Side:絵石家由香
「こんのゲス野郎っ! こんなときだけ物分かりのいいこと言ってんじゃねえっ!」
冗談ではない。この怪盗と二人きりで取り残されるなど、想像しただけで十年は寿命が縮む。
工房を出ていく池谷たちと閉まっていく扉の動きを、由香は慌てて追いかける。しかし伸ばした
手もむなしく、断絶そのもののような重い音を立ててドアは閉まる。
「待てよ、待てって――」
閉じた扉のノブをひっ掴み、出て行った二人に続こうとしたとき、少年が背後から彼女を呼んだ。
「絵石家、由香」
何をされたというわけではなかった。怪盗"X"はただ呼びかけただけだ。
声を荒げたわけでもなければ、刃物で脅したわけでもない。むしろ口調は穏やかで、いっそ親しげ
でさえある。つい数ヶ月前、中学時代の友人に偶然再会したが、そのときの彼女の『由香ちゃん』と
いう声が、この殺人鬼の声音によく似ていた気がする。
何が違うのだろう、旧友の声と彼の声と。響くや否や由香の手を強張らせ、膝から下を凍りつかせ
てしまったのは何なのだろう。
胸郭の内側で心臓がぎゅうっと縮んだ。
半年と少し前のあの日味わった恐怖が戻ってきた。
ここにいるのは、今自分の後ろにいるのは、由香自身の家族を含め何百の命を奪ってきた、本物の殺人鬼。
「そんな怖がらなくていいじゃん。失礼だなあ」
嘆息ひとつ。
「ぼんやりしてないでこっち向きなよ。人と話すときに相手を見ないのは失礼だって、母親が生きてた
頃教わらなかったの?」
全身の骨と筋肉が、悲鳴を上げて彼の言葉に従った。
ここで反抗すれば殺されると、なけなしの生存本能が告げたのだ。
池谷の作らしい金属の椅子に、サイはちょこんと小さな尻を下ろしていた。揺れる二本の脚の細さが、
前後の往復運動を振り子の玩具のように見せる。ふうらりふらりと動く足先は、よく見れば靴下を
履いていない。
子供っぽい動きとは対照的に、続いた言葉は大人びていた。
「とりあえず久しぶり、って言っとこうかな。正直驚いたよ、まさかこんなとこで出くわすとは思って
なかったから。でもまあ考えてみれば無理もないのか。通は塔湖と親交があったんだものね。
……なんとか言いなよ。なんでずっと黙ってるのさ? 何かあるでしょ、お元気でしたかとかこの間は
どうもとかさ」
剥き出しのまま揺れるサイの足は、それだけ見ればまさしく無邪気な幼な子。
夏の名残りの日に焼けた甲も、大きく空を蹴り上げるたび覗く柔らかそうな白い踵も、『かわいらしい』
という言葉ひとつで片付けてしまえるものだ。
だが彼の本性を知っている由香には、何もかもが擬態としか映らない。
由香は唾を飲んだ。
なけなしの気力を総動員して、これも恐らくは擬態だろう整った造作を睨んだ。
「何で……こんなとこにあんたがいるんだよ。まさか……」
この殺人鬼は、高名な人間や飛びぬけた才を持つ者を次々と『箱』に詰めていく。
彼が池谷のオフィスに現れたという事実は、否応なしに不吉な想像を喚起させる。
「まさか、あいつを箱にするつもりじゃあ……」
『怪盗X またも現る』
『凄惨な現場に転がる赤い箱』
『家具デザイナー池谷通さん(29)復帰直前の無念の死』
雑誌や新聞の使い古されたヘッドラインが、アレンジされて次々と脳裏に躍る。
背筋が寒くなるような想像だった。
ほとんど悲鳴に近い声が喉からほとばしり出た。
「あ、あいつはっ、あいつだけはやめとけよ! あいつは外道で、女を家具としか思ってないドSで、
座れると思えば誰彼構わずの節操なしで、どこに出しても恥ずかしい立派な変態で、とにかく殺した
とこであんたに何の得も――」
「箱?」
しかし、サイの反応は由香の予想と異なっていた。
理解できないというようにぱちりと両目を瞬かせたかと思うと、白い顔の上で無邪気な笑いがはじけた。
「ああ、今回のお目当てはそっちじゃないよ。『トロイ』が欲しかったのさ。ちょっとヤボ用で海外に
出てた間に出遅れたみたいで、別の奴の手に渡っちゃったけどね」
腰掛けた椅子を撫でながら、くつくつ笑う。
「通は確かにいいデザイナーだけど、本人よりも手がける家具のほうに面白いもの感じるんだ。
今のところは壊さないでしばらく生かしとこうと思ってるよ。塔湖を箱にせずに作品だけ集めてた
のと同じようにね」
「あ……」
肩の力が抜けた。凝っていたものが溶けるように、口から息が漏れるのが分かった。
胸を撫で下ろす由香に、からかいに似た問いが向けられる。
「安心した?」
「し、してねーよ! キモいこと言うんじゃねえっ」
この犯罪者の手にかかって次なる犠牲者が出るのを、黙って見過ごすわけにはいかなかっただけだ。
たとえその犠牲者が人の皮をかぶった鬼畜ド外道と分かっていても。
高鳴りつづけている心臓を必死で抑えつけようと深呼吸していると、
「ひどいなー、ライオンやクマじゃあるまいし、そこまで怯えなくったっていいのに。俺だって、
何の理由も動機もなしに無差別に壊しまくってるわけじゃないんだし」
「全っ然説得力ねえよ」
ぼやくサイに、由香は呻く。
険のこもった目で怪盗を睨んだ。
「……あんた、あたしの家族殺しただろ。特に理由もないくせに気まぐれみたいに」
「は?」
きょとんとするサイ。真面目に何のことか分からないという表情だった。
「俺、あの事件のとき誰か壊したっけ? あんたの父親と母親殺したのはあんたの伯父さんで俺じゃないよ?」
「その伯父さん撃ち殺したのはあんただろうが! あとあんたを捕まえようとした利参叔父さんも!」
「えー? あー、ちょっと待って、えっと、えーっと」
わしゃわしゃ頭を掻きむしって唸る。
「ちょっと、まさか……覚えてないとか言うんじゃねーだろーな」
「そのまさかっぽい」
『お手上げ』のポーズとともにピンク色の舌が突き出された。
「色々あって、ちょっとばかり脳細胞が不自由でね。自分の親の顔も覚えてないし、おとといの晩メシも
