Side:池谷通
中古インテリアショップ『池屋』に、際立って美しい影が現れたのは、秋口の風が吹き始めた頃の
ことである。
「『呪いの机』を売っていただきたいのですが」
女は池谷の顔を見据え、明瞭な発音でそう言った。
切れ長の目に嵌まった瞳は黒だが、ほの暗いオフィスの光を浴びると黄昏の色を帯びてきらめく。
長身の背は匠の手がけた弓のようにクッと反り、大柄な女につきまといがちな無骨さをまるで感じさ
せない。
――いい女だ。
池谷は胸中で口笛を吹いた。
派手ではないが、極上の紫檀のような高貴さを秘めている。家具にするなら椅子よりベッドだろう。
疲れ果てた体を無言で抱きとめる褥(しとね)にこそ、こんな女はふさわしい。
「あいにくあの机は嫁に出しちまったよ」
だがひとまずそんな欲望は表に出さず、池谷は顎をしゃくった。
「先月末の話だ。色々と紆余曲折はあったが、結局は一番いいご主人様のもとに納まったみたいでな。
わざわざ来てくれたのはありがたいんだが、他のモンで埋め合わせしてくれと言うしかねえよ。
当てが外れて悪かったな」
「……そうですか」
細い眉がわずかにたわんだ。デザイナーとして研ぎ澄まされた感性を持つ池谷だからこそ感じ取れ
た、ごく微細な変化だった。これが常人なら、無感動に相槌を打った程度にしか思うまい。
ほんのり憂いを帯びたその表情に、池谷は最高級のジャカランダ材の魅力を見た。
ああ、我慢できない。
寝転びたい。
「なあ、そんなことよりあんた、俺のベッドになってみる気は……」
「そう。今ここにはないわけだ、『トロイ』は」
舌なめずりしながら女に手を伸ばそうとしたとき、男女どちらとも判然としない、張りのある声が
割り込んだ。
「誰に売ったの?」
女の連れである。
少年――だろう、恐らくは。中学生くらいの年頃と思われたが、面立ちもだぼだぼのジャケットに
包まれた体型も、その声同様中性的でどうにも言い切りがたい。池谷が何とか男と判断したのは、両
目の底に男性的なぎらつきを感じたためだ。
まあ百歩譲って少女だったにせよ、この年齢なら加工にはまだ早い。育ちきるまで池谷の興味の
対象外である。
伸ばしかけた手の行き場を失い、指先をわきわき動かしながら池谷は言った。
「売ったんじゃなくて譲ったんだよ。誰かってのは……ちぃっと口止めされててね。俺の口からは
言えねえな」
「教えてくれたらチップは弾むよ。噂で聞いたけど、新ブランドの立ち上げを計画してるんだろ?」
こめかみを叩きながら、少年が言う。
「昔相当儲けたとは聞いてるけど、ここの経営、家具造りやめて中古販売に転じてからは振るって
ないって話じゃない。準備資金はあればあるだけ困らないものだと思うけど?」
いたずらっぽい目の輝きとは裏腹に、口から飛び出した言葉は身も蓋もない内容だった。
明るい星が灯ったような少年の顔。池谷は唇の端をひん曲げて見せる。
「俺ぁ安ホテルのボーイじゃねえよ。小銭で滑らかになる舌は持ち合わせてねえんだ。知りたきゃ
自分で調べな」
「へえ、案外カタイね。何? 個人情報の保護とか何とか、そういう最近の流れに敏感なクチ?」
「そんなんじゃねえ」
挑発めいた口調に首を振ってみせる。
「せっかく自分が手がけた女にいい亭主がついたってのに、わざわざそこに悪い虫近づけて火種
起こすなんて、阿呆以外の何者でもねえだろうが」
「……おんな? 机の話でしょ、そこで何で女が出てくるわけ?」
理解に苦しむ様子を見せる少年。
と、そこに女が口を挟んだ。
「サイ、ここは大人しく引き下がりましょう。わざわざ店主に問いたださずとも、見つけ出す方法
ならいくらでもあります」
「えー。でも、『悪い虫』とか言われたよ今。売られた喧嘩は買うべきじゃない?」
「あなたがそれを望まれるなら止める権利は私にはありませんが、その行為には何の得もない、と
だけ先に申し上げておきます。それを承知であえて深入りするならお好きなように」
「ちぇ、分かったよ。アイって言い方がいちいち嫌味ったらしいよなあ……」
舌打ちひとつ。それきり少年は池谷からも女からも顔をそむけてしまう。
こちらが女の連れかと思っていたが、どうやら主導権を握っているのは彼の方のようだ。
しばらく幼児のごとくむくれていた少年――サイは、そのうち売り場の隅に置かれたラックに目を
留め、舐めるように観察し始める。『S』の字の一部が欠けたようなデザインのその棚にはディスプ
レイのため、家具デザイン関連の書籍数冊と花を挿した花瓶が置かれていた。
「申し訳ありません。聞き分けのない人で」
「いやいや、若いうちはあーいうのも元気でいいんじゃねえの。なかなか個性的な坊やだが、あんた
の弟か?」
場つなぎのつもりだった問いかけに、女――アイが答えるまでなぜか数秒の間があった。
「……そういう関係のこともあります」
何やら妙な言い方だと思ったが、まあ事情など人それぞれである。聞かないほうがいい場合という
のもあろう。
そんなことより本題を優先すべきだ。
「ところであんた、家具になりたいとか思ったことねえか?」
「いきなり何ですか」
「家具っていいだろ、椅子とかタンスとかよ。こう、全身で人間を受け入れる包容力に満ちてる所が。
まあ前置きはいいや。あんた、今夜一晩俺のベッドになる気ねえ?」
「おっしゃる意味が分かりかねます。というか分かりたくない世界の匂いがするのでお断りします」
「いやいやいやいやそんなこと言いっこなし。一度くらいはこういう経験してみるのも人生に彩りが
出てイイもんだぜ? あんたなら最っ高のベッドになれる、賭けてもいい! なあ頼むよ、こんな
こともあろうかと思ってしまいこんでた高級羽根布団も引っ張り出してくるからよぉ……」
