答だった。
「クソったれだ馬鹿野郎。誰が渡すか」
「…………」
男は黙ったまま首を振り、そしていつの間にか手にしていたクナイを投げ付ける。
反射的に頭部をガードしたレッドの左腕にクナイが突き刺さる。
そのクナイには極細のワイヤーが結び付けられていて、その片方はトンネルのの壁面へと続いていた。
薄暗いためにそれがどこまで伸びているかは分からないが――、
「これでもかね?」
同じくいつの間にか男が手にしていたスイッチが押し込まれると同時に、想像を絶する高圧電流がレッドの身体に注がれた。
バチッという乾いた音に弾かれるように、レッドの身体が弓なりにのけ反る。
その衝撃は一瞬だったが、効果は決定的だった。
肉を焦がすような嫌な臭いがして、皮膚からは煙と蒸気の混合気体が立ち昇る。
「ぐうっ……!」
がくんと膝が落ちる。左腕のクナイを引き抜こうにも、右手に力が入らない。
「レ、レッド!?」
セピアが慌てて屈み、レッドの肩をかき抱いた。
「ちょっと近くのケーブルから配電を拝借した即席の装置だが――なかなかに効くだろう?
ARMSの長所にして短所……それは機械の集合体であることだ。しばらく、君のARMSは満足な制御ができないだろう」
――確かに、その通りだった。
高圧電流によってレッドのARMS『グリフォン』は機能不全に陥り、形態変化さえ不可能になっていた。
ナノマシン群体であるARMSは、コアチップによって統制され、
運用目的に応じて個々のナノマシンを変質・集積・構築しなければ機能を発揮できない。
たとえコアチップが無事でも、ナノマシン間の個体レベルでのネットワークが阻害されれば、相互干渉による形態の最適化に齟齬をきたす。
結果、ナノマシンがばらばらに動いて暴走する危険を回避するため、
コアチップは安全装置(フェイルセイフ)機構を発動して強制的な休止モードへと移行する。
つまり、ナノマシンがオーバーフロー状態から回復するまでは、『グリフォン』の最大の武装である振動兵器が形成できないのだ。
「己の限界を知ることだ、キース・レッドくん。今の君では――私には決して勝てない」
その通りだろうとレッドも思う。
敵は只者ではない。人外じみた戦闘力を持ち、ARMSの特性も知悉している。
第一形態すら発現できない状況下では、どうあがいても勝てっこないことは明らかだった。
だが――、
「黙れ」
だが、レッドは立ち上がる。
ふらつく身体を懸命に支え、両の足で地面を踏み締める。
「てめえがオレの限界を決めるなよ。何様のつもりだ。
ふざけんなクソったれが。くたばれニンジャ野郎。トノサマのケツでも舐めてろ」
痺れの残る舌を動かしてそう吐き捨て、唾を吐く。
そんなレッドの暴言に接しても、男は鷹揚さを失わなかった。
「しかし、実際、君にどれほどの選択肢が残されている?」
むしろ優しげとも言える口ぶりで、聞き分けのない子供を諭すように。
「私の見るところ、残る手はキース・セピアくんの先程の『力』を利用するくらいしかないようだが――」
軽く首を振り、
「だが、それは最も愚かな選択だ。あのような惨劇を再び引き起こすことに、なんの意味がある?
破滅と引き換えの勝利など、それはもはや勝利ではない。違うかな?」
男の手には、またもやいつの間にか、そして今度は日本刀が握られていた。
ずらり鞘を払い、淡く蒼く輝く刀身が露わになる。
「これが最後通牒だ……『タイ・マスク文書』を引き渡してくれ」
「――やめて」
そう答えたのはセピアだった。
「あなたの欲しいものは渡せません。だってレッドにはきっと大事なものだから。
だから――」
男がセピアの言葉を遮り、後を引き取る。
「だから、どんな犠牲を払っても構わないと?」
「違うわ。だから――」
セピアは一歩前に進み、レッドの先に立った。
それはこの任務が始まってから初めての――そしておそらく、
レッドとセピアが最初に出会ったときの、二人で敵基地を脱出して以来のことだった。
「だから――わたしで我慢して」
「ほう……?」
男の目が興味深そうに細められた。
「わたし、あなたについていきます。『ブルーメン』っていう人たちのところまで。
代わりにレッドを見逃してください」
「おい、待てよセピア――」
「待たないわ。これがきっと、わたしに出来る最善のこと。
わたしじゃあなたの力になれない。足を引っ張ってばかりだったけど、それもこれでおしまい」
セピアは振り返りもせず、冷たさすら感じさせる口調で言う。その表情は伺えない。
「勝手なことを吹いてんじゃねえ……!」
セピアの肩に手をかけようとした瞬間、とてつもない共振波がレッドを襲った。
セピアのARMS『モックタートル』が、電撃で弱体化している『グリフォン』を捩伏せたのだった。
あまりの激痛に気が遠くなりかける。
「ニンジャさんの言うとおりだよ?