思い出せない有り様なんだよ。半年も前に壊した奴のことなんて覚えてられるわけないだろ。
まあいいじゃん? どーせ塔湖の財産と名声にぶら下がって生きてるだけの不要家族だったんだし、
そいつらのぶんだけ負担が減ったと思えば」
「! っざけんな!」
奥歯が軋む音が頭蓋を通して響き、気づいたときには声の限りに叫んでいた。
「あんたから見りゃ不要だったんだろうし、オヤジも多分そう思ってたんだろうさ。けどあたしにとっ
ては血の繋がった家族だった。利参叔父さんはガキの頃よく高い高いしてくれたし、一茂伯父さん
だって、あんな人でも昔は結構優しかったんだ。外から強引に割り込んできただけのあんたに、
うだうだ言われる筋合いなんか一っつもない! 大体なあ……」
「あー、あー、あー。ストップ、ストップ」
サイがまた『お手上げ』をした。
ただし今度は舌を突き出さずに。
「オーケー、分かった。謝るよ、謝る。俺が悪かった、壊しちゃってごめんなさい。これでいいん
でしょ?」
真摯な謝罪という態度ではないし、そもそも謝ればいいという問題でもない。由香はきつい視線を
怪盗に注いだ。
よく『パンダ目』と言われる由香の目は、睨むとなかなかに効果がある。いつだったかたまたま
テレビで観た『白鳥の湖』のオディールの、目の縁に思い切り黒を入れたアイメイクが素顔の彼女に
よく似ていて、伯父たちに大笑いされたことがあった。
あのときは相当憤慨したものだが、今思えばそんなことすらも懐かしい。
「……あんた、一体何なの?」
しかし今度は叫ぶことなく、抑えた声で由香はぽつりと口にした。
「何のためらいもなく人を殺すし、殺したことを覚えてもいない。その相手に家族がいたってお構い
なしだ。――そのくせたまに気まぐれみたいに、そういうのに敏感になってみせたりもする」
父が遺した、あの虹瑪瑙のネックレスの時のように。
「サイ。あたしはあんたが分からない。残酷なのか優しいのか、思慮深いのか馬鹿なのか。あんた、
ムチャクチャだよ。全然意味が分かんないよ」
怒鳴りつけられてもまるで応えず、涼しい顔をキープしていた怪盗は、このとき初めて眉間に
深い皺を寄せた。椅子の背もたれから柔らかいラインで反り返ったアームに肘をつき、頬杖の恰好で
こちらを見つめ返す。その視線すら由香には矛盾に満ちて感じられた。
「あんたはあたしから伯父さん二人を奪っていった。でも同時に、いなかったんだとずっと思ってた
父親をくれた。あんたが教えてくれなかったらきっと、オヤジが自分を見てくれてたことにすら
気づかなかったと思う。たとえあのまま時間が経ってネックレスが見つかったとしても、隠し財産が
ついに出てきた程度にしか考えなかったはずだ」
憎むべきなのか感謝すべきなのか分からない相手。
由香にとってサイは、恐怖の対象であるのはもちろんだが、そんな相反する感情の象徴でもあるのだ。
サイは手で顎を支えたまま、由香の言葉を黙って聞いていた。その目つきは、父の創ったあの像を
見ていたときと同じ、すぐれた観察者としてのものだった。
やがてその口から漏れた言葉は、
「『あんた一体何なの』ね。それが分かってたらこんな苦労はしないんだけど」
「は? 何のこと?」
「いやこっちの話。あんたに話しても無駄だろうから省略するよ。……『父親をくれた』っていうのは
ちょっと大げさすぎだと思うな。塔湖はずっとあんたのこと見てたんだから。俺は単に、それを
分かりやすい言葉の形にしてあんたに伝えたにすぎない」
しかしその言葉がなければ、由香にとって父が不在の父のままだったのも事実だ。
サイは顎から手を離し、今度は胸の前で腕を組んだ。
険しかった顔がわずかに温かみを帯びた、ような気がした。
「絵石家由香。あんた柔らかくなったね」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。
「い、いきなり何だよ?」
「今のあんたを見ての正直な評価だよ。いやこの場合感想っていったほうが正しいのかな」
首を傾けるようにしながら、サイ。
由香としては意味が分からず、ひたすら瞬くほかに反応のしようもない。
彼女が戸惑っているのを見てとったのか、サイは『んー』と唸ってから講釈を付け加えた。
「会話のときの反応とか、あとは全体の印象がね。塔湖に興味持ってた関係で、あんたを含めた
あんたの家族もしばらく観察してたんだけど……たぶんあの事件以前のあんただったら、そんな
こと言う前に怒り心頭で食ってかかるか、それか怯えて口もきけないかどっちかだったろうね」
「………………」
「これも塔湖の影響かな」
一息に喋るサイは、気のせいかどこか嬉しげに見える。
「意味がよく分かんねーし、どう反応したらいいかも分かんねーよ……」
「分からなくていいし反応しなくていいよ。観察するのが癖になってるんだ、ほとんど独り言みたいなものさ」
だったらわざわざあたしに言うんじゃねえよ。
喉元まで出てきかかった言葉を、かろうじて由香は飲み込んだ。下手に突っ込んだら殺される。
ため息をついて由香は言う。
「……あんたの言ってることは分かんねえよ。分かんねえけど、実際変わったのは確かだと思う。
あたしはもう、あの事件の前のあたしじゃない。その変化のきっかけをくれたのはサイ、あんただ」
少年の眉がぴくりと震えた。
この先を言うつもりはなかった由香だが、その震えを見て気が変わった。
「オヤジが何を考えてたのか辿ることで、いろんなものが見えるようになった。前は見えなかった
たくさんのものが。伯父さんたちを殺したことについては許せないけど、正直な話、これに関して
だけは少しだけあんたに……」
感謝している――
最後の言葉だけはどうしても口にできなかった。心の片隅にひっそりと存在するこの感情を言葉に
することは、彼に殺された全ての人々に対する冒涜のように思われた。