「どんな彩りですか。手を握らないでください。とろんとした目つきでにじり寄ってくるのも生理的
嫌悪を誘うのでやめてください。どんどん壁のほうに追い詰められていくのは気のせいですか。
取り出したその手錠は一体なんですか。どうして私に掛けようとするのですか」
だが女を拘束しようとしたそのとき、少年の声がまた割り込んできた。
「ちょっとそこのセクハラ中年」
「せ、セクハ……」
池谷は右手に手錠を、左手にアイの手首を握ったまま絶句する。
腰に手を当てたサイは、汚物を見るような目で彼を睥睨し鼻を鳴らした。
「強制わいせつ中年って呼んだほうがいいならそう呼ぶけど。まあそれはどうでも良いんだ。ねえ、
このラックもあんたが作ったの?」
黒く塗られた棚の表面が、サイの指の腹で撫でられる。下品ではない適度な光沢が、白い指の先を
ぼんやりと表面に映し込む。
「ああ。二年と半年ばかり前になるかな……って、ああああ」
答えた隙をついて、アイが手首を捻った。がっちり握ったつもりだった池谷の手は、その一挙動で
いともたやすく振り払われた。がっくりうなだれるデザイナーに、構わずサイが続ける。
「モダンスタイルの本黒檀。『トロイ』と同じだね。あっちは写真で見ただけだけど、造形の流れも
よく似てる気がする」
「ほお」
身を翻して離れていくアイを追おうとして、池谷はふと動きを止めた。
彫り深い顔に象嵌された目が、自分を注視したのをサイは感じ取ったらしい。ピアノでも弾くよう
なリズミカルな動きで黒い表面を叩き、更に細かい解説を添える。
「線は女性的だけど決してセンチメンタルに流れることなく、むしろ力強さを秘めている。黒檀なのに
印象が重たすぎないのは、表面の仕上げが人肌の透明感を意識してるからかな。高級感と色気が
あるのに温もりを感じさせる、良いデザインだ。秀作だね」
製作者の口から響いたヒュウ、という口笛は、ほとんど無意識のうちに漏れたものだった。
「生意気なだけのガキかと思ったら、なかなか良い目してんじゃねーか」
確かにこのラックのデザインは、『トロイ』に通じている。というよりは、完成品たる『トロイ』
に繋げるための試作品として製作したものなのだ。ただしラックと机とでは形状・用途がまるで異な
るため、素人目にはこの類似は分かりにくい。
細部の指摘も池谷のこだわりをひとつひとつ掬い上げており、少年の感性の鋭敏さを保証していた。
「こっちの道の勉強でもしてんのか?」
投げかけた質問は八割のからかいと、残り二割の期待で構成されていた。
そう遠くない将来、腕を競い合える好敵手が出現するかもしれないという期待。
しかしサイは首を横に振り、池谷のささやかな希望を無碍にした。
「そういうわけじゃないよ。専門は美術品さ、絵とか彫刻とか。それも作るんじゃなく鑑賞するほう。
だからモダンデザインの分野に深く突っ込んだことまでは分からないんだけど」
「この人の見る目は確かです」
黙っていたアイが口を開いた。
「彼の賞賛を得たことは、誇りを持って受け取って良い事実だと思いますよ」
「……そりゃあどうも」
美学史でも学んでいるのだろうか。将来は学芸員にでもなるつもりか。
首をかしげた池谷の頭に、ふと知人の娘の顔がよぎった。
優れた芸術家を父に持つ彼女は、父親の死後一年ばかりが経過してから亡父が身を浴した世界に
足を踏み入れた。父が生きている間彼から得られなかったものを、貪欲に学んで吸収していく様は
見ていてすがすがしい。
彼女が芸術を求めたのは、父と分け合うことのなかった時間を埋めるため。
では、この少年はどうなのか。何が彼を芸術の世界に惹きつけるのか。
顎ひげを擦り、ふう、と息をついたとき、サイがまた言った。
「ねえ、俺あんたが作ったものがもっと見たいな。他にはどんなのがある?」
削った木材の匂いというのは、一度嗅ぐと鼻腔の深いところにいつまでも残る気がする。
まるで女が身につける香水のようだと池谷は思う。もっとも本来の順序は逆で、木の香りのほうが
香水に使われているのだと、彼も承知してはいるのだが。
作業場である工房のドアを開けると、粘膜を責めさいなむような粉っぽい空気が彼らを迎えた。
削り落とした木の屑。目に見えぬほど微細な粒子が宙を舞っているのだ。これを短期間に大量に
吸い込みすぎると気管支をやられる。
「あんまり他人は入れねーんだがな。ま、出血大サービスってやつだ」
一足先に中に踏み込んだ池谷は、外の二人に向けて手招きした。
『トロイ』を仕上げ、家具作りを一度卒業して以来、長らく遊ばせたままにしてあった部屋だった。
最近また湧き上がってきた創作意欲に、閉ざした扉を開き数年ぶりに踏み込んだばかりである。
つまり、置かれているのは未完成のものを含む最近手がけた品ばかりだ。
白いシーツが、作品の姿を慎み深く隠している。
「直射日光からの保護にしては杜撰なように思えますが」
アイが言う。
「いいんだよ。もともと日当たりのよくねぇ部屋を選んで作業場にしてんだ。空調は調節してある
からカビにやられる心配もねえしな。それに、隠してやってんのは別に日よけのためってだけじゃ
ねえ」
口の端に笑みを乗せて、池谷はアイを見た。
庇うような手つきでシーツを押さえながら、
「着替えも化粧も終わってない恰好で、人前に出てぇと思う女はいねえだろ? 磨いて磨いて磨き
抜いて、これ以上はないってくらいのいい女になるまで極力人様の目には晒したくねぇのさ。
あんたも女なら分かってくれると思うがな」
「いえ残念ながら……」
無表情に、アイ。
あてが外れて髪を掻き回す池谷に、サイが笑い声をはじけさせる。