わたしとあなたじゃ……この人に勝てない」
そう――まったくその通りだと、レッドも思う。
だけど、なぜだろう……。
歪む視界の中で、レッドはそれとは別の思いに満たされていた。
その思いに促されるまま、言い放つ。
「『タイ・マスク文書』……それは日本人カツミ・アカギの成長記録と育成スケジュール表だ」
セピアの後ろ姿が、ぎょっとしたように大きく震えた。
「これで満足か、ニンジャ野郎!」
これまで冷静沈着を固持していたさしもの男も、わずかに驚いたようにレッドを注視していた。
「満足かと聞いている!」
「……ああ、それで十分だ。私の推測は裏付けられた」
「そうかよ、なら――オレと勝負しろ!」
「な――」
弾かれたようにセピアが振り返り、
ぱぁん。
思い切りいい音を立ててレッドの頬を張り飛ばした。
「ば……馬鹿じゃないの! なんで言っちゃうのよ!?
しかもなによ、なにが『勝負しろ』よ! 頭おかしいんじゃないの!?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔を隠すことも忘れ、セピアは怒鳴っていた。
「わた、わたしがどんな気持ちで……!」
「うるせー馬鹿!」
「ばっ……」
「どうだっていいんだよ、ブラックの陰険じみた任務なんざ!
オレの……オレの望みは……!」
セピアと睨み合っていた視線を外し、その背後へ――、
「あのニンジャ野郎をぶちのめす、それだけだ!」
「え、な……」
一歩前に進み、言うべきを知らず口をぱくぱくさせるセピアを肩で押しのけ、男に相対する。
「……それが君の意志か。
兄の身を案じる妹の心を踏みにじってまでの選択がそれとは――最悪だな」
男の態度から鷹揚さが無くなっていた。
憤りを湛えた殺気でレッドを見据えている。
「彼女は君の無力感を贖うための犠牲(ヴィクティム)ではない。
君の飽くなき闘争心は驚嘆に値するが、同時に極めて危険だと言わざるを得ない。
ここで君を殪す。君のその傲慢を――断たせてもらう」
男は引く腰を落とし、刀を上段に構える。一切の表情が失せ、研ぎ澄まされた攻撃意欲が取って代わる。
それは己を刃たらしめる、透徹した集中力の顕れだった。必殺、という概念の体現だった。
「レッド……!」
涙の後が残る横顔をレッドに向け、セピアは彼の無謀じみた行動を引き止めようとするが、その身体はびくともしない。
「最後に聞くが……正気かね?
君のARMSは使い物にならない、『使う』という意味ではキース・セピアくんのも同様だ。
それでも私と戦うと? そんなにも、あの無秩序な破壊を望んでいるのか?
ARMSの……『アリス』の絶望に身を委ねることが、君の本望なのか?」
「くどい! てめーの説教にはうんざりだ!
そうさ……オレは力が欲しいんだよ!」
「愚かな――」
呟き、男は瞑目した。
まるで力に溺れて死を招くレッドの最後を、今この目で見て悼んでいるかのように。
修羅の如き烈火の気性を、果てなき力への渇望を悲しむように。
そして、その初動を背中の皮膚で察知したセピアが反応を見せるよりもさらに疾く――神速の踏み込みとともに男の刀が一閃した。
『グリフォン』が機能不全に陥っているため、腕をブレードに変形させて防御することすら不可能ななか、
レッドは弧を描いて寸分違わず己の首筋へ進む光の軌跡を見ていた。
そしてまた、セピアが身代わりを申し出たときの――自分に背を向けてこっそり泣いていたときの、
自分の内に沸き起こった思いを甦らせていた。
(なぜだろう――)
なぜ、そんなことを言うセピアの細い肩を、小さな背中を見ていたら――こんな堪らない気持ちになるのだろう、と。
「――愚かでも構わない」
「なに――」
男の声が、ほんの僅か、僅かだけ、「信じられない」というふうに揺れた。
男の呼吸を直に感じる距離で、セピアもまた驚愕に目を見開いていた。
使い手の腕と状況次第では鉄をも裁つ日本刀の――その直刃を、レッドは花でも摘むような無造作さで掴んでいた。
――メタモルフォーゼすらしていない、素手のままで。
「……てめえも、ウチの兄貴と同じだ。
自分の『強さ』だけが正しいと思っていやがる」
かちかちとなにかが小刻みに震えていた。
それは男の手にした刀だった。レッドが掴む刃だった。
その振幅は徐々に高まり、やがて生物が生み出すことの不可能な――機械でなければ生じさせることができない激しさに至る。
「君のARMSは電撃から回復していないはずだ……。振動兵器を構築できるはずがない」
そう――そのはずだった。
ナノマシンが配列を変換させて目的に応じた機構を形成できなければ、いかなる特殊能力も発現できない。
剣の機能を欲するなら剣の形に、大砲の機能を欲するなら大砲の形に。
それがナノマシン兵器『ARMS』の各種機能の前提だった。
もし例外があるとするなら――、
「『震動子(トランジューサー)』……。
ナノマシンそれ自体を振動兵器に……この土壇場で……?」
そんな男の感嘆混じりの囁きも、今のレッドには聞こえていない。
「ふざけんな、どいつもこいつも……!