そんな由香の錯綜する心境を、サイが汲み取ったかどうかは分からない。人物観察を得意としている
という彼のことだから、あるいは何もかもお見通しだったのかもしれない。
「勘違いすんなよ。だからって許したとかそういうわけじゃ全然ないんだからね。あんたはあたしの
伯父さんたちを殺した。それは何があっても変わらない事実だし、あたしはそれを絶対忘れない」
「うん。あんたはそれでいいよ。許さなくていいんだよ」
思い出したように声音を強張らせた由香を、サイは平然と受け流した。
揺れていた脚が、ふいに動きを止めた。素足の裏が地に接吻するようにそっと床に置かれる。
人間の眼球には、光の調節を行う薄い幕がある。虹の彩りと書いて虹彩と読むその器官の名は、
本来見た目ではなく機能の方をこそ形容しているが、この少年の瞳はまさにその名のごとく七色の輝き
を秘めている。
虹の光を帯びた瞳で、サイが天井を見上げた。
いや、その目は天井よりもなお遠いところ、決して手の届かない場所を見つめていた。
「いいよね、血の繋がった家族がいるのって。それを忘れないでいられるのって」
呟きもまた由香にではなく、別の何かに対するもののように思われた。
中空をさまよう視線は話しかけられることを拒んでいるようで、由香はしばらく黙したまま彼を
眺めるしかなかった。
冗談ではない。この怪盗と二人きりで取り残されるなど、想像しただけで十年は寿命が縮む。
工房を出ていく池谷たちと閉まっていく扉の動きを、由香は慌てて追いかける。しかし伸ばした
手もむなしく、断絶そのもののような重い音を立ててドアは閉まる。
「待てよ、待てって――」
閉じた扉のノブをひっ掴み、出て行った二人に続こうとしたとき、少年が背後から彼女を呼んだ。
「絵石家、由香」
何をされたというわけではなかった。怪盗"X"はただ呼びかけただけだ。
声を荒げたわけでもなければ、刃物で脅したわけでもない。むしろ口調は穏やかで、いっそ親しげ
でさえある。つい数ヶ月前、中学時代の友人に偶然再会したが、そのときの彼女の『由香ちゃん』と
いう声が、この殺人鬼の声音によく似ていた気がする。
何が違うのだろう、旧友の声と彼の声と。響くや否や由香の手を強張らせ、膝から下を凍りつかせ
てしまったのは何なのだろう。
胸郭の内側で心臓がぎゅうっと縮んだ。
半年と少し前のあの日味わった恐怖が戻ってきた。
ここにいるのは、今自分の後ろにいるのは、由香自身の家族を含め何百の命を奪ってきた、本物の殺人鬼。
「そんな怖がらなくていいじゃん。失礼だなあ」
嘆息ひとつ。
「ぼんやりしてないでこっち向きなよ。人と話すときに相手を見ないのは失礼だって、母親が生きてた
頃教わらなかったの?」
全身の骨と筋肉が、悲鳴を上げて彼の言葉に従った。
ここで反抗すれば殺されると、なけなしの生存本能が告げたのだ。
池谷の作らしい金属の椅子に、サイはちょこんと小さな尻を下ろしていた。揺れる二本の脚の細さが、
前後の往復運動を振り子の玩具のように見せる。ふうらりふらりと動く足先は、よく見れば靴下を
履いていない。
子供っぽい動きとは対照的に、続いた言葉は大人びていた。
「とりあえず久しぶり、って言っとこうかな。正直驚いたよ、まさかこんなとこで出くわすとは思って
なかったから。でもまあ考えてみれば無理もないのか。通は塔湖と親交があったんだものね。
……なんとか言いなよ。なんでずっと黙ってるのさ? 何かあるでしょ、お元気でしたかとかこの間は
どうもとかさ」
剥き出しのまま揺れるサイの足は、それだけ見ればまさしく無邪気な幼な子。
夏の名残りの日に焼けた甲も、大きく空を蹴り上げるたび覗く柔らかそうな白い踵も、『かわいらしい』
という言葉ひとつで片付けてしまえるものだ。
だが彼の本性を知っている由香には、何もかもが擬態としか映らない。
由香は唾を飲んだ。
なけなしの気力を総動員して、これも恐らくは擬態だろう整った造作を睨んだ。
「何で……こんなとこにあんたがいるんだよ。まさか……」
この殺人鬼は、高名な人間や飛びぬけた才を持つ者を次々と『箱』に詰めていく。
彼が池谷のオフィスに現れたという事実は、否応なしに不吉な想像を喚起させる。
「まさか、あいつを箱にするつもりじゃあ……」
『怪盗X またも現る』
『凄惨な現場に転がる赤い箱』
『家具デザイナー池谷通さん(29)復帰直前の無念の死』
雑誌や新聞の使い古されたヘッドラインが、アレンジされて次々と脳裏に躍る。
背筋が寒くなるような想像だった。
ほとんど悲鳴に近い声が喉からほとばしり出た。
「あ、あいつはっ、あいつだけはやめとけよ! あいつは外道で、女を家具としか思ってないドSで、
座れると思えば誰彼構わずの節操なしで、どこに出しても恥ずかしい立派な変態で、とにかく殺した
とこであんたに何の得も――」
「箱?」
しかし、サイの反応は由香の予想と異なっていた。
理解できないというようにぱちりと両目を瞬かせたかと思うと、白い顔の上で無邪気な笑いがはじけた。
「ああ、今回のお目当てはそっちじゃないよ。『トロイ』が欲しかったのさ。ちょっとヤボ用で海外に
出てた間に出遅れたみたいで、別の奴の手に渡っちゃったけどね」
腰掛けた椅子を撫でながら、くつくつ笑う。
「通は確かにいいデザイナーだけど、本人よりも手がける家具のほうに面白いもの感じるんだ。
今のところは壊さないでしばらく生かしとこうと思ってるよ。塔湖を箱にせずに作品だけ集めてた
のと同じようにね」
「あ……」
肩の力が抜けた。凝っていたものが溶けるように、口から息が漏れるのが分かった。
胸を撫で下ろす由香に、からかいに似た問いが向けられる。
「安心した?」
「し、してねーよ! キモいこと言うんじゃねえっ」
この犯罪者の手にかかって次なる犠牲者が出るのを、黙って見過ごすわけにはいかなかっただけだ。