「ムリムリ、この女にそーいう感性期待するだけ無駄だって。昔のSFに出てくるアンドロイドみ
たいな性格なんだから。きっと血管には血の代わりにオイルが流れてるよ」
「残念ながら何の変哲もない血液です。通常人と大差ありません」
「本当? ほんとにただの血? ちょっと粉々にして確かめてみてもいい?」
「お断りします。目を輝かせてにじり寄って来ないでください」
会話に割り込むか否か迷っていた池谷に、少年はくるりと向き直り、そして尋ねた。
シーツをまとった『女たち』の群れを見渡しながら、
「で? 完成品は何かないの? まさか全部が全部作りかけってことはないんでしょ」
「ああ、勿論さ」
身勝手を絵に描いて動かしたようなサイの言動に、池谷は早くも慣れてきていた。
家具デザインに限らず、クリエイターの世界には変人が多い。また、変人ほど際立ったものを作り
出すことが多いのもこの世界だ。ちょっとやそっとの奇行にいちいち目くじらを立てていては生きて
いけない。
「今んとこは、これが一番の器量良しだな」
端を掴んで翻すと、シーツが風をはらんで翻った。
現れたのは一脚の椅子だ。
素材はシャープなスチールのクロームメッキ。脚は無駄なくまっすぐに伸びたモダンな印象。
円を描いたクッションは穏やかなベージュで、この種のデザインにつきまといがちな無表情さを
和らげている。
これだけなら最近よく見るオフィス調の家具だが、ことに目を引くのは背もたれだった。一本一本
は細い無数のスチールワイヤーが、神経組織のような複雑さで編まれているのだ。
クッションの端から出発したワイヤーはゆるやかなカーブを描いて伸び、ある一点で枝分かれし、
進み、いつしか再び合流する。そしてまた分かれ、伸び、合流し、分かれ、クッションの反対側の
端にたどりつくまで延々とそれをくりかえす。
背もたれ全体としては人間の脳のようないびつな楕円形。アームは付いていない。ただし背もたれ
の幅が広くとってあり、人体のラインにあわせて絶妙な反りが加えられているため、そこに腕を乗せ
て休憩することも充分に可能である。
ランダムなようでいて奇妙な規則性が感じられる背面のワイヤー細工は、見る者の胸の奥を否応
なしにざわめかせる異様さを備えていた。それでいていつかどこかで見たような、ノスタルジアを
感じさせるデザインでもあった。
生まれる前に母の胎内で見た光景のように――
「どうだ? 気に入りそうか?」
サイの口から感嘆符は漏れなかった。
細い指先を差し伸ばし、触れてみるほうが早かった。年若い肌が、何年も前から約束されていた
かのような自然さでワイヤーの編み込みをなぞった。
「……いいね」
頷きの深さが、言葉よりも雄弁に情動の深さを語っていた。
「この椅子、名前はあるの? 『トロイ』みたいな」
「ああ、あるぜ。『ムネモシュネ』ってんだ」
職人の自負を込めて池谷は自作の名を告げる。
「むねもしゅ?」
こちらの知識はあまりないらしい。眉間に皺を寄せるサイに、アイが補足した。
「ギリシャ神話の女神の一人です。記憶を司っています」
「記憶?」
おうむ返しに呟いた瞬間、皺がより深くなったように思えたのは、池谷の気のせいだったのだろうか。
「芸術の九姉妹『ミューズ』の母親としても有名な女神です」
「へぇそうなんだ、知らなかった。……でもなんでそんな名前を?」
『トロイ』にもいえることではあるが、椅子のネーミングとしてはあまりポピュラーな部類では
ない。当然といえば当然の疑問だった。池谷は唇の端を吊り上げた。
「ちょいと最近、色々と思うところがあってな。あんま人様にペラペラ喋るような話でもねえんで
細けーことは省かしてもらうが……何つーか、何かを創るっつーのは、良いこたぁ勿論、悪ぃこと
も合わせて全部飲み込んじまうことから始まるんだなと、そう思うようなことがあったわけよ」
『魅惑の雌馬』を目指した『トロイ』とはコンセプトを異にするこの椅子だが、着想の発端その
ものは実はあの机にある。
かつて池谷のもとで修行した弟子であり、ともすれば彼を凌ぐほどのデザイナーとなっていた男が、
殺人罪で逮捕されたのは先月のこと。その際『凶器』として利用されたのが『トロイ』だった。
池谷の最高傑作を呪いの机に貶め、彼に罪を着せ破滅させようとしたのだ。
動機はデザイナーとしての主張の違い。そして――これはその場に居合わせた探偵の推察ではある
が――池谷の才能への嫉妬。
「飲み込んだモンは全部自分の栄養になる。それが気持ちのいいモンか胸糞悪ぃモンかにかかわらず、
自分が創り出すモノに遅かれ早かれ活きてくる。その栄養が『記憶』ってモンだろう。俺みてえな
家具職人でも、絵描きでも彫刻家でもシンガーソングライターでも、多分これは同じこった」
サイは何も言わなかった。ただ『ムネモシュネ』柔らかなクッションをぽふりと叩いた。
「さっき芸術の女神の母親って言ったが、多分そういうことなんだろうな。良いも悪ぃも合わせて
色んな記憶を飲み込んで、それを栄養にして何かを創ってく。そういうことを俺ら人間が何千年も
前からコツコツ続けてきたって証拠が神話の形で残ってるわけだ。……そこまで考えたとき、無性
にその『記憶』の女神様に会ってみたくなった」
全てを包み込み創造の糧となす女神は、きっと素晴らしく魅惑的な女に違いない。
危うさと包容力をともに備えた美女を目指し、池谷はこの『女』を創り上げた。
柄にもねえな、とぼやいて頭を掻く池谷に、サイが鼻を鳴らした。
「芸術家とかデザイナーってたまに理解不能なこと言うよね。正直ついてけないや」
「おいおい、今も昔もアートってのは哲学と紙一重なんだぜ。ンなこと言っててこの先やってけんのか?」
