窓から景色を眺め、ため息をつくドリアン。
年代物のオーディオから流れる、無名歌手が歌う上品なシャンソンも今は耳に入らない。
久しく忘れていた感情──彼は恋をしていた。
じっとしているだけで心に胸を締めつけられ、痛み、消耗する。
七十を過ぎた我が身に突如降りかかった事態にドリアンは戸惑っていた。豊富な人生経
験を持つ自分が、人生の途上で誰もが味わうこの感情に成す術がない。恋は泳ぎ方や自転
車の乗り方とは違う。しばらくご無沙汰にしていれば忘れてしまうものだ。
キャンディを一気に五個も口に含み、噛み砕き、飲み込む。気持ちが少し静まった。
「やはり相談するしかないようだな」
年下に悩みを打ち明けるのは避けたい。ましてや恋の悩みなど。となると、相談相手は
一人しかいない。
年代物のオーディオから流れる、無名歌手が歌う上品なシャンソンも今は耳に入らない。
久しく忘れていた感情──彼は恋をしていた。
じっとしているだけで心に胸を締めつけられ、痛み、消耗する。
七十を過ぎた我が身に突如降りかかった事態にドリアンは戸惑っていた。豊富な人生経
験を持つ自分が、人生の途上で誰もが味わうこの感情に成す術がない。恋は泳ぎ方や自転
車の乗り方とは違う。しばらくご無沙汰にしていれば忘れてしまうものだ。
キャンディを一気に五個も口に含み、噛み砕き、飲み込む。気持ちが少し静まった。
「やはり相談するしかないようだな」
年下に悩みを打ち明けるのは避けたい。ましてや恋の悩みなど。となると、相談相手は
一人しかいない。
「ハハハハハ! ンナモン、ムリヤリ押シ倒シチマエバイイダロウガッ!」
ドリアンはさっそく後悔していた。スペックの部屋を訪ねてしまったことを。
ジャージ姿にあぐら、スナック菓子を食い散らかしながら大笑いするスペック。笑うた
びに唾と菓子くずが飛散する。
選択を間違えたら意地を張らずに早めに修正するに限る。ドリアンは立ち上がった。
「すまなかったね。変なことを聞いてしまって」
「エ?」
「大家さん辺りに相談するとしよう」
「オイオイ待テヨ」
ドリアンはさっそく後悔していた。スペックの部屋を訪ねてしまったことを。
ジャージ姿にあぐら、スナック菓子を食い散らかしながら大笑いするスペック。笑うた
びに唾と菓子くずが飛散する。
選択を間違えたら意地を張らずに早めに修正するに限る。ドリアンは立ち上がった。
「すまなかったね。変なことを聞いてしまって」
「エ?」
「大家さん辺りに相談するとしよう」
「オイオイ待テヨ」
答えずドリアンはドアノブに手をかける。
「アンタガ惚レタ女ッテノヲ一度見セテクレヨ」
ノブを回す手が止まった。
ふとドリアンは衝動に駆られる。家賃を払わず、部屋は散らかし放題、恋愛を即強姦に
変換する価値観。こんな野放図な怪物にあの女性を自慢したくなっていた。
「いいだろう、ついて来たまえ」
「アンタガ惚レタ女ッテノヲ一度見セテクレヨ」
ノブを回す手が止まった。
ふとドリアンは衝動に駆られる。家賃を払わず、部屋は散らかし放題、恋愛を即強姦に
変換する価値観。こんな野放図な怪物にあの女性を自慢したくなっていた。
「いいだろう、ついて来たまえ」
道中、ドリアンはスペックに一目惚れの経緯を話した。
話は二日前にさかのぼる。いつものようにペテンを成果なく終え、ドリアンは力なく歩
いていた。疲れていたからだろうか、普段通る道を少し外れていた。
「しまったな」