てめえらになにが分かる……『使えない』と思われるってことが……それがどういうことか分かるのかよ!」
自分は無力だった。
だから『力』を求めた。
だが……『力』があることもまた無力だということを知った。
『力』の持ち主をして「本当のものなんかなにもいらない」と言わしめるものが、『強さ』であるわけがなかった。
ならば、本当の『強さ』、『力』はどこにあるのだろう?
強くなりたい――。
『本当のもの』をあいつに教えてやるために。
欠陥品ばかりが容赦なく淘汰されていくこの世界で生きていくために。
先に口を開いたのはレッドのほうだった。
「……よく、あの落盤から脱出できたな」
「なに……忍術を少々、ね」
事もなげに肩を竦める仕草に、レッドは「へっ」と頬を歪ませて応える。
「どうだろう、今からでも遅くはない――もう一度だけ考え直してみないか?
……『タイ・マスク文書』を私に引き渡してくれないかな?」
「考えることなんかなにもねーよ」
それは即答だった。
「クソったれだ馬鹿野郎。誰が渡すか」
「…………」
男は黙ったまま首を振り、そしていつの間にか手にしていたクナイを投げ付ける。
反射的に頭部をガードしたレッドの左腕にクナイが突き刺さる。
そのクナイには極細のワイヤーが結び付けられていて、その片方はトンネルのの壁面へと続いていた。
薄暗いためにそれがどこまで伸びているかは分からないが――、
「これでもかね?」
同じくいつの間にか男が手にしていたスイッチが押し込まれると同時に、想像を絶する高圧電流がレッドの身体に注がれた。
バチッという乾いた音に弾かれるように、レッドの身体が弓なりにのけ反る。
その衝撃は一瞬だったが、効果は決定的だった。
肉を焦がすような嫌な臭いがして、皮膚からは煙と蒸気の混合気体が立ち昇る。
「ぐうっ……!」
がくんと膝が落ちる。左腕のクナイを引き抜こうにも、右手に力が入らない。
「レ、レッド!?」
セピアが慌てて屈み、レッドの肩をかき抱いた。
「ちょっと近くのケーブルから配電を拝借した即席の装置だが――なかなかに効くだろう?
ARMSの長所にして短所……それは機械の集合体であることだ。しばらく、君のARMSは満足な制御ができないだろう」
――確かに、その通りだった。
高圧電流によってレッドのARMS『グリフォン』は機能不全に陥り、形態変化さえ不可能になっていた。
ナノマシン群体であるARMSは、コアチップによって統制され、
運用目的に応じて個々のナノマシンを変質・集積・構築しなければ機能を発揮できない。
たとえコアチップが無事でも、ナノマシン間の個体レベルでのネットワークが阻害されれば、相互干渉による形態の最適化に齟齬をきたす。
結果、ナノマシンがばらばらに動いて暴走する危険を回避するため、
コアチップは安全装置(フェイルセイフ)機構を発動して強制的な休止モードへと移行する。
つまり、ナノマシンがオーバーフロー状態から回復するまでは、『グリフォン』の最大の武装である振動兵器が形成できないのだ。
「己の限界を知ることだ、キース・レッドくん。今の君では――私には決して勝てない」
その通りだろうとレッドも思う。
敵は只者ではない。人外じみた戦闘力を持ち、ARMSの特性も知悉している。
第一形態すら発現できない状況下では、どうあがいても勝てっこないことは明らかだった。
だが――、
「黙れ」
だが、レッドは立ち上がる。
ふらつく身体を懸命に支え、両の足で地面を踏み締める。
「てめえがオレの限界を決めるなよ。何様のつもりだ。
ふざけんなクソったれが。くたばれニンジャ野郎。トノサマのケツでも舐めてろ」
痺れの残る舌を動かしてそう吐き捨て、唾を吐く。
そんなレッドの暴言に接しても、男は鷹揚さを失わなかった。
「しかし、実際、君にどれほどの選択肢が残されている?」
むしろ優しげとも言える口ぶりで、聞き分けのない子供を諭すように。
「私の見るところ、残る手はキース・セピアくんの先程の『力』を利用するくらいしかないようだが――」
軽く首を振り、
「だが、それは最も愚かな選択だ。あのような惨劇を再び引き起こすことに、なんの意味がある?