「別にそれでメシ食ってくつもりはないからいいんだよ。……いいよね栄養にできるモンがある奴は。
羨ましいよ」
ぽつりと付け加えられた言葉に、一抹の寂寥が滲んでいた気がして、思わず少年の顔をまじまじと
見てしまう。向けられる視線が不快だったらしく、大きな瞳が『何?』と池谷に睨みを返してきた。
険のある目から慌てて顔を逸らし、咳払いして『ムネモシュネ』を指す池谷。
「座ってみるなら靴は脱げよ。ちょっとの違いと思うかもしれねえが意外に響いてくるんだ、これが」
「アドバイス感謝。じゃあ座らせてもらおうかな。――アイ」
「かしこまりました」
アイに向かって顎をしゃくるや否や、サイは『ムネモシュネ』に腰を下ろした。
女がサイの足元に跪いたのは、それとほぼ同時だった。細く長い指がスニーカーの紐に伸び、
しゅる、と結び目を解く。
いいねそのプレイ、と茶々を入れようとしたとき、
「あれ、客来てんの? 何だ珍しい」
響いた声は、池谷にとって聞き覚えのあるものだった。
工房の入り口を振りあおぐ。扉を開けて立つ影は、潔いベリーショートに、相反するイメージの
ガーリーなワンピース。
「てっきり工房でトンカンやってんだと思ったから勝手に入ってきちまったけど、売り場で待ってた
ほうがよかったかな……」
「由香ちゃん?」
知人の忘れ形見、絵石家由香がそこにいた。
はて、と池谷は首をかしげる。
魅力的な娘でいつか座ってやろうと画策してはいるが、さりとて向こうからわざわざ訪ねてくるほ
ど密な付き合いはない。最後に会ったのは池谷の弟子が逮捕されたときだ。
喜びと訝しみがないまぜになったこちらの表情に、感受性の強い彼女はすぐに気づいたらしい。
「なんて顔してんだよ。新ブランド立ち上げるんだろ? 餞別持ってきてやったんだよ」
ガサ、と音を立てたのは手にした包み。ひと抱えほどの大きさがある。
特に贈答用のラッピングなどは施されていないが――
「え? 祝ってくれんの? マジで?」
「……勘違いすんなよ。あたしからじゃない」
あらぬ方向に顔を逸らしながら、由香はその包みを突き出した。
「オヤジがもし生きてたらたぶん、あんたが家具作りに戻るのは喜ぶだろうと思ったからだ。
あたしのことはあいつの代理、単なる使いっ走りみたいなもんだと思ってよ」
「うーん、あの絵石家のジーさんが餞別なんてくれるようなガラだったかねえ……」
目ばかりぎょろぎょろと忙しなく動く、禿頭の老人の顔を思い出して、池谷は苦笑した。
もともと人好きのする性格とは言えなかった由香の父は、池谷と知り合った晩年はことに偏屈さを
増していた。
それでも好みの家具を提供したときだけは喜んでくれたものだ。娘によく似た隈の浮いた目を
ほんのわずか細めた顔は、見る機会が稀だったからこそ未だに忘れられない。
池谷の口元に笑みがひろがった。
「ま、そういうことなら貰えるもんは貰っておくか。サンキュー、由香ちゃん。ところで餞別ついで
にちょっくら椅子になってく気ねえ?」
「ねーよ。そこの工具で脳漿ブチ撒けられたいかこのゲスが」
さりげなさを装った会心の口説きは、吊りあがった目であえなく却下される。
「……由香? 絵石家由香?」
サイの声が耳に響いたのは、それでも諦めきれずなお迫ろうとした瞬間だった。
店主しか視界に入れていなかった由香は、名前を呼ばれて初めて客のほうに目をやった。
池谷に呼ばれた直後とはいえ、自分を知る人間に対する警戒も含まれていたろう。完全なるスト
レンジャーに一方的に名を知られ、それでも居心地よく過ごせる神経の太い者などそうそういない。
年頃の娘ならなおのことだ。
「っ! あんた……」
だがきつい両目を彩っていた警戒は、少年の姿を認めた瞬間色を変えた。
驚愕の色彩へと。
卵型の顔から血の気が引いていく。
「サ……」
「ああ、やっぱりそうだね。あれからだいぶ時間が経ってるからさ、記憶が朧になってて一瞬分から
なかったんだ。どう? 最近は。元気でやってる?」
「なんであんたがこんなとこに……」
「いちゃ悪い? ちょっと気になる品があってね。まあその品自体はここでは手に入らなかったんだ
けど」
『ムネモシュネ』に悠然と腰かけたまま、サイは笑った。
由香にではなく、その横でエアブラシの包みを抱える池谷に笑いかけた。
「ねえ、おじさん。俺やっぱりこの椅子欲しいな。ここじゃ何だから、店に戻ってアイと話をまとめて
きてよ。俺はもうちょっと彼女と話してから行くから」
「ちょっ……」
由香が息を呑む。
彼女の表情が産む懸念を払拭するように、少年は明るく顔の前で手を振った。
「ああ心配しないで、知り合いなんだ。昔ちょっと世話になったことがあってね。ん? どっちかと
いうと世話したっていうのかなこの場合? とにかく久々に会って積もる話もいろいろあるからさ」
「ん? あー、そうなのか。世間ってーのは広いようで狭ェもんだな」
極上の椅子をこの場に置いていくのは惜しいが、確かに、計算機等の清算に必要なものは全て
売り場に置いてきてしまっている。『ムネモシュネ』をこの少年に売るのならどのみち向こうに戻ら
なければならない。
サイの脇に控えていた連れの女が、すっとこちらに向けて歩み出た。行きましょう、というように、
整った顔を工房の出口に向ける。それに合わせて池谷も歩き出した。
「え、ちょ、その、待てよ! こいつは……」
「そーかそーか。置いてかれるのがそんな寂しいか由香ちゃん。心配すんな、清算済ませたらすぐに
戻ってきて座ってやるからよ」
「そうじゃなくて! おいこら待て変態! 外道! 待てったらーーーーーーーー!」
跳ねっ返りほど座りがいがあるもんだよなあ、家具ってのは。