たとえその犠牲者が人の皮をかぶった鬼畜ド外道と分かっていても。
高鳴りつづけている心臓を必死で抑えつけようと深呼吸していると、
「ひどいなー、ライオンやクマじゃあるまいし、そこまで怯えなくったっていいのに。俺だって、
何の理由も動機もなしに無差別に壊しまくってるわけじゃないんだし」
「全っ然説得力ねえよ」
ぼやくサイに、由香は呻く。
険のこもった目で怪盗を睨んだ。
「……あんた、あたしの家族殺しただろ。特に理由もないくせに気まぐれみたいに」
「は?」
きょとんとするサイ。真面目に何のことか分からないという表情だった。
「俺、あの事件のとき誰か壊したっけ? あんたの父親と母親殺したのはあんたの伯父さんで俺じゃないよ?」
「その伯父さん撃ち殺したのはあんただろうが! あとあんたを捕まえようとした利参叔父さんも!」
「えー? あー、ちょっと待って、えっと、えーっと」
わしゃわしゃ頭を掻きむしって唸る。
「ちょっと、まさか……覚えてないとか言うんじゃねーだろーな」
「そのまさかっぽい」
『お手上げ』のポーズとともにピンク色の舌が突き出された。
「色々あって、ちょっとばかり脳細胞が不自由でね。自分の親の顔も覚えてないし、おとといの晩メシも
思い出せない有り様なんだよ。半年も前に壊した奴のことなんて覚えてられるわけないだろ。
まあいいじゃん? どーせ塔湖の財産と名声にぶら下がって生きてるだけの不要家族だったんだし、
そいつらのぶんだけ負担が減ったと思えば」
「! っざけんな!」
奥歯が軋む音が頭蓋を通して響き、気づいたときには声の限りに叫んでいた。
「あんたから見りゃ不要だったんだろうし、オヤジも多分そう思ってたんだろうさ。けどあたしにとっ
ては血の繋がった家族だった。利参叔父さんはガキの頃よく高い高いしてくれたし、一茂伯父さん
だって、あんな人でも昔は結構優しかったんだ。外から強引に割り込んできただけのあんたに、
うだうだ言われる筋合いなんか一っつもない! 大体なあ……」
「あー、あー、あー。ストップ、ストップ」
サイがまた『お手上げ』をした。
ただし今度は舌を突き出さずに。
「オーケー、分かった。謝るよ、謝る。俺が悪かった、壊しちゃってごめんなさい。これでいいん
でしょ?」
真摯な謝罪という態度ではないし、そもそも謝ればいいという問題でもない。由香はきつい視線を
怪盗に注いだ。
よく『パンダ目』と言われる由香の目は、睨むとなかなかに効果がある。いつだったかたまたま
テレビで観た『白鳥の湖』のオディールの、目の縁に思い切り黒を入れたアイメイクが素顔の彼女に
よく似ていて、伯父たちに大笑いされたことがあった。
あのときは相当憤慨したものだが、今思えばそんなことすらも懐かしい。
「……あんた、一体何なの?」
しかし今度は叫ぶことなく、抑えた声で由香はぽつりと口にした。
「何のためらいもなく人を殺すし、殺したことを覚えてもいない。その相手に家族がいたってお構い
なしだ。――そのくせたまに気まぐれみたいに、そういうのに敏感になってみせたりもする」
父が遺した、あの虹瑪瑙のネックレスの時のように。
「サイ。あたしはあんたが分からない。残酷なのか優しいのか、思慮深いのか馬鹿なのか。あんた、
ムチャクチャだよ。全然意味が分かんないよ」
怒鳴りつけられてもまるで応えず、涼しい顔をキープしていた怪盗は、このとき初めて眉間に
深い皺を寄せた。椅子の背もたれから柔らかいラインで反り返ったアームに肘をつき、頬杖の恰好で
こちらを見つめ返す。その視線すら由香には矛盾に満ちて感じられた。
「あんたはあたしから伯父さん二人を奪っていった。でも同時に、いなかったんだとずっと思ってた
父親をくれた。あんたが教えてくれなかったらきっと、オヤジが自分を見てくれてたことにすら
気づかなかったと思う。たとえあのまま時間が経ってネックレスが見つかったとしても、隠し財産が
ついに出てきた程度にしか考えなかったはずだ」
憎むべきなのか感謝すべきなのか分からない相手。
由香にとってサイは、恐怖の対象であるのはもちろんだが、そんな相反する感情の象徴でもあるのだ。
サイは手で顎を支えたまま、由香の言葉を黙って聞いていた。その目つきは、父の創ったあの像を
見ていたときと同じ、すぐれた観察者としてのものだった。
やがてその口から漏れた言葉は、
「『あんた一体何なの』ね。それが分かってたらこんな苦労はしないんだけど」
「は? 何のこと?」
「いやこっちの話。あんたに話しても無駄だろうから省略するよ。……『父親をくれた』っていうのは
ちょっと大げさすぎだと思うな。塔湖はずっとあんたのこと見てたんだから。俺は単に、それを
分かりやすい言葉の形にしてあんたに伝えたにすぎない」
しかしその言葉がなければ、由香にとって父が不在の父のままだったのも事実だ。
サイは顎から手を離し、今度は胸の前で腕を組んだ。
険しかった顔がわずかに温かみを帯びた、ような気がした。
「絵石家由香。あんた柔らかくなったね」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。
「い、いきなり何だよ?」
「今のあんたを見ての正直な評価だよ。いやこの場合感想っていったほうが正しいのかな」
首を傾けるようにしながら、サイ。
由香としては意味が分からず、ひたすら瞬くほかに反応のしようもない。
彼女が戸惑っているのを見てとったのか、サイは『んー』と唸ってから講釈を付け加えた。
「会話のときの反応とか、あとは全体の印象がね。塔湖に興味持ってた関係で、あんたを含めた
あんたの家族もしばらく観察してたんだけど……たぶんあの事件以前のあんただったら、そんな
こと言う前に怒り心頭で食ってかかるか、それか怯えて口もきけないかどっちかだったろうね」
「………………」
「これも塔湖の影響かな」