破滅と引き換えの勝利など、それはもはや勝利ではない。違うかな?」
男の手には、またもやいつの間にか、そして今度は日本刀が握られていた。
ずらり鞘を払い、淡く蒼く輝く刀身が露わになる。
「これが最後通牒だ……『タイ・マスク文書』を引き渡してくれ」
「――やめて」
そう答えたのはセピアだった。
「あなたの欲しいものは渡せません。だってレッドにはきっと大事なものだから。
だから――」
男がセピアの言葉を遮り、後を引き取る。
「だから、どんな犠牲を払っても構わないと?」
「違うわ。だから――」
セピアは一歩前に進み、レッドの先に立った。
それはこの任務が始まってから初めての――そしておそらく、
レッドとセピアが最初に出会ったときの、二人で敵基地を脱出して以来のことだった。
「だから――わたしで我慢して」
「ほう……?」
男の目が興味深そうに細められた。
「わたし、あなたについていきます。『ブルーメン』っていう人たちのところまで。
代わりにレッドを見逃してください」
「おい、待てよセピア――」
「待たないわ。これがきっと、わたしに出来る最善のこと。
わたしじゃあなたの力になれない。足を引っ張ってばかりだったけど、それもこれでおしまい」
セピアは振り返りもせず、冷たさすら感じさせる口調で言う。その表情は伺えない。
「勝手なことを吹いてんじゃねえ……!」
セピアの肩に手をかけようとした瞬間、とてつもない共振波がレッドを襲った。
セピアのARMS『モックタートル』が、電撃で弱体化している『グリフォン』を捩伏せたのだった。
あまりの激痛に気が遠くなりかける。
「ニンジャさんの言うとおりだよ?
わたしとあなたじゃ……この人に勝てない」
そう――まったくその通りだと、レッドも思う。
だけど、なぜだろう……。
歪む視界の中で、レッドはそれとは別の思いに満たされていた。
その思いに促されるまま、言い放つ。
「『タイ・マスク文書』……それは日本人カツミ・アカギの成長記録と育成スケジュール表だ」
セピアの後ろ姿が、ぎょっとしたように大きく震えた。
「これで満足か、ニンジャ野郎!」
これまで冷静沈着を固持していたさしもの男も、わずかに驚いたようにレッドを注視していた。
「満足かと聞いている!」
「……ああ、それで十分だ。私の推測は裏付けられた」
「そうかよ、なら――オレと勝負しろ!」
「な――」
弾かれたようにセピアが振り返り、
ぱぁん。
思い切りいい音を立ててレッドの頬を張り飛ばした。
「ば……馬鹿じゃないの! なんで言っちゃうのよ!?
しかもなによ、なにが『勝負しろ』よ! 頭おかしいんじゃないの!?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔を隠すことも忘れ、セピアは怒鳴っていた。
「わた、わたしがどんな気持ちで……!」
「うるせー馬鹿!」
「ばっ……」
「どうだっていいんだよ、ブラックの陰険じみた任務なんざ!
オレの……オレの望みは……!」
セピアと睨み合っていた視線を外し、その背後へ――、
「あのニンジャ野郎をぶちのめす、それだけだ!」
「え、な……」
一歩前に進み、言うべきを知らず口をぱくぱくさせるセピアを肩で押しのけ、男に相対する。
「……それが君の意志か。
兄の身を案じる妹の心を踏みにじってまでの選択がそれとは――最悪だな」
男の態度から鷹揚さが無くなっていた。
憤りを湛えた殺気でレッドを見据えている。
「彼女は君の無力感を贖うための犠牲(ヴィクティム)ではない。
君の飽くなき闘争心は驚嘆に値するが、同時に極めて危険だと言わざるを得ない。
ここで君を殪す。君のその傲慢を――断たせてもらう」
男は引く腰を落とし、刀を上段に構える。一切の表情が失せ、研ぎ澄まされた攻撃意欲が取って代わる。
それは己を刃たらしめる、透徹した集中力の顕れだった。必殺、という概念の体現だった。
「レッド……!」
涙の後が残る横顔をレッドに向け、セピアは彼の無謀じみた行動を引き止めようとするが、その身体はびくともしない。
「最後に聞くが……正気かね?