工房の扉が閉まる瞬間、由香の叫びを聞きながら思ったのはそんなことだった。
ことである。
「『呪いの机』を売っていただきたいのですが」
女は池谷の顔を見据え、明瞭な発音でそう言った。
切れ長の目に嵌まった瞳は黒だが、ほの暗いオフィスの光を浴びると黄昏の色を帯びてきらめく。
長身の背は匠の手がけた弓のようにクッと反り、大柄な女につきまといがちな無骨さをまるで感じさ
せない。
――いい女だ。
池谷は胸中で口笛を吹いた。
派手ではないが、極上の紫檀のような高貴さを秘めている。家具にするなら椅子よりベッドだろう。
疲れ果てた体を無言で抱きとめる褥(しとね)にこそ、こんな女はふさわしい。
「あいにくあの机は嫁に出しちまったよ」
だがひとまずそんな欲望は表に出さず、池谷は顎をしゃくった。
「先月末の話だ。色々と紆余曲折はあったが、結局は一番いいご主人様のもとに納まったみたいでな。
わざわざ来てくれたのはありがたいんだが、他のモンで埋め合わせしてくれと言うしかねえよ。
当てが外れて悪かったな」
「……そうですか」
細い眉がわずかにたわんだ。デザイナーとして研ぎ澄まされた感性を持つ池谷だからこそ感じ取れ
た、ごく微細な変化だった。これが常人なら、無感動に相槌を打った程度にしか思うまい。
ほんのり憂いを帯びたその表情に、池谷は最高級のジャカランダ材の魅力を見た。
ああ、我慢できない。
寝転びたい。
「なあ、そんなことよりあんた、俺のベッドになってみる気は……」
「そう。今ここにはないわけだ、『トロイ』は」
舌なめずりしながら女に手を伸ばそうとしたとき、男女どちらとも判然としない、張りのある声が
割り込んだ。
「誰に売ったの?」
女の連れである。
少年――だろう、恐らくは。中学生くらいの年頃と思われたが、面立ちもだぼだぼのジャケットに
包まれた体型も、その声同様中性的でどうにも言い切りがたい。池谷が何とか男と判断したのは、両
目の底に男性的なぎらつきを感じたためだ。
まあ百歩譲って少女だったにせよ、この年齢なら加工にはまだ早い。育ちきるまで池谷の興味の
対象外である。
伸ばしかけた手の行き場を失い、指先をわきわき動かしながら池谷は言った。
「売ったんじゃなくて譲ったんだよ。誰かってのは……ちぃっと口止めされててね。俺の口からは
言えねえな」
「教えてくれたらチップは弾むよ。噂で聞いたけど、新ブランドの立ち上げを計画してるんだろ?」
こめかみを叩きながら、少年が言う。
「昔相当儲けたとは聞いてるけど、ここの経営、家具造りやめて中古販売に転じてからは振るって
ないって話じゃない。準備資金はあればあるだけ困らないものだと思うけど?」
いたずらっぽい目の輝きとは裏腹に、口から飛び出した言葉は身も蓋もない内容だった。
明るい星が灯ったような少年の顔。池谷は唇の端をひん曲げて見せる。
「俺ぁ安ホテルのボーイじゃねえよ。小銭で滑らかになる舌は持ち合わせてねえんだ。知りたきゃ
自分で調べな」
「へえ、案外カタイね。何? 個人情報の保護とか何とか、そういう最近の流れに敏感なクチ?」
「そんなんじゃねえ」
挑発めいた口調に首を振ってみせる。
「せっかく自分が手がけた女にいい亭主がついたってのに、わざわざそこに悪い虫近づけて火種
起こすなんて、阿呆以外の何者でもねえだろうが」
「……おんな? 机の話でしょ、そこで何で女が出てくるわけ?」
理解に苦しむ様子を見せる少年。
と、そこに女が口を挟んだ。
「サイ、ここは大人しく引き下がりましょう。わざわざ店主に問いたださずとも、見つけ出す方法
ならいくらでもあります」
「えー。でも、『悪い虫』とか言われたよ今。売られた喧嘩は買うべきじゃない?」
「あなたがそれを望まれるなら止める権利は私にはありませんが、その行為には何の得もない、と
だけ先に申し上げておきます。それを承知であえて深入りするならお好きなように」
「ちぇ、分かったよ。アイって言い方がいちいち嫌味ったらしいよなあ……」
舌打ちひとつ。それきり少年は池谷からも女からも顔をそむけてしまう。
こちらが女の連れかと思っていたが、どうやら主導権を握っているのは彼の方のようだ。
しばらく幼児のごとくむくれていた少年――サイは、そのうち売り場の隅に置かれたラックに目を
留め、舐めるように観察し始める。『S』の字の一部が欠けたようなデザインのその棚にはディスプ
レイのため、家具デザイン関連の書籍数冊と花を挿した花瓶が置かれていた。
「申し訳ありません。聞き分けのない人で」
「いやいや、若いうちはあーいうのも元気でいいんじゃねえの。なかなか個性的な坊やだが、あんた
の弟か?」
場つなぎのつもりだった問いかけに、女――アイが答えるまでなぜか数秒の間があった。
「……そういう関係のこともあります」
何やら妙な言い方だと思ったが、まあ事情など人それぞれである。聞かないほうがいい場合という
のもあろう。
そんなことより本題を優先すべきだ。
「ところであんた、家具になりたいとか思ったことねえか?」
「いきなり何ですか」
「家具っていいだろ、椅子とかタンスとかよ。こう、全身で人間を受け入れる包容力に満ちてる所が。
まあ前置きはいいや。あんた、今夜一晩俺のベッドになる気ねえ?」
「おっしゃる意味が分かりかねます。というか分かりたくない世界の匂いがするのでお断りします」
「いやいやいやいやそんなこと言いっこなし。一度くらいはこういう経験してみるのも人生に彩りが
出てイイもんだぜ? あんたなら最っ高のベッドになれる、賭けてもいい! なあ頼むよ、こんな
こともあろうかと思ってしまいこんでた高級羽根布団も引っ張り出してくるからよぉ……」