こういう日はまっすぐアパートに帰ってすぐ寝るに限るというのに、遠回りになってし
まった。体力と時間とを二重に浪費したことが無性に悔しくなる。
蕎麦屋『なつえ』を見つけたのは、丁度その時であった。
「蕎麦か。たまにはいいかな」
暖簾をくぐり引き戸を開くと「いらっしゃい」と声がかかった。女性の声だ。
中はカウンター席のみ。客は他に誰もいない。商売の匂いはまるで感じられない。
「掛け蕎麦を頂けるかな」
「はいはい、掛け蕎麦ね」
店員は女将一人だけ。年齢は五十くらいだろうか。気品が漂う、美しく年を取った女性
の典型といった印象を受ける。
話は二日前にさかのぼる。いつものようにペテンを成果なく終え、ドリアンは力なく歩
いていた。疲れていたからだろうか、普段通る道を少し外れていた。
「しまったな」
こういう日はまっすぐアパートに帰ってすぐ寝るに限るというのに、遠回りになってし
まった。体力と時間とを二重に浪費したことが無性に悔しくなる。
蕎麦屋『なつえ』を見つけたのは、丁度その時であった。
「蕎麦か。たまにはいいかな」
暖簾をくぐり引き戸を開くと「いらっしゃい」と声がかかった。女性の声だ。
中はカウンター席のみ。客は他に誰もいない。商売の匂いはまるで感じられない。
「掛け蕎麦を頂けるかな」
「はいはい、掛け蕎麦ね」
店員は女将一人だけ。年齢は五十くらいだろうか。気品が漂う、美しく年を取った女性
の典型といった印象を受ける。
二人は取り留めのない話をした。
さすがにペテン師という素性は明かせなかったが、仕事に失敗した帰りだと話したら天
ぷらをサービスしてくれた。
「私は掛け蕎麦を頼んだはずだが……」
「いいのよ。お仕事なんて失敗してそこからどう立ち直るかなんだから、しっかり食べて
頑張って!」
「……ありがとう」
蕎麦は滑らかでコクがあり、とてもおいしかった。
「……フゥン。アァ、アト蕎麦ハアンタノオゴリダカラナ」
「分かってるよ」
君はいつも財布なんか持ち歩いていないだろう、と付け加えた。
さすがにペテン師という素性は明かせなかったが、仕事に失敗した帰りだと話したら天
ぷらをサービスしてくれた。
「私は掛け蕎麦を頼んだはずだが……」
「いいのよ。お仕事なんて失敗してそこからどう立ち直るかなんだから、しっかり食べて
頑張って!」
「……ありがとう」
蕎麦は滑らかでコクがあり、とてもおいしかった。
「……フゥン。アァ、アト蕎麦ハアンタノオゴリダカラナ」
「分かってるよ」
君はいつも財布なんか持ち歩いていないだろう、と付け加えた。
幸い『なつえ』は「商い中」であった。
「いらっしゃいませ。……あらこの間の」
「やぁ、今日は友人を一人連れてきたよ」
「ヘヘヘ、早ク食ワセロヨ」
ドリアンは天ぷら蕎麦を、スペックは掛け蕎麦を、それぞれ頼んだ。
てっきり一番高い蕎麦をおごらされるかと思ったドリアンにとって、スペックの選択は
意外であった。
想い人が目の前がいる手前、つい見栄を張ってしまう。
「フフフ、いいのかね。もっと高いメニューを頼めばいいのに」
「バァ~カ、誰ガ一杯ダケダッテイッタヨ」
ドリアンの額に浮かぶ冷や汗。時既に遅し。
蕎麦は大きく音を立てて食べる方が粋だとされているが、スペックのそれはもはや騒音
の域に達していた。
バキュームカーのような勢いでどんぶりから吸い上げられながら、蕎麦は胃袋に消えて
いく。手品というよりも、新手の災害のような光景であった。
「いらっしゃいませ。……あらこの間の」