君のARMSは使い物にならない、『使う』という意味ではキース・セピアくんのも同様だ。
それでも私と戦うと? そんなにも、あの無秩序な破壊を望んでいるのか?
ARMSの……『アリス』の絶望に身を委ねることが、君の本望なのか?」
「くどい! てめーの説教にはうんざりだ!
そうさ……オレは力が欲しいんだよ!」
「愚かな――」
呟き、男は瞑目した。
まるで力に溺れて死を招くレッドの最後を、今この目で見て悼んでいるかのように。
修羅の如き烈火の気性を、果てなき力への渇望を悲しむように。
そして、その初動を背中の皮膚で察知したセピアが反応を見せるよりもさらに疾く――神速の踏み込みとともに男の刀が一閃した。
『グリフォン』が機能不全に陥っているため、腕をブレードに変形させて防御することすら不可能ななか、
レッドは弧を描いて寸分違わず己の首筋へ進む光の軌跡を見ていた。
そしてまた、セピアが身代わりを申し出たときの――自分に背を向けてこっそり泣いていたときの、
自分の内に沸き起こった思いを甦らせていた。
(なぜだろう――)
なぜ、そんなことを言うセピアの細い肩を、小さな背中を見ていたら――こんな堪らない気持ちになるのだろう、と。
「――愚かでも構わない」
「なに――」
男の声が、ほんの僅か、僅かだけ、「信じられない」というふうに揺れた。
男の呼吸を直に感じる距離で、セピアもまた驚愕に目を見開いていた。
使い手の腕と状況次第では鉄をも裁つ日本刀の――その直刃を、レッドは花でも摘むような無造作さで掴んでいた。
――メタモルフォーゼすらしていない、素手のままで。
「……てめえも、ウチの兄貴と同じだ。
自分の『強さ』だけが正しいと思っていやがる」
かちかちとなにかが小刻みに震えていた。
それは男の手にした刀だった。レッドが掴む刃だった。
その振幅は徐々に高まり、やがて生物が生み出すことの不可能な――機械でなければ生じさせることができない激しさに至る。
「君のARMSは電撃から回復していないはずだ……。振動兵器を構築できるはずがない」
そう――そのはずだった。
ナノマシンが配列を変換させて目的に応じた機構を形成できなければ、いかなる特殊能力も発現できない。
剣の機能を欲するなら剣の形に、大砲の機能を欲するなら大砲の形に。
それがナノマシン兵器『ARMS』の各種機能の前提だった。
もし例外があるとするなら――、
「『震動子(トランジューサー)』……。
ナノマシンそれ自体を振動兵器に……この土壇場で……?」
そんな男の感嘆混じりの囁きも、今のレッドには聞こえていない。
「ふざけんな、どいつもこいつも……!
てめえらになにが分かる……『使えない』と思われるってことが……それがどういうことか分かるのかよ!」
自分は無力だった。
だから『力』を求めた。
だが……『力』があることもまた無力だということを知った。
『力』の持ち主をして「本当のものなんかなにもいらない」と言わしめるものが、『強さ』であるわけがなかった。
ならば、本当の『強さ』、『力』はどこにあるのだろう?
強くなりたい――。
『本当のもの』をあいつに教えてやるために。
欠陥品ばかりが容赦なく淘汰されていくこの世界で生きていくために。
“『力』が欲しいか――?”
(ああ……『力』が欲しい――!)
“『力』が欲しいのなら――くれてやる!”
「なんと――」
刀を粉微塵に握り潰したレッドを目の当たりにし、男は咄嗟に柄を顔面の位置まで引き上げる。
まさにその箇所、男の人間業ではない反応速度でなければモロに顔面直撃のコースに、レッドの拳が飛ぶ。
柄は脆くもばらばらに砕け、男の指の骨も数本が鈍い音がしてありえない歪みを生じさせた。
「…………!」
ここにきて、遂に男が純粋な後退行動を取る。
飛びのくようにその場をのき、レッドの腕の届かない距離へと移動する。
「勝手なこと抜かすな……敵に説教されるほど落ちぶれちゃいねえ!
セピアのARMSをどう扱うかはてめーにゃ関係ないんだよ!