「どんな彩りですか。手を握らないでください。とろんとした目つきでにじり寄ってくるのも生理的
嫌悪を誘うのでやめてください。どんどん壁のほうに追い詰められていくのは気のせいですか。
取り出したその手錠は一体なんですか。どうして私に掛けようとするのですか」
だが女を拘束しようとしたそのとき、少年の声がまた割り込んできた。
「ちょっとそこのセクハラ中年」
「せ、セクハ……」
池谷は右手に手錠を、左手にアイの手首を握ったまま絶句する。
腰に手を当てたサイは、汚物を見るような目で彼を睥睨し鼻を鳴らした。
「強制わいせつ中年って呼んだほうがいいならそう呼ぶけど。まあそれはどうでも良いんだ。ねえ、
このラックもあんたが作ったの?」
黒く塗られた棚の表面が、サイの指の腹で撫でられる。下品ではない適度な光沢が、白い指の先を
ぼんやりと表面に映し込む。
「ああ。二年と半年ばかり前になるかな……って、ああああ」
答えた隙をついて、アイが手首を捻った。がっちり握ったつもりだった池谷の手は、その一挙動で
いともたやすく振り払われた。がっくりうなだれるデザイナーに、構わずサイが続ける。
「モダンスタイルの本黒檀。『トロイ』と同じだね。あっちは写真で見ただけだけど、造形の流れも
よく似てる気がする」
「ほお」
身を翻して離れていくアイを追おうとして、池谷はふと動きを止めた。
彫り深い顔に象嵌された目が、自分を注視したのをサイは感じ取ったらしい。ピアノでも弾くよう
なリズミカルな動きで黒い表面を叩き、更に細かい解説を添える。
「線は女性的だけど決してセンチメンタルに流れることなく、むしろ力強さを秘めている。黒檀なのに
印象が重たすぎないのは、表面の仕上げが人肌の透明感を意識してるからかな。高級感と色気が
あるのに温もりを感じさせる、良いデザインだ。秀作だね」
製作者の口から響いたヒュウ、という口笛は、ほとんど無意識のうちに漏れたものだった。
「生意気なだけのガキかと思ったら、なかなか良い目してんじゃねーか」
確かにこのラックのデザインは、『トロイ』に通じている。というよりは、完成品たる『トロイ』
に繋げるための試作品として製作したものなのだ。ただしラックと机とでは形状・用途がまるで異な
るため、素人目にはこの類似は分かりにくい。
細部の指摘も池谷のこだわりをひとつひとつ掬い上げており、少年の感性の鋭敏さを保証していた。
「こっちの道の勉強でもしてんのか?」
投げかけた質問は八割のからかいと、残り二割の期待で構成されていた。
そう遠くない将来、腕を競い合える好敵手が出現するかもしれないという期待。
しかしサイは首を横に振り、池谷のささやかな希望を無碍にした。
「そういうわけじゃないよ。専門は美術品さ、絵とか彫刻とか。それも作るんじゃなく鑑賞するほう。
だからモダンデザインの分野に深く突っ込んだことまでは分からないんだけど」
「この人の見る目は確かです」
黙っていたアイが口を開いた。
「彼の賞賛を得たことは、誇りを持って受け取って良い事実だと思いますよ」
「……そりゃあどうも」
美学史でも学んでいるのだろうか。将来は学芸員にでもなるつもりか。
首をかしげた池谷の頭に、ふと知人の娘の顔がよぎった。
優れた芸術家を父に持つ彼女は、父親の死後一年ばかりが経過してから亡父が身を浴した世界に
足を踏み入れた。父が生きている間彼から得られなかったものを、貪欲に学んで吸収していく様は
見ていてすがすがしい。
彼女が芸術を求めたのは、父と分け合うことのなかった時間を埋めるため。
では、この少年はどうなのか。何が彼を芸術の世界に惹きつけるのか。
顎ひげを擦り、ふう、と息をついたとき、サイがまた言った。
「ねえ、俺あんたが作ったものがもっと見たいな。他にはどんなのがある?」
削った木材の匂いというのは、一度嗅ぐと鼻腔の深いところにいつまでも残る気がする。
まるで女が身につける香水のようだと池谷は思う。もっとも本来の順序は逆で、木の香りのほうが
香水に使われているのだと、彼も承知してはいるのだが。
作業場である工房のドアを開けると、粘膜を責めさいなむような粉っぽい空気が彼らを迎えた。
削り落とした木の屑。目に見えぬほど微細な粒子が宙を舞っているのだ。これを短期間に大量に
吸い込みすぎると気管支をやられる。
「あんまり他人は入れねーんだがな。ま、出血大サービスってやつだ」
一足先に中に踏み込んだ池谷は、外の二人に向けて手招きした。
『トロイ』を仕上げ、家具作りを一度卒業して以来、長らく遊ばせたままにしてあった部屋だった。
最近また湧き上がってきた創作意欲に、閉ざした扉を開き数年ぶりに踏み込んだばかりである。
つまり、置かれているのは未完成のものを含む最近手がけた品ばかりだ。
白いシーツが、作品の姿を慎み深く隠している。
「直射日光からの保護にしては杜撰なように思えますが」
アイが言う。
「いいんだよ。もともと日当たりのよくねぇ部屋を選んで作業場にしてんだ。空調は調節してある
からカビにやられる心配もねえしな。それに、隠してやってんのは別に日よけのためってだけじゃ
ねえ」
口の端に笑みを乗せて、池谷はアイを見た。
庇うような手つきでシーツを押さえながら、
「着替えも化粧も終わってない恰好で、人前に出てぇと思う女はいねえだろ? 磨いて磨いて磨き
抜いて、これ以上はないってくらいのいい女になるまで極力人様の目には晒したくねぇのさ。
あんたも女なら分かってくれると思うがな」
「いえ残念ながら……」
無表情に、アイ。
あてが外れて髪を掻き回す池谷に、サイが笑い声をはじけさせる。
「ムリムリ、この女にそーいう感性期待するだけ無駄だって。昔のSFに出てくるアンドロイドみ