一息に喋るサイは、気のせいかどこか嬉しげに見える。
「意味がよく分かんねーし、どう反応したらいいかも分かんねーよ……」
「分からなくていいし反応しなくていいよ。観察するのが癖になってるんだ、ほとんど独り言みたいなものさ」
だったらわざわざあたしに言うんじゃねえよ。
喉元まで出てきかかった言葉を、かろうじて由香は飲み込んだ。下手に突っ込んだら殺される。
ため息をついて由香は言う。
「……あんたの言ってることは分かんねえよ。分かんねえけど、実際変わったのは確かだと思う。
あたしはもう、あの事件の前のあたしじゃない。その変化のきっかけをくれたのはサイ、あんただ」
少年の眉がぴくりと震えた。
この先を言うつもりはなかった由香だが、その震えを見て気が変わった。
「オヤジが何を考えてたのか辿ることで、いろんなものが見えるようになった。前は見えなかった
たくさんのものが。伯父さんたちを殺したことについては許せないけど、正直な話、これに関して
だけは少しだけあんたに……」
感謝している――
最後の言葉だけはどうしても口にできなかった。心の片隅にひっそりと存在するこの感情を言葉に
することは、彼に殺された全ての人々に対する冒涜のように思われた。
そんな由香の錯綜する心境を、サイが汲み取ったかどうかは分からない。人物観察を得意としている
という彼のことだから、あるいは何もかもお見通しだったのかもしれない。
「勘違いすんなよ。だからって許したとかそういうわけじゃ全然ないんだからね。あんたはあたしの
伯父さんたちを殺した。それは何があっても変わらない事実だし、あたしはそれを絶対忘れない」
「うん。あんたはそれでいいよ。許さなくていいんだよ」
思い出したように声音を強張らせた由香を、サイは平然と受け流した。
揺れていた脚が、ふいに動きを止めた。素足の裏が地に接吻するようにそっと床に置かれる。
人間の眼球には、光の調節を行う薄い幕がある。虹の彩りと書いて虹彩と読むその器官の名は、
本来見た目ではなく機能の方をこそ形容しているが、この少年の瞳はまさにその名のごとく七色の輝き
を秘めている。
虹の光を帯びた瞳で、サイが天井を見上げた。
いや、その目は天井よりもなお遠いところ、決して手の届かない場所を見つめていた。
「いいよね、血の繋がった家族がいるのって。それを忘れないでいられるのって」
呟きもまた由香にではなく、別の何かに対するもののように思われた。
中空をさまよう視線は話しかけられることを拒んでいるようで、由香はしばらく黙したまま彼を
眺めるしかなかった。
Side:池谷通
『ムネモシュネ』の価格は、椅子一脚の価格としては桁外れなものだった。庶民感覚を反映している
とは言いがたい値段。にも関わらずアイという女はその金額を、眉ひとつ動かさずぽんと支払った。
唸るほど金を持っている人種というのは確かに存在すると、こういう手合いを見るたび実感せずには
いられない。
「まいど」
計算機をテーブルに置いて池谷は言った。
「良けりゃあぜひ、今後ともご贔屓に願いたいもんだな」
「さあ、どうでしょうか」
女の反応はあくまでも冷ややかだ。
「あちこちを転々とする生活をしているので、あまり多くの家具を所持していても仕方がないのです。
あなたのブランドの上得意になれるとは思えませんね」
「そりゃ残念」
抱えて帰るにはいささか大きい。当然、住所を書いてもらって送付という形をとることになる。
ボールペンの先が綴る文字に目を走らせると、麗しく流れる水茎の跡に『大菅』という苗字がちらり
と見えた。
「『大菅アイ』さん?」
「いいえ」
番地まで書き終え、ペンの先をしまう女。
「私ではありません。受け取りを頼むことになっている身内の名です。住所は送り終えた時点で破棄
していただければと」
「へえ。……んじゃあ、あんた本人は何てんだ? 下の名前は『アイ』でいいんだよな。苗字は?」
「捨てました」
にこりともせずに女が答える。恐らくはジョークなのだろうが、こう躍動感のない無表情では真剣に
言っているようにしか聞こえない。
しかし珍しい、と、池谷は内心唸った。
感情を見せない女というのは、えてして実際の面立ちよりもくすんで地味な印象に見えがちだ。
ともすると薄気味悪さを漂わせることさえある。しかしこの女は違っているのだ。人形を思わせる美貌
のせいか、それとも陶器のように白く透明感のある肌のせいかは分からないが、硬質な表情がしっくり
なじんで自然に見える。
星の数ほど女を見てきたが、こんな女は初めてだった。好みという意味なら由香のほうに軍配が上が
るが、たまにはこういう変り種を征服するのも悪くない。
池谷は粘っこい笑みを浮かべた。
「ま、あんたなら、家具買ってくれなくたっていつだって大歓迎だけどな。今夜俺のベッドになって
くれたら十万くらいキャッシュバックするけど、どうよ?」
「手を握らないでくださいと先ほど申し上げたはずですが……」
「いーじゃねーか。布団かぶせて上に乗っかって一晩耐えて十万だぜ? いまどき風俗だってこんなに
稼げやしねぇぞ?」
握った手をいやらしく揉んでみせると、女がわずかに眉根を寄せる。
「何が不満なんだ、金が足りねえのか? 二十万? いや三十万出せばいいのか?!」
「鼻息荒く顔を近づけるのもやめてください。不潔です」
女が一歩後ろに下がると、池谷もそれに合わせて一歩にじり寄る。
二歩下がれば二歩。三歩下がれば三歩。いたちごっこでそのくりかえし。
「そう冷てーこと言わずにさあ。あんたの連れも由香ちゃんと長話きめこんでるみてぇだし、そこに
座ってコーヒーでも飲みながら話だけでも聞いてかねえか? そのまんまだと苦いからよ、中にこの
白い粉たっぷり入れてよぉ……」
「何を盛るつもりですか。やめてください」
と――
「ちょっとセクハラ中年。人の従者に何気安く触ってんの」
少年の声がした。