オレは負けねえ! てめーにも、ブラックの野郎にも――ARMSにも!」
レッドのやけくそみたいな咆哮に、男が虚をつかれたように動きを止めた。
今初めてレッドに出会ったかのような、驚きに満ちた表情だった。
だがそれもすぐに消え、戦士として洗練された姿――隙というものがまるでない構えでレッドの正面に立つ。
はっきり言って勝てるイメージは沸かない。
さっきは怒りに任せてぶん殴ったら当たったが、次は当たらないだろう。
経験も、センスも、技能も、全て相手が遥かに上回っている。それは確実だった。
だが、引く気はない。まったくない。
殺すとか倒すとかいう考えは消え失せて、今あるのは
「どうやったらこいつに思い知らせてやれるか」という、ただそれだけのことだった。
なんかごちゃごちゃしててよく分からないが、目の前のニンジャ野郎を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしてやらねば気が済まないのは確実だった。
そして、そのために必要なものは――、
レッドの背中になにかが触れる。
それはおそらく少女くらいの背丈のなにかの両手のような代物だと思われるものだと、温かな感触が伝えていた。
だから、そちらを見ずに言う。
「セピア」
「え?」
「オレのそばから離れるな」
「――はい」
おそらく少女くらいの背丈のなにかの額のような代物だと思われる温かいものが、そっとレッドの背中に押し付けられた。
――予想に反して、男はなかなか動きを見せなかった。
時間が経てば経つほど、『グリフォン』が電撃のダメージから回復して、男のアドバンテージが減少するにもかかわらず。
さすがにレッドも訝しく思う。
「どーした、ニンジャ野郎。怖じけづいたのか?」
だが男はそれには答えず、
「……まさか、キース・ブラックは試しているのか……? しかし、いったいなんの目的で……」
などと意味不明の呟きが返ってくる。
だがその半面、男の視線は満遍なくレッドに注がれている。
それはレッドを警戒してるというよりは、レッドとセピアを――、
いや、二人の行く末を心から案じているような、そんな不思議な視線だった。
「おい――」
そんな視線にむずむずしたのと、奇妙な緊張感に苛立ったことでレッドが声を荒くしたその時、男の懐から低い振動音がした。
「む――失礼。商用の電話だ」
「…………」
怒りを通り越して呆れるしかないレッドへ、男は今や敵意の欠片もない気安さでウィンクする。
「単身赴任のサラリーマンは多忙なのさ」
だが、
「――なんだと、鐙沢村が!?」
男の顔が瞬時に険しくなった。
通話の内容はレッドには聞こえないが、なにやら相手口が切羽詰まってる雰囲気だけは伝わってくる。
「修一郎と連絡は取れないのか? ――分かった。隼人くんを最優先で保護してくれ。私もすぐに向かう。
……ああ、おそらく崖だろう。すまない――私の責任だ」
ぼそぼそと、だが急き込んだ様子で会話を終了させた男が、通信機の仕舞いしなにこちらを振り向く。
その眼差しにレッドはちょっと驚いた。
とんでもなく不屈で、普通人でありながらARMS適応者を手玉に取り、静かな威厳を湛えていたこの男が――、
まるで想像できなかった、少し疲れたような陰を浮かべていた。
「残念だが……ここでお別れだ。私は撤退させてもらう」
「あ? なにを自己中な――」
「君の意志の強さは見事だ」
陰を振り払うようなきっぱりとした宣言に、レッドは呑まれて抗議の言葉を切らす。
「特に……『人間はARMSに負けない』、そう言い切る君の志の高さには敬服したよ。
願わくば、その意志がいつまでも続き、『ARMS計画(プロジェクト・アームズ)』――その悪魔の意志を撃ち破る日が来ることを」
そう言って、男は僅かに横に身をずらす。
すると、男の背後に隠れていた夕日が――いつの間にか夕暮れになっていて、
強烈な西日がトンネル出口に差し込まれており――レッドの瞳に突き刺さった。
「く……」
目のくらんだレッドは手で顔を覆い、光に適応するころには――、
男の姿はもはや陰も形もなく、ただ静かな風が吹いていた。
刀を粉微塵に握り潰したレッドを目の当たりにし、男は咄嗟に柄を顔面の位置まで引き上げる。
まさにその箇所、男の人間業ではない反応速度でなければモロに顔面直撃のコースに、レッドの拳が飛ぶ。
柄は脆くもばらばらに砕け、男の指の骨も数本が鈍い音がしてありえない歪みを生じさせた。
「…………!」
ここにきて、遂に男が純粋な後退行動を取る。
飛びのくようにその場をのき、レッドの腕の届かない距離へと移動する。
「勝手なこと抜かすな……敵に説教されるほど落ちぶれちゃいねえ!
セピアのARMSをどう扱うかはてめーにゃ関係ないんだよ!