たいな性格なんだから。きっと血管には血の代わりにオイルが流れてるよ」
「残念ながら何の変哲もない血液です。通常人と大差ありません」
「本当? ほんとにただの血? ちょっと粉々にして確かめてみてもいい?」
「お断りします。目を輝かせてにじり寄って来ないでください」
会話に割り込むか否か迷っていた池谷に、少年はくるりと向き直り、そして尋ねた。
シーツをまとった『女たち』の群れを見渡しながら、
「で? 完成品は何かないの? まさか全部が全部作りかけってことはないんでしょ」
「ああ、勿論さ」
身勝手を絵に描いて動かしたようなサイの言動に、池谷は早くも慣れてきていた。
家具デザインに限らず、クリエイターの世界には変人が多い。また、変人ほど際立ったものを作り
出すことが多いのもこの世界だ。ちょっとやそっとの奇行にいちいち目くじらを立てていては生きて
いけない。
「今んとこは、これが一番の器量良しだな」
端を掴んで翻すと、シーツが風をはらんで翻った。
現れたのは一脚の椅子だ。
素材はシャープなスチールのクロームメッキ。脚は無駄なくまっすぐに伸びたモダンな印象。
円を描いたクッションは穏やかなベージュで、この種のデザインにつきまといがちな無表情さを
和らげている。
これだけなら最近よく見るオフィス調の家具だが、ことに目を引くのは背もたれだった。一本一本
は細い無数のスチールワイヤーが、神経組織のような複雑さで編まれているのだ。
クッションの端から出発したワイヤーはゆるやかなカーブを描いて伸び、ある一点で枝分かれし、
進み、いつしか再び合流する。そしてまた分かれ、伸び、合流し、分かれ、クッションの反対側の
端にたどりつくまで延々とそれをくりかえす。
背もたれ全体としては人間の脳のようないびつな楕円形。アームは付いていない。ただし背もたれ
の幅が広くとってあり、人体のラインにあわせて絶妙な反りが加えられているため、そこに腕を乗せ
て休憩することも充分に可能である。
ランダムなようでいて奇妙な規則性が感じられる背面のワイヤー細工は、見る者の胸の奥を否応
なしにざわめかせる異様さを備えていた。それでいていつかどこかで見たような、ノスタルジアを
感じさせるデザインでもあった。
生まれる前に母の胎内で見た光景のように――
「どうだ? 気に入りそうか?」
サイの口から感嘆符は漏れなかった。
細い指先を差し伸ばし、触れてみるほうが早かった。年若い肌が、何年も前から約束されていた
かのような自然さでワイヤーの編み込みをなぞった。
「……いいね」
頷きの深さが、言葉よりも雄弁に情動の深さを語っていた。
「この椅子、名前はあるの? 『トロイ』みたいな」
「ああ、あるぜ。『ムネモシュネ』ってんだ」
職人の自負を込めて池谷は自作の名を告げる。
「むねもしゅ?」
こちらの知識はあまりないらしい。眉間に皺を寄せるサイに、アイが補足した。
「ギリシャ神話の女神の一人です。記憶を司っています」
「記憶?」
おうむ返しに呟いた瞬間、皺がより深くなったように思えたのは、池谷の気のせいだったのだろうか。
「芸術の九姉妹『ミューズ』の母親としても有名な女神です」
「へぇそうなんだ、知らなかった。……でもなんでそんな名前を?」
『トロイ』にもいえることではあるが、椅子のネーミングとしてはあまりポピュラーな部類では
ない。当然といえば当然の疑問だった。池谷は唇の端を吊り上げた。
「ちょいと最近、色々と思うところがあってな。あんま人様にペラペラ喋るような話でもねえんで
細けーことは省かしてもらうが……何つーか、何かを創るっつーのは、良いこたぁ勿論、悪ぃこと
も合わせて全部飲み込んじまうことから始まるんだなと、そう思うようなことがあったわけよ」
『魅惑の雌馬』を目指した『トロイ』とはコンセプトを異にするこの椅子だが、着想の発端その
ものは実はあの机にある。
かつて池谷のもとで修行した弟子であり、ともすれば彼を凌ぐほどのデザイナーとなっていた男が、
殺人罪で逮捕されたのは先月のこと。その際『凶器』として利用されたのが『トロイ』だった。
池谷の最高傑作を呪いの机に貶め、彼に罪を着せ破滅させようとしたのだ。
動機はデザイナーとしての主張の違い。そして――これはその場に居合わせた探偵の推察ではある
が――池谷の才能への嫉妬。
「飲み込んだモンは全部自分の栄養になる。それが気持ちのいいモンか胸糞悪ぃモンかにかかわらず、
自分が創り出すモノに遅かれ早かれ活きてくる。その栄養が『記憶』ってモンだろう。俺みてえな
家具職人でも、絵描きでも彫刻家でもシンガーソングライターでも、多分これは同じこった」
サイは何も言わなかった。ただ『ムネモシュネ』柔らかなクッションをぽふりと叩いた。
「さっき芸術の女神の母親って言ったが、多分そういうことなんだろうな。良いも悪ぃも合わせて
色んな記憶を飲み込んで、それを栄養にして何かを創ってく。そういうことを俺ら人間が何千年も
前からコツコツ続けてきたって証拠が神話の形で残ってるわけだ。……そこまで考えたとき、無性
にその『記憶』の女神様に会ってみたくなった」
全てを包み込み創造の糧となす女神は、きっと素晴らしく魅惑的な女に違いない。
危うさと包容力をともに備えた美女を目指し、池谷はこの『女』を創り上げた。
柄にもねえな、とぼやいて頭を掻く池谷に、サイが鼻を鳴らした。
「芸術家とかデザイナーってたまに理解不能なこと言うよね。正直ついてけないや」
「おいおい、今も昔もアートってのは哲学と紙一重なんだぜ。ンなこと言っててこの先やってけんのか?」
「別にそれでメシ食ってくつもりはないからいいんだよ。……いいよね栄養にできるモンがある奴は。