アイの手首を握ったまま視線を向けると、工房に続く廊下へのドアの前に、腕を組んだサイが呆れ
きった目つきで立っていた。
傍らには由香。
長いまつげと濃い隈に縁取られた目は、さながら直角三角形。こめかみは血管を透かし、小刻みに
ひくひく痙攣している。
「いつまで経っても戻って来ないからこっちから来てみたら……おい外道、おめーあんだけボコられた
くせにまだ懲りてねーみてえだなぁ、ああ?」
池谷の口元が引きつった。
アイが不穏な空気を察してか、すすす、と滑らかな動きで彼から離れていく。
「ゆ、由香ちゃ……ごめん俺ぁ別に浮気する気は」
「いつからお前があたしの本命になった、この腐れゲス野郎っ」
由香のこぶしが握り締められる。
グロスの乗った唇がわななき――
「お前なんかの心配したあたしが馬鹿だった! 死ねこのクズ、死ねっ! 死んで償えーーーっ!!」
「し、心配って何のこ……待て由香ちゃん待って待って待って暴力はやめゲフゥッ!」
身じろいだ池谷の顔に拳骨がめり込んだ。突進した由香の渾身の一発だった。
『始末に負えない』とアイが呟いた。
サイが『わぁお』と歓声を上げ、華麗な一撃に賞賛の拍手を送った。
そのどちらも池谷の耳には届かなかった。
一七六センチ七二キロの体は、右フックに続く高らかなハイキックに、見事な放物線を描いて吹っ飛んだ。
とは言いがたい値段。にも関わらずアイという女はその金額を、眉ひとつ動かさずぽんと支払った。
唸るほど金を持っている人種というのは確かに存在すると、こういう手合いを見るたび実感せずには
いられない。
「まいど」
計算機をテーブルに置いて池谷は言った。
「良けりゃあぜひ、今後ともご贔屓に願いたいもんだな」
「さあ、どうでしょうか」
女の反応はあくまでも冷ややかだ。
「あちこちを転々とする生活をしているので、あまり多くの家具を所持していても仕方がないのです。
あなたのブランドの上得意になれるとは思えませんね」
「そりゃ残念」
抱えて帰るにはいささか大きい。当然、住所を書いてもらって送付という形をとることになる。
ボールペンの先が綴る文字に目を走らせると、麗しく流れる水茎の跡に『大菅』という苗字がちらり
と見えた。
「『大菅アイ』さん?」
「いいえ」
番地まで書き終え、ペンの先をしまう女。
「私ではありません。受け取りを頼むことになっている身内の名です。住所は送り終えた時点で破棄
していただければと」
「へえ。……んじゃあ、あんた本人は何てんだ? 下の名前は『アイ』でいいんだよな。苗字は?」
「捨てました」
にこりともせずに女が答える。恐らくはジョークなのだろうが、こう躍動感のない無表情では真剣に
言っているようにしか聞こえない。
しかし珍しい、と、池谷は内心唸った。
感情を見せない女というのは、えてして実際の面立ちよりもくすんで地味な印象に見えがちだ。
ともすると薄気味悪さを漂わせることさえある。しかしこの女は違っているのだ。人形を思わせる美貌
のせいか、それとも陶器のように白く透明感のある肌のせいかは分からないが、硬質な表情がしっくり
なじんで自然に見える。
星の数ほど女を見てきたが、こんな女は初めてだった。好みという意味なら由香のほうに軍配が上が
るが、たまにはこういう変り種を征服するのも悪くない。
池谷は粘っこい笑みを浮かべた。
「ま、あんたなら、家具買ってくれなくたっていつだって大歓迎だけどな。今夜俺のベッドになって
くれたら十万くらいキャッシュバックするけど、どうよ?」
「手を握らないでくださいと先ほど申し上げたはずですが……」
「いーじゃねーか。布団かぶせて上に乗っかって一晩耐えて十万だぜ? いまどき風俗だってこんなに
稼げやしねぇぞ?」
握った手をいやらしく揉んでみせると、女がわずかに眉根を寄せる。
「何が不満なんだ、金が足りねえのか? 二十万? いや三十万出せばいいのか?!」
「鼻息荒く顔を近づけるのもやめてください。不潔です」
女が一歩後ろに下がると、池谷もそれに合わせて一歩にじり寄る。
二歩下がれば二歩。三歩下がれば三歩。いたちごっこでそのくりかえし。
「そう冷てーこと言わずにさあ。あんたの連れも由香ちゃんと長話きめこんでるみてぇだし、そこに
座ってコーヒーでも飲みながら話だけでも聞いてかねえか? そのまんまだと苦いからよ、中にこの
白い粉たっぷり入れてよぉ……」
「何を盛るつもりですか。やめてください」
と――
「ちょっとセクハラ中年。人の従者に何気安く触ってんの」
少年の声がした。
アイの手首を握ったまま視線を向けると、工房に続く廊下へのドアの前に、腕を組んだサイが呆れ
きった目つきで立っていた。
傍らには由香。
長いまつげと濃い隈に縁取られた目は、さながら直角三角形。こめかみは血管を透かし、小刻みに
ひくひく痙攣している。
「いつまで経っても戻って来ないからこっちから来てみたら……おい外道、おめーあんだけボコられた
くせにまだ懲りてねーみてえだなぁ、ああ?」
池谷の口元が引きつった。
アイが不穏な空気を察してか、すすす、と滑らかな動きで彼から離れていく。
「ゆ、由香ちゃ……ごめん俺ぁ別に浮気する気は」
「いつからお前があたしの本命になった、この腐れゲス野郎っ」
由香のこぶしが握り締められる。
グロスの乗った唇がわななき――
「お前なんかの心配したあたしが馬鹿だった! 死ねこのクズ、死ねっ! 死んで償えーーーっ!!」
「し、心配って何のこ……待て由香ちゃん待って待って待って暴力はやめゲフゥッ!」
身じろいだ池谷の顔に拳骨がめり込んだ。突進した由香の渾身の一発だった。
『始末に負えない』とアイが呟いた。
サイが『わぁお』と歓声を上げ、華麗な一撃に賞賛の拍手を送った。
そのどちらも池谷の耳には届かなかった。
一七六センチ七二キロの体は、右フックに続く高らかなハイキックに、見事な放物線を描いて吹っ飛んだ。