オレは負けねえ! てめーにも、ブラックの野郎にも――ARMSにも!」
レッドのやけくそみたいな咆哮に、男が虚をつかれたように動きを止めた。
今初めてレッドに出会ったかのような、驚きに満ちた表情だった。
だがそれもすぐに消え、戦士として洗練された姿――隙というものがまるでない構えでレッドの正面に立つ。
はっきり言って勝てるイメージは沸かない。
さっきは怒りに任せてぶん殴ったら当たったが、次は当たらないだろう。
経験も、センスも、技能も、全て相手が遥かに上回っている。それは確実だった。
だが、引く気はない。まったくない。
殺すとか倒すとかいう考えは消え失せて、今あるのは
「どうやったらこいつに思い知らせてやれるか」という、ただそれだけのことだった。
なんかごちゃごちゃしててよく分からないが、目の前のニンジャ野郎を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしてやらねば気が済まないのは確実だった。
そして、そのために必要なものは――、
レッドの背中になにかが触れる。
それはおそらく少女くらいの背丈のなにかの両手のような代物だと思われるものだと、温かな感触が伝えていた。
だから、そちらを見ずに言う。
「セピア」
「え?」
「オレのそばから離れるな」
「――はい」
おそらく少女くらいの背丈のなにかの額のような代物だと思われる温かいものが、そっとレッドの背中に押し付けられた。
――予想に反して、男はなかなか動きを見せなかった。
時間が経てば経つほど、『グリフォン』が電撃のダメージから回復して、男のアドバンテージが減少するにもかかわらず。
さすがにレッドも訝しく思う。
「どーした、ニンジャ野郎。怖じけづいたのか?」
だが男はそれには答えず、
「……まさか、キース・ブラックは試しているのか……? しかし、いったいなんの目的で……」
などと意味不明の呟きが返ってくる。
だがその半面、男の視線は満遍なくレッドに注がれている。
それはレッドを警戒してるというよりは、レッドとセピアを――、
いや、二人の行く末を心から案じているような、そんな不思議な視線だった。
「おい――」
そんな視線にむずむずしたのと、奇妙な緊張感に苛立ったことでレッドが声を荒くしたその時、男の懐から低い振動音がした。
「む――失礼。商用の電話だ」
「…………」
怒りを通り越して呆れるしかないレッドへ、男は今や敵意の欠片もない気安さでウィンクする。
「単身赴任のサラリーマンは多忙なのさ」
だが、
「――なんだと、鐙沢村が!?」
男の顔が瞬時に険しくなった。
通話の内容はレッドには聞こえないが、なにやら相手口が切羽詰まってる雰囲気だけは伝わってくる。
「修一郎と連絡は取れないのか? ――分かった。隼人くんを最優先で保護してくれ。私もすぐに向かう。
……ああ、おそらく崖だろう。すまない――私の責任だ」
ぼそぼそと、だが急き込んだ様子で会話を終了させた男が、通信機の仕舞いしなにこちらを振り向く。
その眼差しにレッドはちょっと驚いた。
とんでもなく不屈で、普通人でありながらARMS適応者を手玉に取り、静かな威厳を湛えていたこの男が――、
まるで想像できなかった、少し疲れたような陰を浮かべていた。
「残念だが……ここでお別れだ。私は撤退させてもらう」
「あ? なにを自己中な――」
「君の意志の強さは見事だ」
陰を振り払うようなきっぱりとした宣言に、レッドは呑まれて抗議の言葉を切らす。
「特に……『人間はARMSに負けない』、そう言い切る君の志の高さには敬服したよ。
願わくば、その意志がいつまでも続き、『ARMS計画(プロジェクト・アームズ)』――その悪魔の意志を撃ち破る日が来ることを」
そう言って、男は僅かに横に身をずらす。
すると、男の背後に隠れていた夕日が――いつの間にか夕暮れになっていて、
強烈な西日がトンネル出口に差し込まれており――レッドの瞳に突き刺さった。
「く……」
目のくらんだレッドは手で顔を覆い、光に適応するころには――、
男の姿はもはや陰も形もなく、ただ静かな風が吹いていた。
セピアと並んでトンネルの外に出る。
茜色の太陽が西の空を赤く染めていた。
「……あー、くそ、散々な遠足だったぜ」
線路に腰掛けて呻くレッドの隣にセピアがゆっくり腰掛ける。
「わたしも、疲れた、かな」
横殴りの風に流されてバランスを崩したのか、小さな頭がレッドの肩にもたれ掛かった。
そのままセピアは動こうとしない。
引きはがそうとしたが――その顔色が紙のように蒼白なのに気付く。
トンネルのなかではそんな顔色までは読み取れなかった。
「おい――」