「やぁ、今日は友人を一人連れてきたよ」
「ヘヘヘ、早ク食ワセロヨ」
ドリアンは天ぷら蕎麦を、スペックは掛け蕎麦を、それぞれ頼んだ。
てっきり一番高い蕎麦をおごらされるかと思ったドリアンにとって、スペックの選択は
意外であった。
想い人が目の前がいる手前、つい見栄を張ってしまう。
「フフフ、いいのかね。もっと高いメニューを頼めばいいのに」
「バァ~カ、誰ガ一杯ダケダッテイッタヨ」
ドリアンの額に浮かぶ冷や汗。時既に遅し。
蕎麦は大きく音を立てて食べる方が粋だとされているが、スペックのそれはもはや騒音
の域に達していた。
バキュームカーのような勢いでどんぶりから吸い上げられながら、蕎麦は胃袋に消えて
いく。手品というよりも、新手の災害のような光景であった。
やかましさでドリアンは女将とまともに会話もできない。
「あの今度お食事」
ずぞぞっ。
「蕎麦の作り方を教えてくれな」
ずぞぞぞっ。
「ところであなたの名前」
ずるるっ。ずぞぞぞぞっ。
終始このような調子で進展せず、結局ドリアンの財布から一万円札が羽ばたいただけで
あった。いくらなんでも食い過ぎだ。
「あの今度お食事」
ずぞぞっ。
「蕎麦の作り方を教えてくれな」
ずぞぞぞっ。
「ところであなたの名前」
ずるるっ。ずぞぞぞぞっ。
終始このような調子で進展せず、結局ドリアンの財布から一万円札が羽ばたいただけで
あった。いくらなんでも食い過ぎだ。
爪楊枝で乱暴に歯を掃除するスペック。
「イヤァ~美味カッタ。ゴチソウサン、ゲフッ」
「………」
「オイ? ドウシタンダヨ、暗イ顔シチマッテ」
「うるさいッ!」
ろくに会話すらできず、しかも意味もなく一万円もおごらされた。ドリアンが怒るのも
無理はなかった。
「マァソウ怒ルナヨ。コレカラハ恋ノ好敵手(ライバル)ナンダ。仲良クヤッテイコウゼ」
「え?」
「俺モヨ、アノ女ニ惚レチマッタゼ」
驚愕するドリアン。さすがの彼もこの展開だけは予想していなかった。そもそもスペッ
クの標的にされた彼女の身が危ない。
「スペック! 彼女に乱暴するようなことは許さんぞッ!」
「サテト文房具屋ニ行クカナ」
「文房具……?」
「マズハ文通カラダ。紙トペンヲ買ッテクル」
ドリアンはさらに驚愕した。
「こ、この男……ッ!」
他人には無責任に無謀なアドバイスを与えるくせに、いざ自分が同じ場面に出くわすと
途端に慎重になる。老獪スペック、97歳を目前にした恋の勃発であった。
「イヤァ~美味カッタ。ゴチソウサン、ゲフッ」
「………」
「オイ? ドウシタンダヨ、暗イ顔シチマッテ」
「うるさいッ!」
ろくに会話すらできず、しかも意味もなく一万円もおごらされた。ドリアンが怒るのも
無理はなかった。
「マァソウ怒ルナヨ。コレカラハ恋ノ好敵手(ライバル)ナンダ。仲良クヤッテイコウゼ」
「え?」
「俺モヨ、アノ女ニ惚レチマッタゼ」
驚愕するドリアン。さすがの彼もこの展開だけは予想していなかった。そもそもスペッ
クの標的にされた彼女の身が危ない。
「スペック! 彼女に乱暴するようなことは許さんぞッ!」
「サテト文房具屋ニ行クカナ」
「文房具……?」
「マズハ文通カラダ。紙トペンヲ買ッテクル」
ドリアンはさらに驚愕した。
「こ、この男……ッ!」
他人には無責任に無謀なアドバイスを与えるくせに、いざ自分が同じ場面に出くわすと
途端に慎重になる。老獪スペック、97歳を目前にした恋の勃発であった。