Side:アイ
「『トロイ』の件は残念でしたね」
「うん。でももういいんだ」
庶民には少々敷居の高い店が立ち並ぶ、高級ショッピングモールの一角に『池屋』はある。
和スイーツを専門に扱う瀟洒なカフェや一着五万は下らぬブランドショップの間を、アイは主人と
並んで歩いていた。いつまでも止む気配のない由香の攻撃に、彼が飽きたためさっさと出てきたのだ。
店を出る寸前、池谷は鼻と口から血を流してのたうち回っていた。由香が冷静さを取り戻せば、
医者なり救急車なりを呼んで手当てしてもらえるだろう。たとえ彼女の怒りが収まらなかったとしても、
それはサイとアイには関係のない話だ。
「呪いの机も面白かったけど、どっちかといえばあの椅子のほうが俺好みの造形なんだよね。代わりに
そっちで満足しちゃった感じ。あの机はもういいや。どの道あんなデカくて重いの、行く先々で持て
余すに決まってるし」
のんびりと歩きながら、サイは大きく伸びをする。
走り回ること、暴れ回ること、これらのことが全てNGとなるインテリアショップで、彼なりに
自分の行動を律していたらしい。気まぐれと破壊衝動の塊のようなこの主人を、すぐ隣で数年間観察
しつづけてきたアイだが、こんなことはほとんど例がなかった。
それだけあの男の作品が気に入ったということなのだろう。
「珍しいですね」
「何が?」
伸びの姿勢のままサイはアイを横目で見た。
「あなたが一度欲したものを諦めるということがです。通常なら、『やだやだやだやだ欲しい欲しい
欲しい欲しい!』とごねて、壁や柱を破壊したあげく店主の体を肉塊にするまで落ち着きませんので」
「いや、いくら俺でもそこまで本能任せでバイオレンスでは」
主人のぼやきは無視して続ける。
「代わりのものが手に入ったとはいえ、目当ての品を逃したことに変わりはないのに、今のあなたの
表情はどこか晴れやかです。原因は絵石家塔湖の娘との会話ですか?」
ふっ、と、サイが笑った。
「珍しいね。あんたが他人に興味持つなんて」
「あなたに関することは例外なのです。答えたくないということでしたら結構ですが」
「別に都合悪いことでもないしちゃんと答えるよ。――そうだね、彼女と話したことも理由の一つかな。
そのうち様子見に行ってみようとは思ってたけど、予想よりずっといい方向に変わってた。それが
分かったことがちょっとだけ嬉しかった」
目一杯上げていた腕を下ろし、細い顎を軽く撫でさするサイ。
「彼女は、俺とは違う。一度父親を見つけたからには、もう二度と忘れたりしない。……あの子にずっと
覚えていてもらえる塔湖は、きっと幸せ者だね」
「はい」
サイの口元に浮かぶ微笑に一瞬、暗い影がちらりとよぎったような気がしたが、ひとまずアイは何も
言わずに頷いた。
「でもそれだけじゃないよ」
笑みは消さぬまま、ひらひらと手を振ってみせるサイ。
「あの椅子はいいよ。すごくいい。別に酸っぱいブドウでも何でもなく、俺は『トロイ』よりあっちの
ほうに惹かれるんだ。通が言ってた由来はいまいちよく分からなかったけど、造形の流れひとつひとつ
にあいつの経験とか思考かが篭ってる気がする。通じゃなかったら作れなかった家具だと思う」
「そうですか」
あらゆる知識を叩き込まれているアイだが、一方で芸術やデザインのような感性を必需品とする分野
には疎い。主人がそう言うのなら相槌を打つしかない。
「通が今までの人生でやってきたこと、考えたこと、味わったこと。記憶に残ってるそういうものを
全部活かしたからこそ通はあの椅子を作れたんだろうな、って。あの椅子に限らずあいつの家具は
皆そうだったんだろうな、って。そう思った。……自分の正体が分からない俺にはできないことだよ」
ふぅっ、と息を吐いて、サイは足を止める。
主人の歩みに合わせて歩いていたアイも、やはり立ち止まる。
「いいな。通も、塔湖の娘も、俺が持ってないものをたくさん持ってる。……いいなあ」
アイの主は柔らかい笑みを天に向けた。
東京の外れの秋口の空は、見上げる者の存在など気にも留めぬ風情でただ青く晴れわたっている。
白い手は祈りを捧げるかのように胸の上で重ねられ、虹を閉じ込めた両目は憧憬と羨望にきらめいた。
――それなのにその双眸には、どこか薄暗い影が落ちてもいた。
「俺もあんな風だったら良かったのに」
空を仰ぐサイを、アイは静かに見据えた。
目の前のこの情景を写真におさめ、『無心』とでも題して額に入れれば、百貨店の展示にでも飾れそう
な一つの作品ができあがるだろう。
道端で静止した少年と女を、行き交う人々が不思議そうに眺めていく。
目の前の店の従業員が入ってくる気か否かを見極めようと、必死に目を凝らしているのが視界の端に
見える。
アイはそっと手を伸ばした。胸の上に置かれたサイの手のひらを、そっと包み込んで握り締めた。
「なれますよ」
遠い天を見ていた少年の目が、小さく揺れる。
サイと目が合うと、アイは硬質な美貌を微笑に緩ませた。
「なれます。あなたが憧れを覚えた彼らのように。あなたの正体さえ見つかれば、きっと」
「……アイ?」
「それをお助けするために、私はこうしてあなたの傍にいるのです。憧れを憧れではなく、現実のもの
にするために」
怯えに似た目つきでサイはアイを見返した。その喉から搾り出された声も、少し怯えに似ていた。
「本当?」
「はい」
アイは強く頷いた。
「お供いたします、いつか絶対に来るその日まで。地の果てまでも」
くしゃりとサイの顔が歪んだ。
泣きそうな顔だ、とアイは思ったが、その両目から涙は溢れてこなかった。
「さあ、いつまでもこんな所に立っていてはいけません。通行人の邪魔になりますよ」
握った手にきゅっと力を込めるアイ。
「うん」
サイは頷く。
その表情に、さっき片鱗を覗かせた陰影はもうない。
「……行こうか」
「はい」
水色の空の下で、怪盗と従者は確かな足取りで歩き出した。