「うん、大丈夫……ちょっと疲れただけ……」
紫の唇で言われてもまるで説得力がなかった。
「あ、頭、重いよね」
首を持ち上げようとするセピアを、掌の小鳥を逃がさない要領で肩を沈めて反動を殺し、そのままにさせた。
「…………」
セピアはちょっと目をぱちぱちさせたが、すぐに目を細めて体重をレッドに預けた。
そして、しばらく二人は黙って夕日を眺めていたが、まったく唐突にぽつりとセピアが掠れ声で囁く。
「――Sの前はRなの」
「……なんだと?」
「名前の話」
アルファベットの並び順と、レッドとセピアのことだろうか。
だからなんだと言いたかったが、なんとなく黙ってることにした。
セピアがなんかもぞもぞやってるのでそちらを見ると、ポケットから金色の指輪を取り出して夕日にかざしている。
それはあの指輪だった。
命と等しい価値を持ったもの――最後まで捨て切れなかったもの――かつてセピアの姉妹だった少女の忘れ形見。
本物の金無垢だった。
この世界を照らすヴァーミリオンの光を受けて、それは輝いていた。
鳩の血(ピジョン・ブラッド)のように、蠍の心臓(アンタレス)のように、神々の黄昏(ラグナロク)のように。
「セーラ」
再び掠れた声で、今度は少し面映ゆそうに。
「それがシャーロットが付けてくれた名前。
マテリアルナンバーでもなくてカラーネームでもない、わたしの本当の名前」
レッドは黙っていた。セピアも、特に感想を求めることはしなかった。
その代わりに、
「Sの前はRなの。名前の話」
さっきと同じことを繰り返す。
『セーラ』の頭文字がSであることは、レッドにも分かりきっていることだった。
そして、少し血の気が戻った桜色の唇で、セピアは大切な呪文(スペル)を唱えるように、ある短い綴り(スペル)を口にした。
「――――」
ごう、とやや強い風が吹き、あたりに枯れ葉が舞う。
「……なんだと?」
とレッドが聞き返しても、もうセピアは答えない。
安心しきった穏やかな顔をレッドの肩に載せたまま、悪夢など及びもつかない柔らかい寝息をすうすうと立てていた。
茜色の太陽が西の空を赤く染めていた。
「……あー、くそ、散々な遠足だったぜ」
線路に腰掛けて呻くレッドの隣にセピアがゆっくり腰掛ける。
「わたしも、疲れた、かな」
横殴りの風に流されてバランスを崩したのか、小さな頭がレッドの肩にもたれ掛かった。
そのままセピアは動こうとしない。
引きはがそうとしたが――その顔色が紙のように蒼白なのに気付く。
トンネルのなかではそんな顔色までは読み取れなかった。
「おい――」
「うん、大丈夫……ちょっと疲れただけ……」
紫の唇で言われてもまるで説得力がなかった。
「あ、頭、重いよね」
首を持ち上げようとするセピアを、掌の小鳥を逃がさない要領で肩を沈めて反動を殺し、そのままにさせた。
「…………」
セピアはちょっと目をぱちぱちさせたが、すぐに目を細めて体重をレッドに預けた。
そして、しばらく二人は黙って夕日を眺めていたが、まったく唐突にぽつりとセピアが掠れ声で囁く。
「――Sの前はRなの」
「……なんだと?」
「名前の話」
アルファベットの並び順と、レッドとセピアのことだろうか。
だからなんだと言いたかったが、なんとなく黙ってることにした。
セピアがなんかもぞもぞやってるのでそちらを見ると、ポケットから金色の指輪を取り出して夕日にかざしている。
それはあの指輪だった。
命と等しい価値を持ったもの――最後まで捨て切れなかったもの――かつてセピアの姉妹だった少女の忘れ形見。
本物の金無垢だった。
この世界を照らすヴァーミリオンの光を受けて、それは輝いていた。
鳩の血(ピジョン・ブラッド)のように、蠍の心臓(アンタレス)のように、神々の黄昏(ラグナロク)のように。
「セーラ」
再び掠れた声で、今度は少し面映ゆそうに。
「それがシャーロットが付けてくれた名前。
マテリアルナンバーでもなくてカラーネームでもない、わたしの本当の名前」
レッドは黙っていた。セピアも、特に感想を求めることはしなかった。
その代わりに、
「Sの前はRなの。名前の話」
さっきと同じことを繰り返す。
『セーラ』の頭文字がSであることは、レッドにも分かりきっていることだった。
そして、少し血の気が戻った桜色の唇で、セピアは大切な呪文(スペル)を唱えるように、ある短い綴り(スペル)を口にした。
「――――」
ごう、とやや強い風が吹き、あたりに枯れ葉が舞う。
「……なんだと?」
とレッドが聞き返しても、もうセピアは答えない。
安心しきった穏やかな顔をレッドの肩に載せたまま、悪夢など及びもつかない柔らかい寝息をすうすうと立てていた。
第十一話 『風』 了