羨ましいよ」
ぽつりと付け加えられた言葉に、一抹の寂寥が滲んでいた気がして、思わず少年の顔をまじまじと
見てしまう。向けられる視線が不快だったらしく、大きな瞳が『何?』と池谷に睨みを返してきた。
険のある目から慌てて顔を逸らし、咳払いして『ムネモシュネ』を指す池谷。
「座ってみるなら靴は脱げよ。ちょっとの違いと思うかもしれねえが意外に響いてくるんだ、これが」
「アドバイス感謝。じゃあ座らせてもらおうかな。――アイ」
「かしこまりました」
アイに向かって顎をしゃくるや否や、サイは『ムネモシュネ』に腰を下ろした。
女がサイの足元に跪いたのは、それとほぼ同時だった。細く長い指がスニーカーの紐に伸び、
しゅる、と結び目を解く。
いいねそのプレイ、と茶々を入れようとしたとき、
「あれ、客来てんの? 何だ珍しい」
響いた声は、池谷にとって聞き覚えのあるものだった。
工房の入り口を振りあおぐ。扉を開けて立つ影は、潔いベリーショートに、相反するイメージの
ガーリーなワンピース。
「てっきり工房でトンカンやってんだと思ったから勝手に入ってきちまったけど、売り場で待ってた
ほうがよかったかな……」
「由香ちゃん?」
知人の忘れ形見、絵石家由香がそこにいた。
はて、と池谷は首をかしげる。
魅力的な娘でいつか座ってやろうと画策してはいるが、さりとて向こうからわざわざ訪ねてくるほ
ど密な付き合いはない。最後に会ったのは池谷の弟子が逮捕されたときだ。
喜びと訝しみがないまぜになったこちらの表情に、感受性の強い彼女はすぐに気づいたらしい。
「なんて顔してんだよ。新ブランド立ち上げるんだろ? 餞別持ってきてやったんだよ」
ガサ、と音を立てたのは手にした包み。ひと抱えほどの大きさがある。
特に贈答用のラッピングなどは施されていないが――
「え? 祝ってくれんの? マジで?」
「……勘違いすんなよ。あたしからじゃない」
あらぬ方向に顔を逸らしながら、由香はその包みを突き出した。
「オヤジがもし生きてたらたぶん、あんたが家具作りに戻るのは喜ぶだろうと思ったからだ。
あたしのことはあいつの代理、単なる使いっ走りみたいなもんだと思ってよ」
「うーん、あの絵石家のジーさんが餞別なんてくれるようなガラだったかねえ……」
目ばかりぎょろぎょろと忙しなく動く、禿頭の老人の顔を思い出して、池谷は苦笑した。
もともと人好きのする性格とは言えなかった由香の父は、池谷と知り合った晩年はことに偏屈さを
増していた。
それでも好みの家具を提供したときだけは喜んでくれたものだ。娘によく似た隈の浮いた目を
ほんのわずか細めた顔は、見る機会が稀だったからこそ未だに忘れられない。
池谷の口元に笑みがひろがった。
「ま、そういうことなら貰えるもんは貰っておくか。サンキュー、由香ちゃん。ところで餞別ついで
にちょっくら椅子になってく気ねえ?」
「ねーよ。そこの工具で脳漿ブチ撒けられたいかこのゲスが」
さりげなさを装った会心の口説きは、吊りあがった目であえなく却下される。
「……由香? 絵石家由香?」
サイの声が耳に響いたのは、それでも諦めきれずなお迫ろうとした瞬間だった。
店主しか視界に入れていなかった由香は、名前を呼ばれて初めて客のほうに目をやった。
池谷に呼ばれた直後とはいえ、自分を知る人間に対する警戒も含まれていたろう。完全なるスト
レンジャーに一方的に名を知られ、それでも居心地よく過ごせる神経の太い者などそうそういない。
年頃の娘ならなおのことだ。
「っ! あんた……」
だがきつい両目を彩っていた警戒は、少年の姿を認めた瞬間色を変えた。
驚愕の色彩へと。
卵型の顔から血の気が引いていく。
「サ……」
「ああ、やっぱりそうだね。あれからだいぶ時間が経ってるからさ、記憶が朧になってて一瞬分から
なかったんだ。どう? 最近は。元気でやってる?」
「なんであんたがこんなとこに……」
「いちゃ悪い? ちょっと気になる品があってね。まあその品自体はここでは手に入らなかったんだ
けど」
『ムネモシュネ』に悠然と腰かけたまま、サイは笑った。
由香にではなく、その横でエアブラシの包みを抱える池谷に笑いかけた。
「ねえ、おじさん。俺やっぱりこの椅子欲しいな。ここじゃ何だから、店に戻ってアイと話をまとめて
きてよ。俺はもうちょっと彼女と話してから行くから」
「ちょっ……」
由香が息を呑む。
彼女の表情が産む懸念を払拭するように、少年は明るく顔の前で手を振った。
「ああ心配しないで、知り合いなんだ。昔ちょっと世話になったことがあってね。ん? どっちかと
いうと世話したっていうのかなこの場合? とにかく久々に会って積もる話もいろいろあるからさ」
「ん? あー、そうなのか。世間ってーのは広いようで狭ェもんだな」
極上の椅子をこの場に置いていくのは惜しいが、確かに、計算機等の清算に必要なものは全て
売り場に置いてきてしまっている。『ムネモシュネ』をこの少年に売るのならどのみち向こうに戻ら
なければならない。
サイの脇に控えていた連れの女が、すっとこちらに向けて歩み出た。行きましょう、というように、
整った顔を工房の出口に向ける。それに合わせて池谷も歩き出した。
「え、ちょ、その、待てよ! こいつは……」
「そーかそーか。置いてかれるのがそんな寂しいか由香ちゃん。心配すんな、清算済ませたらすぐに
戻ってきて座ってやるからよ」
「そうじゃなくて! おいこら待て変態! 外道! 待てったらーーーーーーーー!」
跳ねっ返りほど座りがいがあるもんだよなあ、家具ってのは。
工房の扉が閉まる瞬間、由香の叫びを聞きながら思ったのはそんなことだった。