「うん。でももういいんだ」
庶民には少々敷居の高い店が立ち並ぶ、高級ショッピングモールの一角に『池屋』はある。
和スイーツを専門に扱う瀟洒なカフェや一着五万は下らぬブランドショップの間を、アイは主人と
並んで歩いていた。いつまでも止む気配のない由香の攻撃に、彼が飽きたためさっさと出てきたのだ。
店を出る寸前、池谷は鼻と口から血を流してのたうち回っていた。由香が冷静さを取り戻せば、
医者なり救急車なりを呼んで手当てしてもらえるだろう。たとえ彼女の怒りが収まらなかったとしても、
それはサイとアイには関係のない話だ。
「呪いの机も面白かったけど、どっちかといえばあの椅子のほうが俺好みの造形なんだよね。代わりに
そっちで満足しちゃった感じ。あの机はもういいや。どの道あんなデカくて重いの、行く先々で持て
余すに決まってるし」
のんびりと歩きながら、サイは大きく伸びをする。
走り回ること、暴れ回ること、これらのことが全てNGとなるインテリアショップで、彼なりに
自分の行動を律していたらしい。気まぐれと破壊衝動の塊のようなこの主人を、すぐ隣で数年間観察
しつづけてきたアイだが、こんなことはほとんど例がなかった。
それだけあの男の作品が気に入ったということなのだろう。
「珍しいですね」
「何が?」
伸びの姿勢のままサイはアイを横目で見た。
「あなたが一度欲したものを諦めるということがです。通常なら、『やだやだやだやだ欲しい欲しい
欲しい欲しい!』とごねて、壁や柱を破壊したあげく店主の体を肉塊にするまで落ち着きませんので」
「いや、いくら俺でもそこまで本能任せでバイオレンスでは」
主人のぼやきは無視して続ける。
「代わりのものが手に入ったとはいえ、目当ての品を逃したことに変わりはないのに、今のあなたの
表情はどこか晴れやかです。原因は絵石家塔湖の娘との会話ですか?」
ふっ、と、サイが笑った。
「珍しいね。あんたが他人に興味持つなんて」
「あなたに関することは例外なのです。答えたくないということでしたら結構ですが」
「別に都合悪いことでもないしちゃんと答えるよ。――そうだね、彼女と話したことも理由の一つかな。
そのうち様子見に行ってみようとは思ってたけど、予想よりずっといい方向に変わってた。それが
分かったことがちょっとだけ嬉しかった」
目一杯上げていた腕を下ろし、細い顎を軽く撫でさするサイ。
「彼女は、俺とは違う。一度父親を見つけたからには、もう二度と忘れたりしない。……あの子にずっと
覚えていてもらえる塔湖は、きっと幸せ者だね」
「はい」
サイの口元に浮かぶ微笑に一瞬、暗い影がちらりとよぎったような気がしたが、ひとまずアイは何も
言わずに頷いた。
「でもそれだけじゃないよ」
笑みは消さぬまま、ひらひらと手を振ってみせるサイ。
「あの椅子はいいよ。すごくいい。別に酸っぱいブドウでも何でもなく、俺は『トロイ』よりあっちの
ほうに惹かれるんだ。通が言ってた由来はいまいちよく分からなかったけど、造形の流れひとつひとつ
にあいつの経験とか思考かが篭ってる気がする。通じゃなかったら作れなかった家具だと思う」
「そうですか」
あらゆる知識を叩き込まれているアイだが、一方で芸術やデザインのような感性を必需品とする分野
には疎い。主人がそう言うのなら相槌を打つしかない。
「通が今までの人生でやってきたこと、考えたこと、味わったこと。記憶に残ってるそういうものを
全部活かしたからこそ通はあの椅子を作れたんだろうな、って。あの椅子に限らずあいつの家具は
皆そうだったんだろうな、って。そう思った。……自分の正体が分からない俺にはできないことだよ」
ふぅっ、と息を吐いて、サイは足を止める。
主人の歩みに合わせて歩いていたアイも、やはり立ち止まる。
「いいな。通も、塔湖の娘も、俺が持ってないものをたくさん持ってる。……いいなあ」
アイの主は柔らかい笑みを天に向けた。
東京の外れの秋口の空は、見上げる者の存在など気にも留めぬ風情でただ青く晴れわたっている。
白い手は祈りを捧げるかのように胸の上で重ねられ、虹を閉じ込めた両目は憧憬と羨望にきらめいた。
――それなのにその双眸には、どこか薄暗い影が落ちてもいた。
「俺もあんな風だったら良かったのに」
空を仰ぐサイを、アイは静かに見据えた。
目の前のこの情景を写真におさめ、『無心』とでも題して額に入れれば、百貨店の展示にでも飾れそう
な一つの作品ができあがるだろう。
道端で静止した少年と女を、行き交う人々が不思議そうに眺めていく。
目の前の店の従業員が入ってくる気か否かを見極めようと、必死に目を凝らしているのが視界の端に
見える。
アイはそっと手を伸ばした。胸の上に置かれたサイの手のひらを、そっと包み込んで握り締めた。
「なれますよ」
遠い天を見ていた少年の目が、小さく揺れる。
サイと目が合うと、アイは硬質な美貌を微笑に緩ませた。
「なれます。あなたが憧れを覚えた彼らのように。あなたの正体さえ見つかれば、きっと」
「……アイ?」
「それをお助けするために、私はこうしてあなたの傍にいるのです。憧れを憧れではなく、現実のもの
にするために」
怯えに似た目つきでサイはアイを見返した。その喉から搾り出された声も、少し怯えに似ていた。
「本当?」
「はい」
アイは強く頷いた。
「お供いたします、いつか絶対に来るその日まで。地の果てまでも」
くしゃりとサイの顔が歪んだ。
泣きそうな顔だ、とアイは思ったが、その両目から涙は溢れてこなかった。
「さあ、いつまでもこんな所に立っていてはいけません。通行人の邪魔になりますよ」
握った手にきゅっと力を込めるアイ。
「うん」
サイは頷く。
その表情に、さっき片鱗を覗かせた陰影はもうない。
「……行こうか」
「はい」
水色の空の下で、怪盗と従者は確かな足取りで歩き出した。
(おわり)